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2012年6月28日木曜日

水耕栽培と多層栽培

たまたま本屋の農業園芸コーナーで水耕栽培という本の題名に惹かれて立ち読みし、先日購入した。
ペットボトルや発泡スチロールを用いて過程でも手作りでできる方法が載せてあった。
そこで、ネットであれこれ調べると、課題は肥料の面と肥料を入れた水を循環させる点にあった。
有機栽培を目指す自分としては、無機肥料が一般的で有機肥料は一部高価な商品に限られることが問題にとなる。
ただ、有機の液肥を自分で開発するつもりであれば可能だと思えた。

実は冬場の学校での週2回計3時間の農園作業の指導をどうするのか悩んでいたので、イチゴの水耕栽培をやってみようと思った。
苗は我が家のがあるので、本に書いてあるようにラインから苗を増やしてやってみよう。
原木椎茸の菌打ち作業と組み合わせれば、何とか冬場を乗り切れそうである。

また、たまたまテレビで見た鈴木高広氏の多層栽培には驚いた。食べることしか考えてなかった芋を燃料として使うことは全く考えていなかったからだ。
実は今年は去年とれたジャガイモに芽が出てしまい、コンテナ3杯ほど捨ててしまった。
今年は何とか保存しようと乾燥して燻製にしてみるつもりだった。
燃料として用いるのなら燻製する必要がない。
鈴木氏は電力化を目標としているが、その前に暖房や木炭の代用として可能であるように思う。
そもそも、ハウス栽培の燃料として乾燥芋を用いればよい。

ネットで「芋エネルギーは日本を救う」を読んだが、 
「全国の芋の年間収穫量は2~3kg/㎡。1年かけて4時間分の太陽光のエネルギーしか固定できない計算です。現在の農業が非常に効率悪く行われているかがわかりました。・・・日光の5%しか植物が必要としないのであれば、棚をマンションのように多層に重ねて、光を分散させてやればいい。当然、下の棚には光が届きにくいので、比較的弱い光でも育つ作物で、なおかつ日本全国で栽培可能なもの。そうやって探していくと、現時点で最も優れていたのが芋」という。
すると、水耕栽培と多層栽培を組み合わせられれば良いわけである。
ただ、現在のところやっと根菜類の水耕栽培が可能になったところというのであるが、芋は比較的肥料を多く求めないので、砂に液肥を用いてみる手があるだろうと思い実験してみるつもりである。

田舎にいて農地を求めることが意外と難しいと思っていたが、水耕栽培と多層栽培はその課題を克服してくれるように思う。
一方、ハウス農家も、高いビニール資材や燃料代を節約するために、薪ストーブを使って乾燥芋を燃料として用いる手はどうだろうか?
芋の乾燥はビニールハウスを用いれば問題ない。
 少し、農業に希望がもてたような気がした。

2012年6月23日土曜日

鳥は「盗り」~枇杷の収穫 2012/06/23

今日枇杷の実の収穫を行った。実は残ったらっきょうを収穫して、黒大豆の種を蒔いたり、薩摩芋の蔓を採って植えるつもりであった。
ところが、赤穂の畑に行ってみると、あれほど厳重に防鳥ネットを張っていたのにも関わらず、袋がけした枇杷のみが食い荒らされていた。
こちらも、うかつであった。枇杷の熟れ具合を調べていなかった。

防鳥ネットをして油断もあった。最初家内はあまり上手に採っているので、人が採ったと疑ったが、地面に食い荒らされた残骸が残っていたり、突いた実が落ちていたので殆どは鳥のせいだと思う。
おそらく以前にも採っていった椋鳥ではないかと思う。
確かに、人も通りがけで採っていく人もいたかも知れない。姫路では農作物を採っていく人が多くて困ることを聞いていた。赤穂のこのあたりでは、あまりそう言う話は聞かない。

枇杷のみを採るつもりが無かったので、脚立も用意していなかった。そこでいっそうのこと枝毎残りを採ることにした。
以前採られた時も、腹立ち紛れにばっさりと枝を多く落としたことがあった。枇杷は強いもので翌年もちゃんと実をつけてくれた。
今回は本当は前もって剪定しておいて、ネット張りやすくするために低くするつもりでいた。それを今やるだけのことである。
そもそも、これだけ手間を掛けて袋がけして駄目なものは、剪定によって枯れても惜しくはない。鳥にやるくらいなら伐ってしまいたいくらいである。

収まらない怒りを抑えながら、ばっさばっさ切り落として、家内に残った実をちぎって貰ったら、意外に残っていて買い物袋一杯にはなった。
大きさも袋がけの時に2~3個になるよう摘果したり、枝を剪定したので大きく、3cm位になっている。
枇杷は剪定や摘果を怠ってそのまま実をならすと種だらけのみになり、人にあげるどころか、自分家でも食べて貰えない。
人にあげても恥ずかしくない実にはなっていた。

しかし、半日掛けて袋がけ剪定した労力の半分以上は採りに持って行かれてしまった。
人は動物や昆虫の労力を搾取するのが普通なのだが、今回は鳥に我々の労力を搾取されてしまった。
動物愛護や失われる自然を惜しむ立場でいた者が、とんだしっぺ返しを喰らってしまった。
貴重な休みの土日の時間を使って大切に果樹を管理している者としては、収穫物の半分以上も鳥に差し上げる気にはなれない。

ネットによれば鳥の語源は「飛ぶ」ことにあり、古代では狩猟の対象で「獲る」ことからという説もあるという[http://gogen-allguide.com/to/tori.html]今の私の感情からすれば、大切な農作物を「盗る」から「鳥(とり)」である。
恐竜の生き残りとされる鳥の方が、先住民で入植した人類の方が新参者なのかも知れないが、ツバメなどは例外としてなかなかうまく共存できないものだと思う。

