私は亥年で、来年は還暦である。
幼い頃から、猪突猛進で向こう見ずと言われ続けてきた。
それは今でもあまり変わりは無い。
ただ、この頃は後ろ向きに猛進してしまうことがある。
過去の思い出への執着が少々多くなった。
この年になると、「死」ということを考えざるを得ない。
新聞の死亡欄に目が行ってしまったりもする。
若くて死んでいった人のことを思ったりもする。
同僚や近所の人で還暦を待たずに死んだり、そう経たないうちに亡くなった人も少なからずいた。
その多くは膵臓癌だったり、心筋梗塞などであった。
人生50年という時代もあったし、そもそも60歳退職も当時の平均寿命から作られたものらしい。
今は、死ぬことそのものよりも、「認知症」になり自分がコントロールできなくなる方が恐怖になっている。
とある末期癌になったお坊さんが教え子の医者から「癌になって良かった」と喜んでもらえたという。
それはある意味で、認知症になる前に死ねると言うことを意味したのかも知れない。
そういう意味では、還暦前後に認知症にならずに亡くなった人は、決して不幸では無かったのかも知れない。
自分が若い頃の職場にいた定年間近の同僚や管理職は大変老けて見えた。
人によって違いは大きいけれど、今の職場の同年代の人と比べてもそう感じる。
食生活など健康管理や、医学の進歩の恩恵を被っているかも知れない。
そんな中で、昔の人のように老けて見えるのは、生きる目的を失ってしまっている人である。
自分に人に誇れるような大きな生きる目的があるわけでは無い。
ただ、今研究している学問が成し遂げるまでは、惚けたり死んだりはできないと思っている。
そして、自分の教え子などの中には、私の成そうとする学問をいくらか引き継いでくれそうな人もいる。
自分が追い求めてきた学問と理想の暮らしを実現するために、還暦を機会に甦るつもりで猪突猛進したいと思っている。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2018年12月31日月曜日
2018年12月29日土曜日
黒ニンニクの力
以前書いたように、しばらく黒ニンニクを食べていなかった。
精神的な落ち込みが続いたので、黒ニンニクを再び食べ始めた。
そうすると、不思議にも落ち込みが無くなってきた。
ダメ押しで、アルギニンのサプリも摂るようにして、意欲も湧いてきた。
以前見たネットでは、黒ニンニクの効果は、やめてみれば分かると載っていたが、それは事実だった。
若い時には、有り余るエネルギーをセイブする方が大変なときもあった。
年を重ねた今は、エネルギーを引き出すのが難しくなってきている。
特に精神面への影響は大きい。
黒ニンニクは今の私にとって、必需品になっているようだ。
黒ニンニクは普通、一片で良いのだろうが、私の場合は房の半分以上食べる。
自分の家ですべて作るので、高額の負担にはならない。
もし、買った黒ニンニクなら、毎日300円くらいの額になり、一月9000円と言うことになる。
そうすると、1年間で108、000円であるから、馬鹿にならない。
ニンニクが苦手な家内も、黒ニンニクは私が勧めると、薬を飲むようにお茶で飲み込む。
ある程度、黒ニンニクの効果を期待してくれているのだと思う。
黒ニンニクはがん予防にも良いと言われているので、私はずっと家内や息子に勧めている。
この黒ニンニクも、今年は多く作ったが、炊飯器の蓋がゆるくて、かちかちになってしまったのもある。
今回は、それをむいて焼酎に漬けてみた。
そろそろ呑みごろになったので、試してみたが悪くない。
ニンニクは刻んで、60℃のオリーブ油で熟成させるのが良いことは分かっている。
しかし、その飲食後の臭いは、人迷惑になってしまう。
生徒と接する機会の多い自分には不向きである。
臭いの殆どしない黒ニンニクこそ最強の味方なのである。
精神的な落ち込みが続いたので、黒ニンニクを再び食べ始めた。
そうすると、不思議にも落ち込みが無くなってきた。
ダメ押しで、アルギニンのサプリも摂るようにして、意欲も湧いてきた。
以前見たネットでは、黒ニンニクの効果は、やめてみれば分かると載っていたが、それは事実だった。
若い時には、有り余るエネルギーをセイブする方が大変なときもあった。
年を重ねた今は、エネルギーを引き出すのが難しくなってきている。
特に精神面への影響は大きい。
黒ニンニクは今の私にとって、必需品になっているようだ。
黒ニンニクは普通、一片で良いのだろうが、私の場合は房の半分以上食べる。
自分の家ですべて作るので、高額の負担にはならない。
もし、買った黒ニンニクなら、毎日300円くらいの額になり、一月9000円と言うことになる。
そうすると、1年間で108、000円であるから、馬鹿にならない。
ニンニクが苦手な家内も、黒ニンニクは私が勧めると、薬を飲むようにお茶で飲み込む。
ある程度、黒ニンニクの効果を期待してくれているのだと思う。
黒ニンニクはがん予防にも良いと言われているので、私はずっと家内や息子に勧めている。
この黒ニンニクも、今年は多く作ったが、炊飯器の蓋がゆるくて、かちかちになってしまったのもある。
今回は、それをむいて焼酎に漬けてみた。
そろそろ呑みごろになったので、試してみたが悪くない。
ニンニクは刻んで、60℃のオリーブ油で熟成させるのが良いことは分かっている。
しかし、その飲食後の臭いは、人迷惑になってしまう。
生徒と接する機会の多い自分には不向きである。
臭いの殆どしない黒ニンニクこそ最強の味方なのである。
2018年12月26日水曜日
結局はSSD
OSがWin10になってから、外付けのハードディスク(HDD)が使いづらくなっていた。
私は、1TBのポータブルの外付けハードディスクを、現在使用している。
どうしても、壊れやすいのでバックアップを欠かさずに、買い換えながら使い続けている。
そして、ドライブ名をXにして、文献を「読んでココ(OCR)」でテクストファイルにして、一太郎で編集し、それをリンクしたノートとして保存していた。
いわば文献ノートのデーターベースであり、自分で活用できるWikipediaを目指していた。
だから、外付けハードディスクは、どのパソコンでもドライブ名Xとして、ハイパーリンクによって活用できた。
これからは確かに、クラウド上でOne Driveをうまく活用することも可能である。
しかし、容量の限界もあるし、アカウントの問題で手間である。
そして、なによりも、膨大なデーターのリンクの変更は相当な労力を要する。
なんとかならないものかと、悩んでいたところ、自分が持って行ったパソコンが家ではうまくいかないのに職場ではうまくいく。
その違いはネット環境にあった。
家ではWiFiを使っているが、職場ではケーブルもWiFiもつながらない、スタンドアロンでの使用である。
要するにネット環境が、外付けの通信を邪魔している可能性があるということだ。
そこで、家では外付けハードディスクを使う時には、機内モードにした。
ところが、職場で機内モードで使うと調子が悪い。
ネット環境が無いところでは、機内モードは使わない方がうまくいった。
そして、もう一つ重要だったのは、私の場合One Driveを使っているので、それもオフにしておく必要があった。
しかし、こういう対策を色々しても、時として反応速度が遅くなってしまう。
全く、気まぐれとしか言いようの無い状態。
今日うまく反応してくれても、明日はどうなるか分からない。
家でうまくいっても、職場でだめな時もあり、その逆もありである。
ネット環境との関連は分かっても、原因が根本的に分かっていないだけに、対策のしようが無かった。
そこでついに決断したのは、SSDへの転換だ。
今個人で使っているパソコンは内蔵型のSSDが用いられている。
その速さを知っているだけに、外付けもSSDにすることにした。
問題は値段だが、ネットで480GBで9000円ほどで買えることが分かった。
念のために近くの電気屋で調べたら、240GBで同じ値段だった。
そこで迷わずネットで買った。
そして、それが本当の解決策になった。
HDDはテレビの録画とか、PCのバックアップにしか使えない時代が来たことが分かった。
何となく、記憶力が落ちた自分を重ねるような気分だった。
私は、1TBのポータブルの外付けハードディスクを、現在使用している。
どうしても、壊れやすいのでバックアップを欠かさずに、買い換えながら使い続けている。
そして、ドライブ名をXにして、文献を「読んでココ(OCR)」でテクストファイルにして、一太郎で編集し、それをリンクしたノートとして保存していた。
いわば文献ノートのデーターベースであり、自分で活用できるWikipediaを目指していた。
だから、外付けハードディスクは、どのパソコンでもドライブ名Xとして、ハイパーリンクによって活用できた。
これからは確かに、クラウド上でOne Driveをうまく活用することも可能である。
しかし、容量の限界もあるし、アカウントの問題で手間である。
そして、なによりも、膨大なデーターのリンクの変更は相当な労力を要する。
なんとかならないものかと、悩んでいたところ、自分が持って行ったパソコンが家ではうまくいかないのに職場ではうまくいく。
その違いはネット環境にあった。
家ではWiFiを使っているが、職場ではケーブルもWiFiもつながらない、スタンドアロンでの使用である。
要するにネット環境が、外付けの通信を邪魔している可能性があるということだ。
そこで、家では外付けハードディスクを使う時には、機内モードにした。
ところが、職場で機内モードで使うと調子が悪い。
ネット環境が無いところでは、機内モードは使わない方がうまくいった。
そして、もう一つ重要だったのは、私の場合One Driveを使っているので、それもオフにしておく必要があった。
しかし、こういう対策を色々しても、時として反応速度が遅くなってしまう。
全く、気まぐれとしか言いようの無い状態。
今日うまく反応してくれても、明日はどうなるか分からない。
家でうまくいっても、職場でだめな時もあり、その逆もありである。
ネット環境との関連は分かっても、原因が根本的に分かっていないだけに、対策のしようが無かった。
そこでついに決断したのは、SSDへの転換だ。
今個人で使っているパソコンは内蔵型のSSDが用いられている。
その速さを知っているだけに、外付けもSSDにすることにした。
問題は値段だが、ネットで480GBで9000円ほどで買えることが分かった。
念のために近くの電気屋で調べたら、240GBで同じ値段だった。
そこで迷わずネットで買った。
そして、それが本当の解決策になった。
HDDはテレビの録画とか、PCのバックアップにしか使えない時代が来たことが分かった。
何となく、記憶力が落ちた自分を重ねるような気分だった。
2018年12月24日月曜日
手紙
先日、卒業した教え子から手紙が来た。
大学卒業記念の書道展の案内だった。
赤穂高校の全日制で担任した生徒は、現役で大学に入学した場合は、来春卒業である。
今の私にとって、担任した最後の生徒ということになる。
手紙にはクラスが楽しかったことや、私が再び教壇に戻ったことを喜んでくれていることも、書き添えてくれていた。
わざわざ手紙にしたためて、言葉を送ってくれるのは本当に嬉しい。
今のようにメールでやりとりが、普通に行われる前は、手紙を良く書いていた。
おかしなもので、隣の町に住んでいた家内とは、結婚前にもほとんど手紙を書いていない。
会おうと思えばすぐに会えるし、電話でことは済んでいたのである。
やはり、手紙のやりとりをしていたのは、すぐには会えない人とであった。
学生の頃は、遠くの彼女から来る手紙を待ちわびていた。
郵便屋さんのバイクの音がするたびに、心ときめいたものである。
そして、手紙には普段言葉では表せない気持ちが込められていたし、自分も心込めて書いた。
メールも確かにその代用はできる。
しかし、じかに文字を書くことで、文字そのものに気持ちが込められていた。
私は、字が下手で、文字を書くことにコンプレックスがあるので、最近はパソコンで書いて印刷して手紙やはがきを送っている。
心を込めるには、直接文字を書いた方が良いに決まっているのだが・・・
先日勤務先の学校で、1年の担任の先生が、中学校で世話になった先生に手紙を書かせていた。
受け取った先生も嬉しかったようで、機会を見つけて学校を訪問してくれた先生もいた。
手紙には人の心を動かす力がある。
文章を書くのが苦手な生徒であればこそ、なおさらその思いが通じたのである。
去年は喪中の関係で、年賀状は書けなかった。
今年は、手紙ほどの思いは込められないが、せめて年賀状はしっかり出したいと思っている。
なんと言っても還暦を迎えるのだから・・・
大学卒業記念の書道展の案内だった。
赤穂高校の全日制で担任した生徒は、現役で大学に入学した場合は、来春卒業である。
今の私にとって、担任した最後の生徒ということになる。
手紙にはクラスが楽しかったことや、私が再び教壇に戻ったことを喜んでくれていることも、書き添えてくれていた。
わざわざ手紙にしたためて、言葉を送ってくれるのは本当に嬉しい。
今のようにメールでやりとりが、普通に行われる前は、手紙を良く書いていた。
おかしなもので、隣の町に住んでいた家内とは、結婚前にもほとんど手紙を書いていない。
会おうと思えばすぐに会えるし、電話でことは済んでいたのである。
やはり、手紙のやりとりをしていたのは、すぐには会えない人とであった。
学生の頃は、遠くの彼女から来る手紙を待ちわびていた。
郵便屋さんのバイクの音がするたびに、心ときめいたものである。
そして、手紙には普段言葉では表せない気持ちが込められていたし、自分も心込めて書いた。
メールも確かにその代用はできる。
しかし、じかに文字を書くことで、文字そのものに気持ちが込められていた。
私は、字が下手で、文字を書くことにコンプレックスがあるので、最近はパソコンで書いて印刷して手紙やはがきを送っている。
心を込めるには、直接文字を書いた方が良いに決まっているのだが・・・
先日勤務先の学校で、1年の担任の先生が、中学校で世話になった先生に手紙を書かせていた。
受け取った先生も嬉しかったようで、機会を見つけて学校を訪問してくれた先生もいた。
手紙には人の心を動かす力がある。
文章を書くのが苦手な生徒であればこそ、なおさらその思いが通じたのである。
去年は喪中の関係で、年賀状は書けなかった。
今年は、手紙ほどの思いは込められないが、せめて年賀状はしっかり出したいと思っている。
なんと言っても還暦を迎えるのだから・・・
2018年12月20日木曜日
谷深ければ
私は定時制の高校に勤務なので、朝は余裕がある。
だんだん寒くなって、起きる時間も遅くなったが、朝のNHK連続テレビ小説「まんぷく」迄には床を離れて新聞を読んでいる。
たいがいは、「まんぷく」を見ながら、朝食をとって、その後でクロと散歩する。
NHK連続テレビ小説はどのドラマも見ているわけでは無くて、気に入ったものしか見ない。
今回のように、毎回見ているのは、「ひよっこ」以来である。
「ひよっこ」は高度経済成長期の一般庶民の姿を描いていて、親しみを感じていた。
今回は波瀾万丈の発明家夫婦をモデルにしたものだが、なかなか見応えがある。
ただ、モデルの発明家が台湾出身であることが、表に出てこないがひっかかってしまう。
「おしん」をアジアに送り出したNHKなのだから、台湾も絡めて描いてほしいと思っている。
「谷深ければ、山高し」というのは、株相場の言葉らしいが、このドラマの実業家の人生にも当てはまるようだ。
私はそこそこの谷に落ちてしまった経験は幾度となくある。
そして、山に這い上がる前に、ずるずるとまた谷に落ちていったような気もする。
ただ、どの時もそばで支えてくれていた人がいたから、何とかがんばってこれたように思う。
私はかつて、東京で生活も破綻し、大学院の博士課程進学を諦めて、アルバイトをしていた。
その時に、子供を抱えたまま離婚して、生活に苦労している女性から言われた言葉が忘れられない。
「人生は、平均すれば、皆同じよ」
つまり、どの人も良い時と悪い時を経験していて、それを均せば同じようになると言うことだ。
まだ、20代半ばの自分が、人生に絶望してしまうのは、早すぎるということを言ってくれたのだ。
あれから30年以上経って、一番大きな試練は、自分の「老い」とどう向き合うかである。
やり直しのきく年代と違い、気力も体力も失っていく自分をどう元気づけるか。
ただ、若い時と違うのは、「人の人生は、平均すれば、それほど変わらない」ことの意味が分かっていることだ。
経済的に裕福な人も、それなりの苦労をしてきたであろうし、そしてそれを失う恐れを抱き続けなくてはいけない。
名誉も、死んでしまえば、その人自身には何の意味も持たなくなる。
これからは無理をせず、自分の生きがいを求め続けるしか無い。
それが私にとって、ずっと何十年も続けている研究なのである。
高校生の中には、「自分がやりたいことが見つからない」と言う生徒もいる。
私にはそれがあるだけ幸せなのかも知れない。
だんだん寒くなって、起きる時間も遅くなったが、朝のNHK連続テレビ小説「まんぷく」迄には床を離れて新聞を読んでいる。
たいがいは、「まんぷく」を見ながら、朝食をとって、その後でクロと散歩する。
NHK連続テレビ小説はどのドラマも見ているわけでは無くて、気に入ったものしか見ない。
今回のように、毎回見ているのは、「ひよっこ」以来である。
「ひよっこ」は高度経済成長期の一般庶民の姿を描いていて、親しみを感じていた。
今回は波瀾万丈の発明家夫婦をモデルにしたものだが、なかなか見応えがある。
ただ、モデルの発明家が台湾出身であることが、表に出てこないがひっかかってしまう。
「おしん」をアジアに送り出したNHKなのだから、台湾も絡めて描いてほしいと思っている。
「谷深ければ、山高し」というのは、株相場の言葉らしいが、このドラマの実業家の人生にも当てはまるようだ。
私はそこそこの谷に落ちてしまった経験は幾度となくある。
そして、山に這い上がる前に、ずるずるとまた谷に落ちていったような気もする。
ただ、どの時もそばで支えてくれていた人がいたから、何とかがんばってこれたように思う。
私はかつて、東京で生活も破綻し、大学院の博士課程進学を諦めて、アルバイトをしていた。
その時に、子供を抱えたまま離婚して、生活に苦労している女性から言われた言葉が忘れられない。
「人生は、平均すれば、皆同じよ」
つまり、どの人も良い時と悪い時を経験していて、それを均せば同じようになると言うことだ。
まだ、20代半ばの自分が、人生に絶望してしまうのは、早すぎるということを言ってくれたのだ。
あれから30年以上経って、一番大きな試練は、自分の「老い」とどう向き合うかである。
やり直しのきく年代と違い、気力も体力も失っていく自分をどう元気づけるか。
ただ、若い時と違うのは、「人の人生は、平均すれば、それほど変わらない」ことの意味が分かっていることだ。
経済的に裕福な人も、それなりの苦労をしてきたであろうし、そしてそれを失う恐れを抱き続けなくてはいけない。
名誉も、死んでしまえば、その人自身には何の意味も持たなくなる。
これからは無理をせず、自分の生きがいを求め続けるしか無い。
それが私にとって、ずっと何十年も続けている研究なのである。
高校生の中には、「自分がやりたいことが見つからない」と言う生徒もいる。
私にはそれがあるだけ幸せなのかも知れない。
2018年12月18日火曜日
書道に白衣
失敗をしてしまった。
白衣を着たまま、書道の手伝いをしてしまった。
おかげで新品の白衣には、墨のシミがいっぱいついてしまった。
たぶん、これは洗濯しても絶対落ちないであろう。
ふと、その手伝いをしている時に、思い出したのは「○○の白袴」ということわざだった。
他の職員に尋ねたら、「紺屋の白袴」と教えてくれた。
意味としては、その時はよく分からなかったが、場違いの服装という意味では無いことが分かった。
後で調べてみると、「他人のためにばかり働いて、自分のことに手が回らないこと。」であった。
白衣は染めるための物では無いので、このことわざにはふさわしくはない。
ただ、自分のことに手が回らない教師は、同じように多いと思った。
それは、「医者の不養生」の方にに近くて、生徒には立派なことを言いながら、自分ができていない。
特に自分を含めて、健康管理ができていないように思う。
私は健康管理を怠って、糖尿病になってしまった。
ストレスが多い仕事は、そのストレスを解消する方法を真剣に見つけなければならない。
私の場合は安易に、酒や食べ物にその解消を、見いだしたからに他ならなかった。
聞いてみると20代の若い人でも、健康診断で検査を受けるよう指示を受けたという。
さすがに、私は20代ではそこまでは悪くなっていなかった。
仕事熱心で、まじめな性格の多い若い職員は、意外と健康面で問題を抱えているようにも思えた。
私自身は、健康に気をつけているように思うのだが、それ以上に加齢による体調不調が加わる。
自分の症状を調べてみると、「更年期障害」に近いように思えたりもする。
「スーパー50代」を目指して、走ったり泳いだり、自転車を走らせてきたが、ここのところそれができていなかった。
犬との一時間あまりの朝の散歩で十分と思えていたのだが、今の仕事ではそれでも不十分だったのだろう。
食事の面でも、以前食べていた「黒ニンニク」を食べていなかった。
健康管理というのは、常に自分の生活に関心を持ち続けなければならないと思った。
時に応じて服装を変えるように、運動や食事も年齢や仕事に応じて変えていかねばならない。
そして、ベースになるものは、しっかり守り続けていかねばならないと思った。
今回のように、書道の手伝いに白衣を着ているようでは、だめなのである。
白衣を着たまま、書道の手伝いをしてしまった。
おかげで新品の白衣には、墨のシミがいっぱいついてしまった。
たぶん、これは洗濯しても絶対落ちないであろう。
ふと、その手伝いをしている時に、思い出したのは「○○の白袴」ということわざだった。
他の職員に尋ねたら、「紺屋の白袴」と教えてくれた。
意味としては、その時はよく分からなかったが、場違いの服装という意味では無いことが分かった。
後で調べてみると、「他人のためにばかり働いて、自分のことに手が回らないこと。」であった。
白衣は染めるための物では無いので、このことわざにはふさわしくはない。
ただ、自分のことに手が回らない教師は、同じように多いと思った。
それは、「医者の不養生」の方にに近くて、生徒には立派なことを言いながら、自分ができていない。
特に自分を含めて、健康管理ができていないように思う。
私は健康管理を怠って、糖尿病になってしまった。
ストレスが多い仕事は、そのストレスを解消する方法を真剣に見つけなければならない。
私の場合は安易に、酒や食べ物にその解消を、見いだしたからに他ならなかった。
聞いてみると20代の若い人でも、健康診断で検査を受けるよう指示を受けたという。
さすがに、私は20代ではそこまでは悪くなっていなかった。
仕事熱心で、まじめな性格の多い若い職員は、意外と健康面で問題を抱えているようにも思えた。
私自身は、健康に気をつけているように思うのだが、それ以上に加齢による体調不調が加わる。
自分の症状を調べてみると、「更年期障害」に近いように思えたりもする。
「スーパー50代」を目指して、走ったり泳いだり、自転車を走らせてきたが、ここのところそれができていなかった。
犬との一時間あまりの朝の散歩で十分と思えていたのだが、今の仕事ではそれでも不十分だったのだろう。
食事の面でも、以前食べていた「黒ニンニク」を食べていなかった。
健康管理というのは、常に自分の生活に関心を持ち続けなければならないと思った。
時に応じて服装を変えるように、運動や食事も年齢や仕事に応じて変えていかねばならない。
そして、ベースになるものは、しっかり守り続けていかねばならないと思った。
今回のように、書道の手伝いに白衣を着ているようでは、だめなのである。
2018年12月16日日曜日
涙する思い
先日、とある新聞社の方と話す機会があり、その方は大学4年間新聞奨学生をしていたという。
私はほんの数ヶ月新聞奨学生をしただけで、恥ずかしいと思いつつ。
当時、私が新聞奨学生として、新聞を配りながら涙したことを話した。
そうすると、その方もやはり新聞を配りながら、涙が溢れたことを話してくれた。
自分は親の反対を押し切って勝手にしたことなのだが、その方は経済的な理由でそうせざるを得なかった。
実は私は高校時代マスコミ関係に進みたいこともあって、新聞奨学生にも応募した。
その方は、新聞奨学生を続けたことがきっかけで、新聞社に就職したという。
定時制の生徒の中には、自分の学業のためと言うより、家族のために働かなければならない生徒もいる。
そんな中で、何のために苦しい思いをして、アルバイトをしているのかと感じていしまうのも当然だ。
恵まれた環境の人たちはいくらでもいる。
なぜ、自分だけがなんでこんな辛い思いをしなくてはいけないのか。
それは、新聞配達をしながら学業を続けていた人にも通じることで、その新聞社の方もそう言っていた。
そんなやるせない気持ちに接すると、涙しか流せない自分がいた。
生徒に教えられた思いがした。
自分のために働ける者の方が、まだ幸せだったのだ。
私は以前のブログで生徒に良くパッチアダムスの映画を見せる話を書いた。
「患者は同時に医者である。」
つまり、病院は医者が患者に一方的に治療するところでは無くて、患者から医学を学ぶところでもある。
これは学校も同じであった。
教師は一方的に生徒に教えるのでは無くて、生徒から教育を学ぶところである。
これは子育てをする親が、子育てを通して親として成長するのと同じなのである。
辛い思いをしている生徒には、何もしてあげることはできないかも知れない。
ただ、その思いを少しでも受け止めて力添えできることが、せめて教師にできることなのかも知れない。
単純労働者を外国から受け入れることによって、ますます不遇な境遇の生徒は追い詰められるかも知れない。
それなのに、新聞社の方によると、今は新聞奨学生への応募者も殆どないそうだ。
つまり、恵まれた境遇の生徒が多い一方で、辛い思いをしてでも学業を続ける段階まできていない生徒もいる。
社会は不平等の両極に引き裂かれているのかも知れない。
そして多くの教師自身も、長時間の仕事で涙する力さえ失っているのかも知れない。
私はほんの数ヶ月新聞奨学生をしただけで、恥ずかしいと思いつつ。
当時、私が新聞奨学生として、新聞を配りながら涙したことを話した。
そうすると、その方もやはり新聞を配りながら、涙が溢れたことを話してくれた。
自分は親の反対を押し切って勝手にしたことなのだが、その方は経済的な理由でそうせざるを得なかった。
実は私は高校時代マスコミ関係に進みたいこともあって、新聞奨学生にも応募した。
その方は、新聞奨学生を続けたことがきっかけで、新聞社に就職したという。
定時制の生徒の中には、自分の学業のためと言うより、家族のために働かなければならない生徒もいる。
そんな中で、何のために苦しい思いをして、アルバイトをしているのかと感じていしまうのも当然だ。
恵まれた環境の人たちはいくらでもいる。
なぜ、自分だけがなんでこんな辛い思いをしなくてはいけないのか。
それは、新聞配達をしながら学業を続けていた人にも通じることで、その新聞社の方もそう言っていた。
そんなやるせない気持ちに接すると、涙しか流せない自分がいた。
生徒に教えられた思いがした。
自分のために働ける者の方が、まだ幸せだったのだ。
私は以前のブログで生徒に良くパッチアダムスの映画を見せる話を書いた。
「患者は同時に医者である。」
つまり、病院は医者が患者に一方的に治療するところでは無くて、患者から医学を学ぶところでもある。
これは学校も同じであった。
教師は一方的に生徒に教えるのでは無くて、生徒から教育を学ぶところである。
これは子育てをする親が、子育てを通して親として成長するのと同じなのである。
辛い思いをしている生徒には、何もしてあげることはできないかも知れない。
ただ、その思いを少しでも受け止めて力添えできることが、せめて教師にできることなのかも知れない。
単純労働者を外国から受け入れることによって、ますます不遇な境遇の生徒は追い詰められるかも知れない。
それなのに、新聞社の方によると、今は新聞奨学生への応募者も殆どないそうだ。
つまり、恵まれた境遇の生徒が多い一方で、辛い思いをしてでも学業を続ける段階まできていない生徒もいる。
社会は不平等の両極に引き裂かれているのかも知れない。
そして多くの教師自身も、長時間の仕事で涙する力さえ失っているのかも知れない。
