私は4月に60歳になったので、本来の定年退職の歳は2020年の3月である。
早々と早期退職して今は臨時教諭たけど、来年度からは再任用扱いになる。
要するに臨時講師より賃金の低い給与体系となるのである。
60歳の定年退職から、年金支給までの期間を再任用やら再雇用で生活を維持せねばならない。
私は諸事情より、常勤の再任用より、非常勤の講師を今のところ望んでいる。
おかしなことに、それは自分が大学院時代に経験したことと重なるのである。
自分には兄弟が多くて、親からの学費や生活費を全く受けられない状態で大学院に進んだ。
東京に出てすぐにしたのはアルバイト探しだった。
中野の郵便局から始まり、警備会社での交通整理や夜警、そして家庭教師となった。
都立大学への授業料を滞納して出席停止寸前までになった。
その時に、恩師石川栄吉先生から「金貸してあげようか」と言われ、「何とかします」と答えたのを憶えている。
なにせ、名古屋では家賃1万円のところで暮らしていたのが、2万3千円となり物価もけっこう高かった。
アルバイトをする関係から、ちゃんと風呂にも入らねばならなかった。
大学時代は特別奨学金があり、それほどアルバイトをしなくて済んでいた。
大学院時代では奨学金が受けられなかったので、アルバイトをするしかなかったのである。
そういう生活をした経験がある私だが、家内は自宅から大学に通学して、結婚するまで親元を離れたことがなかった。
確かに、子どもに教育費がかかる頃は、生活費と切り詰めたことはある。
しかし、生活費そのものに困窮した経験は無いと思う。
私は大学時代や大学院時代に、本当に生活費に困る生活を体験しているので、家内とは経済感覚がどうも違うようだ。
だから、なるべく家内には金の不自由をかけたくは無いと思っていて、大学院当時と同様アルバイトに精を出さねばならない。
このところ、大学時代や大学院時代に残されたものを整理していた。
自分は夢が実現できなかった辛い経験から、残された物を長い間手にすることはできなかった。
しかし、老いぼれて自信を喪失していく自分への戒めを込めて、当時の自分をもう一度見つめ直そうと思った。
20歳代の自分や、そこに寄りそってくれた人を再現すると、色んな思いがこみ上げてきた。
そこにいる自分は、今の自分の過去の姿だけれど、今の自分とは全く違う。
これは、自分の子ども達の幼い時の姿を見るのとそう変わりは無かった。
過去を背負い込んでいたように感じていたのだが、実はとっくに別の自分になっていたようだ。
しかし、精一杯生きていた当時の自分を、厳しい目は持ちながらも、良いことも悪いことも含めて受け止めてやらねばならないと思った。
若い頃の激動の時代は、今の平穏な生活とは大きく違う。
しかし、今の生活も最初から平穏だったわけではない。
この歳になって、家内とゆっくりこたつに入って、とりとめない話が出来るのも、そういう経験の延長上になる。
60歳になった今だからこそ、過去の自分をしっかりと受け止めて、自分なりの墓碑銘を自分で刻んでおきたい。
自分には墓はいらないけれど、惚けて自分でなくなる前に、せめて文章として残しておきたいと思っている。
そういう意味で、人生という物語の締めくくりをしなくてはならないと考えさせられた年となった。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2019年12月31日火曜日
2019年12月22日日曜日
十二指腸潰瘍
先日ふと話の中で、十二指腸潰瘍の話が出た。
長い間忘れていたが、以前かかっていた持病である。
私がなったのは大学院時代で、修士論文を書いている時であった。
胃腸が弱っているのに、辛い唐辛子などを食べたのが原因だったようにも思う。
当時の痛みは相当なもので、どんな姿勢をしても痛みが治まらなかった。
我慢しきれないで医者に診てもらったら、入院するように言われた。
当然、論文を書いている最中に入院するわけには行かない。
薬を飲んで何とか我慢したことを憶えている。
私と話をした人は、中学校の時にかかったそうだ。
十二指腸潰瘍は空腹時に痛みを感じるのが特徴だ。
その人は当時は一日7回も食事をしたそうだ。
私は教職について二校目の学校で、ストレスなどから胃腸の調子が悪くなり、医者の友人に診てもらった。
私は十二指腸潰瘍のことはすっかり忘れていたのだが、バリウムを飲んで調べたらその痕跡が見つかった。
友人の医者言うには、十二指腸潰瘍は完治はしない、ただ、粘膜で傷跡を保護するだけだという。
つまり、再び痛くなったのは、その粘膜の保護がちゃんと出来なかったからだ。
この十二指腸潰瘍の恐ろしさについては、当時はよく分かっていなかった。
次に赴任した学校で、同僚のお父さんが十二指腸潰瘍で亡くなって初めて知った。
痛みを我慢して、十二指腸から多量失血したということだった。
今は良い薬が出来て、この病気は恐いものでは無くなっていると聞く。
しかし、一度傷ついた腸は二度と元には戻らない。
私の場合は大学院時代の苦しみが、身体に刻まれ続けられると言うことだ。
話を聞いていると、私の年代の男性は、胃腸にポリープや潰瘍痕を抱えている人も少なからずいる。
肉体労働が主であった以前は身体の見える部分に傷が残っていた。
デスクワークの多い仕事は、身体の見えない部分に傷が残っているようだ。
そして、レントゲンにも移らないのは心の傷だろう。
ただ、このよう内なる傷は完治でき無くても、保護は出来るようだ。
自分を労ると言うことは、自分で自分を保護してやることのようだ。
長い間忘れていたが、以前かかっていた持病である。
私がなったのは大学院時代で、修士論文を書いている時であった。
胃腸が弱っているのに、辛い唐辛子などを食べたのが原因だったようにも思う。
当時の痛みは相当なもので、どんな姿勢をしても痛みが治まらなかった。
我慢しきれないで医者に診てもらったら、入院するように言われた。
当然、論文を書いている最中に入院するわけには行かない。
薬を飲んで何とか我慢したことを憶えている。
私と話をした人は、中学校の時にかかったそうだ。
十二指腸潰瘍は空腹時に痛みを感じるのが特徴だ。
その人は当時は一日7回も食事をしたそうだ。
私は教職について二校目の学校で、ストレスなどから胃腸の調子が悪くなり、医者の友人に診てもらった。
私は十二指腸潰瘍のことはすっかり忘れていたのだが、バリウムを飲んで調べたらその痕跡が見つかった。
友人の医者言うには、十二指腸潰瘍は完治はしない、ただ、粘膜で傷跡を保護するだけだという。
つまり、再び痛くなったのは、その粘膜の保護がちゃんと出来なかったからだ。
この十二指腸潰瘍の恐ろしさについては、当時はよく分かっていなかった。
次に赴任した学校で、同僚のお父さんが十二指腸潰瘍で亡くなって初めて知った。
痛みを我慢して、十二指腸から多量失血したということだった。
今は良い薬が出来て、この病気は恐いものでは無くなっていると聞く。
しかし、一度傷ついた腸は二度と元には戻らない。
私の場合は大学院時代の苦しみが、身体に刻まれ続けられると言うことだ。
話を聞いていると、私の年代の男性は、胃腸にポリープや潰瘍痕を抱えている人も少なからずいる。
肉体労働が主であった以前は身体の見える部分に傷が残っていた。
デスクワークの多い仕事は、身体の見えない部分に傷が残っているようだ。
そして、レントゲンにも移らないのは心の傷だろう。
ただ、このよう内なる傷は完治でき無くても、保護は出来るようだ。
自分を労ると言うことは、自分で自分を保護してやることのようだ。
2019年12月19日木曜日
窓の向こうに恩田川
前回のブログでかぐや姫の神田川を引用したが、私は一時東京の中野に住んでいたので、神田川は近くにあった。
しかし、情緒のないコンクリートで固められた神田川には、全く魅力を感じなかった。
私にとって思いで深いのは、むしろ恩田川である。
先日大学が恩田川の近くにあったという同じ職場の若い職員から、恩田川沿いをよく走ったという話を聞かされた。
自分もこの川の土手をジョギングしたり、散歩したり、自転車で走ったりしたので話がはずんだ。
私は大学院時代、東京都の中野、新宿区西落合、そして横浜市緑区長津田に住んでいた。
毎年引っ越しをするという、引っ越しマニアでもあった。
当時は部屋に荷物も大して無くて、気楽な引っ越しだった。
私は長津田のアパートで、修士論文を必死になって書いていた。
引き籠もって書いている内に、心身ともまいってしまい、それを紛らすために川沿いを散歩し始めたのが始まりだった。
散歩をすることから、ジョギングに変わり、何もかも忘れて夢中で走っていたのを憶えている。
その川沿いのジョギングは、赤穂では大津川と千種川、龍野では栗栖川、上郡では高田川と千種川、姫路では市川と場所が変わった。
川の流れを眺めながら、移ろう季節を感じながら走っていた。
その始まりは恩田川だったのだなと、改めて気がついた。
ジョギングはしなかったけれど、名古屋では天白川や山崎川、新宿区の西落合では妙正寺川には想い出がある。
都会の中の川には、心を安らげる趣があった。
それは桜が植えてあったり、川原には草花が咲いていたからだろう。
その頃、付き合っていた女性とも川沿いをデートすることが多かったように思う。
残念ながら恩田川にはそういうロマンチックな想い出はないけれど、夢破れ帰郷した後も一番思い出したのは恩田川の景色だった。
だから、機会があって10年以上前に東京に行った時に、ついでに寄って写真を撮ってきた。
美空ひばりの「川の流れのように」(作詞秋元康)の歌詞は、川により沿う人の気持ちを上手く表していると思う。
まさしく、私の長い人生をもそこに映すことのできるものだと感じるこの頃である。
しかし、情緒のないコンクリートで固められた神田川には、全く魅力を感じなかった。
私にとって思いで深いのは、むしろ恩田川である。
先日大学が恩田川の近くにあったという同じ職場の若い職員から、恩田川沿いをよく走ったという話を聞かされた。
自分もこの川の土手をジョギングしたり、散歩したり、自転車で走ったりしたので話がはずんだ。
私は大学院時代、東京都の中野、新宿区西落合、そして横浜市緑区長津田に住んでいた。
毎年引っ越しをするという、引っ越しマニアでもあった。
当時は部屋に荷物も大して無くて、気楽な引っ越しだった。
私は長津田のアパートで、修士論文を必死になって書いていた。
引き籠もって書いている内に、心身ともまいってしまい、それを紛らすために川沿いを散歩し始めたのが始まりだった。
散歩をすることから、ジョギングに変わり、何もかも忘れて夢中で走っていたのを憶えている。
その川沿いのジョギングは、赤穂では大津川と千種川、龍野では栗栖川、上郡では高田川と千種川、姫路では市川と場所が変わった。
川の流れを眺めながら、移ろう季節を感じながら走っていた。
その始まりは恩田川だったのだなと、改めて気がついた。
ジョギングはしなかったけれど、名古屋では天白川や山崎川、新宿区の西落合では妙正寺川には想い出がある。
都会の中の川には、心を安らげる趣があった。
それは桜が植えてあったり、川原には草花が咲いていたからだろう。
その頃、付き合っていた女性とも川沿いをデートすることが多かったように思う。
残念ながら恩田川にはそういうロマンチックな想い出はないけれど、夢破れ帰郷した後も一番思い出したのは恩田川の景色だった。
だから、機会があって10年以上前に東京に行った時に、ついでに寄って写真を撮ってきた。
美空ひばりの「川の流れのように」(作詞秋元康)の歌詞は、川により沿う人の気持ちを上手く表していると思う。
まさしく、私の長い人生をもそこに映すことのできるものだと感じるこの頃である。
2019年12月17日火曜日
学生時代の写真からの激励
このところ入院した母の世話や今後のことを考えると、老後の不安を実感せざるを得なかった。
自分自身も持病や身体や容貌の変化に、後ろ向きに考えることが多かった。
そんな中で、ふと学生時代の写真を取り出してみた。
かぐや姫の「神田川」の歌詞ではないけれど、「若かった あの頃 何も恐くなかった」時代である。
私には大切な優しさが欠けていたと苦笑しつつ、当時の自分や親しかった人たちをながめる。
当然、そこには今の自分とは全く違う自分がいる。
残念ながら、大学や大学院の頃に親しかった人とは会う機会が無いので、今の様子は分からない。
私はその頃出逢った人たちを、その頃の年齢の人として思いを寄せている。
高校時代の同級生とは同窓会で会って、ショックを受けたのだから、学生時代の仲間とは会わない方が花なのかも知れない。
写真は高校時代まではそこそこあるのに、高校を卒業してから職に就くまではあまりない。
私はその年数は9年にも及ぶ。
自分にとっては、10代後半から20代後半までの一番若々しかった頃である。
同世代の人たちも、みんな美しく輝いて見えるし、自分自身も今と比べてはハンサムに見える。
写真を見るうちに、昔の気分に引き戻されてきた。
このまま老け込んではいけない。
身体より先に、心が老け込んでどうするんだ!
と、自分に叱咤激励をした。
家族の昔の写真はどうしても、ノスタルジーを感じてしまっていたが、学生時代の写真は励ましとして刺激となった。
子どもが成長した今は、ある意味で学生時代と変わらなくなったところも多い。
そして、当時は将来に不安を抱えていたと同じように、老後に不安は抱えている。
また、今は「何も恐くない」というよりも、「何もかも恐い」と感じている。
その代わり、家内には笑われそうだが、若い頃よりは優しくなってはいると思っているのだが・・・
自分自身も持病や身体や容貌の変化に、後ろ向きに考えることが多かった。
そんな中で、ふと学生時代の写真を取り出してみた。
かぐや姫の「神田川」の歌詞ではないけれど、「若かった あの頃 何も恐くなかった」時代である。
私には大切な優しさが欠けていたと苦笑しつつ、当時の自分や親しかった人たちをながめる。
当然、そこには今の自分とは全く違う自分がいる。
残念ながら、大学や大学院の頃に親しかった人とは会う機会が無いので、今の様子は分からない。
私はその頃出逢った人たちを、その頃の年齢の人として思いを寄せている。
高校時代の同級生とは同窓会で会って、ショックを受けたのだから、学生時代の仲間とは会わない方が花なのかも知れない。
写真は高校時代まではそこそこあるのに、高校を卒業してから職に就くまではあまりない。
私はその年数は9年にも及ぶ。
自分にとっては、10代後半から20代後半までの一番若々しかった頃である。
同世代の人たちも、みんな美しく輝いて見えるし、自分自身も今と比べてはハンサムに見える。
写真を見るうちに、昔の気分に引き戻されてきた。
このまま老け込んではいけない。
身体より先に、心が老け込んでどうするんだ!
と、自分に叱咤激励をした。
家族の昔の写真はどうしても、ノスタルジーを感じてしまっていたが、学生時代の写真は励ましとして刺激となった。
子どもが成長した今は、ある意味で学生時代と変わらなくなったところも多い。
そして、当時は将来に不安を抱えていたと同じように、老後に不安は抱えている。
また、今は「何も恐くない」というよりも、「何もかも恐い」と感じている。
その代わり、家内には笑われそうだが、若い頃よりは優しくなってはいると思っているのだが・・・
2019年12月9日月曜日
プールに戻った海豚
私は1年くらいプールから遠ざかっていた。
ずっと、プールに行きたいという気持ちが起こらなかった。
農作業で忙しかったり、腕が痛かったりと理由はあるが、それは単なる言い訳だった。
プールに行く気が起こらない。
行っても、もうつまらないように思えた。
その間、ずっと散歩で体は動かしてはいたが、どちらかというと気持ちはずっと後ろ向きだった。
今日は久しぶりにプールに行ってみようと思った。
理由は気分転換を少ししたかっただけだった。
子どもが幼い頃に通っていた相生のプールに行った。
もう、30年近くもこのプールで泳いでいる。
ただ、不思議なのだが、プールの駐車場に車を駐めると、これからの泳ぎのモードになる。
過去の想い出よりも、これから自分はどのように泳げるのかということに気持ちが向かうのだ。
そして、プールサイドに立つと、今泳いでいる人たちよりも、もっと良い泳ぎをしたいと思う。
長年の練習で刻み込まれた泳ぐ姿を披露したいと思う。
ところが、いざ泳ぎ始めると、右腕の痛みは強く、すぐに息も上がってしまう。
クイックターンもまともに壁さえ蹴れない。
ちっとも周りに格好良い姿など見せられない。
ただ、以前していたメニューを少しでもこなそうと思うだけである。
不思議に、まともに泳げないと、何とか良い泳ぎをしようと思う。
自分の泳ぎに集中できた。
見渡せば、知っているコーチなどがいて懐かしく思う。
相生のプールの良いところは、見覚えのあるコーチや事務の人が今もいることだ。
中には私が水泳部の顧問をしていた頃に、他校ではあるが現役選手で活躍していたコーチもいる。
上郡にはそういうコーチは誰も残っていない。
このプールは想い出のいっぱい詰まったプールだけれど、感傷的な気持ちにさせられるわけではない。
それは、今でも以前と同じように、一生懸命泳ぐちびっ子がいて、それを見守るお母さんが上のギャラリーのいる雰囲気だからだ。
自分のための練習ではありながら、見られていることを意識する。
実際は、ギャラリーは自分の子どもだけ、コーチは生徒だけを見て、泳いでいる人だけ隣で泳いでいる人を意識して見る。
それでも、自分なりに良い泳ぎをしたいと思って、泳ぎに集中できる。
今日泳いだことで、泳ぐことが、私の心を支えていたことが実感できた。
長い間泳げなかったのは、水泳が心の支えであったことに気がついていなかったからだろう。
自分を失うというのは、こういうことだったのかと改めて気がついた。
ずっと、プールに行きたいという気持ちが起こらなかった。
農作業で忙しかったり、腕が痛かったりと理由はあるが、それは単なる言い訳だった。
プールに行く気が起こらない。
行っても、もうつまらないように思えた。
その間、ずっと散歩で体は動かしてはいたが、どちらかというと気持ちはずっと後ろ向きだった。
今日は久しぶりにプールに行ってみようと思った。
理由は気分転換を少ししたかっただけだった。
子どもが幼い頃に通っていた相生のプールに行った。
もう、30年近くもこのプールで泳いでいる。
ただ、不思議なのだが、プールの駐車場に車を駐めると、これからの泳ぎのモードになる。
過去の想い出よりも、これから自分はどのように泳げるのかということに気持ちが向かうのだ。
そして、プールサイドに立つと、今泳いでいる人たちよりも、もっと良い泳ぎをしたいと思う。
長年の練習で刻み込まれた泳ぐ姿を披露したいと思う。
ところが、いざ泳ぎ始めると、右腕の痛みは強く、すぐに息も上がってしまう。
クイックターンもまともに壁さえ蹴れない。
ちっとも周りに格好良い姿など見せられない。
ただ、以前していたメニューを少しでもこなそうと思うだけである。
不思議に、まともに泳げないと、何とか良い泳ぎをしようと思う。
自分の泳ぎに集中できた。
見渡せば、知っているコーチなどがいて懐かしく思う。
相生のプールの良いところは、見覚えのあるコーチや事務の人が今もいることだ。
中には私が水泳部の顧問をしていた頃に、他校ではあるが現役選手で活躍していたコーチもいる。
上郡にはそういうコーチは誰も残っていない。
このプールは想い出のいっぱい詰まったプールだけれど、感傷的な気持ちにさせられるわけではない。
それは、今でも以前と同じように、一生懸命泳ぐちびっ子がいて、それを見守るお母さんが上のギャラリーのいる雰囲気だからだ。
自分のための練習ではありながら、見られていることを意識する。
実際は、ギャラリーは自分の子どもだけ、コーチは生徒だけを見て、泳いでいる人だけ隣で泳いでいる人を意識して見る。
それでも、自分なりに良い泳ぎをしたいと思って、泳ぎに集中できる。
今日泳いだことで、泳ぐことが、私の心を支えていたことが実感できた。
長い間泳げなかったのは、水泳が心の支えであったことに気がついていなかったからだろう。
自分を失うというのは、こういうことだったのかと改めて気がついた。
2019年12月7日土曜日
今は漕ぎいでな
前のブログで自称「旅を忘れたフィールドワーカー」と名乗った。
10年ほど前までは、奄美や鹿児島に行って追跡調査などをしていた。
実は定時制の高校に移ったのも、もう一度調査旅行に出たかったということもあった。
しかし、定時制は予想に反して、進路部長等を担当したので全日制よりも負担が多くなり、まとめて休みが取れなくなってしまった。
結局、早期退職して研究の機会を得るために執筆に励んだが、家内との約束の半年は過ぎてしまった。
元々、構想していたのは半年で完成できる内容ではなかった。
そしてその後、目的も果たせず職を転々として、現在の常勤の臨時教諭となっている。
考えてみれば、私は教師という職業は続けていたのだが、職場は転々としてきた。
常勤講師を含めると全部で教員では11校、長期研修生(大学院)1校、指導員1施設、インストラクター1施設ということになる。
「職を転々」という言葉はあまり良い意味に聞こえないのと同じく、職場を転々というのもあまり良い意味とは言えないかも知れない。
ただ、住居は結婚して借家に住んだが、現在の家を建ててからは住居を移らずに済んだ。
弟たちが転職や単身赴任などもあって住居を転々としたのとは対照的ではある。
考えようによっては、職場を生業の場と思えば、生活の糧を得るために場所を転々と移動してきたのと同じなのである。
家に居る時は、食事や睡眠が時間として多いので、職場が主な活動の場所であったわけだ。
ただ、家での私は農作業によっても、生活の糧の一部を得ていたので、職場だけに依存していたわけではない。
最近、後藤明氏の『海のモンゴロイド』(2003年 講談社)を、わくわくしながら読んでいた。
専門書で有りながら、ロマンを感じさせる内容だった。
後藤氏は「われわれ(日本人)は、もともと移動してきた民であり、また多方面の知識やアイデアを取り入れる、柔軟な頭を持った民」とし、
「移動するということに対して、何かネガティブなイメージ」を歴史的に築いてきたことに、現代の日本人の自信喪失の原因を見いだす。
その一方で安定した職場を得られなかった「就職氷河期」世代の問題を考えると、自由に活動できたエリート研究者の主張の限界も感じはする。
そういう意味では、公務員として安定した収入を得ながら、転勤という旅をし続けられたのもそれに似ているのかも知れない。
研究者なら日本国中、または、世界を駆け巡ることが出来たのだろうが、私にはできなかった。
その代わりに、海人が守り続けたような「嶋(シマ)」には、居続けることは出来た。
奄美の与路島では、旅に出る人の安全と無事に戻ってくることを祈る習慣があった。
最近、朝日新聞で与路島の北にある加計呂麻島出身者の、大阪での孤独死を大きく取り上げていた。
その人のシマにも同じような習慣はあっただろうと思うが、祈る人も絶えていたのかも知れない。
奄美に限らず、農村の多くは若い人の働く場が失われ、老人達が取り残されている。
それと同じように、賑やかな都会でありながら、誰にも看取られない孤独死が増えているよいう。
そして、東京は直下型地震で壊滅的な災害を受ける可能性を指摘されながら、拡大し続けている。
関東大震災後の歴史が教訓として残っているのにも関わらずである。
所詮、東京(江戸)は破壊と創造を繰り返すと言えばそれまでだが、そのために多くの市民が命を落として良いはずがない。
東京に限らず、大都会の自然災害における脆弱ぶりは指摘され続けている。
今こそ、大都会からの船出が必要なのでは無いだろうかと思う。
後藤氏は前述の書の中で「クック諸島:ルーの物語」という航海神話を紹介している。
人口増加で困窮した海人たちが、勇気を持って新しい嶋を求めて旅立っていく神話である。
危機を前にした大都市の話として考えるべき時が来たように思う。
10年ほど前までは、奄美や鹿児島に行って追跡調査などをしていた。
実は定時制の高校に移ったのも、もう一度調査旅行に出たかったということもあった。
しかし、定時制は予想に反して、進路部長等を担当したので全日制よりも負担が多くなり、まとめて休みが取れなくなってしまった。
結局、早期退職して研究の機会を得るために執筆に励んだが、家内との約束の半年は過ぎてしまった。
元々、構想していたのは半年で完成できる内容ではなかった。
そしてその後、目的も果たせず職を転々として、現在の常勤の臨時教諭となっている。
考えてみれば、私は教師という職業は続けていたのだが、職場は転々としてきた。
常勤講師を含めると全部で教員では11校、長期研修生(大学院)1校、指導員1施設、インストラクター1施設ということになる。
「職を転々」という言葉はあまり良い意味に聞こえないのと同じく、職場を転々というのもあまり良い意味とは言えないかも知れない。
ただ、住居は結婚して借家に住んだが、現在の家を建ててからは住居を移らずに済んだ。
弟たちが転職や単身赴任などもあって住居を転々としたのとは対照的ではある。
考えようによっては、職場を生業の場と思えば、生活の糧を得るために場所を転々と移動してきたのと同じなのである。
家に居る時は、食事や睡眠が時間として多いので、職場が主な活動の場所であったわけだ。
ただ、家での私は農作業によっても、生活の糧の一部を得ていたので、職場だけに依存していたわけではない。
最近、後藤明氏の『海のモンゴロイド』(2003年 講談社)を、わくわくしながら読んでいた。
専門書で有りながら、ロマンを感じさせる内容だった。
後藤氏は「われわれ(日本人)は、もともと移動してきた民であり、また多方面の知識やアイデアを取り入れる、柔軟な頭を持った民」とし、
「移動するということに対して、何かネガティブなイメージ」を歴史的に築いてきたことに、現代の日本人の自信喪失の原因を見いだす。
その一方で安定した職場を得られなかった「就職氷河期」世代の問題を考えると、自由に活動できたエリート研究者の主張の限界も感じはする。
そういう意味では、公務員として安定した収入を得ながら、転勤という旅をし続けられたのもそれに似ているのかも知れない。
研究者なら日本国中、または、世界を駆け巡ることが出来たのだろうが、私にはできなかった。
その代わりに、海人が守り続けたような「嶋(シマ)」には、居続けることは出来た。
奄美の与路島では、旅に出る人の安全と無事に戻ってくることを祈る習慣があった。
最近、朝日新聞で与路島の北にある加計呂麻島出身者の、大阪での孤独死を大きく取り上げていた。
その人のシマにも同じような習慣はあっただろうと思うが、祈る人も絶えていたのかも知れない。
奄美に限らず、農村の多くは若い人の働く場が失われ、老人達が取り残されている。
それと同じように、賑やかな都会でありながら、誰にも看取られない孤独死が増えているよいう。
そして、東京は直下型地震で壊滅的な災害を受ける可能性を指摘されながら、拡大し続けている。
関東大震災後の歴史が教訓として残っているのにも関わらずである。
所詮、東京(江戸)は破壊と創造を繰り返すと言えばそれまでだが、そのために多くの市民が命を落として良いはずがない。
東京に限らず、大都会の自然災害における脆弱ぶりは指摘され続けている。
今こそ、大都会からの船出が必要なのでは無いだろうかと思う。
後藤氏は前述の書の中で「クック諸島:ルーの物語」という航海神話を紹介している。
人口増加で困窮した海人たちが、勇気を持って新しい嶋を求めて旅立っていく神話である。
危機を前にした大都市の話として考えるべき時が来たように思う。
2019年12月3日火曜日
孫達の活躍が励まし
昨日(12・1)、神奈川県に住む弟夫婦と、就職して東京に住んでいる姪と単身赴任で名古屋にいる姪の父親(弟)が見舞いに来てくれた。
せっかく来るのだから、京都の観光を兼ねてきたという。
母には孫が合計で6人居る。
その内、4人は既に社会人となって働いている。
そして、一人だけ結婚して所帯を持った。
姪の一人は東京の企業に今年就職したが、それは私が東京の大学院に通っていた頃に通学で使っていた鉄道会社である。
鉄道勤務の様子を色々と話を聞かせてもらって懐かしく思った。
新米社員は色々経験させられるらしく、今は駅員をしているという。
大学時代はダンスをするような活発な娘だったので、アナウンスも臆せずやっているようだ。
パイロットになった甥っ子のことも聞いた。
初フライトは羽田から宮崎だったという。
親もその初フライトに客として乗っていったそうだ。
こういうことで、長年の親の苦労に報いることが出来るのだと感心した。
西の方にもフライトするようなので、これから上郡上空も飛んでくるかも知れない。
うちの娘は造船会社で、船にも試運転の時に乗るようだ。
そう考えると、母の孫達は空、海、陸の交通関係に関わっているということだ。
私の父も祖父も曾祖父も海運関係に従事していたことを考えると運命的なことを感じたりもする。
それに比べて、肝心の私を含んだ息子達は、色々の持病を抱えているのが現実なのだ。
誰も交通関連の仕事には今は就いていない。
隔世遺伝とも言うべきなのだろうか。
ともかく、私の母は持病を持つ息子達の様子より、孫達の元気に働く様子の方が励みになったようだ。
そして、旅を忘れたフィールドワーカーの私にも大きな励みとなった。
せっかく来るのだから、京都の観光を兼ねてきたという。
母には孫が合計で6人居る。
その内、4人は既に社会人となって働いている。
そして、一人だけ結婚して所帯を持った。
姪の一人は東京の企業に今年就職したが、それは私が東京の大学院に通っていた頃に通学で使っていた鉄道会社である。
鉄道勤務の様子を色々と話を聞かせてもらって懐かしく思った。
新米社員は色々経験させられるらしく、今は駅員をしているという。
大学時代はダンスをするような活発な娘だったので、アナウンスも臆せずやっているようだ。
パイロットになった甥っ子のことも聞いた。
初フライトは羽田から宮崎だったという。
親もその初フライトに客として乗っていったそうだ。
こういうことで、長年の親の苦労に報いることが出来るのだと感心した。
西の方にもフライトするようなので、これから上郡上空も飛んでくるかも知れない。
うちの娘は造船会社で、船にも試運転の時に乗るようだ。
そう考えると、母の孫達は空、海、陸の交通関係に関わっているということだ。
私の父も祖父も曾祖父も海運関係に従事していたことを考えると運命的なことを感じたりもする。
それに比べて、肝心の私を含んだ息子達は、色々の持病を抱えているのが現実なのだ。
誰も交通関連の仕事には今は就いていない。
隔世遺伝とも言うべきなのだろうか。
ともかく、私の母は持病を持つ息子達の様子より、孫達の元気に働く様子の方が励みになったようだ。
そして、旅を忘れたフィールドワーカーの私にも大きな励みとなった。