まだ、無花果も夏場にはあるし、来年の枇杷の収穫は虫も通さぬ防風用ネットを駆使して、対抗しようと思っている。
落花生はカラスにやられて、赤穂では作るのは諦めたが、果樹ばかりはそう簡単に撤退できないので、何とか今度は勝利したい。
数の減ってきた上郡と違い、赤穂の鳥はなかなか手強い。
農村地帯ではない赤穂の方がかえって自然が残っているのかも知れない。

やもりのやっちゃん

我が家では風呂の窓にへばりつくヤモリのことをやっちゃんと親しみを込めて呼んでいる。
やっちゃんは1匹ではなくて、多い時には3匹ほどにもなるが、すべてやっちゃんと呼んでいる。
今年も冬の眠りから覚めたやっちゃんが現れた。

自分の小さい頃は風呂や便所が屋外にあったので、隣の塀にへばりついていたヤモリが怖くて嫌だった。
蛇はつかむことができたが、トカゲやヤモリは苦手で、触ることも見るのも嫌だった。

ところが、くもりガラスの向こうで白い腹を見せて動き回るヤモリはとても可愛いく思えている。
やっちゃんは窓にへばりついて、風呂の明かりに集まる蛾を待っている。
ひらひらガラスにまとわりつく蛾を、じっと待ち伏せて来たところに飛びついたり
離れた蛾の所まで走っていって捕まえようとする
ところが、蛾もそう簡単には捕まらない
風呂に入ると、じっとその狩の様子に見とれてしまう

やっちゃんもうまい下手があって、うまいのは体も大きく小さい仲間を追っ払う
やっちゃん同士は縄張り争いも激しく、しっぽで威嚇したり、たまに鳴いたりする
尻尾がちぎれたのは、ケンカで失ったようだ
追い払われる小さいのを応援するが、 大概は逃げ出してしまう
ところが、大きいのが失敗して、その逃げた方向に蛾が来て小さいのが、それを頂くこともあって面白い

家内もその様子を風呂で見ているので、やっちゃんの話題で盛り上がる
家内は長風呂なので、やっちゃんを見るのが何よりも楽しみのようだ
暑がりの私は湯船から出てながめることもしばしばある
夏場のやっちゃんはお風呂のお供なのである

ただ、蛾にすれば、可愛い目をしたやっちゃんも、獰猛な恐竜の生き残りなのだろう。
どうしても、蛾の立場にたって考えることはできないけど・・・

赤穂弁と多方言主義

「よしてっけえ」というのは私が育った赤穂の尾崎あたりでは、何か遊びや、集まりに自分も入れて欲しいという時に使う言葉であった。
中学校から姫路に通い出したのだが、「よしってけえ」というと「どういう意味や」と笑われた。
同じように「よして」という言葉を連発していた1年上の先輩は、「よして」というあだ名がつけられてしまった。

赤穂では「でーしょん」という言葉をこの地域の特徴ある言葉として、「でーしょん祭」を企画したりしている。
「でーしょん」というのは関西弁の「どないしてん」、標準語の「どうしてる」 にあたるが、「でーなんね(どうしてるんだ)」とか「でーしたらえん(どうしたら良いの)」という言葉もよく使う。
私は小学校の担任の先生に「でーしょんだっせ いっしゃん(私のニックネーム)」とよく叱られたので、下級生からもそう言ってからかわれた。
赤穂高校に勤めていた相生出身の先生が生徒から「でーしたら、えんですか?」と聞かれて、意味が分からなかったと聞いた時、思わず苦笑してしまった。

私は赤穂でも「尾崎のがんら(柄が悪い)」と言われて、一番言葉遣いが悪いとされる地域に育った。
小学校の時は方言を使うと言い直させられた。それが授業以外でもするように教師から求められて、互いに監視し合う雰囲気になってしまった。
私は中学校から赤穂を離れた関係で、あまり赤穂弁は話せない。弟はずっと尾崎なので、弟らと話をする時は、尾崎弁やら姫路弁やら関西弁が混じる。
父親はもともと赤穂の西外れでの鳥撫出身なので、備前の言葉の混じった独特の言葉を使っていた。
母親は生まれは備前福河だが、相生育ちなのでそれも赤穂とは違う言葉使っていた。ようするに家の中では多方言地帯になっていたのである。

家内は両親とも広島県出身なので、家の中では広島弁が共通語である。それが家を出ると相生弁だったので、言葉やイントネーションが両方入り交じった妙な言葉をよく使う。
本籍も結婚する前迄は広島県だったので、「おまえは広島県人や」と冗談を言うと、「なんですいね 兵庫県人じゃけん」と冗談で言い返す。

ところが、テレビで育ち、友達も少なかった息子は方言が使えない。しかも、漢字言葉を連発する。方言が我が家で途絶えてしまうのはコウノトリの絶滅以上に哀しい。
私は教師という職業柄、授業では標準語を使うように心がけてはいるが、授業を離れると色々渾然とした方言を使っている。
以前は気取った言い方の時には、大学院時代に住んでいた所の、東京弁をつかい女房に皮肉を言われた。
だから、東京で暮らす弟が帰ってきて東京弁を使うと、お尻がむづ痒くなる。
文章を書く時は東京弁に近い標準語で違和感はないが、話す時は東京弁はカタカナ英語以上に違和感を感じる。

近年職場で英語を用いることを強制する企業が現れ始めた。
グローバライゼーションに日本がついていくためだという。
日本はずっと中国で生まれた漢字言葉を多用してきた。ただし、書き言葉としてである。
言文一致と良いながら、明治時代の小説の漢字言葉には閉口する。
そう言いながら、このブログも漢字言葉を用いないとまともに書けない。
ようするに、中国が世界でも冠たる文明の先進地域の時は、知識層を中心にグローバライズされていたのである。

英語がイギリスやアメリカの帝国主義の影響でスタンダードになった今、それに追随する必要はあるとは思う。
それなら、従来通り書き言葉やちょっとした日常会話に留めて、日常会話には方言を使うことをおすすめする。
東京に集まった地方出身者が、会議で方言と英語でバトルしている姿は愉快に思える。