2018年12月13日木曜日
体感温度の違い
今職場では、私の席の近くにガスストーブがある。
私の家では真冬でも、室温をあまり高くしておらず、体は寒さに慣れている。
だから、温度が高い職場が辛くなっていた。
以前勤めていた普通校では準備室があったので、教壇に立つ以外では、そこで主に仕事をしていた。
しかし、今の職場のように準備室が無いところでは逃げ場が無い。
そして、もっとストーブに近い若い人は、その温度が苦痛ではなさそうなのである。
その職員は普段から、汗も殆どかかないそうである。
改めて体感温度の違いを思い知らされた。
私は、今はできないでいるが、真冬でも温水プールに入ってい泳いできた。
今は、朝に愚犬クロと散歩して汗をかくので、必ずシャワーをしている。
湯冷めで風邪を引くと言うことはまず考えられない。
思い出すのは、母校の淳心では中間体操というのがあって、真冬でも上半身裸で校庭を走っていた。
雪がちらついて、寒風の吹きすさぶ中を走っていたのを思い出す。
だからといって、寒さに特別強いわけでは無く、温暖な赤穂に生まれ育ったので、寒い上郡に来た時は、寒さに震え上がった。
ただ、30年近くも住み続けると、体が寒さに適応するらしい。
そして、逆に冬場の暖房への適応力が落ちている。
だから、これからは服装で対応するしか無い。
薄着になって袖をまくったりしているが、職員室をでると非常に寒い。
この寒暖の差が結構こたえる。
だから、服を着たり脱いだりこまめにしなければならない。
いっそ、ポンチョでも着るか・・・
私の家では真冬でも、室温をあまり高くしておらず、体は寒さに慣れている。
だから、温度が高い職場が辛くなっていた。
以前勤めていた普通校では準備室があったので、教壇に立つ以外では、そこで主に仕事をしていた。
しかし、今の職場のように準備室が無いところでは逃げ場が無い。
そして、もっとストーブに近い若い人は、その温度が苦痛ではなさそうなのである。
その職員は普段から、汗も殆どかかないそうである。
改めて体感温度の違いを思い知らされた。
私は、今はできないでいるが、真冬でも温水プールに入ってい泳いできた。
今は、朝に愚犬クロと散歩して汗をかくので、必ずシャワーをしている。
湯冷めで風邪を引くと言うことはまず考えられない。
思い出すのは、母校の淳心では中間体操というのがあって、真冬でも上半身裸で校庭を走っていた。
雪がちらついて、寒風の吹きすさぶ中を走っていたのを思い出す。
だからといって、寒さに特別強いわけでは無く、温暖な赤穂に生まれ育ったので、寒い上郡に来た時は、寒さに震え上がった。
ただ、30年近くも住み続けると、体が寒さに適応するらしい。
そして、逆に冬場の暖房への適応力が落ちている。
だから、これからは服装で対応するしか無い。
薄着になって袖をまくったりしているが、職員室をでると非常に寒い。
この寒暖の差が結構こたえる。
だから、服を着たり脱いだりこまめにしなければならない。
いっそ、ポンチョでも着るか・・・
2018年12月11日火曜日
お墓に納骨
義父が亡くなって1年が経ち、一周忌の法事が営まれ、墓への納骨も行われた。
これまであまり気にしていなかったのだが、集まってくる親戚は殆ど県外である。
我が家の3人と、一人暮らしの義母を除いて、広島と千葉、奈良、そして娘の香川ということになる。
家内の両親は広島県の出身なので、親戚の殆どは広島県である。
葬式の時には近所の人も来てくれていたので、あまり感じなかったのだが、考えてみれば49日、初盆も県外が殆どだった。
新幹線や車を使って遠くからわざわざ来ていただいている。
自分の父親の法事では、赤穂の親戚が中心となるので、その違いを改めて感じた。
相生は造船所に勤める人の関係で、方々から移り住んだ人が多い。
その中には朝鮮半島から渡ってきた人もいる。
今回も墓地に設置されていた朝鮮半島から来てなくなった人の慰霊堂を改めて知った。
義母の葬式の時も、行い方が赤穂や上郡とは違い近所の人との関わりが薄いとは感じていた。
実は私の母も祖母も相生で長く暮らしていた。
私の父親は相生の造船所に勤めていたので、相生とは関わりが深い。
自分自身も相生には仲の良い同級生がいたし、今もその同級生に歯を治療してもらっている。
それほど関わりがあっても、相生での様子を知らずにいた。
義母の思いもあって、相生の墓地に墓を建てて義父の納骨を行った。
山の上の墓地には立派な墓がたくさん建ち並んでいた。
ただ、跡継ぎの息子夫婦が千葉にいて、将来この墓を管理することはできない。
おそらく家内がすることになるだろう。
法事の時にお坊さんと話をしていて、お寺に残された江戸時代の墓を整理した話を聞いた。
古いお寺では、お墓を管理する人がいなくなって、お寺で整理せねばならないようだ。
墓を造りたいという気持ちはよく分かる。
私の住む村の共同墓地でも無縁墓が多くて、それをどうするか困っているそうだ。
この地で頑張って生きて、その生きた証を残してあげたい。
しかし、現代では同じ土地に留まって、家を守り続けることはかなり難しい。
赤穂に生まれながら、上郡に暮らす私とて同じような立場である。
昔ながら一部の特権階層しか建てられなかった石墓を、一般庶民も建てられるようになったのは良いことかもしれない。
しかし、現代はその特権階層だった人でも、墓を守り続けることは難しい。
「人間到る処青山あり」とする現代は、後生に残す石墓はふさわしくないのかも知れない。
むしろ、生まれ変わりをの思想をもって、お寺の納骨堂に納めてもらうか、山野河海に散骨された方が良いようにも思える。
これまであまり気にしていなかったのだが、集まってくる親戚は殆ど県外である。
我が家の3人と、一人暮らしの義母を除いて、広島と千葉、奈良、そして娘の香川ということになる。
家内の両親は広島県の出身なので、親戚の殆どは広島県である。
葬式の時には近所の人も来てくれていたので、あまり感じなかったのだが、考えてみれば49日、初盆も県外が殆どだった。
新幹線や車を使って遠くからわざわざ来ていただいている。
自分の父親の法事では、赤穂の親戚が中心となるので、その違いを改めて感じた。
相生は造船所に勤める人の関係で、方々から移り住んだ人が多い。
その中には朝鮮半島から渡ってきた人もいる。
今回も墓地に設置されていた朝鮮半島から来てなくなった人の慰霊堂を改めて知った。
義母の葬式の時も、行い方が赤穂や上郡とは違い近所の人との関わりが薄いとは感じていた。
実は私の母も祖母も相生で長く暮らしていた。
私の父親は相生の造船所に勤めていたので、相生とは関わりが深い。
自分自身も相生には仲の良い同級生がいたし、今もその同級生に歯を治療してもらっている。
それほど関わりがあっても、相生での様子を知らずにいた。
義母の思いもあって、相生の墓地に墓を建てて義父の納骨を行った。
山の上の墓地には立派な墓がたくさん建ち並んでいた。
ただ、跡継ぎの息子夫婦が千葉にいて、将来この墓を管理することはできない。
おそらく家内がすることになるだろう。
法事の時にお坊さんと話をしていて、お寺に残された江戸時代の墓を整理した話を聞いた。
古いお寺では、お墓を管理する人がいなくなって、お寺で整理せねばならないようだ。
墓を造りたいという気持ちはよく分かる。
私の住む村の共同墓地でも無縁墓が多くて、それをどうするか困っているそうだ。
この地で頑張って生きて、その生きた証を残してあげたい。
しかし、現代では同じ土地に留まって、家を守り続けることはかなり難しい。
赤穂に生まれながら、上郡に暮らす私とて同じような立場である。
昔ながら一部の特権階層しか建てられなかった石墓を、一般庶民も建てられるようになったのは良いことかもしれない。
しかし、現代はその特権階層だった人でも、墓を守り続けることは難しい。
「人間到る処青山あり」とする現代は、後生に残す石墓はふさわしくないのかも知れない。
むしろ、生まれ変わりをの思想をもって、お寺の納骨堂に納めてもらうか、山野河海に散骨された方が良いようにも思える。
2018年12月6日木曜日
鉄道旅の一番の思い出
このごろよく鉄道旅の番組が放映される。
必ず見るのは、NHKの「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」である。
実は自分も学生時代に青春切符を使うことが多くて、非常に時間があるし、風景を楽しむためにビールなどを飲んでいた。
その時は必ずトイレの近くの車両に乗っていた。
特に憶えているのは、帰省で名古屋から赤穂に戻る時に、わざと関西本線を使って飲みながら帰ったときのことだ。
関西線は景色もよくて、ちょうど旅する人と相席になって、話をしたりしたが、その人は当然飲まなかった。
新幹線などではよく飲む人を見かけるが、鈍行ではあまり見かけない。
鈍行の旅での呑み鉄は、少々肩身が狭いと感じた。
私は、鹿児島から赤穂、東京から赤穂や、四国一周など多くの鈍行の旅をした。
サークルの仲間などの友達と一緒の時もあったが、たいていは名古屋近辺であった。
長旅はたいてい一人旅で、鈍行以外にも寝台列車にも良く乗った。
一番楽しかった思い出としては、やはりまだ小さかった子供たちと一緒にいった東京旅行である。
これは家内の弟の結婚式に出るついでに、子供を浅草・上野や、NHK放送センター、ディズニーランドに連れて行ってやった。
姫路駅から新幹線に乗ったのだが、その時の様子はビデオカメラに収めており、思い出したように何度も見返す。
駅で列車を待つ時の様子や、車内での様子、特に車内で弁当を買って食べている様子などが懐かしい。
私は車外の風景も時折入れていたので、風景と共に楽しめたりする。
子供たちと新幹線に乗って旅に出たのは、この一度限りであった。
それ以外は、車で出かけることが殆どだった。
だから、一生に一度の我が子との鉄道の旅となった。
近年は豪華列車の旅が宣伝されていて、高額な費用を1泊や2泊で使っている。
確かに一生に一度そういう豪華な旅をするのも、良い思い出になるかも知れない。
だけど、ささやかな旅でも、子供や孫と一緒に旅行する方がどんなにか楽しいだろうと思う。
自分にはまだ孫がいないが、自分の親たちは孫と旅行できるのを楽しんでいたのを思い出す。
ただ、普段仕事に忙しかったり、孫の世話に明け暮れている人には、夫婦二人でゆっくり過ごすのも良いのかも知れない。
自分たちには高額の費用を負担する余力が無いので、格安航空やレンタカー、そして鉄道をうまく活用して、気楽な旅をやってみたいと思っている。
それまでに、金の代わりに心身の余力を蓄えておかねばならないt思っている。
必ず見るのは、NHKの「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」である。
実は自分も学生時代に青春切符を使うことが多くて、非常に時間があるし、風景を楽しむためにビールなどを飲んでいた。
その時は必ずトイレの近くの車両に乗っていた。
特に憶えているのは、帰省で名古屋から赤穂に戻る時に、わざと関西本線を使って飲みながら帰ったときのことだ。
関西線は景色もよくて、ちょうど旅する人と相席になって、話をしたりしたが、その人は当然飲まなかった。
新幹線などではよく飲む人を見かけるが、鈍行ではあまり見かけない。
鈍行の旅での呑み鉄は、少々肩身が狭いと感じた。
私は、鹿児島から赤穂、東京から赤穂や、四国一周など多くの鈍行の旅をした。
サークルの仲間などの友達と一緒の時もあったが、たいていは名古屋近辺であった。
長旅はたいてい一人旅で、鈍行以外にも寝台列車にも良く乗った。
一番楽しかった思い出としては、やはりまだ小さかった子供たちと一緒にいった東京旅行である。
これは家内の弟の結婚式に出るついでに、子供を浅草・上野や、NHK放送センター、ディズニーランドに連れて行ってやった。
姫路駅から新幹線に乗ったのだが、その時の様子はビデオカメラに収めており、思い出したように何度も見返す。
駅で列車を待つ時の様子や、車内での様子、特に車内で弁当を買って食べている様子などが懐かしい。
私は車外の風景も時折入れていたので、風景と共に楽しめたりする。
子供たちと新幹線に乗って旅に出たのは、この一度限りであった。
それ以外は、車で出かけることが殆どだった。
だから、一生に一度の我が子との鉄道の旅となった。
近年は豪華列車の旅が宣伝されていて、高額な費用を1泊や2泊で使っている。
確かに一生に一度そういう豪華な旅をするのも、良い思い出になるかも知れない。
だけど、ささやかな旅でも、子供や孫と一緒に旅行する方がどんなにか楽しいだろうと思う。
自分にはまだ孫がいないが、自分の親たちは孫と旅行できるのを楽しんでいたのを思い出す。
ただ、普段仕事に忙しかったり、孫の世話に明け暮れている人には、夫婦二人でゆっくり過ごすのも良いのかも知れない。
自分たちには高額の費用を負担する余力が無いので、格安航空やレンタカー、そして鉄道をうまく活用して、気楽な旅をやってみたいと思っている。
それまでに、金の代わりに心身の余力を蓄えておかねばならないt思っている。
2018年12月4日火曜日
ワークマンとモンベル
私は以前から農作業に使えるのでワークマン(WORKMAN)で衣類を買うことが多かった。
これは農作業以外でも、犬の散歩などで汗をかくちょっとした運動にも適していた。
特に、アンダーウェアは暑さや寒さの対策に適しており、機能性と耐久性をかねてしかも手頃に思えた。
また、長靴などや手袋も他では買えない良いものがそろっている。
ただ、教壇に立つ時には、アンダーウェアはともかく、作業着はさすがに着ることははばかれた。
特に今の職場は、職業科の先生が本格的な作業着を着こなしているので、中途半端な格好はみっともなく思える。
そんな時に良いと思えたのは、モンベル(mont bell)の衣類である。
モンベルは以前にSUP用のウェットスーツを買ったことがあった。
それ以外はなじみが無かったのだが、以前に勤めていた職場の制服のパンツに使われていた。
そのトレッキング用の黒パンツは各自二着ずつ貸与されて、着古しているので結局やめる時は返さなくて良いことになった。
これは非常に着心地がよくて、ちょっとした作業や運動にも使える。
しかも、普通の作業着よりも見た目が良くて、ポケットにチャックがついていて便利である。
このところ、ずっと愚犬クロとの散歩用にはいていた。
私の秋の散歩姿は、モンベルのトレッキングパンツと迷彩服の上着、登山用の帽子だった。
まるで、山歩きか猟に出る格好であった。
この頃、寒さも増してきたので、ナイロンのオーバーパンツをはくようになり、モンベルを職場ではくことにした。
私は白衣を着ているので、白衣の下はあまり目立たない。
本当はジーンズでもはきたいところだが、それは少し抵抗を感じるので、モンベルのパンツがちょうど良い。
そこで、冬用にと思い岡山のモンベル店に出かけた。
姫路にもあるが、岡山の方が断然規模が大きい。
やはり、値段がワークマンとは違っていた。
普段買っているワークマンの作業ズボンの三倍以上の値段だった。
それでも思い切って一着買ってみた。
夏用のパンツの良さを知っていたからである。
農作業着はワークマン、仕事着はモンベル、カジュアルはショットやユニクロというような買い方がどうも自分には理想に思えた。
これは農作業以外でも、犬の散歩などで汗をかくちょっとした運動にも適していた。
特に、アンダーウェアは暑さや寒さの対策に適しており、機能性と耐久性をかねてしかも手頃に思えた。
また、長靴などや手袋も他では買えない良いものがそろっている。
ただ、教壇に立つ時には、アンダーウェアはともかく、作業着はさすがに着ることははばかれた。
特に今の職場は、職業科の先生が本格的な作業着を着こなしているので、中途半端な格好はみっともなく思える。
そんな時に良いと思えたのは、モンベル(mont bell)の衣類である。
モンベルは以前にSUP用のウェットスーツを買ったことがあった。
それ以外はなじみが無かったのだが、以前に勤めていた職場の制服のパンツに使われていた。
そのトレッキング用の黒パンツは各自二着ずつ貸与されて、着古しているので結局やめる時は返さなくて良いことになった。
これは非常に着心地がよくて、ちょっとした作業や運動にも使える。
しかも、普通の作業着よりも見た目が良くて、ポケットにチャックがついていて便利である。
このところ、ずっと愚犬クロとの散歩用にはいていた。
私の秋の散歩姿は、モンベルのトレッキングパンツと迷彩服の上着、登山用の帽子だった。
まるで、山歩きか猟に出る格好であった。
この頃、寒さも増してきたので、ナイロンのオーバーパンツをはくようになり、モンベルを職場ではくことにした。
私は白衣を着ているので、白衣の下はあまり目立たない。
本当はジーンズでもはきたいところだが、それは少し抵抗を感じるので、モンベルのパンツがちょうど良い。
そこで、冬用にと思い岡山のモンベル店に出かけた。
姫路にもあるが、岡山の方が断然規模が大きい。
やはり、値段がワークマンとは違っていた。
普段買っているワークマンの作業ズボンの三倍以上の値段だった。
それでも思い切って一着買ってみた。
夏用のパンツの良さを知っていたからである。
農作業着はワークマン、仕事着はモンベル、カジュアルはショットやユニクロというような買い方がどうも自分には理想に思えた。
2018年12月2日日曜日
越夏ジャガイモ
今日(12/1)の午前中に赤穂の畑に行ってジャガイモを掘った。
実は、今年は春先に植えたジャガイモを、夏の初めに掘り起こしきれなかった。
その時期は、当時閑谷学校の職員であったので、非常に忙しく、身体的に余力が残っていなかった。
梅雨時分にかかるジャガイモ掘りは、毎年重労働にはなっていた。
無理をして、熱中症になってしまったこともある。
それは、汗をいっぱいかいたのに、十分水分補給をせずに、上郡の家に戻った。
その結果、途中から寒気や頭痛がし始めて一日寝込み、疲労感が回復するのに数日かかったように思う。
だから、ジャガイモ掘りは無理をせずに、場合によってはそのまま放っておく。
夏を越しても、早めに掘れば何とか食べられる。
しかし、秋ジャガイモが芽を出し始める時期になると、ジャガイモは大根のように固くなってしまって食べづらい。
今年は、夏の終わりは、スイミングスクールのコーチをしており、やはり身体的に余力が無かった。
それで、ジャガイモどころか、殆ど赤穂の畑は雑草地と化していた。
その中で、ジャガイモがすくすくと大きくなりだしたのである。
実は、芽が出始めた頃に、一度雑草と一緒に刈ってしまっているので、二度目に出た芽が伸びたというのが本当である。
だから、成長は本来秋ジャガイモで植えるものより遅い。
それでも、今年は暖かかったので、霜にやられずにまだ青々している。
そして、掘ってみると、そこそこ大きなジャガイモが新しくできていた。
種芋になった掘り残した親ジャガイモは、最初は捨ててしまおうと思った。
しかし、本来種芋はしなびてしまうものなのに、大きいのである。
ひょっとして、里芋のように親芋が生長したのかも知れないと思って。持って帰ることにした。
食べられなくても、種芋になりそうだと思ったからである。
結果的には、新ジャガイモと親芋は同じくらいの量になってしまった。
これで、新芋も親芋もうまく活用できたら、この越夏ジャガイモは一つの栽培方法にできるかも知れない。
本当は、秋ジャガイモとして、きちっと種芋を植えるべきなのだが、無精農法としてありかなとも思う。
実は、今年は春先に植えたジャガイモを、夏の初めに掘り起こしきれなかった。
その時期は、当時閑谷学校の職員であったので、非常に忙しく、身体的に余力が残っていなかった。
梅雨時分にかかるジャガイモ掘りは、毎年重労働にはなっていた。
無理をして、熱中症になってしまったこともある。
それは、汗をいっぱいかいたのに、十分水分補給をせずに、上郡の家に戻った。
その結果、途中から寒気や頭痛がし始めて一日寝込み、疲労感が回復するのに数日かかったように思う。
だから、ジャガイモ掘りは無理をせずに、場合によってはそのまま放っておく。
夏を越しても、早めに掘れば何とか食べられる。
しかし、秋ジャガイモが芽を出し始める時期になると、ジャガイモは大根のように固くなってしまって食べづらい。
今年は、夏の終わりは、スイミングスクールのコーチをしており、やはり身体的に余力が無かった。
それで、ジャガイモどころか、殆ど赤穂の畑は雑草地と化していた。
その中で、ジャガイモがすくすくと大きくなりだしたのである。
実は、芽が出始めた頃に、一度雑草と一緒に刈ってしまっているので、二度目に出た芽が伸びたというのが本当である。
だから、成長は本来秋ジャガイモで植えるものより遅い。
それでも、今年は暖かかったので、霜にやられずにまだ青々している。
そして、掘ってみると、そこそこ大きなジャガイモが新しくできていた。
種芋になった掘り残した親ジャガイモは、最初は捨ててしまおうと思った。
しかし、本来種芋はしなびてしまうものなのに、大きいのである。
ひょっとして、里芋のように親芋が生長したのかも知れないと思って。持って帰ることにした。
食べられなくても、種芋になりそうだと思ったからである。
結果的には、新ジャガイモと親芋は同じくらいの量になってしまった。
これで、新芋も親芋もうまく活用できたら、この越夏ジャガイモは一つの栽培方法にできるかも知れない。
本当は、秋ジャガイモとして、きちっと種芋を植えるべきなのだが、無精農法としてありかなとも思う。
2018年11月29日木曜日
コウノトリ帰来2018年
つい先日(11/25)、道ばたに軽トラックが駐まっていて、お爺さんらしき人が脚立を持って立っている。
ちょうど、通りがかったウォーキングの集団が、「コウノトリがおる」と挨拶ついでに言ってくれた。
そして、その脚立のそばで大きなレンズをつけたカメラを構えている人が、近所の人だと分かった。
この人は、どうやらコウノトリを見て写すために高価な望遠レンズとカメラを買ったらしい。
私も携帯電話のカメラで写してみたが、豆粒ほどにしか写らない。
私には写真よりも、コウノトリが来てくれること自体が、非常に嬉しい。
秋から春先にかけて、コウノトリが鉄塔の上にいるだけで、散歩が楽しくなる。
そういえば、今の職場には豊岡に関係する職員が何名かいる。
他の職員も、西播よりも、東播や但馬の職員が多い。
冬になると雪が積もる地域に住む人は、やはりスキーが好きで、雪が恋しいと言っていた。
私は、たまに行くなら良いが、ずっと雪や氷に閉ざされる暮らしは耐えられないと思う。
スキーも殆どできない。
だから、コウノトリが冬場にやってくるのも、晴れが多くて暖かく、沼地で餌が豊富な上郡を選んでくれたと思っている。
残念ながらこのところ、長く居着いてくれない。
今年も一度見たきりで、その後は姿を消してしまった。
もっと、居心地の良いところを見つけたのかも知れない。
今の職場若い人も、いずれは地元に帰っていくのだろうと思う。
誰でも自分が生まれ育ったところが一番暮らしやすいのだろう。
でも、コウノトリのように、よその地域での暮らしを、一時でも楽しみながら暮らすの悪くないと思う。
私もいずれコウノトリのように、旅して回ってみたいと思っている。
そういえば昔は「旅ガラス」という渡世者シリーズがあった。
私は「旅コウノトリ」という、フィールドワーカーとして暮らしてみたいと思うのだが、果たして懐具合は・・・
ちょうど、通りがかったウォーキングの集団が、「コウノトリがおる」と挨拶ついでに言ってくれた。
そして、その脚立のそばで大きなレンズをつけたカメラを構えている人が、近所の人だと分かった。
この人は、どうやらコウノトリを見て写すために高価な望遠レンズとカメラを買ったらしい。
私も携帯電話のカメラで写してみたが、豆粒ほどにしか写らない。
私には写真よりも、コウノトリが来てくれること自体が、非常に嬉しい。
秋から春先にかけて、コウノトリが鉄塔の上にいるだけで、散歩が楽しくなる。
そういえば、今の職場には豊岡に関係する職員が何名かいる。
他の職員も、西播よりも、東播や但馬の職員が多い。
冬になると雪が積もる地域に住む人は、やはりスキーが好きで、雪が恋しいと言っていた。
私は、たまに行くなら良いが、ずっと雪や氷に閉ざされる暮らしは耐えられないと思う。
スキーも殆どできない。
だから、コウノトリが冬場にやってくるのも、晴れが多くて暖かく、沼地で餌が豊富な上郡を選んでくれたと思っている。
残念ながらこのところ、長く居着いてくれない。
今年も一度見たきりで、その後は姿を消してしまった。
もっと、居心地の良いところを見つけたのかも知れない。
今の職場若い人も、いずれは地元に帰っていくのだろうと思う。
誰でも自分が生まれ育ったところが一番暮らしやすいのだろう。
でも、コウノトリのように、よその地域での暮らしを、一時でも楽しみながら暮らすの悪くないと思う。
私もいずれコウノトリのように、旅して回ってみたいと思っている。
そういえば昔は「旅ガラス」という渡世者シリーズがあった。
私は「旅コウノトリ」という、フィールドワーカーとして暮らしてみたいと思うのだが、果たして懐具合は・・・
2018年11月27日火曜日
紅葉狩りドライブ~in 備前・美作
昨日(11/26)は、仕事の代休であり、家内もそれにあわせて年休をとってくれた。
この季節、休日はどこも混雑するのがわかっていたので、平日に出かけることにしていた。
いつも出かけるときに、家内に「どこに行きたい」と聞くと、決まって「どこにでも」と答えられる。
この返事が一番困るのだが、家内も気に入りそうなところを選んで出かける。
今回はめずらしく「津山」と答えた。
そこで、閑谷学校の紅葉を見物してから、そちらに行くことにした。
閑谷学校はこの季節、休日には観光客が大勢やってくるので、去年も車を停めるのに苦労した。
勤めているときには、一度も参らなかった椿山に初めて参った。
椿山から講堂を見るのも悪くないと思った。
残念ながら一番の名物「楷の木」は、葉っぱはもう全部落ちてしまっていた。
楓はまだきれいだったので、家内に解説しながら、奥のトンネルの方まで歩いて行った。
次の目的地に行こうと思って駐車場にいくと、本当に偶然にも以前お世話になっていた研修課長さんにであった。
ほんの少しの時間だったけど、その後のお互いの様子が知れて嬉しかった。
その後、一度も通った事の無かった「広域農道」を通って和気までいった。
いつもの川沿いの道路とは違って景色が抜群によかったが、非常に急な坂道で閑谷学校の職員が冬場は怖いと言っていたのがわかった。
その後は吉井川沿いを通って、途中から柵原の方にむかい、津山まで行った。
途中は殆ど川沿いの道で、紅葉は綺麗だったが、見せ所らしきものはあまりなかった。
それでも、大きな岩の壁があったり、そこそこ楽しめた。
以前津山に来た時は、お城に行ったが、家内が「道の駅 久米の里」へ行きたいというので、そちらに向かった。
初めて町の中を通っていったのだが、その大きさに驚いた。
今まで、車もあまり行き違わない、閑散とした道路を通ってきていたので、突然大きな都市が現れたという感じだ。
「久米の里」では、私はホルモン焼きうどんを食べた。
家内は私が前日に、「この頃疲れている」とこぼしていたので、気を利かせてネットで調べという。
私は大のホルモン好きなのだが、脂肪分に気を遣って食べていなかった。
家内は苦手なので、今回もソバを食べていた。
肉の名産地だけあって、ホルモンは新鮮でしっかりとしていて、非常においしかった。
平日ということもあって、近くの人が食べに来ているという感じだった。
土産に干し肉を買おうかと思ったのが、少々高いので安めの湯がいたすじ肉やホルモンの唐揚げを買った。
外にはガンダムが展示してあるが、私は殆どテレビで見ていなかった世代であり、家内の方が楽しんで見ていた。
そこから真庭まで行き、国道313号線を北上した。
この川沿いの道には、温泉宿が点在しており、有名な「湯原温泉」もあった。
自分の計画としては、途中から国道482号線で東にむかい、鳥取道で帰るつもりであった。
ところが、313号線と179号線が入り交じって分からなくなってしまった。
途中の蒜山高原地帯の景色は信州の山の中に迷い込んだようだった。
そして、三朝の道の駅まで行ってしまい、そこで休憩を取った。
日本海まで出て帰るには、時間が無いので引き返して、482号線に戻った。
そして、用瀬まで行き、そこから鳥取道に入った。
用瀬は鳥取道を使う時に、よく休憩に用いるところである。
鳥取道は早くて便利で無料なのは良いのだが、トンネルばかりで眠くなった。
そして、有料になる手前の平福出口で一般道で降りる頃には、薄暗くなりかかっていた。
