空ばかり眺めて、散歩しているうちに、梅の花がこんなに咲いているとは気がつかなかった。
その梅は、いつも春一番に咲く、お寺の前にある紅梅である。
近所の庭の梅もちらほら咲いているのを眺めてはいたし、うちの庭の蝋梅も咲き始めていた。
でも、この紅梅の賑やかさには勝てない。
奇しくもこの紅梅の写真を撮った日(1/26)の後で、雪が降り積もった。
翌日、梅の花は雪にも耐えて美しく咲いていた。
梅が咲いてくれると、春がそこまで来ていると、気持ちが少し楽になる。
そういう意味で旧暦の正月は、春の兆し共に、気持ちを込めて祝えたのだろう。
新暦の正月は、春どころか、これから寒さがもっと厳しくなると、気持ちを引き締めねばならない。
そういう意味では、旧暦の正月こそ、季節とともに暮らす生活に適していたのだと改めて思う。
そういえば、昨日の金曜日は高校の卒業生にとって、最後の授業というのも多かった。
若い担任の先生は、「これで最後の授業だ」と言って職員室を出て行った。
この季節は別れと旅立ちの季節でもある。
それは私にとっても同じである。
早期退職して3度目の春、今年こそ自分の思いは叶えられるのだろうかと思う。
その一方で、まだまだ暮らしに不自由せねばならないのかとも不安にも思う。
ただ、叶うか叶わないか分からないけれど、希望が持てるメールが知人からも届いた。
今までそんなメールさえ無かったので、届くことだけで嬉しい。
一歩踏み出す勇気が不思議に湧いて、梅が咲いているのにも気がついた。
自分の人生にとって長い冬が終わり、再び春がやって来るのではないかという期待・・・
この紅い梅が咲いているのに気がついたように、私にも春が来ているんだと気がつければ良いのに・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2019年1月30日水曜日
2019年1月28日月曜日
天使の雪だるま
夜半過ぎから降り出した雪が降り積もり、朝、目を覚ますと文字通り銀世界になった。
去年はずいぶん寒い日が続いたが、一度も銀世界にはならなかった。
だから、雪が積もるのは一昨年以来ということになる。
雪国ではあたりまえの景色なのだろうが、雪が降るとまるで別世界である。
私は北海道に修学旅行の引率で行ってから、雪に閉ざされた生活は我慢できないと思っている。
しかし、年に一度や二度の雪景色は、それとは全く違って、村を美しく飾ってくれるものだと思える。
ただ、この雪は、お昼にはも日陰以外は殆どとけてしまい、銀世界である時間はそんなに長くはない。
一時であれ、美しく見せてくれるのだから、まるで天使が綺麗にお掃除してくれたように思える。
夕方になり、雲の間に見える空を見上げて、普段とは全く違う青さを感じてそう確信した。
きっと、空のチリまで雪とともに、掃除してくれたにちがいない。
雪が降った日だけ、村に子供の声が戻ってくる。
昔は、私も子供と家近くで雪遊びをした。
今は、愚犬と雪遊びはできないので、散歩するしかないのだが、あちこちで子供の声が聞こえる。
子供たちはお爺さんやお父さんと、はしゃいでいる。
その愚犬クロでさえ、雪に体をこすりつけてはしゃいでいる。
子供たちは雪だるまを作ったり、田んぼの土手で滑ったりしているが、スノーボードを持ち出している子供もいる。
知り合いの息子さんには、子供が4人もいたのだと、初めて気がついた。
雪が降ったのが土曜から日曜にかけてで、ちょうど休みだったので良かった。
わざわざスキー場に行かなくても、家族で楽しめている。
普段、散歩で会わない年配の方にも何人か出会った。
見知らぬ人に、「美しい景色やね」と話しかけられ、私は「普段よりも綺麗ですね」と、さりげなく答えた。
雪が降ると必ず家内と話すのは、子供たちと一緒に作った雪だるまのことだ。
今回も、庭にいつまでも残っていた雪だるまの話をした。
うちの庭は、お向かいの家の陰になって、雪だるまがいつまでも残っていた。
それを見つけた、お向かいの子供に結局は壊されてしまったのだが、懐かしい思い出である。
子供が成長して、雪だるまを庭に作ることもなくなった。
かわりに近所の子供が、空き地で雪だるまを作っている。
雪だるまこそ、雪を降らしてくれた天使を表した姿なのかもしれない・・・
去年はずいぶん寒い日が続いたが、一度も銀世界にはならなかった。
だから、雪が積もるのは一昨年以来ということになる。
雪国ではあたりまえの景色なのだろうが、雪が降るとまるで別世界である。
私は北海道に修学旅行の引率で行ってから、雪に閉ざされた生活は我慢できないと思っている。
しかし、年に一度や二度の雪景色は、それとは全く違って、村を美しく飾ってくれるものだと思える。
ただ、この雪は、お昼にはも日陰以外は殆どとけてしまい、銀世界である時間はそんなに長くはない。
一時であれ、美しく見せてくれるのだから、まるで天使が綺麗にお掃除してくれたように思える。
夕方になり、雲の間に見える空を見上げて、普段とは全く違う青さを感じてそう確信した。
きっと、空のチリまで雪とともに、掃除してくれたにちがいない。
雪が降った日だけ、村に子供の声が戻ってくる。
昔は、私も子供と家近くで雪遊びをした。
今は、愚犬と雪遊びはできないので、散歩するしかないのだが、あちこちで子供の声が聞こえる。
子供たちはお爺さんやお父さんと、はしゃいでいる。
その愚犬クロでさえ、雪に体をこすりつけてはしゃいでいる。
子供たちは雪だるまを作ったり、田んぼの土手で滑ったりしているが、スノーボードを持ち出している子供もいる。
知り合いの息子さんには、子供が4人もいたのだと、初めて気がついた。
雪が降ったのが土曜から日曜にかけてで、ちょうど休みだったので良かった。
わざわざスキー場に行かなくても、家族で楽しめている。
普段、散歩で会わない年配の方にも何人か出会った。