「おみゃーさんよ それまちがっとるで いかんわ」
「あほか おーとんきまっとるやろ」
「That's right!」
「でーしたらえんですか? 課長!」
「わしゃ 広島じゃけん まかせるわ」
「ざけるんじゃーねーぞ!」
「くん しがたや はごさんくぁ-」
「んだ!」

という風な会話がなされるとは思わないが、遊び心を失った組織こそ、グローバライゼーションに取り残されるように思う。
正確に意思疎通をするだけが言葉ではない。
世界を背負おうとするなら、「よしてっけえ」と叫ぼう。
企業の仲間内で固まってしまわずに・・・ 

2012年6月20日水曜日

やはり減った鳥などの生き物

鳥はやはり減ったと思う。家内とも話したが一番に上がったのはケリだった。
ケリは上郡に来て初めて知った鳥だが、田んぼの中にいて「キキキキー」とうるさく鳴いて、人にまで向かってくる気の強い鳥だ。
この鳥は自分の縄張りを、同じケリ同士で競うが、カラスなどに対しても攻撃する。
時々夜中にも鳴いて、賑やかなやつだなと思っていた
ところが、このところいるにはいるが、数が本当に少ない

次に全く見ないのが、アマサギでこれは田植え時分に必ずいた。
最初は、季節的に頭の部分が黄色くなるのかと思っていたが、そういう種類で夏だけ来る渡り鳥だという。
サギはいろんなサギを見かける。ダイサギやコサギ以外にも、ゴイサギやアオサギも見ることもある。
ところが、田植えの時に必ず沢山いたアマサギを全く回りで見かけていない。

カラスや鳶も減ったと思う
カラスと鳶が空中戦をするのが面白くて、でかいのにカラスにやられている鳶を応援したくなるのだが、その風景をとんと見ない。
カラスは冬に集団で見かけることがあるが、夏でもいついているカラスをあまり見かけない
カラスは電柱にとまって「かあ かあ」と人が近づくとうるさく鳴くし、どういう訳か屋根の温水器をこつこつ突いていた。

相変わらず蛙は田んぼでうるさく鳴いている。
ただ、数は以前よりも減ったと思う。特にアマガエルとかツチガエルが少なくなった。
そう言えば蛇も今年はあまり見かけない。
家の近くではマムシさえ道路で車にひかれているのをたまに見かけたが、このところシマヘビやカラス蛇を見かけない。
ひょっとしたら、蛙とか小さな昆虫が減ったからかも知れない
そういえば川の小魚も減っているように思う。

哺乳類に関しても、確実に鹿以外の動物は減っている
よく見かけた狸や狐も最近見ないし、猪も降りてきていない
このところ厳重に鉄柵を山際に張り巡らしたので、降りて来られないのかも知れない。

これらの動物や昆虫が減った原因として考えられるのは、近年行われている無線ヘリによる空中農薬散布が第一に考えられる。
また、減反で草の生えている田が減ったことや、冬場から春先のレンゲ畑が減ったことなども考えられるがよく分からない。
まさか、心配している山崎断層地震の予兆とは思いたくないが、868年(貞観10年)に起こったことの再現になる。
ただ、東北大震災との関連からいくと、東北では翌年の869年に貞観三陸地震(M9.0)が起こっている。
列島の歪みの関連からすると、地震が前後してもおかしくないと思うので、用心に越したことはないだろう。

2012年6月17日日曜日

ジャガイモ掘り

ジャガイモを掘る季節になった。
この季節は雨が多いので、芋を掘るのはかなり重労働である。高齢になった家内の両親はジャガイモを作るのは数年前に止めてしまった。
一昨年はビニールマルチをしなかったので、雨上がりの芋掘りが土が重くて大変で、熱中症になってしまった。
それに懲りて、昨年からはビニールマルチを使用しているので、掘るのは幾分楽にはなった。
アルミ製のフォークス状の掘り起こし機で、家内や息子にも手伝ってもらった。
これは備中鍬を使うより簡単だが、掘り残しがでるので後でもう一度備中鍬で掘り起こしたが、一人で全部やるよりは楽ではあった。

ジャガイモは上郡の畑にキタアカリを、赤穂の畑にメークインを植えたが、上郡の方は葉が枯れる病気になったので、早々と先週から掘っていた。
キタアカリはもともとそんなに多くとれないが、早く掘ったせいもあって、小ぶりで量も多くなかった。
メークインは例年より小ぶりだが、コンテナ3杯半とれて上出来であった。
西隣の畑のNさんは、今年はジャガイモは全滅したという。万田酵素で作った種芋を貰い、切り口をよく乾燥させて、マルチも用いて植えたのだが、植えた時に3日間雨が降って、腐ってしまったという。
かつて、自分にはジャガイモを全滅させたことは無かったので、雨よりも種芋の質に問題があるように思えた。

ジャガイモ掘りで一番困るのは、蟻である。マルチをしていると特に蟻の巣が多くなる。
掘る時にその巣を壊すことになるので、怒った?蟻が服の中に入り込んで手足をかむことが多い。
蟻にかまれると赤く腫れて、痛がゆくしばらくは治らない。
私は今回、右手の二の腕の内側をかまれた。家内は肘の下あたりをかまれて、私よりもひどく腫れ上がっている。
今年は例年よりも、大きくて黒い蟻が多くいたように思う。
その一方でミミズも沢山いたが、幸いにモグラや鼠はいなかった。
掘り起こした後は虫などを求めて、よくカラスなどが来るのだが、大勢で作業をやっているので寄りつけない。
そこで近くの木の上で悔しげに?鳴いたり、バタバタ騒いでいた。