2019年11月30日土曜日
孫の手
昨晩、母の頼まれごとがあって、病院に見舞いに行った。
病室で母と話をしていると、孫二人(私にとって甥と姪)が母親と見舞いに来てくれた。
インフルエンザの予防注射をしたついでに寄ってくれたという。
久しぶりに会った二人は思ったより大きくなっていた。
この二人は赤穂で生まれ、赤穂で育ってきた。
そして、母は時折、孫の家に行って食事をしたりして楽しく過ごしたしていた。
私の子供も幼い頃は毎週のように、私の実家に行ってじいちゃん・ばあちゃんと会う機会はあった。
しかし、子ども達は学校中心の生活になって、盆正月や冠婚葬祭以外に会う機会は殆どなくなっていた。
それに比べて、近くに住んでいた弟夫婦の孫達は、普段から会う機会が続いていた。
だから、母にとって一番親しい孫と言えるのかも知れない。
因みに私の姪は高校生だが、妙な縁で姪の担任の先生をよく知っている。
というのも、担任の先生が大学生時代、私の勤めていた高校へ教育実習に来た時に、私が指導教官になったからだ。
私は初めての経験で、私の家にまで来てもらって指導したことも憶えている。
今は立派な先生になり、姪の担任をしてもらって、喜んでいる。
早いものでその姪も来年から短大に行くことが決まった。
家から通えるところなので、赤穂から離れることはない。
私の娘はどこの学校へ行っても、私の知り合いがいて、それが負担だったようだ。
地元を離れて行った大学には、初めて私の知り合いがいなくてほっとしたようだ。
逆に息子は、私の知り合いの先生に、よく声をかけてもらって喜んでいた。
そして、今でも地元の上郡で暮らしている。
ベッドの周りで色々話をして、そろそろ帰ると言うことになった。
姪は母の枕元に行って、母の手を握って、「おばあちゃん 元気になってね」と励ましてくれた。
「やはり、女の子は優しいね」と褒められるのを見た甥も、同じようにそばに行って母の手を握って励ましてくれた。
母は非常に喜んで、久しぶりに笑顔を見せてくれた。
一時は今後のことを悲観して、元気を失っていた母だが、孫達の手は大きな励ましとなったようだ。
私のような実の子どもでも、この歳になってはなかなか出来ないことを、若い孫達はためらいなくしてくれる。
母だけでなく、私も含めて老いたる者は、若い世代に支えられていることを感じざるを得なかった。
病室で母と話をしていると、孫二人(私にとって甥と姪)が母親と見舞いに来てくれた。
インフルエンザの予防注射をしたついでに寄ってくれたという。
久しぶりに会った二人は思ったより大きくなっていた。
この二人は赤穂で生まれ、赤穂で育ってきた。
そして、母は時折、孫の家に行って食事をしたりして楽しく過ごしたしていた。
私の子供も幼い頃は毎週のように、私の実家に行ってじいちゃん・ばあちゃんと会う機会はあった。
しかし、子ども達は学校中心の生活になって、盆正月や冠婚葬祭以外に会う機会は殆どなくなっていた。
それに比べて、近くに住んでいた弟夫婦の孫達は、普段から会う機会が続いていた。
だから、母にとって一番親しい孫と言えるのかも知れない。
因みに私の姪は高校生だが、妙な縁で姪の担任の先生をよく知っている。
というのも、担任の先生が大学生時代、私の勤めていた高校へ教育実習に来た時に、私が指導教官になったからだ。
私は初めての経験で、私の家にまで来てもらって指導したことも憶えている。
今は立派な先生になり、姪の担任をしてもらって、喜んでいる。
早いものでその姪も来年から短大に行くことが決まった。
家から通えるところなので、赤穂から離れることはない。
私の娘はどこの学校へ行っても、私の知り合いがいて、それが負担だったようだ。
地元を離れて行った大学には、初めて私の知り合いがいなくてほっとしたようだ。
逆に息子は、私の知り合いの先生に、よく声をかけてもらって喜んでいた。
そして、今でも地元の上郡で暮らしている。
ベッドの周りで色々話をして、そろそろ帰ると言うことになった。
姪は母の枕元に行って、母の手を握って、「おばあちゃん 元気になってね」と励ましてくれた。
「やはり、女の子は優しいね」と褒められるのを見た甥も、同じようにそばに行って母の手を握って励ましてくれた。
母は非常に喜んで、久しぶりに笑顔を見せてくれた。
一時は今後のことを悲観して、元気を失っていた母だが、孫達の手は大きな励ましとなったようだ。
私のような実の子どもでも、この歳になってはなかなか出来ないことを、若い孫達はためらいなくしてくれる。
母だけでなく、私も含めて老いたる者は、若い世代に支えられていることを感じざるを得なかった。
2019年11月29日金曜日
丸山海岸2019年秋
赤穂市の御崎から坂越に抜ける県道32号の海岸線には、福浦海岸、大塚海岸、丸山海岸がある。
アース製薬の前にも、広い浜辺があるが、そこですごした経験は殆どなかった。
私が子供の頃は、直接大塚海岸に抜ける自動車道がなくて、向山の山道を山越えするか、御崎の方から回っていくしかなかった。
歩いてなら大塚海岸が尾崎小学校から一番近かった。
小学校の遠足でも、大塚古墳を見るついでに、大塚海岸に行ったりしていた。
古墳の下にも小さな浜辺もあるが、海水浴を行うのは野外活動センターがある広い浜辺である。
特別支援学校に勤務していた時は、何度もこのセンターと海岸を利用させてもらっていた。
丸山海岸は、幼稚園や小学校のちょっとしたバス旅行や遠足でやってきていた。
切り立った岩場に上って、先生に注意されたりしたが、その岩場が丸山海岸の魅力になっている。
仕事の就いた独身の頃も、仲間と一緒に泳いだり、魚を捕ってバーベキューをした。
子供が出来た後も、親戚と一緒に海水浴に来た。
この海岸は、私の50年以上の想い出が残っているところである。
そこで、見ている景色は様々な記憶の景色が、背景に投影されたものでもある。
丸山海岸には広い駐車場があるし、公衆便所があるのでちょっと休憩をするのにも良い。
何よりも浜辺が広く、西側は崖にはなっていなくて、山際にキャンプ場がある。
私が行った日は平日だったが、大きなテントが3張も駐車場付近に、そして木々の中に1張あった。
たいてい、ここに来る時にはテントが張ってある。
以前から、亀の手を獲ったり、わかめを拾ったりしたのは東側であり、崖になっているところである。
その、岩場を過ぎると、また小さな浜辺になる。
そこでは、アサリも少しは採れたが、多くの人が採り尽くしたようだ。
その岩場にしゃがみ込んで、海の様子や景色を眺めた。
何度も言うように、私は船の上で育ったので、海を見ると心が和む。
一人で過ごしても、孤独を感じない。
それが、母なる生みたる所以かも知れない。
アース製薬の前にも、広い浜辺があるが、そこですごした経験は殆どなかった。
私が子供の頃は、直接大塚海岸に抜ける自動車道がなくて、向山の山道を山越えするか、御崎の方から回っていくしかなかった。
歩いてなら大塚海岸が尾崎小学校から一番近かった。
小学校の遠足でも、大塚古墳を見るついでに、大塚海岸に行ったりしていた。
古墳の下にも小さな浜辺もあるが、海水浴を行うのは野外活動センターがある広い浜辺である。
特別支援学校に勤務していた時は、何度もこのセンターと海岸を利用させてもらっていた。
丸山海岸は、幼稚園や小学校のちょっとしたバス旅行や遠足でやってきていた。
切り立った岩場に上って、先生に注意されたりしたが、その岩場が丸山海岸の魅力になっている。
仕事の就いた独身の頃も、仲間と一緒に泳いだり、魚を捕ってバーベキューをした。
子供が出来た後も、親戚と一緒に海水浴に来た。
この海岸は、私の50年以上の想い出が残っているところである。
そこで、見ている景色は様々な記憶の景色が、背景に投影されたものでもある。
丸山海岸には広い駐車場があるし、公衆便所があるのでちょっと休憩をするのにも良い。
何よりも浜辺が広く、西側は崖にはなっていなくて、山際にキャンプ場がある。
私が行った日は平日だったが、大きなテントが3張も駐車場付近に、そして木々の中に1張あった。
たいてい、ここに来る時にはテントが張ってある。
以前から、亀の手を獲ったり、わかめを拾ったりしたのは東側であり、崖になっているところである。
その、岩場を過ぎると、また小さな浜辺になる。
そこでは、アサリも少しは採れたが、多くの人が採り尽くしたようだ。
その岩場にしゃがみ込んで、海の様子や景色を眺めた。
何度も言うように、私は船の上で育ったので、海を見ると心が和む。
一人で過ごしても、孤独を感じない。
それが、母なる生みたる所以かも知れない。
2019年11月25日月曜日
紅葉の吉備路2019
山が色づいてくると、家にじっとしていられなくなる。
せっかくの日曜なのだが、昨日のように晴れ渡ってはいない。
実は私は昨日の土曜は仕事で、午後からはずっと日の当たる場所にいた。
熱くもなく寒くもなく、ぽかぽかと陽だまりの中にたたずんでいた。
今日は昨日のような日差しはないけれど、風もなく暖かい。
私は津山にホルモンうどんを食べに行こうと家内に提案した。
私は県道90号、赤穂佐伯線を選んだ。
上郡から八塔寺に向かうこの道路は、道路も整備されていて、紅葉の景色も抜群である。
ただ、以前あったゴルフ場もパン屋さんも潰れてしまっている。
八塔寺は子供が小さい頃はよく行った場所だが、最近は行ったことが無い。
英田のサーキット場を過ぎた後、県道46号の山道に迷い込んでしまった。
対向車が来ると、路肩すれすれで交わさねばならず、しかも、今回は対向車も何台かやってきた。
カーナビを使わないことで、いつも同じようなミスを繰り返し、スリリングな山道走行になる。
今回は、紅葉が綺麗だったので、怪我の功名の部分もあった。
ようやく、国道179号に出て、姫新線沿いを走ることが出来てほっとした。
そして、コンビニを見つけてトイレ休憩をおこなった。
その向かい側にあった佛法寺の銀杏が綺麗だったので写真を撮った。
津山に入ってから、一度道を間違えて、引き返して何とか「道の駅 久米の里」に辿り着いた。
やはり、秋の行楽シーズンと言うことだけあって、多くの人で賑わっていた。
食堂も満杯だったので、先に買い物をした。
いつも、遅く来て売り切れていることの多かった煮こごりも残っていたので買った。
しばらくして食堂が空いてきたので、いつものホルモンうどん定食の食券を買って待った。
家内は天ぷらうどんなのですぐに番号を呼ばれたが、私は少し時間がかかった。
ここのホルモンうどんには、ジャンボピーマンがのっていて、これも美味しい。
食事を済ませて、帰り道は吉井川沿いを南下する無難なコースになった。
吉井川沿いの県道26号線は景色も良くて走りやすい。
途中で国道374号で再び北上して、今度は吉野川沿いに進んだ。
そして、道は国道179号に変わり、来る時に通った道に戻った。
この国道179号で上月まで行き、上郡まで戻ったのである。
紅葉の山の景色を見続けてきたのだが、意外にも上月から上郡にかけての山の方が美しく感じた。
岡山は林業が盛んなので針葉樹も多いが、上月や上郡は針葉樹が少ない。
だから、山が紅葉一色になるのである。
そして、我が家に戻ってあたりを見渡すと、今日見てきた景色よりも鮮やかであるように思えた。
いつも見慣れているから却って分からなかったのかも知れない。
夕食で味わった煮こごりもビールのつまみに最高だった。
せっかくの日曜なのだが、昨日のように晴れ渡ってはいない。
実は私は昨日の土曜は仕事で、午後からはずっと日の当たる場所にいた。
熱くもなく寒くもなく、ぽかぽかと陽だまりの中にたたずんでいた。
今日は昨日のような日差しはないけれど、風もなく暖かい。
私は津山にホルモンうどんを食べに行こうと家内に提案した。
私は県道90号、赤穂佐伯線を選んだ。
上郡から八塔寺に向かうこの道路は、道路も整備されていて、紅葉の景色も抜群である。
ただ、以前あったゴルフ場もパン屋さんも潰れてしまっている。
八塔寺は子供が小さい頃はよく行った場所だが、最近は行ったことが無い。
英田のサーキット場を過ぎた後、県道46号の山道に迷い込んでしまった。
対向車が来ると、路肩すれすれで交わさねばならず、しかも、今回は対向車も何台かやってきた。
カーナビを使わないことで、いつも同じようなミスを繰り返し、スリリングな山道走行になる。
今回は、紅葉が綺麗だったので、怪我の功名の部分もあった。
ようやく、国道179号に出て、姫新線沿いを走ることが出来てほっとした。
そして、コンビニを見つけてトイレ休憩をおこなった。
その向かい側にあった佛法寺の銀杏が綺麗だったので写真を撮った。
津山に入ってから、一度道を間違えて、引き返して何とか「道の駅 久米の里」に辿り着いた。
やはり、秋の行楽シーズンと言うことだけあって、多くの人で賑わっていた。
食堂も満杯だったので、先に買い物をした。
いつも、遅く来て売り切れていることの多かった煮こごりも残っていたので買った。
しばらくして食堂が空いてきたので、いつものホルモンうどん定食の食券を買って待った。
家内は天ぷらうどんなのですぐに番号を呼ばれたが、私は少し時間がかかった。
ここのホルモンうどんには、ジャンボピーマンがのっていて、これも美味しい。
食事を済ませて、帰り道は吉井川沿いを南下する無難なコースになった。
吉井川沿いの県道26号線は景色も良くて走りやすい。
途中で国道374号で再び北上して、今度は吉野川沿いに進んだ。
そして、道は国道179号に変わり、来る時に通った道に戻った。
この国道179号で上月まで行き、上郡まで戻ったのである。
紅葉の山の景色を見続けてきたのだが、意外にも上月から上郡にかけての山の方が美しく感じた。
岡山は林業が盛んなので針葉樹も多いが、上月や上郡は針葉樹が少ない。
だから、山が紅葉一色になるのである。
そして、我が家に戻ってあたりを見渡すと、今日見てきた景色よりも鮮やかであるように思えた。
いつも見慣れているから却って分からなかったのかも知れない。
夕食で味わった煮こごりもビールのつまみに最高だった。
2019年11月22日金曜日
朝の散歩2019紅葉
私の朝の散歩の時間帯は8時すぎから10時前である。
10月半ばまで、暑い日が続いている時には、滅多に他の散歩する人とは出会わなかった。
そして、11月初旬になると、この地域一帯では霧が立ちこめて、やはり散歩する人は殆どいない。
ところが、11月も半ばを過ぎて、霧も減って、朝日が山の紅葉を照らし始めると、散歩する人と出会うことが多くなった。
ただ、たまに寒い西風が強い日には、出会う人はやはり少なくなる。
散歩する人が多くなると、うちのクロが過剰反応するので、歩きづらくはなる。
しかし、誰もいない散歩道よりは賑やかで良いと思う。
若葉の季節と紅葉の季節は、散歩の時間が至福の時間となる。
この季節はどうしても日の出が遅くなるので、起きる時間もそれにつれて遅くなってしまう。
そして、どうしても散歩で家を出る時間が遅くなっていく。
私はたいてい8時25分に上空を通過する飛行機を見ようと思っている。
この頃、その時間までに出られないこともある。
ところが、良くしたもので、飛行機もこの頃は10分や15分遅れるのはざらで、酷い時には25分くらい遅れる。
上空の飛行機に向かって「遅いぞ」とつぶやきながら、見ることが出来て得をした気分になる。
そして、家に戻ってくる頃の9時5分に通過する飛行機も、最近は同じように遅れる。
秋の雲は空高いので、曇りの日でも飛行機が見られるのもこの季節ならではである。
コウノトリはまたどこかに行ってしまったけれど、飛行機は毎日やってきてくれる。
先日初フライトをした甥っ子も、いつかこの上空を飛んでくれるかも知れない。
10月半ばまで、暑い日が続いている時には、滅多に他の散歩する人とは出会わなかった。
そして、11月初旬になると、この地域一帯では霧が立ちこめて、やはり散歩する人は殆どいない。
ところが、11月も半ばを過ぎて、霧も減って、朝日が山の紅葉を照らし始めると、散歩する人と出会うことが多くなった。
ただ、たまに寒い西風が強い日には、出会う人はやはり少なくなる。
散歩する人が多くなると、うちのクロが過剰反応するので、歩きづらくはなる。
しかし、誰もいない散歩道よりは賑やかで良いと思う。
若葉の季節と紅葉の季節は、散歩の時間が至福の時間となる。
この季節はどうしても日の出が遅くなるので、起きる時間もそれにつれて遅くなってしまう。
そして、どうしても散歩で家を出る時間が遅くなっていく。
私はたいてい8時25分に上空を通過する飛行機を見ようと思っている。
この頃、その時間までに出られないこともある。
ところが、良くしたもので、飛行機もこの頃は10分や15分遅れるのはざらで、酷い時には25分くらい遅れる。
上空の飛行機に向かって「遅いぞ」とつぶやきながら、見ることが出来て得をした気分になる。
そして、家に戻ってくる頃の9時5分に通過する飛行機も、最近は同じように遅れる。
秋の雲は空高いので、曇りの日でも飛行機が見られるのもこの季節ならではである。
コウノトリはまたどこかに行ってしまったけれど、飛行機は毎日やってきてくれる。
先日初フライトをした甥っ子も、いつかこの上空を飛んでくれるかも知れない。
2019年11月12日火曜日
コウノトリ飛来2019年11月
11月12日
今日、クロと朝に散歩をしていると、我が村の上空に三羽の大きな鳥が舞っているのが見えた。
よく見てみると、コウノトリだった。
10月半ばに見かけたことは聞いていたし、先日それらしき一羽が池にいるのを見かけてはいた。
こうしてしっかり目撃できたのは昨年以来だが、昨年はすぐにいなくなってしまった。
コウノトリがやってくると、追っかけも必ずやってくる。
田んぼの狭いあぜ道に、大きな四駆を停めて双眼鏡で観察している人がいた。
また、近隣の人も軽トラで望遠カメラを持って撮影している。
まさしく、人寄せコウノトリである。
散歩の時に楽しみにしているのは、岡山飛行場に着陸するために低空飛行をする飛行機を見ることだった。
このまま、コウノトリが居続けてくれたら、毎日の散歩の楽しみがもっと増える。
そして、コウノトリ見物の人も増えて、村に少しの賑わいができる。
ただ、ゆっくりと餌を食べさせてやりたいと思うので、望遠のないカメラで近づいて写真を撮ろうとする人は困りものである。
たいがいは高圧電線の鉄塔の上で休んでいるのを見かけるのだが、たまに田んぼの中や行けに降りてきて餌をついばんでいる。
夕方にクロと散歩に出かけた時も、降り立ったコウノトリを見かけたが、近づいたりはしなかった。
今年はどれだけ居てくれるか分からないが、こうやって戻ってきてくれるだけでも嬉しい。
秋になると村周辺では、鷹など大きな鳥は多くみかけるが、なんと言ってもコウノトリの雄大さには叶わない。
たまに白鳥も近くの千種川まで行けば見かけることもあるが、手軽に見ることは出来ない。
家のそばにまで寄ってくれるから、コウノトリは親しみを感じるのだと思う。
ただ、このところ狐が昼間から田んぼの中を走り回っていたので、心配ではある。
とにかく、コウノトリは深刻な病気で辛い思いをしている人さえも元気にさせてくれる存在である。
どうにか、コウノトリが居続けられるような環境が整えば良いと思う。
それには、餌となるドジョウや蛙、虫、ネズミなどが豊富でなくてはいけない。
近隣の村の農家が、農薬を減らしたり、コンクリートで溝を固めてしまわないようにしなくてはならないだろう。
それは結局、我々住民の健康や安らぎにも関わってくると思う。
今日農作業をしながら聞いていたNHKラジオのヒルラジで、あぜ道の散歩の安らぎを取り上げていた。
コウノトリの見られるあぜ道の散歩は、何よりもまして安らぎとなると思う。
11月15日
昨日も、強風の中、村の上を二羽のコウノトリが舞っていた。
今日は、朝から一羽が鉄塔の上にとまっており、村の人が望遠カメラで撮影をしている。
もう一羽は、池のそばに舞い降りていた。
昼前になっても、一羽は家の窓からもしっかり見える鉄塔の上でのんびり過ごしている。
今日、クロと朝に散歩をしていると、我が村の上空に三羽の大きな鳥が舞っているのが見えた。
よく見てみると、コウノトリだった。
10月半ばに見かけたことは聞いていたし、先日それらしき一羽が池にいるのを見かけてはいた。
こうしてしっかり目撃できたのは昨年以来だが、昨年はすぐにいなくなってしまった。
コウノトリがやってくると、追っかけも必ずやってくる。
田んぼの狭いあぜ道に、大きな四駆を停めて双眼鏡で観察している人がいた。
また、近隣の人も軽トラで望遠カメラを持って撮影している。
まさしく、人寄せコウノトリである。
散歩の時に楽しみにしているのは、岡山飛行場に着陸するために低空飛行をする飛行機を見ることだった。
このまま、コウノトリが居続けてくれたら、毎日の散歩の楽しみがもっと増える。
そして、コウノトリ見物の人も増えて、村に少しの賑わいができる。
ただ、ゆっくりと餌を食べさせてやりたいと思うので、望遠のないカメラで近づいて写真を撮ろうとする人は困りものである。
たいがいは高圧電線の鉄塔の上で休んでいるのを見かけるのだが、たまに田んぼの中や行けに降りてきて餌をついばんでいる。
夕方にクロと散歩に出かけた時も、降り立ったコウノトリを見かけたが、近づいたりはしなかった。
今年はどれだけ居てくれるか分からないが、こうやって戻ってきてくれるだけでも嬉しい。
秋になると村周辺では、鷹など大きな鳥は多くみかけるが、なんと言ってもコウノトリの雄大さには叶わない。
たまに白鳥も近くの千種川まで行けば見かけることもあるが、手軽に見ることは出来ない。
家のそばにまで寄ってくれるから、コウノトリは親しみを感じるのだと思う。
ただ、このところ狐が昼間から田んぼの中を走り回っていたので、心配ではある。
とにかく、コウノトリは深刻な病気で辛い思いをしている人さえも元気にさせてくれる存在である。
どうにか、コウノトリが居続けられるような環境が整えば良いと思う。
それには、餌となるドジョウや蛙、虫、ネズミなどが豊富でなくてはいけない。
近隣の村の農家が、農薬を減らしたり、コンクリートで溝を固めてしまわないようにしなくてはならないだろう。
それは結局、我々住民の健康や安らぎにも関わってくると思う。
今日農作業をしながら聞いていたNHKラジオのヒルラジで、あぜ道の散歩の安らぎを取り上げていた。
コウノトリの見られるあぜ道の散歩は、何よりもまして安らぎとなると思う。
11月15日
昨日も、強風の中、村の上を二羽のコウノトリが舞っていた。
今日は、朝から一羽が鉄塔の上にとまっており、村の人が望遠カメラで撮影をしている。
もう一羽は、池のそばに舞い降りていた。
昼前になっても、一羽は家の窓からもしっかり見える鉄塔の上でのんびり過ごしている。
2019年11月11日月曜日
琵琶湖畔2019秋
昨日(11/10)は出張で、滋賀県の大津に出かけた。
自宅を暗い内から出て、新幹線に乗り込んだ。
夜明けの明石大橋を見るのは初めての経験だった。
新幹線に乗るのは、家内と葉山まで葬式に出かけて以来であり、一人きりで乗るのは本当に久しぶりである。
新幹線に乗る時は、修学旅行などの仕事が殆どであった。
学生時代は名古屋や東京との往復に用いたりしたのだが、当然当時とまるっきり全ての雰囲気は違っている。
京都駅から在来線に乗り換えて、大津駅まで行き、そこから滋賀県立武道館まで歩くことにした。
バスはあるにはあるが、一時間に一本で、地図で検索したら徒歩29分と書いてあった。
大津付近はどんよりと曇っており、朝の寒い中を人通りのない街を歩いた。
そして、琵琶湖畔の遊歩道に辿り着いた。
そこには、しっかりと厚着をした釣りをする人が、もう釣り糸を垂れていた。
また、ジョギングをする人がどんどん通り過ぎていく。
駅前より、よほど湖畔の方が賑やかなのである。
極めつけは、ベンチでギターを弾いている熟年男性さえいる。
木々の葉が色づいた遊歩道は、この季節ならではの趣はある
ただ、目的地がまだどれくらいか分からなかったし、薄めのスーツには寒気が応えて旅情を味わうどころではなかった。
会場が分かったので、今度は帰りの最寄りのバス停か駅を探しに行った。
結局、最寄りのバス停には時刻表もなく、最寄りの駅はJR膳所駅だった。
ネットのGoogle Mapで、会場を検索した時は、膳所駅など出てこなかった。
膳所駅は大津駅からより歩いて半分程度の時間で済んだ。
ネットも過信してはいけないということがよく分かった。
午前の仕事が終わり、昼休みとなったが、時間は40分しかない。
結局スーパーで巻き寿司弁当と野菜ジュースを買い、湖畔の岩に座り込んで頬張った。
釣り人が悠長に糸を垂れている横で、開始の時間が迫っていたので無理矢理寿司をジュースで押し込んだ。
そして、午後からも殆ど立ちっぱなしの仕事となったので、帰りの膳所駅への坂道は脚や腰に応えた。
ただ、一日高校剣士達の奮闘を見ていたので、体とは裏腹に気分的には高揚していた。
行きの新幹線の中では孤独を感じていたが、帰りの新幹線の中では高校剣士達との繋がりを感じていた。
自宅を暗い内から出て、新幹線に乗り込んだ。
夜明けの明石大橋を見るのは初めての経験だった。
新幹線に乗るのは、家内と葉山まで葬式に出かけて以来であり、一人きりで乗るのは本当に久しぶりである。
新幹線に乗る時は、修学旅行などの仕事が殆どであった。
学生時代は名古屋や東京との往復に用いたりしたのだが、当然当時とまるっきり全ての雰囲気は違っている。
京都駅から在来線に乗り換えて、大津駅まで行き、そこから滋賀県立武道館まで歩くことにした。
バスはあるにはあるが、一時間に一本で、地図で検索したら徒歩29分と書いてあった。
大津付近はどんよりと曇っており、朝の寒い中を人通りのない街を歩いた。
そして、琵琶湖畔の遊歩道に辿り着いた。
そこには、しっかりと厚着をした釣りをする人が、もう釣り糸を垂れていた。
また、ジョギングをする人がどんどん通り過ぎていく。
駅前より、よほど湖畔の方が賑やかなのである。
極めつけは、ベンチでギターを弾いている熟年男性さえいる。
木々の葉が色づいた遊歩道は、この季節ならではの趣はある
ただ、目的地がまだどれくらいか分からなかったし、薄めのスーツには寒気が応えて旅情を味わうどころではなかった。
会場が分かったので、今度は帰りの最寄りのバス停か駅を探しに行った。
結局、最寄りのバス停には時刻表もなく、最寄りの駅はJR膳所駅だった。
ネットのGoogle Mapで、会場を検索した時は、膳所駅など出てこなかった。
膳所駅は大津駅からより歩いて半分程度の時間で済んだ。
ネットも過信してはいけないということがよく分かった。
午前の仕事が終わり、昼休みとなったが、時間は40分しかない。
結局スーパーで巻き寿司弁当と野菜ジュースを買い、湖畔の岩に座り込んで頬張った。
釣り人が悠長に糸を垂れている横で、開始の時間が迫っていたので無理矢理寿司をジュースで押し込んだ。
そして、午後からも殆ど立ちっぱなしの仕事となったので、帰りの膳所駅への坂道は脚や腰に応えた。
ただ、一日高校剣士達の奮闘を見ていたので、体とは裏腹に気分的には高揚していた。
行きの新幹線の中では孤独を感じていたが、帰りの新幹線の中では高校剣士達との繋がりを感じていた。
2019年11月5日火曜日
ドライブコンサートwith小田和正
朝(11/4)、新聞でNHK・FMで午後から「今日は一日小田和正三昧」あるということを知った。
そこで、午前中は農作業をしっかりとおこなって、午後からドライブに出かけることにした。
行き先は倉敷のアウトレット、目的はドライブそのものだが、ブリーフを買いに行くという言い訳も考えていた。
行きは家内に運転してもらって、国道二号線を西に向かった。
前日の曇り空とは違い、秋らしい澄んだ空が心地よい。
残念なことは、電波状態も悪いし、車の走る音でラジオの声が良く聞こえない。
小田和正本人が出演しているのだが、声はいつものように小さいのでなおさらだ。
家内の知り合いには熱烈な追っかけファンがいるので、その人も聴いているだろうと話す。
一生懸命働く目的は、小田和正の追っかけのためだというからすごい。
小田和正のファンの心酔ぶりは、テレビで見るコンサートでも良く伝わってくる。
ラジオに寄せられ来たファンからのリクエストに添えられたメッセージからも、それが良くわかる。
彼の歌には、励まされたり、生きる勇気をもらっている人が何と多いことか・・・
ストイックに取り組む音楽性に多くの人が共感していることがよく分かる。
私は小田和正のファンではあるが、それほど熱いものでは無い。
しかし、こうやって彼の曲を聴くシチュエーションのために、ドライブにわざわざ出かけるのだから、それなりのものである。
家内は家で聴けば良いのでは無いかと言うが、車窓から流れる風景を見ながら聴くのが格別なのである。
そして、何よりも知っている曲を口ずさむのは、車の中で家内が横にいる方が良い。
車の中の方が、車の音で誤魔化せるし、気楽に一緒に口ずさむことが出来るからである。
ただ、今回家内は小田和正の曲は殆ど口ずさまなかった。
私は「自己ベスト」シリーズの曲はよく知っていて口ずさめるが、他はあまり知らないので初めて聴くという曲もあった。
久しぶりに「緑の街」を聴き口ずさみながら、過去の自分と重ねあわせたりした。
彼の歌は青春時代から、60歳を過ぎた今も、暮らしの中で淀みなく流れ続けてくれている。
倉敷のアウトレットは休日と言うことでイベントも有りずいぶん混んでいた。
このところ畑仕事中心で、人の多いところに出かけていなかったので新鮮な気分である。
たまに賑やかさを味わうのも、こういうモールにやってくる目的でもある。
帰りは私が運転して、西日を背に受けながら赤穂に向かう。
この日は帰りに母を見舞いに行く予定にしていた。
帰りは状態の良い電波にラジオを合わせることが出来て明瞭に聞こえる。
西日を受けた前面の景色が浮き立って見える。
特に倉敷から備前に向かうバイパスはなだらかな山が遠くに見えて、見通しも抜群に良い。
そんな中で、小田和正の曲がまさしく風のように流れていった。
病院に母を見舞い、買い物を済まして家に帰ってからもラジオを聴き続けていた。
夕食後いつしか、そなままラジオを聴きながら眠ってしまったのだが、心地よい眠りであった。
農作業の多かったこの三連休を、最後の半日で心地よい想い出に換えてくれた。
そこで、午前中は農作業をしっかりとおこなって、午後からドライブに出かけることにした。
行き先は倉敷のアウトレット、目的はドライブそのものだが、ブリーフを買いに行くという言い訳も考えていた。
行きは家内に運転してもらって、国道二号線を西に向かった。
前日の曇り空とは違い、秋らしい澄んだ空が心地よい。
残念なことは、電波状態も悪いし、車の走る音でラジオの声が良く聞こえない。
小田和正本人が出演しているのだが、声はいつものように小さいのでなおさらだ。
家内の知り合いには熱烈な追っかけファンがいるので、その人も聴いているだろうと話す。