見知らぬ人に、「美しい景色やね」と話しかけられ、私は「普段よりも綺麗ですね」と、さりげなく答えた。
雪が降ると必ず家内と話すのは、子供たちと一緒に作った雪だるまのことだ。
今回も、庭にいつまでも残っていた雪だるまの話をした。
うちの庭は、お向かいの家の陰になって、雪だるまがいつまでも残っていた。
それを見つけた、お向かいの子供に結局は壊されてしまったのだが、懐かしい思い出である。
子供が成長して、雪だるまを庭に作ることもなくなった。
かわりに近所の子供が、空き地で雪だるまを作っている。
雪だるまこそ、雪を降らしてくれた天使を表した姿なのかもしれない・・・
2019年1月26日土曜日
天使の落書き
今日(1/25)は朝の冷え込みは格別で、散歩の出だしは手も凍えた。
でも、今までには無かったのだが、飛行機雲が空いっぱいに描かれている。
そして、歩いている真上でも、描かれている最中なのである。
やっぱり、上郡上空は飛行機の通り道だと言うことが、これではっきりした。
これは天候が悪化する兆候でもあるというが、確かにあすから強い寒気で、雪が降るかも知れないという。
私の父は元々船乗りで、常に空の雲を見ながら、天候を予想していた。
「入り雲だから、雨」とか、庭で眺めては教えてくれたが、当時の私には理解できなかった。
私はこのところ、空ばかり眺めながら、散歩をしている。
冬場は草木には、面白みがない。
そして、今日新たな発見があった。
今まで音はしても見えなかった飛行機が、飛行機雲によって分かったのだ。
中には、空高すぎて絶対に見えないだろうというのも分かった。
そして、高度の高い飛行機は、南から北に向かっていたのもあった。
西行きのルートばかりでは無かったのだ。
子供は小さい頃、雲の隙間から光の筋が伸びているのをみて、「天使のかいだん」と言っていたと、それを見るたびに家内は話す。
それなら、空に描かれた飛行機雲はさしずめ「天使のらくがき」だと思った。
この「らくがき」はいつも描かれるのではない。
今日のような気象条件がそろった時に描かれるようだ。
ある意味で、気まぐれなのである。
そして、こうして空をしっかり眺めていないと、気にもとめないだろう。
「天使のらくがき」を眺めて楽しめるのは、限られた人だけである。
そして、何よりも描いている飛行機に乗っている人には見られない。
この「らくがき」は、しばらくして消えしまう。
家に帰る頃には、殆ど消えて、新しいのも少なくなった。
今日は、天使とお話ができた気分であった。
でも、今までには無かったのだが、飛行機雲が空いっぱいに描かれている。
そして、歩いている真上でも、描かれている最中なのである。
やっぱり、上郡上空は飛行機の通り道だと言うことが、これではっきりした。
これは天候が悪化する兆候でもあるというが、確かにあすから強い寒気で、雪が降るかも知れないという。
私の父は元々船乗りで、常に空の雲を見ながら、天候を予想していた。
「入り雲だから、雨」とか、庭で眺めては教えてくれたが、当時の私には理解できなかった。
私はこのところ、空ばかり眺めながら、散歩をしている。
冬場は草木には、面白みがない。
そして、今日新たな発見があった。
今まで音はしても見えなかった飛行機が、飛行機雲によって分かったのだ。
中には、空高すぎて絶対に見えないだろうというのも分かった。
そして、高度の高い飛行機は、南から北に向かっていたのもあった。
西行きのルートばかりでは無かったのだ。
子供は小さい頃、雲の隙間から光の筋が伸びているのをみて、「天使のかいだん」と言っていたと、それを見るたびに家内は話す。
それなら、空に描かれた飛行機雲はさしずめ「天使のらくがき」だと思った。
この「らくがき」はいつも描かれるのではない。
今日のような気象条件がそろった時に描かれるようだ。
ある意味で、気まぐれなのである。
そして、こうして空をしっかり眺めていないと、気にもとめないだろう。
「天使のらくがき」を眺めて楽しめるのは、限られた人だけである。
そして、何よりも描いている飛行機に乗っている人には見られない。
この「らくがき」は、しばらくして消えしまう。
家に帰る頃には、殆ど消えて、新しいのも少なくなった。
今日は、天使とお話ができた気分であった。
2019年1月24日木曜日
合唱「涙そうそう」から
ラジオから、合唱で「涙そうそう」が流れてきた。
普段、夏川りみやビギンが歌うのを聴いても、思い出すことはあまりない。
しかし、合唱は悲しい記憶を甦らせてしまう。
それは、娘が小学6年生の時に、仲良くしていた友達が病気で亡くなったことである。
しばらくの闘病生活の後、あっけ亡くなくなってしまった。
その女子児童のために、小学校の卒業式で卒業生みんなで先生に頼んで歌ったのは「涙そうそう」だった。
私は運動会以外は、小学校にあまり行かなかった。
参加したご両親は遺影を抱きながら、じっと聴いておられた。
そして、その姿を見、歌を聴きながら涙がとめどなく流れ、写真に残すどころではなくなってしまった。
幼くして子供が亡くなることが、どんなに哀しいことかを知った。
そして、何よりも同じ子をもつ親として、子を亡くした親の気持ちが痛いほど伝わってきた。
ただ、子育てが終わり、娘も自立して生活している今は、娘に対しての思いは違ってきた。
過去の楽しかった思い出と、今の娘を結びつけてしまうのは、親の勝手な思い入れだと思うようになった。
自分もそうだったように、子供は成長して、別の人格を身につけていく。
親を頼り、一緒に過ごした子供とはもう違うのである。
過去の「子供」はもうそこにいない。
身体としては死んではいないけれど、人格は生まれ変わっているのである。
子供を亡くした親は、過去の体と心だけを思い出にして生きていかねばならない。