赤穂は朝曇っていたのだが、昼になるにしたがって晴れてきて、芋を掘るには過酷な状態になってきた。
先週まで喉が渇くと食べていた畑の金柑も、先日来の雨で多くが腐っていて、最後に少しだけ奥の方のが食べられただけだった。
赤穂の畑の金柑は大変甘くてみずみずしくて、喉の渇きを癒すにはもってこいだった。
わざと採らずにおいていた金柑もおしまいになった。

ジャガイモを掘る一方で、らっきょうを掘っていたが、その後にマルチを張って、薩摩芋の蔓も植え足した。
この蔓は、上郡の裏の畑で芋から生やしたものと、早くから植えていた1本50円の蔓の脇芽が伸びたものを使った。
これで買った芋づるが70本、 生やした蔓が40本ほどになった。1本50円の苗も買った20本以上は増やしたので、もし同じように芋がなってくれれば、蔓は25円以下のコストになる。
例年よりも多く植えたのは、例年よりも生活費を切り詰めたいという思いからだ。

冬場の薩摩芋と夏場のジャガイモ
どちらも主食にはならないが、食生活には欠かせない。
このところ、干した輪切りの大根の燻製が成功し、干したニンニクの燻製もまあまあなので、ジャガイモも干して燻製にしようかとも思っている。
ジャガイモは日持ちは良いが、芽を出させて捨ててしまうことが今年は多かった。
一方でポテトチップスを買って食べるので、日頃から簡単に食べられるようにしておくのも、食べ切ってしまうこつのように思った。

2012年6月15日金曜日

平家伝説と小野豆

私の住んでいる上郡の高田地区には小野豆という山頂集落があり、今では廃屋も目立つが、何軒かまだ暮らされている。そこには平家伝説が残っていて、上郡町のホームページには次のような物語が載せてある。

小野豆の集落は、寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた経盛たちが、播磨の国の西端、相生の入り江に上陸し、人目を避けて山深いこの地に隠れ住んだといわれています。その小野豆へ源氏の追手が現れ、川に茄子の蔕が流れているのを発見し、草や木を掻き分けて探している最中、鶏の鳴き声が聞こえ、経盛はジャンジャン穴と呼ばれる洞窟に潜んでいるところを見つけられてしまい、助かる見込みがないと判断し、自害したと伝えられています。経盛の死後、家来たちは小野豆で一番見晴らしのよい場所に主を弔いました。その後、そこに建てられた寺は経盛の法名の真勝院から真勝寺と名づけられ、山号は三位卿の三位をとって三位山としました。また、小野豆の集落では、この由緒から昭和6年まで鶏を飼ったり、茄子を作ることはしていませんでした。[http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7069]

この小野豆にはよく運動がてら散歩に行くのだが、たまにジャンジャン穴にも立ち寄ったりする。ただ、入口がえらく狭くて本当に中に入ったのかと思うくらいである。
そこから少し上にある平家塚からは遠く瀬戸内海を見ることができ、確かに物語の叙情を醸し出してくれる。
真勝寺も以前は残っていたが、いつの間にか取り壊されて、跡地だけが残っている。住んでいる方もご老人が多いので、不便なこともあり、いずれ廃村になってしまうかも知れない。ただ、寒い上郡にあっては霜も降りず、意外と暖かい暮らしやすいところと言われている。
もっと山奥に入れば、ゴルフ場にしかかって道だけが残った所が広がり、山歩きやモトクロスもできる。
私は以前は桑の実などを採りによく山に登った。ここには以前住んでいた人が植えていた桑以外に、柚なども残っており、誰も採らずに放置されていたりする。
しだれ桜は有名だが、道が狭いため事故が起きたりするので、シーズンでは麓の空き地に車は停めて、歩いて上がった方が賢明である。途中で見える風景もなかなか良い。
移り住むか、山小屋を持ちたいと思った集落だが、大雨で道が途絶したりする。
手入れできない植林された場所は木が倒れたまま放置されたり、山肌が崩れたりしている。
ちょっと住むのをためらう場所となってしまった。

最近奄美のことを色々調べる内に、喜界島には小野津という所があり、そこの近くにも平家伝説が残されていることが分かった。
観光案内のホームページには次のようなことが書いてある。

その昔、壇ノ浦の戦いに敗れ、南島に落ち延びた「平家の落人」が残したものであると伝えられております。
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着き、島に上陸すると、源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。[http://kikaijimanavi.com/rekisibunka/a/heikemori.shtml]

奄美諸島には数多く平家伝説が残っており、たまたま地名が「おのず」と「おのつ」と似通っているだけかも知れない。
そもそも、奄美では与路(ヨロ)は本来、本来ユンと発音していたりして、漢字読みが従来の発音ではない場合が多い。
これは上郡に関しても昔発音されていたのとは違う漢字表記音になっているかも知れない。
共通しているのは、外部からの侵入に対する警戒である。上郡の小野豆は昭和初期まで警戒を続けていたことが分かる。
喜界島は琉球王朝に対しても最後まで抵抗していたことから分かるように、本来は独立性の強い先進地域であった。

また、加計呂麻島(カケロマジマ)の生馬(イケンマ)の生まれ、美人 ウラトミは役人の妾になるのを拒み小舟に乗り流されて小野津に着きここで暮らす、娘のムチャカナも美人であったが故に友の嫉妬にあい死を遂げる[http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/introduction/kikai2.html]。という抵抗の物語も体制への抵抗を物語っている

上郡の歴史も赤松氏の嘉吉の乱における室町幕府への抵抗はあまりにも有名である。
この上郡は中世において播磨の中心であったのにも関わらず、現在はあまり知られていない。明治維新期に活躍した大鳥圭介と上郡を結んで考えてくれる人も少ない。

一端歴史の時流から離れてしまうと、忘れられるところは喜界島と共通しているのかも知れない。

現代の上郡町は兵庫県で学校給食が唯一無い校区として保護者には評判が悪い。市町村合併の際も、すったもんだして結局赤穂市との合併は果たせなかった。
赤穂生まれの私はまた赤穂人にもどれることを楽しみにしていたが・・・
ただ、私のような東京から都落ちした者にとって、晴耕雨読のできる自然豊かなふさわしい場所のように思えたりもしている。別に隠れて住んでいるわけではないが・・・