そこからは、家内が相生の実家に寄りたいというので、作用・上月からテクノを回り相生に寄って帰った。
自分の家の周りにもいっぱい紅葉はあるが、こうして遠くまで紅葉を見に行くのも悪くは無い。
泊まりがけで遠くまで行かなくても、十分いろんな風景や違った暮らしの様子が見えてくる。
特に鳥取道を絡めれば、一日で回ることができる範囲も広がっていく。
今回は朝の10時に出て、戻ってきたのは夕方の5時半だった。
このような無料の自動車道をもっともっと増やして、地方に人を呼び込むべきだと思う。
京都や鎌倉などでの観光公害を減らすためにも、必要だろう。
また休日の混雑を減らすために、平日だけ無料にして、通勤にも使えば良いと思うのだが・・・
この季節、休日はどこも混雑するのがわかっていたので、平日に出かけることにしていた。
いつも出かけるときに、家内に「どこに行きたい」と聞くと、決まって「どこにでも」と答えられる。
この返事が一番困るのだが、家内も気に入りそうなところを選んで出かける。
今回はめずらしく「津山」と答えた。
そこで、閑谷学校の紅葉を見物してから、そちらに行くことにした。
閑谷学校はこの季節、休日には観光客が大勢やってくるので、去年も車を停めるのに苦労した。
勤めているときには、一度も参らなかった椿山に初めて参った。
椿山から講堂を見るのも悪くないと思った。
残念ながら一番の名物「楷の木」は、葉っぱはもう全部落ちてしまっていた。
楓はまだきれいだったので、家内に解説しながら、奥のトンネルの方まで歩いて行った。
次の目的地に行こうと思って駐車場にいくと、本当に偶然にも以前お世話になっていた研修課長さんにであった。
ほんの少しの時間だったけど、その後のお互いの様子が知れて嬉しかった。
その後、一度も通った事の無かった「広域農道」を通って和気までいった。
いつもの川沿いの道路とは違って景色が抜群によかったが、非常に急な坂道で閑谷学校の職員が冬場は怖いと言っていたのがわかった。
その後は吉井川沿いを通って、途中から柵原の方にむかい、津山まで行った。
途中は殆ど川沿いの道で、紅葉は綺麗だったが、見せ所らしきものはあまりなかった。
それでも、大きな岩の壁があったり、そこそこ楽しめた。
以前津山に来た時は、お城に行ったが、家内が「道の駅 久米の里」へ行きたいというので、そちらに向かった。
初めて町の中を通っていったのだが、その大きさに驚いた。
今まで、車もあまり行き違わない、閑散とした道路を通ってきていたので、突然大きな都市が現れたという感じだ。
「久米の里」では、私はホルモン焼きうどんを食べた。
家内は私が前日に、「この頃疲れている」とこぼしていたので、気を利かせてネットで調べという。
私は大のホルモン好きなのだが、脂肪分に気を遣って食べていなかった。
家内は苦手なので、今回もソバを食べていた。
肉の名産地だけあって、ホルモンは新鮮でしっかりとしていて、非常においしかった。
平日ということもあって、近くの人が食べに来ているという感じだった。
土産に干し肉を買おうかと思ったのが、少々高いので安めの湯がいたすじ肉やホルモンの唐揚げを買った。
外にはガンダムが展示してあるが、私は殆どテレビで見ていなかった世代であり、家内の方が楽しんで見ていた。
そこから真庭まで行き、国道313号線を北上した。
この川沿いの道には、温泉宿が点在しており、有名な「湯原温泉」もあった。
自分の計画としては、途中から国道482号線で東にむかい、鳥取道で帰るつもりであった。
ところが、313号線と179号線が入り交じって分からなくなってしまった。
途中の蒜山高原地帯の景色は信州の山の中に迷い込んだようだった。
そして、三朝の道の駅まで行ってしまい、そこで休憩を取った。
日本海まで出て帰るには、時間が無いので引き返して、482号線に戻った。
そして、用瀬まで行き、そこから鳥取道に入った。
用瀬は鳥取道を使う時に、よく休憩に用いるところである。
鳥取道は早くて便利で無料なのは良いのだが、トンネルばかりで眠くなった。
そして、有料になる手前の平福出口で一般道で降りる頃には、薄暗くなりかかっていた。
そこからは、家内が相生の実家に寄りたいというので、作用・上月からテクノを回り相生に寄って帰った。
自分の家の周りにもいっぱい紅葉はあるが、こうして遠くまで紅葉を見に行くのも悪くは無い。
泊まりがけで遠くまで行かなくても、十分いろんな風景や違った暮らしの様子が見えてくる。
特に鳥取道を絡めれば、一日で回ることができる範囲も広がっていく。
今回は朝の10時に出て、戻ってきたのは夕方の5時半だった。
このような無料の自動車道をもっともっと増やして、地方に人を呼び込むべきだと思う。
京都や鎌倉などでの観光公害を減らすためにも、必要だろう。
また休日の混雑を減らすために、平日だけ無料にして、通勤にも使えば良いと思うのだが・・・
2018年11月25日日曜日
消えゆく大工さん
11月23日は、我が家の地鎮祭が行われた日である。
今から25年前のこの日、奥村の神主さんによって行われた。
霧が深く立ちこめた日であった。
家を建ててくれたのは、同じ村の大工さんで、不動産屋の紹介であった。
この大工の棟梁は、棟上げ以外は殆どの建築仕事を一人でやってくれた。
我が家は当時では既に珍しくなっていた土壁で、棟梁は根気よく竹を組んでいたのを憶えている。
家は翌年の夏休みには完成して、引っ越しを行った。
当時乗っていた、ピックアップのハイラックスで、ピアノ以外は家内に手伝ってもらいながら、殆ど自分で運んだ。
そのせいで、腰痛を患い、その後何年も苦しめられた。
私はその細身の棟梁が、家ができるまでに死んでしまうのでは無いかと心配していた。
それくらい、痩せこけていたのである。
我が家はちゃんとできあがったが、その後10年も経たないうちに、棟梁は亡くなってしまった。
長年の無理がたたったのか、五十歳半ばだった。
この棟梁に建ててもらった、家屋は村の中に数軒残っている。
しかし、家の家が建った後では、大工さんの手作りの家は殆ど無くなり、工場で造られた物を組み立てるだけのものになった。
特に、阪神大震災の後では、手作りの木造建築は姿を消していった。
先日、村に残っていた、木造建築屋さんが倒産してしまったのを知った。
そこの親方は、村の自治会でも色々と、世話をしてくれている人だった。
私も、仲良くしてもらい、話を色々聞かせてもらっていた。
愚犬クロの前に飼っていたトラも、この家からもらってきた犬だった。
負債を抱えて自己破産し、親方の大きな家は売りに出されている。
庭には立派な白菜や大根がそのまま残った。
時代の流れと言えば、それまでなのだが、村の中心を担ってきた人が去って行くのは残念である。
自分たちが幼い頃は、大工さんになるというのも男の子の夢だった。
村にある木工所も操業を止めたりしている。
このままいくと、村の建築関係は殆ど廃業と言うことになるかも知れない。
そして、不動産屋の売りに出ている物件の価格には安さには驚かされる。
多額のローンを抱えて、生活を切り詰めながら支払った果ての価格である。
日産リーフほどの車の値段で、敷地50坪ほどの中古住宅なら近隣で手に入る。
我々の世代は、貧しかった昭和30年の半ばから、高度経済成長を経て豊かさを味わった。
私の家は、まさしくバブルのはじける前で、高騰する住宅価格に、早く建てないと焦ったものだった。
耐震構造では無いので、大きな地震がきたらひとたまりも無いかも知れない。
それでも、苦労して手に入れた家だけに、愛着が強いし、もう家を建て直す余力は無い。
私の実家も母親が一人で暮らしているし、家内の実家も義母が一人で暮らしている。
同じように親夫婦が苦労して手に入れた家である。
工場で作られた家屋と違って、大工さんが一生懸命建ててくれていた姿も知っている家である。
そういう家屋がどんどん失せてしまう時代というのは、本当に豊かな時代なのだろうかと考えさせられた。
今から25年前のこの日、奥村の神主さんによって行われた。
霧が深く立ちこめた日であった。
家を建ててくれたのは、同じ村の大工さんで、不動産屋の紹介であった。
この大工の棟梁は、棟上げ以外は殆どの建築仕事を一人でやってくれた。
我が家は当時では既に珍しくなっていた土壁で、棟梁は根気よく竹を組んでいたのを憶えている。
家は翌年の夏休みには完成して、引っ越しを行った。
当時乗っていた、ピックアップのハイラックスで、ピアノ以外は家内に手伝ってもらいながら、殆ど自分で運んだ。
そのせいで、腰痛を患い、その後何年も苦しめられた。
私はその細身の棟梁が、家ができるまでに死んでしまうのでは無いかと心配していた。
それくらい、痩せこけていたのである。
我が家はちゃんとできあがったが、その後10年も経たないうちに、棟梁は亡くなってしまった。
長年の無理がたたったのか、五十歳半ばだった。
この棟梁に建ててもらった、家屋は村の中に数軒残っている。
しかし、家の家が建った後では、大工さんの手作りの家は殆ど無くなり、工場で造られた物を組み立てるだけのものになった。
特に、阪神大震災の後では、手作りの木造建築は姿を消していった。
先日、村に残っていた、木造建築屋さんが倒産してしまったのを知った。
そこの親方は、村の自治会でも色々と、世話をしてくれている人だった。
私も、仲良くしてもらい、話を色々聞かせてもらっていた。
愚犬クロの前に飼っていたトラも、この家からもらってきた犬だった。
負債を抱えて自己破産し、親方の大きな家は売りに出されている。
庭には立派な白菜や大根がそのまま残った。
時代の流れと言えば、それまでなのだが、村の中心を担ってきた人が去って行くのは残念である。
自分たちが幼い頃は、大工さんになるというのも男の子の夢だった。
村にある木工所も操業を止めたりしている。
このままいくと、村の建築関係は殆ど廃業と言うことになるかも知れない。
そして、不動産屋の売りに出ている物件の価格には安さには驚かされる。
多額のローンを抱えて、生活を切り詰めながら支払った果ての価格である。
日産リーフほどの車の値段で、敷地50坪ほどの中古住宅なら近隣で手に入る。
我々の世代は、貧しかった昭和30年の半ばから、高度経済成長を経て豊かさを味わった。
私の家は、まさしくバブルのはじける前で、高騰する住宅価格に、早く建てないと焦ったものだった。
耐震構造では無いので、大きな地震がきたらひとたまりも無いかも知れない。
それでも、苦労して手に入れた家だけに、愛着が強いし、もう家を建て直す余力は無い。
私の実家も母親が一人で暮らしているし、家内の実家も義母が一人で暮らしている。
同じように親夫婦が苦労して手に入れた家である。
工場で作られた家屋と違って、大工さんが一生懸命建ててくれていた姿も知っている家である。
そういう家屋がどんどん失せてしまう時代というのは、本当に豊かな時代なのだろうかと考えさせられた。
2018年11月22日木曜日
夙川のオアシスロード
昨日は出張で西宮に出かけることになった。
前もって、行き先はネットで調べておいた。
阪神香櫨園駅から歩いて23分と出ていた。
最近は車を使うことが多く、ナビやスマホなどに頼るので、目的地には比較的楽に到着できる。
私は持ち歩いているのは、ガラホやタブレットなので、歩きながら地図を見ることは難しい。
前もって、ネットの地図をプリントしてから出かけている。
しかし、駅に着くと、まずどう進むか不安になってしまう。
今回の出張は目的地に18時につく予定のもので、夜道を帰ることも考えて歩かねばならない。
香櫨園駅から外に出ると、地図には無かったオアシスロードというのが、すぐ目の前にあった。
幹線道路はそばに見えなかったので、そこをとりあえず歩くことにした。
このオアシスロードは夙川の土手沿いにある道で、バイクや車の乗り入れ禁止となっており、歩行者や自転車に乗る人が利用しているようだ。
道はきれいに整備されており、松の大木や桜の木がたくさん植えられていた。
ベンチも所々に設置してあり、市民が憩えるように配慮されている。
ネットのマップのルートとは違うが、目的地のそばにある道と確認できたので、歩いて行くことにした。
多くの仕事帰りの人や、学校帰りの人が行き交っている。
まさしくオアシスと名付けられるとおり、都会のコンクリート沙漠の中の自然公園である。
かつて、名古屋にも東京にも住んだことがあるが、これほど川の土手沿いが整備された道路公園は見たことが無い。
京都は明らかに観光目的のこういう道路はあるが、ここでは日常の通勤や通学にたくさんの人が用いているようだ。
だから観光名所らしきものは殆どなくて、そばに図書館や郷土館があるだけのようだ。
私はとりあえず目的地を見つけておいて、コンビニで軽い弁当などを買って、この河川公園で食べることにした。
学校帰りの中学生などが多く行き交うので、それを避けるように土手の途中にあるベンチに座って、弁当を食べた。
もう、すでに暗闇が迫っており、紅葉した木々が幻想的な雰囲気を醸し出している。
薄ら寒いので、ゆっくりと食べているわけにはいかず、早々に食べて、図書館に向かった。
時間までに少し時間があったので、そこでしばらく雑誌を読んだりして過ごした。
そういえば、以前にこの夙川の桜の話は聞いていた。
満開の時期は多くの人で賑わうようだ。
華やかな春とは違い、暮れなずむ晩秋の夕暮れも趣があって良いものである。
遠く西宮まで行かねばならない出張で、当初は気が重いものではあったが、このオアシスロードのおかげで、ちと気も楽になった。
ただ、帰りのラッシュを経験したので、こういうところに住みたいとは思えなかった。
整備されていなくても、村全体が自然公園のような暮らしの方が私には合っているようだ。
前もって、行き先はネットで調べておいた。
阪神香櫨園駅から歩いて23分と出ていた。
最近は車を使うことが多く、ナビやスマホなどに頼るので、目的地には比較的楽に到着できる。
私は持ち歩いているのは、ガラホやタブレットなので、歩きながら地図を見ることは難しい。
前もって、ネットの地図をプリントしてから出かけている。
しかし、駅に着くと、まずどう進むか不安になってしまう。
今回の出張は目的地に18時につく予定のもので、夜道を帰ることも考えて歩かねばならない。
香櫨園駅から外に出ると、地図には無かったオアシスロードというのが、すぐ目の前にあった。
幹線道路はそばに見えなかったので、そこをとりあえず歩くことにした。
このオアシスロードは夙川の土手沿いにある道で、バイクや車の乗り入れ禁止となっており、歩行者や自転車に乗る人が利用しているようだ。
道はきれいに整備されており、松の大木や桜の木がたくさん植えられていた。
ベンチも所々に設置してあり、市民が憩えるように配慮されている。
ネットのマップのルートとは違うが、目的地のそばにある道と確認できたので、歩いて行くことにした。
多くの仕事帰りの人や、学校帰りの人が行き交っている。
まさしくオアシスと名付けられるとおり、都会のコンクリート沙漠の中の自然公園である。
かつて、名古屋にも東京にも住んだことがあるが、これほど川の土手沿いが整備された道路公園は見たことが無い。
京都は明らかに観光目的のこういう道路はあるが、ここでは日常の通勤や通学にたくさんの人が用いているようだ。
だから観光名所らしきものは殆どなくて、そばに図書館や郷土館があるだけのようだ。
私はとりあえず目的地を見つけておいて、コンビニで軽い弁当などを買って、この河川公園で食べることにした。
学校帰りの中学生などが多く行き交うので、それを避けるように土手の途中にあるベンチに座って、弁当を食べた。
もう、すでに暗闇が迫っており、紅葉した木々が幻想的な雰囲気を醸し出している。
薄ら寒いので、ゆっくりと食べているわけにはいかず、早々に食べて、図書館に向かった。
時間までに少し時間があったので、そこでしばらく雑誌を読んだりして過ごした。
そういえば、以前にこの夙川の桜の話は聞いていた。
満開の時期は多くの人で賑わうようだ。
華やかな春とは違い、暮れなずむ晩秋の夕暮れも趣があって良いものである。
遠く西宮まで行かねばならない出張で、当初は気が重いものではあったが、このオアシスロードのおかげで、ちと気も楽になった。
ただ、帰りのラッシュを経験したので、こういうところに住みたいとは思えなかった。
整備されていなくても、村全体が自然公園のような暮らしの方が私には合っているようだ。
2018年11月20日火曜日
カラスと犬に食われる柿
うちの近辺では、柿の木がやたら多い。
今年もたわわに実がなって、赤くなっている。
しかし、柿は人気が無い。
だから、庭に植えている人も、必要なだけ採って放っている。
畑の片隅に植えている柿の木は、立派になっていても放りっぱなしである。
実が熟してくると、カラスがつつきに来る。
そして、半分食べさしの実が、道ばたに転がっているのである。
それを愚犬クロは、がっついて食べるのである。
飼い犬にしては、見苦しい限りではあるが、道の掃除にもなると思って食べさせている。
先日も、庭先においておいた、コンテナに柿がいっぱい入れてあって、中にくれた人が特定できる写真が入っていた。
この柿の実は、私の弁当のデザートになったりしている。
そして、クロの餌の大事なデザートでもある。
自分の母親にもお裾分けして、何とか少なくなった。
私は決して、柿は嫌いでは無い。
昔から、熟し柿が大好きだった。
しかし、糖尿病を患ってからは、極力甘い果実は避けているのである。
去年は、もらった柿を干してから、焼酎に漬けたりもした。
今年は、アルコールの飲む量も減らしている。
子供の頃に住んでいた、赤穂尾崎の家の向えの家には、柿の木があった。
子供の頃は貧しくて、果物など滅多に買ってもらえなかったので、その柿の実がおいしそうに見えた。
お裾分けしてもらうと、兄弟で喜んで食べた。
当時は、柿は滅多に食べられない、贅沢品だったのである。
今は、誰も見向きもされなくなった柿。
柿酢が健康に良いというので、作ってみるのも手ではある。
せっかく、たわわになっている柿の実を、カラスや犬に食わせるのはもったいない。
今年もたわわに実がなって、赤くなっている。
しかし、柿は人気が無い。
だから、庭に植えている人も、必要なだけ採って放っている。
畑の片隅に植えている柿の木は、立派になっていても放りっぱなしである。
実が熟してくると、カラスがつつきに来る。
そして、半分食べさしの実が、道ばたに転がっているのである。
それを愚犬クロは、がっついて食べるのである。
飼い犬にしては、見苦しい限りではあるが、道の掃除にもなると思って食べさせている。
先日も、庭先においておいた、コンテナに柿がいっぱい入れてあって、中にくれた人が特定できる写真が入っていた。
この柿の実は、私の弁当のデザートになったりしている。
そして、クロの餌の大事なデザートでもある。
自分の母親にもお裾分けして、何とか少なくなった。
私は決して、柿は嫌いでは無い。
昔から、熟し柿が大好きだった。
しかし、糖尿病を患ってからは、極力甘い果実は避けているのである。
去年は、もらった柿を干してから、焼酎に漬けたりもした。
今年は、アルコールの飲む量も減らしている。
子供の頃に住んでいた、赤穂尾崎の家の向えの家には、柿の木があった。
子供の頃は貧しくて、果物など滅多に買ってもらえなかったので、その柿の実がおいしそうに見えた。
お裾分けしてもらうと、兄弟で喜んで食べた。
当時は、柿は滅多に食べられない、贅沢品だったのである。
今は、誰も見向きもされなくなった柿。
柿酢が健康に良いというので、作ってみるのも手ではある。
せっかく、たわわになっている柿の実を、カラスや犬に食わせるのはもったいない。
2018年11月18日日曜日
千種の水くみ2018年秋
何とか今日(11/17)は雨が降らなかったので、千種に水くみに行った。
上郡の我が家の方は、これから紅葉が本格的に始まるという段階だが、千種の方では本格的に進んでいる。
途中でも紅葉祭りの幟を見かけたりもした。
落ちない城で有名な「白旗城祭り」は、来週の23日である。
きっと、来週の土曜日は大勢の人で賑わうのだろうと思いながら通り過ぎた。
家内が道沿いに見える銀杏の木の色づきが意外と遅いと言う。
確かに家の近所のより遅いようにも思える。
これは以外と川沿いの方が暖かいのか、それとも種類が違うのかわからない。
千種にに近づくにつれて、紅葉も色濃くなっていった。
千種高校では、部員らしき球児が4人だけでバッティング練習をしていた。
いつもながら、淋しげな校庭である。
このところ水くみ場で、殆ど他に汲む人と出会ってなかったのだが、今回は軽トラックが止まっている。
老夫婦が二人で水汲みをしているのだが、軽トラが横付けにされていて近くに止められない。
そこで、縦に止めてもらうように頼んで、こちらの軽トラも並べることができた。
この老夫婦は福崎から来たそうで、ホースを持っているのだが、つなぐことができずに、手で運んでいた。
距離からすると、あまり変わらないのかもしれないが、福崎からと言うと、市川、夢崎川、揖保川を通り越して千種川の上流に来たことになる。
なぜ、ここまで来るのかと聞くと、以前知り合った大学の先生が、ここの水汲み場が一番水質が良いと言ったからだという。
我が家と同じく、水質にこだわって、何年も通い続けているらしい。
かなりのご高齢で、お婆さんは階段を降りるのも、怖々であった。
しかも、自動販売機の操作もうまくこなせず、家内が手伝ったり、最後は100円硬貨を販売機に忘れて、お爺さんが持って気がついて持って帰る始末である。
そんなご高齢でも、ここに来るのが楽しみなのだそうだ。
この福崎のご夫婦が帰った後すぐに、別の老夫婦がやってきた。
さっきのご夫婦に比べると若いが、そこそこ高齢の方で高砂から来たという。
ここの水の自動販売機は2つ吸水口があるのだが、一つがどうも硬貨が貯まりすぎて使えない。
家内が管理者の連絡先に電話したら、一人は相生に出かけており、一人は山に登っていてすぐには来れないという。
仕方ないので、私たちが済むまで待ってもらった。
硬貨が詰まるのは、販売機の管理がいい加減になっているのか、それとも人気が意外と高くなって管理が追っつかないのかわからない。
それでも、こうしてひっきりなしに汲みに来る人に出会うのは、結構、根強い人気があるように思えた。
人気が出すぎて、待たされるのも困るが、人気が無くて維持管理できなくなるのも困る。
なんせ、ここの水の水質検査に、結構、多額の金がかかっていると聞いた。
今は、金さえ出せば、この頃は良い水を簡単に手に入れることができるようになった。
重い水を運んだり、遠くまで出かけていくのは、若い人にとっては時間と労力の無駄に思えるのかもしれない。
しかし、私たちには福崎から来た老夫婦と同じように、汲みに来ること自体が楽しみにもなっている。
子供が小さい頃は一緒に来て、帰りに南光町のひまわりの館で、力うどんを食べる楽しみもあった。
千種の道の駅で、特産物を買うのも一つの楽しみだ。
しかし、何よりも楽しみなのは、千種川沿いの素晴らしい景色なのである。
帰りの道沿いの山は、紅葉に染まり、山を絨毯で覆ったみたいだった。
重い水容器を運び入れる苦労が待ってはいるが、体が続く限り続けたいと、いつも家内と話している。
上郡の我が家の方は、これから紅葉が本格的に始まるという段階だが、千種の方では本格的に進んでいる。
途中でも紅葉祭りの幟を見かけたりもした。
落ちない城で有名な「白旗城祭り」は、来週の23日である。
きっと、来週の土曜日は大勢の人で賑わうのだろうと思いながら通り過ぎた。
家内が道沿いに見える銀杏の木の色づきが意外と遅いと言う。
確かに家の近所のより遅いようにも思える。
これは以外と川沿いの方が暖かいのか、それとも種類が違うのかわからない。
千種にに近づくにつれて、紅葉も色濃くなっていった。
千種高校では、部員らしき球児が4人だけでバッティング練習をしていた。
いつもながら、淋しげな校庭である。
このところ水くみ場で、殆ど他に汲む人と出会ってなかったのだが、今回は軽トラックが止まっている。
老夫婦が二人で水汲みをしているのだが、軽トラが横付けにされていて近くに止められない。
そこで、縦に止めてもらうように頼んで、こちらの軽トラも並べることができた。
この老夫婦は福崎から来たそうで、ホースを持っているのだが、つなぐことができずに、手で運んでいた。
距離からすると、あまり変わらないのかもしれないが、福崎からと言うと、市川、夢崎川、揖保川を通り越して千種川の上流に来たことになる。
なぜ、ここまで来るのかと聞くと、以前知り合った大学の先生が、ここの水汲み場が一番水質が良いと言ったからだという。
我が家と同じく、水質にこだわって、何年も通い続けているらしい。
かなりのご高齢で、お婆さんは階段を降りるのも、怖々であった。
しかも、自動販売機の操作もうまくこなせず、家内が手伝ったり、最後は100円硬貨を販売機に忘れて、お爺さんが持って気がついて持って帰る始末である。
そんなご高齢でも、ここに来るのが楽しみなのだそうだ。
この福崎のご夫婦が帰った後すぐに、別の老夫婦がやってきた。
さっきのご夫婦に比べると若いが、そこそこ高齢の方で高砂から来たという。
ここの水の自動販売機は2つ吸水口があるのだが、一つがどうも硬貨が貯まりすぎて使えない。
家内が管理者の連絡先に電話したら、一人は相生に出かけており、一人は山に登っていてすぐには来れないという。
仕方ないので、私たちが済むまで待ってもらった。
硬貨が詰まるのは、販売機の管理がいい加減になっているのか、それとも人気が意外と高くなって管理が追っつかないのかわからない。
それでも、こうしてひっきりなしに汲みに来る人に出会うのは、結構、根強い人気があるように思えた。
人気が出すぎて、待たされるのも困るが、人気が無くて維持管理できなくなるのも困る。
なんせ、ここの水の水質検査に、結構、多額の金がかかっていると聞いた。
今は、金さえ出せば、この頃は良い水を簡単に手に入れることができるようになった。
重い水を運んだり、遠くまで出かけていくのは、若い人にとっては時間と労力の無駄に思えるのかもしれない。
しかし、私たちには福崎から来た老夫婦と同じように、汲みに来ること自体が楽しみにもなっている。
子供が小さい頃は一緒に来て、帰りに南光町のひまわりの館で、力うどんを食べる楽しみもあった。
千種の道の駅で、特産物を買うのも一つの楽しみだ。
しかし、何よりも楽しみなのは、千種川沿いの素晴らしい景色なのである。
帰りの道沿いの山は、紅葉に染まり、山を絨毯で覆ったみたいだった。
重い水容器を運び入れる苦労が待ってはいるが、体が続く限り続けたいと、いつも家内と話している。
2018年11月15日木曜日
30年に一度の大祭
11月11日は、我が村の中野で「中開帳特別大祭」といって、普段は「観音さん」と呼ばれている寺で、30年に一度の大祭があった。
「観音さん」正式な寺の名前としては、「宝重寺」といい、弓削道鏡が神護景雲の頃(767~769)に建立されたという。
その後荒廃したものを、嘉吉年間(1441~1443)に再建されたという。
この寺に安置されている「観世音菩薩」を30年に一度、開帳して祭りを行っているのである。
このご本尊は近年一度盗難に遭ったが、その後知らぬ間に戻されていたという。
盗難されたときに複製したので、それを合わせると二体観音像はまつられていることになる。
我が家は今年は隣保長を務めており、この大祭のために色々と手伝わねばならなくなった。
この大祭に合わせて、昨年から中野の各家から寄進を毎月募って、お寺の改修工事を行ったりしていた。
そして、今回の開帳祭りでは、法要の後で稚児行列が行われ、その後餅投げ、昼食会、余興というプログラムが予定されていた。
法要に関しては、本来はこの寺は禅宗だったそうだが、近隣では禅宗寺が殆どないので、近隣の浄土真宗の寺の住職が4人で勤めることになった。
稚児行列の参加を募ったが、当初は集まりが悪かったが、親戚縁者を辿ってなんとか数は集まった。
一番困ったのは、昼食会での振る舞いで、村は二つの字に分かれているが、我が家の属する上中野も、下中野の「やきそば」のように何か作らねばならない。
結局、JAに勤めている役員が唐揚げを作ろうと提案して、フライヤーもJAから借りることになった。
大祭前の金曜日から、家内は仕事を休んで持ち作りの手伝いに行った。
全部で90kgある餅米を搗いて丸めるのに、手が真っ赤になったと言って戻ってきた。
次の土曜日も、その餅の袋詰めの手伝いに出て行った。
そして、赤飯と餅が各家に前日には配られた。
私は大祭当日に、唐揚げの手伝いとして参加することにしていた。
3日とも家内にやってもらうのは、負担が重いと思ったからだ。
本来は、隣保長の男性は法要や稚児行列にも、式服を着て参列しなくてはならない。
