私は大学に入った時は研究者を目指すつもりなどなかった。
どちらかというとミュージシャンになりたかった。
しかし、村落調査のサークルに入って、その魅力にとりつかれてしまった。
そして、いつしか大学院へ行って研究を続けたいと思った。
当然、語学や専門は大して勉強していなかったので、ゼミの先生からは都立大学大学院に入るのは(卒業後)二~三年はかかると言われた。
それは、都立大の先輩の中でそういう人がいて、私の大学がその先輩の大学のレベルより低かったのでそう思われたようだ。
当時の都立大学大学院の先輩は、都立大からの進学はあまりなく、他の国公立や有名私学の出身者が殆どで、中には東大を出た人もいた。
そう言われた私は、学部を留年か卒業かは分からないが、大学院での必要な資金を稼いでいるうちに合格できるかもしれないくらいに思っていた。
ところが、現役で合格してしまい、親からの支援も全くなく、非常に貧しい生活を余儀なくされた。
私の兄弟は4人男兄弟で、弟も大学に進学したので、親には私を支援する余力は全くなかった。
その時のことは、以前に「人生を左右する奨学金」というタイトルで、くわしく書いている。
そして、今回の退職でその大学院時代におくった生活に逆戻りすることになった。
三年前に早期退職した時には、家内との約束した研究するための半年の期限が切れて、それ以降は常勤の仕事を始めた。
NPOの農業に始まって、閑谷学校の指導員、プールのインストラクター、定時制高校の常勤臨時講師、常勤臨時教諭と続いた。
プールのインストラクターは、非常勤であったが、それほど長くは勤めていない。
この4月からは、自分の希望で非常勤講師をすることになった。
常勤を求められたが、常勤の勤めはどうしても拘束時間が長くて、思うように研究が進まなかったからだ。
何としても、今年度中に出版までこぎ着けたかったので非常勤講師をお願いした。
当然そうなると、収入が大きく減るので、家計的には厳しくなる。
今回も家内には苦労をかけることになる。
家内には貧乏学生だった頃の話をする。
当然、「時代が違う」と一蹴される。
確かに、車も携帯電話も持たなかった当時と比べれば、生活費はかなり違う。
ただ、当時の東京近郊の暮らしは、結構生活費も高くついていた。
東京中野の風呂・便所なしの6畳一間の1kアパートで23,000円
新宿区の西落合の風呂なし2DKで37,000円
横浜緑区の長津田の風呂・便所有りの2DKで48.000円かかった。
現在は家のローンは払い終わっているので、固定資産税が家賃のようなものだが、月額に直せば一万円ほどだ。
電気代や水道代は当時とそう変わらないと思う。
大学院生時代は、通学費、授業料や本代もかかったのだから、結構経費はかかっている。
その分、今より食費や衣料費などを削っていたように思う。
特に東京中野での暮らしは貧しかったのだが、家庭教師をし始めてからは、美味しいケーキにありつけていた。
学部生の頃も、院生のころも貧しい生活をしていたのに、惨めに思ったことは無い。
周りの仲間もみんな貧しかったからだ。
そして、若さ故に将来にもそんなに不安を感じてはいなかった。
それは支えてくれている人がいたことと、第一線の研究をするのだという意欲があったからだと思う。
それを同時に失った時に、とてつもない不安に襲われた。
今は、研究機関に属してはいないけれど、第一線の研究をしようという意欲がある。
何よりも、幾分の蓄えと自分を支えてくれている家内や家族がいる。
大学院生の時のような気持ちを持つ条件がそろっているのである。
確かに昔のように大きな夢を描くことはできないが、生きる意味を見いだせるし、果たせなかった研究課題をやり遂げる目標がある。
それが地位、名誉、収入には結びつかないかもしれない。
豪華客船や列車の旅や豪華な料理を食べることもできないだろう。
そのかわり、心豊かで充実した日々が送れるように思える。
ポツンと一軒家に多くの人が魅力を感じるのは、単に人里を離れているからでは無い。
世間に惑わされずに、不便ながらも自分なりの世界で自由な生活をしていることに憧れるからだと思う。
何も人里離れて一軒家に住まなくても、どこにでもその気になればそういう生活は可能だと思う。
ある意味で自分にとって大学院時代の一時期が、東京圏の中のポツンと一軒家だったのかも知れない。
これから常勤の仕事から、非常勤の仕事に変わるのは、ポツンと一軒家暮らしになるのと似ているように思える。
それに付き合う家内には気の毒にも思うが、いずれその良さにも気づいてくれるのではないかと願っている・・・
貧しくても夢を抱いて、ずっとときめき続けていたあの素晴らしい日々よもう一度・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2020年3月31日火曜日
2020年3月25日水曜日
されど1年
東京オリンピックが1年延長されることが決まった。
そのニュースを聞いて私は「自分はもう一年我慢できなかった」と思わず家内の横で口走った。
1986年のちょうど今頃、修士論文が上手く仕上がらなくて、指導教官の教授から、もう一年頑張るように勧められていた。
自分は修士は三年目で、修論のためにアルバイトも辞めて、パラサイトの状態にあった。
その立場からも精神的に自分で自分を追い詰めて、十二指腸潰瘍を患い、入院するように医者から言われたのはその数ヶ月前だった。
こんな状況をもう一年続けることは、心身ともできないと、半ば自暴自棄になって、修論は通してもらうことにした。
修論は博士に行けるかどうかの試練で、多くの先輩は死ぬ思いで苦しんでいたのは知っていた。
知った人の中には情緒不安定になって治療を受けたり、ぎっくり腰になって救急車で運ばれた人もいた。
何より、良い論文が書けなくて、博士課程に進学するのを諦めた先輩の文献を、私は月賦で譲り受けていた。
私は村落調査を使って修論を書くという上での、心構えがきっちりできていなかった。
調査してすぐは、どうしても資料の整理も付かず、しかもどの資料も使いたくなる。
だから、しばらく時間をおいて、じっくり資料を整理し、分析しなければならない。
結局、手を広げすぎて、まとめきれなくなってしまったのである。
だから、先輩達が普通3年(本来は2年)で書き上げるところを、4年かかっても恥ずかしくは無かったのだ。
だけれど、ぎりぎりの状態で過ごした1年が延長されるという苦しみが耐えられないように思えた。
今から考えれば、既に下書きができていたので、もう少し手直しすれば良いだけだった。
アルバイトも再開して、暮らしも楽にできたはずだった。
おそらく、そういうアドバイスは博士課程の多くの先輩や、仲間から受けていたはずだ。
多くの先輩は、今までやってきたことが無駄になることを惜しんで、強く引き留めてくれた。
しかし、錯乱して自分を失った私の心には、どんなアドバイスも優しい言葉も届かなかった。
60年あまりも生きると、たかがもう1年くらい我慢できたはずだと思う。
当時25歳での1年は、25分の1、今は60分の1である。
1年の重みが今の2.4倍あると思える。
60歳の今の感覚では約2年半に匹敵する。
ただ、人生を左右する上での一年は、大切な一年として我慢して堪えることも必要であることをそのすぐ後に思い知る。
私は研究する機会どころか大切な人も傷つけ、同時に失うことになってしまった。
大学時代からの親友には、「(フェデリコ・フェリーニ監督の映画)「道」*の主人公(ザンパノ)と同じだ」と言われた。
大切な人のことをろくに考えもせず、その愛情の上にあぐらをかき続けていたのは自分であった。
そして、映画とは違い、自分ではなくその人が去って行き、その存在の大きさを思い知って慟哭する。
この悲劇は私の心に傷となって今も消し去ることはできない。
もう一年我慢できていたら、別の人生が開けていたかも知れないし、大切な人を失わなくて済んだのかも知れない。
ただ、この経験があったからこそ、その後の人生で同じような過ちをするまいと生きてこられた。
そして今のように、故郷で自分らしい生活もできている。
この道で暮らしていける研究者にはなれなかったが、細々と研究は続けられている。
そして何よりも、30年以上も連れ添える伴侶にも巡り会い、家族を築くことができた。
人生において、もう1年我慢することの意味は、人によって大きく違うだろう。
多くのアスリートは、前向きに考えられていると思うが、ぎりぎりで耐えている人もいるだろう。
我慢できても我慢できなくても、その1年をどう評価するかはその後の人生にかかっているようにも思える。
ただ、今更思う。
たかが1年・・・我慢できていたら・・・・・
されど1年 本当に悔しいけれど・・・
小いさ過ぎた自分の限界だった・・・
*道 (1954年の映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93_(1954%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
そのニュースを聞いて私は「自分はもう一年我慢できなかった」と思わず家内の横で口走った。
1986年のちょうど今頃、修士論文が上手く仕上がらなくて、指導教官の教授から、もう一年頑張るように勧められていた。
自分は修士は三年目で、修論のためにアルバイトも辞めて、パラサイトの状態にあった。
その立場からも精神的に自分で自分を追い詰めて、十二指腸潰瘍を患い、入院するように医者から言われたのはその数ヶ月前だった。
こんな状況をもう一年続けることは、心身ともできないと、半ば自暴自棄になって、修論は通してもらうことにした。
修論は博士に行けるかどうかの試練で、多くの先輩は死ぬ思いで苦しんでいたのは知っていた。
知った人の中には情緒不安定になって治療を受けたり、ぎっくり腰になって救急車で運ばれた人もいた。
何より、良い論文が書けなくて、博士課程に進学するのを諦めた先輩の文献を、私は月賦で譲り受けていた。
私は村落調査を使って修論を書くという上での、心構えがきっちりできていなかった。
調査してすぐは、どうしても資料の整理も付かず、しかもどの資料も使いたくなる。
だから、しばらく時間をおいて、じっくり資料を整理し、分析しなければならない。
結局、手を広げすぎて、まとめきれなくなってしまったのである。
だから、先輩達が普通3年(本来は2年)で書き上げるところを、4年かかっても恥ずかしくは無かったのだ。
だけれど、ぎりぎりの状態で過ごした1年が延長されるという苦しみが耐えられないように思えた。
今から考えれば、既に下書きができていたので、もう少し手直しすれば良いだけだった。
アルバイトも再開して、暮らしも楽にできたはずだった。
おそらく、そういうアドバイスは博士課程の多くの先輩や、仲間から受けていたはずだ。