このことは、過去の子供の思い出に浸ってしまったとしたら、私たちのような子供が成長した親も同じである。
そう言いながら、時々子供の昔のビデオを私は観ているので、過去にすがって生きている部分もある。
そういう時には、自分が親から離れて自立していった時の気持ちを、あえて思い出そうと思っている。
子供を子供として失うのが早いかどうかはあるけれど、親も新しい人格を築かなくてはならないのかなと思っている。
普段、夏川りみやビギンが歌うのを聴いても、思い出すことはあまりない。
しかし、合唱は悲しい記憶を甦らせてしまう。
それは、娘が小学6年生の時に、仲良くしていた友達が病気で亡くなったことである。
しばらくの闘病生活の後、あっけ亡くなくなってしまった。
その女子児童のために、小学校の卒業式で卒業生みんなで先生に頼んで歌ったのは「涙そうそう」だった。
私は運動会以外は、小学校にあまり行かなかった。
参加したご両親は遺影を抱きながら、じっと聴いておられた。
そして、その姿を見、歌を聴きながら涙がとめどなく流れ、写真に残すどころではなくなってしまった。
幼くして子供が亡くなることが、どんなに哀しいことかを知った。
そして、何よりも同じ子をもつ親として、子を亡くした親の気持ちが痛いほど伝わってきた。
ただ、子育てが終わり、娘も自立して生活している今は、娘に対しての思いは違ってきた。
過去の楽しかった思い出と、今の娘を結びつけてしまうのは、親の勝手な思い入れだと思うようになった。
自分もそうだったように、子供は成長して、別の人格を身につけていく。
親を頼り、一緒に過ごした子供とはもう違うのである。
過去の「子供」はもうそこにいない。
身体としては死んではいないけれど、人格は生まれ変わっているのである。
子供を亡くした親は、過去の体と心だけを思い出にして生きていかねばならない。
このことは、過去の子供の思い出に浸ってしまったとしたら、私たちのような子供が成長した親も同じである。
そう言いながら、時々子供の昔のビデオを私は観ているので、過去にすがって生きている部分もある。
そういう時には、自分が親から離れて自立していった時の気持ちを、あえて思い出そうと思っている。
子供を子供として失うのが早いかどうかはあるけれど、親も新しい人格を築かなくてはならないのかなと思っている。
2019年1月22日火曜日
教え子の書道展in岡山
かつて赤穂高校で担任したことのあるKさんから、大学の卒業書道展の案内があり、1月20日に家内と岡山まで出かけた。
因みに、Kさんの進学した大学は、家内の母校でもあった。
Kさんは私が担任していたクラスで副委員長もしっかりつとめてくれて、私にとってはありがたい存在だった。
高校時代は女子バレーボール部の主将もつとめて、体育会系の生徒と思っていたのだが、書道も幼い頃からやっていると改めて知った。
今まで書道というのはなじみが無いどころか、苦手なので避けてきていた。
私は小学生の頃に近所で一度習ったのだが、すぐにやめてしまった。
小さい頃から悪筆で、ワープロができてどんなに助かったか分からない。
ただ、ワープロができる前などは、筆ペンで日記などをつけていた。
筆の魅力は分かるのだが、人に見せられるまで、稽古しようとは思わなかった。
彼女の作品はどれも力作ですばらしく、こういう事ができる生徒だったのだと今更知った。
教育現場でもその力を発揮してほしかったと思った。
彼女は高校時代から教師になることが夢だった。
岡山の私立大学に通って、教師を目指していた。
今回会って話を聞いて、断念したのが教育実習によるものだと知った。
指導の難しい中学校で、困難な生徒指導の現実を突きつけられたようだ。
私は幸か不幸か、教育実習ではそういう洗礼を受けていなかった。
しかし、私は採用されてから思い知らされたのだが、知っていたら私もなっていなかったかも知れない。
私は教育現場の困難さをよく知っていたので、娘にも教師になることを勧めてはいなかった。
だから、かつての教え子が教師になることを諦めても、それで良いと思う。
特に彼女のように優しくてナイーブな気持ちを持っている人には、厳しい現場に思える。
彼女には今度勤めることになった市役所で、自分の力を存分に発揮してほしいと願っている。
その書道展の会場を出て、うどん屋で昼食を済ましてドライブがてら帰ることにした。
北回りで帰ろうと思い、岡山空港方面に進んだのだが、県道81号線に入り旭川の中流付近の県道461号矢原国ヶ原線に迷い込んでしまった。
川沿いに下るのだから行き止まりは無いと思って、進んでいったのが大きな間違いだった。
途中も道は狭くなり、対向車が来たら待避所避けなければならない道となった。
一番大変だったのは、ぽつんと離れた集落が川沿いにあって、その道が川沿いよりも狭かった。
脱輪する恐れもある道を、窓を開けて家内に左側も確認してもらいながら通らねばならなかった。
後ろにも車が同じように来ていたのだが、その車は私のFitよりも大きく通れたかどうか分からない、
どういうわけか、岡山方面の山沿いに来る時はこういう経験が多い。
まったく肝を冷やしたドライブとなってしまった。
ただ、通った集落は民俗学を専門にする私とって、村落調査してみたい所に思えた。
気楽に済ませるはずの書道展へのドライブが、スリリングなドライブになってしまった。
それでも、久しぶりに教え子に会えて嬉しかった。
卒業した生徒の情報も多く聞けた。
完全に退職していしまったら、卒業生と出会う機会も無くなってしまうのだなと思うと寂しくも思った。
因みに、Kさんの進学した大学は、家内の母校でもあった。
Kさんは私が担任していたクラスで副委員長もしっかりつとめてくれて、私にとってはありがたい存在だった。
高校時代は女子バレーボール部の主将もつとめて、体育会系の生徒と思っていたのだが、書道も幼い頃からやっていると改めて知った。