しかし、私は唐揚げ準備にかこつけて普段着で参加し、式典には加わらなかった。
そして、準備をしながら気楽に眺めて、携帯電話で写真を撮っていた。
午前から用意した唐揚げも、昼食時にはすぐに無くなってしまった。
私は振る舞われた、ちらし寿司や久しぶりの本物のビールを飲みながら、ゆっくりできた。
余興が始まり、近くの公民館で練習しているフラダンスチームが、踊りを披露してくれた。
仏教関連の大祭にフラダンスとは、少し違和感を感じたが、結構皆さん上手で、観客も見入っていた。
そして、子供会から余興は、荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」の盆踊り版である。
これも自治会長さんなども参加して、微笑ましく感じられた。
最後はお決まりのビンゴゲーム、これがやたら長く続いた。
そして、終わって私たち役員の男性は片付けに入った。
こうして、30年に一度の大祭は幕を閉じることになった。
おそらく、30年後には私はこの世にはいないだろう。
村の人にとっても、30年に一度の機会なのだから、もっと集まってきても良さそうにも思えた。
ただ、私はたまたま隣保長になっていたから、参加したのであって。
もし、そうでなかったら参加していなかっただろうと思う。
そうは言いながら、観音さんには何か困ったりしたら、お参りに行ったりする。
正月も欠かさず、お参りに行く。
ひっそりしたお寺は、それなりに心のよりどころになっているのである。
大祭は寄付を募って修繕する口実でもあるので、お寺を維持するためには欠かせない。
こうして何百年もお寺は守られてきたのだろう。
時代の流れが速い今だからこそ、こういうお寺の価値を見直すべきかもしれない。
「観音さん」正式な寺の名前としては、「宝重寺」といい、弓削道鏡が神護景雲の頃(767~769)に建立されたという。
その後荒廃したものを、嘉吉年間(1441~1443)に再建されたという。
この寺に安置されている「観世音菩薩」を30年に一度、開帳して祭りを行っているのである。
このご本尊は近年一度盗難に遭ったが、その後知らぬ間に戻されていたという。
盗難されたときに複製したので、それを合わせると二体観音像はまつられていることになる。
我が家は今年は隣保長を務めており、この大祭のために色々と手伝わねばならなくなった。
この大祭に合わせて、昨年から中野の各家から寄進を毎月募って、お寺の改修工事を行ったりしていた。
そして、今回の開帳祭りでは、法要の後で稚児行列が行われ、その後餅投げ、昼食会、余興というプログラムが予定されていた。
法要に関しては、本来はこの寺は禅宗だったそうだが、近隣では禅宗寺が殆どないので、近隣の浄土真宗の寺の住職が4人で勤めることになった。
稚児行列の参加を募ったが、当初は集まりが悪かったが、親戚縁者を辿ってなんとか数は集まった。
一番困ったのは、昼食会での振る舞いで、村は二つの字に分かれているが、我が家の属する上中野も、下中野の「やきそば」のように何か作らねばならない。
結局、JAに勤めている役員が唐揚げを作ろうと提案して、フライヤーもJAから借りることになった。
大祭前の金曜日から、家内は仕事を休んで持ち作りの手伝いに行った。
全部で90kgある餅米を搗いて丸めるのに、手が真っ赤になったと言って戻ってきた。
次の土曜日も、その餅の袋詰めの手伝いに出て行った。
そして、赤飯と餅が各家に前日には配られた。
私は大祭当日に、唐揚げの手伝いとして参加することにしていた。
3日とも家内にやってもらうのは、負担が重いと思ったからだ。
本来は、隣保長の男性は法要や稚児行列にも、式服を着て参列しなくてはならない。
しかし、私は唐揚げ準備にかこつけて普段着で参加し、式典には加わらなかった。
そして、準備をしながら気楽に眺めて、携帯電話で写真を撮っていた。
公民館での法要 |
稚児行列 |
宝重寺での法要 |
餅まき |
私は振る舞われた、ちらし寿司や久しぶりの本物のビールを飲みながら、ゆっくりできた。
余興が始まり、近くの公民館で練習しているフラダンスチームが、踊りを披露してくれた。
仏教関連の大祭にフラダンスとは、少し違和感を感じたが、結構皆さん上手で、観客も見入っていた。
そして、子供会から余興は、荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」の盆踊り版である。
これも自治会長さんなども参加して、微笑ましく感じられた。
最後はお決まりのビンゴゲーム、これがやたら長く続いた。
そして、終わって私たち役員の男性は片付けに入った。
こうして、30年に一度の大祭は幕を閉じることになった。
おそらく、30年後には私はこの世にはいないだろう。
村の人にとっても、30年に一度の機会なのだから、もっと集まってきても良さそうにも思えた。
ただ、私はたまたま隣保長になっていたから、参加したのであって。
もし、そうでなかったら参加していなかっただろうと思う。
そうは言いながら、観音さんには何か困ったりしたら、お参りに行ったりする。
正月も欠かさず、お参りに行く。
ひっそりしたお寺は、それなりに心のよりどころになっているのである。
大祭は寄付を募って修繕する口実でもあるので、お寺を維持するためには欠かせない。
こうして何百年もお寺は守られてきたのだろう。
時代の流れが速い今だからこそ、こういうお寺の価値を見直すべきかもしれない。
2018年11月13日火曜日
さらばLet's note ようこそEndeavor
突然のことだった。
いつ壊れても不思議はないと思っていたが、突然「プツッ」と音がして、画面が消えた。
その前にACアダプターが壊れて、別のボルトが高いもので充電していたのが悪かったのだろうか。
CF-R5のドライブがないもので、12年ほど前に当時大学生協で15万円ほどした。
一度動かなくなり、初期化して復活した。
数年ほど前からフリーズすることが多くなり、無理な使い方はしていなかった。
家では画面が小さいので大きなディスプレイにつないで使ったりしたが、職場に持って行って使うのには便利だった。
買った当初はプロジェクターを使った授業でずっと使っていた。
暑い教室でハードディスクが壊れてしまったこともあった。
兵庫教育大に長期研修に行っていたときも、教室や図書室でよく使った。
そして、奄美の与路島や鹿児島なのに調査に行ったときも、ずいぶん役に立った。
私にとって一番思い出深いパソコンといえるだろう。
近年調子が悪くても使い続けていたのは、OCRの「読んでココ」をどうしても使いたかったからだ。
「読んでココ」はXP以外ではうまく動かなかったので、ネットが使えなくなっても使い続けた。
Win10になってスムーズに動き出したので、最近は最新機の補助として使っていた。
壊れてしまってから、Let's noteの後継機を探したが、結局EndeavorのNA513Eというポータブルなノートパソコンを買った。
今回はボーナスセールということで、特価品が出ていたからだ。
これよりも高機能で安いパソコンは他のメーカーにあったが、信頼性を重視した。
私は以前にはデスクトップのEndeavorやEdicubeをずっと家で仕事用に使っていたからだ。
子供や家内が使い出したので、家庭用はNECや富士通の製品を使うようになっていた。
注文した後で、Youtubeで1万円の中古のLet's noteをチューンアップしているのを見て、自分もすればよかったかとも思った。
今後、場合によって職場で使うのに、高性能の中古の安いパソコンを改造する手もあると思った。
今回のNA513EはCore i5-7200ではあるが、SSDを使っているので軽快だ。
家庭用に買った富士通がi7の最新鋭を使っていたのに、非常に重かったのとは大違いである。
画面も13.3型ながら、以前のLet's noteのように不自由は感じない。
外付けのハードディスクの読み取りや書き込みが、富士通のパソコンは悪かったのだが、それもだいぶましになっている。
ディスクドライブも、滅多に使わないので外付けの安いのを買った。
Let's noteとは12年のお付き合いだったが、今度は何年お付き合いできるだろうか。
考えてみれば以前うちで飼っていた犬も、12年ほどで亡くなってしまったので、同じような寿命といえる。
ドッグイヤーという言葉は、最新のパソコンの世界では通用しないが、私には十分通用する。
ましてや「読んでココ」などは、よほどいいのが出ない限り、一生使い続けるだろう。
これからは良いものを、上手に再利用していくのが身の程に合っていると思っている。
いつ壊れても不思議はないと思っていたが、突然「プツッ」と音がして、画面が消えた。
その前にACアダプターが壊れて、別のボルトが高いもので充電していたのが悪かったのだろうか。
CF-R5のドライブがないもので、12年ほど前に当時大学生協で15万円ほどした。
一度動かなくなり、初期化して復活した。
数年ほど前からフリーズすることが多くなり、無理な使い方はしていなかった。
家では画面が小さいので大きなディスプレイにつないで使ったりしたが、職場に持って行って使うのには便利だった。
買った当初はプロジェクターを使った授業でずっと使っていた。
暑い教室でハードディスクが壊れてしまったこともあった。
兵庫教育大に長期研修に行っていたときも、教室や図書室でよく使った。
そして、奄美の与路島や鹿児島なのに調査に行ったときも、ずいぶん役に立った。
私にとって一番思い出深いパソコンといえるだろう。
「読んでココ」はXP以外ではうまく動かなかったので、ネットが使えなくなっても使い続けた。
Win10になってスムーズに動き出したので、最近は最新機の補助として使っていた。
壊れてしまってから、Let's noteの後継機を探したが、結局EndeavorのNA513Eというポータブルなノートパソコンを買った。
今回はボーナスセールということで、特価品が出ていたからだ。
これよりも高機能で安いパソコンは他のメーカーにあったが、信頼性を重視した。
私は以前にはデスクトップのEndeavorやEdicubeをずっと家で仕事用に使っていたからだ。
子供や家内が使い出したので、家庭用はNECや富士通の製品を使うようになっていた。
注文した後で、Youtubeで1万円の中古のLet's noteをチューンアップしているのを見て、自分もすればよかったかとも思った。
今後、場合によって職場で使うのに、高性能の中古の安いパソコンを改造する手もあると思った。
今回のNA513EはCore i5-7200ではあるが、SSDを使っているので軽快だ。
家庭用に買った富士通がi7の最新鋭を使っていたのに、非常に重かったのとは大違いである。
画面も13.3型ながら、以前のLet's noteのように不自由は感じない。
外付けのハードディスクの読み取りや書き込みが、富士通のパソコンは悪かったのだが、それもだいぶましになっている。
ディスクドライブも、滅多に使わないので外付けの安いのを買った。
Let's noteとは12年のお付き合いだったが、今度は何年お付き合いできるだろうか。
考えてみれば以前うちで飼っていた犬も、12年ほどで亡くなってしまったので、同じような寿命といえる。
ドッグイヤーという言葉は、最新のパソコンの世界では通用しないが、私には十分通用する。
ましてや「読んでココ」などは、よほどいいのが出ない限り、一生使い続けるだろう。
これからは良いものを、上手に再利用していくのが身の程に合っていると思っている。
2018年11月10日土曜日
白衣の転師
私はかつて龍野実業高校で白衣を着て以来、冬場は白衣を着ることが多かった。
一番の理由は、白衣を着ていると、下に着る服装は隠れるので、割と自由に服が選べたことである。
次に、白衣を着ているのは、医療関係や理系の研究者の人が多いので、インテリぽく見える。
そして、生地は薄いのであるが、膝まであるコートなので、意外と暖かいのである。
冬場の体育館での行事では、この白衣が威力を発揮した。
理科の教師でも無い自分が、白衣を抵抗なく着られるのは、母校の淳心では教師が科目に関係なく着ている人が多かったことにもよる。
私は滅多にチョークは用いないが、チョークの粉で服が汚れるので、着ていたのだろうと思う。
理科以外の人で白衣を着る人は、大抵はスーツなどがチョークで汚れるのを嫌うからだと思う。
私は、チョークを使わないし、スーツなどは特別な時にしか着ないので目的は違う。
生徒から「なんで、理科の先生や無いのに、白衣着るん?」とよく聞かれる。
その時は、「私は白衣の天使やから」と冗談でまず返すのだが、たいていは白けられる。
そこで、「偉い先生そうに見えるやろ?」と付け加えておく。
私は以前にも書いたが、普段は体育の教師によく間違えられる、職業高校では作業服をきていると職業科の先生に間違えられる。
私は家では農作業を昔から続けてきているので、体育科や職業科の教師よりも色が黒い。
せめて学校では座学中心の教科の教師として、「ホワイトカラー」(時にブルーカラー
になる)で通したいわけである。
しかし、夏場は白衣は暑くて切られないし、水泳部の顧問をしているときは、誰よりも黒かった。
所詮、私は冬場だけの「ホワイトカラー」であった。
今回、再び教壇に立つことになり、寒くなるにつれて白衣が欲しくなった。
家内に聞くと、もういらないと思って退職したときに全て捨てたという。
私は、白衣を大切に4着くらい持っていて、黒ずんだ物は家内に頼んで藍色に染めてもらっていた。
ムラになって染め上がった白衣(青衣)は、意外と評判が良くて気に入っていた。
私にはまだまだ着られると思っていた物もあったのに、残念だった。
しかし、やはり白衣は捨てがたい、ネットで探して1着1700円ほどの物を2着買ってもらった。
以前、学校の生協でも3000円ほどしたのだから、ネットで買えば安いものである。
これでかつての自分らしさを取り戻せる。
実は、今の職場の若い男性教師は、職業科の人以外、体育科を含めてスーツにネクタイという人が多い。
これで何とか少しは体裁を繕うことができそうである。
私は、転々と学校をかわったり、今回のように退職してまた復職する転勤、転職教師である。
これからは、「転師」という字を「天使」にもじって使わねばならないだろう。
まさしく、転んでばかりの教師である・・・・Like a rolling stone?!
一番の理由は、白衣を着ていると、下に着る服装は隠れるので、割と自由に服が選べたことである。
次に、白衣を着ているのは、医療関係や理系の研究者の人が多いので、インテリぽく見える。
そして、生地は薄いのであるが、膝まであるコートなので、意外と暖かいのである。
冬場の体育館での行事では、この白衣が威力を発揮した。
理科の教師でも無い自分が、白衣を抵抗なく着られるのは、母校の淳心では教師が科目に関係なく着ている人が多かったことにもよる。
私は滅多にチョークは用いないが、チョークの粉で服が汚れるので、着ていたのだろうと思う。
理科以外の人で白衣を着る人は、大抵はスーツなどがチョークで汚れるのを嫌うからだと思う。
私は、チョークを使わないし、スーツなどは特別な時にしか着ないので目的は違う。
生徒から「なんで、理科の先生や無いのに、白衣着るん?」とよく聞かれる。
その時は、「私は白衣の天使やから」と冗談でまず返すのだが、たいていは白けられる。
そこで、「偉い先生そうに見えるやろ?」と付け加えておく。
私は以前にも書いたが、普段は体育の教師によく間違えられる、職業高校では作業服をきていると職業科の先生に間違えられる。
私は家では農作業を昔から続けてきているので、体育科や職業科の教師よりも色が黒い。
せめて学校では座学中心の教科の教師として、「ホワイトカラー」(時にブルーカラー
になる)で通したいわけである。
しかし、夏場は白衣は暑くて切られないし、水泳部の顧問をしているときは、誰よりも黒かった。
所詮、私は冬場だけの「ホワイトカラー」であった。
今回、再び教壇に立つことになり、寒くなるにつれて白衣が欲しくなった。
家内に聞くと、もういらないと思って退職したときに全て捨てたという。
私は、白衣を大切に4着くらい持っていて、黒ずんだ物は家内に頼んで藍色に染めてもらっていた。
ムラになって染め上がった白衣(青衣)は、意外と評判が良くて気に入っていた。
私にはまだまだ着られると思っていた物もあったのに、残念だった。
しかし、やはり白衣は捨てがたい、ネットで探して1着1700円ほどの物を2着買ってもらった。
以前、学校の生協でも3000円ほどしたのだから、ネットで買えば安いものである。
これでかつての自分らしさを取り戻せる。
実は、今の職場の若い男性教師は、職業科の人以外、体育科を含めてスーツにネクタイという人が多い。
これで何とか少しは体裁を繕うことができそうである。
私は、転々と学校をかわったり、今回のように退職してまた復職する転勤、転職教師である。
これからは、「転師」という字を「天使」にもじって使わねばならないだろう。
まさしく、転んでばかりの教師である・・・・Like a rolling stone?!
2018年11月7日水曜日
焼き栗と菊
3年生が沖縄に修学旅行に行くので、姫路のバスターミナルまで家内に運転してもらって見送りに行った。
何とか7時40分の出発まで間に合って見送った後、家内に迎えに来てもらってドライブに出かけた。
朝食はまだだったので、途中で喫茶店に入りモーニングを注文した。
家内と朝に喫茶店に入ってモーニングを食べた記憶が無いので、初めてのことだと思う。
当初は播磨清水寺の紅葉を見ようかと思っていたが、まだ色づいていた無いので篠山まで行くことにした。
篠山ではJAの直売所で買い物をしたが、生椎茸や生落花生など、そして思わず店頭で焼いている焼き栗を衝動買いした。
焼き栗は販売しているおばさんの話を聞いていると、地元産では無くて九州産だそうだ。
焼き栗の香りが車いっぱいに広がった。
この日(11/4)は篠山で駅伝の県大会があったので、渋滞を考えて引き返すことにした。
焼き栗は手が汚れると言って、スマホを使う家内は食べるのを敬遠したので直ぐには食べなかった。
途中で陶芸館に立ち寄って、加西のイオンタウンで昼食を取り、県立フラワーセンターに何年かぶりに行った。
フラワーセンターの近くはよく通るのだが、立ち寄ることが無かったのである。
まだ、11月4日では紅葉も進んでいなかったが、菊が見事に展示されていた。
温室の中で熱帯植物を観賞して、池を左回りで回っていった。
バラも少しは咲いていたが、貧相な感じはした。
噴水の傍のベンチで、しばらく休憩したが、子供が小さかった頃によく連れてきたことを思い出していた。
フラワーセンターは子供を連れて、自宅からはちょうどドライブして帰るのに手頃な距離だった。
家内も花が大好きなので、色んな季節の花を楽しみに訪れていた。
春の梅の咲く季節や、秋の葉の色づく頃に訪れた。
ここで買った人参ガジュマルも今では1m以上に大きくなっている。
子供と一緒に行った場所は多くあるが、今でも訪れようと思うところは少ない。
フラワーセンターは夫婦二人でも行こうと思う場所でもある。
行楽シーズンであるにもかかわらず、家族連れは少ない。
先ほど賑わっていたイオンタウンとは対照的である。
そういえば隣で食事をとっていた家族連れでは、幼い子供が手巻き寿司を「まずはマグロから」と言っていた。
弁当を持って、フラワーセンターで子供と一緒に食べたのとは大違いである。
花より団子ならぬ、紅葉よりマグロの時代なのであろう。
何とか7時40分の出発まで間に合って見送った後、家内に迎えに来てもらってドライブに出かけた。
朝食はまだだったので、途中で喫茶店に入りモーニングを注文した。
家内と朝に喫茶店に入ってモーニングを食べた記憶が無いので、初めてのことだと思う。
当初は播磨清水寺の紅葉を見ようかと思っていたが、まだ色づいていた無いので篠山まで行くことにした。
篠山ではJAの直売所で買い物をしたが、生椎茸や生落花生など、そして思わず店頭で焼いている焼き栗を衝動買いした。
焼き栗は販売しているおばさんの話を聞いていると、地元産では無くて九州産だそうだ。
焼き栗の香りが車いっぱいに広がった。
この日(11/4)は篠山で駅伝の県大会があったので、渋滞を考えて引き返すことにした。
焼き栗は手が汚れると言って、スマホを使う家内は食べるのを敬遠したので直ぐには食べなかった。
途中で陶芸館に立ち寄って、加西のイオンタウンで昼食を取り、県立フラワーセンターに何年かぶりに行った。
フラワーセンターの近くはよく通るのだが、立ち寄ることが無かったのである。
まだ、11月4日では紅葉も進んでいなかったが、菊が見事に展示されていた。
温室の中で熱帯植物を観賞して、池を左回りで回っていった。
バラも少しは咲いていたが、貧相な感じはした。
噴水の傍のベンチで、しばらく休憩したが、子供が小さかった頃によく連れてきたことを思い出していた。
フラワーセンターは子供を連れて、自宅からはちょうどドライブして帰るのに手頃な距離だった。
家内も花が大好きなので、色んな季節の花を楽しみに訪れていた。
春の梅の咲く季節や、秋の葉の色づく頃に訪れた。
ここで買った人参ガジュマルも今では1m以上に大きくなっている。
子供と一緒に行った場所は多くあるが、今でも訪れようと思うところは少ない。
フラワーセンターは夫婦二人でも行こうと思う場所でもある。
行楽シーズンであるにもかかわらず、家族連れは少ない。
先ほど賑わっていたイオンタウンとは対照的である。
そういえば隣で食事をとっていた家族連れでは、幼い子供が手巻き寿司を「まずはマグロから」と言っていた。
弁当を持って、フラワーセンターで子供と一緒に食べたのとは大違いである。
花より団子ならぬ、紅葉よりマグロの時代なのであろう。
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1995年11月12日 |
2018年11月3日土曜日
剣道とは腐れ縁
私は小学生の頃少年剣道団に入っていた。
小学生の頃は、何でもやりたくてカブスカウトにも入っていたし、ソロバンや習字も習っていた。
習字は直ぐにやめてしまったが、他はそれなりに続けていた。
ただ、剣道は当時指導者も殆どついておらず、自分らで勝手にしていた。
きちっと指導者がついたころになると、だんだんと重荷になってきた。
練習はあまりしない割に、試合はそこそこ強かったので、続けていただけである。
カブスカウトからボーイスカウトになり、忙しく日々を送っていたが、担任の先生の強い勧めで中学受験をすることになった。
剣道の練習をしていると、「そんなことをしている場合ではない」と、担任の先生から叱られた。
それほど、好きでもなかったので、剣道は止めたし、ボーイスカウトも活動する時間が無くなった。
中学に入ってから、しばらくは部活動はしていなかったが、思い立って剣道部に入った。
しかし、中高一貫校の部活は、高校生とも練習せねばならず、結構大変だった。
何とか夏休みの校内合宿は乗り切ったが、嫌になって止めてしまった。
それからしばらくして、ロックバンドの練習にのめり込んでいった。
大学に入ってからは、最初軽音楽部でロックバンドの練習に打ち込んだが、趣向があわずやめてしまった。
そこで、思い立って剣道部に入ったのだが、やはりまともに練習してこなかった者にとっては非常に負担となった。
ここでも夏休みの合宿は乗り切って、顧問からも筋が良いので続けるように言われたが、秋になるとやはりやめてしまった。
その後は、文化人類学研究会に入って、それがきっかけとなり研究を続けることになった。
教師になって、少しは指導できる運動部は剣道しかなかったので、赤穂で成人でも練習できる教室に通った。
そこでは全国で二位になった赤穂高校の女子部員も練習していたが、男性は小学生か成人だったので練習は厳しいものではなかった。
チームとして試合にも出て、グローリーとあたり、私は簡単に負けてしまった。
勝てなくても、負けない方法を知らない自分を実感させられた。
練習仲間で赤穂御崎の野外活動センターに泊まりに行ったりして楽しかった。
職場が変わって忙しくなってからは、通う余裕がなくなってしまった。
龍野実業ではしばらく剣道部の顧問をして、生徒と練習したがちゃんと指導できる顧問ではなかった。
剣道をきちっと練習してきた人と交代してもらって、私は音楽系統の副顧問などをした。
上郡高校でも当初は剣道部の副顧問をしていたが、全国出場を目指す部だったので、体育科の専門の顧問もいて出番はなかった。
若い顧問に代わって指導方針も違ったので、剣道部から水泳部の顧問に代わった。
それ以来、私は主に水泳部の顧問をして剣道部との縁はしばらくなくなった。
姫路特別支援学校では、授業の中で剣道を少ししたが、本格的ではなかった。
今回定時制で剣道部の副顧問をすることになり、他に教員の中で経験者がいないので一人の生徒の練習に付き合うことになった。
いい加減に保管していた防具は、ボロボロになっていて、小手を通販で買った。
胴紐の留め具は百円ショップのキーホルダーで代用したし、胴紐も肩の方は一本はつないでつかっている。
前回の練習では垂の帯紐までちぎれてしまった。
週二回の20分ほどの練習のために、多額の出費はきついので、これも修理することにしている。
剣道の練習そのものは、思った以上に身体は動いてくれた。
そして、竹刀も息子が高校時代に使っているが、高校生用を使っているので扱いやすい。
全日制の本格的な練習と違い、無理のない練習なのでやって行けそうにも思う。
生徒も昼間働いているので無理はあまりできないようだ。
昇段試験も受けにいったことも無く、いい加減な剣道しかしてこなかったので、生徒にはただの練習相手でしかない。
ただ、剣道をしていて楽しいと思ったことは無いけれど、今回は面白く感じる剣道をしてみたいと思っている。
小学生の頃は、何でもやりたくてカブスカウトにも入っていたし、ソロバンや習字も習っていた。
習字は直ぐにやめてしまったが、他はそれなりに続けていた。
ただ、剣道は当時指導者も殆どついておらず、自分らで勝手にしていた。
きちっと指導者がついたころになると、だんだんと重荷になってきた。
練習はあまりしない割に、試合はそこそこ強かったので、続けていただけである。
カブスカウトからボーイスカウトになり、忙しく日々を送っていたが、担任の先生の強い勧めで中学受験をすることになった。
剣道の練習をしていると、「そんなことをしている場合ではない」と、担任の先生から叱られた。
それほど、好きでもなかったので、剣道は止めたし、ボーイスカウトも活動する時間が無くなった。
中学に入ってから、しばらくは部活動はしていなかったが、思い立って剣道部に入った。
しかし、中高一貫校の部活は、高校生とも練習せねばならず、結構大変だった。
何とか夏休みの校内合宿は乗り切ったが、嫌になって止めてしまった。
それからしばらくして、ロックバンドの練習にのめり込んでいった。
大学に入ってからは、最初軽音楽部でロックバンドの練習に打ち込んだが、趣向があわずやめてしまった。
そこで、思い立って剣道部に入ったのだが、やはりまともに練習してこなかった者にとっては非常に負担となった。
ここでも夏休みの合宿は乗り切って、顧問からも筋が良いので続けるように言われたが、秋になるとやはりやめてしまった。
その後は、文化人類学研究会に入って、それがきっかけとなり研究を続けることになった。
教師になって、少しは指導できる運動部は剣道しかなかったので、赤穂で成人でも練習できる教室に通った。
そこでは全国で二位になった赤穂高校の女子部員も練習していたが、男性は小学生か成人だったので練習は厳しいものではなかった。
チームとして試合にも出て、グローリーとあたり、私は簡単に負けてしまった。
勝てなくても、負けない方法を知らない自分を実感させられた。
練習仲間で赤穂御崎の野外活動センターに泊まりに行ったりして楽しかった。
職場が変わって忙しくなってからは、通う余裕がなくなってしまった。
龍野実業ではしばらく剣道部の顧問をして、生徒と練習したがちゃんと指導できる顧問ではなかった。
剣道をきちっと練習してきた人と交代してもらって、私は音楽系統の副顧問などをした。
上郡高校でも当初は剣道部の副顧問をしていたが、全国出場を目指す部だったので、体育科の専門の顧問もいて出番はなかった。
若い顧問に代わって指導方針も違ったので、剣道部から水泳部の顧問に代わった。
それ以来、私は主に水泳部の顧問をして剣道部との縁はしばらくなくなった。
姫路特別支援学校では、授業の中で剣道を少ししたが、本格的ではなかった。