多くの先輩は、今までやってきたことが無駄になることを惜しんで、強く引き留めてくれた。
しかし、錯乱して自分を失った私の心には、どんなアドバイスも優しい言葉も届かなかった。
60年あまりも生きると、たかがもう1年くらい我慢できたはずだと思う。
当時25歳での1年は、25分の1、今は60分の1である。
1年の重みが今の2.4倍あると思える。
60歳の今の感覚では約2年半に匹敵する。
ただ、人生を左右する上での一年は、大切な一年として我慢して堪えることも必要であることをそのすぐ後に思い知る。
私は研究する機会どころか大切な人も傷つけ、同時に失うことになってしまった。
大学時代からの親友には、「(フェデリコ・フェリーニ監督の映画)「道」*の主人公(ザンパノ)と同じだ」と言われた。
大切な人のことをろくに考えもせず、その愛情の上にあぐらをかき続けていたのは自分であった。
そして、映画とは違い、自分ではなくその人が去って行き、その存在の大きさを思い知って慟哭する。
この悲劇は私の心に傷となって今も消し去ることはできない。
もう一年我慢できていたら、別の人生が開けていたかも知れないし、大切な人を失わなくて済んだのかも知れない。
ただ、この経験があったからこそ、その後の人生で同じような過ちをするまいと生きてこられた。
そして今のように、故郷で自分らしい生活もできている。
この道で暮らしていける研究者にはなれなかったが、細々と研究は続けられている。
そして何よりも、30年以上も連れ添える伴侶にも巡り会い、家族を築くことができた。
人生において、もう1年我慢することの意味は、人によって大きく違うだろう。
多くのアスリートは、前向きに考えられていると思うが、ぎりぎりで耐えている人もいるだろう。
我慢できても我慢できなくても、その1年をどう評価するかはその後の人生にかかっているようにも思える。
ただ、今更思う。
たかが1年・・・我慢できていたら・・・・・
されど1年 本当に悔しいけれど・・・
小いさ過ぎた自分の限界だった・・・
*道 (1954年の映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93_(1954%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
2020年3月23日月曜日
壊れかけの家
この週末は父の13回忌で赤穂の親元の家を片付けて、法事を行った。
コロナウィリスの感染が無ければ、読経してもらった後は、近くのホテルでみんなで宿泊する予定だった。
しかし、この騒ぎでホテルに宿泊することは取りやめになった。
母が感染してはいけないというので、名古屋や東京近辺に住む弟たちは参加するのを迷った。
しかし、今施設に入所してリハビリをしている母が、感染を警戒して外泊どころか面会もできなくなった。
それで、却って参加するのをためらっていた弟やその家族も参加できることになった。
ただ、家で仕出しをとったり、買い出しをして、こじんまりとやることになった。
だから、その準備や片付けが却って大変になってしまった。
私の実家はもう既に築45年以上となり、特に居間の床などが壊れかけている。
色々と修理する必要が出ているのだが、母が一人で暮らすだけだし、その後に誰も住む予定が無い。
無理して全面的に修理する必要が無いと言うことで、何とか母が暮らせるだけにしてあった。
このところ、母も調子が悪くて、集まって食事などをする機会が無かった。
法事も、これまで殆ど食事は宿泊施設を使っていた。
だから、この家で飲食をするのは何年かぶりということだった。
以前は兄弟の家族が集まって、賑やかに盆や正月を過ごした。
今回は、その場にいた父も母もいない。
ただ、私には甥、両親には孫が結婚して、その嫁が加わってくれた。
残念ながら神奈川県の葉山に住む弟夫婦だけは参加できなかった。
寺の住職さんは、その息子さんを高校で教えた関係から親しくて、色々と話が弾んだ。
赤穂の情報は色々と住職さんから聞くことができた。
また、この法事は去年結婚した甥夫婦のお披露目のようにもなった。
甥はパイロットをしているので、その話を聞かせてもらった。
やはり、上郡の上空も飛んでいるというので、これから空を眺めるのが楽しみになった。
また、みんなには美味しい赤穂の坂越の牡蠣も食べてもらった。
これから家をどうするかなど、弟と話をした。
母が亡くなった後、リフォームしてまで、住もうという親族は誰もいない。
いずれ解体して処分せねばならないだろう。
ただ、家を掃除したり片付けたりしている時に、ふとこの家であったことを思い出した。
この家を舞台にして、色々な物語が繰り広げられた。
親兄弟だけではなく、隣の祖母家族との関わりも多かった。
私は友達を招いて泊まらせて、賑やかにやったこともある。
付き合っていた彼女や恋人との想い出もある。
そして、家内との思い出も残っている家である。
多くの想い出が刻まれた家は、その記憶を甦らせてくれる場所でもある。
できることなら残しておきたい。
しかし、これから先、年金暮らしをするのに、固定資産税など余分な経費をかけられない。
想い出だけのために家は維持できないのだと思う。
せめて、母が元気な内だけは、何とか守っていきたいと思ってはいるのだが・・・
コロナウィリスの感染が無ければ、読経してもらった後は、近くのホテルでみんなで宿泊する予定だった。
しかし、この騒ぎでホテルに宿泊することは取りやめになった。
母が感染してはいけないというので、名古屋や東京近辺に住む弟たちは参加するのを迷った。
しかし、今施設に入所してリハビリをしている母が、感染を警戒して外泊どころか面会もできなくなった。
それで、却って参加するのをためらっていた弟やその家族も参加できることになった。
ただ、家で仕出しをとったり、買い出しをして、こじんまりとやることになった。
だから、その準備や片付けが却って大変になってしまった。
私の実家はもう既に築45年以上となり、特に居間の床などが壊れかけている。
色々と修理する必要が出ているのだが、母が一人で暮らすだけだし、その後に誰も住む予定が無い。
無理して全面的に修理する必要が無いと言うことで、何とか母が暮らせるだけにしてあった。
このところ、母も調子が悪くて、集まって食事などをする機会が無かった。
法事も、これまで殆ど食事は宿泊施設を使っていた。
だから、この家で飲食をするのは何年かぶりということだった。
以前は兄弟の家族が集まって、賑やかに盆や正月を過ごした。
今回は、その場にいた父も母もいない。
ただ、私には甥、両親には孫が結婚して、その嫁が加わってくれた。
残念ながら神奈川県の葉山に住む弟夫婦だけは参加できなかった。
寺の住職さんは、その息子さんを高校で教えた関係から親しくて、色々と話が弾んだ。
赤穂の情報は色々と住職さんから聞くことができた。
また、この法事は去年結婚した甥夫婦のお披露目のようにもなった。
甥はパイロットをしているので、その話を聞かせてもらった。
やはり、上郡の上空も飛んでいるというので、これから空を眺めるのが楽しみになった。
また、みんなには美味しい赤穂の坂越の牡蠣も食べてもらった。
これから家をどうするかなど、弟と話をした。
母が亡くなった後、リフォームしてまで、住もうという親族は誰もいない。
いずれ解体して処分せねばならないだろう。
ただ、家を掃除したり片付けたりしている時に、ふとこの家であったことを思い出した。
この家を舞台にして、色々な物語が繰り広げられた。
親兄弟だけではなく、隣の祖母家族との関わりも多かった。
私は友達を招いて泊まらせて、賑やかにやったこともある。
付き合っていた彼女や恋人との想い出もある。
そして、家内との思い出も残っている家である。
多くの想い出が刻まれた家は、その記憶を甦らせてくれる場所でもある。
できることなら残しておきたい。
しかし、これから先、年金暮らしをするのに、固定資産税など余分な経費をかけられない。
想い出だけのために家は維持できないのだと思う。
せめて、母が元気な内だけは、何とか守っていきたいと思ってはいるのだが・・・
2020年3月10日火曜日
壊れかけのラジカセ
ふと収納箱の片隅にあったカセットテープが目に付いた。
中学生の頃から社会人になるまで、ずっとそばに有ったのはラジカセだった。
それがMDになり、CDになっていった。
そして、MP3で聴くようになってから、全くカセットとは縁が切れてしまった。
最近は、音楽は聞き飽きたMP3より、Youtubeで聴く方が多くなった。
いつしか、家にはCDもカセットも再生できるレコードプレイヤーは殆ど壊れて使えなくなってしまっていた。
どうしても、昔のカセットの音を保存したくて、カセットの音楽をMP3に変換するカセットプレーヤーをネットで買った。
USBメモリーに直接MP3で録音できるタイプを買った。
ところが、最初は上手くいったのに、途中で録音が止まったり、記録されたファイルが壊れていたりした。
何が原因か分からないので、とりあえずパソコンのマイク入力で録音することにした。
これには、マイク設定や必要なアプリのインストールしたりして面倒だった。
しかし、そうしてもマイク入力にすると、エコーがかかってしまい不自然になる。
ひょっとしら、USBメモリーに問題があるのかと、新しい超高速メモリータイプというのを買ってきた。
そうすると上手く録音できるようになった。
要するに書き込みが間に合っていなかったようだ。
持っていた多くのカセットテープも最初はどこにしまったか分からなくなっていた。
VHSは大切に座敷の押し入れにしまっていたのだが、押し入れにも無い。
ひょっとしたらと思い、庭の倉庫の棚を調べてみると、二箱の段ボールにいっぱい無造作に入っていた。
それをクリアーボックスに移していたが、タイトルを見るたびに昔の記憶が甦った。
今でもCDで手に入れることはできるけど、それには当時と同じだけの時間が必要になる。
金銭面ではレンタルで借りてやすくできるけれど、当時ほど時間をかけることはできない。
カセットテープの音楽を聴いてみると、殆ど劣化していなくてそこそこいい音がしている。
確かに雑音や機械音がするけれど、心なしかCDやYoutubeより親しみある音に感じる。
MP3で保存しておいて、カセットで聴き続けても良いと思った。
それにしても、残された多くのカセットを手に取ってみると、今より幅広いジャンルの音楽を聴いていたことが分かる。
特に、最近では殆ど聴かなくなったJazzもある。
大学時代にはよく友達や彼女とジャズ喫茶に行って聴いていたのを思いだした。
バンド活動をやめてからも、ずっと音楽はそばにあった
中でもラジカセは人生においても、本当の幸せを教え続けてくれていたのかも知れない。