今まで書道というのはなじみが無いどころか、苦手なので避けてきていた。
私は小学生の頃に近所で一度習ったのだが、すぐにやめてしまった。
小さい頃から悪筆で、ワープロができてどんなに助かったか分からない。
ただ、ワープロができる前などは、筆ペンで日記などをつけていた。
筆の魅力は分かるのだが、人に見せられるまで、稽古しようとは思わなかった。
彼女の作品はどれも力作ですばらしく、こういう事ができる生徒だったのだと今更知った。
教育現場でもその力を発揮してほしかったと思った。
彼女は高校時代から教師になることが夢だった。
岡山の私立大学に通って、教師を目指していた。
今回会って話を聞いて、断念したのが教育実習によるものだと知った。
指導の難しい中学校で、困難な生徒指導の現実を突きつけられたようだ。
私は幸か不幸か、教育実習ではそういう洗礼を受けていなかった。
しかし、私は採用されてから思い知らされたのだが、知っていたら私もなっていなかったかも知れない。
私は教育現場の困難さをよく知っていたので、娘にも教師になることを勧めてはいなかった。
だから、かつての教え子が教師になることを諦めても、それで良いと思う。
特に彼女のように優しくてナイーブな気持ちを持っている人には、厳しい現場に思える。
彼女には今度勤めることになった市役所で、自分の力を存分に発揮してほしいと願っている。
その書道展の会場を出て、うどん屋で昼食を済ましてドライブがてら帰ることにした。
北回りで帰ろうと思い、岡山空港方面に進んだのだが、県道81号線に入り旭川の中流付近の県道461号矢原国ヶ原線に迷い込んでしまった。
川沿いに下るのだから行き止まりは無いと思って、進んでいったのが大きな間違いだった。
途中も道は狭くなり、対向車が来たら待避所避けなければならない道となった。
一番大変だったのは、ぽつんと離れた集落が川沿いにあって、その道が川沿いよりも狭かった。
脱輪する恐れもある道を、窓を開けて家内に左側も確認してもらいながら通らねばならなかった。
後ろにも車が同じように来ていたのだが、その車は私のFitよりも大きく通れたかどうか分からない、
どういうわけか、岡山方面の山沿いに来る時はこういう経験が多い。
まったく肝を冷やしたドライブとなってしまった。
ただ、通った集落は民俗学を専門にする私とって、村落調査してみたい所に思えた。
気楽に済ませるはずの書道展へのドライブが、スリリングなドライブになってしまった。
それでも、久しぶりに教え子に会えて嬉しかった。
卒業した生徒の情報も多く聞けた。
完全に退職していしまったら、卒業生と出会う機会も無くなってしまうのだなと思うと寂しくも思った。
2019年1月19日土曜日
リヤカーでの再スタート
いつも見ているNHKの朝ドラ「まんぷく」で、リヤカーでの引っ越しの場面があった。
担保にしていた自宅が裁判所の競売にかかるので、借家に移り住むシーンだった。
それで、リヤカーで、引っ越ししたり、農作業をしたことを思い出した。
私のリヤカーでの引っ越しの経験は、中学2年生の頃(45年前)に新築の家に移った引っ越しである。
それまでは、赤穂の尾崎の磯釜という、家の建て込んだところの平屋に住んでいた。
父母と兄弟が4人が、今で言う2DKに暮らしていたのだから、非常に窮屈で勉強部屋など無かった。
そんな中で、私も弟も中学受験をして私学に通っていたのだが、今考えると親は相当無理をしたと思う。
そして、ちょうど父親が買って作っていた田んぼが、赤穂高校の用地として売れたので、別の田んぼを埋め立てて念願の家を建てた。
父親は何でも工夫して節約するタイプで、リヤカーもバイクの荷台に取り付けて引いたりしていた。
引っ越しも業者に頼まずに、家財道具をリヤカーに乗せて引っ越ししたのである。
私も手伝って、リヤカーの後ろで荷物を押さえていた記憶がある。
それ以外にも、とれた米を運んで、脱穀しに行くのを手伝ったりした。
父親は結局、農作業も米作りをしなくなったので、リヤカーも必要なく、自転車で済ませていた。
私は、結婚して赤穂の大津に住んでいた頃、その父親譲りのリヤカーを同じように使ったことがある。
そのうち、中古のピックアップのトラックを買って、自分で引っ越しや農作業をした。
リヤカーも上郡の今の自宅に持ってきたが、パンクして修理しないまま壁に立てかけて、放置している。
思い出のあるリヤカーなので、処分せずに残しているのである。
今私が通勤や農作業に軽トラを使っているのは、このリヤカーからの延長上にある。
「まんぷく」の主人公は、47歳で0からのスタートを、リヤカーでの引っ越しから始めた。
家内に私は「57歳での同じような再出発だ」というと、冷ややかに笑われた。
確かに、安藤百福さんとは格が違いすぎるが、人生をやり直すことにスケールは関係ないと私は思う。
「大器晩成」でなくても、「中器」でも「小器」でも、晩成すれば良いじゃないか。
努力すれば、必ず報われることを信じよう・・・
担保にしていた自宅が裁判所の競売にかかるので、借家に移り住むシーンだった。
それで、リヤカーで、引っ越ししたり、農作業をしたことを思い出した。
私のリヤカーでの引っ越しの経験は、中学2年生の頃(45年前)に新築の家に移った引っ越しである。
それまでは、赤穂の尾崎の磯釜という、家の建て込んだところの平屋に住んでいた。
父母と兄弟が4人が、今で言う2DKに暮らしていたのだから、非常に窮屈で勉強部屋など無かった。
そんな中で、私も弟も中学受験をして私学に通っていたのだが、今考えると親は相当無理をしたと思う。
そして、ちょうど父親が買って作っていた田んぼが、赤穂高校の用地として売れたので、別の田んぼを埋め立てて念願の家を建てた。
父親は何でも工夫して節約するタイプで、リヤカーもバイクの荷台に取り付けて引いたりしていた。