一生懸命働く目的は、小田和正の追っかけのためだというからすごい。
小田和正のファンの心酔ぶりは、テレビで見るコンサートでも良く伝わってくる。
ラジオに寄せられ来たファンからのリクエストに添えられたメッセージからも、それが良くわかる。
彼の歌には、励まされたり、生きる勇気をもらっている人が何と多いことか・・・
ストイックに取り組む音楽性に多くの人が共感していることがよく分かる。
私は小田和正のファンではあるが、それほど熱いものでは無い。
しかし、こうやって彼の曲を聴くシチュエーションのために、ドライブにわざわざ出かけるのだから、それなりのものである。
家内は家で聴けば良いのでは無いかと言うが、車窓から流れる風景を見ながら聴くのが格別なのである。
そして、何よりも知っている曲を口ずさむのは、車の中で家内が横にいる方が良い。
車の中の方が、車の音で誤魔化せるし、気楽に一緒に口ずさむことが出来るからである。
ただ、今回家内は小田和正の曲は殆ど口ずさまなかった。
私は「自己ベスト」シリーズの曲はよく知っていて口ずさめるが、他はあまり知らないので初めて聴くという曲もあった。
久しぶりに「緑の街」を聴き口ずさみながら、過去の自分と重ねあわせたりした。
彼の歌は青春時代から、60歳を過ぎた今も、暮らしの中で淀みなく流れ続けてくれている。
倉敷のアウトレットは休日と言うことでイベントも有りずいぶん混んでいた。
このところ畑仕事中心で、人の多いところに出かけていなかったので新鮮な気分である。
たまに賑やかさを味わうのも、こういうモールにやってくる目的でもある。
帰りは私が運転して、西日を背に受けながら赤穂に向かう。
この日は帰りに母を見舞いに行く予定にしていた。
帰りは状態の良い電波にラジオを合わせることが出来て明瞭に聞こえる。
西日を受けた前面の景色が浮き立って見える。
特に倉敷から備前に向かうバイパスはなだらかな山が遠くに見えて、見通しも抜群に良い。
そんな中で、小田和正の曲がまさしく風のように流れていった。
病院に母を見舞い、買い物を済まして家に帰ってからもラジオを聴き続けていた。
夕食後いつしか、そなままラジオを聴きながら眠ってしまったのだが、心地よい眠りであった。
農作業の多かったこの三連休を、最後の半日で心地よい想い出に換えてくれた。
2019年11月3日日曜日
でーしょん祭とタマネギ
この連休は赤穂の畑にタマネギとニンニクを植えようと思っていた。
赤穂の畑はこのところほとんど手を加えていなかったので、家内にも手伝ってもらうことにした。
タマネギを植える日は、赤穂のでーしょん祭と重なることが多いが、今日(11/3)もそうだった。
千種川の河原の祭のために指定された駐車場には、車やバスがいっぱい駐まっていた。
まず、農作業の前に、母親の病院に見舞いに行ったのだが、日曜にも関わらず駐車場がいっぱい。
結局、立体駐車場の一番上に置かねばならないほどであった。
どうやら、総合体育館の催しや、でーしょん祭に関係する人が駐めているらしい。
母を見舞った後、ホームセンターに肥料を買いに行くついでに、家内は隣のディスカウント・ショップで弁当を買いに行った。
戻ってくるのにかなり時間がかかったので理由を聞くと、でーしょん祭の関係者がを弁当を多量に買っていたという。
でーしょん祭の関係者はその着ている衣装で分かるのだが、店員が運んでくる弁当を一斉に買っていくそうだ。
とにかく、店は大賑わいであったようだ。
今回、私はうっかりと一輪車を積んでくるのを忘れた。
小型耕運機や草刈り機はちゃんと積んできたのだが、忘れてきてしまった。
そこで、軽トラの荷台から直接肥料を撒くために、畑に通すために邪魔になる枇杷やスダチの枝を伐らねばならなかった。
畑に乗り入れた軽トラから有機石灰、油かす、牛糞、鶏糞を家内と一緒に撒いていった。
結局、小型耕運機で耕すまでに手間取って、午後一時頃になってしまっていた。
そこで買ってきてもらっていた弁当を食べることにした。
海鮮丼290円には驚いた。
それでもけっこう刺身の品数があり、そこそこいけた。
コンビニで買うより、ディスカウントショップはずいぶんと安い。
他にも、安いサラダや野菜ジュース、クロワッサンも買ってくれていた。
何よりもありがたかったのは、第三のビール。
家内が運転してくれるので、美味しく頂ける。
同じ内容を家で食べたとしたら、わびしく感じられたかも知れない。
畑で食べると、ごちそうのように思える。
そして、十分おなかがいっぱいになった。
ご飯を食べて早々に、手作業で畝をたて、マルチを張っていった。
タマネギの苗を植えるのは家内の仕事である。
その間に私はニンニクを植える準備をしていた。
農作業をしている間、色々と周りの音が聞こえてくる。
海浜公園のテニスの試合の声、救急車や消防車のサイレンはいつものことだ。
今日はでーしょん祭のアナウンスの声まで聞こえてきた。
いつも静かな上郡に住んでいて、こういう賑やかさには元気がもらえる。
家内も手伝ってくれているので、いつもより疲れを感じなくて、色々と作業をこなすことが出来た。
午後3時頃になると、さすがにこちらも体力に限界が来たので、まだ途中であったが切り上げることにした。
家内は夜勤の仕事に出かける息子の弁当や夕食の準備がある。
私も家に戻ってから片付けやクロの散歩が待っている。
出かける時は農作業の後に見舞いにしようかと思っていた。
作業後、汗と泥にまみれてしまった状態になって、先に行っておいて良かったと思った。
家内にはしんどい思いをさせたが、私は手伝ってもらってありがたかった。
上郡の近所の人も夫婦で農作業を行っている人が多い。
一人で黙々とやるよりも、二人で農作業をやると作業もはかどるし、気分的にも楽である。
家内は持ってきたスマホで好きなラジオを聴きながら作業をしていた。
ちょうど、ニンニクの種をほぐしている時には、マーラーの曲がかかっていた。
畑でクラッシックを聴くのも悪くはないが、映画「プラトーン」で使われたの「弦楽のためのアダージョ」は切ない気分にさせられた。
この畑には幼い頃からの想い出がいっぱい詰まっているので、その記憶がフラッシュバックしたりする。
いつもの休日は夫婦でドライブや買い物で過ごすのだが、農作業を一緒にやるのも悪くないと私は思う。
家内にとっては負担が多くて申し訳ないように思うが・・・・
赤穂の畑はこのところほとんど手を加えていなかったので、家内にも手伝ってもらうことにした。
タマネギを植える日は、赤穂のでーしょん祭と重なることが多いが、今日(11/3)もそうだった。
千種川の河原の祭のために指定された駐車場には、車やバスがいっぱい駐まっていた。
まず、農作業の前に、母親の病院に見舞いに行ったのだが、日曜にも関わらず駐車場がいっぱい。
結局、立体駐車場の一番上に置かねばならないほどであった。
どうやら、総合体育館の催しや、でーしょん祭に関係する人が駐めているらしい。
母を見舞った後、ホームセンターに肥料を買いに行くついでに、家内は隣のディスカウント・ショップで弁当を買いに行った。
戻ってくるのにかなり時間がかかったので理由を聞くと、でーしょん祭の関係者がを弁当を多量に買っていたという。
でーしょん祭の関係者はその着ている衣装で分かるのだが、店員が運んでくる弁当を一斉に買っていくそうだ。
とにかく、店は大賑わいであったようだ。
今回、私はうっかりと一輪車を積んでくるのを忘れた。
小型耕運機や草刈り機はちゃんと積んできたのだが、忘れてきてしまった。
そこで、軽トラの荷台から直接肥料を撒くために、畑に通すために邪魔になる枇杷やスダチの枝を伐らねばならなかった。
畑に乗り入れた軽トラから有機石灰、油かす、牛糞、鶏糞を家内と一緒に撒いていった。
結局、小型耕運機で耕すまでに手間取って、午後一時頃になってしまっていた。
そこで買ってきてもらっていた弁当を食べることにした。
海鮮丼290円には驚いた。
それでもけっこう刺身の品数があり、そこそこいけた。
コンビニで買うより、ディスカウントショップはずいぶんと安い。
他にも、安いサラダや野菜ジュース、クロワッサンも買ってくれていた。
何よりもありがたかったのは、第三のビール。
家内が運転してくれるので、美味しく頂ける。
同じ内容を家で食べたとしたら、わびしく感じられたかも知れない。
畑で食べると、ごちそうのように思える。
そして、十分おなかがいっぱいになった。
ご飯を食べて早々に、手作業で畝をたて、マルチを張っていった。
タマネギの苗を植えるのは家内の仕事である。
その間に私はニンニクを植える準備をしていた。
農作業をしている間、色々と周りの音が聞こえてくる。
海浜公園のテニスの試合の声、救急車や消防車のサイレンはいつものことだ。
今日はでーしょん祭のアナウンスの声まで聞こえてきた。
いつも静かな上郡に住んでいて、こういう賑やかさには元気がもらえる。
家内も手伝ってくれているので、いつもより疲れを感じなくて、色々と作業をこなすことが出来た。
午後3時頃になると、さすがにこちらも体力に限界が来たので、まだ途中であったが切り上げることにした。
家内は夜勤の仕事に出かける息子の弁当や夕食の準備がある。
私も家に戻ってから片付けやクロの散歩が待っている。
出かける時は農作業の後に見舞いにしようかと思っていた。
作業後、汗と泥にまみれてしまった状態になって、先に行っておいて良かったと思った。
家内にはしんどい思いをさせたが、私は手伝ってもらってありがたかった。
上郡の近所の人も夫婦で農作業を行っている人が多い。
一人で黙々とやるよりも、二人で農作業をやると作業もはかどるし、気分的にも楽である。
家内は持ってきたスマホで好きなラジオを聴きながら作業をしていた。
ちょうど、ニンニクの種をほぐしている時には、マーラーの曲がかかっていた。
畑でクラッシックを聴くのも悪くはないが、映画「プラトーン」で使われたの「弦楽のためのアダージョ」は切ない気分にさせられた。
この畑には幼い頃からの想い出がいっぱい詰まっているので、その記憶がフラッシュバックしたりする。
いつもの休日は夫婦でドライブや買い物で過ごすのだが、農作業を一緒にやるのも悪くないと私は思う。
家内にとっては負担が多くて申し訳ないように思うが・・・・
2019年11月2日土曜日
千種水汲み2019年秋
11月入って初めての土曜日で、まだ水は幾分残っているのだが、千種に水を汲みに行くことにした。
このところ私の母が入院していて忙しく、行ける時に行こうと思った。
午前中に母の見舞いに行き、赤穂の畑仕事をして、午後から家内と出かけた。
近隣の神社の祭りは終わったのだが、もみじ祭や白旗城祭りの幟が道沿いに立っている。
そういえば、赤穂に行く時には、赤穂マラソンの告知板が、病院近くにあった。
これからは良い季節で、あちらこちらでイベントが催されるのだ。
もみじ祭りと行っても、山の木々はまだそれほど色づいていない。
むしろ、千種に行く前の道ばたの畑には、ひまわりとコスモスが綺麗に咲いていた。
そして、南光町の自然観察村にはいっぱいテントが張られている。
そのままテントで眠るのか、コテージを利用するのか分からないが、夜は冷え込むことが予想される。
子供連れの家族が川沿いで遊んでいたが、寒がりの家内には縁の無い光景に感じたようだった。
水汲み場に到着して、外に出てみるとさすがに気温は低い。
家内は寒さに備えた服装をしていなかったので、水を汲みながら震えていた。
他には誰一人汲みに来る人は無く、キャンピングカーがそばのトイレを使いにやってきただけだった。
そのキャンピングカーは、かなり立派で高価に思えた。
私はキャンピングカーで日本国中を回ってみたいと常に思っている。
しかし、家内はそもそも普通のホテルでもよく眠れない。
宿泊を伴う旅行を家内はいつも無理だと決めつけている。
そのたびに私は、教育学部を出て教師を志したこともある家内に、「教師にならなくてよかったな」と皮肉をわざという。
小学校の教師であれば、自然学校などで、それなりに長く宿泊せねばならないからだ。
当然、中学校や高校は宿泊研修や修学旅行で長く宿泊することがある。
もし、家内が教師になっていたら、平気でどこでも眠れるようになっていたと、私は思っているのだが・・・
水を汲んできて、納戸にしまった後、食事をしてゆっくりしていた。
そのうち、家内が愚犬のクロがいないことに気がついた。
散歩をして鎖に繋いだ息子は、責任を感じて探しに行ったが見つからなかった。
私はしばらくしたら帰ってく来ることは分かっていたので、放っておいた。
案の定、数時間ほどして戻ってきた。
以前は、脱走すると一晩中遊びほうけることが多かった。
今回は首輪の金具がとれてしまって脱走したのだった。
元捨て犬だったクロは、そういうチャンスを逃さない。
ただ、もう野宿は出来ないようだ。
自分の小屋以外で眠れない飼い犬になってしまった。
クロともキャンプは無理かも知れない・・・
このところ私の母が入院していて忙しく、行ける時に行こうと思った。
午前中に母の見舞いに行き、赤穂の畑仕事をして、午後から家内と出かけた。
近隣の神社の祭りは終わったのだが、もみじ祭や白旗城祭りの幟が道沿いに立っている。
そういえば、赤穂に行く時には、赤穂マラソンの告知板が、病院近くにあった。
これからは良い季節で、あちらこちらでイベントが催されるのだ。
もみじ祭りと行っても、山の木々はまだそれほど色づいていない。
むしろ、千種に行く前の道ばたの畑には、ひまわりとコスモスが綺麗に咲いていた。
そして、南光町の自然観察村にはいっぱいテントが張られている。
そのままテントで眠るのか、コテージを利用するのか分からないが、夜は冷え込むことが予想される。
子供連れの家族が川沿いで遊んでいたが、寒がりの家内には縁の無い光景に感じたようだった。
水汲み場に到着して、外に出てみるとさすがに気温は低い。
家内は寒さに備えた服装をしていなかったので、水を汲みながら震えていた。
他には誰一人汲みに来る人は無く、キャンピングカーがそばのトイレを使いにやってきただけだった。
そのキャンピングカーは、かなり立派で高価に思えた。
私はキャンピングカーで日本国中を回ってみたいと常に思っている。
しかし、家内はそもそも普通のホテルでもよく眠れない。
宿泊を伴う旅行を家内はいつも無理だと決めつけている。
そのたびに私は、教育学部を出て教師を志したこともある家内に、「教師にならなくてよかったな」と皮肉をわざという。
小学校の教師であれば、自然学校などで、それなりに長く宿泊せねばならないからだ。
当然、中学校や高校は宿泊研修や修学旅行で長く宿泊することがある。
もし、家内が教師になっていたら、平気でどこでも眠れるようになっていたと、私は思っているのだが・・・
水を汲んできて、納戸にしまった後、食事をしてゆっくりしていた。
そのうち、家内が愚犬のクロがいないことに気がついた。
散歩をして鎖に繋いだ息子は、責任を感じて探しに行ったが見つからなかった。
私はしばらくしたら帰ってく来ることは分かっていたので、放っておいた。
案の定、数時間ほどして戻ってきた。
以前は、脱走すると一晩中遊びほうけることが多かった。
今回は首輪の金具がとれてしまって脱走したのだった。
元捨て犬だったクロは、そういうチャンスを逃さない。
ただ、もう野宿は出来ないようだ。
自分の小屋以外で眠れない飼い犬になってしまった。
クロともキャンプは無理かも知れない・・・
2019年10月29日火曜日
病院から見る赤穂の景色
母親が入院して、病状から個室に入ることになった。
私は、金曜日の夜に仕事から帰るなり、寝袋を持って病院に駆けつけた。
横になっても眠ることは出来ず、うとうとしては何度も起きた。
朝になって、朝日が周りの景色を赤く染めながら、浮き立たせてくれた。
部屋は5階にあって南向きである。
残念ながら川や海は見えないのだが、子供の頃から見慣れている、西の方の山の景色が見える。
赤穂から見える西の方の山は、なだらかである。
どうも古代のカルデラの外輪山の後らしいのだが、今思えば赤穂以外のところにはあまりない景色だった。
山は変わらないのだが、市街地の南側はずいぶんと変わったと思う。
そもそもこの病院自体ここには無かった。
一番目立つのは関西電力火力発電所の白い煙突。
西の方に総合体育館や運動場。
そして、南にはショッピングセンター。
工場や牧場があった河口付近の地域には、高層の住宅も建てられた。
ずっと赤穂に住み続けてきたわけではないが、その変化を見続けてきた。
私は60歳なので、半世紀以上の移り変わりを見てきたことになる。
おそらく今住んでいる上郡の高田地区は、半世紀でこれほどの変化はなかっただろう。
それが赤穂と上郡の違いなのだろうと思う。
赤穂の実家も手入れがいかなくて、庭も荒れ放題になっている。
近所の知った人は高齢化する一方で、話をしたことのない若い人もいっぱい住んでいる。
たまたま何年かぶりに出会った従兄弟の変貌ぶりにただ驚くばかりである。
おそらく自分も変貌していて、従兄弟もそう感じたであろう。
久しぶりに病室の窓から赤穂の景色を眺めながら、時代が流れていったことを感じざるを得なかった。
そして、病室に横たわっている母親にも、かつては若くて元気な時代があったことも思いだした。
今の母親からは、以前の容貌を伺うことが出来ないが・・・
病院に入院していいる赤穂に縁のある高齢の人は、窓の景色から昔を思い出しながら過ごしているのだろうと思う。
元気で若い頃のことを思い出させてくれるのも、治療の一つになっているのかも知れない。
私は、金曜日の夜に仕事から帰るなり、寝袋を持って病院に駆けつけた。
横になっても眠ることは出来ず、うとうとしては何度も起きた。
朝になって、朝日が周りの景色を赤く染めながら、浮き立たせてくれた。
部屋は5階にあって南向きである。
残念ながら川や海は見えないのだが、子供の頃から見慣れている、西の方の山の景色が見える。
赤穂から見える西の方の山は、なだらかである。
どうも古代のカルデラの外輪山の後らしいのだが、今思えば赤穂以外のところにはあまりない景色だった。
山は変わらないのだが、市街地の南側はずいぶんと変わったと思う。
そもそもこの病院自体ここには無かった。
一番目立つのは関西電力火力発電所の白い煙突。
西の方に総合体育館や運動場。
そして、南にはショッピングセンター。
工場や牧場があった河口付近の地域には、高層の住宅も建てられた。
ずっと赤穂に住み続けてきたわけではないが、その変化を見続けてきた。
私は60歳なので、半世紀以上の移り変わりを見てきたことになる。
おそらく今住んでいる上郡の高田地区は、半世紀でこれほどの変化はなかっただろう。
それが赤穂と上郡の違いなのだろうと思う。
赤穂の実家も手入れがいかなくて、庭も荒れ放題になっている。
近所の知った人は高齢化する一方で、話をしたことのない若い人もいっぱい住んでいる。
たまたま何年かぶりに出会った従兄弟の変貌ぶりにただ驚くばかりである。
おそらく自分も変貌していて、従兄弟もそう感じたであろう。
久しぶりに病室の窓から赤穂の景色を眺めながら、時代が流れていったことを感じざるを得なかった。
そして、病室に横たわっている母親にも、かつては若くて元気な時代があったことも思いだした。
今の母親からは、以前の容貌を伺うことが出来ないが・・・
病院に入院していいる赤穂に縁のある高齢の人は、窓の景色から昔を思い出しながら過ごしているのだろうと思う。
元気で若い頃のことを思い出させてくれるのも、治療の一つになっているのかも知れない。
2019年10月23日水曜日
琵琶湖そして日本海2019秋
去年は10月には沖縄に結婚式のため出かけた。
今年は何の予定もないので、せめて平日に夫婦で休みが取れたので、少し遠くまで行こうと思った。
今度、滋賀県の大津に仕事で出かける予定があるので、下見がてら行ってみようと思った。
というのも、神戸からの新名神や湖西道路を通ってみたかったこともある。
天候は曇り空だったが、気候は暑くもなく寒くもなく良いドライブ日和。
久しぶりに山陽自動車道にのり、神戸から新名神へ入った。
今までは中国自動車道を使っていたが、高槻まで新名神で走るのは初めてである。
殆どが山の中を走り、山陽自動車道の延長という感じだった。
途中、宝塚北SAに立ち寄ってトイレ休憩をした。
土日は、非常に混雑するそうだが、ゆったりとしていた。
高槻からはいつもの名神で、久しぶりに懐かしい景色を眺めた。
早いもので京都には自宅から二時間ほどで来られる。
その京都を素通りして、大津ICで一般道に戻った。
独身の頃は京都や大津付近はよくドライブできたのだが、夫婦で来るのは初めてである。
今度、仕事で来るあたりをうろうろした後、湖西道路に入った。
国道161号線は琵琶湖を西から眺められるドライブコースで、雄大な琵琶湖の景色を味わった。
途中、「道の駅 妹子の里」に立ち寄って、昼食をとった。
美味しそうな近江牛もあったが、軽めのうどん定食を食べた。
再び、北に向けて行くと、一般道になり湖のそばを通っていく。
私は家内にはどこに行くとは言ってなかったので、ずっと行き先をどうするか尋ねられていた。
日本海まで行くというと、不安がられるかと思ったからである。
実際、湖と反対の山は非常に険しく、北西に向かう手頃な道がなさそうだった。
結局、行き先をあかし、家内が道路マップで国道303号が良いことを見つけたので、高島からその道を通ることにした。
303号を通ると簡単に小浜に出ることが出来た。
小浜は以前に息子と家内と一緒に来たことがある。
ちょうど朝のテレビドラマ「ちりとてちん」が放送されていた頃である。
「道の駅 若狭おばま」に立ち寄って、そこからしばらく海沿いの一般道を走った。
以前通った国道27号なのだが、家内は殆ど憶えていなかった。
このあたりは入り江が多くて、落ち着いた雰囲気である。
その後、小浜西ICから舞鶴若狭自動車道に入った。
本当は一般道を走りたかったのだが、帰る時間を考えると出来なかった。
以前来た時は一般道で、舞鶴の港に停泊している自衛艦も見ることが出来た。
途中で日本海を山間から見ることが出来たが、山の中を走る自動車道は景色が単調で面白みに欠けた。
同じ山間でも、一般道だったら京都丹後鉄道と絡み合って、その列車の通るのを見て楽しむことが出来た。
そして、自動車道が出来て今は寂れてしまっているのが多いが、ドライブインに立ち寄ってその地域の特産品を眺めたりした。
篠山のあたりから雨も降り出して、薄暗くなってしまった。
途中のパーキングには雨のせいで面倒となって一度も寄らなかった。
そして、再び中国自動車道にのり山崎ICまで行き、そこから一般道で自宅に戻った。
出発したのが10時頃、戻ったのが18時過ぎで、車には8時間くらい乗っていた。
通った府県は大阪府、京都府、滋賀県、福井県で兵庫県を加えると5県にまたがる旅となった。
走行距離は500kmを超えており、通行料金は往復9000円ほどかかった。
それにガソリン代が加わるので、二人で移動するのに12000円ほどはかかっている。
朝早く出かけるとか、目的地をしっかり決めて調べておく方が、もっと充実したドライブにはなったと思う。
ただ、二人で交代で運転できるので、体力に無理がないので、気ままにどこにでも行けるのだ。
最後は雨が降り出したので、家内が長い距離を運転することになってしまって申し訳はなかった。
20歳代の頃は自動車道が整備されていなかったので、これだけの距離を移動することは大変だった。
今は自動車道のおかげで、我々のような年齢でもそれほど無理なくこなせる。
ただ、一般道の方が魅力あるドライブには間違いが無い。
事実、一般道を多く使って行った以前の小浜へのドライブの方が記憶に多く残っている。
自動車道のドライブは、新幹線の旅と同じ、一般道のドライブは鈍行の旅と同じだろうと思う。
私は本来は鉄道なら鈍行の旅、ドライブなら一般道の旅が好きなのだが・・・
今年は何の予定もないので、せめて平日に夫婦で休みが取れたので、少し遠くまで行こうと思った。
今度、滋賀県の大津に仕事で出かける予定があるので、下見がてら行ってみようと思った。
というのも、神戸からの新名神や湖西道路を通ってみたかったこともある。
天候は曇り空だったが、気候は暑くもなく寒くもなく良いドライブ日和。
久しぶりに山陽自動車道にのり、神戸から新名神へ入った。
今までは中国自動車道を使っていたが、高槻まで新名神で走るのは初めてである。
殆どが山の中を走り、山陽自動車道の延長という感じだった。
途中、宝塚北SAに立ち寄ってトイレ休憩をした。
土日は、非常に混雑するそうだが、ゆったりとしていた。
高槻からはいつもの名神で、久しぶりに懐かしい景色を眺めた。
早いもので京都には自宅から二時間ほどで来られる。
その京都を素通りして、大津ICで一般道に戻った。
独身の頃は京都や大津付近はよくドライブできたのだが、夫婦で来るのは初めてである。
今度、仕事で来るあたりをうろうろした後、湖西道路に入った。
国道161号線は琵琶湖を西から眺められるドライブコースで、雄大な琵琶湖の景色を味わった。
途中、「道の駅 妹子の里」に立ち寄って、昼食をとった。
美味しそうな近江牛もあったが、軽めのうどん定食を食べた。
再び、北に向けて行くと、一般道になり湖のそばを通っていく。
私は家内にはどこに行くとは言ってなかったので、ずっと行き先をどうするか尋ねられていた。
日本海まで行くというと、不安がられるかと思ったからである。
実際、湖と反対の山は非常に険しく、北西に向かう手頃な道がなさそうだった。
結局、行き先をあかし、家内が道路マップで国道303号が良いことを見つけたので、高島からその道を通ることにした。
303号を通ると簡単に小浜に出ることが出来た。
小浜は以前に息子と家内と一緒に来たことがある。
ちょうど朝のテレビドラマ「ちりとてちん」が放送されていた頃である。
「道の駅 若狭おばま」に立ち寄って、そこからしばらく海沿いの一般道を走った。
以前通った国道27号なのだが、家内は殆ど憶えていなかった。
このあたりは入り江が多くて、落ち着いた雰囲気である。
その後、小浜西ICから舞鶴若狭自動車道に入った。
本当は一般道を走りたかったのだが、帰る時間を考えると出来なかった。
以前来た時は一般道で、舞鶴の港に停泊している自衛艦も見ることが出来た。
途中で日本海を山間から見ることが出来たが、山の中を走る自動車道は景色が単調で面白みに欠けた。
同じ山間でも、一般道だったら京都丹後鉄道と絡み合って、その列車の通るのを見て楽しむことが出来た。
そして、自動車道が出来て今は寂れてしまっているのが多いが、ドライブインに立ち寄ってその地域の特産品を眺めたりした。
篠山のあたりから雨も降り出して、薄暗くなってしまった。
途中のパーキングには雨のせいで面倒となって一度も寄らなかった。
そして、再び中国自動車道にのり山崎ICまで行き、そこから一般道で自宅に戻った。
出発したのが10時頃、戻ったのが18時過ぎで、車には8時間くらい乗っていた。
通った府県は大阪府、京都府、滋賀県、福井県で兵庫県を加えると5県にまたがる旅となった。
走行距離は500kmを超えており、通行料金は往復9000円ほどかかった。
それにガソリン代が加わるので、二人で移動するのに12000円ほどはかかっている。
朝早く出かけるとか、目的地をしっかり決めて調べておく方が、もっと充実したドライブにはなったと思う。
ただ、二人で交代で運転できるので、体力に無理がないので、気ままにどこにでも行けるのだ。
最後は雨が降り出したので、家内が長い距離を運転することになってしまって申し訳はなかった。
20歳代の頃は自動車道が整備されていなかったので、これだけの距離を移動することは大変だった。
今は自動車道のおかげで、我々のような年齢でもそれほど無理なくこなせる。
ただ、一般道の方が魅力あるドライブには間違いが無い。
事実、一般道を多く使って行った以前の小浜へのドライブの方が記憶に多く残っている。
自動車道のドライブは、新幹線の旅と同じ、一般道のドライブは鈍行の旅と同じだろうと思う。
私は本来は鉄道なら鈍行の旅、ドライブなら一般道の旅が好きなのだが・・・
2019年10月17日木曜日
栗より美味しい
シバ栗は確かに甘くて美味しい。
でも酒のつまみになったり、おやつになったりする程度である。
やはり、ご飯のおかずになるのは、イモである。
今年は雨が降らない時には、エンジンポンプを回したりして苦労した。
そのかいあって里芋もサツマイモも出来は良い。
大分前から里芋は掘り始めて、煮付けで食べている。
サツマイモも昨日から掘り始めて、さっそく大学芋で頂いた。
自宅裏の畑では今まであまりサツマイモを作ったことがなかった。
赤穂の方が、砂地で作りやすかったからだ。
ところが、赤穂では管理が行き届かなくて、このところ上手くいっていない。
そこで今年は裏の畑で作り始めた。
粘土質なので、掘るのも手間であり、やたら大きくなってしまって、スコップで切り刻んでしまう始末である。
それでも形の良いものもあり、人にあげても喜ばれそうだ。
実は私の母親の好物でもある。
このところ、私の実家や家内の実家に、枝豆や里芋を持って行っている。
人にもらってもらって、喜んでもらうのも農業の楽しみである。
イモを掘り起こした時、ちゃんと良いのが出てくるのも楽しみだ。
そして、裏の畑は二階の窓から時々眺めては、その元気な姿が励みとなる。
出荷して儲けようとなると、そんなことは言っていられないだろうが、自給目的なら気楽である。
これからも、余分に出来たら出荷する程度で、自給自足に近づく農業を目指したいと思っている。
近所の人がそういう生活で健康に暮らしているのを見ていればこそ出来るライフスタイルである。
でも酒のつまみになったり、おやつになったりする程度である。
やはり、ご飯のおかずになるのは、イモである。
今年は雨が降らない時には、エンジンポンプを回したりして苦労した。
そのかいあって里芋もサツマイモも出来は良い。
大分前から里芋は掘り始めて、煮付けで食べている。
サツマイモも昨日から掘り始めて、さっそく大学芋で頂いた。
自宅裏の畑では今まであまりサツマイモを作ったことがなかった。
赤穂の方が、砂地で作りやすかったからだ。
ところが、赤穂では管理が行き届かなくて、このところ上手くいっていない。
そこで今年は裏の畑で作り始めた。
粘土質なので、掘るのも手間であり、やたら大きくなってしまって、スコップで切り刻んでしまう始末である。
それでも形の良いものもあり、人にあげても喜ばれそうだ。
実は私の母親の好物でもある。
このところ、私の実家や家内の実家に、枝豆や里芋を持って行っている。
人にもらってもらって、喜んでもらうのも農業の楽しみである。
イモを掘り起こした時、ちゃんと良いのが出てくるのも楽しみだ。
そして、裏の畑は二階の窓から時々眺めては、その元気な姿が励みとなる。
出荷して儲けようとなると、そんなことは言っていられないだろうが、自給目的なら気楽である。