2012年6月12日火曜日

姫路城

私は赤穂生まれの赤穂育ちでありながら、赤穂城より姫路城の方が馴染みが深い。
赤穂で育ったのが尾崎で、お城から離れていたのに対し、姫路城は中高一貫の私学に通っていて直ぐ傍にあったからである。
今でもよく思い出すのは、学年が上がって教室が3階になったが、その階のトイレから見える朝日に輝く姫路城である。小用をたしながら、真正面に見えるお城。
「今日は格別、綺麗に見える」とすっきりと呟いたものである。

当然、このお城は体育の授業で冬場のランニングに用いられた。内堀の回りを3周することが多かった。城前のお土産物屋付近から漂う、たこ焼きの臭いが空きっ腹には堪らなかった。
クラブではもう少し離れた男山の階段での筋トレがなされた。校内合宿での姫山公園の夜のハイキングは、先輩から受け継いだ楽しみの一つであった。
友人の多くは、デートの場所として、姫山公園を用いた。男子校だったので隣の女子校の生徒とカップルになることが多かった。
ただ、姫山公園でデートをすると別れるというジンクスがあった。友人の殆どはジンクス通りになった。

学生時代、姫路城に入場料を払って上ったのは一度だけで、あまり暇なので友達とふざけて上った。ところが、私は概観の美しさより、内部の神秘的な雰囲気が意外にも良いと思った。
どちらかというと不真面目な生徒だった私は、朝の姫路駅からの通学のコースをわざと遠回りで、大手門から三の丸広場を通って、動物園の傍の道を通り抜けて、美術館の傍に出てくるコースをたどった。(生徒の頃は、まだ美術館ではなく、裁判所だったと思う)
雪が降ると、わざと遅刻して、友達と雪の中ふざけ合って遊び、休み時間を見計らってこっそりの教室に入って、濡れた靴下をストーブで乾かした。
雪の姫路城は、日本で一番美しい風景と今も思っている。

世界遺産になってあまりにも有名になった姫路城だが、自分たちは天守閣周辺よりも、その北側の公園の方が馴染みがあった。
天守閣の北側は鬱蒼とした森となっていて、狸でも棲んでいる雰囲気があった。公園に設けられた屋根付きの休憩所では、平日でも暇な人が将棋をしていたりした。
学校の運動場は狭かったので、ソフトボールやサッカーを楽しんだり、国語の教師は授業中に散歩させて、俳句を作らせた。他にはない格好の材料だったのだろう。
美術の教師は日本画家で、姫路城を専門に描く東北なまりの先生だった。
私らも城を何度か描かされたが、ややこしい造りだったので面倒だった。

朝敵になったが故に、明治以降は恵まれなかった姫路。
城は売りに出されたのは有名な話だし、空襲に遭わなかったのは単に暗くて標的にならなかっただけと聞く。
本来は姫路が中心となって独立した県になるべきだったが、特に大久保利通を中心とする薩摩閥の政策で、神戸の後背地の座に甘んじた。
それに沿って置かれた大日本帝国陸軍の第10師団の本部の跡地に我が母校はあるのだが、戦後カトリック系のミッションスクールの敷地になったのも皮肉なものである。
私が奄美の研究のついでに、薩摩を調べるのも何か因縁めいて愉快である。
そういえば同じカトリック系のラサール校は鹿児島が有名だ。 あちらは母校に比べて、お城から遠いようだけど東大には近い・・・




2012年6月11日月曜日

砂糖と塩

私が奄美諸島を研究し始めたのは、南山大学の文化人類学研究会の先輩が与論島を村落調査しており、それに憧れを持っていたからである。
ただ、思い起こせば、高校生の頃たまたま近くの唐船という海岸でに夜行った時、不思議な人達が太鼓を打ち鳴らして、踊っているのをずっとながめていたことがある。
沖縄の人か、奄美の人か分からないが、八月踊りを浜辺でやっていたのだろう。

考えてみれば、兵庫県は神戸を中心に奄美や沖縄出身者が多く住んでいるので、そういう人と出会うことは別段不思議ではなかった。そもそも、神戸の川崎重工は鹿児島出身者川崎正蔵が創立した。有名な松方コレクションは、川崎重工の前身川崎造船所の社長松方幸次郎が収集したものである。その父親は有名な松方正義で鹿児島県出身者であった。
この川崎重工には奄美諸島の沖永良部からの出身者が多く働いていることは、『阪神都市圏における都市マイノリティ層の研究』  西村雄郎 2006  社会評論社を読めばよく分かる。

このところ、奄美に関する2冊目の出版を手がけて、あれこれ文献にあたっているのだが、島津藩の奄美に対する植民地支配との関連から、砂糖の文献をいくつか読んだ。砂糖という物が世界的にいかに植民地支配と関わっていたことがよく分かった。
一方、塩は殆ど自分には関心がなかった。私の赤穂での師匠、故廣山堯道氏(元赤穂高校の教師 元赤穂歴史博物館館長)は赤穂の塩の研究の権威であるし、知人には何名か塩業の研究者がいるのだが、研究しようとは思わなかった。
江戸時代の専売制ということを調べると、砂糖と塩は類似点が多いと言うことも分かった。知人西畑俊昭氏によれば赤穂は専売制とは言えないということだから、飛び抜けた塩業経営者の支配と言うべきなのだろう。
奄美は世界史的には植民地的支配による黒糖政策と言うべきだろうが、日本史的には最も過酷な専売制とも言える。その中で、ヤンチュと呼ばれる人身売買された人が多く生じたことは有名である。
一方の赤穂は過酷な労働を行う浜子という塩田労働者がいたことで知られ、私の住んでいた尾崎は塩業労働でトラコーマになる人が多かったことが、世界的に知られていたという。 ただ、浜子は契約によって働き、人身売買によるものではなかった。