中学生の頃から社会人になるまで、ずっとそばに有ったのはラジカセだった。
それがMDになり、CDになっていった。
そして、MP3で聴くようになってから、全くカセットとは縁が切れてしまった。
最近は、音楽は聞き飽きたMP3より、Youtubeで聴く方が多くなった。
いつしか、家にはCDもカセットも再生できるレコードプレイヤーは殆ど壊れて使えなくなってしまっていた。
どうしても、昔のカセットの音を保存したくて、カセットの音楽をMP3に変換するカセットプレーヤーをネットで買った。
USBメモリーに直接MP3で録音できるタイプを買った。
ところが、最初は上手くいったのに、途中で録音が止まったり、記録されたファイルが壊れていたりした。
何が原因か分からないので、とりあえずパソコンのマイク入力で録音することにした。
これには、マイク設定や必要なアプリのインストールしたりして面倒だった。
しかし、そうしてもマイク入力にすると、エコーがかかってしまい不自然になる。
ひょっとしら、USBメモリーに問題があるのかと、新しい超高速メモリータイプというのを買ってきた。
そうすると上手く録音できるようになった。
要するに書き込みが間に合っていなかったようだ。
持っていた多くのカセットテープも最初はどこにしまったか分からなくなっていた。
VHSは大切に座敷の押し入れにしまっていたのだが、押し入れにも無い。
ひょっとしたらと思い、庭の倉庫の棚を調べてみると、二箱の段ボールにいっぱい無造作に入っていた。
それをクリアーボックスに移していたが、タイトルを見るたびに昔の記憶が甦った。
今でもCDで手に入れることはできるけど、それには当時と同じだけの時間が必要になる。
金銭面ではレンタルで借りてやすくできるけれど、当時ほど時間をかけることはできない。
カセットテープの音楽を聴いてみると、殆ど劣化していなくてそこそこいい音がしている。
確かに雑音や機械音がするけれど、心なしかCDやYoutubeより親しみある音に感じる。
MP3で保存しておいて、カセットで聴き続けても良いと思った。
それにしても、残された多くのカセットを手に取ってみると、今より幅広いジャンルの音楽を聴いていたことが分かる。
特に、最近では殆ど聴かなくなったJazzもある。
大学時代にはよく友達や彼女とジャズ喫茶に行って聴いていたのを思いだした。
バンド活動をやめてからも、ずっと音楽はそばにあった
中でもラジカセは人生においても、本当の幸せを教え続けてくれていたのかも知れない。
2020年3月6日金曜日
関わりを断ち切る感染の威力
今回のコロナウィルス蔓延騒動で、身近でも様々な影響が出た。
まず、職場が学校なので、休校となり色々と行事が取りやめになった。
卒業式は済んでいたのが、不幸中の幸いだった。
家内は学童の仕事をしているので、逆に勤務時間が早く、長くなってしまった。
私は何とか年休を用いて、その生活時間に折り合いをつけている。
私ごととして一番の影響は、3月21日行う、父の13回忌の法事である。
東京圏にいる弟たちが、来られないと言い始め、名古屋の弟は来られるとしても日帰りで来るということになった。
母が生きている間に、みんなが集まれる最後の機会になるかも知れないと言うことで、皆泊まりがけで行う予定だった。
法事はこぢんまり行い、騒ぎが収まったら、改めて集まろうということになっている。
ただ、法事という名目があってこそ、職場などに説明がつくが、そうでないと難しいだろうと思う。
そして、長い間会っていない、南山大学時代の仲間に会う予定だった、坂井信三先生の退職記念講演会も中止になった。
先生に会える機会も、これでおしまいになるかも知れない。
仲間に会うことを楽しみにしていた機会も失ってしまった。
坂井先生とはひょっとしたら学会で会えるかも知れないが、その学会も今年はどうなることやら。
そこで、今考えているのは、何とか今の研究作品を本にして、出版記念会を開き恩師や仲間に買ってもらい、それを元に飲もうということだ。
これなら、名古屋と東京でできるかもしれない。
災いを転じて、福にする一つの発想だと思う。
これでまた一つ出版へのモチベーションが上がった。
まず、職場が学校なので、休校となり色々と行事が取りやめになった。
卒業式は済んでいたのが、不幸中の幸いだった。
家内は学童の仕事をしているので、逆に勤務時間が早く、長くなってしまった。
私は何とか年休を用いて、その生活時間に折り合いをつけている。
私ごととして一番の影響は、3月21日行う、父の13回忌の法事である。
東京圏にいる弟たちが、来られないと言い始め、名古屋の弟は来られるとしても日帰りで来るということになった。
母が生きている間に、みんなが集まれる最後の機会になるかも知れないと言うことで、皆泊まりがけで行う予定だった。
法事はこぢんまり行い、騒ぎが収まったら、改めて集まろうということになっている。
ただ、法事という名目があってこそ、職場などに説明がつくが、そうでないと難しいだろうと思う。
そして、長い間会っていない、南山大学時代の仲間に会う予定だった、坂井信三先生の退職記念講演会も中止になった。
先生に会える機会も、これでおしまいになるかも知れない。
仲間に会うことを楽しみにしていた機会も失ってしまった。
坂井先生とはひょっとしたら学会で会えるかも知れないが、その学会も今年はどうなることやら。
そこで、今考えているのは、何とか今の研究作品を本にして、出版記念会を開き恩師や仲間に買ってもらい、それを元に飲もうということだ。
これなら、名古屋と東京でできるかもしれない。
災いを転じて、福にする一つの発想だと思う。
これでまた一つ出版へのモチベーションが上がった。
2020年3月3日火曜日
御津綾部山の梅2020年
先週(2/24」)は、鳥取までカニを食べに行ったが、回転寿司ではあまりの多さにためらって、結局、マリンピア賀露でカニ丼を食べて終わった。
むしろ、その後に寄ってみた、道の駅「きなんせ岩美」の方で安いカニを買ってきて家で食べた方が美味しかった。
賀露の方ではカニが立派な分値段も高い、岩美の方は小ぶりだが半値ほどで手頃であった。
その後、海岸沿いに豊岡経由で戻ったが、中学生の頃に臨海学校で行った諸寄に立ち寄り懐かしかった。
昨日(3/2)は、先週姫路マラソンの影響で休業していた書写の旬彩蔵に行った。
このあたりで一番大きいと聞いていたので、一度行こうと思っていた。
店内の広さは福崎ほどでは無かったが、品揃えが良かった。
そこから、太子の電気屋に寄ってから、綾部山に向かった。
途中、道路標識通りに行くと、室津の方にまで行ってしまい、引き返すことになった。
どうやら、道路標識は昔のままにしてあるらしい。
いつもと違うルートで来たので間違ってしまった。
綾部山はほぼ毎年来ているのだが、日曜日に来るのは初めてのように思う。
人出が多いというので、休日はなるべく避けていた。
時間をわざと15:30という、遅い時間にしたので駐車場にも楽に入れた。
一緒に来た家内が話していたが、子どもが小学生の頃は、この日はちょうど開校記念日で休みだった。
子どもを連れて千種スキー場に行って、スノーボートで遊んだりした。
梅を見に来たこともあるが、非常に寒かったのを覚えている。
今年は暖冬で、薄着をしてのぞんだ。
案の定、梅の花は盛りを過ぎて、全体的に色も薄くなっている。
それでも例年来る時は、まだ梅の花がそれほど咲いていない早い時期が多いので、山全体が色づいているのを久しぶりに眺めた。
また、眼下の田んぼには黄色い菜の花が色を添えてくれていた。
実は、昨日の朝には山頂集落の小野豆の上の平家塚まで登って、海を眺めていた。
このところ、毎週日曜日はクロと家から歩いて登ることにしていた。
その平家塚から眺めた海が、今は眼下に広がっていた。
綾部山の魅力は、家島群島の見える海の景色だ。
それを眺めながら、ベンチに座って家内と甘酒を頂いた。
その後、展望台まで登り、雄大な景色も堪能した。
薄着をしていても、汗が出てくる気候だったが、気持ちの良い花見になった。
むしろ、その後に寄ってみた、道の駅「きなんせ岩美」の方で安いカニを買ってきて家で食べた方が美味しかった。
賀露の方ではカニが立派な分値段も高い、岩美の方は小ぶりだが半値ほどで手頃であった。
その後、海岸沿いに豊岡経由で戻ったが、中学生の頃に臨海学校で行った諸寄に立ち寄り懐かしかった。
昨日(3/2)は、先週姫路マラソンの影響で休業していた書写の旬彩蔵に行った。
このあたりで一番大きいと聞いていたので、一度行こうと思っていた。
店内の広さは福崎ほどでは無かったが、品揃えが良かった。
そこから、太子の電気屋に寄ってから、綾部山に向かった。
途中、道路標識通りに行くと、室津の方にまで行ってしまい、引き返すことになった。
どうやら、道路標識は昔のままにしてあるらしい。
いつもと違うルートで来たので間違ってしまった。
綾部山はほぼ毎年来ているのだが、日曜日に来るのは初めてのように思う。
人出が多いというので、休日はなるべく避けていた。
時間をわざと15:30という、遅い時間にしたので駐車場にも楽に入れた。
一緒に来た家内が話していたが、子どもが小学生の頃は、この日はちょうど開校記念日で休みだった。
子どもを連れて千種スキー場に行って、スノーボートで遊んだりした。
梅を見に来たこともあるが、非常に寒かったのを覚えている。
今年は暖冬で、薄着をしてのぞんだ。
案の定、梅の花は盛りを過ぎて、全体的に色も薄くなっている。
それでも例年来る時は、まだ梅の花がそれほど咲いていない早い時期が多いので、山全体が色づいているのを久しぶりに眺めた。
また、眼下の田んぼには黄色い菜の花が色を添えてくれていた。
実は、昨日の朝には山頂集落の小野豆の上の平家塚まで登って、海を眺めていた。
このところ、毎週日曜日はクロと家から歩いて登ることにしていた。
その平家塚から眺めた海が、今は眼下に広がっていた。
綾部山の魅力は、家島群島の見える海の景色だ。
それを眺めながら、ベンチに座って家内と甘酒を頂いた。
その後、展望台まで登り、雄大な景色も堪能した。
薄着をしていても、汗が出てくる気候だったが、気持ちの良い花見になった。
2020年2月14日金曜日
ゴッホ展in神戸
2月9日(日)、以前から家内も行きたがっていたし、自分も興味のあったゴッホ展に出かけた。
コロナウィルスが流行っているから、そんなに混雑していないのではないかと甘い考えでいた。
朝の10時過ぎにでかけて、着いたのは12時頃だった。
ところが、兵庫県立美術館は当然駐車場は満杯だし、近くの駐車場も満車だった。
そこで、海岸端の公園の横の道路に、多くの車が駐車してあったので、ひとまず駐めて会場をのぞいた。
ちょうど、観光バスで団体客も押しかけていて、相当入るのに時間がかかるのではないかと,車に戻り駐車場を探した。