これからも、余分に出来たら出荷する程度で、自給自足に近づく農業を目指したいと思っている。
近所の人がそういう生活で健康に暮らしているのを見ていればこそ出来るライフスタイルである。
2019年10月14日月曜日
因幡路2019年秋
この10月12日から14日の三連休は、初日は台風の影響でドライブはためらわれた。
日曜は天気も良くて、午前中に山に行ってシバ栗を拾ったり、午後からは農作業をした。
このところ、道ばたに落ちているシバ栗を拾うのは、売っている栗よりも美味しいと言うことが分かったからだ。
小粒の物が多いが、中にはそこそこ大きいのもある。
何よりも甘くて、味も濃い。
村の人は誰も拾わないが、鹿などが食べるので、拾えるところは限られている。
今日14日は家内とドライブに出かけることにしたが、久しぶりに鳥取に行きたくなった。
いつもの鳥取道を通って、今回は初めて鳥取西道を使って走っていると、浜村鹿野温泉IC近くの「道の駅 西いなば気楽里(きらり)」の案内板が目に付いた。
道の駅はICを降りてすぐにあった。
さすがに温泉のある道の駅として、足湯が入り口に設置されていた。
6月30日オープンしたばかりと言うことで、新しくて広く、綺麗に整っていた。
最初からここを目的にしていたわけではないので、中の様子を見てから食事にするかどうか決めた。
12時頃だったので、順番まで待って席を案内された。
今まで行った道の駅の食堂の中では一番広く感じた。
実は以前に白兎海岸の「道の駅 神話の里 白うさぎ」で食事をしたことがあった。
今回もそこに行こうかと思っていた。
確かに二階の食堂は海の眺めもすばらしく、料理の品数も多い。
ただ、家内には値段が高い割には、味が今ひとつだったようだ。
今回の「西いなば気楽里」の食堂は、料理の品数は多くは無いが、値段がお手頃である。
私が頼んだ刺身定食には、焼き魚などもついていて1500円だった。
家内の頼んだ海鮮丼も1300円で、ともに「道の駅 白うさぎ」の半値程度である。
「道の駅 白うさぎ」の値段の多くは場所代だと考えるべきだが、こちらの方が気軽に立ち寄れそうだ。
周りの人も、塩鯖定食などを頼んでいて、美味しくて安いのを求めていることが分かる。
ただ、お茶や片付けはセルフサービスである。
自動車道は景色が面白くないので、そこからは一般道を通ってマリンピア賀露に向かった。
途中の海岸線の国道9号線は眺めが素晴らしい。
今回は台風の影響がまだ残っていて、大きな白波が立っている。
これだけの大波は、播磨灘近辺ではお目にかかれない。
白兎海岸に打ち寄せる大波が見られただけでも、今日のドライブは価値があったように思えた。
マリンピア賀露に立ち寄って買い物をしたが、多くの観光客で賑わっていた。
そこから出て、初めて鳥取の漁港沿いの道を通った。
鳥取は飛行場の隣に漁港があって、落ち着いた港となっている。
自動車道を使わずに国道29号線と53号線を使って帰ることにした。
この道は、まだ自動車道がなかった頃に、子供を連れて砂丘を見に来た時に使った道である。
ところが、途中で間違って自動車道に入ってしまい、智頭南ICで再び一般道にもどってから大変な行程になってしまった。
結局県道296号(西谷那岐停車場線)というとんでもない山道を通って那岐に行き、そこから国道53号線に戻ることが出来た。
とにかく、他の人や車に会うこともなく、道には台風影響か杉の枯れた枝葉が散乱していた。
中国山地によって山陽と山陰が画されていることが実感させらた。
途中から、美作に向かう県道51号を使い、国道179号に入ることが出来た。
それまで、どんよりとした曇り空だったのが、晴れ間の見える明るい景色になった。
実は、ここあたりの道は、以前に鳥取に行く時に迷い込んだ道であった。
とにかくナビを使わない私たちのドライブは常にハプニングがついてまわる。
そのスリリングな行程のおかげで、休み前の日常の気分が一新されてしまうのである。
子供らと楽しく過ごした砂丘への日帰り旅行を懐かしもうと思ったのに、新しい冒険の旅になってしまった。
ただ、いつものように、車の中では口ずさめる懐かしい歌が流れていた。
今日一番風景とマッチしていた歌は、NHKのAMから流れていた、ホイットニー・ヒューストンのI Will Always Love Youだった。
日曜は天気も良くて、午前中に山に行ってシバ栗を拾ったり、午後からは農作業をした。
このところ、道ばたに落ちているシバ栗を拾うのは、売っている栗よりも美味しいと言うことが分かったからだ。
小粒の物が多いが、中にはそこそこ大きいのもある。
何よりも甘くて、味も濃い。
村の人は誰も拾わないが、鹿などが食べるので、拾えるところは限られている。
今日14日は家内とドライブに出かけることにしたが、久しぶりに鳥取に行きたくなった。
いつもの鳥取道を通って、今回は初めて鳥取西道を使って走っていると、浜村鹿野温泉IC近くの「道の駅 西いなば気楽里(きらり)」の案内板が目に付いた。
道の駅はICを降りてすぐにあった。
さすがに温泉のある道の駅として、足湯が入り口に設置されていた。
6月30日オープンしたばかりと言うことで、新しくて広く、綺麗に整っていた。
最初からここを目的にしていたわけではないので、中の様子を見てから食事にするかどうか決めた。
12時頃だったので、順番まで待って席を案内された。
今まで行った道の駅の食堂の中では一番広く感じた。
実は以前に白兎海岸の「道の駅 神話の里 白うさぎ」で食事をしたことがあった。
今回もそこに行こうかと思っていた。
確かに二階の食堂は海の眺めもすばらしく、料理の品数も多い。
ただ、家内には値段が高い割には、味が今ひとつだったようだ。
今回の「西いなば気楽里」の食堂は、料理の品数は多くは無いが、値段がお手頃である。
私が頼んだ刺身定食には、焼き魚などもついていて1500円だった。
家内の頼んだ海鮮丼も1300円で、ともに「道の駅 白うさぎ」の半値程度である。
「道の駅 白うさぎ」の値段の多くは場所代だと考えるべきだが、こちらの方が気軽に立ち寄れそうだ。
周りの人も、塩鯖定食などを頼んでいて、美味しくて安いのを求めていることが分かる。
ただ、お茶や片付けはセルフサービスである。
自動車道は景色が面白くないので、そこからは一般道を通ってマリンピア賀露に向かった。
途中の海岸線の国道9号線は眺めが素晴らしい。
今回は台風の影響がまだ残っていて、大きな白波が立っている。
これだけの大波は、播磨灘近辺ではお目にかかれない。
白兎海岸に打ち寄せる大波が見られただけでも、今日のドライブは価値があったように思えた。
マリンピア賀露に立ち寄って買い物をしたが、多くの観光客で賑わっていた。
そこから出て、初めて鳥取の漁港沿いの道を通った。
鳥取は飛行場の隣に漁港があって、落ち着いた港となっている。
自動車道を使わずに国道29号線と53号線を使って帰ることにした。
この道は、まだ自動車道がなかった頃に、子供を連れて砂丘を見に来た時に使った道である。
ところが、途中で間違って自動車道に入ってしまい、智頭南ICで再び一般道にもどってから大変な行程になってしまった。
結局県道296号(西谷那岐停車場線)というとんでもない山道を通って那岐に行き、そこから国道53号線に戻ることが出来た。
とにかく、他の人や車に会うこともなく、道には台風影響か杉の枯れた枝葉が散乱していた。
中国山地によって山陽と山陰が画されていることが実感させらた。
途中から、美作に向かう県道51号を使い、国道179号に入ることが出来た。
それまで、どんよりとした曇り空だったのが、晴れ間の見える明るい景色になった。
実は、ここあたりの道は、以前に鳥取に行く時に迷い込んだ道であった。
とにかくナビを使わない私たちのドライブは常にハプニングがついてまわる。
そのスリリングな行程のおかげで、休み前の日常の気分が一新されてしまうのである。
子供らと楽しく過ごした砂丘への日帰り旅行を懐かしもうと思ったのに、新しい冒険の旅になってしまった。
ただ、いつものように、車の中では口ずさめる懐かしい歌が流れていた。
今日一番風景とマッチしていた歌は、NHKのAMから流れていた、ホイットニー・ヒューストンのI Will Always Love Youだった。
2019年10月7日月曜日
秋祭りの準備
この日曜日は朝の七時から、八幡神社の境内の清掃作業にかり出された。
例年は八時から作業というのが普通だが、今年は6月に作業が出来ていないこともあって、時間がかかると思ったようだ。
私は、何を頼まれても良いように、草刈り機、充電式の普通のチェーンソーとトリマーを持ってきていた。
ところが、大きく枝を張った桜の木の枝を切り落とすと言うことで、そちらをかってでると、脚立に載っての作業は危険と分かった。
そこで、もう一度家に戻って、高枝を切り落とす充電式のチェーンソーを持ってきた。
少し脚立に上っただけで、上手く大枝は切り落とすことが出来た。
切り落とした後は、エンジン式のチェーンソーが裁断してくれた。
その後は、充電式のトリマーで境内の植え込みを刈っていった。
多くの人がコードの必要なトリマーを持ってきており、コードを延ばすのも一手間だった。
また、エンジン式のトリマーは重くて、誰も使おうとしなかった。
私と同じ充電式のトリマーを持ってきている人が一人だけいた。
その人はマキタ製の高額な物で、私の物より大きかった。
その人も色々試した結果、充電式にしたという。
家の庭の刈り込みなら、コード式で良いだろうが、こういう神社の境内では手間が非常にかかる。
結局、境内の作業は二時間ほどで、例年と同じくらいの作業時間で済んだ。
今年の与井の八幡神社の祭は、10月20日である。
宮総代として参加しなくてはならない。
今年からは、小中学生が「浦安の舞」を60年ぶり奉納してくれる。
若い宮司さんになって、意欲的に準備をしてきたおかげである。
伝統は守るだけでなくて、場合によっては復活させることも重要なのだと思う。
また、場合によっては、新しい取り組みもあって良いと思う。
できれば、子供だけでなくて、年配の人も参加できるような、催しもあって良い。
去年は村のお稚児さんの行事に、年配女性のフラダンスが行われた。
寂れていく村だからこそ、祭で盛り上がって行ければと願っている。
例年は八時から作業というのが普通だが、今年は6月に作業が出来ていないこともあって、時間がかかると思ったようだ。
私は、何を頼まれても良いように、草刈り機、充電式の普通のチェーンソーとトリマーを持ってきていた。
ところが、大きく枝を張った桜の木の枝を切り落とすと言うことで、そちらをかってでると、脚立に載っての作業は危険と分かった。
そこで、もう一度家に戻って、高枝を切り落とす充電式のチェーンソーを持ってきた。
少し脚立に上っただけで、上手く大枝は切り落とすことが出来た。
切り落とした後は、エンジン式のチェーンソーが裁断してくれた。
その後は、充電式のトリマーで境内の植え込みを刈っていった。
多くの人がコードの必要なトリマーを持ってきており、コードを延ばすのも一手間だった。
また、エンジン式のトリマーは重くて、誰も使おうとしなかった。
私と同じ充電式のトリマーを持ってきている人が一人だけいた。
その人はマキタ製の高額な物で、私の物より大きかった。
その人も色々試した結果、充電式にしたという。
家の庭の刈り込みなら、コード式で良いだろうが、こういう神社の境内では手間が非常にかかる。
結局、境内の作業は二時間ほどで、例年と同じくらいの作業時間で済んだ。
今年の与井の八幡神社の祭は、10月20日である。
宮総代として参加しなくてはならない。
今年からは、小中学生が「浦安の舞」を60年ぶり奉納してくれる。
若い宮司さんになって、意欲的に準備をしてきたおかげである。
伝統は守るだけでなくて、場合によっては復活させることも重要なのだと思う。
また、場合によっては、新しい取り組みもあって良いと思う。
できれば、子供だけでなくて、年配の人も参加できるような、催しもあって良い。
去年は村のお稚児さんの行事に、年配女性のフラダンスが行われた。
寂れていく村だからこそ、祭で盛り上がって行ければと願っている。
2019年9月30日月曜日
猪名川から丹波路2019秋
昨日は朝の8時から村作業で、道ばたや小川の土手の草を草刈り機で刈った。
私は空調服を着ていったので、珍しがられた。
まだ、我が村で空調服を着て、農作業などをしているのは自分だけである。
その前日も、庭木の手入れを空調服を着ておこなった。
空調服によって、作業ははかどるし、疲れも軽減されている。
昨日の村座業でも、人によっては汗びっしょりだったが、自分はそれほどでもなかった。
確かに、空調服は値段が高いが、それに見合うだけの効果がある。
次の日にゆっくり休めない者にとっては、必需品でもあるのだ。
作業が終わってから、シャワーを浴びて、出かける準備をした。
猪名川でそばの花が咲いているというので、出かけようと思っていた。
いつもの龍野回りに道(姫上線)を走っていると、田んぼの中でそばの花が咲いている。
猪名川まで行かずとも、見られることは確かである。
しかし、ドライブを楽しんだ上で、美味しい十割そばを食べるのが目的なのである。
林田から、いつもの中国縦貫道路に並行して走る県道23号を東に向かった。
祭も近いので、道には色とりどりのシデ棒が立っている。
紙で作られたのは、ナイロン袋がかぶせてあるが、プラスティック製の物はそのまま立てて色鮮やかである。
これが立つと、播州の祭のシーズンという気持ちになる。
ただし、上郡にはまだこの文化は普及していない。
もともと、赤穂や上郡では使ってなかったし、龍野や福崎で使い始めたのは最近だと思う。
今回も心配したことが起こってしまった。
三田でルートを間違ってしまった。
スマホは自動車道に誘導していたのだが、それを無視するととんでもない山道に案内されてしまった。
テレビ番組の「ポツンと一軒家」で出てくるような山道を、対向車を警戒しながら進んだ。
何とか、三田から猪名川に抜ける道に辿り着いたが、肝を冷やす山道だった。
猪名川の道の駅はやはり混雑していて、離れた駐車場に車を停めた。
そば店では、人が店内で待っていたので、名前だけ書いてまずは買い物をした。
そして、店内に戻ってしばらくすると順番が回ってきた。
今回は私は五つ星そばを、家内はそば三昧を食べた。
椎茸が美味しかった。
そば本来の味を味わうのなら、盛り蕎麦やざる蕎麦だろうが、滅多に来ないので当地の産物も頂きたい。
店には、そばの花の風景写真も飾ってあったので、そばの花を見に行こうと、店を出てから北に向かった。
しかし、どうも道沿いにそば畑はないらしく、ちょっとしたそば畑だけ見ることが出来た。
そして、篠山に向かう山の中の道を、車を走らせた。
この猪名川渓谷ラインはドライブやサイクリングでも人気らしく、けっこう車や自転車が往来した。
今回は、時間があまりなかったので、篠山町には寄らずに、社に向けて戻った。
今は、稲の穂が黄色く実り、刈り入れを待っている。
このあたりは酒米の産地で、酒のメーカーの幟も多く立っている。
畦には真っ赤な彼岸花が、絨毯のように咲いている。
社から加西にかけては広々として盆地が広がっていて壮観である。
毎年繰り返している、猪名川のそばを食べに行くドライブは、私たち夫婦の恒例行事である。
旅の景色と味わう猪名川の十割そばは、掛け替えのない元気の源である。
ただ、今回も三田からのルートを間違えたので、ちゃんと地図を確認しようと思った。
分かっていて進むのと、迷い込むのとでは大違いである。
新しいルートも探してみようと思う。
私は空調服を着ていったので、珍しがられた。
まだ、我が村で空調服を着て、農作業などをしているのは自分だけである。
その前日も、庭木の手入れを空調服を着ておこなった。
空調服によって、作業ははかどるし、疲れも軽減されている。
昨日の村座業でも、人によっては汗びっしょりだったが、自分はそれほどでもなかった。
確かに、空調服は値段が高いが、それに見合うだけの効果がある。
次の日にゆっくり休めない者にとっては、必需品でもあるのだ。
作業が終わってから、シャワーを浴びて、出かける準備をした。
猪名川でそばの花が咲いているというので、出かけようと思っていた。
いつもの龍野回りに道(姫上線)を走っていると、田んぼの中でそばの花が咲いている。
猪名川まで行かずとも、見られることは確かである。
しかし、ドライブを楽しんだ上で、美味しい十割そばを食べるのが目的なのである。
林田から、いつもの中国縦貫道路に並行して走る県道23号を東に向かった。
祭も近いので、道には色とりどりのシデ棒が立っている。
紙で作られたのは、ナイロン袋がかぶせてあるが、プラスティック製の物はそのまま立てて色鮮やかである。
これが立つと、播州の祭のシーズンという気持ちになる。
ただし、上郡にはまだこの文化は普及していない。
もともと、赤穂や上郡では使ってなかったし、龍野や福崎で使い始めたのは最近だと思う。
今回も心配したことが起こってしまった。
三田でルートを間違ってしまった。
スマホは自動車道に誘導していたのだが、それを無視するととんでもない山道に案内されてしまった。
テレビ番組の「ポツンと一軒家」で出てくるような山道を、対向車を警戒しながら進んだ。
何とか、三田から猪名川に抜ける道に辿り着いたが、肝を冷やす山道だった。
猪名川の道の駅はやはり混雑していて、離れた駐車場に車を停めた。
そば店では、人が店内で待っていたので、名前だけ書いてまずは買い物をした。
そして、店内に戻ってしばらくすると順番が回ってきた。
今回は私は五つ星そばを、家内はそば三昧を食べた。
椎茸が美味しかった。
そば本来の味を味わうのなら、盛り蕎麦やざる蕎麦だろうが、滅多に来ないので当地の産物も頂きたい。
しかし、どうも道沿いにそば畑はないらしく、ちょっとしたそば畑だけ見ることが出来た。
そして、篠山に向かう山の中の道を、車を走らせた。
この猪名川渓谷ラインはドライブやサイクリングでも人気らしく、けっこう車や自転車が往来した。
今回は、時間があまりなかったので、篠山町には寄らずに、社に向けて戻った。
今は、稲の穂が黄色く実り、刈り入れを待っている。
このあたりは酒米の産地で、酒のメーカーの幟も多く立っている。
畦には真っ赤な彼岸花が、絨毯のように咲いている。
社から加西にかけては広々として盆地が広がっていて壮観である。
毎年繰り返している、猪名川のそばを食べに行くドライブは、私たち夫婦の恒例行事である。
旅の景色と味わう猪名川の十割そばは、掛け替えのない元気の源である。
ただ、今回も三田からのルートを間違えたので、ちゃんと地図を確認しようと思った。
分かっていて進むのと、迷い込むのとでは大違いである。
新しいルートも探してみようと思う。
2019年9月23日月曜日
ドライブコンサートwith井上陽水
今日は三連休の最終日、昨日は台風で天候が悪くどこにも出かけなかった。
本当は昨日遠くにドライブしたかったのだが、今日に変更した。
天気が回復している西の方に、家内と向かうことにした。
岡山のあたりから、青空が広がり、気分良く運転ができはじめた。
同じドライブでも、晴れと曇りでは気分が大違いである。
そして、かけているラジオはNHKFMで「今日は一日井上陽水三昧」である。
懐かしい曲が、流れてきて、その度に口ずさんでいる。
西に向かう国道二号線は、倉敷あたりまでは良く通っている。
先日も倉敷のアウトレットのモンベルに行って、トレッキングシューズを買ってきたばかりである。
倉敷より西側は、娘が大学生の頃、広島の西条に下宿していて、よくドライブがてら送っていった。
行きは、山陽自動車道を使うが、帰りはたいてい国道二号線を使った。
だから久しぶりに当時とは逆方向で景色を見た。
とりあえず笠岡の道の駅まで行ったが、これといって欲しいものはなかった。
とにかく昼食をとろうと、二号線を引き返したが、なかなか店が見つからない。
あるのはラーメン屋か仕出し屋で、入りたい気持ちになれない。
とうとう倉敷まで戻ってきてしまって、二号線を下りることにした。
北に向かって走っていると、ファミレスがあったので、そこへ入って遅い昼食を軽くとった。
元の二号線には戻りづらかったので、高梁川の土手道を総社の方に向かった。
そして、清音のところから県道270号、国道180号の吉備路に向かった。
この道路は以前吉備津神社から総社に行く時によく使った道である。
備中国分寺から吉備津彦神社にかけて、吉備路ののどかな風景を楽しむことが出来る。
そして、岡山市内を通っていつもの国道250号線で戻る。
このはコースは、高架道路の多い国道二号線とは違って、町や田園の風景を楽しむことが出来る。
今日のドライブは、目的地がこれといってあったわけではなく、ドライブそのものが目的となった。
何よりも、井上陽水の曲がそのドライブを楽しいものにしてくれた。
おそらく、家でラジオを聴いていても、そんなに楽しむことはできなかっただろう。
景色を眺めながら、好きな歌を口ずさむ。
「心もよう」「いっそセレナーデ」「少年時代」・・・
ひとり、ギター片手に歌った曲は数え切れないが、ステージで歌ったことはない。
私の人生には陽水の曲が、しっかりと刻まれていることを改めて思う。
家内とは陽水を聴いていた頃の話をしたり、ラジオから流れる陽水の娘さんの話に耳を傾けた。
確かに、ミュージシャン本人ののコンサートやライブなどに出かけて、聴けたらもっと素晴らしいかも知れない。
しかし、余裕のないは田舎夫婦にとっては、ドライブで聴く音楽が格別のコンサートなのである。
今日の台風一過の備中路、吉備路、備前路の風景が、そのコンサートに色を添えてくれた。
これといって目的のなかったドライブだが、本当のコンサートとは違うおしゃべりしながらの気楽なドライブコンサートだった。
本当は昨日遠くにドライブしたかったのだが、今日に変更した。
天気が回復している西の方に、家内と向かうことにした。
岡山のあたりから、青空が広がり、気分良く運転ができはじめた。
同じドライブでも、晴れと曇りでは気分が大違いである。
そして、かけているラジオはNHKFMで「今日は一日井上陽水三昧」である。
懐かしい曲が、流れてきて、その度に口ずさんでいる。
西に向かう国道二号線は、倉敷あたりまでは良く通っている。
先日も倉敷のアウトレットのモンベルに行って、トレッキングシューズを買ってきたばかりである。
倉敷より西側は、娘が大学生の頃、広島の西条に下宿していて、よくドライブがてら送っていった。
行きは、山陽自動車道を使うが、帰りはたいてい国道二号線を使った。
だから久しぶりに当時とは逆方向で景色を見た。
とりあえず笠岡の道の駅まで行ったが、これといって欲しいものはなかった。
とにかく昼食をとろうと、二号線を引き返したが、なかなか店が見つからない。
あるのはラーメン屋か仕出し屋で、入りたい気持ちになれない。
とうとう倉敷まで戻ってきてしまって、二号線を下りることにした。
北に向かって走っていると、ファミレスがあったので、そこへ入って遅い昼食を軽くとった。
元の二号線には戻りづらかったので、高梁川の土手道を総社の方に向かった。
そして、清音のところから県道270号、国道180号の吉備路に向かった。
この道路は以前吉備津神社から総社に行く時によく使った道である。
備中国分寺から吉備津彦神社にかけて、吉備路ののどかな風景を楽しむことが出来る。
そして、岡山市内を通っていつもの国道250号線で戻る。
このはコースは、高架道路の多い国道二号線とは違って、町や田園の風景を楽しむことが出来る。
今日のドライブは、目的地がこれといってあったわけではなく、ドライブそのものが目的となった。
何よりも、井上陽水の曲がそのドライブを楽しいものにしてくれた。
おそらく、家でラジオを聴いていても、そんなに楽しむことはできなかっただろう。
景色を眺めながら、好きな歌を口ずさむ。
「心もよう」「いっそセレナーデ」「少年時代」・・・
ひとり、ギター片手に歌った曲は数え切れないが、ステージで歌ったことはない。
私の人生には陽水の曲が、しっかりと刻まれていることを改めて思う。
家内とは陽水を聴いていた頃の話をしたり、ラジオから流れる陽水の娘さんの話に耳を傾けた。
確かに、ミュージシャン本人ののコンサートやライブなどに出かけて、聴けたらもっと素晴らしいかも知れない。
しかし、余裕のないは田舎夫婦にとっては、ドライブで聴く音楽が格別のコンサートなのである。
今日の台風一過の備中路、吉備路、備前路の風景が、そのコンサートに色を添えてくれた。
これといって目的のなかったドライブだが、本当のコンサートとは違うおしゃべりしながらの気楽なドライブコンサートだった。
2019年9月20日金曜日
Sleep on the water
午前中は農作業で、畑にエンジンポンプで水を入れた。
このところ晴れ続きで、またサトイモの葉も枯れ出したし、蒔いた大根の種もあまり芽を出していなかった。
いちおう大根の種には、ホースで水道水をかけていた。
ポンプのホースは畑の途中までしかいかないので、溝を途中まで掘っていた。
エンジンポンプの力は強くて、畑はほとんど冠水したが、隅で勝手に生えたキュウリには届かなかった。
そちらにはホースで水道水をかけてやったが、焼け石に水だった。
午後からは久しぶりにSupをしにいつもの鷏和の恋ヶ浜に出かけた。
少し風があったので、波も幾分高かった。
これまで、海に行かなかったのはあまりにも暑くて、行く気がしなかったからだ。
9月の下旬になって、やっと涼しくなってきたので、午前の農作業も楽になった。
暑い時は午前中の農作業でバテてしまっていたのだ。
以前買っておいた、簡単に開く簡易テントも早速使ってみた。
相変わらず、ボードに空気を入れるのは骨が折れた。
ウェットスーツを着込んで、ネットで安く買ったリーシュコードも足につけた。
座って漕ぐSUPはもう慣れたもので、全く不安は感じない。
少々の波でも、平気で沖に漕ぎ出すことが出来た。
ただ、膝立ちすると、波があるので少々不安定だった。
沖に出ると、腹ばいになって波に漂った。
波間に渡る風は爽やかに感じた。
今回はアクティブカメラも持ってきたので、首にかけたり、ボードにおいて撮影してみた。
家に帰って見てみると、安物を買ったので、逆さを補正することが出来てなくて、結局逆さのママの映像だった。
また、防水ケースの中に入れていたので、波の音や風の音は殆ど入っていなかった。
映像を残す気にもなれず、全部消去した。
立つ練習も試みたが、やはり上手くいかなかった。
膝立ちで、バランスをとりながら漕ぐ練習に切り替えた。
漕ぎ疲れると、沖で仰向けになって、青空をぼんやりと眺めていた。
私のSUPの目的は、波間に浮かんでゆっくり漂うことだ。
残念ながら恋ヶ浜は、工場も近くて空気も良くないし、景色もさほど良くない。
ただ、練習場所としては、近くまで軽トラを置いておけるし、砂浜なので裸足で済ませられるので都合が良い。
SUPも慣れてきたので、景色の良いところに行ってみようかなと思うようにもなっている。
海の上を堪能し、仕事を忘れ、気分転換にはなったのだが、いざ帰ろうとテントをたたもうとして上手くいかない。
日も暮れてきたので、きちっとたたまずに軽トラの荷台に置いて、道具を入れたケースや、大きめの石で押さえた。
帰りは渋滞を避けるために、以前住んでいた赤穂の大津の前を通って三石回りで帰ることにした。
大津に来ると、子供が赤ん坊だった頃のことを思い出す。
上郡の自宅と違って、大津の景色は記憶の時間が30年前で止められている。
運転しながら、昔を思い出して、昔歌っていた歌を歌い続けた。
ギターのない一人ライブである。
自宅に戻ってからも、夕陽の中を秋風に吹かれながらクロと散歩した。
ほとんど波の上を横たわるSUPではあったが、私とっては刻まれた記憶の波を渡る舟ともなった。
このところ晴れ続きで、またサトイモの葉も枯れ出したし、蒔いた大根の種もあまり芽を出していなかった。
いちおう大根の種には、ホースで水道水をかけていた。
ポンプのホースは畑の途中までしかいかないので、溝を途中まで掘っていた。
エンジンポンプの力は強くて、畑はほとんど冠水したが、隅で勝手に生えたキュウリには届かなかった。
そちらにはホースで水道水をかけてやったが、焼け石に水だった。
午後からは久しぶりにSupをしにいつもの鷏和の恋ヶ浜に出かけた。
少し風があったので、波も幾分高かった。
これまで、海に行かなかったのはあまりにも暑くて、行く気がしなかったからだ。
9月の下旬になって、やっと涼しくなってきたので、午前の農作業も楽になった。
暑い時は午前中の農作業でバテてしまっていたのだ。
以前買っておいた、簡単に開く簡易テントも早速使ってみた。
相変わらず、ボードに空気を入れるのは骨が折れた。
ウェットスーツを着込んで、ネットで安く買ったリーシュコードも足につけた。
座って漕ぐSUPはもう慣れたもので、全く不安は感じない。
少々の波でも、平気で沖に漕ぎ出すことが出来た。
ただ、膝立ちすると、波があるので少々不安定だった。
沖に出ると、腹ばいになって波に漂った。
波間に渡る風は爽やかに感じた。
今回はアクティブカメラも持ってきたので、首にかけたり、ボードにおいて撮影してみた。
家に帰って見てみると、安物を買ったので、逆さを補正することが出来てなくて、結局逆さのママの映像だった。
また、防水ケースの中に入れていたので、波の音や風の音は殆ど入っていなかった。
映像を残す気にもなれず、全部消去した。
立つ練習も試みたが、やはり上手くいかなかった。
膝立ちで、バランスをとりながら漕ぐ練習に切り替えた。
漕ぎ疲れると、沖で仰向けになって、青空をぼんやりと眺めていた。
私のSUPの目的は、波間に浮かんでゆっくり漂うことだ。
残念ながら恋ヶ浜は、工場も近くて空気も良くないし、景色もさほど良くない。
ただ、練習場所としては、近くまで軽トラを置いておけるし、砂浜なので裸足で済ませられるので都合が良い。
SUPも慣れてきたので、景色の良いところに行ってみようかなと思うようにもなっている。
海の上を堪能し、仕事を忘れ、気分転換にはなったのだが、いざ帰ろうとテントをたたもうとして上手くいかない。
日も暮れてきたので、きちっとたたまずに軽トラの荷台に置いて、道具を入れたケースや、大きめの石で押さえた。
帰りは渋滞を避けるために、以前住んでいた赤穂の大津の前を通って三石回りで帰ることにした。
大津に来ると、子供が赤ん坊だった頃のことを思い出す。
上郡の自宅と違って、大津の景色は記憶の時間が30年前で止められている。
運転しながら、昔を思い出して、昔歌っていた歌を歌い続けた。
ギターのない一人ライブである。
自宅に戻ってからも、夕陽の中を秋風に吹かれながらクロと散歩した。
ほとんど波の上を横たわるSUPではあったが、私とっては刻まれた記憶の波を渡る舟ともなった。
2019年9月15日日曜日
山散歩
このところ土日は近くの山に散歩に出かけている。