奄美は沖縄と並んで黒糖の生産地として有名であり、一方赤穂は先進的な塩田技術による塩の生産地として有名である。労働形態の大きな違いはあるが、過酷な労働が行われていたこと以外にも、飛び抜けて富裕な現地経営者がいたことが共通している。
奄美大島では衆達として、田畑家が有名だが、赤穂では柴家、田淵家、奧藤家が有名である。江戸時代に行政支配者であった士族との関連も調べてみると面白いかも知れない。
明治以降は砂糖は台湾などの植民地支配によって廃れていき、一方、塩は専売制によって生きながらえていった。赤穂はイオン交換技術での生産が融雪剤生産や、海洋深層水の生産、赤穂ブランドによる「天塩」の販売として生き残ってはいる。奄美諸島ではキビ酢などの新商品も開発されているとはいえ、黒糖そのものは沖縄県ほどのブランド価値は維持できていない。

こうやって奄美諸島を研究し続けていることが、赤穂の歴史への関心にも繋がったことは愉快でもある。 廣山堯道氏の恩にも報いるためにも、その比較をいずれ行ってみたいと思っている。



2012年6月9日土曜日

薩摩芋の植え付け

今年は苗をいっぱい採ろうと、5月の連休には赤穂の瀬尾種苗店で、品種改良をしたという1本50円もする「べにあずま」の芋づるをを20本買って植えたのだが、温度が低かったり雨が降らなくて、いっこうに苗は伸びなかった。
上郡の方でも冬を越させた種芋を畑に植えて、トンネルをしたのだが、水をやるのを忘れたこともあって、最近になって少し伸び始めた。
仕方ないので、上郡の旬彩蔵で1本25円の「鳴門金時」を50本買った。その苗は近所の農家が作った物で、なかなか苗としては茎も葉っぱも元気の良い物だった。
その蔓は、赤穂高校の近くにある畑に持って行き、先週収穫した玉葱の畝をそのまま利用して、マルチを張り、大きなスコップで穴を開けて植えていった。先に植えた「べにあずま」もようやく蔓を伸ばしてきたので、6本ほど取って植え付けた。
昨夜から雨は降っていたが、水をたっぷり、井戸からバケツで汲んでかけてやった。

この薩摩芋、小学校でも学習で栽培するし、勤めている特別支援学校でも農園でよく栽培するのだが、簡単そうに見えて、意外と手間がかかって難しい。
雨が少なかった一昨年は、担当した学校の農園の芋に水をバケツに汲んでかけ続けたが、結局は収穫も少なく、バザーで販売することができなかった。
昨年は逆に雨がよく降って蔓もよく伸びたので、 蔓を刈り取って苗にして多く増やした、その苗にもそこそこの芋が秋にはついた。安納芋だけは駄目だった。
学校の農園の方は別の教師が主に担当していた。化成肥料を多くやったせいかもしれないが、「べにあずま」は多くとれたのは良いが、カボチャのようなでかい芋が殆どだった。
どうも、形から想像するに、何個かの芋が成長の過程でひっついてしまったような感じがした。
姫路で家庭菜園をしている人も「べにあずま」は同じ状況だったことから、品種と気候のせいかもしれない。
因みに私は「金時」系の「べにあずま」や「なると」を植えていたが、そういう状態にはならなかった。ただ、蔓を刈って少しずつ増やしたのだが、遅くなったのは殆ど芋は大きくならなかった。

実は、薩摩芋は赤穂の畑の隣や近くの人は、砂地で適しているのにも関わらず、あまりうまく作っていない。西隣はうまくできなくて、作るのを止めてしまい。水やりの大変な里芋を主に作っている。
昨年は、東隣は安納芋を作っていたが、葉が多く茂りすぎて、蔓呆けをした感じだった。そのまた東隣もうまくいかなかったとぼやいていた。
西隣の人は私の父親が薩摩芋を作っている様子を見ていたので、教えてくれたのだが、父親は薩摩芋を作る場所は毎年同じ場所にして、冬場はマルチを張って他の作物は植えていなかったそうである。

私は子どもの頃に芋を掘る手伝いをした憶えはある。芋の畝にはモグラのトンネルがあり、それを掘り続けて、モグラが出てきて驚いたのをよく憶えている。
刈り取った蔓は、畑に大きな溝をこさえて、その中に埋め込んでいた。
父親は薩摩芋を非常に大事にして、温度が15度以下にならないように、暖房をした居間のタンスの上などに新聞紙などで一つ一つ包んで段ボールに入れて保管した。
親戚から貰った紫芋なども、自分で苗を作って増やした。収穫した沢山の芋は、干して乾燥させて粉にしてパンケーキなどの生地に混ぜて食べたりもした。
学生時代、仕送りの少なかった私は家から送ってもらった薩摩芋を、ガスストーブで焼いて、食事代わりにした。だから、薩摩芋は食べ飽きて、しばらくは自分で作る気にはなれなかった。
戦時中にカボチャを食べ飽きたと言って、カボチャをあまり作らなかった父親と同じである。

私は父親ほど薩摩芋には入れ込んでいない。ただ、薩摩芋の場所はできるだけ同じにしているが、冬場には玉葱やニンニクを作っている。馬鈴薯だけは避けている。
去年は久しぶりに収穫が良かったので、薩摩芋の好きな母親にあげると喜んだ。
私は石油ストーブに石を敷き詰めた土鍋を置いて、その中で焼いて食べたし、干してつまみ代わりに食べたが、なかなかいけた。家内や息子は好みではなくて、あまり食べなかったが、弁当のおかずなどにはよくしていた。

何より、薩摩芋は上郡から遠くにある赤穂の畑で、夏場は放っておけるありがたい作物だ。
スイートコーンや落花生のようにカラスの被害もない。 肥料もあまりやらなくていい。
上郡では山に近いので猪の心配もあるし、粘土質の土壌にはあまり適していない。
今年は天候が不順な感じがする。雨も例年になく少ないので、あまり期待はできない。
去年の安納芋のように失敗しないか不安もある。
2250円の元手は何とか取り戻したいものである。