少し離れた所に青空の駐車場が有り、まずはそこに駐めて昼食をとることにした。
近くのショッピングモールに入り、美味しそうな店を探した結果、海鮮丼を食べさせてくるところにした。
名前を書いて、しばらくあたりで時間を潰して、15分くらいで入れた。
子ども連れのお客さんが多くて、食べるのに時間がかかって回転が悪かった。
ここはうどんなども食べさせてくれて、幼い子どもを連れてくれるにはちょうど良いのだろう。
私は味噌汁付きの海鮮丼、家内は柚子胡椒うどん付きの海鮮丼を頼んだ。
柚子胡椒うどんは、二人で分け合って食べたが、とても美味しかった。
海鮮丼は華やかでつい注文してしまうが、そんなに満足させてくれるものではなかった。
支払う時に分かったのだが、美術館に行った後で入場券を見せると割り引いてくれたらしい。
今回は、時間的に無理だった。
ゴッホ展はチケットを買う時から非常に並ばされ、入場するにも長くかかった。
ただ、外の港の景色が見えるので、耐えがたいものではなかった。
都会の人は並ぶのは当たり前のようだが、自分たちのように田舎者が並ぶのは本当に苦痛である。
入場した後も、絵を見るのに観客は列をなしていた。
私はかぶりつきで見るつもりは無いので、列から離れて少し離れてみた。
展示の目玉の「自画像」や「糸杉」は特別な扱いだった。
確かに本物は写真や映像で見るのとは違って、存在感がある。
ただ、以前から見慣れているせいか、迫ってくるものはあまりなかった。
その日は常設展が無料だったので、小磯良平の絵画も鑑賞した。
むしろ、そちらの絵に心を奪われた。
このところ、また絵を描いてみたいなと思っていたので、非常に興味が持てた。
美術館の特別な空間の中で、普段の生活とは異次元の世界にしばらくは浸ることができた。
ドライブで景色を眺めるのとは違う、人の息づかいを感じさせるものだった。
混雑して多くの時間を並ぶのに費やされたが、これも田舎者には特別な体験でもある。
かつて私は水泳の大会や学校の出張などの用事で来る事が多かった。
最近は、家内と博物館や美術館に出かけることも多くなった。
予備校時代に数ヶ月だけ住んで、その後通っていた神戸は、これからももっと訪れたい町である。
コロナウィルスが流行っているから、そんなに混雑していないのではないかと甘い考えでいた。
朝の10時過ぎにでかけて、着いたのは12時頃だった。
ところが、兵庫県立美術館は当然駐車場は満杯だし、近くの駐車場も満車だった。
そこで、海岸端の公園の横の道路に、多くの車が駐車してあったので、ひとまず駐めて会場をのぞいた。
ちょうど、観光バスで団体客も押しかけていて、相当入るのに時間がかかるのではないかと,車に戻り駐車場を探した。
少し離れた所に青空の駐車場が有り、まずはそこに駐めて昼食をとることにした。
近くのショッピングモールに入り、美味しそうな店を探した結果、海鮮丼を食べさせてくるところにした。
名前を書いて、しばらくあたりで時間を潰して、15分くらいで入れた。
子ども連れのお客さんが多くて、食べるのに時間がかかって回転が悪かった。
ここはうどんなども食べさせてくれて、幼い子どもを連れてくれるにはちょうど良いのだろう。
私は味噌汁付きの海鮮丼、家内は柚子胡椒うどん付きの海鮮丼を頼んだ。
柚子胡椒うどんは、二人で分け合って食べたが、とても美味しかった。
海鮮丼は華やかでつい注文してしまうが、そんなに満足させてくれるものではなかった。
支払う時に分かったのだが、美術館に行った後で入場券を見せると割り引いてくれたらしい。
今回は、時間的に無理だった。
ゴッホ展はチケットを買う時から非常に並ばされ、入場するにも長くかかった。
ただ、外の港の景色が見えるので、耐えがたいものではなかった。
都会の人は並ぶのは当たり前のようだが、自分たちのように田舎者が並ぶのは本当に苦痛である。
入場した後も、絵を見るのに観客は列をなしていた。
私はかぶりつきで見るつもりは無いので、列から離れて少し離れてみた。
展示の目玉の「自画像」や「糸杉」は特別な扱いだった。
確かに本物は写真や映像で見るのとは違って、存在感がある。
ただ、以前から見慣れているせいか、迫ってくるものはあまりなかった。
その日は常設展が無料だったので、小磯良平の絵画も鑑賞した。
むしろ、そちらの絵に心を奪われた。
このところ、また絵を描いてみたいなと思っていたので、非常に興味が持てた。
美術館の特別な空間の中で、普段の生活とは異次元の世界にしばらくは浸ることができた。
ドライブで景色を眺めるのとは違う、人の息づかいを感じさせるものだった。
混雑して多くの時間を並ぶのに費やされたが、これも田舎者には特別な体験でもある。
かつて私は水泳の大会や学校の出張などの用事で来る事が多かった。
最近は、家内と博物館や美術館に出かけることも多くなった。
予備校時代に数ヶ月だけ住んで、その後通っていた神戸は、これからももっと訪れたい町である。
2020年2月7日金曜日
人生は創るもの
今の職場では、当番でホワイトボードにメッセージを書くのだが、それがいつも悩みの種になっている。
ありきたりだと、誰も見向きもしてくれないし、人の心を捉える言葉など考えつかない。
そこで、前回からネットで名言集から引用させてもらっている。
やはり、立派な先人の言葉にはその人の重みが感じられるからだ。
例えば、松下幸之助氏の
「こけたら 起きなはれ」には、説得力を感じさせられた。
普通に親が子どもにいう言葉なのだが、大会社の設立者となるの説得力は桁違いである。
今回はバーナードショーの
「人生は自分を見つけることではない。自分を創ることだ」
という言葉を引用させてもらった。
よく以前は「自分探し」とか言う言葉がはやった。
どこかに自分らしい仕事や生き方があるかのごとく、それを見つける旅や行動を起こす。
しかし、そんなものがあるわけではなく、見つかる筈もない。
それは教育現場で「自己実現」という言葉が流行ってきたのと同じである。
まさしく「自己」があたかも確立されているかのごとくの前提である。
何歳になっても自己など確立して完成するはずもないように、自分は考えている。
事実、この歳になって、学生時代にやり残した事を未だに引きずって生きている。
この歳になっても、新しい自分を創り出そうともがいてさえいるのだ。
今朝の新聞で孤独死のことが書かれてあった。
特に男性は仕事を失って社会との関わりを無くしてしまう。
仕事以外に自分を生かせていく場をつくる努力と機会が無かったからだろう。
そして仕事は何も雇用されて賃労働するだけではないはずだ。
この春に退職して、常勤に終止符をひとまずうつ自分としても、考えさせられる。
私はこれからの人生を創らねばならない。
ありきたりだと、誰も見向きもしてくれないし、人の心を捉える言葉など考えつかない。
そこで、前回からネットで名言集から引用させてもらっている。
やはり、立派な先人の言葉にはその人の重みが感じられるからだ。
例えば、松下幸之助氏の
「こけたら 起きなはれ」には、説得力を感じさせられた。
普通に親が子どもにいう言葉なのだが、大会社の設立者となるの説得力は桁違いである。
今回はバーナードショーの
「人生は自分を見つけることではない。自分を創ることだ」
という言葉を引用させてもらった。
よく以前は「自分探し」とか言う言葉がはやった。
どこかに自分らしい仕事や生き方があるかのごとく、それを見つける旅や行動を起こす。
しかし、そんなものがあるわけではなく、見つかる筈もない。
それは教育現場で「自己実現」という言葉が流行ってきたのと同じである。
まさしく「自己」があたかも確立されているかのごとくの前提である。
何歳になっても自己など確立して完成するはずもないように、自分は考えている。
事実、この歳になって、学生時代にやり残した事を未だに引きずって生きている。
この歳になっても、新しい自分を創り出そうともがいてさえいるのだ。
今朝の新聞で孤独死のことが書かれてあった。
特に男性は仕事を失って社会との関わりを無くしてしまう。
仕事以外に自分を生かせていく場をつくる努力と機会が無かったからだろう。
そして仕事は何も雇用されて賃労働するだけではないはずだ。
この春に退職して、常勤に終止符をひとまずうつ自分としても、考えさせられる。
私はこれからの人生を創らねばならない。
2020年2月1日土曜日
風邪の功名
久しぶりに風邪で仕事を休んだ。
前日、風邪ぎみのところ、夕方6時頃から一時間ほど、じっと駐車場係の立ち番をしていた。
ベンチコートを着て備えたつもりだったが、こういう時にはくアウターパンツをはいていなかった。
すでに、室内に戻った頃は熱が出て寒気がしていた。
帰宅する時、「明日は休むかも知れない」と言って職場を出た。
翌朝、回復せず熱を測ってみると37.5℃で、仕事を休んで医者に診てもらうことにした。
少し離れた医院に行くと、熱も38℃に上がっており、別室で待機させられた。
そこで、一時間以上横になって、診てもらうのを待った。
呼ばれてインフルエンザの検査をして、しばらく後結果を聞いた。
インフルエンザではなく、風邪であろうということだった。
薬をいっぱい出してもらい、隣の薬局で受け取って帰った。
午後からは、ベッドに横たわりながら、うとうととした。
不思議なもので、妙に気分が落ち着いて普段のように焦りが無い。
普段の休日や、休みを取った時は何かしなければと思うので、意外に落ち着かない。
寝ているしか無いと思うと、何年も忘れていた安らぎを感じた。
そして、まぶたに浮かんだのは、東京の西落合で過ごしたアパートの窓の景色だった。
西武新宿線の新井薬師駅の近くで、路地を入った安アパートだった。
2DKだけど、風呂は付いていなかった。
南の窓には手すりが着いてあって、そこに余ったご飯を干したりしていた。
すると、毎日のようにキジバトがやってきて、それをついばんだ。
近くには哲学堂があったので、そこに棲んでいたのかも知れない。
一度、餌をひっくり返して、慌てふためいて飛んで逃げた事があったので、ドテバトと名付けていた。
そのいつもドテバトがやってきていた、窓の風景が不思議にも思い出された。
私は学生時代、大学で2、大学院で3、の計5カ所のアパートを経験している。
それなりに窓際の風景があったのに、なぜこの時思い浮かんだのが西落合のアパートなのか分からない。
ただ、東京圏に3年暮らして、一番落ち着けていたのがこのアパートだったように思う。
家賃が安かった上、買い物するにも食事をするにも便利だったし、風呂屋も近くにあった。
何よりも、哲学堂がそばにあって、毎日のように散歩に出かけた。
鉄道のアクセスも良かったので、家庭教師のバイトにはとても便利だった。
大学時代の友達も遊びに来て、泊めてあげることができた。