昨日は、高田台の総合公園から、上郡(中心地)へ抜ける山道に行った。
そこの途中には、以前火葬場があったので、地元の人は普段から滅多に通らない。
それでも道は舗装されていて、路肩も管理されている。
滅多に人や車が通らないのので、クロとの散歩にはもってこいなのである。
今回は帰り道に、クロが水浴びできる用水路がなかったので、帰って来るなり日陰に潜り込んで出てこない。
餌をやっても食べもしない。
家内は心配して、水を与えたりしたが、しばらくへたり込んでいた。
それでも昼過ぎには元気を取り戻していた。
日曜の今日は、小野豆の山に上がることにした。
こちらは時間がかかるが、途中でクロが水浴びできる場所が多くある。
ベストの空調服を着て、ネックマウントにアクティブカメラを下げて出かけた。
空調ベストにはフードが付いているので、今回はわざと竹笠は被らなかった。
うっかり手ぬぐいもバンダナも忘れたので、いくらサングラスをし、フードで日差しを遮っても汗がしたたってきた。
先週は、歩きながら撮影すると揺れがひどかったので、立ち止まって撮影した。
季節季節の風景を収めておきたいと思っている。
山道に入ると、道は日陰になり、フードも必要でなくなった。
この小野豆への山道は意外と、車が通るので、来るたびにクロの長いひもをたぐり寄せねばならない。
木々が生い茂っているので、村の様子はうまく撮影できないが、小野豆の集落は収めた。
ただ、小野豆の田畑は荒れ放題で、昔のような面影は失ってしまっている。
撮影が終わると直ぐに山道を下りていった。
登りは日差しがきつく感じたが、下りは少々の日差しは平気である。
遠くの山並みや、自然豊かな山の木々を眺めながら下りることが出来た。
そして、クロは途中のせせらぎで何度も水浴びをした。
おそらく空調服がなかったら、こんなに暑い時期に山に登ろうとは思わなかっただろう。
登りは確かに息が切れるが、意外と木陰になった山道は歩きやすい。
時間がかかるので、平日には無理だが、こうして休日には山散歩も悪くない。
日差しがきつくなっていたので、怖れていたヤブ蚊やブヨ、蜂などに遭遇することもなかった。
ただ、突然鹿の鳴き声がしたり、小石が落ちてきたりした。
全く安全というわけではないが、それはどこの道路も同じである。
空調服は私の世界を、大きく広げてくれた。
昨日は、高田台の総合公園から、上郡(中心地)へ抜ける山道に行った。
そこの途中には、以前火葬場があったので、地元の人は普段から滅多に通らない。
それでも道は舗装されていて、路肩も管理されている。
滅多に人や車が通らないのので、クロとの散歩にはもってこいなのである。
今回は帰り道に、クロが水浴びできる用水路がなかったので、帰って来るなり日陰に潜り込んで出てこない。
餌をやっても食べもしない。
家内は心配して、水を与えたりしたが、しばらくへたり込んでいた。
それでも昼過ぎには元気を取り戻していた。
日曜の今日は、小野豆の山に上がることにした。
こちらは時間がかかるが、途中でクロが水浴びできる場所が多くある。
ベストの空調服を着て、ネックマウントにアクティブカメラを下げて出かけた。
空調ベストにはフードが付いているので、今回はわざと竹笠は被らなかった。
うっかり手ぬぐいもバンダナも忘れたので、いくらサングラスをし、フードで日差しを遮っても汗がしたたってきた。
先週は、歩きながら撮影すると揺れがひどかったので、立ち止まって撮影した。
季節季節の風景を収めておきたいと思っている。
山道に入ると、道は日陰になり、フードも必要でなくなった。
この小野豆への山道は意外と、車が通るので、来るたびにクロの長いひもをたぐり寄せねばならない。
木々が生い茂っているので、村の様子はうまく撮影できないが、小野豆の集落は収めた。
ただ、小野豆の田畑は荒れ放題で、昔のような面影は失ってしまっている。
撮影が終わると直ぐに山道を下りていった。
登りは日差しがきつく感じたが、下りは少々の日差しは平気である。
遠くの山並みや、自然豊かな山の木々を眺めながら下りることが出来た。
そして、クロは途中のせせらぎで何度も水浴びをした。
おそらく空調服がなかったら、こんなに暑い時期に山に登ろうとは思わなかっただろう。
登りは確かに息が切れるが、意外と木陰になった山道は歩きやすい。
時間がかかるので、平日には無理だが、こうして休日には山散歩も悪くない。
日差しがきつくなっていたので、怖れていたヤブ蚊やブヨ、蜂などに遭遇することもなかった。
ただ、突然鹿の鳴き声がしたり、小石が落ちてきたりした。
全く安全というわけではないが、それはどこの道路も同じである。
空調服は私の世界を、大きく広げてくれた。
2019年9月3日火曜日
さようなら夏の日
去年はパートで働いていたので、夏休みらしきものはなかった。
今年は常勤で働いているので、夏期休暇もあった。
勤務も夏休み時間で、普段より二時間早く出勤し、その分早く帰った。
9月になって、元の勤務時間になり、二時間遅い時間に戻った。
今朝はその関係で、いつも起きていた朝の5時半には目が覚めなかった。
6時半に起床したので、散歩は以前のように食後にすることになった。
出かけるのは7時半、既に朝日はさんさんと照ってまぶしい。
竹笠を被り、いつもの北のコースを通ることにした。
このところ害獣予防で、電気柵が多く張ってあり、農道も場所によっては塞がれている。
なるべく人家は避けたいのだがやむなく通り、その人家で飼われている犬に吠えられたりした。
クロは陽が照っていると、用水路に飛び込み体を冷やしたり、水を飲む。
今日も何度も用水路に入った。
そして、久しぶりに岡山空港へ着陸する飛行機を目にすることが出来た。
いつもの8時25分に、大きな機体が上空に現れた。
ずっと早朝に歩いていたし、このところ天気が悪かったのでお目にかかっていなかった。
汗をかきながら歩いていても、飛行機を見ると得をした気分になれる。
昨日の5時半の散歩では、日中ではお目にかからない多くの人が歩いていた。
この時間は、農作業をしている人以外は、誰一人いない。
私の散歩は、飛行機に慰められる、健康管理のトレーニングに戻った。
この夏休みは、家内と一緒に色々とドライブしたし、出張で神戸に二度も出かけていった。
そして、何よりも研究に没頭できる時間も持てた。
大きな気分転換になった反面、元の仕事に戻るのが今までに無く苦痛に感じた。
ネットを調べると、更年期障害の症状に似ている。
男の場合は精神的な原因も大きいようだが、青年期とは違う夏休みの救いがあったのだろうと思う。
今の時期に、自殺する子供が多いと言うが、心が乱れるのは老齢の私も一緒である。
長い夏休みはある意味で罪作りなのかも知れないが、これを楽しみに普段耐えているところもある。
しかし、臨時勤めの私には、来年の夏に夏休みがあるかどうか分からない。
ひょっとして、ずっと夏休みのような状態になるかも知れない。
この季節に必ずかかる山下達郎の名曲「さよなら夏の日」は、大人になっていく少年の心を歌っている。
それが、年老いていく我が心にしみていく。
さよなら夏に日 ぼくらは年老いていくよ・・・
ただ、学童の仕事で忙しかった家内は、世の母親と同様に早く夏休みが終わって欲しいと言い続けていた。
こちらは嬉しい「さよなら夏の日」である・・・
今年は常勤で働いているので、夏期休暇もあった。
勤務も夏休み時間で、普段より二時間早く出勤し、その分早く帰った。
9月になって、元の勤務時間になり、二時間遅い時間に戻った。
今朝はその関係で、いつも起きていた朝の5時半には目が覚めなかった。
6時半に起床したので、散歩は以前のように食後にすることになった。
出かけるのは7時半、既に朝日はさんさんと照ってまぶしい。
竹笠を被り、いつもの北のコースを通ることにした。
このところ害獣予防で、電気柵が多く張ってあり、農道も場所によっては塞がれている。
なるべく人家は避けたいのだがやむなく通り、その人家で飼われている犬に吠えられたりした。
クロは陽が照っていると、用水路に飛び込み体を冷やしたり、水を飲む。
今日も何度も用水路に入った。
そして、久しぶりに岡山空港へ着陸する飛行機を目にすることが出来た。
いつもの8時25分に、大きな機体が上空に現れた。
ずっと早朝に歩いていたし、このところ天気が悪かったのでお目にかかっていなかった。
汗をかきながら歩いていても、飛行機を見ると得をした気分になれる。
昨日の5時半の散歩では、日中ではお目にかからない多くの人が歩いていた。
この時間は、農作業をしている人以外は、誰一人いない。
私の散歩は、飛行機に慰められる、健康管理のトレーニングに戻った。
この夏休みは、家内と一緒に色々とドライブしたし、出張で神戸に二度も出かけていった。
そして、何よりも研究に没頭できる時間も持てた。
大きな気分転換になった反面、元の仕事に戻るのが今までに無く苦痛に感じた。
ネットを調べると、更年期障害の症状に似ている。
男の場合は精神的な原因も大きいようだが、青年期とは違う夏休みの救いがあったのだろうと思う。
今の時期に、自殺する子供が多いと言うが、心が乱れるのは老齢の私も一緒である。
長い夏休みはある意味で罪作りなのかも知れないが、これを楽しみに普段耐えているところもある。
しかし、臨時勤めの私には、来年の夏に夏休みがあるかどうか分からない。
ひょっとして、ずっと夏休みのような状態になるかも知れない。
この季節に必ずかかる山下達郎の名曲「さよなら夏の日」は、大人になっていく少年の心を歌っている。
それが、年老いていく我が心にしみていく。
さよなら夏に日 ぼくらは年老いていくよ・・・
ただ、学童の仕事で忙しかった家内は、世の母親と同様に早く夏休みが終わって欲しいと言い続けていた。
こちらは嬉しい「さよなら夏の日」である・・・
2019年8月29日木曜日
俳句は歌かも
今回夏井いつき氏の講演を聞く機会を得た。
実は、私は俳句には全く興味が無くて、有名な方であるにも関わらず、全く知らなかった。
元教員から、俳人になられたということで、私が果たせなかった転身を立派に成し遂げられた大先輩でもある。
ただ、講演でも言われていたが、退職には不安はあったようで、ネット情報からでは、家庭の事情でやむを得ずということらしい。
それを機会に、新しい道を切り開いて、第一線で活躍できるというのは、尊敬すべき方である。
講演の話の中で、学校で行われた俳句会の逸話を語られていた。
小学生が俳句会で、親が離婚して母親と離れて暮らす自分の思いを精一杯託した俳句に込めたエピソードのことが、心を打ち涙がこぼれた。
普段の言葉では表すことが出来ないことを、託せる一つの手段が俳句だと思った。
俳句は短いから、それだけ思いを凝縮できるのだろう。
和歌や詩のように、長い言葉で表すのも一つの方法だが、学校のような場では多くの生徒が、参加できる俳句会が合っているかも知れない。
考えてみれば、昔から唄は生活の中にあった。
労働の時、祭の時、祝いの時、哀しみの時・・・
歌い継がれてきた歌の中に、自分の思いを込めて歌っていたと思う。
即興で歌を作って、相手に思いを伝えることも古代から行われてきた。
言霊信仰ではないが、言葉の力を信じ、大切にしてきたからだろう。
夏井さんが最後に言っていたように、ネット上で氾濫する心ない言葉は、哀しいことである。
皆に伝わるネットだからこそ、言葉の重みを知るべきものなのかも知れない。
私もそういう意味で、心してブログを書く必要性を感じた。
そして、俳句に限らず、心に歌を持ち続けて、歌っていかねばならないと思った。
実は、私は俳句には全く興味が無くて、有名な方であるにも関わらず、全く知らなかった。
元教員から、俳人になられたということで、私が果たせなかった転身を立派に成し遂げられた大先輩でもある。
ただ、講演でも言われていたが、退職には不安はあったようで、ネット情報からでは、家庭の事情でやむを得ずということらしい。
それを機会に、新しい道を切り開いて、第一線で活躍できるというのは、尊敬すべき方である。
講演の話の中で、学校で行われた俳句会の逸話を語られていた。
小学生が俳句会で、親が離婚して母親と離れて暮らす自分の思いを精一杯託した俳句に込めたエピソードのことが、心を打ち涙がこぼれた。
普段の言葉では表すことが出来ないことを、託せる一つの手段が俳句だと思った。
俳句は短いから、それだけ思いを凝縮できるのだろう。
和歌や詩のように、長い言葉で表すのも一つの方法だが、学校のような場では多くの生徒が、参加できる俳句会が合っているかも知れない。
考えてみれば、昔から唄は生活の中にあった。
労働の時、祭の時、祝いの時、哀しみの時・・・
歌い継がれてきた歌の中に、自分の思いを込めて歌っていたと思う。
即興で歌を作って、相手に思いを伝えることも古代から行われてきた。
言霊信仰ではないが、言葉の力を信じ、大切にしてきたからだろう。
夏井さんが最後に言っていたように、ネット上で氾濫する心ない言葉は、哀しいことである。
皆に伝わるネットだからこそ、言葉の重みを知るべきものなのかも知れない。
私もそういう意味で、心してブログを書く必要性を感じた。
そして、俳句に限らず、心に歌を持ち続けて、歌っていかねばならないと思った。
2019年8月26日月曜日
近つ飛鳥博物館へのドライブ2019
昨日(8/25)の朝、急に思い立って、大阪の東河内にある「近つ飛鳥博物館」に行くことにした。
ここは以前から「百舌鳥・古市古墳群と土師氏」というテーマの特物展が開かれていることは知っていた。
電車で行こうとも思ったが、あまりにもアクセスが悪いので、家内とは休みを合わせて車で行くつもりだった。
山陽道や近畿道、南阪奈道を使うので、渋滞のなさそうな時期にとは思っていた。
この日は思った以上に渋滞はなく、渋滞が見られたのは三田のアウトレットに下りる出口付近だけだった。
この行程は、以前に奈良の博物館に行く時に使ったように思う。
山陽道自体、以前は通勤にも使っていたこともあるのだが、今回使うのは数年ぶりだった。
宝塚や吹田のあたりは、新名神ができたおかげで以前のような渋滞がなくて助かった。
順調に自動車道は進んだのだが、ICを下りてから、博物館に辿り着くのが不安だった。
スマホのナビと、博物館の案内板の指示が違っていたりしたからだ。
こんなところに博物館があるのかと思えるような道を通って、辿り着いたときその異様な建物に驚いた。
階段状になった屋根か外壁が、まるでピラミッドのようだ。
古代の古墳をイメージして設計されたのかも知れないが、博物館と知らずに訪れたとしたら、ダムと勘違いしたかも知れない。
既に多くの人が訪れていて、今日の講演会の整理券が配られていた。
講演会のことなど全く念頭になかったのだが、展示を見終わったので、せっかくだから聴くことにした。
会場は既に満杯で、外のモニターを見ることになった。
講演はこの博物館館長舘野和己氏による「古代土師氏とその後」であった。
席に座ってみて驚いたことに、13時半から15時まである。
まだ、食事も摂っていないので、隣の家内はおなかがすいたと言うし、どうしようかと思ったが帰られる雰囲気ではない。
結局しっかりと講演を聞くことになった。
内容は非常に興味深いもので、龍野に関係のある野見宿禰が重要な意味をもっていた。
まさか、埴輪と野見宿禰が関係しているとは、全く不勉強だった。
たつの市に土師という地名があるのも納得できた。
どうしても、帰りの混雑や時間が気になったので、予定の15時には講演は終わっていなかったが席を立った。
急いで、駐車場に行くと、駐車場に入れなかった車が路上に溢れていた。
これほど博物館が人気があるとは、世界遺産畏るべしと思った。
以前から考古学マニアが多いのは知っていたが、今回は歴史であるにも関わらず多くの人が参加していた。
古代には特にご高齢の方が関心があるらしい。
たぶん古代にはロマンを感じるのだろうと思う。
しかし、私は埴輪が作られる前は、生きた奴隷が土中に埋められ立たされて、嘆き苦しみながら死んでいき、動物に食われていたことの方が気になった。
古代はロマンもあるかも知れないが、私には残虐なイメージも感じられるのである。
帰りはコンビニによって軽い食べ物を買って車の中で食べながら帰った。
元来たICへの行き方を間違えて、結局羽曳野ICから自動車道に乗って帰ることになった。
道路も混んでいなくて順調に進み、三木パーキングで休憩を取って家内に運転を代わってもらった。
ところが、姫路あたりから雨が降り出してきて、家の洗濯物が気になったりした。
山陽道は竜野で下りて、ガソリン補給をし、買い物をしてから家に戻った。
洗濯物は息子が取り入れてくれていた。
往復400kmほどの長いドライブになった。
この一日は時間と空間を超えた、古代へのドライブでもあった。
そして、今日は現代の日常に戻るブルーな月曜でもある・・・
ここは以前から「百舌鳥・古市古墳群と土師氏」というテーマの特物展が開かれていることは知っていた。
電車で行こうとも思ったが、あまりにもアクセスが悪いので、家内とは休みを合わせて車で行くつもりだった。
山陽道や近畿道、南阪奈道を使うので、渋滞のなさそうな時期にとは思っていた。
この日は思った以上に渋滞はなく、渋滞が見られたのは三田のアウトレットに下りる出口付近だけだった。
この行程は、以前に奈良の博物館に行く時に使ったように思う。
山陽道自体、以前は通勤にも使っていたこともあるのだが、今回使うのは数年ぶりだった。
宝塚や吹田のあたりは、新名神ができたおかげで以前のような渋滞がなくて助かった。
順調に自動車道は進んだのだが、ICを下りてから、博物館に辿り着くのが不安だった。
スマホのナビと、博物館の案内板の指示が違っていたりしたからだ。
こんなところに博物館があるのかと思えるような道を通って、辿り着いたときその異様な建物に驚いた。
階段状になった屋根か外壁が、まるでピラミッドのようだ。
古代の古墳をイメージして設計されたのかも知れないが、博物館と知らずに訪れたとしたら、ダムと勘違いしたかも知れない。
既に多くの人が訪れていて、今日の講演会の整理券が配られていた。
講演会のことなど全く念頭になかったのだが、展示を見終わったので、せっかくだから聴くことにした。
会場は既に満杯で、外のモニターを見ることになった。
講演はこの博物館館長舘野和己氏による「古代土師氏とその後」であった。
席に座ってみて驚いたことに、13時半から15時まである。
まだ、食事も摂っていないので、隣の家内はおなかがすいたと言うし、どうしようかと思ったが帰られる雰囲気ではない。
結局しっかりと講演を聞くことになった。
内容は非常に興味深いもので、龍野に関係のある野見宿禰が重要な意味をもっていた。
まさか、埴輪と野見宿禰が関係しているとは、全く不勉強だった。
たつの市に土師という地名があるのも納得できた。
どうしても、帰りの混雑や時間が気になったので、予定の15時には講演は終わっていなかったが席を立った。
急いで、駐車場に行くと、駐車場に入れなかった車が路上に溢れていた。
これほど博物館が人気があるとは、世界遺産畏るべしと思った。
以前から考古学マニアが多いのは知っていたが、今回は歴史であるにも関わらず多くの人が参加していた。
古代には特にご高齢の方が関心があるらしい。
たぶん古代にはロマンを感じるのだろうと思う。
しかし、私は埴輪が作られる前は、生きた奴隷が土中に埋められ立たされて、嘆き苦しみながら死んでいき、動物に食われていたことの方が気になった。
古代はロマンもあるかも知れないが、私には残虐なイメージも感じられるのである。
帰りはコンビニによって軽い食べ物を買って車の中で食べながら帰った。
元来たICへの行き方を間違えて、結局羽曳野ICから自動車道に乗って帰ることになった。
道路も混んでいなくて順調に進み、三木パーキングで休憩を取って家内に運転を代わってもらった。
ところが、姫路あたりから雨が降り出してきて、家の洗濯物が気になったりした。
山陽道は竜野で下りて、ガソリン補給をし、買い物をしてから家に戻った。
洗濯物は息子が取り入れてくれていた。
往復400kmほどの長いドライブになった。
この一日は時間と空間を超えた、古代へのドライブでもあった。
そして、今日は現代の日常に戻るブルーな月曜でもある・・・
2019年8月25日日曜日
消えた盆
今年の8月15日、月遅れの盆は台風で、近隣の殆どのイベントが中止された。
実は、私の住む村では台風に関係なく、今年は盆は取りやめになっていた。
盆踊りの中心となる婦人会が、今年の春から解散してしまっていたのがきっかけとなった。
これまで盆踊りは夏になくてはならない行事だったが、それを楽しみにする人が村では減ってしまった。
そして、また世話をする人も減ってしまった。
かつては、盆にはあちらこちらの村や町で賑やかな音楽や太鼓が聞こえていた。
櫓を組んで踊るのは大変だと、屋台を中心とした納涼祭という形に変えた村もある。
踊りは、町独自のよさこいや、岡山ではウラジャ、赤穂ではデーション祭に取って代わられた。
馴染みの地域の人が、寄りそって踊る場がなくなってしまった。
かつて、私が村落調査をした奄美の与路島でも、そうなりつつあった。
40年前の与路村と、上郡の我が村は変わらなくなってしまった。
奄美空港や名瀬港から一日、または二日かかる離島中の離島と、新幹線の相生駅から20分の村が同じになってしまったのだ。
私はこの盆が台風で台無しになったのは、海外旅行にも行けない人、子や孫が戻ってこない人の「やっかみ」だと家内に話した。
それは、自分の「やっかみ」であった。
海外旅行はともかく、この歳にもなって孫の一人もいないことの寂しさを感じる。
昔からお年寄りは、幼い孫に長生きする喜びを感じていたのだと思う。
与路では孫に魂を残していくと言われた。
孫に同じ名前をつけたり、孫との関係を大切にしていた。
人の命がつがっていくことの大切さと幸せを表してきたのだと思う。
本土では月遅れの盆、沖縄奄美では旧暦の八月(中秋の名月)に老若男女が踊ってきた。
これは命のつながりの大切さを、先祖と共に祝う行事であったように思う。
それが失われることは、その大切さが見失われることを意味するように思えてならない。
実は、私の住む村では台風に関係なく、今年は盆は取りやめになっていた。
盆踊りの中心となる婦人会が、今年の春から解散してしまっていたのがきっかけとなった。
これまで盆踊りは夏になくてはならない行事だったが、それを楽しみにする人が村では減ってしまった。
そして、また世話をする人も減ってしまった。
かつては、盆にはあちらこちらの村や町で賑やかな音楽や太鼓が聞こえていた。
櫓を組んで踊るのは大変だと、屋台を中心とした納涼祭という形に変えた村もある。
踊りは、町独自のよさこいや、岡山ではウラジャ、赤穂ではデーション祭に取って代わられた。
馴染みの地域の人が、寄りそって踊る場がなくなってしまった。
かつて、私が村落調査をした奄美の与路島でも、そうなりつつあった。
40年前の与路村と、上郡の我が村は変わらなくなってしまった。
奄美空港や名瀬港から一日、または二日かかる離島中の離島と、新幹線の相生駅から20分の村が同じになってしまったのだ。
私はこの盆が台風で台無しになったのは、海外旅行にも行けない人、子や孫が戻ってこない人の「やっかみ」だと家内に話した。
それは、自分の「やっかみ」であった。
海外旅行はともかく、この歳にもなって孫の一人もいないことの寂しさを感じる。
昔からお年寄りは、幼い孫に長生きする喜びを感じていたのだと思う。
与路では孫に魂を残していくと言われた。
孫に同じ名前をつけたり、孫との関係を大切にしていた。
人の命がつがっていくことの大切さと幸せを表してきたのだと思う。
本土では月遅れの盆、沖縄奄美では旧暦の八月(中秋の名月)に老若男女が踊ってきた。
これは命のつながりの大切さを、先祖と共に祝う行事であったように思う。
それが失われることは、その大切さが見失われることを意味するように思えてならない。
2019年8月14日水曜日
千種の水汲み2019年夏
今年も去年と同じように、盆前の水汲みになった。
本当は日曜の今日(8/11)ではなくて、土曜の昨日に行く予定だった。
ところが、蜂に刺された左手が痛かったので、一日先延ばしにして、息子の力も借りることにした。
息子は家に水の容器を運び入れる時の中継ぎ役で、少しでも助かる。
息子が手伝える夕方に戻るために、出かけたのは午後二時頃だった。
私は空調服を着込んで万全の体制で、準備して出かけた。
途中の道路はほんとにお盆前なのかというくらい、車も少なく人もいなかった。
あまりの暑さに出かけるのを控えているのだと思った。
しかし、南光町あたりから川で遊ぶ人が増えてきた。
南光自然観察村には、川遊びをする人でいっぱいだった。
車やテントも多くて、いつもの夏の風景だった。
ところが、千種の道の駅付近から、路肩に停めている車が増えていった。
パトカーが巡回して回るほどの車の量である。
当然、道の駅の駐車場は満杯になっていた。
要するに格安で過ごせるデイキャンプ場が人気なようである。
また、付近の川は水深も浅く緩やかで、川遊びに持ってこいである。
路上に停めて付近で遊び、道の駅のトイレやレストランを使えば安上がりである。
また、Aガイヤ付近の川や、水汲み場の川でも家族連れが水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
家内は海より川の方が、塩分でべたつかないので良いと言う。
確かに、水の綺麗な千種川に入って身体を冷やした方が、気持ちいいかも知れない。
最近は海でも泳ぐのではなくて、海水につかったり浮かぶだけの人が殆どだ。
海水浴は明治時代に健康増進のために始まったとテレビ番組でやっていた。
今は熱中症にならずに森林浴も出来る川遊びの方が健康的なのかも知れない。
水汲み場は日陰になっていて、しかも気温もそれほど高くなくて、空調服はあまり役に立たなかった。
上郡に戻ってくると、また灼熱地獄に逆戻りで、家の中に水を運び入れるのに、空調服は役に立った。
最近は涼しいショッピングモールに行くことさえ嫌になる暑さである。
クーラーの効いた家に閉じこもっているのが良いのかも知れない。
しかし、健康的でしかも気分転換できるのは、千種のような涼しいところでの川遊びをするのが一番に思えた。
同じ千種川でも、上郡付近まで下ってくると、干上がった河原に人はいない。
温暖化は人を川の上流へと導いているようだ。
いっそ、企業や学校も上流に移せば良いように思う。
本当は日曜の今日(8/11)ではなくて、土曜の昨日に行く予定だった。
ところが、蜂に刺された左手が痛かったので、一日先延ばしにして、息子の力も借りることにした。
息子は家に水の容器を運び入れる時の中継ぎ役で、少しでも助かる。
息子が手伝える夕方に戻るために、出かけたのは午後二時頃だった。
私は空調服を着込んで万全の体制で、準備して出かけた。
途中の道路はほんとにお盆前なのかというくらい、車も少なく人もいなかった。
あまりの暑さに出かけるのを控えているのだと思った。
しかし、南光町あたりから川で遊ぶ人が増えてきた。
南光自然観察村には、川遊びをする人でいっぱいだった。
車やテントも多くて、いつもの夏の風景だった。
ところが、千種の道の駅付近から、路肩に停めている車が増えていった。
パトカーが巡回して回るほどの車の量である。
当然、道の駅の駐車場は満杯になっていた。
要するに格安で過ごせるデイキャンプ場が人気なようである。
また、付近の川は水深も浅く緩やかで、川遊びに持ってこいである。
路上に停めて付近で遊び、道の駅のトイレやレストランを使えば安上がりである。
また、Aガイヤ付近の川や、水汲み場の川でも家族連れが水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
家内は海より川の方が、塩分でべたつかないので良いと言う。
確かに、水の綺麗な千種川に入って身体を冷やした方が、気持ちいいかも知れない。
最近は海でも泳ぐのではなくて、海水につかったり浮かぶだけの人が殆どだ。
海水浴は明治時代に健康増進のために始まったとテレビ番組でやっていた。
今は熱中症にならずに森林浴も出来る川遊びの方が健康的なのかも知れない。
水汲み場は日陰になっていて、しかも気温もそれほど高くなくて、空調服はあまり役に立たなかった。
上郡に戻ってくると、また灼熱地獄に逆戻りで、家の中に水を運び入れるのに、空調服は役に立った。
最近は涼しいショッピングモールに行くことさえ嫌になる暑さである。
クーラーの効いた家に閉じこもっているのが良いのかも知れない。
しかし、健康的でしかも気分転換できるのは、千種のような涼しいところでの川遊びをするのが一番に思えた。
同じ千種川でも、上郡付近まで下ってくると、干上がった河原に人はいない。
温暖化は人を川の上流へと導いているようだ。
いっそ、企業や学校も上流に移せば良いように思う。
2019年8月11日日曜日
厄介な遺産
また、アシナガバチに刺されてしまった。
しかも、去年と同じように玉つげの枝を剪定している時にである。
どうもアシナガバチは玉つげの木に巣を作ることが多いらしい。
左手の指や甲を数カ所刺された。
今回は実家の庭の木を剪定している時に起こった。
赤穂の実家の庭は、鳥撫での祖父が造園業をしていた関係で、立派なものを作ってもらった。
父が元気な頃は、池には大きな鯉も飼っており、松も黒松で綺麗に選定していた。
父は歳をとるに従い、自分で庭を管理するのが苦痛になってきた。
最後の方は、祖父が残した庭を恨みがましく言っていたそうである。
父が亡くなった後は、シルバー人材に頼んでやってもらったりした。
大事に選定していた黒松も邪魔になる部分は伐ったりしてもらっている。
そして、そういう作業の際に、大切な石灯籠の一部が壊されたりもした。
シルバー人材は労賃も高い上に仕事が雑なので、私が管理することになった。
去年からは、充電式の小型チェーンソーや、高枝刈機も買って効率よく手入れすることが出来るようになっていた。
今年は空調服を着て、順調に作業が進んでいた矢先に、事故は起こってしまった。
とりあえず冷やしてから実家に戻った。
途中でじんま疹が出て痒くなったり、咳が急に出始めたりした。
明らかにアレルギー反応だった。
去年も刺されたので、アナフィラキシーショックを心配したが、それは大丈夫だった。
家内が戻ってくるのを待って、町の内科医院に診察してもらった。
その医師によると、今年は蜂に刺される人が例年の5割増しだそうである。
蜂は暑さに苛立っているのかなと言っておられた。
私は玉つげが原因のように思う。
充電式の剪定機で簡単に素人がするようになったようになったからだと思う。
素人には、巣が分かりにくくて、まさかと思ってしまう。
アシナガバチにすれば格好の隠れ場所なのである。
腫れがひいて、今度赤穂に行く時には殺虫して、木は切ってしまう予定である。
祖父の残した庭は、今では厄介な遺産となってしまった。