今回定時制で剣道部の副顧問をすることになり、他に教員の中で経験者がいないので一人の生徒の練習に付き合うことになった。
いい加減に保管していた防具は、ボロボロになっていて、小手を通販で買った。
胴紐の留め具は百円ショップのキーホルダーで代用したし、胴紐も肩の方は一本はつないでつかっている。
前回の練習では垂の帯紐までちぎれてしまった。
週二回の20分ほどの練習のために、多額の出費はきついので、これも修理することにしている。
剣道の練習そのものは、思った以上に身体は動いてくれた。
そして、竹刀も息子が高校時代に使っているが、高校生用を使っているので扱いやすい。
全日制の本格的な練習と違い、無理のない練習なのでやって行けそうにも思う。
生徒も昼間働いているので無理はあまりできないようだ。
昇段試験も受けにいったことも無く、いい加減な剣道しかしてこなかったので、生徒にはただの練習相手でしかない。
ただ、剣道をしていて楽しいと思ったことは無いけれど、今回は面白く感じる剣道をしてみたいと思っている。
2018年10月29日月曜日
10年ぶりの沖縄
この週末に甥の結婚式で沖縄に行くことになった。
沖縄は私たち夫婦にとっては、結婚式でもないと行くことの無かった遠い場所だ。
私は沖縄には一度兵庫教育大学のゼミ旅行で行っており、初めての場所ではなかった。
家内も大学時代のはるか昔に訪れていて、同じように初めての場所ではなかった。
二人とも忙しさにかまけて、ホテルは新郎の親である弟に任せ、飛行機のチケットも一ヶ月ほど前に格安便を買った。
飛行場は神戸空港を使い、車で朝の8時過ぎに出かけて、11時15分発に乗った。
レンタカーも神戸空港から家内が予約した。
途中で奄美大島が見えたので懐かしく思えた。
那覇空港では28℃の熱い中、レンタカーの送迎を長い間待つことになった。
待つ間、観光客の多さに圧倒されていた。
10年前に来た時のことはあまり憶えていなくて別世界に来た感じがした。
レンタカーに乗って、残波岬にある宿泊ホテルに向かった。
10年前は殆ど若い人に運転してもらったし、遠くまで行くときは沖縄自動車道を用いたので、これほど都会だとは思わなかった。
また途中での嘉手納基の広大さ、米軍関係のYナンバーの車の多さに、基地の島を実感させられていた。
そして残波岬付近まで来て、サトウキビ畑やサツマイモ畑を見てやっと沖縄らしい景色に出会えた。
ホテルを確認した後、うるま市のある海中道路に行くことにした。
ドライブも新興住宅街を走っている感じで、海岸の道路まで来てやっと沖縄らしく感じた。
海中道路も期待したほどのことはなかった。
昼食は機内で出されたキットカットとコーヒーだけだったので、途中コンビニに寄ってつまみとビールと泡盛を買った。
弟達がホテルに到着するまでの間、ホテルにチェックインした後、二人で先に飲んでいた。
弟らが到着して、一緒に焼き肉を食べたが、家内が焼き肉は苦手だったし、これといって沖縄らしい物はなかった。
翌日は式までに時間があるので、万座毛まで観光に行った。
中国人の観光客の多さには驚いた。
駐車場が足らなくて、何とか留められたが出るときにはすごい渋滞だった。
まだ、多くの観光客に対応できていないという感じだった。
再び残波岬の式場に戻って、挙式に参列した。
海の景色をバックの挙式は、抜群の演出で沖縄に来てまでやりたい気持ちは分かった。
私たち夫婦は帰りの飛行機の都合で、食事が済むと直ぐに退席してレンタカーを返しに那覇に向かった。
来る時は1時間で来れたが、渋滞して一時間半もかかりぎりぎりの時間となった。
那覇空港で出発時間までお土産を買ったりして時間をつぶした。
19時半出発は少し遅れ、神戸に着いたのは21時半だった。
空港コンビニで軽い食べ物を買い、駐車場で食べてから家路につき、戻ったら23時半だった。
こうして、一泊二日の結婚式の旅は終わった。
慌ただしい結婚式への参列で、しかも披露宴は食事をとっただけというものだった。
出不精の家内が35年ぶりに沖縄まで出かける機会にはなったのだから、悪くはなかったのかも知れない。
因みに家内は自分たちの新婚旅行以来、飛行機には乗っていなかった。
途中で、満月の月が昇り、その月を眺めながらの空の旅になった。
神戸空港に戻ってくる時は、とっぷり日が暮れて、町の明かりが目の前に展開していく。
いつもは、電車や車で通っているところを、上から眺められる経験は滅多にない経験だった。
慌ただしい沖縄旅行だったけれど、夫婦二人で新婚旅行以来初めてできた二人だけの宿泊旅行だった。
沖縄は私たち夫婦にとっては、結婚式でもないと行くことの無かった遠い場所だ。
私は沖縄には一度兵庫教育大学のゼミ旅行で行っており、初めての場所ではなかった。
家内も大学時代のはるか昔に訪れていて、同じように初めての場所ではなかった。
二人とも忙しさにかまけて、ホテルは新郎の親である弟に任せ、飛行機のチケットも一ヶ月ほど前に格安便を買った。
飛行場は神戸空港を使い、車で朝の8時過ぎに出かけて、11時15分発に乗った。
レンタカーも神戸空港から家内が予約した。
途中で奄美大島が見えたので懐かしく思えた。
那覇空港では28℃の熱い中、レンタカーの送迎を長い間待つことになった。
待つ間、観光客の多さに圧倒されていた。
10年前に来た時のことはあまり憶えていなくて別世界に来た感じがした。
レンタカーに乗って、残波岬にある宿泊ホテルに向かった。
10年前は殆ど若い人に運転してもらったし、遠くまで行くときは沖縄自動車道を用いたので、これほど都会だとは思わなかった。
また途中での嘉手納基の広大さ、米軍関係のYナンバーの車の多さに、基地の島を実感させられていた。
そして残波岬付近まで来て、サトウキビ畑やサツマイモ畑を見てやっと沖縄らしい景色に出会えた。
ホテルを確認した後、うるま市のある海中道路に行くことにした。
ドライブも新興住宅街を走っている感じで、海岸の道路まで来てやっと沖縄らしく感じた。
海中道路も期待したほどのことはなかった。
昼食は機内で出されたキットカットとコーヒーだけだったので、途中コンビニに寄ってつまみとビールと泡盛を買った。
弟達がホテルに到着するまでの間、ホテルにチェックインした後、二人で先に飲んでいた。
弟らが到着して、一緒に焼き肉を食べたが、家内が焼き肉は苦手だったし、これといって沖縄らしい物はなかった。
翌日は式までに時間があるので、万座毛まで観光に行った。
中国人の観光客の多さには驚いた。
駐車場が足らなくて、何とか留められたが出るときにはすごい渋滞だった。
まだ、多くの観光客に対応できていないという感じだった。
再び残波岬の式場に戻って、挙式に参列した。
私たち夫婦は帰りの飛行機の都合で、食事が済むと直ぐに退席してレンタカーを返しに那覇に向かった。
来る時は1時間で来れたが、渋滞して一時間半もかかりぎりぎりの時間となった。
那覇空港で出発時間までお土産を買ったりして時間をつぶした。
19時半出発は少し遅れ、神戸に着いたのは21時半だった。
空港コンビニで軽い食べ物を買い、駐車場で食べてから家路につき、戻ったら23時半だった。
こうして、一泊二日の結婚式の旅は終わった。
慌ただしい結婚式への参列で、しかも披露宴は食事をとっただけというものだった。
出不精の家内が35年ぶりに沖縄まで出かける機会にはなったのだから、悪くはなかったのかも知れない。
因みに家内は自分たちの新婚旅行以来、飛行機には乗っていなかった。
途中で、満月の月が昇り、その月を眺めながらの空の旅になった。
神戸空港に戻ってくる時は、とっぷり日が暮れて、町の明かりが目の前に展開していく。
いつもは、電車や車で通っているところを、上から眺められる経験は滅多にない経験だった。
慌ただしい沖縄旅行だったけれど、夫婦二人で新婚旅行以来初めてできた二人だけの宿泊旅行だった。
2018年10月15日月曜日
咳と鼻水からの回復
昨日(10/14)朝の健康番組で咳を特集していた。
咳の種類には色々あり、命に関わる咳もあることが分かった。
私もつい最近まで咳と鼻水に苦しめられ続けていた。
8月に母親が入院して、その付き添いで一晩病室にいたら、クーラーで風邪を引いてしまっていた。
それから、私はスイミングスクールでの仕事を9月末まで続けた。
一日、4時間以上プールに入る日が、週に5日続いた。
時には熱があると分かりながらも入らねばならず、帰宅後は焼酎のお湯割りを飲んで眠るしかなかった。
微熱はずっと続いていて、咳も酷いときには食後や夜中に出続けた。
病院ではレントゲンもとったが、アレルギーだろうとその薬を処方してくれた。
しかし、咳止めの薬を飲んでも、肺への吸入薬を使ってもいっこうに治らなかった。
市販の咳止め薬(アネトン)が家内は効くというので試してみたが、一時的にはおさまっても根本的に解消はしない。
龍角散や蜂蜜も試してみたが、咳と痰、鼻水は続いた。
しかし、スイミングスクールの仕事を辞めて、定時制高校の臨時講師を始めて2週間、それらは殆どおさまった。
要するに、プールでの仕事が私の身体には合っていなかったのである。
ベテランのコーチも歳を「とってやる仕事ではない」とはっきり言っていた。
その人も腰を患っていて、プールに入る時間は3時間程度に抑えていた。
水に入る仕事に身体は慣れると言われたが、60歳前の私には無理だったようだ。
女性コーチが体調を壊すのを知っていはいたが、男性とても歳をとれば同じである。
プールは確かに、暖房で温められているが、室内には消毒用の塩素が気化して漂っている。
そもそも、水温30℃は夏場は良いが、秋から冬では身体を冷やすことになる。
この仕事をずいぶん甘く見ていたようだ。
水泳部の顧問のように、2時間ほど生徒と一緒に泳ぐのとは大違いであった。
プロの厳しさを思い知らされた。
咳の種類には色々あり、命に関わる咳もあることが分かった。
私もつい最近まで咳と鼻水に苦しめられ続けていた。
8月に母親が入院して、その付き添いで一晩病室にいたら、クーラーで風邪を引いてしまっていた。
それから、私はスイミングスクールでの仕事を9月末まで続けた。
一日、4時間以上プールに入る日が、週に5日続いた。
時には熱があると分かりながらも入らねばならず、帰宅後は焼酎のお湯割りを飲んで眠るしかなかった。
微熱はずっと続いていて、咳も酷いときには食後や夜中に出続けた。
病院ではレントゲンもとったが、アレルギーだろうとその薬を処方してくれた。
しかし、咳止めの薬を飲んでも、肺への吸入薬を使ってもいっこうに治らなかった。
市販の咳止め薬(アネトン)が家内は効くというので試してみたが、一時的にはおさまっても根本的に解消はしない。
龍角散や蜂蜜も試してみたが、咳と痰、鼻水は続いた。
しかし、スイミングスクールの仕事を辞めて、定時制高校の臨時講師を始めて2週間、それらは殆どおさまった。
要するに、プールでの仕事が私の身体には合っていなかったのである。
ベテランのコーチも歳を「とってやる仕事ではない」とはっきり言っていた。
その人も腰を患っていて、プールに入る時間は3時間程度に抑えていた。
水に入る仕事に身体は慣れると言われたが、60歳前の私には無理だったようだ。
女性コーチが体調を壊すのを知っていはいたが、男性とても歳をとれば同じである。
プールは確かに、暖房で温められているが、室内には消毒用の塩素が気化して漂っている。
そもそも、水温30℃は夏場は良いが、秋から冬では身体を冷やすことになる。
この仕事をずいぶん甘く見ていたようだ。
水泳部の顧問のように、2時間ほど生徒と一緒に泳ぐのとは大違いであった。
プロの厳しさを思い知らされた。
2018年10月12日金曜日
兵庫教育大学への通学路
私はかつて兵庫教育大学大学院に長期研修として2年間通っていた。
上郡の自宅から片道80kmほどで、一時間半以上の時間がかかった。
当初は姫路バイパスの姫路東ICを降りて、国道372号をつかったり、急ぐ時は山陽自動車道の三木小野ICで降りて国道175号を使ったりした。
しかし、距離はあるが渋滞のない、福崎経由で通うことが多くなった。
これは、龍野から林田、安富を経由して、中国自動車沿いの道を社町まで行くルートである。
殆どが谷間の道となり、川沿いの道やいくつかの峠を越えて風景は抜群に良かった。
川沿いの道では林田川沿いの国道29号線が一番気に入っていた。
山間の道では安富から加西までは中国縦貫道沿いの県道23号は、峠から町の景色が見えたり、桜並木がきれいだった。
加西から社までの道は、まるっきり風景が変わった。
もともと、このあたりはかつては湖底だったということで、広大な平地になっている。
かつて、大学院の授業でこの平地の断層を、航空写真を使って調べたことがある。
とにかく、この近辺ではあまり目にすることができない光景で、私のお気に入りの景色である。
兵庫教育大学は連なった丘の上にあり、その低い丘には他にも県立嬉野台生涯教育センターやゴルフ場があり、やしろの森公園もある。
私は自転車を持ち込んで、この丘を巡って楽しんだ。
大学は丘の森に囲まれており、晴れた日は弁当などはその森の中で食べたりした。
同じゼミの楽しみ合宿では、やしろ鴨川の里に泊まり、こんだ薬師温泉の里でゆっくり湯に浸かった。
他にも東条湖ランドがあるが、ここは生徒引率で行ったり、子供が小さい頃に子供会から行ったりした。
ここも自転車で回ったが、結構坂がきつかった。
最近は家内と二人で訪れようと思う施設はないので、ここは通り過ぎて猪名川の蕎麦を食べに行っている。
また、正月には播磨清水寺に参拝したが、紅葉の季節も行ってみたいと思っている。
自宅からは少々遠い場所だが、同じ播磨にあっても全く違う世界を感じさせてくれるお勧めの場所である。
上郡の自宅から片道80kmほどで、一時間半以上の時間がかかった。
当初は姫路バイパスの姫路東ICを降りて、国道372号をつかったり、急ぐ時は山陽自動車道の三木小野ICで降りて国道175号を使ったりした。
しかし、距離はあるが渋滞のない、福崎経由で通うことが多くなった。
これは、龍野から林田、安富を経由して、中国自動車沿いの道を社町まで行くルートである。
殆どが谷間の道となり、川沿いの道やいくつかの峠を越えて風景は抜群に良かった。
川沿いの道では林田川沿いの国道29号線が一番気に入っていた。
山間の道では安富から加西までは中国縦貫道沿いの県道23号は、峠から町の景色が見えたり、桜並木がきれいだった。
加西から社までの道は、まるっきり風景が変わった。
もともと、このあたりはかつては湖底だったということで、広大な平地になっている。
かつて、大学院の授業でこの平地の断層を、航空写真を使って調べたことがある。
とにかく、この近辺ではあまり目にすることができない光景で、私のお気に入りの景色である。
兵庫教育大学は連なった丘の上にあり、その低い丘には他にも県立嬉野台生涯教育センターやゴルフ場があり、やしろの森公園もある。
私は自転車を持ち込んで、この丘を巡って楽しんだ。
大学は丘の森に囲まれており、晴れた日は弁当などはその森の中で食べたりした。
同じゼミの楽しみ合宿では、やしろ鴨川の里に泊まり、こんだ薬師温泉の里でゆっくり湯に浸かった。
他にも東条湖ランドがあるが、ここは生徒引率で行ったり、子供が小さい頃に子供会から行ったりした。
ここも自転車で回ったが、結構坂がきつかった。
最近は家内と二人で訪れようと思う施設はないので、ここは通り過ぎて猪名川の蕎麦を食べに行っている。
また、正月には播磨清水寺に参拝したが、紅葉の季節も行ってみたいと思っている。
自宅からは少々遠い場所だが、同じ播磨にあっても全く違う世界を感じさせてくれるお勧めの場所である。
2018年10月9日火曜日
暦通りの休み
私は早期退職以来、暦通りの休みで過ごしていなかった。
閑谷学校に勤める前は、家内の言うところの盆と正月の日々と言えるのかも知れないが、自分の生活としては平日と休日の区別はつけづらかった。
閑谷学校では、研修センターが年末年始以外は閉館することが無かったので、センターのシフトによる勤務であった。
土日にも利用者がいたが、学校等からの電話が無かったので、事務仕事は少なかった。
だから、ベテランの事務職員は電話が少ないだけ、仕事がはかどるから却って楽だと言っていた。
私は長年暦通りの生活をしていたが、学校によってはクラブ指導で土曜日は出勤することが多かった。
休日の仕事は特別な行事や、クラブの競技会などであった。
ただ、当時は年度末の入試業務が休日になることが多かったので、代休にもクラブ指導等で出勤する教師にとっては休日はなかった。
だから、休日は暦通りにはとれないにしろ、閑谷学校では休日はそれなりにとれてはいた。
上郡のスポーツセンターは基本月曜日が休みであった。
私は土曜の午前と、日曜日は勤務を外してもらっていた。
2ヶ月半しかアルバイトをしていなかったので、その期間の祝日は月曜に限られていた。
そして、その日は火曜日と振り替えの勤務となった。
だから、7月から9月までの土日月の三連休は無かった。
月曜日が祝日の日は出勤して、火曜日が休みとなった。
だから、夫婦で休日があうのは日曜日のみとなっていた。
自分は教師をしていた頃は、暦通りというのが当たり前だったが、身近な人にはそうで無い人が多いとあらためて気がついた。
まず、老人介護施設に働いている息子がそうであるし、会社の警備・施設管理の仕事をしている弟などがそうである。
弟夫婦は弟の妻も暦通りの休日では無いので、夫婦の休日が合うことがあまりないという。
閑谷学校では、土日の両方とも出勤というのは無かったので、土日のどちらかは、暦通りの勤務の家内と休日は一緒にはなっていた。
今回、再び暦通りの仕事に戻って、久しぶりに夫婦でドライブに出かけた。
休日は普段やれないことをするので、今回のように3連休で無いと、遠出する気分的な余裕が無い。
私はこの3連休は土曜日は畑仕事、日曜日は村の神社の仕事をしていた。
普段の休日はちょっとした買い物に夫婦で出かけられても、今日(10/8)のようにドライブがてら猪名川まで蕎麦を食べに行くことは無かった。
ドライブで遠出して気分転換ができたので、暦通りに休みが取れるありがたみを改めて感じた。
世の中には暦通りに休みが取れない人が多くいると思うけれど、どのように家族と過ごしているのかと思う。
本来休日は家族や友人や仲間と一緒に過ごせる日だと思うが、それがなかなか難しい人も多いと思う。
そして、完全に退職して暦に縛られる生活が送れるようになった時には、一緒に楽しく過ごせる相手を失っている場合もある。
暦通りの生活ができる今を大切に生きていく価値を考えさせられた。
閑谷学校に勤める前は、家内の言うところの盆と正月の日々と言えるのかも知れないが、自分の生活としては平日と休日の区別はつけづらかった。
閑谷学校では、研修センターが年末年始以外は閉館することが無かったので、センターのシフトによる勤務であった。
土日にも利用者がいたが、学校等からの電話が無かったので、事務仕事は少なかった。
だから、ベテランの事務職員は電話が少ないだけ、仕事がはかどるから却って楽だと言っていた。
私は長年暦通りの生活をしていたが、学校によってはクラブ指導で土曜日は出勤することが多かった。
休日の仕事は特別な行事や、クラブの競技会などであった。
ただ、当時は年度末の入試業務が休日になることが多かったので、代休にもクラブ指導等で出勤する教師にとっては休日はなかった。
だから、休日は暦通りにはとれないにしろ、閑谷学校では休日はそれなりにとれてはいた。
上郡のスポーツセンターは基本月曜日が休みであった。
私は土曜の午前と、日曜日は勤務を外してもらっていた。
2ヶ月半しかアルバイトをしていなかったので、その期間の祝日は月曜に限られていた。
そして、その日は火曜日と振り替えの勤務となった。
だから、7月から9月までの土日月の三連休は無かった。
月曜日が祝日の日は出勤して、火曜日が休みとなった。
だから、夫婦で休日があうのは日曜日のみとなっていた。
自分は教師をしていた頃は、暦通りというのが当たり前だったが、身近な人にはそうで無い人が多いとあらためて気がついた。
まず、老人介護施設に働いている息子がそうであるし、会社の警備・施設管理の仕事をしている弟などがそうである。
弟夫婦は弟の妻も暦通りの休日では無いので、夫婦の休日が合うことがあまりないという。
閑谷学校では、土日の両方とも出勤というのは無かったので、土日のどちらかは、暦通りの勤務の家内と休日は一緒にはなっていた。
今回、再び暦通りの仕事に戻って、久しぶりに夫婦でドライブに出かけた。
休日は普段やれないことをするので、今回のように3連休で無いと、遠出する気分的な余裕が無い。
私はこの3連休は土曜日は畑仕事、日曜日は村の神社の仕事をしていた。
普段の休日はちょっとした買い物に夫婦で出かけられても、今日(10/8)のようにドライブがてら猪名川まで蕎麦を食べに行くことは無かった。
ドライブで遠出して気分転換ができたので、暦通りに休みが取れるありがたみを改めて感じた。
世の中には暦通りに休みが取れない人が多くいると思うけれど、どのように家族と過ごしているのかと思う。
本来休日は家族や友人や仲間と一緒に過ごせる日だと思うが、それがなかなか難しい人も多いと思う。
そして、完全に退職して暦に縛られる生活が送れるようになった時には、一緒に楽しく過ごせる相手を失っている場合もある。
暦通りの生活ができる今を大切に生きていく価値を考えさせられた。
2018年10月4日木曜日
久しぶりの教壇
この10月1日から再び縁があって教壇に立つことになった。
近隣の定時制の高校で、学期の途中から授業を受け持つことになった。
肩書きは「臨時講師」ということで、いままで書いてきた「教諭」とは違うというのを実感した。
その学校の全日制にはかつて一緒に仕事をした人が多くいて、誰もが年齢を感じさせてくれた。
そして、それなりの役職に就いていて、重責を担っていることが察せられた。
早期退職して1年半、その間に社会教育指導員や水泳のインストラクターを務めたが、どれも初めての経験で慣れるのに苦労した。
それに対して、定時制の仕事は1年とは言え、経験があるのでそれほどの戸惑いはない。
前回は帰宅後に夕食を食べて、糖尿病を悪化させてしまった。
今回は、弁当を持っていって、夕食を職場でとっている。
帰宅後は軽く晩酌をする程度にすませている。
我々のような年齢の者にとって、定時制で一番難しいのは健康管理である。
元気で若い生徒や教職員に混じって、元気に仕事を続けるには何よりも健康が第一である。
それでも、水泳のインストラクターの仕事に比べれば、健康管理は難しくない。
プールに一日4時間も入って、咳も風邪も2ヶ月ほど治らなかった。
何よりも、少々熱があっても、プールに入らねばならないのが辛かった。
これはベテランの人にも一番辛いことだと聞かされた。
昔とは立場が違う教師になったが、肩の力を少し抜いて仕事をやっていきたいと思っている。
とにかく、新たなるステップを次のステップにしっかりと繋げていきたいと思っている。
ぞれは現役の時とは違って、行き先の決まらない道であり、終わりも分からない旅でもある。
近隣の定時制の高校で、学期の途中から授業を受け持つことになった。
肩書きは「臨時講師」ということで、いままで書いてきた「教諭」とは違うというのを実感した。
その学校の全日制にはかつて一緒に仕事をした人が多くいて、誰もが年齢を感じさせてくれた。
そして、それなりの役職に就いていて、重責を担っていることが察せられた。
早期退職して1年半、その間に社会教育指導員や水泳のインストラクターを務めたが、どれも初めての経験で慣れるのに苦労した。
それに対して、定時制の仕事は1年とは言え、経験があるのでそれほどの戸惑いはない。
前回は帰宅後に夕食を食べて、糖尿病を悪化させてしまった。
今回は、弁当を持っていって、夕食を職場でとっている。
帰宅後は軽く晩酌をする程度にすませている。
我々のような年齢の者にとって、定時制で一番難しいのは健康管理である。
元気で若い生徒や教職員に混じって、元気に仕事を続けるには何よりも健康が第一である。
それでも、水泳のインストラクターの仕事に比べれば、健康管理は難しくない。
プールに一日4時間も入って、咳も風邪も2ヶ月ほど治らなかった。
何よりも、少々熱があっても、プールに入らねばならないのが辛かった。
これはベテランの人にも一番辛いことだと聞かされた。
昔とは立場が違う教師になったが、肩の力を少し抜いて仕事をやっていきたいと思っている。
とにかく、新たなるステップを次のステップにしっかりと繋げていきたいと思っている。
ぞれは現役の時とは違って、行き先の決まらない道であり、終わりも分からない旅でもある。
2018年9月30日日曜日
我が子と学んだ水泳
私が水泳と深く関わるきっかけとなったのは、子供が水泳教室に通っていたことによる。
今でも、プールには一緒に泳ぐ親子を見かけるが、その光景がとても微笑ましい。
時には、選手にしようと厳しく指導する保護者も見かけるが、たいがいは一緒に泳ぎを楽しんでいる。
私の場合は、相生のプールに子供が通っていたので、土曜日などは送っていって、帰る時間まで泳いだ。
時間帯の違う子供二人通っていたので、ちょうど二時間ほどじっくりと泳げた。
単に、水泳だけが目的ではなく、容姿のすばらしい女性コーチにお目にかかるのも楽しみだった。
スイミングのコーチは、運動をしているだけあってどなたも、容姿端麗であったように思う。
そのうち上郡のプールの方にスイミングを移って、自分もコーチに習うことになった。
ちょうど、高校の水泳部の顧問をやることになったので、良い機会になった。
私は学生時代の頃は、中途半端に剣道をしており、教師になってからも剣道部の顧問をしていた。
赴任した高校は剣道に関しては全国を目指すようなクラブだったので、剣道専門の教員がいて、私はお手伝いする程でもなかった。
水泳部は速い選手は、スイミングで練習することが普通だったので、私のような素人顧問でも勤まった。
最初は、生徒の方に色々と泳ぎ方や練習方法を教わっていた。
たまたま女子が西播磨大会で総合優勝したりして、顧問としてやる気も増してきた。
その後は、どの学校でも水泳部の顧問を続けてきた。
クラブに関しては、教師にとって負担が重いという意見も多い。
確かにそうだと思う。
ただ、水泳に関しては練習時間もそう長くできないし、私は日曜日はレース以外は練習を設定しなかった。
レースには自分の子供も参加することもあって、クラブの部員と一緒に移動することもあった。
残念ながら、上郡中学校には水泳部がなかったので、子供たちは水泳から離れてしまった。
結局、子供と始めた水泳を続けたのは、父親である私一人になってしまった。
上郡のプールでは今も、当時から親子で水泳を続けている人がいる。
子供は一時は水泳から離れたようだが、就職した後でまたプールに戻ってきた。
そうやって、親子で続けられるのも水泳ならではだろう。
親子どころか、孫と祖父母というのも見られるようになっている。
プールの中で、世代を超えて老若男女が関われることが一番素晴らしいことだと思う。
今でも、プールには一緒に泳ぐ親子を見かけるが、その光景がとても微笑ましい。
時には、選手にしようと厳しく指導する保護者も見かけるが、たいがいは一緒に泳ぎを楽しんでいる。
私の場合は、相生のプールに子供が通っていたので、土曜日などは送っていって、帰る時間まで泳いだ。
時間帯の違う子供二人通っていたので、ちょうど二時間ほどじっくりと泳げた。
単に、水泳だけが目的ではなく、容姿のすばらしい女性コーチにお目にかかるのも楽しみだった。
スイミングのコーチは、運動をしているだけあってどなたも、容姿端麗であったように思う。
そのうち上郡のプールの方にスイミングを移って、自分もコーチに習うことになった。
ちょうど、高校の水泳部の顧問をやることになったので、良い機会になった。
私は学生時代の頃は、中途半端に剣道をしており、教師になってからも剣道部の顧問をしていた。
赴任した高校は剣道に関しては全国を目指すようなクラブだったので、剣道専門の教員がいて、私はお手伝いする程でもなかった。
水泳部は速い選手は、スイミングで練習することが普通だったので、私のような素人顧問でも勤まった。
最初は、生徒の方に色々と泳ぎ方や練習方法を教わっていた。
たまたま女子が西播磨大会で総合優勝したりして、顧問としてやる気も増してきた。
その後は、どの学校でも水泳部の顧問を続けてきた。
クラブに関しては、教師にとって負担が重いという意見も多い。
確かにそうだと思う。
ただ、水泳に関しては練習時間もそう長くできないし、私は日曜日はレース以外は練習を設定しなかった。
レースには自分の子供も参加することもあって、クラブの部員と一緒に移動することもあった。