一度などは、失恋した親友が夏休みにやってきて、二人で3日ほど飲み明かしたこともあった。
風邪で床について、長い間忘れていた安らぎと記憶を思い出せた。
おそらく毎日元気ではつらつと生活していたら、思い出すことはなかっただろう。
入院して病室で長く過ごすことも何度かあったが、病室は全て相部屋だったし、ゆっくりと落ち着けるものでもなかった。
それほど酷くも無い風邪の症状で、ゆっくりすることが心地よいという良い体験が出来た。
ただし、翌日からの仕事は、まだ症状の残る中、大変辛いものだった。
それでも、安らかに過ごす事の大切さを教えてくれたのは風邪だったように思う。
自分は知らず知らずにあくせく暮らす生活しか、出来ないようになっていたからだろう。
前日、風邪ぎみのところ、夕方6時頃から一時間ほど、じっと駐車場係の立ち番をしていた。
ベンチコートを着て備えたつもりだったが、こういう時にはくアウターパンツをはいていなかった。
すでに、室内に戻った頃は熱が出て寒気がしていた。
帰宅する時、「明日は休むかも知れない」と言って職場を出た。
翌朝、回復せず熱を測ってみると37.5℃で、仕事を休んで医者に診てもらうことにした。
少し離れた医院に行くと、熱も38℃に上がっており、別室で待機させられた。
そこで、一時間以上横になって、診てもらうのを待った。
呼ばれてインフルエンザの検査をして、しばらく後結果を聞いた。
インフルエンザではなく、風邪であろうということだった。
薬をいっぱい出してもらい、隣の薬局で受け取って帰った。
午後からは、ベッドに横たわりながら、うとうととした。
不思議なもので、妙に気分が落ち着いて普段のように焦りが無い。
普段の休日や、休みを取った時は何かしなければと思うので、意外に落ち着かない。
寝ているしか無いと思うと、何年も忘れていた安らぎを感じた。
そして、まぶたに浮かんだのは、東京の西落合で過ごしたアパートの窓の景色だった。
西武新宿線の新井薬師駅の近くで、路地を入った安アパートだった。
2DKだけど、風呂は付いていなかった。
南の窓には手すりが着いてあって、そこに余ったご飯を干したりしていた。
すると、毎日のようにキジバトがやってきて、それをついばんだ。
近くには哲学堂があったので、そこに棲んでいたのかも知れない。
一度、餌をひっくり返して、慌てふためいて飛んで逃げた事があったので、ドテバトと名付けていた。
そのいつもドテバトがやってきていた、窓の風景が不思議にも思い出された。
私は学生時代、大学で2、大学院で3、の計5カ所のアパートを経験している。
それなりに窓際の風景があったのに、なぜこの時思い浮かんだのが西落合のアパートなのか分からない。
ただ、東京圏に3年暮らして、一番落ち着けていたのがこのアパートだったように思う。
家賃が安かった上、買い物するにも食事をするにも便利だったし、風呂屋も近くにあった。
何よりも、哲学堂がそばにあって、毎日のように散歩に出かけた。
鉄道のアクセスも良かったので、家庭教師のバイトにはとても便利だった。
大学時代の友達も遊びに来て、泊めてあげることができた。
一度などは、失恋した親友が夏休みにやってきて、二人で3日ほど飲み明かしたこともあった。
風邪で床について、長い間忘れていた安らぎと記憶を思い出せた。
おそらく毎日元気ではつらつと生活していたら、思い出すことはなかっただろう。
入院して病室で長く過ごすことも何度かあったが、病室は全て相部屋だったし、ゆっくりと落ち着けるものでもなかった。
それほど酷くも無い風邪の症状で、ゆっくりすることが心地よいという良い体験が出来た。
ただし、翌日からの仕事は、まだ症状の残る中、大変辛いものだった。
それでも、安らかに過ごす事の大切さを教えてくれたのは風邪だったように思う。
自分は知らず知らずにあくせく暮らす生活しか、出来ないようになっていたからだろう。
2020年1月29日水曜日
一願成就の鹿島神社参り
早期退職してから、吉備の神社や最上稲荷、播磨の伊和神社には何度か足を運んだ。
次の良い仕事が見つかるようにということと、研究作品の完成祈願である。
ところが、ふと同僚と話をしていた時に、鹿島神社の話題が出た。
そういえば、近くにありながら、私は一度も鹿島神社に参っていない。
昔から受験の神様として人気で、参拝者が多いと聞いていた。
家内も高校受験の時に父親と一緒に参拝したそうである。
その時の人の多さだけを聞いていたので、あえて参ろうとは思っていなかった。
しかし、これだけ神社にお参りに行っていて、一願成就で名高い鹿島神社に行かない手は無いと思った。
吉備の最上稲荷をイメージしていったのだが、確かに大鳥居は共通するものがあったが、雰囲気は全然違う。
駐車場も無料で、楽に駐車することが出来た。
受験シーズンなので混雑を心配したが、参拝者の数も思ったより多くなかった。
周りの山は岩場がむき出しが多くて、遠くからでも山に登る人が見える。
参拝目的と登山目的を兼ねている人もいるようだ。
参道には屋台の店も出ていたが、落ち着いた雰囲気だった。
最上稲荷が近代的な神社に変身していたのに対し、昔ながらの趣を維持していた。
そして、受験生らしき若者や、子連れの家族が多く参拝している。
最近はパワースポットとして、若者にも神社仏閣が人気あるのだが、神社仏閣がもつ独特の雰囲気を言うのだと思う。
聖なる空間というような言葉で表したりもするが、日々の暮らしの中では容易に得られない場だと思う。
切実な祈りや願いは、日々の暮らしから切り離された場で、特別に行いたい。
そして、神社仏閣はその雰囲気を強く醸し出してくれる場なのだと思った。
当然、受験や事業などの取り組みには不断の努力が一番欠かせない。
しかし、その努力は必ずしも報われるものでは無いから、精神的に支えてくれる何かが必要だ。
だから、立場上不安定になった私とそれを支えてくれている家内が、参拝を繰り返しているのだと思う。
そういえば、私の祖母は父方も母方も信仰が篤かった。
若い頃はなぜそこまで熱心なのか分からなかった。
母方は戦争未亡人、父方は息子を戦争で亡くしていた。
肉親の戦死というやり場の無い気持ちが一生ついて回ったのだろうと思う。
弱い立場になって、自分もそういうことが分かるようになった。
次の良い仕事が見つかるようにということと、研究作品の完成祈願である。
ところが、ふと同僚と話をしていた時に、鹿島神社の話題が出た。
そういえば、近くにありながら、私は一度も鹿島神社に参っていない。
昔から受験の神様として人気で、参拝者が多いと聞いていた。
家内も高校受験の時に父親と一緒に参拝したそうである。
その時の人の多さだけを聞いていたので、あえて参ろうとは思っていなかった。
しかし、これだけ神社にお参りに行っていて、一願成就で名高い鹿島神社に行かない手は無いと思った。
吉備の最上稲荷をイメージしていったのだが、確かに大鳥居は共通するものがあったが、雰囲気は全然違う。
駐車場も無料で、楽に駐車することが出来た。
受験シーズンなので混雑を心配したが、参拝者の数も思ったより多くなかった。
周りの山は岩場がむき出しが多くて、遠くからでも山に登る人が見える。
参拝目的と登山目的を兼ねている人もいるようだ。
参道には屋台の店も出ていたが、落ち着いた雰囲気だった。
最上稲荷が近代的な神社に変身していたのに対し、昔ながらの趣を維持していた。
そして、受験生らしき若者や、子連れの家族が多く参拝している。
最近はパワースポットとして、若者にも神社仏閣が人気あるのだが、神社仏閣がもつ独特の雰囲気を言うのだと思う。
聖なる空間というような言葉で表したりもするが、日々の暮らしの中では容易に得られない場だと思う。
切実な祈りや願いは、日々の暮らしから切り離された場で、特別に行いたい。
そして、神社仏閣はその雰囲気を強く醸し出してくれる場なのだと思った。
当然、受験や事業などの取り組みには不断の努力が一番欠かせない。
しかし、その努力は必ずしも報われるものでは無いから、精神的に支えてくれる何かが必要だ。
だから、立場上不安定になった私とそれを支えてくれている家内が、参拝を繰り返しているのだと思う。
そういえば、私の祖母は父方も母方も信仰が篤かった。
若い頃はなぜそこまで熱心なのか分からなかった。
母方は戦争未亡人、父方は息子を戦争で亡くしていた。
肉親の戦死というやり場の無い気持ちが一生ついて回ったのだろうと思う。
弱い立場になって、自分もそういうことが分かるようになった。
2020年1月26日日曜日
雪の無い千種の山
25日の土曜日に千種に水を汲みに行った。
この暖冬だから、雪は無いだろうとふんだのだ。
ここ数日暖かい日が続いたので、路面の心配も要らないと思った。
何年も千種に水を汲みに行っているが、1月に汲みに行くのは初めてである。
冬場に貯めておいた水が無くなると、水道水を汲み置きしたり、龍野の山で汲んだこともあった。
以前は、スキーシーズンにはスキーの板を積んだ車によくであったが、今回は全く出会わない。
川の水も少なく、河川工事でもしているせいか、濁っている。
千種の町に近づいて、山を眺めても、全く雪の気配さえ無い。
以前は道路端に残雪が残っていたり、溝の目印の赤白の棒が立っていたが、それさえない。
水汲み場も、誰一人やってくる人も無く、暖冬と言いながら、やはり風は冷たく、家内は足を踏みならしながら、100円玉を投入していた。
なんと言っても、上郡よりは3℃以上気温は低いので、じっとホースで水を入れる作業は手がかじかんで寒い。
そういえば、以前勤めていた特別支援学校(当時は養護学校)では、千種に雪遊びに出かけていた。
ある年は雪が無くて、担当者が自分の責任のように、職員に侘びていたのを思い出す。
かれこれ、30年ほど前のことだから、30年前も暖冬に悩まされていたのだと思う。
当時は、まだ地球の温暖化がそんなに問題となっていなかった頃である。
聞くところによると、その特別支援学校は雪遊びはもうやっていないという。
経費節減のために、行事を減らしたのだという。
滅多に行けない雪山で児童生徒が楽しんでいた様子を憶えているだけに、少し残念だとも思える。
ただ、雪遊びは教師も相当体力を使うので、今やれと言われれば、それなりに覚悟はいると思う。
その点では、普通校のスキー中心の修学旅行は楽だった。
私は自分の子どもと雪遊びをしに千種に来たくらいで、プライベートではあまりスキーの経験はない。
冬場に楽しめるものは限られているので、また盛んになれば良いと思う。
行く道すがら、ある小学校がこの3月で閉校になるという案内板を見かけた。
雪が無いことは、千種の経済の打撃にもなるだろう。
千種のJAのスーパーマーケットも、大分前から閉じられたままだ。
どんどん、寂れていく様子を見ているのは忍びない。