引っ越しも業者に頼まずに、家財道具をリヤカーに乗せて引っ越ししたのである。
私も手伝って、リヤカーの後ろで荷物を押さえていた記憶がある。
それ以外にも、とれた米を運んで、脱穀しに行くのを手伝ったりした。
父親は結局、農作業も米作りをしなくなったので、リヤカーも必要なく、自転車で済ませていた。
私は、結婚して赤穂の大津に住んでいた頃、その父親譲りのリヤカーを同じように使ったことがある。
そのうち、中古のピックアップのトラックを買って、自分で引っ越しや農作業をした。
リヤカーも上郡の今の自宅に持ってきたが、パンクして修理しないまま壁に立てかけて、放置している。
思い出のあるリヤカーなので、処分せずに残しているのである。
今私が通勤や農作業に軽トラを使っているのは、このリヤカーからの延長上にある。
「まんぷく」の主人公は、47歳で0からのスタートを、リヤカーでの引っ越しから始めた。
家内に私は「57歳での同じような再出発だ」というと、冷ややかに笑われた。
確かに、安藤百福さんとは格が違いすぎるが、人生をやり直すことにスケールは関係ないと私は思う。
「大器晩成」でなくても、「中器」でも「小器」でも、晩成すれば良いじゃないか。
努力すれば、必ず報われることを信じよう・・・
2019年1月13日日曜日
空に飛行機
私がクロと朝散歩に行く時間は、この頃大体決まっている。
冬になって、起きる時間か遅くなり、NHKの「まんぷく」を見ながら朝食を済まして、その後散歩に出かけるからだ。
そうすると、途中で必ず、低空飛行の飛行機にであう。
これは、たぶん岡山空港に向かっている飛行機だと思う。
最初にANAを見かけて、その後にJALを見かける。
低空で飛ぶ飛行機以外にも、空高く多くの機影を見かける。
それらの飛行機は全てが、西に向かって飛び去るのである。
上郡の上空は西行きの飛行機が、通過するルートになっているようだ。
以前ならあまり気にしなかったのだが、甥っ子がパイロットになってからは気になるようになった。
そして、その甥っ子の結婚式に久しぶりに、飛行機に乗って沖縄に行き、飛行機を身近に感じるようになった。
大きく見えいる飛行機を見ながら、あの中では乗客があの日の自分たちのように過ごしているのだなと思ったりする。
おそらく着陸態勢に入っているので、下の風景も大きく見え始めていると思う。
沖縄から帰る飛行機で、神戸空港付近に近づいてきた時の様子を思い出す。
夕闇の中で淡路島や明石大橋、神戸港付近の様子が、町の灯と共に浮かび上がっていた。
空から眺める風景は、もし自分が死んで空に昇っていく時の風景なのだろうとも思えるのだ。
私はユーミンの「ひこうき雲」という曲が好きで、ギターを弾きながらひとりでよく歌った。
空に思いを押せる気持ちは幾つになっても変わらない。
そういえば、私が大学院時代、絶望のうちに死にたいと思った時に、研究室の先輩から聞いた話がある。
その先輩の友達で自殺した仲間がいた。
その人はずっと気球に乗りたいと思い続けていた。
そして、本当にその夢を叶えたら、もうやることが無いと自殺してしまったそうだ。
その先輩から「おまえはまだ夢を実現していないので、死ねないよ」と言われた。
確かに、その時の自分は死ぬことを、自分に納得させることさえできなかった。
前のブログで紹介した「旅する先生」も、漫才師の夢を失った時に自殺しようとしたという。
そして、ためらううちに、その時たまたま届いたメールによって、死ぬことを思いとどまったという。
そのメールの送り主は、旅で出会ったゲーム好きの引きこもり少年から、就職したことを知らせるものだったという。
その時、彼は自殺する理由を失ってしまったようだ。
地上に這いつくばって生きている人間は、空に美しい死の憧れを持つのかも知れない。
死と隣り合わせの飛行機は、まさしく遠い世界へ誘う憧れである。
私は拾い食いをする愚犬クロに、引きずられながら毎日空に憧れている。
ただ、まだ死ぬのにふさわしい夢は叶えていない・・・
冬になって、起きる時間か遅くなり、NHKの「まんぷく」を見ながら朝食を済まして、その後散歩に出かけるからだ。
そうすると、途中で必ず、低空飛行の飛行機にであう。
これは、たぶん岡山空港に向かっている飛行機だと思う。
最初にANAを見かけて、その後にJALを見かける。
低空で飛ぶ飛行機以外にも、空高く多くの機影を見かける。
それらの飛行機は全てが、西に向かって飛び去るのである。
上郡の上空は西行きの飛行機が、通過するルートになっているようだ。
以前ならあまり気にしなかったのだが、甥っ子がパイロットになってからは気になるようになった。
そして、その甥っ子の結婚式に久しぶりに、飛行機に乗って沖縄に行き、飛行機を身近に感じるようになった。
大きく見えいる飛行機を見ながら、あの中では乗客があの日の自分たちのように過ごしているのだなと思ったりする。
おそらく着陸態勢に入っているので、下の風景も大きく見え始めていると思う。
沖縄から帰る飛行機で、神戸空港付近に近づいてきた時の様子を思い出す。
夕闇の中で淡路島や明石大橋、神戸港付近の様子が、町の灯と共に浮かび上がっていた。
空から眺める風景は、もし自分が死んで空に昇っていく時の風景なのだろうとも思えるのだ。
私はユーミンの「ひこうき雲」という曲が好きで、ギターを弾きながらひとりでよく歌った。
空に思いを押せる気持ちは幾つになっても変わらない。
そういえば、私が大学院時代、絶望のうちに死にたいと思った時に、研究室の先輩から聞いた話がある。
その先輩の友達で自殺した仲間がいた。
その人はずっと気球に乗りたいと思い続けていた。
そして、本当にその夢を叶えたら、もうやることが無いと自殺してしまったそうだ。
その先輩から「おまえはまだ夢を実現していないので、死ねないよ」と言われた。