残念ながら、上郡中学校には水泳部がなかったので、子供たちは水泳から離れてしまった。
結局、子供と始めた水泳を続けたのは、父親である私一人になってしまった。
上郡のプールでは今も、当時から親子で水泳を続けている人がいる。
子供は一時は水泳から離れたようだが、就職した後でまたプールに戻ってきた。
そうやって、親子で続けられるのも水泳ならではだろう。
親子どころか、孫と祖父母というのも見られるようになっている。
プールの中で、世代を超えて老若男女が関われることが一番素晴らしいことだと思う。
2018年9月28日金曜日
一生の恩人
私が学生生活を続け、大学院に進み、教師になれたのも、大学時代にお世話になった大家さんのおかげだと思っている。
実は、私は名古屋の私立大学に進学できたのは、叔父の家に下宿するという前提条件があった。
4人兄弟の長男である私はには、一つ下の弟も受験を控えており、私学に進学する条件が、叔父の家に下宿することだった。
最初は、叔父の借りていた物置代わりのアパートに暮らさせてもらっていた。
しかし、さすがに不自由を感じたので、友達に相談したところ、友達のアパートは二間あるので、住まないかという。
彼にとっては、下宿代を折半できるし、大学も受け直すつもりだったので、ずっと卒業するまで一緒に暮らすつもりではなかった。
自分も、しばらくは一緒に住まわせてもらって、彼が希望する東京の大学に変わるときに新しい下宿にうつるつもりだった。
なぜなら、当時2万円の下宿代を払う余裕はなかったからだ。
そして、そのつもりで3月には新しい安い下宿も探していた。
アパートの大家さんにもそのことを言うと、下宿代は半分で良いから、居続けても良いよと言われた。
ところが、肝心の友達は受験に失敗し、名古屋に残ることになってしまった。
すでに、大家さんとの話が進んでいて、探していた下宿も断っていたので、自分としても困ってしまった。
友達はそれを見かねて、友達自身が出て新しい下宿を探して住むと言うことにしてくれた。
友達には本当に申し訳ないことになったが、私には本当にありがたいことだった。
それ以来私は、風呂こそないが、2Kでしかも、東と南に窓のあるアパートに一人住むことになった。
しかも、地下鉄池下駅から歩いて10分ほどで、バス停も近い立地条件で月1万円で暮らすことができた。
南山大学には少々遠くて、自転車で通ってはいたので、坂が多くて結構大変であった。
それでも、途中に友達の下宿もあって、しょっちゅう立ち寄っていた。
何よりも、寝室と勉強部屋とを分けることのできる、快適な環境となたった。
これは、赤穂の自宅でも経験のないことだった。
私にとってこのアパート丸美荘は、その後の人生の方向を決める掛け替えのない場所となった。
ずいぶん、大家のお婆さんはお世話になり、病気になったときには食事を持ってきてくれたりしてくれた。
大家さん夫婦には子供がなくて、我が子のように可愛がってくれた。
にも関わらず、ずいぶん好き放題をして、迷惑をかけていたと思う。
卒業後の大学院在籍中に、思い立って挨拶しに行ったときには、既にお婆さんは亡くなっていた。
残されたお爺さんも私の顔を見ても、分からなくなってしまっていた。
ただ、仏壇に手を合わせるしか私にはできなかった。
10年程前に、名古屋に行く機会があったので、アパートを訪ねにいったが、そこにはもうアパートはなかった。
私にとって大切な大家さんの思い出や、大学時代の日々の記憶がいっぱい詰まった場所が失われてしまったことに、底知れぬ寂しさを感じた。
私は、大家さんから受けた恩は、他の人にお返しするしかないということをずっと思い続けている。
実は、私は名古屋の私立大学に進学できたのは、叔父の家に下宿するという前提条件があった。
4人兄弟の長男である私はには、一つ下の弟も受験を控えており、私学に進学する条件が、叔父の家に下宿することだった。
最初は、叔父の借りていた物置代わりのアパートに暮らさせてもらっていた。
しかし、さすがに不自由を感じたので、友達に相談したところ、友達のアパートは二間あるので、住まないかという。
彼にとっては、下宿代を折半できるし、大学も受け直すつもりだったので、ずっと卒業するまで一緒に暮らすつもりではなかった。
自分も、しばらくは一緒に住まわせてもらって、彼が希望する東京の大学に変わるときに新しい下宿にうつるつもりだった。
なぜなら、当時2万円の下宿代を払う余裕はなかったからだ。
そして、そのつもりで3月には新しい安い下宿も探していた。
アパートの大家さんにもそのことを言うと、下宿代は半分で良いから、居続けても良いよと言われた。
ところが、肝心の友達は受験に失敗し、名古屋に残ることになってしまった。
すでに、大家さんとの話が進んでいて、探していた下宿も断っていたので、自分としても困ってしまった。
友達はそれを見かねて、友達自身が出て新しい下宿を探して住むと言うことにしてくれた。
友達には本当に申し訳ないことになったが、私には本当にありがたいことだった。
それ以来私は、風呂こそないが、2Kでしかも、東と南に窓のあるアパートに一人住むことになった。
しかも、地下鉄池下駅から歩いて10分ほどで、バス停も近い立地条件で月1万円で暮らすことができた。
南山大学には少々遠くて、自転車で通ってはいたので、坂が多くて結構大変であった。
それでも、途中に友達の下宿もあって、しょっちゅう立ち寄っていた。
何よりも、寝室と勉強部屋とを分けることのできる、快適な環境となたった。
これは、赤穂の自宅でも経験のないことだった。
私にとってこのアパート丸美荘は、その後の人生の方向を決める掛け替えのない場所となった。
ずいぶん、大家のお婆さんはお世話になり、病気になったときには食事を持ってきてくれたりしてくれた。
大家さん夫婦には子供がなくて、我が子のように可愛がってくれた。
にも関わらず、ずいぶん好き放題をして、迷惑をかけていたと思う。
卒業後の大学院在籍中に、思い立って挨拶しに行ったときには、既にお婆さんは亡くなっていた。
残されたお爺さんも私の顔を見ても、分からなくなってしまっていた。
ただ、仏壇に手を合わせるしか私にはできなかった。
10年程前に、名古屋に行く機会があったので、アパートを訪ねにいったが、そこにはもうアパートはなかった。
私にとって大切な大家さんの思い出や、大学時代の日々の記憶がいっぱい詰まった場所が失われてしまったことに、底知れぬ寂しさを感じた。
私は、大家さんから受けた恩は、他の人にお返しするしかないということをずっと思い続けている。
2018年9月26日水曜日
泥棒との遭遇
先日相生に住む義母の隣に泥棒が入ったという。
間の悪いことに、その人は裏口でその泥棒に鉢合わせになり、急いで警察に連絡したという。
幸い泥棒も逃げてくれたようで、被害はなかったようだが、パトカーが集まってきて大騒動だったそうだ。
それ以来、義母は泥棒を恐れて、夜間の外出などを控えたりしている。
以前から、相生の駅近くにある義母の家付近では、泥棒の話を聞いていた。
義父が存命の時からも、二階の窓やトイレの窓にはつっかえ棒を念のためにしていたくらいだ。
義父が亡くなって一人暮らしになった義母にとっては、不安な材料が増えたと言える。
私たちは上郡の今の村に引っ越して以来、その泥棒への備えが甘くなっている。
前にもブログでこの書いたが、村全体が防犯になっている。
誰か知らない人が歩いていると、農作業で外に出ている人の注目を浴びる。
夜間は、街灯は殆どないので物騒に思えるが、庭で飼われている犬が不審者に吠える。
特に私の家のクロは、見知らぬ人に吠えることが多い。
ただ、気分次第で吠えないときもあるので、万全とは言えない。
村によっては、猟犬を多く飼っている家もあるので、そういうところには散歩しづらい。
地元の者にとっても、用事のない限りは他の村には、あまり行かないというのが普通だろう。
この高田地区にも、駐在所があるのだが、朝の通学時以外はお巡りさんに滅多にお目にかかることはない。
ただ、こんな田舎でもたまに交通事故もある。
通園や通学する児童生徒の見守りは大切な仕事に変わりはない。
これはお巡りさんだけではなく、地域のボランティアの人の活躍も重要だ。
村の生活は不自由なところが多いが、泥棒などの犯罪からの不安が少ないので、住み心地は悪くない。
これも楽園の大切な条件だろう。
間の悪いことに、その人は裏口でその泥棒に鉢合わせになり、急いで警察に連絡したという。
幸い泥棒も逃げてくれたようで、被害はなかったようだが、パトカーが集まってきて大騒動だったそうだ。
それ以来、義母は泥棒を恐れて、夜間の外出などを控えたりしている。
以前から、相生の駅近くにある義母の家付近では、泥棒の話を聞いていた。
義父が存命の時からも、二階の窓やトイレの窓にはつっかえ棒を念のためにしていたくらいだ。
義父が亡くなって一人暮らしになった義母にとっては、不安な材料が増えたと言える。
私たちは上郡の今の村に引っ越して以来、その泥棒への備えが甘くなっている。
前にもブログでこの書いたが、村全体が防犯になっている。
誰か知らない人が歩いていると、農作業で外に出ている人の注目を浴びる。
夜間は、街灯は殆どないので物騒に思えるが、庭で飼われている犬が不審者に吠える。
特に私の家のクロは、見知らぬ人に吠えることが多い。
ただ、気分次第で吠えないときもあるので、万全とは言えない。
村によっては、猟犬を多く飼っている家もあるので、そういうところには散歩しづらい。
地元の者にとっても、用事のない限りは他の村には、あまり行かないというのが普通だろう。
この高田地区にも、駐在所があるのだが、朝の通学時以外はお巡りさんに滅多にお目にかかることはない。
ただ、こんな田舎でもたまに交通事故もある。
通園や通学する児童生徒の見守りは大切な仕事に変わりはない。
これはお巡りさんだけではなく、地域のボランティアの人の活躍も重要だ。
村の生活は不自由なところが多いが、泥棒などの犯罪からの不安が少ないので、住み心地は悪くない。
これも楽園の大切な条件だろう。
2018年9月23日日曜日
楽園はそばに
人生の9月15日に近所の料理店『四季菜の里 秋翠亭』がテレビ朝日の『人生の楽園』に取り上げられた。
散歩の時にで目にしていた店ではあるが、一度もいったことも無く、どういう店かも知らなかった。
ただ、熱心に畑をやっている人がいるなとは思っていた。
テレビでは隣接する高田台ネオポリスはあまり映されていなかった。
場所的には私の住む中野より、新興住宅地に近く、県道のそばで、コンビニも近くにある。
だから、山深い村というイメージで来られると、がっかりされるかもしれない。
ただ、場所的に山際にあって、見晴らしが良くて、私の散歩道は主人公の秋岡安子さんの散歩道とかぶっていた。
この一帯は水田が広がっているが、番組でも紹介されていた高田米が有名である。
というのは山が落葉樹で覆われて、有機質の水が水田に供給される。
山からの水を利用している高田地区の水田は美味しいのである。
同じ高田地区でも、千種川の水を利用している水田は有機質が少ないので品質は劣る。
この番組を通じて、是非高田米が知れ渡ればと思うが、品薄になって手に入らないのも困る。
でも、飼料米を作っている水田もあるくらいだから、まだ増産する余地はあるようには思える。
そういえば、数週間前にテレビの撮影隊らしき人たちが、朝の水田風景を撮影していた。
たぶんこの番組のための風景取りだったのだろうと思う。
蓮の花の咲く様子も映像で流してくれたので、またそれも関心を呼んでくれれば良い。
これからは、米だけではなくて、野菜も色々と取り組んで行ければと思う。
専業農家だけでなく、一般の人が農作業を楽しめる市民農園のような場所もできれば良い。
採算重視の野菜農家は、出荷先は姫路などになっているようなので、地元で販売できる場所も必要だろう。
この楽園に移り住みたい方は、それなりの覚悟がいると思う。
村の付き合いは、結構密である。
たぶん負担に思うのは、村作業だと思う。
草刈り作業などは。早い村などは朝の6時から始めているところもある。
出不足金を払うところもあるが、ないところの方が実は厳しい目がある。
それに対して、高田台ネオポリスではそういう作業は殆どないようなので、苦手な人はそちらがむいていると思う。
高田台ネオポリスは町の暮らしと同じような生活ができると思う。
しかも、周りの自然を満喫できる。
今は空き家が増えてきて、安い価格で売り出されている。
ただし、坂の多い町なので、高齢者には少々住みづらいかも知れない。
散歩の時にで目にしていた店ではあるが、一度もいったことも無く、どういう店かも知らなかった。
ただ、熱心に畑をやっている人がいるなとは思っていた。
テレビでは隣接する高田台ネオポリスはあまり映されていなかった。
場所的には私の住む中野より、新興住宅地に近く、県道のそばで、コンビニも近くにある。
だから、山深い村というイメージで来られると、がっかりされるかもしれない。
ただ、場所的に山際にあって、見晴らしが良くて、私の散歩道は主人公の秋岡安子さんの散歩道とかぶっていた。
この一帯は水田が広がっているが、番組でも紹介されていた高田米が有名である。
というのは山が落葉樹で覆われて、有機質の水が水田に供給される。
山からの水を利用している高田地区の水田は美味しいのである。
同じ高田地区でも、千種川の水を利用している水田は有機質が少ないので品質は劣る。
この番組を通じて、是非高田米が知れ渡ればと思うが、品薄になって手に入らないのも困る。
でも、飼料米を作っている水田もあるくらいだから、まだ増産する余地はあるようには思える。
そういえば、数週間前にテレビの撮影隊らしき人たちが、朝の水田風景を撮影していた。
たぶんこの番組のための風景取りだったのだろうと思う。
蓮の花の咲く様子も映像で流してくれたので、またそれも関心を呼んでくれれば良い。
これからは、米だけではなくて、野菜も色々と取り組んで行ければと思う。
専業農家だけでなく、一般の人が農作業を楽しめる市民農園のような場所もできれば良い。
採算重視の野菜農家は、出荷先は姫路などになっているようなので、地元で販売できる場所も必要だろう。
この楽園に移り住みたい方は、それなりの覚悟がいると思う。
村の付き合いは、結構密である。
たぶん負担に思うのは、村作業だと思う。
草刈り作業などは。早い村などは朝の6時から始めているところもある。
出不足金を払うところもあるが、ないところの方が実は厳しい目がある。
それに対して、高田台ネオポリスではそういう作業は殆どないようなので、苦手な人はそちらがむいていると思う。
高田台ネオポリスは町の暮らしと同じような生活ができると思う。
しかも、周りの自然を満喫できる。
今は空き家が増えてきて、安い価格で売り出されている。
ただし、坂の多い町なので、高齢者には少々住みづらいかも知れない。
2018年9月20日木曜日
姫路本町68番地の知り合い
先日ふと国立病院への入院という話のきっかけで、母校の淳心学院界隈のことが話題になった。
因みに姫路の国立病院は姫路陸軍衛戍病院であり、淳心学院の敷地には陸軍の第10師団の指令本部があったと聞く。
また、今の美術館の建物は第10師団の倉庫であった。
要するに戦前は軍関連の施設があった場所なのである。
話の相手はもと裁判所にお勤めだった人で、淳心学院のそばの庁舎にお勤めだったという。
姫路城の公園整備で、今は美術館や博物館になっているところには、市役所、裁判所などがあった。
市役所の現在の位置への移転は1980年だそうだから、私が名古屋で学生していた頃に移ったようだ。
姫路市民でもなかったので、市役所にも縁はなかったし、ましてや裁判所には縁はなかった。
何か古めかしい建物が建っているなというくらいしか記憶にない。
裁判所勤めの人との話で出てきたのは、よく飛んできたクジャクの話である。
私は、白いクジャクの方が印象に残っている。
別に放し飼いにしていたわけではないようだが、ケージの上にネットを張っていなかったようで、よく動物園から飛んで出ていた。
私は朝はわざと、駅から遠回りして動物園と姫路城の間の道を通学で通っていたので、そのクジャクはいつも目にしていた。
朝は吠えザルが「ホー オ」と鳴いて賑やかで、生徒の中にはそれを真似してふざけたりした。
また、内堀の中の水鳥を眺めるのも面白く、暇があると姫路城の内堀の周りを散歩したりした。
裁判所勤めの人の気持ちも、その雰囲気に心和ませていたのだろうと思う。
思い出話がクジャクになるのは、そういう環境で過ごしたおかげである。
姫路城の中堀の姫路本町68番地は世界遺産として名だたるものになった。
私などのようにそこで過ごしていた者にとっては、クジャクが飛んできたり、動物園の動物の鳴き声などが思い出せる場所であった。
城の南側の賑やかな場所より、北側の何もない広場の方が落ち着けた。
そして東側の戦前までは軍関連の施設が建っていた場所は、こういう平和な場所に生まれ変わったようだ。
そういう場所で6年間学べたのも、私にとっては掛け替えのない経験だと今は思える。
因みに姫路の国立病院は姫路陸軍衛戍病院であり、淳心学院の敷地には陸軍の第10師団の指令本部があったと聞く。
また、今の美術館の建物は第10師団の倉庫であった。
要するに戦前は軍関連の施設があった場所なのである。
話の相手はもと裁判所にお勤めだった人で、淳心学院のそばの庁舎にお勤めだったという。
姫路城の公園整備で、今は美術館や博物館になっているところには、市役所、裁判所などがあった。
市役所の現在の位置への移転は1980年だそうだから、私が名古屋で学生していた頃に移ったようだ。
姫路市民でもなかったので、市役所にも縁はなかったし、ましてや裁判所には縁はなかった。
何か古めかしい建物が建っているなというくらいしか記憶にない。
裁判所勤めの人との話で出てきたのは、よく飛んできたクジャクの話である。
私は、白いクジャクの方が印象に残っている。
別に放し飼いにしていたわけではないようだが、ケージの上にネットを張っていなかったようで、よく動物園から飛んで出ていた。
私は朝はわざと、駅から遠回りして動物園と姫路城の間の道を通学で通っていたので、そのクジャクはいつも目にしていた。
朝は吠えザルが「ホー オ」と鳴いて賑やかで、生徒の中にはそれを真似してふざけたりした。
また、内堀の中の水鳥を眺めるのも面白く、暇があると姫路城の内堀の周りを散歩したりした。
裁判所勤めの人の気持ちも、その雰囲気に心和ませていたのだろうと思う。
思い出話がクジャクになるのは、そういう環境で過ごしたおかげである。
姫路城の中堀の姫路本町68番地は世界遺産として名だたるものになった。
私などのようにそこで過ごしていた者にとっては、クジャクが飛んできたり、動物園の動物の鳴き声などが思い出せる場所であった。
城の南側の賑やかな場所より、北側の何もない広場の方が落ち着けた。
そして東側の戦前までは軍関連の施設が建っていた場所は、こういう平和な場所に生まれ変わったようだ。
そういう場所で6年間学べたのも、私にとっては掛け替えのない経験だと今は思える。
2018年9月17日月曜日
スポーツ心臓
私は5年程前から、心電図の検査をすると異常な波形が出るようになった。
職場の健康診断で精密検査を受けるように指示され、かかりつけの総合病院で検査を受けた。
その結果は心臓に異常はなく、いわゆるスポーツ心臓だろうと言われた。
その頃は、水泳をやったりジョギングをしたりで、スポーツを盛んにしていて、脈拍も1分間に50回代であった。
スポーツ心臓とはネットなどで調べると、心臓が大きくなったり、壁が厚くなったりする。
しかし、スポーツ選手にはまったく正常であり、危険ではないという。
私の場合も、若干血圧は高かったけれど、全然問題はなかった。
今は激しい運動は殆どなくなったけど、緩やかな運動は続けている。
その分、脈拍も多くなり、血圧は逆に下がったりしている。
しかし、先日心電図の検査をすると、依然異常な波形が出ている。
以前の職場では精密検査の結果を報告していたので、問題なかった。
今回はいったん退職しているので、検査を受けた病院が問題視してしまった。
以前に別の病院で問題ないと言われたことを言っても、納得してくれない。
それはこの病院で受けた過去のデーターと、今回のデーターだけで判断した結果である。
その間の精密検査の結果は、別の病院にあるので考慮されない。
医師にとっては手に入るデーターが全てなのであろう。
こんなところで、スポーツ心臓が災いするとは思わなかったが、現代の医学の普通の検査では常識外ということが分かった。
そういえば、健康番組で病気の原因が分からず、いくつもの病院を渡り歩く話をよく特集している。
そして、結果として名医と呼ばれる医者が、常識をくつがえし原因を特定するというものだ。
普通の医者の常識的な見方では見つからないのが難病である。
スポーツ心臓は難病ではないのだが、常識的な心電図の見方では異常と見なされる。
私の場合は名医を探す必要はなく、かかりつけの総合病院で健康診断を受けられれば問題なかったのだ。
また、病院同士でデーターや検査結果の情報交換が簡単に行われれば、問題ないはずである。
スポーツをやり過ぎて、ちょっと厄介な身体になっているようだ。
職場の健康診断で精密検査を受けるように指示され、かかりつけの総合病院で検査を受けた。
その結果は心臓に異常はなく、いわゆるスポーツ心臓だろうと言われた。
その頃は、水泳をやったりジョギングをしたりで、スポーツを盛んにしていて、脈拍も1分間に50回代であった。
スポーツ心臓とはネットなどで調べると、心臓が大きくなったり、壁が厚くなったりする。
しかし、スポーツ選手にはまったく正常であり、危険ではないという。
私の場合も、若干血圧は高かったけれど、全然問題はなかった。
今は激しい運動は殆どなくなったけど、緩やかな運動は続けている。
その分、脈拍も多くなり、血圧は逆に下がったりしている。
しかし、先日心電図の検査をすると、依然異常な波形が出ている。
以前の職場では精密検査の結果を報告していたので、問題なかった。
今回はいったん退職しているので、検査を受けた病院が問題視してしまった。
以前に別の病院で問題ないと言われたことを言っても、納得してくれない。
それはこの病院で受けた過去のデーターと、今回のデーターだけで判断した結果である。
その間の精密検査の結果は、別の病院にあるので考慮されない。
医師にとっては手に入るデーターが全てなのであろう。
こんなところで、スポーツ心臓が災いするとは思わなかったが、現代の医学の普通の検査では常識外ということが分かった。
そういえば、健康番組で病気の原因が分からず、いくつもの病院を渡り歩く話をよく特集している。
そして、結果として名医と呼ばれる医者が、常識をくつがえし原因を特定するというものだ。
普通の医者の常識的な見方では見つからないのが難病である。
スポーツ心臓は難病ではないのだが、常識的な心電図の見方では異常と見なされる。
私の場合は名医を探す必要はなく、かかりつけの総合病院で健康診断を受けられれば問題なかったのだ。
また、病院同士でデーターや検査結果の情報交換が簡単に行われれば、問題ないはずである。
スポーツをやり過ぎて、ちょっと厄介な身体になっているようだ。
2018年9月14日金曜日
時には昔の話を
以前、岡山県立美術館に行った帰り、車の中で加藤登紀子の「時には昔の話を」がラジオから流れてきた。
「紅の豚」のエンディング曲で使われたこの曲は、ずっと良い曲だなとは思ってはいた。
でも、歌詞の内容についてまで、意識することはなかった。
それが、「小さな下宿屋に いくにんもおしかけ 朝までさわいで 眠った」という歌詞が私の記憶をふいに蘇らせた。
学生時代の自分たちの風景である。
加藤登紀子の歌の世界は学生運動の時代であるが、私は文化人類学を学びあった仲間との時代である。
学生運動のように熱い時代ではなく、しらけながらも理想の世界を語り合った。
大学院の時には子持ちの人もいて、雑魚寝した後朝早く起きて、子供を保育園に送りに行くと言って帰って行った。
ふと、その歌がもう一度聴きたくて、Youtubeで夜空を観ながら聴いてみた。
加藤登紀子の語りかけるような、低くて心に響く歌声に魅了されながら、自分も歌いたくなった。
そのカラオケにあわせて小声で歌ってみると、しんみりと心地よい。
そして、「今でも見果てぬ夢を描いて 走り続けているよね」という歌詞に今の自分を重ねていた。
3年も早く早期退職して、見果てぬ夢を実現しようとしている自分、結局自分は昔のままなのだと思った。
それは見方によれば成長のないこと、また見方によれば初心を貫くこととなる。
ただ、歌詞と同じように「夢を描いて」であって、「夢を追って」ではない。
「描く夢」は生活の中で、変わっていった。
この歳になると「歩き続ける」ことはできるけど、「走り続ける」ことはできない。
そして、傍で寄り添ってくれる家族はいるけど、朝まで語り合える仲間は今はいない。
昔のままなのは、結局「見果てぬ夢を描く」ことだけなのかもしれない。
昔のことの話をするのは、自分の歩んでいく姿勢をもう一度確かめることだと思う。
金が無くても不安がなかったのは、自分の可能性を信じられたからだと思う。
可能性が狭まった今は、金が無いことの不安はつきまとう。
でも、当時よりは不安は少ないはずなのである。
不安を忘れるために仲間と語り明かし、飲み明かしたところもあった。
あの頃の自分の姿を、感傷じみた思い出話としてではなく、これからの自分への檄として話したい。
「紅の豚」のエンディング曲で使われたこの曲は、ずっと良い曲だなとは思ってはいた。
でも、歌詞の内容についてまで、意識することはなかった。
それが、「小さな下宿屋に いくにんもおしかけ 朝までさわいで 眠った」という歌詞が私の記憶をふいに蘇らせた。
学生時代の自分たちの風景である。
加藤登紀子の歌の世界は学生運動の時代であるが、私は文化人類学を学びあった仲間との時代である。
学生運動のように熱い時代ではなく、しらけながらも理想の世界を語り合った。
大学院の時には子持ちの人もいて、雑魚寝した後朝早く起きて、子供を保育園に送りに行くと言って帰って行った。
ふと、その歌がもう一度聴きたくて、Youtubeで夜空を観ながら聴いてみた。
加藤登紀子の語りかけるような、低くて心に響く歌声に魅了されながら、自分も歌いたくなった。
そのカラオケにあわせて小声で歌ってみると、しんみりと心地よい。
そして、「今でも見果てぬ夢を描いて 走り続けているよね」という歌詞に今の自分を重ねていた。
3年も早く早期退職して、見果てぬ夢を実現しようとしている自分、結局自分は昔のままなのだと思った。
それは見方によれば成長のないこと、また見方によれば初心を貫くこととなる。
ただ、歌詞と同じように「夢を描いて」であって、「夢を追って」ではない。
「描く夢」は生活の中で、変わっていった。
この歳になると「歩き続ける」ことはできるけど、「走り続ける」ことはできない。
そして、傍で寄り添ってくれる家族はいるけど、朝まで語り合える仲間は今はいない。
昔のままなのは、結局「見果てぬ夢を描く」ことだけなのかもしれない。
昔のことの話をするのは、自分の歩んでいく姿勢をもう一度確かめることだと思う。
金が無くても不安がなかったのは、自分の可能性を信じられたからだと思う。
可能性が狭まった今は、金が無いことの不安はつきまとう。
でも、当時よりは不安は少ないはずなのである。
不安を忘れるために仲間と語り明かし、飲み明かしたところもあった。
あの頃の自分の姿を、感傷じみた思い出話としてではなく、これからの自分への檄として話したい。
2018年9月12日水曜日
眺めの良いトイレ
以前、昔の淳心学院のトイレから、美しい姫路城が見えて、それを眺めながら小用をたすことの爽快さを書いた。
実は、うちの二階のトイレは東側に小さな窓がついていて、座って用をたすときに周りの景色が見える。
東側の山は椿峠のある山で、車の行き来が分かるので、雪の日や、先日のように通行止めの時に動きがよく分かる。
山際まで、水田が広がっていて、稲の生育の様子や、仕事をする人の様子もよく分かる。
何よりも、季節季節に彩りを変えていってくれる、山の景色には心癒やされる。
そんなに長く座っているわけではないが、朝の一時に安らぎを得られるのはありがたい。
ただし、今年の異常な夏は、このトイレを試練の場に変えてしまった。
トイレには、気温計を置いていたが、35℃くらいになることもある。
そして、東側から日光が降り注ぎ、いくらスダレをしていても暑い。
この密室空間では、外の景色を見る余裕もなく、暑さと戦っていた。
汗びっしょりになり、トイレを済ました後でシャワーを浴びねばならなかった。