ただ、私はそんなに遠くない未来に深刻な食糧不足が訪れると思っている。
きっと、その時に我々の地方が見直されると信じている。
それまで、どう持ちこたえるかが課題だけれど・・・
この暖冬だから、雪は無いだろうとふんだのだ。
ここ数日暖かい日が続いたので、路面の心配も要らないと思った。
何年も千種に水を汲みに行っているが、1月に汲みに行くのは初めてである。
冬場に貯めておいた水が無くなると、水道水を汲み置きしたり、龍野の山で汲んだこともあった。
以前は、スキーシーズンにはスキーの板を積んだ車によくであったが、今回は全く出会わない。
川の水も少なく、河川工事でもしているせいか、濁っている。
千種の町に近づいて、山を眺めても、全く雪の気配さえ無い。
以前は道路端に残雪が残っていたり、溝の目印の赤白の棒が立っていたが、それさえない。
水汲み場も、誰一人やってくる人も無く、暖冬と言いながら、やはり風は冷たく、家内は足を踏みならしながら、100円玉を投入していた。
なんと言っても、上郡よりは3℃以上気温は低いので、じっとホースで水を入れる作業は手がかじかんで寒い。
そういえば、以前勤めていた特別支援学校(当時は養護学校)では、千種に雪遊びに出かけていた。
ある年は雪が無くて、担当者が自分の責任のように、職員に侘びていたのを思い出す。
かれこれ、30年ほど前のことだから、30年前も暖冬に悩まされていたのだと思う。
当時は、まだ地球の温暖化がそんなに問題となっていなかった頃である。
聞くところによると、その特別支援学校は雪遊びはもうやっていないという。
経費節減のために、行事を減らしたのだという。
滅多に行けない雪山で児童生徒が楽しんでいた様子を憶えているだけに、少し残念だとも思える。
ただ、雪遊びは教師も相当体力を使うので、今やれと言われれば、それなりに覚悟はいると思う。
その点では、普通校のスキー中心の修学旅行は楽だった。
私は自分の子どもと雪遊びをしに千種に来たくらいで、プライベートではあまりスキーの経験はない。
冬場に楽しめるものは限られているので、また盛んになれば良いと思う。
行く道すがら、ある小学校がこの3月で閉校になるという案内板を見かけた。
雪が無いことは、千種の経済の打撃にもなるだろう。
千種のJAのスーパーマーケットも、大分前から閉じられたままだ。
どんどん、寂れていく様子を見ているのは忍びない。
ただ、私はそんなに遠くない未来に深刻な食糧不足が訪れると思っている。
きっと、その時に我々の地方が見直されると信じている。
それまで、どう持ちこたえるかが課題だけれど・・・
2020年1月23日木曜日
南山大学の恩師の退職
年末に南山大学で教えて頂いていた坂井信三先生より喪中欠礼と退職の件が書かれたはがきが届いていた。
坂井先生は南山大学の卒業生でもあり、文化人類学研究会のOBでもあったので、色々とお世話になった。
一度だけ、新婚早々のご自宅にお邪魔して、酒の肴に出された美味しい里芋を頂いたのを今でも憶えている。
公私にわたりお世話になった坂井先生とは、年賀状のやりとりだけになっていた。
坂井先生は、私が大学2年の頃に赴任してこられ、ずっと南山大学で勤められた。
だから、かれこれ約40年のお勤めということなのだろう。
私は大学院を出てから、殆ど学会にも顔を出さなかったので、お目にかかる機会が無かった。
一度だけ、出版した本を持って、南山大学に行ったけれど、敷居が高く感じてお目にかかることはためらわれた。
今回、3月28日14時から南山大学で退職記念の講演会と、その後の茶話会があるという連絡を受けて、是非参加したいと思った。
おそらく沢山の卒業生や在校生が参加するので、坂井先生とは挨拶程度になるかも知れない。
しかし、ひょっとしたら、大学に行ける最後の機会になるかも知れないと思った。
私は、南山大学の同級生にも声をかけて、この機会に会えるようにすることを思い立った。
次の出版のモチベーションを上げるために、大学時代や大学院時代のことを思い起こしていた矢先だったので好機会に思える。
できれば、これを機会に繋がりが広がったらと期待もしている。
ネットで調べたら、クネヒト・ペトロ先生はご健在のようだし、是非お話を伺いたい後藤明氏も南山大学にはいらっしゃる。
南山大学は入学する時は不本意ながら入った大学だったけど、これまでで一番楽しくて充実した大学となった。
だから、この大学に行けて本当に良かったと思っている。
できれば、当時同じキャンパスで過ごした仲間と会えて想い出を語り合えればと思う。
坂井先生は南山大学の卒業生でもあり、文化人類学研究会のOBでもあったので、色々とお世話になった。
一度だけ、新婚早々のご自宅にお邪魔して、酒の肴に出された美味しい里芋を頂いたのを今でも憶えている。
公私にわたりお世話になった坂井先生とは、年賀状のやりとりだけになっていた。
坂井先生は、私が大学2年の頃に赴任してこられ、ずっと南山大学で勤められた。
だから、かれこれ約40年のお勤めということなのだろう。
私は大学院を出てから、殆ど学会にも顔を出さなかったので、お目にかかる機会が無かった。
一度だけ、出版した本を持って、南山大学に行ったけれど、敷居が高く感じてお目にかかることはためらわれた。
今回、3月28日14時から南山大学で退職記念の講演会と、その後の茶話会があるという連絡を受けて、是非参加したいと思った。
おそらく沢山の卒業生や在校生が参加するので、坂井先生とは挨拶程度になるかも知れない。
しかし、ひょっとしたら、大学に行ける最後の機会になるかも知れないと思った。
私は、南山大学の同級生にも声をかけて、この機会に会えるようにすることを思い立った。
次の出版のモチベーションを上げるために、大学時代や大学院時代のことを思い起こしていた矢先だったので好機会に思える。
できれば、これを機会に繋がりが広がったらと期待もしている。
ネットで調べたら、クネヒト・ペトロ先生はご健在のようだし、是非お話を伺いたい後藤明氏も南山大学にはいらっしゃる。
南山大学は入学する時は不本意ながら入った大学だったけど、これまでで一番楽しくて充実した大学となった。
だから、この大学に行けて本当に良かったと思っている。
できれば、当時同じキャンパスで過ごした仲間と会えて想い出を語り合えればと思う。
2020年1月16日木曜日
播磨と吉備での参拝
この12日日曜は、朝の8時からトンド作りの村作業に出かけた。
大勢の人でやったので、一時間ほどで仕上がった。
火をつけるのは夕方の4時からなので、午後からは家内と買い物に出かけることになった。
龍野で買い物が終わって、「どこへ行く?」と聞かれたので、「どこでも」と答えると、運転している家内は北に向かった。
どこに行くのかと思ったら、伊和神社に行くという。
私は正月から近所の荒神さんや八幡神社を参拝していたので、神社にお参りに行くという考えはなかった。
宍粟市の一宮にある伊和神社には、このところ季節ごとにお参りに来ている。
私の仕事が不安定なので、家内はこの神社にお願いをしている。
3月で常勤の勤務を退職して、4月から非常勤の仕事を考えているので、家内としても不安なのだと思う。
揖保川沿いの道路を通ると、やはりトンドを作ったり、はや燃やしているところがある。
煙が上がっていると、トンドのように思えるが、ただのたき火だったりもした。
神社の前の道の駅は思ったより混んでいなかったが、大きな観光バスが着いたところだった。
ご年配の方がたくさん降りている最中で、駐車するのにも気を遣った。
何回もお参りに来ているが、団体客に出逢うのは初めてである。
まず、参拝をして、道の駅で買い物をした。
帰りの道沿いは、やはりあちこちでトンドが行われており、賑やかなところや数人しかいないところなどまちまちだった。
私も帰宅後、クロの散歩を済ませてから、村のトンドに行った。
トンドは既に火が付いていて、大きな木を燃やすのを私も手伝った。
途中で強く雨が降り出して、雨に濡れた服を乾かしながら、村役の仲間とお酒を酌み交わした。
翌日13日は成人の日で休みだったが、午後から吉備の神社かお寺に参りに行こうと思っていた。
以前から家内から独身の頃に家族で最上稲荷へ正月に行って、道が大変混んでいて途中で引き返した話を聞いていた。
だから、あまりに混んでいたら、途中で引き返しても良いと思っていた。
以前に倉敷に行った時に総社行きのバスが走っていたので、倉敷の方から向かうことにした。
途中から吉備路への案内板が出ていたので、その方面に向かえば問題なかった。
少々不安を抱えながらも、以前通った道に出ると、何とか最上稲荷の入り口に着いた。
そこで、駐車場の客引きのおばさんに誘導されながら、駐車したが1000円もの駐車料金に驚いた。
後で分かったが、もう少し山の方に上がって離れたところなら、500円の所もあった。
車から降りて、門前町の参道には多くの屋台が出され、多くの人で賑わっている。
前日行った伊和神社とはまるっきり違い、まるでお祭りだ。
前回北のは夏で、縁日でもなかったので、人通りも閑散としていたし、閉めている店も多かった。
多くの人がお参りを済ませて坂を下りてくる中、家内と二人で人混みを避けながら上っていった。
古い方の本殿は、赤穂の木津の大工さんが作ったと案内板に書いてあった。
まさか、吉備の最上稲荷が赤穂と関わりがあると思ってもいなかった。
参拝も終え、お守りも買った。
私は今年こそ出版までこぎつけるように「お願い地蔵尊」で家内は健康祈願のお守りだった。
南の岡山方面に向かう来た道は来る時にすごく混んでいたので、いったん北に向かうことにした。
案の定、途中から吉備SAに向かう道に辿り着き、そこから山陽自動車道に入ることが出来た。
SAでトイレを済まして、土産物も買った。
和気まで山陽自動車道で走り、その後国道二号線で上郡に帰った。
播磨と吉備でちゃんとお参りをしたので、きっと今年はいい年になるだろうと思う。
神社やお稲荷さんはそんな気持ちにさせてくれる、パワースポットなのかも知れない。
難しい教義を説かれるよりも、肌でそれを感じるのがアニミズムを古代から受け継いできた私たちなのかも知れない。
そして、何よりも歴史がそこにまた息づいており、それを体感できるのも魅力でもある。
大勢の人でやったので、一時間ほどで仕上がった。
火をつけるのは夕方の4時からなので、午後からは家内と買い物に出かけることになった。
龍野で買い物が終わって、「どこへ行く?」と聞かれたので、「どこでも」と答えると、運転している家内は北に向かった。
どこに行くのかと思ったら、伊和神社に行くという。
私は正月から近所の荒神さんや八幡神社を参拝していたので、神社にお参りに行くという考えはなかった。
宍粟市の一宮にある伊和神社には、このところ季節ごとにお参りに来ている。
私の仕事が不安定なので、家内はこの神社にお願いをしている。