確かに、その時の自分は死ぬことを、自分に納得させることさえできなかった。
前のブログで紹介した「旅する先生」も、漫才師の夢を失った時に自殺しようとしたという。
そして、ためらううちに、その時たまたま届いたメールによって、死ぬことを思いとどまったという。
そのメールの送り主は、旅で出会ったゲーム好きの引きこもり少年から、就職したことを知らせるものだったという。
その時、彼は自殺する理由を失ってしまったようだ。
地上に這いつくばって生きている人間は、空に美しい死の憧れを持つのかも知れない。
死と隣り合わせの飛行機は、まさしく遠い世界へ誘う憧れである。
私は拾い食いをする愚犬クロに、引きずられながら毎日空に憧れている。
ただ、まだ死ぬのにふさわしい夢は叶えていない・・・
2019年1月11日金曜日
フィールドワークという名の旅①豊根村
先日、日本一周をしてきたという「旅する先生」の講演を聞いた。
エネルギー溢れる講師の先生に、かつての自分を重ね合わせていた。
そこで、私もかつて学生時代に経験した「旅」について書いてみたくなった。
私は大学2年から、南山大学の文化人類学研究会・村落調査サークルに所属した。
大学に入って以来、軽音楽部、剣道部と渡り歩いて、かつて軽音楽部で一緒だった友達がいて面白そうだったので入ったのである。
この研究会には考古学のサークルと、村落調査のサークルがあって、村落調査の手書きの中間報告書はExcursion=小旅行という名であった。
村落調査といいながら旅行気分であったことをまさしく表していた。
私はその村落調査の手ほどきを、北設楽郡豊根村大沢で調査をしていた先輩から教わった。
豊根村は愛知県でも奥三河の山間にあり、長野県や静岡県と接し、県で一番人口の少ない村である。
南山大学のある名古屋から、まず電車で東海道線の豊橋まで行き、そこで飯田線に乗り換える。
この飯田線は、天竜川沿いにあって素晴らしい景色が展開されていて、私の最も好きな鉄道線である。
その飯田線の東栄という駅で降りて、そこからバスに乗って豊根村の大沢のバス停まで行った。
そして、そのバス停からも谷川沿いに登っていくと、大沢という小さな集落があった。
そこで私は大学二年(1980年)春休みと、夏休みの村落調査を経験した。
はじめに春休みに行った時には、まだ非常に寒くて、大沢に行く途中の滝が凍っていたのを思い出す。
村の集会所を借りて、そこで宿泊してみんなで自炊して過ごした。
たまに作ったひじきの煮物が、塩と砂糖を間違えて、辛くて食べられないほどになり、後々まで「ひじき」が失敗の代名詞になった。
夜に家々を回って聞き取りをしたり、昼は調査記録をまとめたり、山に登ってみたりした。
お風呂は、訪ねた家で入らせてもらうことが多かった。
風呂に入って、寒いながら星空の夜道を歩いて帰るのが心地よかった。
先輩の聞き取り方を学ぶことや、お年寄りと話をするのが新鮮で楽しかった。
本当は、春の調査が終わったら、新しい調査班を作って、別の村落で調査する予定だったが、うまく決まらなかった。
そこで、もう一度先輩と一緒に夏休みにも、豊根村に出かけることになった。
その時には、地元の青年や子供たちとも仲良くなった。
何よりも、どちらの調査を通しても、サークルの仲間との関係が勉強になった。
先輩との関わり、同級生との関わり、後輩との関わりが人間関係の大切さを知ることとなった。
当時、幾つかの大学には、村落調査をしているところがあったが、ゼミ単位であったり、体育会系的な組織のところもあった。
その点では、当時の南山大学サークルは学生主体で、しかも自由な雰囲気の調査で良かったと思う。
最初は殆どまともに聞き取りもできず、遊びに近かった。
サークル内での恋愛や別れ、友情やけんかがあった。
地元の人には、恩返しはできなかったが、過疎の村では若い大学生を歓迎してくれた。
そして、何よりも自分たちの研究への足がかりとなった。
この豊根村の村落調査では、殆ど先輩の調査報告に寄与できなかった。
しかし、ここで経験させてもらったおかげで、次の村落調査という名の旅の仲間作りと研究の下準備ができた。
エネルギー溢れる講師の先生に、かつての自分を重ね合わせていた。
そこで、私もかつて学生時代に経験した「旅」について書いてみたくなった。
私は大学2年から、南山大学の文化人類学研究会・村落調査サークルに所属した。
大学に入って以来、軽音楽部、剣道部と渡り歩いて、かつて軽音楽部で一緒だった友達がいて面白そうだったので入ったのである。
この研究会には考古学のサークルと、村落調査のサークルがあって、村落調査の手書きの中間報告書はExcursion=小旅行という名であった。
村落調査といいながら旅行気分であったことをまさしく表していた。
私はその村落調査の手ほどきを、北設楽郡豊根村大沢で調査をしていた先輩から教わった。
豊根村は愛知県でも奥三河の山間にあり、長野県や静岡県と接し、県で一番人口の少ない村である。
南山大学のある名古屋から、まず電車で東海道線の豊橋まで行き、そこで飯田線に乗り換える。
この飯田線は、天竜川沿いにあって素晴らしい景色が展開されていて、私の最も好きな鉄道線である。
その飯田線の東栄という駅で降りて、そこからバスに乗って豊根村の大沢のバス停まで行った。
そして、そのバス停からも谷川沿いに登っていくと、大沢という小さな集落があった。
そこで私は大学二年(1980年)春休みと、夏休みの村落調査を経験した。
はじめに春休みに行った時には、まだ非常に寒くて、大沢に行く途中の滝が凍っていたのを思い出す。
村の集会所を借りて、そこで宿泊してみんなで自炊して過ごした。
たまに作ったひじきの煮物が、塩と砂糖を間違えて、辛くて食べられないほどになり、後々まで「ひじき」が失敗の代名詞になった。
夜に家々を回って聞き取りをしたり、昼は調査記録をまとめたり、山に登ってみたりした。