なぜ、そこまでして2階のトイレを使うかというと、1階のトイレの流れが悪いからである。
家内から流すこつを教えてもらって、実行した頃は、既に灼熱の夏は終わっていた。
実は、それまで「流れる」という家内の言う言葉を信用していなかった。
涼しくなってきた今となっては、二階のトイレの方が快適である。
1階のトイレの窓からは隣の倉庫しか見えないし、そもそも窓に背を向けて用を足す。
よく、金の便器とか、この上なくきれいなトイレというのが脚光を浴びてきた。
景色を眺めながら、ゆっくりと用がたせるトイレというのはあまり聞いたことがない。
昔の淳心学院でさえ、座って用を足すときには姫路城は観られなかった。
そういう意味で、うちの二階のトイレは得がたい場所である。
ただ、お客さんにすすめる場所ではないので、誰にもお見せして自慢できない。
トイレの神様の歌でもあるように、トイレは大切な場所である。
奄美の与路島では、「生」と「死」を司る神様がいると言われた。
神様をお迎えするには、きちっと掃除はできていないが気がかりではある。
それでも、健康と心に関わっている大切な所として、ありがたく感謝すべき場とは思っている。
実は、うちの二階のトイレは東側に小さな窓がついていて、座って用をたすときに周りの景色が見える。
東側の山は椿峠のある山で、車の行き来が分かるので、雪の日や、先日のように通行止めの時に動きがよく分かる。
山際まで、水田が広がっていて、稲の生育の様子や、仕事をする人の様子もよく分かる。
何よりも、季節季節に彩りを変えていってくれる、山の景色には心癒やされる。
そんなに長く座っているわけではないが、朝の一時に安らぎを得られるのはありがたい。
ただし、今年の異常な夏は、このトイレを試練の場に変えてしまった。
トイレには、気温計を置いていたが、35℃くらいになることもある。
そして、東側から日光が降り注ぎ、いくらスダレをしていても暑い。
この密室空間では、外の景色を見る余裕もなく、暑さと戦っていた。
汗びっしょりになり、トイレを済ました後でシャワーを浴びねばならなかった。
なぜ、そこまでして2階のトイレを使うかというと、1階のトイレの流れが悪いからである。
家内から流すこつを教えてもらって、実行した頃は、既に灼熱の夏は終わっていた。
実は、それまで「流れる」という家内の言う言葉を信用していなかった。
涼しくなってきた今となっては、二階のトイレの方が快適である。
1階のトイレの窓からは隣の倉庫しか見えないし、そもそも窓に背を向けて用を足す。
よく、金の便器とか、この上なくきれいなトイレというのが脚光を浴びてきた。
景色を眺めながら、ゆっくりと用がたせるトイレというのはあまり聞いたことがない。
昔の淳心学院でさえ、座って用を足すときには姫路城は観られなかった。
そういう意味で、うちの二階のトイレは得がたい場所である。
ただ、お客さんにすすめる場所ではないので、誰にもお見せして自慢できない。
トイレの神様の歌でもあるように、トイレは大切な場所である。
奄美の与路島では、「生」と「死」を司る神様がいると言われた。
神様をお迎えするには、きちっと掃除はできていないが気がかりではある。
それでも、健康と心に関わっている大切な所として、ありがたく感謝すべき場とは思っている。
2018年9月10日月曜日
診療所の待合所
このところ体調を崩して、ついに病院に行かねばならなくなってしまった。
私は定期的には赤穂の中央病院に通っている。
以前は知り合いに会う機会が多くて、待っている時間はそういう人と話す機会も何度かあった。
ただ、最近では滅多に知り合いと会うことはなくなっていた。
今回は、自宅近くの診療所に行くことになった。
すると、近所のYさんがやってきて、待っている間色々と話をする。
Yさんは、村では挨拶をする程度の人なのだが、初めて話をするのにずいぶんと立ち入った話もした。
それは同じ村でいつも顔を合わせているし、同じ村の仲間という気安さがあるからである。
その人は、元々御両親は高知県出身だが、仕事の関係で尼崎などで暮らした後で、退職後に村に移り住んだことを初めて知った。
自然が大好きで、庭にはいっぱい花や野菜が植えている。
退職後に移り住んだ人は、村の人との付き合いは難しいのだが、Yさんは隣村の特定の仲間と仲良くしている。
ちなみに、私たちは子育てを通して、村に溶け込んでいった。
子供は夫婦だけでなく、地域の人とのかすがいにもなる。
そのうち、知り合いのOさんも夫婦連れでやってきて、色々と村仕事のことや、墓地の相談をした。
Oさんは診療所でなくてもよく話をする人だが、診療所でも話をする良い機会になった。
桂文珍の落語ネタで病院の待合所を題材にしたものがあるが、それに似たような雰囲気なのかも知れない。
病院に来ていないと調子が悪いのかと心配するネタである。
私の母親も以前は、近所の医院に足繁く通い、そこで話をするのを楽しみにしていたようだった。
その母親も入院して以来、総合病院に転院して一人で気軽に通えなくなった。
一人で気軽に通える病院の待合所こそ、コミュニケーションの場になる。
今のところ、私はそういう仲間には入っていないが、仲間入りするのもそう遠くはないように思えた。
私は定期的には赤穂の中央病院に通っている。
以前は知り合いに会う機会が多くて、待っている時間はそういう人と話す機会も何度かあった。
ただ、最近では滅多に知り合いと会うことはなくなっていた。
今回は、自宅近くの診療所に行くことになった。
すると、近所のYさんがやってきて、待っている間色々と話をする。
Yさんは、村では挨拶をする程度の人なのだが、初めて話をするのにずいぶんと立ち入った話もした。
それは同じ村でいつも顔を合わせているし、同じ村の仲間という気安さがあるからである。
その人は、元々御両親は高知県出身だが、仕事の関係で尼崎などで暮らした後で、退職後に村に移り住んだことを初めて知った。
自然が大好きで、庭にはいっぱい花や野菜が植えている。
退職後に移り住んだ人は、村の人との付き合いは難しいのだが、Yさんは隣村の特定の仲間と仲良くしている。
ちなみに、私たちは子育てを通して、村に溶け込んでいった。
子供は夫婦だけでなく、地域の人とのかすがいにもなる。
そのうち、知り合いのOさんも夫婦連れでやってきて、色々と村仕事のことや、墓地の相談をした。
Oさんは診療所でなくてもよく話をする人だが、診療所でも話をする良い機会になった。
桂文珍の落語ネタで病院の待合所を題材にしたものがあるが、それに似たような雰囲気なのかも知れない。
病院に来ていないと調子が悪いのかと心配するネタである。
私の母親も以前は、近所の医院に足繁く通い、そこで話をするのを楽しみにしていたようだった。
その母親も入院して以来、総合病院に転院して一人で気軽に通えなくなった。
一人で気軽に通える病院の待合所こそ、コミュニケーションの場になる。
今のところ、私はそういう仲間には入っていないが、仲間入りするのもそう遠くはないように思えた。
2018年9月7日金曜日
高齢者ボランティア
一躍、尾畠春夫さん(78)が山口県周防大島町で行方不明の子供を救助したことで有名になり、高齢者がボランティア活動で活躍していることが知れ渡った。
尾畠さんのような災害地のボランティアは注目されて、マスコミにも多く取り上げられている。
その一方で、家内が加わっている町内の高齢者に対する給食ボランティアなどは、あまりよく知られていない。
家内は高齢者ではないが、この給食ボランティアは他の自治体にもあり、高齢者も多く加わっているという。
高齢者に安く昼食を配るボランティア活動なのだが、利用するご老人の方が配達するボランティアの人より若かったりするという。
この高齢者のボランティアに関して、アメリカの高齢者を長く研究してきた佐野(藤田)眞理子が、「高齢者」山下晋司編『公共人類学』2014 東京大学出版会で報告している。
それは、アメリカのシニア・センター,とりわけ,ミール(食事)・プログラムを中心とした公共サービスのことである。
佐野氏は日本の高齢者に対するメディアの「孤独死」や「無縁社会」の報道に対して、アメリカの状況で疑問を投げかけている。
まず、アメリカでは
「一人暮らしの高齢者」は当たり前であり,むしろ,自立・独立の象徴として称賛されるからである.また,一人で暮らしをしているからといって,社会的に孤立しているとは限らない.」
という。
私は、自分自身、家族や親戚、地縁関係が崩れて、孤独に陥る高齢者を自分の将来として不安を抱き続けてきた。
現代の社会のシステムからすれば、それが当然の成り行きのように考えていた。
しかし、アメリカでは「一人暮らしの高齢者」に対するケアを1980年代から既に行っており、対策がなされてきていた。
各地のシニア・センターでは.高齢者が,1日1回は,温かい,栄養バランスの取れた食事ができるように.ミール・プログラムが提供された。
そして、実際の食事を提供するサービス運営には,高齢者のボランティアの協力が果たす役割が大きかった。
高齢者ボランティア自身も自分の能力を発揮できることで、自尊心を持つことができる。
また、センターに来られない人たちは,同じメニューの宅配食が配られる。
近年は宅配利用者が増えてきているようだが、重要なのは高齢者によるボランティア活動である。
日本では格差が広がり、学校給食が大切な食事になっている児童生徒もいる。
これを高齢者にも自治体の給食と言うことになれば、財政は持たないだろう。
高齢者自身がお互いに助け合う気持ちを持って、給食センターを担えるシステムを作れば可能だと思う。
行政は、そのセンターを設置しボランティアの活動を活用するのである。
これには企業や高所得者の寄付も必要となる。
場合によっては農家や漁業関係などの生産者からの協力も得れば良いとも思う。
自分の母親の介護が必要となり、自分自身も遠からずそうなる歳になって改めて考えさせらている。
災害ボランティアは確かに大切だが、こういう目立たないけれど誰にとっても関わりのある高齢者へのボランティアを真剣に考えねばならないと思う。
「孤独死」や「無縁社会」を克服し、高齢者を通した未来への社会進化を果たす一歩のような気がする。
尾畠さんのような災害地のボランティアは注目されて、マスコミにも多く取り上げられている。
その一方で、家内が加わっている町内の高齢者に対する給食ボランティアなどは、あまりよく知られていない。
家内は高齢者ではないが、この給食ボランティアは他の自治体にもあり、高齢者も多く加わっているという。
高齢者に安く昼食を配るボランティア活動なのだが、利用するご老人の方が配達するボランティアの人より若かったりするという。
この高齢者のボランティアに関して、アメリカの高齢者を長く研究してきた佐野(藤田)眞理子が、「高齢者」山下晋司編『公共人類学』2014 東京大学出版会で報告している。
それは、アメリカのシニア・センター,とりわけ,ミール(食事)・プログラムを中心とした公共サービスのことである。
佐野氏は日本の高齢者に対するメディアの「孤独死」や「無縁社会」の報道に対して、アメリカの状況で疑問を投げかけている。
まず、アメリカでは
「一人暮らしの高齢者」は当たり前であり,むしろ,自立・独立の象徴として称賛されるからである.また,一人で暮らしをしているからといって,社会的に孤立しているとは限らない.」
という。
私は、自分自身、家族や親戚、地縁関係が崩れて、孤独に陥る高齢者を自分の将来として不安を抱き続けてきた。
現代の社会のシステムからすれば、それが当然の成り行きのように考えていた。
しかし、アメリカでは「一人暮らしの高齢者」に対するケアを1980年代から既に行っており、対策がなされてきていた。
各地のシニア・センターでは.高齢者が,1日1回は,温かい,栄養バランスの取れた食事ができるように.ミール・プログラムが提供された。
そして、実際の食事を提供するサービス運営には,高齢者のボランティアの協力が果たす役割が大きかった。
高齢者ボランティア自身も自分の能力を発揮できることで、自尊心を持つことができる。
また、センターに来られない人たちは,同じメニューの宅配食が配られる。
近年は宅配利用者が増えてきているようだが、重要なのは高齢者によるボランティア活動である。
日本では格差が広がり、学校給食が大切な食事になっている児童生徒もいる。
これを高齢者にも自治体の給食と言うことになれば、財政は持たないだろう。
高齢者自身がお互いに助け合う気持ちを持って、給食センターを担えるシステムを作れば可能だと思う。
行政は、そのセンターを設置しボランティアの活動を活用するのである。
これには企業や高所得者の寄付も必要となる。
場合によっては農家や漁業関係などの生産者からの協力も得れば良いとも思う。
自分の母親の介護が必要となり、自分自身も遠からずそうなる歳になって改めて考えさせらている。
災害ボランティアは確かに大切だが、こういう目立たないけれど誰にとっても関わりのある高齢者へのボランティアを真剣に考えねばならないと思う。
「孤独死」や「無縁社会」を克服し、高齢者を通した未来への社会進化を果たす一歩のような気がする。
2018年9月5日水曜日
星の見えるベッド
今、寝室として、以前まで娘が使っていた二階の東側の部屋を使っている。
その部屋の窓は、東側と南側にあって、夜になると星をベッドに横たわりながら眺めることができる。
私は主だった星座は判別できるが、明けの明星、宵の明星以外の星は殆どわからない。
ただ、今年は火星大接近と言うことで、南側の窓にひときわ赤く輝いている火星は判別して眺めている。
小学生の頃は、尾崎小学校で夜に星の観察会があって、母親や兄弟と一緒に出かけたりした。
一生懸命、北斗七星や北極星を探したのを憶えているし、流れ星に心躍らせた。
星が一番すごいと思ったのは、夏休みに奄美大島に村落調査に行くフェリーの上だった。
夜、フェリーの一番上のデッキの上から見える星は、こんなに星が空にあったのかと思った。
空から星が降り注いでくるのではないかというほど、迫ってくるものがあった。
他にもキャンプに行ったときには、星空を何度も眺めたが、東シナ海の洋上で観た星ほどのスケールではなかった。
本当は、訪れた奄美の与路島でも美しかったはずだが、夜に家の外にいるときは、ハブを警戒して懐中電灯で照らした足下ばかり見ていた。
また、確かに姫路科学館のプラネタリウムの星も幻想的で美しかったが、自然に勝るものではなかった。
その洋上の星には叶わないが、気軽に横になって眺められるベッドは、フェリーのデッキよりも居心地が良い。
20代の頃に感じた心象が、星空と共に時に蘇ってきて、当時の自分であるかのように錯覚する。
また、星空を眺めながら、眠ってしまうことができる。
そして、お気に入りの音楽を聴きながらも眺められる。
夜中にふと目が覚めると、月が昇っていて得をした気分にもなる。
周りに明かりの少ない上郡ならではの恵なのである。
果たして娘はこの星空を憶えているのだろうか。
私は娘の置いてあったベッドと同じ位置にして寝ている。
寝坊助の娘は、星を眺めることすらなかったかも知れない。
お月さんや星がずっと、窓からずっとのぞいていたというのに・・・
その部屋の窓は、東側と南側にあって、夜になると星をベッドに横たわりながら眺めることができる。
私は主だった星座は判別できるが、明けの明星、宵の明星以外の星は殆どわからない。
ただ、今年は火星大接近と言うことで、南側の窓にひときわ赤く輝いている火星は判別して眺めている。
小学生の頃は、尾崎小学校で夜に星の観察会があって、母親や兄弟と一緒に出かけたりした。
一生懸命、北斗七星や北極星を探したのを憶えているし、流れ星に心躍らせた。
星が一番すごいと思ったのは、夏休みに奄美大島に村落調査に行くフェリーの上だった。
夜、フェリーの一番上のデッキの上から見える星は、こんなに星が空にあったのかと思った。
空から星が降り注いでくるのではないかというほど、迫ってくるものがあった。
他にもキャンプに行ったときには、星空を何度も眺めたが、東シナ海の洋上で観た星ほどのスケールではなかった。
本当は、訪れた奄美の与路島でも美しかったはずだが、夜に家の外にいるときは、ハブを警戒して懐中電灯で照らした足下ばかり見ていた。
また、確かに姫路科学館のプラネタリウムの星も幻想的で美しかったが、自然に勝るものではなかった。
その洋上の星には叶わないが、気軽に横になって眺められるベッドは、フェリーのデッキよりも居心地が良い。
20代の頃に感じた心象が、星空と共に時に蘇ってきて、当時の自分であるかのように錯覚する。
また、星空を眺めながら、眠ってしまうことができる。
そして、お気に入りの音楽を聴きながらも眺められる。
夜中にふと目が覚めると、月が昇っていて得をした気分にもなる。
周りに明かりの少ない上郡ならではの恵なのである。
果たして娘はこの星空を憶えているのだろうか。
私は娘の置いてあったベッドと同じ位置にして寝ている。
寝坊助の娘は、星を眺めることすらなかったかも知れない。
お月さんや星がずっと、窓からずっとのぞいていたというのに・・・
2018年9月2日日曜日
あきらめの夏休み
私は教員になったので、社会人になってからも夏休みとの関わりがずっとあったのが、今年は盆休みさえもなかった。
そして、何よりも母親が8月3日入院して、23日退院し、その後しばらく我が家にいたので、その世話で忙しかった。
ようやく、母も自宅で少しずつ日常生活に戻りつつあり、今後デイサービスを受けながら一人暮らしを続ける予定である。
しかし、以前のよりも生活を気をつけてやらねばならず、弟夫婦と協力し合って支援していくつもりだ。
幸いなことに、10月からは母の世話ができそうな、仕事もみつかった。
その仕事の話は、急に日曜(8/26)に美術館へ行った帰りの車の中で進んだ。
その時、口から出てきた言葉は「捨てる神あれば、拾う神ありやな」であった。
仕事の上でも、生活の上でも見通しが立ちづらい中で、降ってわいてきた話だったからである。
若い頃のように、自分の仕事や子育てだけを考えていたら良かった立場は終わり、自分の親のことを考えねばならない立場になった。
人によっては、仕事や、子育てが大変で親の面倒は見られないという人もいるだろう。
そんな中で、少しでも多くそれができるというのは、ありがたいことだと思っている。
それは、早期退職していたと言うこともあるが、退職後の考え方自体が変化して、生活重視志向になっていた。
以前から、生活のための仕事であって、仕事のための生活ではないと思っていた。
実際は、仕事のための生活を余儀なくされている場合が多かったと思う。
そんな中で、生活のための仕事ができるというのは、恵まれていることかも知れない。
先日ニュースで、女性が子育てのために離職して、失われる金額3兆円というのがあった。
失われるのではなくて、子育てこそ3兆円には換えられない価値があるのだと私は思う。
何でも金に換算した価値でしか評価できないことを助長するマスコミには疑問を感じた。
老人介護に関しても、同じことが言えると思う。
つくづく大変なことだとは思ったが、金には換えられない価値があるからこそ何とか続けられると思う。
しかし、それは子育てと同じで、決して一人ではできず、周りの協力や支援が必要だと身にしみて分かった。
人類は子育てを協力し合って社会進化したという。
これからは老人介護を通じても、社会進化するときが来たようにも思える。
誰もが子供はいなくても、必ず老後はやって来る。
夏休みはあきらめても、老後をあきらめるわけにはいかない。
そして、何よりも母親が8月3日入院して、23日退院し、その後しばらく我が家にいたので、その世話で忙しかった。
ようやく、母も自宅で少しずつ日常生活に戻りつつあり、今後デイサービスを受けながら一人暮らしを続ける予定である。
しかし、以前のよりも生活を気をつけてやらねばならず、弟夫婦と協力し合って支援していくつもりだ。
幸いなことに、10月からは母の世話ができそうな、仕事もみつかった。
その仕事の話は、急に日曜(8/26)に美術館へ行った帰りの車の中で進んだ。
その時、口から出てきた言葉は「捨てる神あれば、拾う神ありやな」であった。
仕事の上でも、生活の上でも見通しが立ちづらい中で、降ってわいてきた話だったからである。
若い頃のように、自分の仕事や子育てだけを考えていたら良かった立場は終わり、自分の親のことを考えねばならない立場になった。
人によっては、仕事や、子育てが大変で親の面倒は見られないという人もいるだろう。
そんな中で、少しでも多くそれができるというのは、ありがたいことだと思っている。
それは、早期退職していたと言うこともあるが、退職後の考え方自体が変化して、生活重視志向になっていた。
以前から、生活のための仕事であって、仕事のための生活ではないと思っていた。
実際は、仕事のための生活を余儀なくされている場合が多かったと思う。
そんな中で、生活のための仕事ができるというのは、恵まれていることかも知れない。
先日ニュースで、女性が子育てのために離職して、失われる金額3兆円というのがあった。
失われるのではなくて、子育てこそ3兆円には換えられない価値があるのだと私は思う。
何でも金に換算した価値でしか評価できないことを助長するマスコミには疑問を感じた。
老人介護に関しても、同じことが言えると思う。
つくづく大変なことだとは思ったが、金には換えられない価値があるからこそ何とか続けられると思う。
しかし、それは子育てと同じで、決して一人ではできず、周りの協力や支援が必要だと身にしみて分かった。
人類は子育てを協力し合って社会進化したという。
これからは老人介護を通じても、社会進化するときが来たようにも思える。
誰もが子供はいなくても、必ず老後はやって来る。
夏休みはあきらめても、老後をあきらめるわけにはいかない。
2018年8月31日金曜日
ポーラ美術館コレクション
岡山県立美術館の「ポーラ美術館コレクション モネ、ルノワールからピカソまで」を昨日(8/26)家内と見に行った。
以前勤めていた職場で招待券をもらっていて、結局最終日にまで行くことができずにいた。
先週の日曜日も米の買い出しで、備前に行ったのが、今回は岡山の中心街にまで車で行く。
私は出張で、県庁舎に行ったことがあったが、その時もずいぶん道に迷った。
今回も、案内板が出ているのにもかかわらず、道を間違えて引き返さざるを得なかった。
まだ、駅を中心とした俯瞰図が頭の中で描くことができずにいる。
何とかたどり着いてが、今度は駐車場を探さねばならなかった。
見つけたパーキングから、美術館はそこそこ距離があり、真昼の炎天下の美術館までの道のりは少々厳しかった。
最終日と言うことで、人でも多いのかとも思ったが、入場で待たされることはなかった。
第一展示場は写真撮影が許されていて、多くの人が写真を撮っていた。
私も持ってきた携帯電話で気に入った絵を写真に収めた。
印象画の絵は、どれも心和ませてくれた。
絵によっては、今のアニメの世界と変わらないものがあったが、今のアニメの方がこれらの絵の影響を受けていると行った方が良いのだろう。
観覧者はやはり女性が多く、熱心にスマホで何枚も写真を撮る人もいた。
ただ、撮ってきた写真や買ってきた絵はがきというのは、結局日常の中で陳腐な絵になってしまう。
こういう展覧会の場で、本物の絵に触れる感動に変えられるものではないと思う。
ただ、毎日に散歩で田舎の自然風景に接している者としては、風景画はその延長上に感じた。
それでも、古い町並みや、建築物は別世界であり、その雰囲気の中に入るこむこともできるのが楽しい。
一方、ピカソの絵は、あまり長くみたいと思わなかった。
情緒不安定になりそうな気がした。
他の展示も見たいところではあったが、昼食もまだでおなかもすいたので、美術館を出ることにした。
また、パーキングまでの暑い道のりを戻り、いざ出ようとしたところ、出口バーの故障かなんかで20分近くも待たされた。
結局、300円のところ200円に安くしてもらったが、時間のロスとなってしまった。
せっかくだから駅前のイオンに寄ろうというので、イオンのパーキングに向かったが、満車状態で入れないと思い帰ることにした。
昼食をとれる手頃な店を探すが、その殆どが逆方面の車線側で、右折してまで入る気にはなれない。
結局、午後2時近くになって、丸亀製麺に入った。
そこで、冷やかけうどんと野菜のかき揚げ、レンコンの天ぷらを食べた。
我々夫婦にとって手頃なうどんをすするのが、なんとなく自然に思えた。
格調高い美術館に行った帰りに、うどんをすするというのも悪くない。
ただ、美味しそうでかき揚げをほおばったが、ずいぶん長く胃にもたれることになった。
夫婦とも忙しい日々の合間に無理して出かけたが、何よりもかけがえのない一時のように感じた。
他の展示も見たいところではあったが、昼食もまだでおなかもすいたので、美術館を出ることにした。
また、パーキングまでの暑い道のりを戻り、いざ出ようとしたところ、出口バーの故障かなんかで20分近くも待たされた。
結局、300円のところ200円に安くしてもらったが、時間のロスとなってしまった。
せっかくだから駅前のイオンに寄ろうというので、イオンのパーキングに向かったが、満車状態で入れないと思い帰ることにした。
昼食をとれる手頃な店を探すが、その殆どが逆方面の車線側で、右折してまで入る気にはなれない。
結局、午後2時近くになって、丸亀製麺に入った。
そこで、冷やかけうどんと野菜のかき揚げ、レンコンの天ぷらを食べた。
我々夫婦にとって手頃なうどんをすするのが、なんとなく自然に思えた。
格調高い美術館に行った帰りに、うどんをすするというのも悪くない。
ただ、美味しそうでかき揚げをほおばったが、ずいぶん長く胃にもたれることになった。
夫婦とも忙しい日々の合間に無理して出かけたが、何よりもかけがえのない一時のように感じた。
2018年8月28日火曜日
昔の名前で・・・
私が在籍した大学院の一つ、東京都立大学はその名前を失っていた。
首都大学東京というけったいな名前になってしまって、私には親しみなどもてなかった。
ただ、私が通った校舎は既に八王子に移転してしまっていて、一度も足を踏み入れたことはない。
私の通った校舎は、東京都目黒区八雲1-1-1にあって、東急東横線の都立大学駅から柿の木坂を登ったところにあった。
校歌がなかったので、仲間で飲むとその当時はやった、志村けんの「東村山音頭」をもじって、「目黒区八雲 一丁目 一丁目 一丁目」とふざけて歌った。
私は「柿の木坂は駅まで三里」の歌詞のある『柿の木坂の家』の歌の方が、この大学にふさわしいと思った。
ただ、この歌は広島県の大竹市がモデルだそうだが、私は勝手に渋谷駅から三里離れていると解釈していた。
今の校舎は八王子市南大沢1-1-1にあるそうで、ここで「昔の名前で でています」と、2020年に再デビューするのだという。
私は高校生の頃は、やけに倍率の高い二期校の大学という以外に大して興味はなかった。
ただ、親しかった友人は、この大学に憧れて目指したが、結局二浪して慶応に行った。
都民にとっても、入学金などが安かったので人気があったらしく、都立大学に行きたかったという早稲田大出の人もいて意外に思った。
ただ、以前私の教え子に進学を勧めたことがあるが、筑波大学の方を選んで進んだ。
大学改名のニュースでの取材で学生が話していたように、ネームバリューも人気もなくなっているのだろうと思った。
また「首都大学東京」は、「東京都市大学」という私立大学があるように、名前が紛らわしくて格調もないように感じていた。
そもそも、東京都立大学は英語ではTokyo Metropolitan Universityで、大学のTシャツにはMのイニシャルを使っていた。
ちなみに、東京都市大学はTokyo City Universityだそうで、都市の大きさの差の表現というのもおかしなものである。
私が所属していた当時の東京都立大学大学院の社会人類学コースの魅力は、色んな大学の出身者がいたことである。
都立大学の学部の方から進学する者はあまりいなかった。
埼玉大学出身者が多かったが、東京大学や早稲田、慶応、ICU、から高知大学、信州大学など地方大学出身者も少なからずいた。
私のような、二流私立大学出身者にも門戸が開かれていたのは、ありがたいことだった。
東京大学のような上品なアカデミズムの砦ではなかった。
研究会ではビールを飲みながら激しく鋭く討論する荒稽古の場でもあった。
そこで鍛えられて、多くの研究者を輩出していったのだが、私のように研究者にならずに去って行った者も少なからずいた。
ただ、もし私が都立大学に学んでいなかったら、研究はとっくに捨てていただろうと思う。
生涯研究を続けていこうとしているのは、ここで学んだからだと思う。