3月で常勤の勤務を退職して、4月から非常勤の仕事を考えているので、家内としても不安なのだと思う。
揖保川沿いの道路を通ると、やはりトンドを作ったり、はや燃やしているところがある。
煙が上がっていると、トンドのように思えるが、ただのたき火だったりもした。
神社の前の道の駅は思ったより混んでいなかったが、大きな観光バスが着いたところだった。
ご年配の方がたくさん降りている最中で、駐車するのにも気を遣った。
何回もお参りに来ているが、団体客に出逢うのは初めてである。
まず、参拝をして、道の駅で買い物をした。
帰りの道沿いは、やはりあちこちでトンドが行われており、賑やかなところや数人しかいないところなどまちまちだった。
私も帰宅後、クロの散歩を済ませてから、村のトンドに行った。
トンドは既に火が付いていて、大きな木を燃やすのを私も手伝った。
途中で強く雨が降り出して、雨に濡れた服を乾かしながら、村役の仲間とお酒を酌み交わした。
翌日13日は成人の日で休みだったが、午後から吉備の神社かお寺に参りに行こうと思っていた。
以前から家内から独身の頃に家族で最上稲荷へ正月に行って、道が大変混んでいて途中で引き返した話を聞いていた。
だから、あまりに混んでいたら、途中で引き返しても良いと思っていた。
以前に倉敷に行った時に総社行きのバスが走っていたので、倉敷の方から向かうことにした。
途中から吉備路への案内板が出ていたので、その方面に向かえば問題なかった。
少々不安を抱えながらも、以前通った道に出ると、何とか最上稲荷の入り口に着いた。
そこで、駐車場の客引きのおばさんに誘導されながら、駐車したが1000円もの駐車料金に驚いた。
後で分かったが、もう少し山の方に上がって離れたところなら、500円の所もあった。
車から降りて、門前町の参道には多くの屋台が出され、多くの人で賑わっている。
前日行った伊和神社とはまるっきり違い、まるでお祭りだ。
前回北のは夏で、縁日でもなかったので、人通りも閑散としていたし、閉めている店も多かった。
多くの人がお参りを済ませて坂を下りてくる中、家内と二人で人混みを避けながら上っていった。
古い方の本殿は、赤穂の木津の大工さんが作ったと案内板に書いてあった。
まさか、吉備の最上稲荷が赤穂と関わりがあると思ってもいなかった。
参拝も終え、お守りも買った。
私は今年こそ出版までこぎつけるように「お願い地蔵尊」で家内は健康祈願のお守りだった。
南の岡山方面に向かう来た道は来る時にすごく混んでいたので、いったん北に向かうことにした。
案の定、途中から吉備SAに向かう道に辿り着き、そこから山陽自動車道に入ることが出来た。
SAでトイレを済まして、土産物も買った。
和気まで山陽自動車道で走り、その後国道二号線で上郡に帰った。
播磨と吉備でちゃんとお参りをしたので、きっと今年はいい年になるだろうと思う。
神社やお稲荷さんはそんな気持ちにさせてくれる、パワースポットなのかも知れない。
難しい教義を説かれるよりも、肌でそれを感じるのがアニミズムを古代から受け継いできた私たちなのかも知れない。
そして、何よりも歴史がそこにまた息づいており、それを体感できるのも魅力でもある。
2020年1月12日日曜日
新たなる「いでたち」
先日、二通目の年賀状が、沖縄(琉球)や中国を研究されている大先輩から届いた。
おそらく、私の年賀状が遅く届いたので、勘違いされたのだと思う。
その賀状には、都立大学の名前が復活することが書かれてあった。
大先輩御自身、大学院時代の母校でもあり、勤務校ともなった都立大学には、強い思い入れがあることを改めて知った。
東急の駅名にも残っている都立大学は、2011年に首都大学東京なり、名前を失ってしまっていた。
私は1985年に修士を修了して以来、一度も母校に足を踏み入れたことはなかった。
ましてや、名前の変わってしまった大学には、なんら親近感などは持てずにいた。
先日、Googleのストリートビューで眺めたら、大学の跡地は公園になっていて、まったく懐かしさはなかった。
この大学前の「柿の木坂」は、ちょうど今頃、修士論文を出す時に、ふらふらになりながら上っていったことを思い出す。
当時、大先輩は都立大の赴任が決まっており、私は博士に進学したら、大先輩のお手伝いをする予定でもあった。
結局、志半ばでそこを去らなくてはならなかった今となっては、辛い思いの風景でもある。
年末から学生時代のものを整理していたが、その中で、学生から社会人になる時の日記を繙いた。
その表紙には「いでたち」と書かれてあった。
夢と希望を失いながらも、高校教師になろうと赤穂に戻り、中学校、高校の臨時講師や発掘作業の臨時雇いをしながら生活した頃である。
教員採用試験に臨みながら、何とか這い上がろうとしていた頃の気持ちが甦ってきた。
私はつい最近まで、「就職できない。このままでは結婚もできない」と悩んでいる夢をよく見ていた。
この頃の辛い経験が夢の中で何度も再現されたわけだ。
そして、何とか採用試験に補欠合格して、4月から地元の養護学校(特別支援学校)に赴任が決まった。
その時に、もう一度過去の絆を取り戻そうともしたが、一度切れた糸はもう繋がらなかった。
そんな折りに家内と出会い、自分は立ち直っていったので、家内には今更ながら感謝せねばならない。
このところ、せっかく教員の採用試験に合格して、学校に勤めながら途中で退職している新任が多いと新聞記事で知った。
確かに、私の新任時代も、けっこう先輩から注意を受けたりして、辛い思いも多くした。
しかし、大学院時代の論文作成の苦しさや、採用されるまでの苦労に比べれば、とるに足らないものだった。
何よりも、普通の家庭を築くことが出来る希望が持てていた。
あのまま大学院に残っていたら、不安定な生活がその後も何年も続いていたはずだった。
その代わり、研究半ばの後悔を引きずって生きねばならなくなってしまった。
ようやく、本が出版できたのは2006年で、20年の年月が過ぎてしまっていた。
それから14年も経ったのだが、その後悔は挑戦する気持ちに変わってきている。
自分にとって新たなる「いでたち」なのである。
都立大学の名前が復活するように、私の研究も復活させたいと思う。
おそらく、私の年賀状が遅く届いたので、勘違いされたのだと思う。
その賀状には、都立大学の名前が復活することが書かれてあった。
大先輩御自身、大学院時代の母校でもあり、勤務校ともなった都立大学には、強い思い入れがあることを改めて知った。
東急の駅名にも残っている都立大学は、2011年に首都大学東京なり、名前を失ってしまっていた。
私は1985年に修士を修了して以来、一度も母校に足を踏み入れたことはなかった。
ましてや、名前の変わってしまった大学には、なんら親近感などは持てずにいた。
先日、Googleのストリートビューで眺めたら、大学の跡地は公園になっていて、まったく懐かしさはなかった。
この大学前の「柿の木坂」は、ちょうど今頃、修士論文を出す時に、ふらふらになりながら上っていったことを思い出す。
当時、大先輩は都立大の赴任が決まっており、私は博士に進学したら、大先輩のお手伝いをする予定でもあった。
結局、志半ばでそこを去らなくてはならなかった今となっては、辛い思いの風景でもある。
年末から学生時代のものを整理していたが、その中で、学生から社会人になる時の日記を繙いた。
その表紙には「いでたち」と書かれてあった。
夢と希望を失いながらも、高校教師になろうと赤穂に戻り、中学校、高校の臨時講師や発掘作業の臨時雇いをしながら生活した頃である。
教員採用試験に臨みながら、何とか這い上がろうとしていた頃の気持ちが甦ってきた。
私はつい最近まで、「就職できない。このままでは結婚もできない」と悩んでいる夢をよく見ていた。
この頃の辛い経験が夢の中で何度も再現されたわけだ。
そして、何とか採用試験に補欠合格して、4月から地元の養護学校(特別支援学校)に赴任が決まった。
その時に、もう一度過去の絆を取り戻そうともしたが、一度切れた糸はもう繋がらなかった。
そんな折りに家内と出会い、自分は立ち直っていったので、家内には今更ながら感謝せねばならない。
このところ、せっかく教員の採用試験に合格して、学校に勤めながら途中で退職している新任が多いと新聞記事で知った。
確かに、私の新任時代も、けっこう先輩から注意を受けたりして、辛い思いも多くした。
しかし、大学院時代の論文作成の苦しさや、採用されるまでの苦労に比べれば、とるに足らないものだった。
何よりも、普通の家庭を築くことが出来る希望が持てていた。
あのまま大学院に残っていたら、不安定な生活がその後も何年も続いていたはずだった。
その代わり、研究半ばの後悔を引きずって生きねばならなくなってしまった。
ようやく、本が出版できたのは2006年で、20年の年月が過ぎてしまっていた。
それから14年も経ったのだが、その後悔は挑戦する気持ちに変わってきている。
自分にとって新たなる「いでたち」なのである。
都立大学の名前が復活するように、私の研究も復活させたいと思う。
2020年1月5日日曜日
二作目への挑戦
先日、ふとAmazonで自分の著書が37,000円とか52,000円で売り出されているのを見て驚いた。
しばらくして、「この本は現在、取り扱いできません」という表示に変わったが、定価3,000円が10倍以上に取引されるとはどういうことかと思った。
今は、「日本の古本屋」で検索すると、3,580円の値段をつけている本屋があった。
普通の本は古本で買うと値段が安いのだが、定価以上の値段が付くということはどういうことなのかも考えた。
要するにそれなりにニーズはあるのだが、出版社は再版しないだろうと言うことで、プレミアムが付いたということかなと思う。
私は現在二作目を執筆中だが、なかなか思うように進んでいない。
次の本は一作目の内容がよく分かるように論を進めているので、二作目によって評価が上がることを期待している。
だから、二作目によって、一作目の再版も可能ではないかとも思っているのである。
だから、再版が不可能と評価されるのは、執筆への発憤材料にもなった。
私は調査研究をしていた学生時代の日記や手紙を繙くのを避けていた。
夢が叶わなかったことの原因を、生活のあり方に帰したので、まともに向き合うことが辛かった。
しかし、歳のせいにして、気弱になっていく自分が、当時どういう思いで、また、どういう支えがあって研究を続けていたのかを振り返ろうと思った。
それらを繙いていくと、自分が当時のことを決めつけていたり、誤解していたことが多かったことに気がついた。
そして、研究と当時の暮らしや人との関わりは一体のものであったと改めて気がついた。
これは、今も同じことで、私が研究を続けられているのは、ありがたいことに家内が理解して支えてくれているからだ。