お風呂は、訪ねた家で入らせてもらうことが多かった。
風呂に入って、寒いながら星空の夜道を歩いて帰るのが心地よかった。
先輩の聞き取り方を学ぶことや、お年寄りと話をするのが新鮮で楽しかった。
本当は、春の調査が終わったら、新しい調査班を作って、別の村落で調査する予定だったが、うまく決まらなかった。
そこで、もう一度先輩と一緒に夏休みにも、豊根村に出かけることになった。
その時には、地元の青年や子供たちとも仲良くなった。
何よりも、どちらの調査を通しても、サークルの仲間との関係が勉強になった。
先輩との関わり、同級生との関わり、後輩との関わりが人間関係の大切さを知ることとなった。
当時、幾つかの大学には、村落調査をしているところがあったが、ゼミ単位であったり、体育会系的な組織のところもあった。
その点では、当時の南山大学サークルは学生主体で、しかも自由な雰囲気の調査で良かったと思う。
最初は殆どまともに聞き取りもできず、遊びに近かった。
サークル内での恋愛や別れ、友情やけんかがあった。
地元の人には、恩返しはできなかったが、過疎の村では若い大学生を歓迎してくれた。
そして、何よりも自分たちの研究への足がかりとなった。
この豊根村の村落調査では、殆ど先輩の調査報告に寄与できなかった。
しかし、ここで経験させてもらったおかげで、次の村落調査という名の旅の仲間作りと研究の下準備ができた。
2019年1月6日日曜日
初買い物in三田
先日(1/4)は、私も家内も年休をとっていた。
三が日よりは空いているだろうと、二人で三田のアウトレットに行くことにしていた。
以前は、猪名川町に蕎麦を食べに行って、ついでによるという行程をたてていた。
ところが、前回は道路を間違えて、大変な渋滞に巻き込まれてしまい、猪名川で蕎麦を食べて帰るのがやっとだった。
今回は正月明けの平日なので、少しはましだと思った。
行程はいつもの下道を通って、龍野から林田、安富に向かい、そこから中国道沿いに三田へ向かうコースである。
去年の正月は2日で、安志加茂・稲荷神社の初詣の渋滞に巻き込まれてしまい、脇道を通らねばならなかった。
今回はさすがに4日ということもあって、全く渋滞は無かった。
社から三田までもスムーズに進み、ただモールに入るときにはさすがに渋滞した。
しかし、モールに入ってからが大変だった。
屋内駐車場で、車を駐めようとしたが、全く空きスペースが無い。
運のいい人は、偶然空いたところにスムーズに入っているし、じっと停まって空くのを待っている車もある。
ぐるぐる回ったが無理だと諦めて、外の駐車場を探すことにした。
そこでいったんモールを出て、少し離れた南の駐車場に入った。
そこも近いところは満車状態で、遠くの特別なスペースだけ空いていた。
奥は遮断していたのだが、遠回りして入ることができた。
車を降りて、イオンタウンに向かう頃には、遮断していたバーも取り除いて、警備員が誘導していた。
ある程度は予期していたが、これ程車を駐めるのに苦労するとは思わなかった。
店の中に入っても、あまりの人出に驚かされた。
昨日の鷲羽山とは大違いで、昼食をとろうにも店がいっぱい。
家を出るときは10時半で、店内に入れたのは13時半を過ぎていた。
14時近くになっていても、食事をとる人がいっぱい並んでいる。
並んでまで食事をすることになれていない二人は、やむなくアウトレットの方へ行くことにした。
その渡橋も、人がいっぱいだった。
当然ここでも食べるところは人がいっぱいで、かなり待たされそうである。
やむなく、チョコレートの店に入り、そこで手頃なものを買って店の前で一かじりした。
ドライブでそれほど体は動かせていないので、その程度食べて空腹は抑えられた。
店は色々回ったが、結局asicsの店で、ウォーキングシューズを買った。
普通なら5000円以上するようなものが、3000円で安かったからだ。
家内もそこで靴を買って、「3000円以上の靴を買うのは久しぶり」と喜んでいた。
といっても、5000円であったが、ものは良さそうだった。
結局、イオンタウンに15時半ころ戻っても、食べる店には行列なので、帰ることにした。
上郡の家に戻ったのは、18時頃で日もとっぷり暮れていた。
往復5時間ものドライブをして、三田へ行くのは、ドライブそのものが面白いことが魅力である。
それは加西から三田にかけての景色が、うちの近辺とまるで違うからである。
だだ広い盆地や、三田で見える六甲山系の山並みも綺麗である。
そして、自然の中に突如と現れる巨大な都市空間。
とんでもない車と人の数。
田舎の祭の何十倍もの迫力を味わう醍醐味もある。
そして何よりも良いものが安く手に入るので、ガソリン代も惜しくない。
家内は、今度は平日に休みが取れた時に、また来たいと言っていた。
私はショッピングは苦手なのだが、巨大なエネルギーを浴びるために来るのも良いかなと思う。
私のような田舎者にとって、ここはパワースポットに他ならない。
三が日よりは空いているだろうと、二人で三田のアウトレットに行くことにしていた。
以前は、猪名川町に蕎麦を食べに行って、ついでによるという行程をたてていた。
ところが、前回は道路を間違えて、大変な渋滞に巻き込まれてしまい、猪名川で蕎麦を食べて帰るのがやっとだった。
今回は正月明けの平日なので、少しはましだと思った。
行程はいつもの下道を通って、龍野から林田、安富に向かい、そこから中国道沿いに三田へ向かうコースである。
去年の正月は2日で、安志加茂・稲荷神社の初詣の渋滞に巻き込まれてしまい、脇道を通らねばならなかった。
今回はさすがに4日ということもあって、全く渋滞は無かった。
社から三田までもスムーズに進み、ただモールに入るときにはさすがに渋滞した。
しかし、モールに入ってからが大変だった。