以前、豪邸の庭を管理している人も、維持できなくなったとテレビで言っていたが、庶民にはなおさらの負担だ。
今は日本式の庭を造る人もいなくて、売ることも出来ないようだ。
母が死んだ後、家に住む者がいなくなった先、どうしようかと思う。
家の管理を含めて、色々考えねばならない。
家はシロアリの巣になり、庭は蜂の巣になってしまうだろうから。
しかも、去年と同じように玉つげの枝を剪定している時にである。
どうもアシナガバチは玉つげの木に巣を作ることが多いらしい。
左手の指や甲を数カ所刺された。
今回は実家の庭の木を剪定している時に起こった。
赤穂の実家の庭は、鳥撫での祖父が造園業をしていた関係で、立派なものを作ってもらった。
父が元気な頃は、池には大きな鯉も飼っており、松も黒松で綺麗に選定していた。
父は歳をとるに従い、自分で庭を管理するのが苦痛になってきた。
最後の方は、祖父が残した庭を恨みがましく言っていたそうである。
父が亡くなった後は、シルバー人材に頼んでやってもらったりした。
大事に選定していた黒松も邪魔になる部分は伐ったりしてもらっている。
そして、そういう作業の際に、大切な石灯籠の一部が壊されたりもした。
シルバー人材は労賃も高い上に仕事が雑なので、私が管理することになった。
去年からは、充電式の小型チェーンソーや、高枝刈機も買って効率よく手入れすることが出来るようになっていた。
今年は空調服を着て、順調に作業が進んでいた矢先に、事故は起こってしまった。
とりあえず冷やしてから実家に戻った。
途中でじんま疹が出て痒くなったり、咳が急に出始めたりした。
明らかにアレルギー反応だった。
去年も刺されたので、アナフィラキシーショックを心配したが、それは大丈夫だった。
家内が戻ってくるのを待って、町の内科医院に診察してもらった。
その医師によると、今年は蜂に刺される人が例年の5割増しだそうである。
蜂は暑さに苛立っているのかなと言っておられた。
私は玉つげが原因のように思う。
充電式の剪定機で簡単に素人がするようになったようになったからだと思う。
素人には、巣が分かりにくくて、まさかと思ってしまう。
アシナガバチにすれば格好の隠れ場所なのである。
腫れがひいて、今度赤穂に行く時には殺虫して、木は切ってしまう予定である。
祖父の残した庭は、今では厄介な遺産となってしまった。
以前、豪邸の庭を管理している人も、維持できなくなったとテレビで言っていたが、庶民にはなおさらの負担だ。
今は日本式の庭を造る人もいなくて、売ることも出来ないようだ。
母が死んだ後、家に住む者がいなくなった先、どうしようかと思う。
家の管理を含めて、色々考えねばならない。
家はシロアリの巣になり、庭は蜂の巣になってしまうだろうから。
2019年8月8日木曜日
温暖化対策に空調服
何年か前からか、ファンが付いた作業服のことは知っていた。
店で見るたびに、良さそうだけど値段が高すぎると思っていた。
作業服とファン、バッテリーを合わせたら、2万円ほどかかる。
そして、どれだけ効果があるのか疑っていた。
ところが、先日職場に着てきた職員がいて、感想を聞いてみた。
涼しいという返事、そばにいた他の職員も、建築現場で働いているお父さんが、これを着ると、手放せないと言っていたという。
これは何としても手に入れようと思った。
このところ、農作業は本当に大変で、特に草刈りや、耕耘、灌水作業では汗まみれになった。
私は虫に刺されやすい方なので、中にコンプレッションの下着をつけて、長袖の服を着てする
そうすると、終わるころには水を被ったように作業服は汗で重くなり、身体に張り付いていた。
そこで、家内に頼んでネットで調べて安い物を注文してもらった。
注文した後で、量販店で安いのが出ているのを見て、悔しくは思ったが、一刻も早く欲しかった。
そして、昨日その空調服のセットが届いた。
最初の充電に意外と時間がかかったが、今朝から使い始めた。
全く聞いたとおりである。
昨日と同じように、重いエンジンポンプを使って灌水作業を行ったが、疲れ方がまるで違う。
当然、襟元以外は作業服に汗は付いていない。
私の場合は朝の一時間ほどの農作業に使う程度なので、そんなに性能が良くなくても良い。
これならもっと早く手に入れておけば良かったと思った。
そして、この空調服はもっと広く使えるようになれば良いと思った。
高校でも職業科の生徒の実習や、特別支援学校の生徒の作業学習にも使えば良い。
機械関係で鉄粉が出る作業には向かないそうだが、冷房が使えないところではもってこいだ。
ベストタイプの物を使えばちょっとしたスポーツや通学、通勤にも使えそうである。
問題はファンの音であるが、これも改良と工夫をしたら、静かな物になるはずだ。
そしたら、静かな室内で使用しても問題が無くなり、授業や講演会、会議にでも使用できる。
広く使えるようになれば、値段ももっと下がるだろう。
冷房をガンガン使うより、温暖化対策に効果抜群のように思えた。
店で見るたびに、良さそうだけど値段が高すぎると思っていた。
作業服とファン、バッテリーを合わせたら、2万円ほどかかる。
そして、どれだけ効果があるのか疑っていた。
ところが、先日職場に着てきた職員がいて、感想を聞いてみた。
涼しいという返事、そばにいた他の職員も、建築現場で働いているお父さんが、これを着ると、手放せないと言っていたという。
これは何としても手に入れようと思った。
このところ、農作業は本当に大変で、特に草刈りや、耕耘、灌水作業では汗まみれになった。
私は虫に刺されやすい方なので、中にコンプレッションの下着をつけて、長袖の服を着てする
そうすると、終わるころには水を被ったように作業服は汗で重くなり、身体に張り付いていた。
そこで、家内に頼んでネットで調べて安い物を注文してもらった。
注文した後で、量販店で安いのが出ているのを見て、悔しくは思ったが、一刻も早く欲しかった。
そして、昨日その空調服のセットが届いた。
最初の充電に意外と時間がかかったが、今朝から使い始めた。
全く聞いたとおりである。
昨日と同じように、重いエンジンポンプを使って灌水作業を行ったが、疲れ方がまるで違う。
当然、襟元以外は作業服に汗は付いていない。
私の場合は朝の一時間ほどの農作業に使う程度なので、そんなに性能が良くなくても良い。
これならもっと早く手に入れておけば良かったと思った。
そして、この空調服はもっと広く使えるようになれば良いと思った。
高校でも職業科の生徒の実習や、特別支援学校の生徒の作業学習にも使えば良い。
機械関係で鉄粉が出る作業には向かないそうだが、冷房が使えないところではもってこいだ。
ベストタイプの物を使えばちょっとしたスポーツや通学、通勤にも使えそうである。
問題はファンの音であるが、これも改良と工夫をしたら、静かな物になるはずだ。
そしたら、静かな室内で使用しても問題が無くなり、授業や講演会、会議にでも使用できる。
広く使えるようになれば、値段ももっと下がるだろう。
冷房をガンガン使うより、温暖化対策に効果抜群のように思えた。
2019年8月6日火曜日
鷏和の夏
先日法事で、鷏和に住んでいる親戚も多く集まった。
私は幼稚園に入る前までは鷏和に住んでいた。
鷏和というのは、隣接する槙村と鳥撫(となぜ)村を会わせた呼び方で、祭や付き合いは別々である。
来てくれたお坊さんが、鷏和の石を寺で用いた話をされた。
実は、鷏和は花崗岩の産地として以前は知られていた。
しかし、赤穂の人の多くがそれを知らない。
本家の家業も、石を商って船で運ぶ仕事であった。
父も私が小さい頃までは、木造船で石などを運ぶ仕事をしていて、私も船に乗せられていた。
私の父は転職して、造船会社に勤めるようになったが、本家の伯父は長くその船の運送に携わった。
鳥撫には親戚が多いが、船などの運送業の家が多かった。
私の家族は、学校に通うのに不便な鳥撫の借家から尾崎に古家を買って移り住んだ。
父親は鳥撫に家を構えたかったようだが、旨く進まなかったようで、子供にとっては通学の上で助かった。
今でこそ、幼稚園や小学校は近くにあるが、当時は遠く塩屋まで通わなくてはならなかった。
私は住んでいた頃の鳥撫の記憶はあまりないが、夏休みに本家の家に預けられたりしたので、その想い出は多い。
本家には祖父母と、伯父、伯母、学生の叔母、6歳上の従姉妹が住んでいた。
伯父伯母は夫婦で船に乗っていて、殆ど家にいなかった。
尾崎の家には、年子の弟がいたので、やんちゃで手のかかる自分はひとり本家に預かられていたのだ。
そこでは、従姉妹の姉が私をかわいがってくれて、夏休みは楽しく過ごせた。
近所の女の子とよく花いちもんめをしたのを憶えている。
また、一人で裏山に蝉を捕りに出かけたり、海へ行ってカブトガニを捕ったりして遊んだ。
毎朝ラジオ体操も一緒にした。
子供会からのバス旅行で、宝塚や姫路の遊園地まで行ったりして、殆ど鳥撫の子供と変わらなかった。
楽しかったので、家に帰りたくないと電話で母親に言って、「もう帰ってこんでええ」と突き放され、当時、高校生の叔母といやいや帰った記憶もある。
とにかく預けられなくなっても、小学生の頃は盆と正月には、長く鳥撫の本家にいるのが当たり前であった。
今の鷏和は様変わりしてしまった。
元の本家は崖崩れで壊れて、別の所に移築した。
当時、二階の窓から、鉄橋を電車が渡っていくのを眺めるのが楽しみだったのを思い出す。
私のふるさとの原形は鳥撫だが、もうそこには無い。
けれど、今の上郡にはそのころの鳥撫に似たような風景が、それなりに残っている。
海がないのが残念だが、小野豆の山に登れば何とか見える。
故郷は遠くにありて思うものと言うべきか・・・
とにかく、今回の夏の法事は、遠い昔の幼き日の鳥撫の記憶を甦らせてくれた。
私は幼稚園に入る前までは鷏和に住んでいた。
鷏和というのは、隣接する槙村と鳥撫(となぜ)村を会わせた呼び方で、祭や付き合いは別々である。
来てくれたお坊さんが、鷏和の石を寺で用いた話をされた。
実は、鷏和は花崗岩の産地として以前は知られていた。
しかし、赤穂の人の多くがそれを知らない。
本家の家業も、石を商って船で運ぶ仕事であった。
父も私が小さい頃までは、木造船で石などを運ぶ仕事をしていて、私も船に乗せられていた。
私の父は転職して、造船会社に勤めるようになったが、本家の伯父は長くその船の運送に携わった。
鳥撫には親戚が多いが、船などの運送業の家が多かった。
私の家族は、学校に通うのに不便な鳥撫の借家から尾崎に古家を買って移り住んだ。
父親は鳥撫に家を構えたかったようだが、旨く進まなかったようで、子供にとっては通学の上で助かった。
今でこそ、幼稚園や小学校は近くにあるが、当時は遠く塩屋まで通わなくてはならなかった。
私は住んでいた頃の鳥撫の記憶はあまりないが、夏休みに本家の家に預けられたりしたので、その想い出は多い。
本家には祖父母と、伯父、伯母、学生の叔母、6歳上の従姉妹が住んでいた。
伯父伯母は夫婦で船に乗っていて、殆ど家にいなかった。
尾崎の家には、年子の弟がいたので、やんちゃで手のかかる自分はひとり本家に預かられていたのだ。
そこでは、従姉妹の姉が私をかわいがってくれて、夏休みは楽しく過ごせた。
近所の女の子とよく花いちもんめをしたのを憶えている。
また、一人で裏山に蝉を捕りに出かけたり、海へ行ってカブトガニを捕ったりして遊んだ。
毎朝ラジオ体操も一緒にした。
子供会からのバス旅行で、宝塚や姫路の遊園地まで行ったりして、殆ど鳥撫の子供と変わらなかった。
楽しかったので、家に帰りたくないと電話で母親に言って、「もう帰ってこんでええ」と突き放され、当時、高校生の叔母といやいや帰った記憶もある。
とにかく預けられなくなっても、小学生の頃は盆と正月には、長く鳥撫の本家にいるのが当たり前であった。
今の鷏和は様変わりしてしまった。
元の本家は崖崩れで壊れて、別の所に移築した。
当時、二階の窓から、鉄橋を電車が渡っていくのを眺めるのが楽しみだったのを思い出す。
私のふるさとの原形は鳥撫だが、もうそこには無い。
けれど、今の上郡にはそのころの鳥撫に似たような風景が、それなりに残っている。
海がないのが残念だが、小野豆の山に登れば何とか見える。
故郷は遠くにありて思うものと言うべきか・・・
とにかく、今回の夏の法事は、遠い昔の幼き日の鳥撫の記憶を甦らせてくれた。
2019年8月4日日曜日
夏の散歩は早朝に
以前、私は夏はたいてい5時半頃には起きて、散歩やジョギングをしていた。
ところが定時制の仕事の都合で、起きるのが7時半頃という習慣になってしまっていた。
さすがに、いくら竹笠を被っていても暑くて、戻ってくると汗まみれになった。
夏休みになって、起きるのが6時になったが、朝食を食べて7時頃から散歩しても、あまり状況は変わらなかった。
朝曇りの日でも、途中から陽が差してきて、歩くのが辛くなってきた。
沙漠に住む人が、太陽の絵柄を嫌う理由がよく分かった。
クロも、何度も用水路や池に入って身体を冷やしていた。
先週の木曜から仕事の都合で、朝早く起きることになり、5時半頃の起床に変わり、食事前に散歩に行くことになった。
つまり、夏本来の従来の生活パターンに戻ったわけである。
しかも、服装も以前は農作業が直ぐ出来るように、コンプレッションの上下の長下着に作業ズボンをはいていた。
それを、上は袖なしシャツ、下は短パンツをはいた。
なんと今までの辛い散歩が嘘のように楽になった。
今までは散歩している時に人に出会うことは殆どなかったが、この時間帯はけっこう出会う。
その分、犬の散歩の人に出会うと、クロが過剰反応するので面倒と言えば面倒にはなった。
これまでの散歩が根本的に間違っていたようだ。
私は同年齢の人には、健康のために散歩をお勧めしている。
しかし、忙しい人が多く、時間があってもたいていの人は朝はゆっくり過ごしたいようだ。
先日、私よりも3歳年下の人から、足に血栓ができて腫れたり、肺の一部が詰まったりした話を聞いた。
入院して医療処置をする際に、奥さんは延命処置をするかどうか聞かれたそうだ。
その話を別の人に話すと、その人にも首に血栓があって薬を飲んでいると言うので驚いた。
血栓のあるお二人とも、普段から運動をするタイプの人ではなく、首に血栓がある人には散歩を勧めたりしていた。
そこまでになっていたら、無理な散歩は出来ないかもしれない。
命の危険がある人がけっこう身近にいることを改めて知った。
かく言う自分も糖尿病で医者から「あんた死ぬで」と言われた人間だ。
私の散歩はある意味で、延命のための運動とも言える。
しかし、そのやり方を間違えれば、命取りにもなりかねなかった。
今日(8/4)は日曜でも早起きして、山陰になる道を選んで歩いた。
長く歩いても、疲労の度合いは全く違っていた。
たかが散歩だが、夏場はよく考えて行わねばならないとつくづく思った。
ところが定時制の仕事の都合で、起きるのが7時半頃という習慣になってしまっていた。
さすがに、いくら竹笠を被っていても暑くて、戻ってくると汗まみれになった。
夏休みになって、起きるのが6時になったが、朝食を食べて7時頃から散歩しても、あまり状況は変わらなかった。
朝曇りの日でも、途中から陽が差してきて、歩くのが辛くなってきた。
沙漠に住む人が、太陽の絵柄を嫌う理由がよく分かった。
クロも、何度も用水路や池に入って身体を冷やしていた。
先週の木曜から仕事の都合で、朝早く起きることになり、5時半頃の起床に変わり、食事前に散歩に行くことになった。
つまり、夏本来の従来の生活パターンに戻ったわけである。
しかも、服装も以前は農作業が直ぐ出来るように、コンプレッションの上下の長下着に作業ズボンをはいていた。
それを、上は袖なしシャツ、下は短パンツをはいた。
なんと今までの辛い散歩が嘘のように楽になった。
今までは散歩している時に人に出会うことは殆どなかったが、この時間帯はけっこう出会う。
その分、犬の散歩の人に出会うと、クロが過剰反応するので面倒と言えば面倒にはなった。
これまでの散歩が根本的に間違っていたようだ。
私は同年齢の人には、健康のために散歩をお勧めしている。
しかし、忙しい人が多く、時間があってもたいていの人は朝はゆっくり過ごしたいようだ。
先日、私よりも3歳年下の人から、足に血栓ができて腫れたり、肺の一部が詰まったりした話を聞いた。
入院して医療処置をする際に、奥さんは延命処置をするかどうか聞かれたそうだ。
その話を別の人に話すと、その人にも首に血栓があって薬を飲んでいると言うので驚いた。
血栓のあるお二人とも、普段から運動をするタイプの人ではなく、首に血栓がある人には散歩を勧めたりしていた。
そこまでになっていたら、無理な散歩は出来ないかもしれない。
命の危険がある人がけっこう身近にいることを改めて知った。
かく言う自分も糖尿病で医者から「あんた死ぬで」と言われた人間だ。
私の散歩はある意味で、延命のための運動とも言える。
しかし、そのやり方を間違えれば、命取りにもなりかねなかった。
今日(8/4)は日曜でも早起きして、山陰になる道を選んで歩いた。
長く歩いても、疲労の度合いは全く違っていた。
たかが散歩だが、夏場はよく考えて行わねばならないとつくづく思った。
2019年8月1日木曜日
小豆島の見えた窓
私の書斎は二階にある。
書斎と言っても、元は夫婦の寝室で、娘の部屋が殆ど使われなくなったので、そちらに寝室が換わっただけである。
だから、雑然とした部屋で、研究を続けていただけの話だ。
ところが、夏になると西の部屋なので非常に暑い、エアコンもつけているが、使うのがもったいない。
そこで、夏場は下の座敷に避難する。
この一階の座敷は、娘が帰ってきた時とか、母親が来た時に用いている。
普段は息子がテレビを見る時に使う程度である。
ここは夏場でもけっこう涼しい。
簡易テーブルを持ち込んで、ここで仕事をしている。
そんな時ふと、赤穂の実家の座敷や、自分の部屋を思い出した。
実家の座敷は祖父が庭師だったので、良い庭が拵えてあった。
大学生になり、二階の南の部屋は弟に譲ったので、戻ってくると座敷を使うことになっていた。
そこで、私は大学院を受験するための勉強をした。
大学受験は二階の自分たちの部屋でしたのだが、そこは弟と共同だった。
二階の窓は南に向いていて、そこからは小豆島が見えた。
そのころは、周りには家は殆ど建っていなくて、周りは田んぼだった。
二階の窓からは遠く小豆島が見えた。
この小豆島には、浪人をしている時に、弟やいとこ、弟の友達とこっそりキャンプに出かけた想い出の島でもある。
今の家の座敷からは、隣の家の壁と庭に置いてある軽トラックしか見えない。
考えてみれば、赤穂の実家は贅沢な家だったのだと思う。
そこで、勉強よりもギターを弾いたり、歌うことが多かったのだが、それなりのお膳立てがあったのだ。
今は荒れてしまった庭になり、二階からは小豆島も見えない。
私たち兄弟を育ててくれた実家は、母の静かに暮らす場所になっている。
いずれ、私の今住んでいる家もそうなるのだろう。
書斎と言っても、元は夫婦の寝室で、娘の部屋が殆ど使われなくなったので、そちらに寝室が換わっただけである。
だから、雑然とした部屋で、研究を続けていただけの話だ。
ところが、夏になると西の部屋なので非常に暑い、エアコンもつけているが、使うのがもったいない。
そこで、夏場は下の座敷に避難する。
この一階の座敷は、娘が帰ってきた時とか、母親が来た時に用いている。
普段は息子がテレビを見る時に使う程度である。
ここは夏場でもけっこう涼しい。
簡易テーブルを持ち込んで、ここで仕事をしている。
そんな時ふと、赤穂の実家の座敷や、自分の部屋を思い出した。
実家の座敷は祖父が庭師だったので、良い庭が拵えてあった。
大学生になり、二階の南の部屋は弟に譲ったので、戻ってくると座敷を使うことになっていた。
そこで、私は大学院を受験するための勉強をした。
大学受験は二階の自分たちの部屋でしたのだが、そこは弟と共同だった。
二階の窓は南に向いていて、そこからは小豆島が見えた。
そのころは、周りには家は殆ど建っていなくて、周りは田んぼだった。
二階の窓からは遠く小豆島が見えた。
この小豆島には、浪人をしている時に、弟やいとこ、弟の友達とこっそりキャンプに出かけた想い出の島でもある。
今の家の座敷からは、隣の家の壁と庭に置いてある軽トラックしか見えない。
考えてみれば、赤穂の実家は贅沢な家だったのだと思う。
そこで、勉強よりもギターを弾いたり、歌うことが多かったのだが、それなりのお膳立てがあったのだ。
今は荒れてしまった庭になり、二階からは小豆島も見えない。
私たち兄弟を育ててくれた実家は、母の静かに暮らす場所になっている。
いずれ、私の今住んでいる家もそうなるのだろう。
2019年7月28日日曜日
日曜は散歩と博物館で気分転換
今日の朝の散歩は、日曜日ということで、いつもと違うコースを歩いた。
実は、クロと散歩するようになるまでは、家から南に向かう平坦なコースがいつもの散歩コースだった。
このコースは山際や田んぼの中の道を歩いて、千種川の土手あたりまで行くコースで、途中に高田小学校もある。
高田地区の中心部であるので、けっこう近隣の人も散歩やジョギング、サイクリングを楽しんでいた。
クロはそういう人や他の犬に過剰に反応するので、そのコースは避けるようになったのである。
日曜日は気分的に余裕があるので、昔からのそのコースを散歩した。
このコースを歩くと、子供と一緒に散歩したことや、ジョギングをしていたことのことを思い出す。
30年ほどの記憶が風景と共に刻まれている。
自分の育った赤穂の自宅付近は、どんどん風景が変わってしまい、昔の記憶を思い出させるものは少なくなった。
しかし、今住んでいる上郡の自宅付近はあまり変わっていない。
そのあまり変わらない風景の中で、歳がいって変わっていっているのは自分である。
そして、よく出会った年配の方とも会わなくなった。
また、散歩に連れている犬もクロで三代目である。
子供と歩いたことよりも、犬と歩いたことが当然多い。
一代目のモモ、二代目のトラとの散歩のことも思い出す。
クロは今までの犬と大きく違うのは、溝や川に飛び込むことである。
今日も用水路で泳いだ。
普段と違う散歩をして戻ると、同じくらいの時間を歩きながら、いつもより長く感じ、違う気分にもなった。
散歩の後はいつもの農作業をして汗をいっぱいかき、早めの昼食を摂った。
午後から少し昼寝をして、考古博物館に家内と出かけることにした。
雷の音が遠くで鳴って、いつ降り出してもおかしくはなかった。
播磨町にある県立考古博物館では、「壱岐の古代文化」の特別展をしている。
博物館近くは晴れ渡っていて暑く、車を駐車場に停めて足早に館内に逃げ込んだ。
展示の規模が小さいので、伝わってくるその時代の様子も少ない。
何より、子供にも分かりやすくするために、マンガ風に説明の絵を描いているのだが、それが却って古代のロマンを打ち消していた。
これからの展示は親しみやすさの方が優先されるのだろう。
私にとって一番役に立ったのは、石器の展示だった。
最近文献を読み込んで、やっと石器や土器の種類などが、区別できるようになってきた。
ただ、文献での写真や図では、その大きさなどがイメージしずらかった。
どうしても、石器は大きく、土器は小さくイメージされるのだが、実物はそうではなかった。
また、ナウマン象の狩猟の再現した旧石器人の手に持つ槍には石器が付いていないのが前回来た時から気になっていた。
現実に象を狩猟する時は、木の槍の先を尖らせるだけで十分だったのだろう。
それなら旧石器時代の遺跡でも、石器が見つからなくても納得がいく。
最後に家内と壱岐の観光案内のビデオをロビーで見たが、壱岐の魅力が伝わってきた。
自分の関心はどうしても南西諸島に向いているのだが、壱岐や対馬にも行ってみたいように思えた。
ビデオを見て、少しは壱岐に行ったような気分にもなれて良かった。
前回は渋滞を避けて迂回したため時間が非常にかかったが、今回は太子・姫路バイパスと明姫幹線を使って、行きも帰りも一時間足らず済んだ。
駐車料金も200円であるし、割引入館料も二人で300円であった。
図書の利用だけなら、入館料も要らないようだし、夏の暑い時にはもってこいの場所かも知れない。
実は、クロと散歩するようになるまでは、家から南に向かう平坦なコースがいつもの散歩コースだった。
このコースは山際や田んぼの中の道を歩いて、千種川の土手あたりまで行くコースで、途中に高田小学校もある。
高田地区の中心部であるので、けっこう近隣の人も散歩やジョギング、サイクリングを楽しんでいた。
クロはそういう人や他の犬に過剰に反応するので、そのコースは避けるようになったのである。
日曜日は気分的に余裕があるので、昔からのそのコースを散歩した。
このコースを歩くと、子供と一緒に散歩したことや、ジョギングをしていたことのことを思い出す。
30年ほどの記憶が風景と共に刻まれている。
自分の育った赤穂の自宅付近は、どんどん風景が変わってしまい、昔の記憶を思い出させるものは少なくなった。
しかし、今住んでいる上郡の自宅付近はあまり変わっていない。
そのあまり変わらない風景の中で、歳がいって変わっていっているのは自分である。
そして、よく出会った年配の方とも会わなくなった。
また、散歩に連れている犬もクロで三代目である。
子供と歩いたことよりも、犬と歩いたことが当然多い。
一代目のモモ、二代目のトラとの散歩のことも思い出す。
クロは今までの犬と大きく違うのは、溝や川に飛び込むことである。
今日も用水路で泳いだ。
普段と違う散歩をして戻ると、同じくらいの時間を歩きながら、いつもより長く感じ、違う気分にもなった。
散歩の後はいつもの農作業をして汗をいっぱいかき、早めの昼食を摂った。
午後から少し昼寝をして、考古博物館に家内と出かけることにした。
雷の音が遠くで鳴って、いつ降り出してもおかしくはなかった。
播磨町にある県立考古博物館では、「壱岐の古代文化」の特別展をしている。
博物館近くは晴れ渡っていて暑く、車を駐車場に停めて足早に館内に逃げ込んだ。
展示の規模が小さいので、伝わってくるその時代の様子も少ない。
何より、子供にも分かりやすくするために、マンガ風に説明の絵を描いているのだが、それが却って古代のロマンを打ち消していた。
これからの展示は親しみやすさの方が優先されるのだろう。
私にとって一番役に立ったのは、石器の展示だった。
最近文献を読み込んで、やっと石器や土器の種類などが、区別できるようになってきた。
ただ、文献での写真や図では、その大きさなどがイメージしずらかった。
どうしても、石器は大きく、土器は小さくイメージされるのだが、実物はそうではなかった。
また、ナウマン象の狩猟の再現した旧石器人の手に持つ槍には石器が付いていないのが前回来た時から気になっていた。
現実に象を狩猟する時は、木の槍の先を尖らせるだけで十分だったのだろう。
それなら旧石器時代の遺跡でも、石器が見つからなくても納得がいく。
最後に家内と壱岐の観光案内のビデオをロビーで見たが、壱岐の魅力が伝わってきた。
自分の関心はどうしても南西諸島に向いているのだが、壱岐や対馬にも行ってみたいように思えた。
ビデオを見て、少しは壱岐に行ったような気分にもなれて良かった。
前回は渋滞を避けて迂回したため時間が非常にかかったが、今回は太子・姫路バイパスと明姫幹線を使って、行きも帰りも一時間足らず済んだ。
駐車料金も200円であるし、割引入館料も二人で300円であった。
図書の利用だけなら、入館料も要らないようだし、夏の暑い時にはもってこいの場所かも知れない。
2019年7月27日土曜日
いつの間にか
以前、高校の同窓会で、容貌が変わってしまった同級生に驚いた話を書いた。
今回は、教師として同期採用となった仲間のKさんの変貌について書く。
たまたま、出張で同じ会場で出会った。
彼とは初任校の特別支援学校(当時は養護学校)で一緒となり、それ以来のお付き合いだ。
といっても、最近は毎年年賀状で状況を報告する程度であった。
彼の結婚式は私が司会を務め、奥さんも元同僚でよく知っていた。
その日、昼下がりの暑い中を会場まで歩いていた。
すると、年配の人が私を追い越していった。
会場に向かう人には、若い人も多くいたが、皆暑くてゆっくりと歩いていた。
私はきっと普段から身体を鍛えていて、歩くのも速い人だろうと、その人の後を追うように歩いた。
会場の玄関で、その人は手間取っていたので、結局部屋に向かう階段で一緒になった。
同じ部屋に行くことが分かったので、階段を登りながら話をした。
そして、部屋の前の受付の名簿チェックを入れている時に、その人は「あっ」と声を上げた。
何かとその人をよくよく見ると、Kさんではないか・・・
私たちはさっきまで、初対面の者同士として話をしていたのだ。
それが、30年以上の知り合いのKさんであったのだ。
彼とは10年以上も会っていなかったので、互いに顔も声を変化していて気づかなかった。
その後は、色々と情報交換をした。
受付で名前を確認しなかったら、おそらく最後まで気がつかなかっただろう。
その日は、以前勤めていた職場の知り合いが多くいて、挨拶をした。
やはり、若い人は直ぐに分かった。
私たちの年齢になると、容貌が大きく変化して、わかりづらくなる。
それは男性女性とも同じである。
完全に退職してしまえば、一緒に働いた職場の仲間とは会う機会は無いだろう。
そして、たとえ町で出会ったとしても、気がつかなくなってしまう。
ひょっとしたら、この出張の機会が、そういう仲間と会う最後のチャンスだったのかと思えた。
そして、先輩達も同じ気持ちで、いつの間にか消え去っていったのだなと感じ入った。
今回は、教師として同期採用となった仲間のKさんの変貌について書く。
たまたま、出張で同じ会場で出会った。
彼とは初任校の特別支援学校(当時は養護学校)で一緒となり、それ以来のお付き合いだ。
といっても、最近は毎年年賀状で状況を報告する程度であった。
彼の結婚式は私が司会を務め、奥さんも元同僚でよく知っていた。
その日、昼下がりの暑い中を会場まで歩いていた。
すると、年配の人が私を追い越していった。
会場に向かう人には、若い人も多くいたが、皆暑くてゆっくりと歩いていた。
私はきっと普段から身体を鍛えていて、歩くのも速い人だろうと、その人の後を追うように歩いた。
会場の玄関で、その人は手間取っていたので、結局部屋に向かう階段で一緒になった。
同じ部屋に行くことが分かったので、階段を登りながら話をした。
そして、部屋の前の受付の名簿チェックを入れている時に、その人は「あっ」と声を上げた。
何かとその人をよくよく見ると、Kさんではないか・・・
私たちはさっきまで、初対面の者同士として話をしていたのだ。
それが、30年以上の知り合いのKさんであったのだ。
彼とは10年以上も会っていなかったので、互いに顔も声を変化していて気づかなかった。
その後は、色々と情報交換をした。
受付で名前を確認しなかったら、おそらく最後まで気がつかなかっただろう。
その日は、以前勤めていた職場の知り合いが多くいて、挨拶をした。