今は敷居が高くて踏み入れられない所になってしまったが、ここで学んだこと自体が自分にとっての大きな支えになっている。
そして昔の名前が戻ることは、これからもいっそう私を支え続けてくれるような気がする。
首都大学東京というけったいな名前になってしまって、私には親しみなどもてなかった。
ただ、私が通った校舎は既に八王子に移転してしまっていて、一度も足を踏み入れたことはない。
私の通った校舎は、東京都目黒区八雲1-1-1にあって、東急東横線の都立大学駅から柿の木坂を登ったところにあった。
校歌がなかったので、仲間で飲むとその当時はやった、志村けんの「東村山音頭」をもじって、「目黒区八雲 一丁目 一丁目 一丁目」とふざけて歌った。
私は「柿の木坂は駅まで三里」の歌詞のある『柿の木坂の家』の歌の方が、この大学にふさわしいと思った。
ただ、この歌は広島県の大竹市がモデルだそうだが、私は勝手に渋谷駅から三里離れていると解釈していた。
今の校舎は八王子市南大沢1-1-1にあるそうで、ここで「昔の名前で でています」と、2020年に再デビューするのだという。
私は高校生の頃は、やけに倍率の高い二期校の大学という以外に大して興味はなかった。
ただ、親しかった友人は、この大学に憧れて目指したが、結局二浪して慶応に行った。
都民にとっても、入学金などが安かったので人気があったらしく、都立大学に行きたかったという早稲田大出の人もいて意外に思った。
ただ、以前私の教え子に進学を勧めたことがあるが、筑波大学の方を選んで進んだ。
大学改名のニュースでの取材で学生が話していたように、ネームバリューも人気もなくなっているのだろうと思った。
また「首都大学東京」は、「東京都市大学」という私立大学があるように、名前が紛らわしくて格調もないように感じていた。
そもそも、東京都立大学は英語ではTokyo Metropolitan Universityで、大学のTシャツにはMのイニシャルを使っていた。
ちなみに、東京都市大学はTokyo City Universityだそうで、都市の大きさの差の表現というのもおかしなものである。
私が所属していた当時の東京都立大学大学院の社会人類学コースの魅力は、色んな大学の出身者がいたことである。
都立大学の学部の方から進学する者はあまりいなかった。
埼玉大学出身者が多かったが、東京大学や早稲田、慶応、ICU、から高知大学、信州大学など地方大学出身者も少なからずいた。
私のような、二流私立大学出身者にも門戸が開かれていたのは、ありがたいことだった。
東京大学のような上品なアカデミズムの砦ではなかった。
研究会ではビールを飲みながら激しく鋭く討論する荒稽古の場でもあった。
そこで鍛えられて、多くの研究者を輩出していったのだが、私のように研究者にならずに去って行った者も少なからずいた。
ただ、もし私が都立大学に学んでいなかったら、研究はとっくに捨てていただろうと思う。
生涯研究を続けていこうとしているのは、ここで学んだからだと思う。
今は敷居が高くて踏み入れられない所になってしまったが、ここで学んだこと自体が自分にとっての大きな支えになっている。
そして昔の名前が戻ることは、これからもいっそう私を支え続けてくれるような気がする。
2018年8月27日月曜日
実家の片付け
私の母はが入院している間に、一人暮らしをしていた実家を、遠方から来てくれた兄弟家族が片付けてくれていた。
膝を悪くして以来、動くにも不自由だった母の過ごしていた居間はかなり乱雑な状況だった。
私も気にはなっていたが、庭の手入れなどで結構手間がかかっており、そこまで手が回らなかった。
母が入院したことで、周りの者が本気になって、環境を整えるきっかけとなった。
私も休日を利用して、片付け切れていたないものを整理したり、ゴミを持って帰ったりした。
赤穂の実家は私が中学生以来の住居で、大学で下宿するまでと、大学院を出て教師になるまで暮らした家である。
私にとっては通算すれば10年も住んでいないので、それほど長く住んだというわけではない。
ただ、思春期から今まで色々な出来事の基点となったところで、非常に思い出深い場所であることにはかわりない。
そもそも、この家を建てるときからの様子を今でもつぶさに憶えている。
家はもともと田んぼだった所を、埋め立てたものである。
埋め立てる際には、周りが田んぼだったので、父が手作業で石垣を組んでいった。
今まで住んでいた尾崎の小さな平屋から、二階建ての家を建てることになって、父はすごく張り切っていた。
ある日などは、建築中の家を見に行って、夕方なかなか帰ってこないので呼びに行かされたが、建てかけの家の中で横になって眠っていた。
家が完成するのを、そこで夢見ていたらしい。
それだけ父の思いのこもった家なのだが、最近はどこやここやいたみが酷くなってきていた。
今回も、母が戻ってきて介護ベッドを入れるのも、それなりに手を加えねばならないと思った。
母の寝具をとりあえず二階に置いておこうと、二階の南部屋に久しぶりに上がった。
私が中学高校と一つ下の弟と二段ベッドを置いて二人で使った部屋である。
そのころは、南の窓から小豆島が遠くに美しく見えていた。
今は、隣の家が建っていて、窓を開けるのも気が引ける状態である。
それでも、布団を干しながら、昔、自分の布団を干していた頃を思い出した。
誰も使わなくなった部屋は、昔の面影をかすかに残す程度である。
気がつけば書棚には、私が残していった本がそのまま残っている。
私のこのブログのタイトルに参考にした藤井令一氏の「ヤポネシアのしっぽ」もあった。
6畳ほどの小さな部屋には、若かりし日の数々の思い出がいっぱい詰まっている。
母の退院後は、母の生活を支援するために、ここに訪れることも多くなると思う。
自分の原点、生活の原点を見つめ直すきっかけにもなるのではないかと思っている。
膝を悪くして以来、動くにも不自由だった母の過ごしていた居間はかなり乱雑な状況だった。
私も気にはなっていたが、庭の手入れなどで結構手間がかかっており、そこまで手が回らなかった。
母が入院したことで、周りの者が本気になって、環境を整えるきっかけとなった。
私も休日を利用して、片付け切れていたないものを整理したり、ゴミを持って帰ったりした。
赤穂の実家は私が中学生以来の住居で、大学で下宿するまでと、大学院を出て教師になるまで暮らした家である。
私にとっては通算すれば10年も住んでいないので、それほど長く住んだというわけではない。
ただ、思春期から今まで色々な出来事の基点となったところで、非常に思い出深い場所であることにはかわりない。
そもそも、この家を建てるときからの様子を今でもつぶさに憶えている。
家はもともと田んぼだった所を、埋め立てたものである。
埋め立てる際には、周りが田んぼだったので、父が手作業で石垣を組んでいった。
今まで住んでいた尾崎の小さな平屋から、二階建ての家を建てることになって、父はすごく張り切っていた。
ある日などは、建築中の家を見に行って、夕方なかなか帰ってこないので呼びに行かされたが、建てかけの家の中で横になって眠っていた。
家が完成するのを、そこで夢見ていたらしい。
それだけ父の思いのこもった家なのだが、最近はどこやここやいたみが酷くなってきていた。
今回も、母が戻ってきて介護ベッドを入れるのも、それなりに手を加えねばならないと思った。
母の寝具をとりあえず二階に置いておこうと、二階の南部屋に久しぶりに上がった。
私が中学高校と一つ下の弟と二段ベッドを置いて二人で使った部屋である。
そのころは、南の窓から小豆島が遠くに美しく見えていた。
今は、隣の家が建っていて、窓を開けるのも気が引ける状態である。
それでも、布団を干しながら、昔、自分の布団を干していた頃を思い出した。
誰も使わなくなった部屋は、昔の面影をかすかに残す程度である。
気がつけば書棚には、私が残していった本がそのまま残っている。
私のこのブログのタイトルに参考にした藤井令一氏の「ヤポネシアのしっぽ」もあった。
6畳ほどの小さな部屋には、若かりし日の数々の思い出がいっぱい詰まっている。
母の退院後は、母の生活を支援するために、ここに訪れることも多くなると思う。
自分の原点、生活の原点を見つめ直すきっかけにもなるのではないかと思っている。
2018年8月23日木曜日
米の買い出し
私はもう10年以上玄米食を続けている。
玄米を白米に戻したら、便秘になってしまった。
以前は私一人分だけ、土鍋で玄米を炊いてもらっていた。
今は、玄米を柔らかく炊いて、ギャバも摂取できるという炊飯器を使って家族全員で食べている。
玄米は近所の農家から手頃な値段で30kgを分けてもらっている。
ところが、その玄米を頼んだところ、もう無くなったという。
新米が採れるまでは1ヶ月以上かかると思うので、何とか安く玄米を手に入れたいと手を尽くした。
しかし、近隣のJAの直売所では、30kg単位は年間予約が必要だったという。
少ない量では割高になるので、ネットを調べたりして安い玄米を探した。
しかし、送料もかかるせいか、なかなか安い玄米は見つからない。
そんな時、和気のJAの直売所に米が売っていることを、家内がネットで調べた。
私は青少年教育センター閑谷学校に指導員として半年勤めていたので、和気は職場の直ぐ近くである。
閑谷学校の山陽本線での最寄り駅は吉永で、和気は岡山寄りの次の駅となる。
因みに、閑谷学校までは自宅から車で30分ほどで、赤穂へ行くのと変わらない。
しかし、家内は殆どこの方面に行かないので、遠くに感じたようである。
私自身、吉永より西に滅多に行かなかったし、和気の町自体に行くことは無かった。
今回初めて、和気の町のJA直売所に立ち寄ったのである。
米は地元の米を販売しており、5kg袋だったので30kgをまとめて割り引いて買えないか聞いた。
すると、可能だという。
同じJAでも西播磨とは違うようである。
1年間同じ値段で、30kgを購入できるそうである。
近所の人に分けてもらうよりは、1000円ほど高いけれど、ネットに比べればずいぶん安い。
近所の米が無くなったら、ここを利用しようと思った。
この和気のJA直売所は、上郡の直売所よりずいぶん大きく、野菜、果物、魚まで売ってる。
しかも、日曜だとはいえ多くの人が買い物に来ていた。
この和気からは、備前片上に向かったが、今まで通ったことのない道を通った。
そして、かつては子供とよく日曜日に買い物にやってきた、天満屋の廃墟ビルの前の道にでた。
子供の小さかった頃は、日曜日の午後にはドライブがてら、このあたりまで来て、赤穂の実家によって帰るのが日課だった。
今回は天満屋ではなくて、備前の海の駅に寄ってから、入院している母を見舞いに行った。
近くにあった魅力ある直売所を発見したことで、これからの休日のドライブコースが一つ増えた。
玄米を白米に戻したら、便秘になってしまった。
以前は私一人分だけ、土鍋で玄米を炊いてもらっていた。
今は、玄米を柔らかく炊いて、ギャバも摂取できるという炊飯器を使って家族全員で食べている。
玄米は近所の農家から手頃な値段で30kgを分けてもらっている。
ところが、その玄米を頼んだところ、もう無くなったという。
新米が採れるまでは1ヶ月以上かかると思うので、何とか安く玄米を手に入れたいと手を尽くした。
しかし、近隣のJAの直売所では、30kg単位は年間予約が必要だったという。
少ない量では割高になるので、ネットを調べたりして安い玄米を探した。
しかし、送料もかかるせいか、なかなか安い玄米は見つからない。
そんな時、和気のJAの直売所に米が売っていることを、家内がネットで調べた。
私は青少年教育センター閑谷学校に指導員として半年勤めていたので、和気は職場の直ぐ近くである。
閑谷学校の山陽本線での最寄り駅は吉永で、和気は岡山寄りの次の駅となる。
因みに、閑谷学校までは自宅から車で30分ほどで、赤穂へ行くのと変わらない。
しかし、家内は殆どこの方面に行かないので、遠くに感じたようである。
私自身、吉永より西に滅多に行かなかったし、和気の町自体に行くことは無かった。
今回初めて、和気の町のJA直売所に立ち寄ったのである。
米は地元の米を販売しており、5kg袋だったので30kgをまとめて割り引いて買えないか聞いた。
すると、可能だという。
同じJAでも西播磨とは違うようである。
1年間同じ値段で、30kgを購入できるそうである。
近所の人に分けてもらうよりは、1000円ほど高いけれど、ネットに比べればずいぶん安い。
近所の米が無くなったら、ここを利用しようと思った。
この和気のJA直売所は、上郡の直売所よりずいぶん大きく、野菜、果物、魚まで売ってる。
しかも、日曜だとはいえ多くの人が買い物に来ていた。
この和気からは、備前片上に向かったが、今まで通ったことのない道を通った。
そして、かつては子供とよく日曜日に買い物にやってきた、天満屋の廃墟ビルの前の道にでた。
子供の小さかった頃は、日曜日の午後にはドライブがてら、このあたりまで来て、赤穂の実家によって帰るのが日課だった。
今回は天満屋ではなくて、備前の海の駅に寄ってから、入院している母を見舞いに行った。
近くにあった魅力ある直売所を発見したことで、これからの休日のドライブコースが一つ増えた。
2018年8月21日火曜日
末期癌のお坊さんに学んだこと
義父の初盆で家内の実家に行った。
そろそろ、時間の11時なのになかなか、お坊さんが来られない。
玄関先で待っていると、10分近く遅れてやってこられた。
ご挨拶をして、「お体の具合はいかがですか」と尋ねると、「薬がはずれて」というので、てっきり薬が不必要になったと思った。
実はお坊さんは末期癌で、余命も宣告されていた。
まだ、70歳代で元気そうなので、気の毒に思っていた。
このお坊さんは、以前は中学校の教師をしながら住職を勤めてきた人だった。
おつとめが済んで、お話をしている中で、その癌のことに及んだ。
「私は病気だが、病人では無い」という。
つまり、治療をしながら、普通に生活をしていると言うことである。
実は、「薬がはずれて」というのは、朝にしていた「点滴をはずして」という意味だった。
身体には自宅でも点滴ができるようにな装置を付けていて、自宅で点滴治療をしているという。
来るのが少々遅くなったのも、その影響であったかもしれない。
薬で治療しているが、その薬も効かなくなって、新しいのを試したりしているそうだ。
その新しい薬を合わせるのも、結構大変なことだという。
そしてお元気そうに見えるのだが、確実に癌の病巣は大きくなっているという。
このお坊さんも、癌が分かった当初は、「なんで私が?」「なんでこの歳で?」と辛かったそうである。
そのうち、教え子の癌の専門医と話をしたりして、限りある時間をしっかり生きようと思い苦しくなくなったという。
「病気であっても、病人になってはいけない」
というのが、このお坊さんの教えである。
そういえば、私も糖尿病だが、病人とは思っていない。
病気によっては、入院治療や自宅療養で仕事ができない人もいる。
しかし、自宅で点滴治療をしながら、こうして僧侶としての務めを果たしておられる末期癌患者もいらっしゃる。
仕事ができなくても、生きていることそれ自体に意味がある人もいる。
義母が義父の存在の意味を死によって初めて分かったとこの初盆で言っていた。
末期癌は、死を迎える前に、その人の存在意味を自他共に知らしめてくるものかも知れない。
「死」を意識しないということは、逆に「生」そのものを意識しないことなのだと思う。
そして、病気や死、苦難をどう意味づけるかは、本人の気持ちであり、前向きに意味づけるか後ろ向きに意味づけるかで生き方も違ってくる。
後ろ向きに意味づけてしまうと、いわゆる「病人」になってしまうと言うことだ。
お坊さんと初盆は、大切なことを学んだと思う。
そろそろ、時間の11時なのになかなか、お坊さんが来られない。
玄関先で待っていると、10分近く遅れてやってこられた。
ご挨拶をして、「お体の具合はいかがですか」と尋ねると、「薬がはずれて」というので、てっきり薬が不必要になったと思った。
実はお坊さんは末期癌で、余命も宣告されていた。
まだ、70歳代で元気そうなので、気の毒に思っていた。
このお坊さんは、以前は中学校の教師をしながら住職を勤めてきた人だった。
おつとめが済んで、お話をしている中で、その癌のことに及んだ。
「私は病気だが、病人では無い」という。
つまり、治療をしながら、普通に生活をしていると言うことである。
実は、「薬がはずれて」というのは、朝にしていた「点滴をはずして」という意味だった。
身体には自宅でも点滴ができるようにな装置を付けていて、自宅で点滴治療をしているという。
来るのが少々遅くなったのも、その影響であったかもしれない。
薬で治療しているが、その薬も効かなくなって、新しいのを試したりしているそうだ。
その新しい薬を合わせるのも、結構大変なことだという。
そしてお元気そうに見えるのだが、確実に癌の病巣は大きくなっているという。
このお坊さんも、癌が分かった当初は、「なんで私が?」「なんでこの歳で?」と辛かったそうである。
そのうち、教え子の癌の専門医と話をしたりして、限りある時間をしっかり生きようと思い苦しくなくなったという。
「病気であっても、病人になってはいけない」
というのが、このお坊さんの教えである。
そういえば、私も糖尿病だが、病人とは思っていない。
病気によっては、入院治療や自宅療養で仕事ができない人もいる。
しかし、自宅で点滴治療をしながら、こうして僧侶としての務めを果たしておられる末期癌患者もいらっしゃる。
仕事ができなくても、生きていることそれ自体に意味がある人もいる。
義母が義父の存在の意味を死によって初めて分かったとこの初盆で言っていた。
末期癌は、死を迎える前に、その人の存在意味を自他共に知らしめてくるものかも知れない。
「死」を意識しないということは、逆に「生」そのものを意識しないことなのだと思う。
そして、病気や死、苦難をどう意味づけるかは、本人の気持ちであり、前向きに意味づけるか後ろ向きに意味づけるかで生き方も違ってくる。
後ろ向きに意味づけてしまうと、いわゆる「病人」になってしまうと言うことだ。
お坊さんと初盆は、大切なことを学んだと思う。
2018年8月20日月曜日
あしなが蜂に刺されて
昨日(8/16)、仕事でタマツゲの剪定を電動バリカンで行っていた。
何本か何事も無く、順調に刈り上げていたのだが、ふいに左手に鋭い痛み、同時にアシナガバチらしきものが飛び立った。
刺された数は3カ所以上で、痛くて場所を特定もできない。
事務所に戻り、ネットで対策を調べてもらったら、水で流して毒を絞り出せという。
しかし、刺された場所らしきところは、痛くて絞り出すことなどできない。
とにかく、冷やして病院に行くことになった。
病院では消毒をして、湿布を貼るだけ、すでに首筋にじんましんが出ていたが、アナフィラキシーに備えて安静にするだけだった。
幸いじんましん以外のショック症状も無く、職場に戻ることになった。
今晩は風呂は駄目で、腫れが引くまではプールには入れないという。
左手はすでに腫れ上がって痛くて、物をつかむこともできないので、当然運転ができない。
私の車はマニュアル車で、左手が使えないと運転ができない。
家内に連絡をとって、迎えにこれるようにしてと頼んでおいた。
結局、仕事はこれ以上不可能で、自宅に戻ることになった。
家内に迎えに来てもらい、自宅に戻ってから、左手が濡れないようにシャワーを浴びて、安静にした。
じっとしていても、左手は脈拍にあわせてドクドク痛む。
お医者さんには酒は駄目と言われたが、酒どころか食欲もない。
何とか食事をすませて ,居間でそのまま眠っていた。
寝室で寝ようと、二階に上がると寒気がする。
気温も低くなっていたが、熱があるらしい。
押し入れから、布団を引っ張り出してくるまって眠った。
翌朝は比較的痛みは治まったが、上の写真ように腫れは広がっている。
家内が以前蜂に刺されたときに、アロエが効いたというので、アロエを貼り付けたりした。
この日は、午前中はできるだけ安静にして、午後からは仕事に出かけた。
何本か何事も無く、順調に刈り上げていたのだが、ふいに左手に鋭い痛み、同時にアシナガバチらしきものが飛び立った。
刺された数は3カ所以上で、痛くて場所を特定もできない。
事務所に戻り、ネットで対策を調べてもらったら、水で流して毒を絞り出せという。
しかし、刺された場所らしきところは、痛くて絞り出すことなどできない。
とにかく、冷やして病院に行くことになった。
病院では消毒をして、湿布を貼るだけ、すでに首筋にじんましんが出ていたが、アナフィラキシーに備えて安静にするだけだった。
幸いじんましん以外のショック症状も無く、職場に戻ることになった。
今晩は風呂は駄目で、腫れが引くまではプールには入れないという。
左手はすでに腫れ上がって痛くて、物をつかむこともできないので、当然運転ができない。
私の車はマニュアル車で、左手が使えないと運転ができない。
家内に連絡をとって、迎えにこれるようにしてと頼んでおいた。
結局、仕事はこれ以上不可能で、自宅に戻ることになった。
家内に迎えに来てもらい、自宅に戻ってから、左手が濡れないようにシャワーを浴びて、安静にした。
じっとしていても、左手は脈拍にあわせてドクドク痛む。
お医者さんには酒は駄目と言われたが、酒どころか食欲もない。
寝室で寝ようと、二階に上がると寒気がする。
気温も低くなっていたが、熱があるらしい。
押し入れから、布団を引っ張り出してくるまって眠った。
翌朝は比較的痛みは治まったが、上の写真ように腫れは広がっている。
家内が以前蜂に刺されたときに、アロエが効いたというので、アロエを貼り付けたりした。
この日は、午前中はできるだけ安静にして、午後からは仕事に出かけた。
2018年8月18日土曜日
村の盆踊り2018年
今年は我が家は村自治会の隣保長にも当たっている。
盆踊りの準備をだいぶ前からしていた。
といっても、集まってうだうだと話をしただけで、村役のメンバーが殆どしてくれていた。
当日(8/13)の朝は、盆踊りを行う広場の草刈りから始まった。
草刈りは一度は盆踊りのために行っているが、それから時間が経ってしまっているのでかなりぼうぼうになっている。
私は事前に分かっていたので、完全装備で草刈り機を持って出かけた。
この村作業は全員参加が原則なので、多くの人が出てくるが、お年寄りや年配の女性は日陰で観ているだけである。
若い人を中心に汗にまみれて作業をしているのだが、お願いされても手伝う気配も無い。
と言いいながら、手伝われて倒れられても困るのだが・・・・
朝の草刈りとやぐら建ての準備は何とか済んで、夕方5時に集合となった。
夕方になって準備にかかろうとすると、雷の怪しい雲いき。
黒い雲が北側の空をおおっているし、時折雷鳴も聞こえる。
準備に来た人たちは準備にかかるか、中止するか決断を待っているが、なかなか責任者は判断できない。
ポツポツと雨が降り出したので、同世代の役員と近くの倉庫の庇の下でうだうだと喋っていた。
その話の中で、来年は盆踊りでは無くて、近くの村のように納涼祭にしてはどうかという話になった。
盆踊りのようにやぐらを建てて大がかりに準備しなくて良いからである。
その代わり、焼きそばや鶏の唐揚げを準備するというものである。
確かに、踊り手の少なくなった現在ではそちらの方が現実的なような気もした。
何とかできそうだというので、準備にかかり始めた。
私は村の一人から、音響機器を借りに行くのを手伝いに行った。
その音響機器の持ち主は、写真やカラオケなど多趣味な人で、離れを趣味の部屋にしている。
そこには素晴らしい音響機器と、長年集めたカメラが陳列されていた。
前から一緒に歌うことをお誘いされていたのだが、カラオケ装置もしっかりと設置されている。
今度同じ村の音楽好きの仲間と一緒に押しかけるのも良いかなとも思った。
軽トラに一式積み込んで、会場のやぐらの下に設置した。
そして、用意された飲み物を準備係の人と飲みながら、村の人が集まるのを待った。
今回もビールか発泡酒かで迷ったあげく、発泡酒と酎ハイになった。
ビールを出さないから、盆踊りにやってこないのだというが、予算的に厳しい。
私が普段飲んでいる第三のビールは、候補にさえ挙がらなかった。
村の人は発泡酒より高いビールを飲んでいるらしい。
本当に多くの人が来てくれるのか心配したが、結構多くの人が集まってきてくれた。
親戚の子供なども混じっているが、これだけ多くの人が村には居たのだと改めて思った。
ただ、顔を見ても誰なのか分からない場合が殆どである。
新しい住宅地に引っ越してきた人たちは殆ど参加していなかった。
そう言いながら、私自身も子供が大きくなってから、係になるまで殆ど参加してこなかった。
盆踊りの主役は子供や若い人、ご婦人であることもあって、何となく気後れがしていた。
こうやって多くの人が楽しめるのなら、誰もが気軽に集まってこられる催しにできないかと思う。
今は飲食物やビンゴゲーム、福引きで人集めしているが、もっとゆっくり気楽に楽しめる催しになって欲しいと思った。
そして、どうせ踊るのなら、今はやりの「ダンシングヒーロー」の盆踊り版などをやってみるのも手だと思った。
私はディスコ(表現が古い)の方が好きなのだが・・・・
盆踊りの準備をだいぶ前からしていた。
といっても、集まってうだうだと話をしただけで、村役のメンバーが殆どしてくれていた。
当日(8/13)の朝は、盆踊りを行う広場の草刈りから始まった。
草刈りは一度は盆踊りのために行っているが、それから時間が経ってしまっているのでかなりぼうぼうになっている。
私は事前に分かっていたので、完全装備で草刈り機を持って出かけた。
この村作業は全員参加が原則なので、多くの人が出てくるが、お年寄りや年配の女性は日陰で観ているだけである。
若い人を中心に汗にまみれて作業をしているのだが、お願いされても手伝う気配も無い。
と言いいながら、手伝われて倒れられても困るのだが・・・・
朝の草刈りとやぐら建ての準備は何とか済んで、夕方5時に集合となった。
夕方になって準備にかかろうとすると、雷の怪しい雲いき。
黒い雲が北側の空をおおっているし、時折雷鳴も聞こえる。
準備に来た人たちは準備にかかるか、中止するか決断を待っているが、なかなか責任者は判断できない。
ポツポツと雨が降り出したので、同世代の役員と近くの倉庫の庇の下でうだうだと喋っていた。
その話の中で、来年は盆踊りでは無くて、近くの村のように納涼祭にしてはどうかという話になった。
盆踊りのようにやぐらを建てて大がかりに準備しなくて良いからである。
その代わり、焼きそばや鶏の唐揚げを準備するというものである。
確かに、踊り手の少なくなった現在ではそちらの方が現実的なような気もした。
何とかできそうだというので、準備にかかり始めた。
私は村の一人から、音響機器を借りに行くのを手伝いに行った。
その音響機器の持ち主は、写真やカラオケなど多趣味な人で、離れを趣味の部屋にしている。
そこには素晴らしい音響機器と、長年集めたカメラが陳列されていた。
前から一緒に歌うことをお誘いされていたのだが、カラオケ装置もしっかりと設置されている。
今度同じ村の音楽好きの仲間と一緒に押しかけるのも良いかなとも思った。
軽トラに一式積み込んで、会場のやぐらの下に設置した。
そして、用意された飲み物を準備係の人と飲みながら、村の人が集まるのを待った。
今回もビールか発泡酒かで迷ったあげく、発泡酒と酎ハイになった。
ビールを出さないから、盆踊りにやってこないのだというが、予算的に厳しい。
私が普段飲んでいる第三のビールは、候補にさえ挙がらなかった。
村の人は発泡酒より高いビールを飲んでいるらしい。
本当に多くの人が来てくれるのか心配したが、結構多くの人が集まってきてくれた。
親戚の子供なども混じっているが、これだけ多くの人が村には居たのだと改めて思った。
ただ、顔を見ても誰なのか分からない場合が殆どである。
新しい住宅地に引っ越してきた人たちは殆ど参加していなかった。
そう言いながら、私自身も子供が大きくなってから、係になるまで殆ど参加してこなかった。
盆踊りの主役は子供や若い人、ご婦人であることもあって、何となく気後れがしていた。
こうやって多くの人が楽しめるのなら、誰もが気軽に集まってこられる催しにできないかと思う。
今は飲食物やビンゴゲーム、福引きで人集めしているが、もっとゆっくり気楽に楽しめる催しになって欲しいと思った。
そして、どうせ踊るのなら、今はやりの「ダンシングヒーロー」の盆踊り版などをやってみるのも手だと思った。
私はディスコ(表現が古い)の方が好きなのだが・・・・
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