今は、どうしても仕事の上でのストレスもあって、執筆活動が疎かになりがちだが、当時のように追い詰められているわけではない。
だから、却っていい加減にもなっているし、モチベーションを失いがちである。
その自戒の意味を込めて、当時のことをしっかりと自分で受け止めようと思えるようになった。
それができるまで、35年という年月はあまりにも長すぎるが、それが歳を重ねることの意味なのだろう。
そして、何よりも自分が夢かなわなかった本当の理由が分かったように思う。
それは、自分がその当時に出来ることの見極めが出来ていなかったということだ。
今もそうだが、ある期間に仕上げねばならないことは、その期間で出来ることを見極めることが一番重要だ。
当時、妙な意地があったり、欲を出し手を広げすぎて、まともな修士論文に仕上がらなかった。
それは、早期退職して、半年で出版できなかったことと重なる。
今は、期間を延長することができる、本当は当時もできたのだが、当時の自分は自分を見失っていた。
そしてその結果、その時に夢と掛け替えのない絆を失ってしまった。
今改めて、その経験から次の作品に気を引き締めて臨もうと思う。
それは当時、私を支えてくれていた方への少しでも感謝の気持ちを表したいからである。
そして何よりも、今も自分を支えてくれている家内の苦労に、恥じないようにと思うからである。
しばらくして、「この本は現在、取り扱いできません」という表示に変わったが、定価3,000円が10倍以上に取引されるとはどういうことかと思った。
今は、「日本の古本屋」で検索すると、3,580円の値段をつけている本屋があった。
普通の本は古本で買うと値段が安いのだが、定価以上の値段が付くということはどういうことなのかも考えた。
要するにそれなりにニーズはあるのだが、出版社は再版しないだろうと言うことで、プレミアムが付いたということかなと思う。
私は現在二作目を執筆中だが、なかなか思うように進んでいない。
次の本は一作目の内容がよく分かるように論を進めているので、二作目によって評価が上がることを期待している。
だから、二作目によって、一作目の再版も可能ではないかとも思っているのである。
だから、再版が不可能と評価されるのは、執筆への発憤材料にもなった。
私は調査研究をしていた学生時代の日記や手紙を繙くのを避けていた。
夢が叶わなかったことの原因を、生活のあり方に帰したので、まともに向き合うことが辛かった。
しかし、歳のせいにして、気弱になっていく自分が、当時どういう思いで、また、どういう支えがあって研究を続けていたのかを振り返ろうと思った。
それらを繙いていくと、自分が当時のことを決めつけていたり、誤解していたことが多かったことに気がついた。
そして、研究と当時の暮らしや人との関わりは一体のものであったと改めて気がついた。
これは、今も同じことで、私が研究を続けられているのは、ありがたいことに家内が理解して支えてくれているからだ。
今は、どうしても仕事の上でのストレスもあって、執筆活動が疎かになりがちだが、当時のように追い詰められているわけではない。
だから、却っていい加減にもなっているし、モチベーションを失いがちである。
その自戒の意味を込めて、当時のことをしっかりと自分で受け止めようと思えるようになった。
それができるまで、35年という年月はあまりにも長すぎるが、それが歳を重ねることの意味なのだろう。
そして、何よりも自分が夢かなわなかった本当の理由が分かったように思う。
それは、自分がその当時に出来ることの見極めが出来ていなかったということだ。
今もそうだが、ある期間に仕上げねばならないことは、その期間で出来ることを見極めることが一番重要だ。
当時、妙な意地があったり、欲を出し手を広げすぎて、まともな修士論文に仕上がらなかった。
それは、早期退職して、半年で出版できなかったことと重なる。
今は、期間を延長することができる、本当は当時もできたのだが、当時の自分は自分を見失っていた。
そしてその結果、その時に夢と掛け替えのない絆を失ってしまった。
今改めて、その経験から次の作品に気を引き締めて臨もうと思う。
それは当時、私を支えてくれていた方への少しでも感謝の気持ちを表したいからである。
そして何よりも、今も自分を支えてくれている家内の苦労に、恥じないようにと思うからである。
2020年1月1日水曜日
庚子に期待を込めて
私の元旦は例年通り、愚犬との散歩から始まった。
神社への賽銭だけポケットに入れて、初陽を拝みながらまずは散歩する。
歩き始めてしばらくして、いきなりクロがダッシュして引っ張られて、痛めている腕がうずいた。
元旦早々、クロを怒らねばならなくなった。
そもそも、クロには元旦だからという意識はないのだから仕方ない。
考えてみれば、子どもの頃は元旦から親に叱られたこともある。
それとあまり変わりは無いのかも知れない。
いつもの観音さんと、荒神さんのお参りを済ませて、自宅で朝の祝いを簡単に済ませた。
今年も例年通り、息子は勤務、娘は旅行で、二人だけの年越し、そして元旦となった。
そして、宮総代として10時までに八幡神社に行かねばならなかったので、そうゆっくりは出来ない。
早々に身支度を調えて、自治会長さんのと落ち合わねばならなかった。
この日ばかりは、上着とネクタイの正装をしなくてはならない。
寒い境内に備えて、しっかり防寒対策をして出かけた。
祭礼を待っている間に、同年代で別の村の宮総代の人と話をした。
その人は、元金融関係に勤めていた人で、私より二つ上で、退職して年金暮らしをしている。
東京で単身赴任していたということもあって、色々と共通の話ができていた。
その人は、今は農作業の悠々自適の生活をしておられる。
聞いてみれば、JAの農産物の直売所に里芋を出荷している言う。
儲けにはならないけど、ネットから売り上げ情報が入ってくるのが、わくわくして楽しいそうだ。
暮らしを維持するための出荷ではなくて、自分の作った農産物を買ってもらえると言うことが喜びになっているようだ。
私が思い描いていた暮らしを実現していることを知って、非常にありがたかった。
宮総代は面倒な役割だと思い続けていたが、こういう情報をもらえる良い場でもあるときがついた。
70歳以上の年配が大半を占めて、地元出身ではない自分は会話にはなかなかついて行けなかった。
自分と共通話題での会話が出来る数少ない宮総代がいてくれるだけありがたい。
また、自分が地元の高校で教鞭を執っていた時の教え子に声をかけられた。
私は当然憶えていなかったが、しっかり名前を覚えてくれていて嬉しかった。
今は失業中で、再就職のための訓練を行っているという。
年齢も39歳で氷河期と言われた世代でもある。
こうやって地元の神社の祭礼に一般参加して、広く関わりを持とうというのは良いことだと思った。
どうしても、神社の行事は年寄りと子どもの行事になってしまうが、若い世代や働き盛りの人にも加わってもらいたい。
今の若い宮司は、今年から小学生に秋祭り浦安の舞の参加、正月に絵馬の奉納など、新しい取り組みも行ってくれている。
地域が寂れていく中、もっともっと地元のことを考える人が増えていってくれればと願わずにはいられない。
今、地球が温暖化で環境崩壊が叫ばれ、日本は地震や猛烈台風など災害の危機が懸念されている。
「庚子」が表す意味は、新たな芽吹きと繁栄の始まりだそうである。
この危機的な状態を変えて行くには、新しい考え方生き方が必要だと思う。
私は今年こそ、執筆でもそれを訴え、生活でも実践していきたいと思っている。
神社への賽銭だけポケットに入れて、初陽を拝みながらまずは散歩する。
歩き始めてしばらくして、いきなりクロがダッシュして引っ張られて、痛めている腕がうずいた。
元旦早々、クロを怒らねばならなくなった。
そもそも、クロには元旦だからという意識はないのだから仕方ない。
考えてみれば、子どもの頃は元旦から親に叱られたこともある。
それとあまり変わりは無いのかも知れない。
いつもの観音さんと、荒神さんのお参りを済ませて、自宅で朝の祝いを簡単に済ませた。
今年も例年通り、息子は勤務、娘は旅行で、二人だけの年越し、そして元旦となった。
そして、宮総代として10時までに八幡神社に行かねばならなかったので、そうゆっくりは出来ない。
早々に身支度を調えて、自治会長さんのと落ち合わねばならなかった。
この日ばかりは、上着とネクタイの正装をしなくてはならない。
寒い境内に備えて、しっかり防寒対策をして出かけた。
祭礼を待っている間に、同年代で別の村の宮総代の人と話をした。
その人は、元金融関係に勤めていた人で、私より二つ上で、退職して年金暮らしをしている。
東京で単身赴任していたということもあって、色々と共通の話ができていた。
その人は、今は農作業の悠々自適の生活をしておられる。
聞いてみれば、JAの農産物の直売所に里芋を出荷している言う。
儲けにはならないけど、ネットから売り上げ情報が入ってくるのが、わくわくして楽しいそうだ。
暮らしを維持するための出荷ではなくて、自分の作った農産物を買ってもらえると言うことが喜びになっているようだ。
私が思い描いていた暮らしを実現していることを知って、非常にありがたかった。
宮総代は面倒な役割だと思い続けていたが、こういう情報をもらえる良い場でもあるときがついた。
70歳以上の年配が大半を占めて、地元出身ではない自分は会話にはなかなかついて行けなかった。
自分と共通話題での会話が出来る数少ない宮総代がいてくれるだけありがたい。
また、自分が地元の高校で教鞭を執っていた時の教え子に声をかけられた。
私は当然憶えていなかったが、しっかり名前を覚えてくれていて嬉しかった。
今は失業中で、再就職のための訓練を行っているという。
年齢も39歳で氷河期と言われた世代でもある。
こうやって地元の神社の祭礼に一般参加して、広く関わりを持とうというのは良いことだと思った。
どうしても、神社の行事は年寄りと子どもの行事になってしまうが、若い世代や働き盛りの人にも加わってもらいたい。
今の若い宮司は、今年から小学生に秋祭り浦安の舞の参加、正月に絵馬の奉納など、新しい取り組みも行ってくれている。
地域が寂れていく中、もっともっと地元のことを考える人が増えていってくれればと願わずにはいられない。
今、地球が温暖化で環境崩壊が叫ばれ、日本は地震や猛烈台風など災害の危機が懸念されている。
「庚子」が表す意味は、新たな芽吹きと繁栄の始まりだそうである。
この危機的な状態を変えて行くには、新しい考え方生き方が必要だと思う。
私は今年こそ、執筆でもそれを訴え、生活でも実践していきたいと思っている。
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