やはり、若い人は直ぐに分かった。
私たちの年齢になると、容貌が大きく変化して、わかりづらくなる。
それは男性女性とも同じである。
完全に退職してしまえば、一緒に働いた職場の仲間とは会う機会は無いだろう。
そして、たとえ町で出会ったとしても、気がつかなくなってしまう。
ひょっとしたら、この出張の機会が、そういう仲間と会う最後のチャンスだったのかと思えた。
そして、先輩達も同じ気持ちで、いつの間にか消え去っていったのだなと感じ入った。
2019年7月25日木曜日
蓮の花2019
今年も蓮の花が咲く季節がやってきた。
一年中ほぼ同じコースを毎日クロと散歩する私にとって、散歩するのを楽しみに出来る季節の一つでもある。
私はつい最近までは、朝の8時頃から9時半頃まで散歩していたが、勤務の関係で7時からすることになった。
近所の人は、早々と早朝から散歩を済ませているので、7時といえど会うことは殆どない。
会うのは田んぼの畦の草刈りをしている人や、通勤で自転車に乗っている人くらいだ。
7時は既に蒸し暑くなっており、しばらく歩くと汗が出てくる。
つい先日も、出かける時は曇り空だったので、竹笠を被らずに出かけたら、途中で陽が照りだして大汗をかいた。
8時頃になると、晴れ間が出てくるのが夏の天気であることを忘れていた。
近所には蓮の花が咲く池が幾つかあるが、私が通るコースの池でお気に入りは車も殆ど通らない農道のそばにある。
以前は一番大きい池にいっぱい咲いて壮観な景色を見せてくれていたのだが、その池の蓮はどういうわけか殆どなくなってしまった。
お気に入りの池も、以前より数を減らしてしまい、何とか頑張って咲いている感じだ。
一番良く咲いている池は、村の管理している池で、レンコンを掘ったり、蓮の実をとったりしたが、車が通る道のそばにある。
だから、その池の蓮の花は、職場に出かける時に、車から眺めている。
散歩の時に眺める蓮の花は特別に良い。
心を和ませてくれるからだ。
蓮の花は大きく開いてしまうと、中の雄しべや雌しべがむき出しになってしまう。
だから、開きはじめや、蕾の方が美しく思える。
わざわざ遠くまで見に行かずとも、散歩のついでに見ることの出来る蓮の花。
いつまでも変わらすに毎年咲いて欲しいと思っている。
心配なのは、ヌートリアなどが新芽を食べていることだ。
このごろ、池にはヌートリアが多く生息している。
池の底の土質も気にかかるところである。
蓮は自然そのものではなく、人が管理してあげねばならないものらしい。
一年中ほぼ同じコースを毎日クロと散歩する私にとって、散歩するのを楽しみに出来る季節の一つでもある。
私はつい最近までは、朝の8時頃から9時半頃まで散歩していたが、勤務の関係で7時からすることになった。
近所の人は、早々と早朝から散歩を済ませているので、7時といえど会うことは殆どない。
会うのは田んぼの畦の草刈りをしている人や、通勤で自転車に乗っている人くらいだ。
7時は既に蒸し暑くなっており、しばらく歩くと汗が出てくる。
つい先日も、出かける時は曇り空だったので、竹笠を被らずに出かけたら、途中で陽が照りだして大汗をかいた。
8時頃になると、晴れ間が出てくるのが夏の天気であることを忘れていた。
近所には蓮の花が咲く池が幾つかあるが、私が通るコースの池でお気に入りは車も殆ど通らない農道のそばにある。
以前は一番大きい池にいっぱい咲いて壮観な景色を見せてくれていたのだが、その池の蓮はどういうわけか殆どなくなってしまった。
お気に入りの池も、以前より数を減らしてしまい、何とか頑張って咲いている感じだ。
一番良く咲いている池は、村の管理している池で、レンコンを掘ったり、蓮の実をとったりしたが、車が通る道のそばにある。
だから、その池の蓮の花は、職場に出かける時に、車から眺めている。
散歩の時に眺める蓮の花は特別に良い。
心を和ませてくれるからだ。
蓮の花は大きく開いてしまうと、中の雄しべや雌しべがむき出しになってしまう。
だから、開きはじめや、蕾の方が美しく思える。
わざわざ遠くまで見に行かずとも、散歩のついでに見ることの出来る蓮の花。
いつまでも変わらすに毎年咲いて欲しいと思っている。
心配なのは、ヌートリアなどが新芽を食べていることだ。
このごろ、池にはヌートリアが多く生息している。
池の底の土質も気にかかるところである。
蓮は自然そのものではなく、人が管理してあげねばならないものらしい。
2019年7月23日火曜日
気分転換の図書館
朝から村作業で、公園の草刈りをし、その後庭の草も少し刈った。
その後、昼過ぎまで、ゆっくりしていたが、午後からは家にこもるのも、気が滅入る感じがした。
天気が良ければ、少し遠くまでドライブというところだが、長引く曇り空でそういう気分にもなれない。
そこで、家内を誘って赤穂の図書館に行くことにした。
図書館には多くの人たちが来ており、どの席も埋まっていた。
閲覧の机にも問題集をもってきて、勉強している生徒もいた。
私は本を借りる目的で来たのではなく、雑誌を読むつもりで来ていた。
まずは、農業関連の雑誌を読んで、畑の作物作りの勉強をする。
「やさい畑」では、にんじんを新聞紙の筒で苗作りをするのが目にとまった。
そして、いつもの健康雑誌、たいていいつも図書館で見るのがこれである。
今回は「ためしてガッテン」の蒟蒻の美味しい食べ方が面白い。
いつも、蒟蒻ゼリーを買っているので、この方法を使えば節約できるように思えた。
何気なく、ニュートンを見ると、睡眠が特集してある。
科学雑誌のニュートンは専門過ぎて分からないことも多いが、今回の睡眠は何とか理解できた。
日本人は世界的にも睡眠不足だそうだが、私自身睡眠に関しては、いつも気にかかっている。
私は、熟睡してしっかりと眠るというのが少ない。
途切れ途切れで、しかも眠りが浅く、夢もよく見る。
夢が起きたときの気分を左右していることが多い。
雑誌に夢中になっていると、家内が「ずいぶん探した」と言って来た。
家内は家で読む本を探していたのだ。
私は読む本は専門書が多いので、たいていは県立図書館の本を利用している。
家内は図書館にあった、県立考古博物館のパンフレットを見つけた。
今度壱岐島を特集しているので行ってみたいと思っている。
夏の暑い時は、ショッピングモールでゆっくり過ごすのも良いが、図書館や博物館で好きな本や展示を見て過ごすのも良い。
家にこもっていると、天気が悪いと気分がさえないのが、ちょっと出かけるだけでも気分転換になる。
そういう場所がもっと身近に合ってくれればと思う。
その後、昼過ぎまで、ゆっくりしていたが、午後からは家にこもるのも、気が滅入る感じがした。
天気が良ければ、少し遠くまでドライブというところだが、長引く曇り空でそういう気分にもなれない。
そこで、家内を誘って赤穂の図書館に行くことにした。
図書館には多くの人たちが来ており、どの席も埋まっていた。
閲覧の机にも問題集をもってきて、勉強している生徒もいた。
私は本を借りる目的で来たのではなく、雑誌を読むつもりで来ていた。
まずは、農業関連の雑誌を読んで、畑の作物作りの勉強をする。
「やさい畑」では、にんじんを新聞紙の筒で苗作りをするのが目にとまった。
そして、いつもの健康雑誌、たいていいつも図書館で見るのがこれである。
今回は「ためしてガッテン」の蒟蒻の美味しい食べ方が面白い。
いつも、蒟蒻ゼリーを買っているので、この方法を使えば節約できるように思えた。
何気なく、ニュートンを見ると、睡眠が特集してある。
科学雑誌のニュートンは専門過ぎて分からないことも多いが、今回の睡眠は何とか理解できた。
日本人は世界的にも睡眠不足だそうだが、私自身睡眠に関しては、いつも気にかかっている。
私は、熟睡してしっかりと眠るというのが少ない。
途切れ途切れで、しかも眠りが浅く、夢もよく見る。
夢が起きたときの気分を左右していることが多い。
雑誌に夢中になっていると、家内が「ずいぶん探した」と言って来た。
家内は家で読む本を探していたのだ。
私は読む本は専門書が多いので、たいていは県立図書館の本を利用している。
家内は図書館にあった、県立考古博物館のパンフレットを見つけた。
今度壱岐島を特集しているので行ってみたいと思っている。
夏の暑い時は、ショッピングモールでゆっくり過ごすのも良いが、図書館や博物館で好きな本や展示を見て過ごすのも良い。
家にこもっていると、天気が悪いと気分がさえないのが、ちょっと出かけるだけでも気分転換になる。
そういう場所がもっと身近に合ってくれればと思う。
2019年7月15日月曜日
ちょっと淡河までそば食べに
以前は猪名川町の道の駅まで十割そばを食べに出かけていた。
もう少し近くで十割そばを食べさせてくれる道の駅を探していた。
家内が淡河の道の駅に、十割そばを出しているというのをネットで調べてくれた。
今日(7/15)は昨日までの天気と違って、青空がのぞいている。
久しぶりにクロの散歩の途中で、岡山空港に着陸する低空の飛行機を見ることが出来た。
散歩後は、野菜の採り入れと、伸びに伸びた草抜きである。
特に大豆の間には、大豆と同じくらいの背丈になった草が生い茂っている。
汗まみれになってシャワーを浴びて、出かける準備をした。
ルートはまず姫路バイパスを通って、加古川小野線の新しい自動車道を使うことにした。
初めて走った自動車道の景色は良かったが、途中までしか開通しておらず、八幡稲美からは田んぼの中の道を通っていった。
今回はあまり自信が無いので、行きは私が運転して家内のスマホにナビを任せた。
三木まで来ると、三木近辺は何度も来ているのでなじみはあった。
三木からはそれほど時間もかからずに到着できたが、道の駅の入り口を一度通り越して引っ返した。
道の駅の駐車場は広くなく、新しい道の駅が建設中で、そのあたりのスペースも使えなかった。
何とか車を停車させて、食堂でざるそば定食の食券を買って並んだ。
昼の12時半過ぎということもあって、お客さんも多いのだが、食堂も狭い。
並んでいるお客さんはお年寄りや若い家族連れ、自転車やバイクのツーリングの人まで様々だった。
食堂で働いている人は、見た感じご高齢の女性ばかりで、若い人は一人もいなかった。
食券を買って並んで、やっと注文の番号札をもらって席に着いた。
しばらくして番号を呼ばれたので、カウンターまで取りに行った。
そばの麺はしっかりしていて美味しかったが、つけ汁が少し甘く感じた。
炊き込みご飯も薄味で優しい味がした。
天ぷらはエビ以外は地元の野菜と言うことで、食感が新鮮な感じがした。
人が多く並んで待っているので、ゆっくりとすることも出来ず、当然そば湯を頼める状態ではなく、自分たちで返却台まで持って行った。
そのところが、待つ時間が非常に長くても、ゆっくりと食べられた猪名川の道の駅とは違うところだ。
どうもこの道の駅は地域おこしとして始めたようだが、人気が出て拡張しているらしい。
食事後に立ち寄った販売所では、品数も少なく、買いたいと思うものは無かった。
本来はちょっと立ち寄れる田舎の十割そばという道の駅だったのだろうが、土日に多くの客が来るようになって対応がおぼつかなくなった感じだ。
平日に来ればゆっくりと食事を楽しめるのかも知れない。
帰りは行きが南から上ってきたので、北回りで帰ることにしていた。
ルートは何とかなるだろうと、ナビも使わずに車を走らせた。
結局ゴルフ場の間の道を使いながら、社町の県の教育研修所の近くに出てきた。
社町の兵庫教育大学に2年間通ったのだが、今日通った道は初めてであった。
三木、小野、加東のあたりは山も低くて、風景も西播とは大きく違う。
今回も家内は立ち並ぶ家が大きいのに感心していたが、経済的に豊かさを感じさせてくれる。
大きな都市への通勤圏内として、兼業農家でも上手くやって行けているのかなとも思える。
途中福崎のJAの直売所に立ち寄り、そこで運転も家内と交代して帰った。
朝の11時頃に出て、戻ったのが16時半くらいになった。
そばを食べるためにわざわざそこまでしなくてもと人に言われそうだと思いつつ。
そもそもドライブがそばのための心のおかずでもあると言いたい。
美味しいそばなら近所にでもあるのだが、普段とは違う場で味わうのが楽しいのである。
そして、ドライブは家とは違う話が出てくる。
今日も、ライオン工場の前を通った時に、子供が小学生の頃、工場見学に行って歯ブラシをもらってきた時の話を家内から初めて聞いた。
同級生は妹の分までもらってきたのに、息子は妹の分をもらわなかった話である。
そういう話は、きっかけがないと思い出さない。
また、車中で聴いていたFMラジオでは、「今日は一日メガヒット三昧」がかかっていた。
私も家内も知った曲がかかると口ずさんで楽しんだ。
昔の曲はその時のことを思い出して話題になるし、ドライブで今見ている風景とも重なって記憶に残る。
要するに十割そばを食べに行くことは、過去の想い出と今の新しい想い出の道筋をつけるためにドライブをする言い訳にしか過ぎないようだ。
もう少し近くで十割そばを食べさせてくれる道の駅を探していた。
家内が淡河の道の駅に、十割そばを出しているというのをネットで調べてくれた。
今日(7/15)は昨日までの天気と違って、青空がのぞいている。
久しぶりにクロの散歩の途中で、岡山空港に着陸する低空の飛行機を見ることが出来た。
散歩後は、野菜の採り入れと、伸びに伸びた草抜きである。
特に大豆の間には、大豆と同じくらいの背丈になった草が生い茂っている。
汗まみれになってシャワーを浴びて、出かける準備をした。
ルートはまず姫路バイパスを通って、加古川小野線の新しい自動車道を使うことにした。
初めて走った自動車道の景色は良かったが、途中までしか開通しておらず、八幡稲美からは田んぼの中の道を通っていった。
今回はあまり自信が無いので、行きは私が運転して家内のスマホにナビを任せた。
三木まで来ると、三木近辺は何度も来ているのでなじみはあった。
三木からはそれほど時間もかからずに到着できたが、道の駅の入り口を一度通り越して引っ返した。
道の駅の駐車場は広くなく、新しい道の駅が建設中で、そのあたりのスペースも使えなかった。
何とか車を停車させて、食堂でざるそば定食の食券を買って並んだ。
昼の12時半過ぎということもあって、お客さんも多いのだが、食堂も狭い。
並んでいるお客さんはお年寄りや若い家族連れ、自転車やバイクのツーリングの人まで様々だった。
食堂で働いている人は、見た感じご高齢の女性ばかりで、若い人は一人もいなかった。
食券を買って並んで、やっと注文の番号札をもらって席に着いた。
しばらくして番号を呼ばれたので、カウンターまで取りに行った。
そばの麺はしっかりしていて美味しかったが、つけ汁が少し甘く感じた。
炊き込みご飯も薄味で優しい味がした。
天ぷらはエビ以外は地元の野菜と言うことで、食感が新鮮な感じがした。
人が多く並んで待っているので、ゆっくりとすることも出来ず、当然そば湯を頼める状態ではなく、自分たちで返却台まで持って行った。
そのところが、待つ時間が非常に長くても、ゆっくりと食べられた猪名川の道の駅とは違うところだ。
どうもこの道の駅は地域おこしとして始めたようだが、人気が出て拡張しているらしい。
食事後に立ち寄った販売所では、品数も少なく、買いたいと思うものは無かった。
本来はちょっと立ち寄れる田舎の十割そばという道の駅だったのだろうが、土日に多くの客が来るようになって対応がおぼつかなくなった感じだ。
平日に来ればゆっくりと食事を楽しめるのかも知れない。
帰りは行きが南から上ってきたので、北回りで帰ることにしていた。
ルートは何とかなるだろうと、ナビも使わずに車を走らせた。
結局ゴルフ場の間の道を使いながら、社町の県の教育研修所の近くに出てきた。
社町の兵庫教育大学に2年間通ったのだが、今日通った道は初めてであった。
三木、小野、加東のあたりは山も低くて、風景も西播とは大きく違う。
今回も家内は立ち並ぶ家が大きいのに感心していたが、経済的に豊かさを感じさせてくれる。
大きな都市への通勤圏内として、兼業農家でも上手くやって行けているのかなとも思える。
途中福崎のJAの直売所に立ち寄り、そこで運転も家内と交代して帰った。
朝の11時頃に出て、戻ったのが16時半くらいになった。
そばを食べるためにわざわざそこまでしなくてもと人に言われそうだと思いつつ。
そもそもドライブがそばのための心のおかずでもあると言いたい。
美味しいそばなら近所にでもあるのだが、普段とは違う場で味わうのが楽しいのである。
そして、ドライブは家とは違う話が出てくる。
今日も、ライオン工場の前を通った時に、子供が小学生の頃、工場見学に行って歯ブラシをもらってきた時の話を家内から初めて聞いた。
同級生は妹の分までもらってきたのに、息子は妹の分をもらわなかった話である。
そういう話は、きっかけがないと思い出さない。
また、車中で聴いていたFMラジオでは、「今日は一日メガヒット三昧」がかかっていた。
私も家内も知った曲がかかると口ずさんで楽しんだ。
昔の曲はその時のことを思い出して話題になるし、ドライブで今見ている風景とも重なって記憶に残る。
要するに十割そばを食べに行くことは、過去の想い出と今の新しい想い出の道筋をつけるためにドライブをする言い訳にしか過ぎないようだ。
2019年7月8日月曜日
マリンピア神戸までのドライブ
今日(7/7)は梅雨の晴れ間で、朝から天気が良く、クロの散歩の後は畑の草取りをした。
思い切り汗をかいて、シャワーを浴び、早めの昼食をとった。
昨日は家内と姫路に買い物に行っていたのだが、垂水にあるアウトレットが話に出たので午後からは行くつもりでいた。
行きは明姫幹線を使ったが、思ったより信号待ちに時間がかかったし、明石駅付近では渋滞にあった。
実は、明石は臨時講師で尼崎小田高校に勤めていた時に、少しだけ住んだことがある。
港近くで窓から海の見える安アパートだった。
明石を過ぎると、海沿いの道があるのだが、家内とこの道をドライブするのは婚約時代以来である。
その時は、須磨海岸までドライブしたのだが、私が殆ど運転していたこともあり、家内はここを通ったことさえ憶えていない。
だいたい、家内は運転していても、景色は殆ど憶えておらず、通ったことさえ忘れてしまうことが多い。
今回も行きは家内の運転だったが、おそらくどのような道を通ったか直ぐ忘れるだろう。
明石や垂水は海がそばにあるので、方向を失うことは殆どなく、自分にはなじみのあるところなので、迷うことはなかった。
垂水までの海沿いにある国道2号はJRや山陽電鉄と並行して走っているが、ここが一番渋滞した。
その山陽電鉄に西舞子という駅がある。
私は高校時代に一番仲の良かった友達が住んでいたところである。
彼とは中学時代からバンドを組んでいて、ベースをしてくれていた。
西舞子にある彼の家には何度か泊まりに行った。
彼の家には綺麗なお姉さんが二人いて、お姉さんにお目にかかるのも楽しみだった。
遊びに行って、たいていは音楽を楽しんだり、二人で六甲山を縦走したりしたが、近くの海岸に一緒に行ったりもした。
今は明石海峡大橋が出来て、舞子付近は様変わりしてしまったが、当時は落ち着いた海岸だった。
その友達とは予備校まで一緒だったが、彼は早稲田に行き、私は落ちたので、バンド活動は終わってしまった。
もし、私が早稲田に行けていたら、一緒にバンド活動を続けていた筈で、プロになっていたかも知れないと家内に話した。
家内は素っ気なく鼻で笑った。
因みに友達は早稲田の軽音で活動したが、研究の方に転向してしまった。
結局、垂水のマリンピア神戸には家から二時間もかかって到着した。
三田のアウトレットの渋滞も酷かったが、倉敷のアウトレットは渋滞など無かった。
垂水のアウトレットは三田のアウトレットに近い感覚で行くべきだったのだ。
三田は山の景色が素晴らしかったが、垂水は海と橋が見えて、私にはこちらの方が景色的には気に入った。
ただ、三田のようにイオンタウンがないので、規模的には小さい感じだ。
展望室から見た海の景色が素晴らしいので、買い物よりゆっくり食事を楽しむのも良いように思えた。
帰りは私が運転して、第二神明と姫路バイパスを使って帰った。
同じアウトレットに行くのでも、倉敷と垂水では全然違う感じがすると家内と話した。
やはり垂水は都会の感覚だった。
倉敷は岡山もそうだが、大いなる田舎という感じだ。
というのも、お客さんの服装が垂水はよそ行きのおしゃれであるが、倉敷などは普段着の人が多いように思えた。
かく言う私ら夫婦は普段着に近かったので、おそらく場違いに見えたのだろうと思う。
今まで明石近辺にはあまり行くことが無かったが、これからはたまに来てみようかなと思えた。
できれば、休みのとれた平日の方が良さそうだった。
思い切り汗をかいて、シャワーを浴び、早めの昼食をとった。
昨日は家内と姫路に買い物に行っていたのだが、垂水にあるアウトレットが話に出たので午後からは行くつもりでいた。
行きは明姫幹線を使ったが、思ったより信号待ちに時間がかかったし、明石駅付近では渋滞にあった。
実は、明石は臨時講師で尼崎小田高校に勤めていた時に、少しだけ住んだことがある。
港近くで窓から海の見える安アパートだった。
明石を過ぎると、海沿いの道があるのだが、家内とこの道をドライブするのは婚約時代以来である。
その時は、須磨海岸までドライブしたのだが、私が殆ど運転していたこともあり、家内はここを通ったことさえ憶えていない。
だいたい、家内は運転していても、景色は殆ど憶えておらず、通ったことさえ忘れてしまうことが多い。
今回も行きは家内の運転だったが、おそらくどのような道を通ったか直ぐ忘れるだろう。
明石や垂水は海がそばにあるので、方向を失うことは殆どなく、自分にはなじみのあるところなので、迷うことはなかった。
垂水までの海沿いにある国道2号はJRや山陽電鉄と並行して走っているが、ここが一番渋滞した。
その山陽電鉄に西舞子という駅がある。
私は高校時代に一番仲の良かった友達が住んでいたところである。
彼とは中学時代からバンドを組んでいて、ベースをしてくれていた。
西舞子にある彼の家には何度か泊まりに行った。
彼の家には綺麗なお姉さんが二人いて、お姉さんにお目にかかるのも楽しみだった。
遊びに行って、たいていは音楽を楽しんだり、二人で六甲山を縦走したりしたが、近くの海岸に一緒に行ったりもした。
今は明石海峡大橋が出来て、舞子付近は様変わりしてしまったが、当時は落ち着いた海岸だった。
その友達とは予備校まで一緒だったが、彼は早稲田に行き、私は落ちたので、バンド活動は終わってしまった。
もし、私が早稲田に行けていたら、一緒にバンド活動を続けていた筈で、プロになっていたかも知れないと家内に話した。
家内は素っ気なく鼻で笑った。
因みに友達は早稲田の軽音で活動したが、研究の方に転向してしまった。
結局、垂水のマリンピア神戸には家から二時間もかかって到着した。
三田のアウトレットの渋滞も酷かったが、倉敷のアウトレットは渋滞など無かった。
垂水のアウトレットは三田のアウトレットに近い感覚で行くべきだったのだ。
三田は山の景色が素晴らしかったが、垂水は海と橋が見えて、私にはこちらの方が景色的には気に入った。
ただ、三田のようにイオンタウンがないので、規模的には小さい感じだ。
展望室から見た海の景色が素晴らしいので、買い物よりゆっくり食事を楽しむのも良いように思えた。
帰りは私が運転して、第二神明と姫路バイパスを使って帰った。
同じアウトレットに行くのでも、倉敷と垂水では全然違う感じがすると家内と話した。
やはり垂水は都会の感覚だった。
倉敷は岡山もそうだが、大いなる田舎という感じだ。
というのも、お客さんの服装が垂水はよそ行きのおしゃれであるが、倉敷などは普段着の人が多いように思えた。
かく言う私ら夫婦は普段着に近かったので、おそらく場違いに見えたのだろうと思う。
今まで明石近辺にはあまり行くことが無かったが、これからはたまに来てみようかなと思えた。
できれば、休みのとれた平日の方が良さそうだった。
2019年7月3日水曜日
母の付き添いと読書
私の母は一人暮らしだが心臓が悪くて、毎月定期的に病院に通っている。
病院は母の住む赤穂の市民病院で、赤穂に住む弟と交代しながら付き添っている。
母は介護認定も受けており、週に三回のデイサービスと週一回の訪問介護を受けている。
少しは歩けるようになったが、歩くのも困難で、病院では車椅子を借りている。
そして、耳も遠くなっており、医師の言うことが聞き取れないのと、理解が難しいので付き添いが必要である。
今日(7/2)は、月に一度の定期的な通院だったが、途中で調子悪くなり、2度通院した。
その時も私と弟で対応した。
つまり、この二週間ほどで三度も病院に行ったことになる。
今日は上郡の自宅を8時に出て、母を迎えに行って、病院には9時前に受付を済ませた。
それから、心臓の関連の検査と、泌尿器科の検査を行って順番を待った。
泌尿器科の方は10時過ぎには、診察をしてもらえたが、循環器の方は時間通りには行かなかった。
というのも、急患の対応があったと言うことで、表示には75分遅れと書いてあった。
泌尿器科も、検査が必要と言うことで、その後検査に時間がかかったり、医師との面談もあった。
循環器の診察をしてもらえたのは、12時を過ぎており、その後、泌尿器科と再び診察があって、全て終わったのは13時半を過ぎていた。
それから、支払いを済ませ、薬局へ行き、処方された薬の仕上がりが30分後というので、母を自宅に送った。
しばらくして、薬を取りに行き母に渡し、自分の自宅に戻ったのは、15時前だった。
つまり、私は7時間ほど、母の通院に付き合ったわけになる。
途中、食事も摂ることなく、自動販売機のコーヒーを飲んだだけだった。
ただ、私はこの時間をボーと過ごしていたわけではない。
母の通院の付き添いにしても、自分の通院にしてもパソコンと文庫本は必ず持って行っている。
今回読んだのは、考古学に関する専門書であった。
パソコンで文献をOCRを使って読むと、データーを残すことが出来るので気楽なのである。
たいていは二度読んで必要な資料を作るので、最初に読む時は気軽に読んでいる。
読んでいる文庫本も対談集で分かりやすい内容のものである。
時間がかかりそうな時は、パソコンを取り出し、そうでない時は文庫本である。
今回は恐ろしく長い時間を待合所で過ごすことになったが、読書をしていたのでそれほど苦痛ではなかった。
一番苦痛だったのは、待たされた母本人だっただろうと思う。
病院に行くことが却って、体に負担を強いることになってしまった。
それにしても、病院には高齢者が多い。
多くは同じ高齢者が付き添っているが、中高年の女性の付き添いも多い。
私のような年齢の男性の付き添いは滅多にいない。
本来なら、仕事が忙しくて付き添いの出来ない年齢である。
今回、付き添いが出来たのも、定期考査中で休みが取れたからである。
やはり、気になったのは、一人では通院が無理そうな人もいたことである。
おそらく、それでも一人で通院できる人はましで、できずに我慢している人もいると思う。
数ヶ月前に亡くなった近所の人は、民生委員の人に付き添ってもらっていたが、手遅れになった。
逆に裕福そうな人は、あまり病院の待合室で見かけることは無い。
裕福な人は健康な人が多いのか、特別な扱いで通院しているのか分からない。
実は私も一度だけ、友達の医師に特別扱いで、待たずに私立の総合病院で診てもらったことがある。
裕福な人は特別な扱いで私立病院で診てもらっているのかも知れない。
裕福でない私は、病院を図書室として活用するほかはない。
図書室と違って賑やかで、感染のリスクはあるが、空調は図書質並みである。
そして、少しは親孝行もできいている。
実は、私は幼い頃は身体が弱くて、母親には通院でずいぶんと苦労をかけていた。
そのお返しが出来ていることになる。
弟も色々苦労をかけた母親への恩返しで付き添いをしていると思う。
私は読書と親孝行ができる場として、この7時間を悪く思うのはよそうと思っている。
そうでないと、次の通院が思いやられる・・・
病院は母の住む赤穂の市民病院で、赤穂に住む弟と交代しながら付き添っている。
母は介護認定も受けており、週に三回のデイサービスと週一回の訪問介護を受けている。
少しは歩けるようになったが、歩くのも困難で、病院では車椅子を借りている。
そして、耳も遠くなっており、医師の言うことが聞き取れないのと、理解が難しいので付き添いが必要である。
今日(7/2)は、月に一度の定期的な通院だったが、途中で調子悪くなり、2度通院した。
その時も私と弟で対応した。
つまり、この二週間ほどで三度も病院に行ったことになる。
今日は上郡の自宅を8時に出て、母を迎えに行って、病院には9時前に受付を済ませた。
それから、心臓の関連の検査と、泌尿器科の検査を行って順番を待った。
泌尿器科の方は10時過ぎには、診察をしてもらえたが、循環器の方は時間通りには行かなかった。
というのも、急患の対応があったと言うことで、表示には75分遅れと書いてあった。
泌尿器科も、検査が必要と言うことで、その後検査に時間がかかったり、医師との面談もあった。
循環器の診察をしてもらえたのは、12時を過ぎており、その後、泌尿器科と再び診察があって、全て終わったのは13時半を過ぎていた。
それから、支払いを済ませ、薬局へ行き、処方された薬の仕上がりが30分後というので、母を自宅に送った。
しばらくして、薬を取りに行き母に渡し、自分の自宅に戻ったのは、15時前だった。
つまり、私は7時間ほど、母の通院に付き合ったわけになる。
途中、食事も摂ることなく、自動販売機のコーヒーを飲んだだけだった。
ただ、私はこの時間をボーと過ごしていたわけではない。
母の通院の付き添いにしても、自分の通院にしてもパソコンと文庫本は必ず持って行っている。
今回読んだのは、考古学に関する専門書であった。
パソコンで文献をOCRを使って読むと、データーを残すことが出来るので気楽なのである。
たいていは二度読んで必要な資料を作るので、最初に読む時は気軽に読んでいる。
読んでいる文庫本も対談集で分かりやすい内容のものである。
時間がかかりそうな時は、パソコンを取り出し、そうでない時は文庫本である。
今回は恐ろしく長い時間を待合所で過ごすことになったが、読書をしていたのでそれほど苦痛ではなかった。
一番苦痛だったのは、待たされた母本人だっただろうと思う。
病院に行くことが却って、体に負担を強いることになってしまった。
それにしても、病院には高齢者が多い。
多くは同じ高齢者が付き添っているが、中高年の女性の付き添いも多い。
私のような年齢の男性の付き添いは滅多にいない。
本来なら、仕事が忙しくて付き添いの出来ない年齢である。
今回、付き添いが出来たのも、定期考査中で休みが取れたからである。
やはり、気になったのは、一人では通院が無理そうな人もいたことである。
おそらく、それでも一人で通院できる人はましで、できずに我慢している人もいると思う。
数ヶ月前に亡くなった近所の人は、民生委員の人に付き添ってもらっていたが、手遅れになった。