2012年6月8日金曜日

作物と暮らし

私は結婚して子供が生まれてからこの方、畑仕事を続けている。
父親の手伝いをさせられていた頃は嫌で仕方なかったが、子どもの健康のために、無農薬で有機肥料を使って作るようになった。
畑をする人の中には、自家用の作物にもたっぷり農薬をかけて、化成肥料だけで育てる人もいる。
それなら、買って食べた方が余程安上がりだと思う。
そういう人は食の安全のためではなく、立派な作物が沢山とれるのを目的としている。

始めた頃は失敗の連続で、バージンラックで成功することもあったが、玉葱でさえまともに作れなかった。
除草剤やマルチを嫌がって、草だらけになった畑の作物は非常に貧弱だった。
化学農薬の代わりに、酢や馬酔木や煙草の吸い殻などを自然農薬として使うこともあった。
それでも病気には勝てなかった。

紙マルチを使ったがコストが高く、結局ビニールの普通のマルチを使っている。
寒冷紗を多用して、これが無農薬の本領と言える。
また、寒冷紗が無理な作物のウリバイなどにはニンニク、酢、唐辛子を混ぜた忌避剤なども使ったりもする。
意外と草木灰が青虫に効いたりする。

肥料は以前は堆肥や液肥、米糠(EMボカシ)が主力だったが、今はそれを補助的に使い(EMボカシは現在作っていない)、鶏糞と菜種油糟、有機石灰が中心となっている。それで充分である。
トラックがあれば、近くで鶏糞はただで、牛糞は安く手に入るが、残念ながら今は家にはない。

機械は草刈り機と小さな耕耘機、三カ所ある畑は広さを合計すると200坪ほどになるので必要。
畦や道の草を刈るのも一仕事である。村作業にも草刈り機は欠かせない。
それでも、なるべく運動のためと思い、備中鍬や平鍬をつかって耕したり、大鎌で草を刈ったりする。
水も用水路から柄杓でくみ上げて運んでいる。
肝心なのは無理のないように機械を用いることである。

夢は玉村豊雄さんのような生活だが、才能が違いすぎると諦めてはいる。夢は夢・・・
彼のようにはなれなくても、畑仕事が暮らしの中にあるのは、健康的で生きているという実感を感じさせてくれる。
因みに勤めている特別支援学校でも農園作業を担当している。 少しは役に立っているのである。

このような田舎でも陽に焼けることを嫌って、畑仕事を嫌がる女性や、畑仕事そのものを面倒くさがる男性も少なからずいる。

畑仕事は時給計算で行くと採算に合わない。パチンコや釣りの方が楽でスリリングだろう。
でも、それに伴う健康と美味しさと収穫の楽しみは、その採算やスリルとは別次元である。
夫婦や親子でも、畑作りは一緒にできる。人にあげても喜んでもらえる。
これをスポーツと言うべきか、ゲームと言うべきか、レクレーションというべきか・・・否
畑仕事は単なる消費ではないし、運動を伴う生産であり、暮らしの一部でもある。

発展途上国と違い、生きるためにやむなくする農業ではなくて、生きる証としての物作り。
夜勤や肉体労働で疲れている 人には無理かも知れないが、そうでない人はスポーツとはひと味違う畑仕事を味わって欲しい。
作物は天候に左右されるが、子どもよりは言うことを聞いてくれる。
畑仕事で汗をかいた後のビールはたまらない。
死んだ親父の残した畑で家内や息子と一緒に過ごす時、ささやかな幸せを何よりも感じる


2012年6月4日月曜日

地元の親戚の支え

私の父親は赤穂の鳥撫(鷆和の一集落)出身で、親戚がそこには多い。父親は転職して会社勤めになり、住居もそこから遠く尾崎になった。
父親の兄弟は鳥撫に二人、妹が嫁いで加里屋にいる。ただ一人だけ遠く名古屋に叔父家族が住んでいる。
今回、その叔父が糖尿病が災いして足を切断せねばならなくなった。精神的に本人やその連れ合いの叔母も参ってしまい、赤穂の兄弟などを頼った。
そこで、親戚が手術前に出かけていって励ましてきたが、その時に都合が悪くて行けなかった私の方の妻子と母親、名古屋に住む弟が手術後に見舞いに行った。
叔父は遠くやって来てくれた親戚に励まされたのか、元気にリハビリに努めている。私たちには悲観した様子は見せなかった。

もともと私は鳥撫に生まれだったが、尾崎に引っ越した後も盆正月以外に、従兄弟や叔母のいる鳥撫の本家にはよく泊まりに行った。
小さい頃は、盆正月に鳥撫の本家に父親の兄弟姉妹が集まって賑やかにするのが、何よりも楽しみだった。
それが、中学生頃からどんどん足が遠のいていった。大人と子どもを区別する食事で、子ども扱いされるのがどうも嫌になったからだ。
成人すると葬式や法事以外の付き合いは殆ど無くなった。

今回名古屋まで叔父を見舞いに行ったのは、父親が亡くなって母親を連れて行かねばならなかったこともあるが、私自身が叔父に世話になったことからである。
都会に親戚があまりない私が大学に進む時に、名古屋の大学を選んだのは叔父がいたからである。進学してしばらくは叔父の借りているアパートを間借りして、近くの叔母のする喫茶店で食事をさせて貰った。
別のアパートに下宿してからは、叔父家族とは疎遠になり、東京の大学院に進学してからは殆ど名古屋の叔父を訪ねることはなかった。
それでも、私は叔父を頼って関わりを持った方で、もう一人の鳥撫の叔父の息子は、同じ名古屋の大学に進学しながら、一度も訪ねることはなかった。
私の弟も4年前に名古屋に単身赴任しながら、一度も訪ねていないと言うことなので、見舞いが良い機会として訪ねることになった。