逆に裕福そうな人は、あまり病院の待合室で見かけることは無い。
裕福な人は健康な人が多いのか、特別な扱いで通院しているのか分からない。
実は私も一度だけ、友達の医師に特別扱いで、待たずに私立の総合病院で診てもらったことがある。
裕福な人は特別な扱いで私立病院で診てもらっているのかも知れない。
裕福でない私は、病院を図書室として活用するほかはない。
図書室と違って賑やかで、感染のリスクはあるが、空調は図書質並みである。
そして、少しは親孝行もできいている。
実は、私は幼い頃は身体が弱くて、母親には通院でずいぶんと苦労をかけていた。
そのお返しが出来ていることになる。
弟も色々苦労をかけた母親への恩返しで付き添いをしていると思う。
私は読書と親孝行ができる場として、この7時間を悪く思うのはよそうと思っている。
そうでないと、次の通院が思いやられる・・・
2019年7月1日月曜日
ズッキーニと真空パック
私は毎年ズッキーニを作っている。
今年も10本以上が家の裏の畑で元気に育った。
ズッキーニは受粉が大切なので、数がそこそこないと、雄花が足りなかったりする。
ミツバチもいるにはいるが、受粉を任せられるほどの数ではない。
そこで朝は、受粉と収穫を必ず行う。
葉っぱが大きいので、しっかり株と株の間隔を開けてないと、作業がしづらくなる。
上に伸びてくると、倒れてくるので、支え木を立てて補助をしてやらねばならない。
補助を怠ると、茎が折れてしまい、途中で収穫を断念せねばならない。
ズッキーニは近所の人は作っていないし、食べる習慣もないので、自分の家や親元に配るしかない。
そして、一度にたくさん採れるので、毎年どう保存するか頭を悩ませている。
今年は、筍保存の時に、湯がいた筍を乾燥させて冷凍庫に入れて、上手くいったので、最初はその方法をとった。
まずは、ズッキーニを輪切りにして、電子レンジで加熱して、それを乾燥機では37℃で乾かした。
ネットでは、50~60℃で乾燥としていたが、電気代がもったいないので、その方法をとったのだ。
生のまま低温で乾燥させると、酵素が生きているので変質すると思ったからでもある。
そして冷凍庫に保存するのも、量的に限界があるので、真空パックにすることにして、機械を買った。
本体は8000円ほどの物で、家内が選んでロールシートと一緒にネットで買った。
さっそく、冷凍庫に保存していた乾燥ズッキーニと、乾燥筍を真空パックした。
思ったより簡単にできた。
これを密封できる容器に入れて、常温で保存しておくことにした。
どれだけカビが行かずに、持つか分からないが、何事も挑戦である。
後日、生のズッキーニを58℃で乾燥させた。
2段重ねで、時間も少し多くかかったが、仕上がりも良くしっかり乾燥していた。
先に乾燥して真空パックしたものが、黒ずんできたので、やはり高温乾燥の方が適しているように思える。
今年も10本以上が家の裏の畑で元気に育った。
ズッキーニは受粉が大切なので、数がそこそこないと、雄花が足りなかったりする。
ミツバチもいるにはいるが、受粉を任せられるほどの数ではない。
そこで朝は、受粉と収穫を必ず行う。
葉っぱが大きいので、しっかり株と株の間隔を開けてないと、作業がしづらくなる。
上に伸びてくると、倒れてくるので、支え木を立てて補助をしてやらねばならない。
補助を怠ると、茎が折れてしまい、途中で収穫を断念せねばならない。
ズッキーニは近所の人は作っていないし、食べる習慣もないので、自分の家や親元に配るしかない。
そして、一度にたくさん採れるので、毎年どう保存するか頭を悩ませている。
今年は、筍保存の時に、湯がいた筍を乾燥させて冷凍庫に入れて、上手くいったので、最初はその方法をとった。
まずは、ズッキーニを輪切りにして、電子レンジで加熱して、それを乾燥機では37℃で乾かした。
ネットでは、50~60℃で乾燥としていたが、電気代がもったいないので、その方法をとったのだ。
生のまま低温で乾燥させると、酵素が生きているので変質すると思ったからでもある。
そして冷凍庫に保存するのも、量的に限界があるので、真空パックにすることにして、機械を買った。
本体は8000円ほどの物で、家内が選んでロールシートと一緒にネットで買った。
さっそく、冷凍庫に保存していた乾燥ズッキーニと、乾燥筍を真空パックした。
思ったより簡単にできた。
これを密封できる容器に入れて、常温で保存しておくことにした。
どれだけカビが行かずに、持つか分からないが、何事も挑戦である。
後日、生のズッキーニを58℃で乾燥させた。
2段重ねで、時間も少し多くかかったが、仕上がりも良くしっかり乾燥していた。
先に乾燥して真空パックしたものが、黒ずんできたので、やはり高温乾燥の方が適しているように思える。
2019年6月19日水曜日
国道29号線のドライブ2019初夏
鳥取県立博物館を出た後、どんより曇った中で、時折陽も差していた。
とりあえず、県境の駐車場に置いてある車に向かった。
実は、車のドアミラーには、蜘蛛の巣が張ってあって、蜘蛛もミラーにへばりついて鳥取までついて来ていた。
家内は、その蜘蛛をつかんで、駐車場の植え込みに放した。
つまり、上郡から鳥取に移住させたのである。
昼食は済ましたし、天気も良くないので、ゆっくりと29号線で帰ろうと思った。
鳥取自動車道は、トンネルばかりで面白くない。
道は、若桜鉄道に沿っており、途中の道の駅に立ち寄りながら帰ることにした。
まず、八頭の道の駅に立ち寄った。
このあたりは、果樹園が多いようで、柿などの栽培をしているらしい。
道の駅にも総合フルーツセンターとあったが、今は季節的はずれで、以前買った干したホタルイカやアジを買った。
そこを出た後、しばらく行くと、若桜桜ん坊という道の駅があり、そこにも立ち寄った。
鹿の肉などを売っていたが、値段が高いので買わなかった。
出入り口には鐘がぶら下がっていて、鳴らすと若返ると書いてあった。
そういえば入った時に、鐘が鳴っていたのがそうだったようだ。
鳴らすのも恥ずかしいので、そのまま出発した。
若桜を出てからは、まさしく山越えの道で、戸倉峠に向かって、何度もカーブを曲がりながら走った。
そして、長い新戸倉トンネルを抜けて、兵庫県に戻ってきた。
地名としては宍粟市だが、波賀町は滅多に来ることがないので、なじみがない。
しばらく行くと、道の駅はがに着いた。
ここは、近畿で最初の道の駅だそうだが、竹籠が売ってあった。
今使っている竹籠は、金比羅さんに行った時に買ったもので、壊れていて誤魔化しながら使っていた。
そこで、ためらわず一番大きい竹籠を2200円で買った。
以前は、姫路の商店街でも買えたのに、今は買うのに苦労してた。
ネットで買おうとすると、けっこう高額だった。
地元で作っているわけではなさそうだが、地元の人がよく使うので売っているのかも知れない。
カーブが続いて、頭がクラクラしたので、そこからは家内に運転を代わってもらった。
そこを出で、引原ダムの音水湖のほとりを走った。
ちょうど、カヌーの大会が行われた後で、滋賀県の大津からバス出来ていた。
後で聞くと、この日はカヌーの近畿大会があったという。
峠を越えてからしばらくすると、天気は朝と同じ晴れである。
瀬戸内側と日本海側の天気の違いを実感させられた。
そして、一宮まで来ると、いつも来ている伊和神社が見えてきた。
鳥取まで行くと、旅に出たという気持ちになる。
今回は、国道29号線のドライブがメインとなってしまったが、それはそれで良い気分転換になった。
ドライブレコーダーの映像も、ハードディスクに翌日移した。
次に鳥取に行く時は、また違った行程で行くことを、楽しみにしている。
とりあえず、県境の駐車場に置いてある車に向かった。
実は、車のドアミラーには、蜘蛛の巣が張ってあって、蜘蛛もミラーにへばりついて鳥取までついて来ていた。
家内は、その蜘蛛をつかんで、駐車場の植え込みに放した。
つまり、上郡から鳥取に移住させたのである。
昼食は済ましたし、天気も良くないので、ゆっくりと29号線で帰ろうと思った。
鳥取自動車道は、トンネルばかりで面白くない。
道は、若桜鉄道に沿っており、途中の道の駅に立ち寄りながら帰ることにした。
まず、八頭の道の駅に立ち寄った。
このあたりは、果樹園が多いようで、柿などの栽培をしているらしい。
道の駅にも総合フルーツセンターとあったが、今は季節的はずれで、以前買った干したホタルイカやアジを買った。
そこを出た後、しばらく行くと、若桜桜ん坊という道の駅があり、そこにも立ち寄った。
鹿の肉などを売っていたが、値段が高いので買わなかった。
出入り口には鐘がぶら下がっていて、鳴らすと若返ると書いてあった。
そういえば入った時に、鐘が鳴っていたのがそうだったようだ。
鳴らすのも恥ずかしいので、そのまま出発した。
若桜を出てからは、まさしく山越えの道で、戸倉峠に向かって、何度もカーブを曲がりながら走った。
そして、長い新戸倉トンネルを抜けて、兵庫県に戻ってきた。
地名としては宍粟市だが、波賀町は滅多に来ることがないので、なじみがない。
しばらく行くと、道の駅はがに着いた。
ここは、近畿で最初の道の駅だそうだが、竹籠が売ってあった。
今使っている竹籠は、金比羅さんに行った時に買ったもので、壊れていて誤魔化しながら使っていた。
そこで、ためらわず一番大きい竹籠を2200円で買った。
以前は、姫路の商店街でも買えたのに、今は買うのに苦労してた。
ネットで買おうとすると、けっこう高額だった。
地元で作っているわけではなさそうだが、地元の人がよく使うので売っているのかも知れない。
カーブが続いて、頭がクラクラしたので、そこからは家内に運転を代わってもらった。
そこを出で、引原ダムの音水湖のほとりを走った。
ちょうど、カヌーの大会が行われた後で、滋賀県の大津からバス出来ていた。
後で聞くと、この日はカヌーの近畿大会があったという。
峠を越えてからしばらくすると、天気は朝と同じ晴れである。
瀬戸内側と日本海側の天気の違いを実感させられた。
そして、一宮まで来ると、いつも来ている伊和神社が見えてきた。
鳥取まで行くと、旅に出たという気持ちになる。
今回は、国道29号線のドライブがメインとなってしまったが、それはそれで良い気分転換になった。
ドライブレコーダーの映像も、ハードディスクに翌日移した。
次に鳥取に行く時は、また違った行程で行くことを、楽しみにしている。
2019年6月17日月曜日
青谷上寺地おひろめ展示
一月前に、青谷上寺地の展示館に行き、こんど県立博物館でおひろめ展があることを知り、楽しみにしていた。
天気を調べると日本海側は、雲が見受けられたが、それほど酷い雨ではなさそうだった。
こちらは昨日(6/17)は警報が出るほどの大雨だったが、今日は良い天気である。
それが、鳥取道に入って、山々を望む頃には、雨がちらついてきていた。
鳥取市内では、どんよりと雲が立ちこめ、いつ降り出してもおかしくはなかった。
今回は、前回に県立博物館の前を通っているので、ナビなしに辿り着くことが出来た。
ところが、駐車場が満車で、どこに停めようかと迷って、あたりを探した。
結局、県庁が近くにあり、そこの駐車場に停めさせてもらうことにした。
実は、それが正解で、土日は県庁の駐車場に停めるようにという案内を後で見た。
近くと言っても、1km近くはあり、途中には鳥取西高校があった。
大学時代に、鳥取西高校出身で調査サークル仲間がいたので、いつも鳥取に来ると思い出していた。
これが、彼女が卒業した高校と思うと感慨深かった。
それにしても、お城のそばの立派な校舎に驚いた。
そして、しばらく歩いて行くと、城跡と仁風閣が見えてきた。
城跡は、姫路城とは違い、建物は一切残っていないが、その作りは姫路城よりも壮大に感じた。
石垣も、隙間だらけで緻密さはなかったが、実践的な城に思えた。
復元された擬宝珠橋は、本格的な木造で、趣を感じさせるものだった。
満車だというので、混んでいるかと博物館に入ると、入場者は非常に少ない。
時間も昼時だったので、午前中にはもっといたのかも知れない。
青谷上寺地おひろめ展示場には、私たち夫婦以外には係員の一人を除くと、二人ほどしかいなかった。
今回展示されたのは、発掘されたものの一部だが、木造製品が多かった。
現地の展示場の、人骨もなく、生活の息づかいがあまり感じられなかった。
しかし、弥生の人々の生活ぶりはよく分かるように展示してあり、非常に参考になった。
何よりも、石器や土器に関心が行きがちなのだが、木や骨、角を用いた作品の重要さに気がつかされた。
集落も水田だけでなく、周りの森や浜への働きかけが多いことも分かった。
それ以外の展示も足早に見て、食事をするために出ようと思った。
ところが、雨が降り出してきたので、傘を持っていない二人は、ここで食事をすることにした。
ちょうど、1時半の説明会が開催されるという時だったが、それを知っていたら、先に食事を済ませておいた。
博物館の食堂のランチは午後二時までだった。
二人とも、あじフライ定食を食べた。
それ以外は、カレーやオムライスしかなく、海鮮料理はなかった。
しかし、あじフライは地元産のあじを使っていて、美味しかった。
雨も小降りになり、博物館を出ると陽も差し始めていた。
日本海側の天気は、不安定だと思い知った。
天気を調べると日本海側は、雲が見受けられたが、それほど酷い雨ではなさそうだった。
こちらは昨日(6/17)は警報が出るほどの大雨だったが、今日は良い天気である。
それが、鳥取道に入って、山々を望む頃には、雨がちらついてきていた。
鳥取市内では、どんよりと雲が立ちこめ、いつ降り出してもおかしくはなかった。
今回は、前回に県立博物館の前を通っているので、ナビなしに辿り着くことが出来た。
ところが、駐車場が満車で、どこに停めようかと迷って、あたりを探した。
結局、県庁が近くにあり、そこの駐車場に停めさせてもらうことにした。
実は、それが正解で、土日は県庁の駐車場に停めるようにという案内を後で見た。
近くと言っても、1km近くはあり、途中には鳥取西高校があった。
大学時代に、鳥取西高校出身で調査サークル仲間がいたので、いつも鳥取に来ると思い出していた。
これが、彼女が卒業した高校と思うと感慨深かった。
それにしても、お城のそばの立派な校舎に驚いた。
そして、しばらく歩いて行くと、城跡と仁風閣が見えてきた。
城跡は、姫路城とは違い、建物は一切残っていないが、その作りは姫路城よりも壮大に感じた。
石垣も、隙間だらけで緻密さはなかったが、実践的な城に思えた。
復元された擬宝珠橋は、本格的な木造で、趣を感じさせるものだった。
満車だというので、混んでいるかと博物館に入ると、入場者は非常に少ない。
時間も昼時だったので、午前中にはもっといたのかも知れない。
青谷上寺地おひろめ展示場には、私たち夫婦以外には係員の一人を除くと、二人ほどしかいなかった。
今回展示されたのは、発掘されたものの一部だが、木造製品が多かった。
現地の展示場の、人骨もなく、生活の息づかいがあまり感じられなかった。
しかし、弥生の人々の生活ぶりはよく分かるように展示してあり、非常に参考になった。
何よりも、石器や土器に関心が行きがちなのだが、木や骨、角を用いた作品の重要さに気がつかされた。
集落も水田だけでなく、周りの森や浜への働きかけが多いことも分かった。
それ以外の展示も足早に見て、食事をするために出ようと思った。
ところが、雨が降り出してきたので、傘を持っていない二人は、ここで食事をすることにした。
ちょうど、1時半の説明会が開催されるという時だったが、それを知っていたら、先に食事を済ませておいた。
博物館の食堂のランチは午後二時までだった。
二人とも、あじフライ定食を食べた。
それ以外は、カレーやオムライスしかなく、海鮮料理はなかった。
しかし、あじフライは地元産のあじを使っていて、美味しかった。
雨も小降りになり、博物館を出ると陽も差し始めていた。
日本海側の天気は、不安定だと思い知った。
2019年6月16日日曜日
犯人はモデム
家内がネットが繋がらないという。
ルーターが壊れたのでは無いかと思った。
というのは、モデムは普通通り光っている。
今考えれば、アラームの警告ランプが点いていたと思う。
新しいルーターを買った。
ルーターとモデムの関係をきちっと理解していなかったので、設定にかなり手間取った。
繋がったと思ったら、直ぐに切れた。
実は、どうもおかしいと思って、フリーダイアルでプロバイダーに電話したが繋がらなかった。
その時は単に混んでいると思っていた。
モデムも疑ったが、電話自体が繋がらないということが、まだ分かっていなかった。
今は、ほとんど固定電話を使わないからだ。
テレビのネット情報も入らなくなり、これはモデムがおかしいと思った。
調べてみると、固定電話も繋がらないことが分かった。
携帯電話でNTTに問い合わせると、やはりモデムの故障だった。
ネットが繋がらなくて、四苦八苦した一週間は何だったのか?
モデムを疑わなかったのは、完全に回線が途絶えていなかったからでもある。
これに費やした、新しいルーターの費用とその設定の時間は何だったのか?
ルーターが壊れたのでは無いかと思った。
というのは、モデムは普通通り光っている。
今考えれば、アラームの警告ランプが点いていたと思う。
新しいルーターを買った。
ルーターとモデムの関係をきちっと理解していなかったので、設定にかなり手間取った。
繋がったと思ったら、直ぐに切れた。
実は、どうもおかしいと思って、フリーダイアルでプロバイダーに電話したが繋がらなかった。
その時は単に混んでいると思っていた。
モデムも疑ったが、電話自体が繋がらないということが、まだ分かっていなかった。
今は、ほとんど固定電話を使わないからだ。
テレビのネット情報も入らなくなり、これはモデムがおかしいと思った。
調べてみると、固定電話も繋がらないことが分かった。
携帯電話でNTTに問い合わせると、やはりモデムの故障だった。
ネットが繋がらなくて、四苦八苦した一週間は何だったのか?
モデムを疑わなかったのは、完全に回線が途絶えていなかったからでもある。
これに費やした、新しいルーターの費用とその設定の時間は何だったのか?
2019年6月15日土曜日
麦わら帽子と竹笠
ついに念願の竹笠を買った。
ずっと買いたいと思いながら、少々高いので普通の麦わら帽子を買って使っていた。
麦わら帽子は主に夏場の農作業に使っていた。
朝の散歩には、workmanで買った布製の帽子を使っていた。
その帽子は、両側面がメッシュになっていて、風通しを良くしてくれていた。
閑谷学校に勤めていた時に、使い始めたのだが、その後は散歩用に二つ用意していた。
しかし、夏場になっていつもの散歩の時間には日差しが強くなってきた。
そこで、麦わら帽子を散歩に使うようになった。
散歩や農作業でよく使い始めると、汗をかくので臭いが気になり始めた。
そこで、竹傘を買うことにしたのである。
竹傘は、頭に乗せるところは、輪っかが付いている。
私は日本手ぬぐいを頭に巻いてから被る。
日本手ぬぐいは、百円ショップの安いものをたくさん持っている。
元々剣道をしていたので、頭に手ぬぐいを巻くのは慣れている。
面をつける時と違い、帽子や傘を被る時は、後ろに布が垂れるようにまく。
風の無い時は乗せるだけで十分だが、風のある時は顎紐をつけねばならない。
竹傘の欠点は風の抵抗を受けやすいということだ。
しかし、涼しさは麦わら帽子よりも格段に優れている。
麦わら帽子は額に多く密着し、頭頂部も風通しが悪い。
それに比べて、竹傘は額に接する部分が少なく、頭頂部の風通しが抜群である。
クロとの散歩は一時間以上歩くので、竹傘はすごく役に立っている。
麦わら帽子と違い、雨の日でも使えるから優れものである。
ただ、竹傘を学校で被ろうとは思わない。
実は、体育大会など運動場で行う行事には、農作業で用いた麦わら帽子を被っていた。
しかも、年季の入って、穴が開いたり、つばが破れているのを被る。
綺麗な麦わら帽子を被っている女性教師もいたが、普段使っていないということがよく分かる。
よく使い込んで、色が黒くなり、穴が開いたり、破れている方が、自分には風格が感じられる。
生徒に対しても、「どうだ、半端じゃないだろう」と、誇示できるのである。
今、被っている麦わら帽子も、上の方に穴がある。
その穴があるので若干涼しいのである。
残念ながら、今は定時制の学校なので、麦わら帽子は今のところ出番はない。
最近は農作業している人でも、麦わら帽子を被らない人もいる。
たまに、竹傘を被っている人を見ると嬉しくなる。
確かに最近出たアルミのメッシュの帽子も本人には涼しいのだろうとは思うが、値段が高い上、そばの者にはまぶしい。
登山に用いるような洒落た布帽子は、高くて手が出ない。
何せ、竹傘は高いと言っても、1300円程度である。
麦わら帽子はその半値程度で、どちらも安くて機能的な優れものと思う。
熱中症対策には、もってこいに思えるから、是非流行して欲しい。
ずっと買いたいと思いながら、少々高いので普通の麦わら帽子を買って使っていた。
麦わら帽子は主に夏場の農作業に使っていた。
朝の散歩には、workmanで買った布製の帽子を使っていた。
その帽子は、両側面がメッシュになっていて、風通しを良くしてくれていた。
閑谷学校に勤めていた時に、使い始めたのだが、その後は散歩用に二つ用意していた。
しかし、夏場になっていつもの散歩の時間には日差しが強くなってきた。
そこで、麦わら帽子を散歩に使うようになった。
散歩や農作業でよく使い始めると、汗をかくので臭いが気になり始めた。
そこで、竹傘を買うことにしたのである。
竹傘は、頭に乗せるところは、輪っかが付いている。
私は日本手ぬぐいを頭に巻いてから被る。
日本手ぬぐいは、百円ショップの安いものをたくさん持っている。
元々剣道をしていたので、頭に手ぬぐいを巻くのは慣れている。
面をつける時と違い、帽子や傘を被る時は、後ろに布が垂れるようにまく。
風の無い時は乗せるだけで十分だが、風のある時は顎紐をつけねばならない。
竹傘の欠点は風の抵抗を受けやすいということだ。
しかし、涼しさは麦わら帽子よりも格段に優れている。
麦わら帽子は額に多く密着し、頭頂部も風通しが悪い。
それに比べて、竹傘は額に接する部分が少なく、頭頂部の風通しが抜群である。
クロとの散歩は一時間以上歩くので、竹傘はすごく役に立っている。
麦わら帽子と違い、雨の日でも使えるから優れものである。
ただ、竹傘を学校で被ろうとは思わない。
実は、体育大会など運動場で行う行事には、農作業で用いた麦わら帽子を被っていた。
しかも、年季の入って、穴が開いたり、つばが破れているのを被る。
綺麗な麦わら帽子を被っている女性教師もいたが、普段使っていないということがよく分かる。
よく使い込んで、色が黒くなり、穴が開いたり、破れている方が、自分には風格が感じられる。
生徒に対しても、「どうだ、半端じゃないだろう」と、誇示できるのである。
今、被っている麦わら帽子も、上の方に穴がある。
その穴があるので若干涼しいのである。
残念ながら、今は定時制の学校なので、麦わら帽子は今のところ出番はない。
最近は農作業している人でも、麦わら帽子を被らない人もいる。
たまに、竹傘を被っている人を見ると嬉しくなる。
確かに最近出たアルミのメッシュの帽子も本人には涼しいのだろうとは思うが、値段が高い上、そばの者にはまぶしい。
登山に用いるような洒落た布帽子は、高くて手が出ない。
何せ、竹傘は高いと言っても、1300円程度である。
麦わら帽子はその半値程度で、どちらも安くて機能的な優れものと思う。
熱中症対策には、もってこいに思えるから、是非流行して欲しい。
2019年6月8日土曜日
ジャガイモ掘りとアリ
今日(6/8)は、赤穂の畑で先週収穫できなかったニンニクと、ジャガイモを収穫することにしていた。
昨日は朝にまとまった雨が降った。
田植えも始まっているのに、雨が降らないので貯水池の水を使わねばならない状態だった。
千種川の水量は冬場と変わりはなかったが、川沿いの田んぼは田植えのために水が張られていた。
我が家近辺は殆ど田植えは終わったが、赤穂の方はこれからが本番のようだ。
今日は昨日の雨と打って変わって清々しく晴れ、涼しい風が吹いている。
しかも、強い風なので、麦わら帽子が何度も吹き飛ばされそうになった。
畑の土は雨でほどよく湿って、掘り起こしやすくなっていた。
ジャガイモは、キタアカリとメークインを植えていたのだが、キタアカリの方が葉っぱが黄色くなっていた。
ニンニクを掘り起こした後、キタアカリを掘り始めた。
元々、キタアカリは大きさは小ぶりなのだが、数は多いが小さいのが多かった。
深く植えたつもりだったが、殆どがマルチの直ぐ下でイモになり、たまに深いところからも出てきた。
コンテナ一杯近くなったので、今日の収穫はおしまいにしようと思い、ビワを収穫した。
今年のビワは、家内に手伝ってもらって、いくつか袋がけをしていた。
そこそこ良いのがなってくれていた。
まだ昼には時間があるので、イモをもう少し掘って帰ろうと掘り始めた。
しばらくすると右手首がひりひり痛み出した。
アリにかまれたことが直ぐに分かり、ヨモギの葉をこすりつけた。
収穫したイモを持って実家により、ついでにアロエを塗り続けた。
しかし、家に戻ってから、食事を取って昼寝をして起きた頃は手首は紅く腫れていた。
家内とアリにかまれた話をして、去年は家内が足首をかまれて大きく腫れ上がったことを思い出した。
イモ掘りでは毎年のようにアリの被害に遭うのに、万全の対策をしておくのを怠っていたことを後悔した。
私は足の方は、靴下でズボンの裾を覆うので、大丈夫だが、手首の方は無防備だった。
本来なら、手袋と手甲や腕抜きを使って手や手首を守らねばならないのだ。
まだ、メークインの収穫が残っているので、次回は完全防備で臨もうと思っている。
今回のイモ掘りは、畑仕事も万全に準備してやらねばならないことを、思い知らされた。
昨日は朝にまとまった雨が降った。
田植えも始まっているのに、雨が降らないので貯水池の水を使わねばならない状態だった。
千種川の水量は冬場と変わりはなかったが、川沿いの田んぼは田植えのために水が張られていた。
我が家近辺は殆ど田植えは終わったが、赤穂の方はこれからが本番のようだ。
今日は昨日の雨と打って変わって清々しく晴れ、涼しい風が吹いている。
しかも、強い風なので、麦わら帽子が何度も吹き飛ばされそうになった。
畑の土は雨でほどよく湿って、掘り起こしやすくなっていた。
ジャガイモは、キタアカリとメークインを植えていたのだが、キタアカリの方が葉っぱが黄色くなっていた。
ニンニクを掘り起こした後、キタアカリを掘り始めた。
元々、キタアカリは大きさは小ぶりなのだが、数は多いが小さいのが多かった。
深く植えたつもりだったが、殆どがマルチの直ぐ下でイモになり、たまに深いところからも出てきた。
コンテナ一杯近くなったので、今日の収穫はおしまいにしようと思い、ビワを収穫した。
今年のビワは、家内に手伝ってもらって、いくつか袋がけをしていた。
そこそこ良いのがなってくれていた。
まだ昼には時間があるので、イモをもう少し掘って帰ろうと掘り始めた。
しばらくすると右手首がひりひり痛み出した。
アリにかまれたことが直ぐに分かり、ヨモギの葉をこすりつけた。
収穫したイモを持って実家により、ついでにアロエを塗り続けた。
しかし、家に戻ってから、食事を取って昼寝をして起きた頃は手首は紅く腫れていた。
家内とアリにかまれた話をして、去年は家内が足首をかまれて大きく腫れ上がったことを思い出した。
イモ掘りでは毎年のようにアリの被害に遭うのに、万全の対策をしておくのを怠っていたことを後悔した。
私は足の方は、靴下でズボンの裾を覆うので、大丈夫だが、手首の方は無防備だった。
本来なら、手袋と手甲や腕抜きを使って手や手首を守らねばならないのだ。
まだ、メークインの収穫が残っているので、次回は完全防備で臨もうと思っている。
今回のイモ掘りは、畑仕事も万全に準備してやらねばならないことを、思い知らされた。
2019年6月5日水曜日
梅雨前のミスト
去年はミストを二階のテラスに設置したのは、梅雨が明けた7月中旬だった。
今年は、昨日(6/4)から、ミストを設置した。
田植えは既に始まっているのに、雨はいっこうに降らない。
近隣の貯水池も、池によっては干上がっている。
金曜日には、まとまった雨が降りそうなのだが、既にひび割れの田んぼもある。
当然、我が家の二階のテラスの、ビワやガジュマルは元気がない。
ビワの葉などは、葉先が黄色く枯れたのもある。
テラスの植物だけでなく、その下のモッコウバラなどにも水がかかる。
ミストは二階のテラスとその下の庭にも非常に役に立っているんである。
ミストは雨の降らない夏場には、欠かせない物になっている。
裏の畑も、日曜の朝に大量の灌水をエンジンポンプで行った。
それでも、不十分な所は乾ききっている。
十分灌水したところでは、どうにかサトイモが芽を出して育ち始めた。
ズッキーニも灌水のおかげで、大きくなってきている。
この時期にミストやエンジンポンプでしのがねばならないのは、ある意味で非常事態である。
金曜の雨に期待するしかない。
私もこうして、雨を真剣に待ち望むようになった百姓の端くれだ。
昔なら雨乞いをしただろう。
今は当面エンジンポンプでしのぎ、万一用水路の水が涸れたら、池や川から汲んでくるしかない。
もし、週末に雨が降らねば、軽トラに乗せる貯水タンクの購入を考えねばならないだろう。
今年は、昨日(6/4)から、ミストを設置した。
田植えは既に始まっているのに、雨はいっこうに降らない。
近隣の貯水池も、池によっては干上がっている。
金曜日には、まとまった雨が降りそうなのだが、既にひび割れの田んぼもある。
当然、我が家の二階のテラスの、ビワやガジュマルは元気がない。
ビワの葉などは、葉先が黄色く枯れたのもある。
テラスの植物だけでなく、その下のモッコウバラなどにも水がかかる。
ミストは二階のテラスとその下の庭にも非常に役に立っているんである。
ミストは雨の降らない夏場には、欠かせない物になっている。
裏の畑も、日曜の朝に大量の灌水をエンジンポンプで行った。
それでも、不十分な所は乾ききっている。
十分灌水したところでは、どうにかサトイモが芽を出して育ち始めた。
ズッキーニも灌水のおかげで、大きくなってきている。
この時期にミストやエンジンポンプでしのがねばならないのは、ある意味で非常事態である。
金曜の雨に期待するしかない。
私もこうして、雨を真剣に待ち望むようになった百姓の端くれだ。
昔なら雨乞いをしただろう。
今は当面エンジンポンプでしのぎ、万一用水路の水が涸れたら、池や川から汲んでくるしかない。
もし、週末に雨が降らねば、軽トラに乗せる貯水タンクの購入を考えねばならないだろう。
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