どちらかというと、田舎育ちで社交下手の叔父は、家と職場を往復するまじめなサラリーマンで、趣味もゴルフ程度だった。
故郷の赤穂には元気な頃には毎年盆と正月には必ず帰省して、以前は退職後は赤穂に戻りたいと言っていた。
叔母は東京や名古屋の都会育ちだったし、子どもも名古屋で仕事して、家庭を築いていたので、叔父だけが赤穂に戻るということはできなかった。
肉親と呼べる人は家族以外に近くにいなくて、赤穂に年に戻ってくるのが楽しみだったが、退職後は患った糖尿病が元で透析を3日に一度する必要があり、赤穂に長くは滞在できなくなった。

 子どもが独立して二人暮らしになった叔父夫婦だが、子どもは叔父夫婦をよく見舞っている。特に看護師をしている娘はそうである。それでも、遠く赤穂の親戚を頼ったのは、叔父には何よりも赤穂の「肉親の情」が必要だったのだろう。
私の父親は名古屋の叔父が赤穂に戻りたいといった時に、現実は難しいと言って突き放した言い方をしていた。確かに現実はそうだった。
それでも、無理して赤穂に戻ってきていたら、これほど糖尿病はひどくなっていなかったようにも思う。
赤穂市に住む叔父の兄弟は盆正月や法事以外は、それ程飲食を共にしなかったが、畠仕事を共通に持っていていた。それぞれが競い合って、薩摩芋やら野菜を作って互いに自慢し合って、配り合っていた。
同じ糖尿病の鳥撫の叔父は、毎朝鳥撫から大津まで往復10km近くを歩いて糖尿病を克服している。
そういう健康的な生活をしていたら、これほど重篤な状況には陥らなかったように思う。

私にも神奈川県の都会に住む弟がいる。私は家を建てる土地もあるから戻ってきたらと奨める。
関東の地震が心配なこともあるし、病気をよくしていて、現在も難病を患っていながら、仕事を頑張っている。
弟の連れ合いが地元育ちと言うこともあるし、仕事のない赤穂に本人は絶対戻らないという。父親の葬式や法事以外には、盆正月でさえ戻ってこない。
弟はどんなに重篤な状況になっても、こちらの親兄弟を頼らなかった。これからもそうだろう。
エリートコースを進む弟は、保険や蓄えがあるので、病気や老後の心配は無いという気があるようだ。

父親の世代は高い教育も受けさせて貰えなかったが、支え合って家業をやったり、別の職についても互いに関係を持ち続けた。
我々の世代は高い教育を受けさせて貰い、安定な職に就きながら、ばらばらの生活を送っている。地元に戻った私ら兄弟(男4人兄弟もうちの二人)の間とてもそうである。
無縁化社会は都会に限ったことではない。田舎に住んでいても、関わりを絶ってしまった親子や親戚の話はよくある。
どちらかというと、煩わしいと思った親戚関係も、年老いた親の兄弟の支え合う姿を見ると、もう一度見なおす必要を感じるようになった。

2012年6月2日土曜日

蛍の舞う川

私の住む村を流れる高田川には蛍がたくさんいて、今その真っ盛りである。
上郡でももっと山沿いの鞍居川では、源氏蛍がいて乱舞する姿がすばらしいという。
こちらは平家蛍で小ぶりではあるが、蘆の中で優しく光る姿には心が和む。
赤穂の塩田地帯に育った私には、引っ越してきて初めて味わう幻想的な景色であった。
毎年、この季節には一度は見に行くのであるが、たいていは一人でぶらりと出てみる。
自分の子どもが小さい頃は、見に連れてくると喜び、夏の風物詩を楽しんだ。
今は、今年もいることを確かめに行くのであり、風情を楽しむというわけでもない。

実はこの近くの川は、この冬場に河川改修をしていた。
ユンボーで河床を均していったので、蛍はいなくなると思った。
案の定、改修した箇所には蛍は殆どいなくなっていた。
幸いなことに、一部の区間だけだったので、残された所は却って多くいるように感じた。

このところ、千種川流域では水害が多く、本流では大規模に河川工事をしている。
2004年(平成16)の台風21号による水害では、この高田川も本流に合流する付近で浸水があった。
2009年(平成21)は台風9号による水害が、上流の佐用町を中心に広がったのはよく知られている。
50年に一度の水害と2004年の時は言われたが、地域は違うが、その5年後にはそれを上回る水害となった。
私の育った赤穂でも1974年(昭和49)に大水害に見まわれたが、赤穂の有年地区はそれから30年後の2004年の台風21号による大被害を受けた。
50年に一度の水害が50年も経たないうちに起こる。
「その水害は100年に一度というのか」と冗談にもならぬことを家内と言い合ったりする。

これだけ水害が多いと、河床を浚って備えねばならないことはよく分かる。
毎年、冬場には枯れた蘆を焼いて、ゴミもついでに燃やして綺麗にするが、土までは浚わない。
もともとは扇状地で氾濫するのは当たり前だったのだろうが、今は氾濫させるわけにはいかない。
予算が無くて、全面的に河川改修できなかったことが幸いして、蛍は残ったが、できれば今後は場所をとびとびに改修して欲しい。
高齢化で村の溝掃除も苦労するようになった今、自然を守る力を維持するのも難しくなっている。
台風で倒された木を放置して山は荒れ、ますます山肌は削られ、そしてその土が川に流れ込む。

里山や村の藪や河原は、本来手を加えて管理して維持するものである。
管理できなくなった竹林や大木は根こそぎ切られ、美しくさえずる鳥は来なくなった。
せめて、子どもや孫に蛍を見せてやれるように、知人に蛍を見においでと言えるように川を守りたい。
不便な田舎を大きくアピールできるのは、華やかな花火ではなくて、仄かで優しい蛍の瞬きなのだから。