屋内駐車場で、車を駐めようとしたが、全く空きスペースが無い。
運のいい人は、偶然空いたところにスムーズに入っているし、じっと停まって空くのを待っている車もある。
ぐるぐる回ったが無理だと諦めて、外の駐車場を探すことにした。
そこでいったんモールを出て、少し離れた南の駐車場に入った。
そこも近いところは満車状態で、遠くの特別なスペースだけ空いていた。
奥は遮断していたのだが、遠回りして入ることができた。
車を降りて、イオンタウンに向かう頃には、遮断していたバーも取り除いて、警備員が誘導していた。
ある程度は予期していたが、これ程車を駐めるのに苦労するとは思わなかった。
店の中に入っても、あまりの人出に驚かされた。
昨日の鷲羽山とは大違いで、昼食をとろうにも店がいっぱい。
家を出るときは10時半で、店内に入れたのは13時半を過ぎていた。
14時近くになっていても、食事をとる人がいっぱい並んでいる。
並んでまで食事をすることになれていない二人は、やむなくアウトレットの方へ行くことにした。
その渡橋も、人がいっぱいだった。
当然ここでも食べるところは人がいっぱいで、かなり待たされそうである。
やむなく、チョコレートの店に入り、そこで手頃なものを買って店の前で一かじりした。
ドライブでそれほど体は動かせていないので、その程度食べて空腹は抑えられた。
店は色々回ったが、結局asicsの店で、ウォーキングシューズを買った。
普通なら5000円以上するようなものが、3000円で安かったからだ。
家内もそこで靴を買って、「3000円以上の靴を買うのは久しぶり」と喜んでいた。
といっても、5000円であったが、ものは良さそうだった。
結局、イオンタウンに15時半ころ戻っても、食べる店には行列なので、帰ることにした。
上郡の家に戻ったのは、18時頃で日もとっぷり暮れていた。
往復5時間ものドライブをして、三田へ行くのは、ドライブそのものが面白いことが魅力である。
それは加西から三田にかけての景色が、うちの近辺とまるで違うからである。
だだ広い盆地や、三田で見える六甲山系の山並みも綺麗である。
そして、自然の中に突如と現れる巨大な都市空間。
とんでもない車と人の数。
田舎の祭の何十倍もの迫力を味わう醍醐味もある。
そして何よりも良いものが安く手に入るので、ガソリン代も惜しくない。
家内は、今度は平日に休みが取れた時に、また来たいと言っていた。
私はショッピングは苦手なのだが、巨大なエネルギーを浴びるために来るのも良いかなと思う。
私のような田舎者にとって、ここはパワースポットに他ならない。
2019年1月5日土曜日
初ドライブin 備前
去年の初ドライブでは、播磨清水寺まで行った。
今年は、3日にまず黒井山等覚寺の参拝から始まった。
ここは自分の母親や兄弟家族と、かつて正月に参拝したところである。
ここは弘法大師ゆかりの寺で、私の母が子供の頃も親戚の人が、病気平癒の祈願のためにお参りに来たりしたと言っていた。
ブルーラインができてから、この場所に遊園地ができ、子供が小さい頃はよく連れてきていた。
遊園地が寂れ、「道の駅 黒井山」となったが、「備前海の駅」ができて、そちらに客を奪われているようだ。
もう既に3日になっているせいかもしれないが、道の駅の駐車場も閑散としている。
以前は駐車場に入れるのも一苦労していたところである。
お寺の参拝客も少なく、お接待するお坊さんも所在なさげであった。
去年の播磨清水寺は人が多くて、参拝するのに一苦労するのも大変だった。
しかし、人があまりにも少ないのは、心細いものである。
ただ、本来は信仰心を深く持って参拝すべきところで、観光がてらに来るところではないのかも知れない。
そこから、箱根駅伝を聞きながら、鷲羽山を目指して運転した。
鷲羽山に通じる道もスムーズで、渋滞など殆どなかった。
鷲羽山も私が独身時代から良く来た場所である。
若い頃はちょうど距離的に適当なドライブデートコースでもあり、家内とも結婚前から来ている。
展望台には正月に親兄弟家族と一緒に来たりもしていたが、その頃は大変な賑わいで、駐車場に入るにの一苦労で駐車料金もとられた。
今は駐車料金もいらないし、スポーツカー愛好家のたまり場にもなっている。
そして、うちの子供とも、子供会のバス旅行など、事あるごとに来て楽しんだ思い出の場所でもある。
展望台付近の山で、途中で買ってきた弁当を、子供たちと一緒に食べたりもした。
鷲羽山ハイランドでは、子供と乗ったスカイサイクルが、海に投げ出されるようで、思いのほか恐かったのを鮮明に憶えている。
また、以前は動植物園も近くにあって、ポニーなどに親しんだりした。
今は寂れてしまった観光コースを、昔の思い出に浸りながらドライブする。
ただ、家内はちょっとしたドライブなどは憶えていない方が多いので、受け応えも心許ない。
私は、特に子供と一緒に行ったことは、良く憶えていて思い出に浸ってしまう。
今は家内と二人だけで食事するだけのドライブになってしまったが、記憶を甦らせるドライブでもあった。
今年は、3日にまず黒井山等覚寺の参拝から始まった。
ここは自分の母親や兄弟家族と、かつて正月に参拝したところである。
ここは弘法大師ゆかりの寺で、私の母が子供の頃も親戚の人が、病気平癒の祈願のためにお参りに来たりしたと言っていた。
ブルーラインができてから、この場所に遊園地ができ、子供が小さい頃はよく連れてきていた。
遊園地が寂れ、「道の駅 黒井山」となったが、「備前海の駅」ができて、そちらに客を奪われているようだ。
もう既に3日になっているせいかもしれないが、道の駅の駐車場も閑散としている。
以前は駐車場に入れるのも一苦労していたところである。
お寺の参拝客も少なく、お接待するお坊さんも所在なさげであった。
去年の播磨清水寺は人が多くて、参拝するのに一苦労するのも大変だった。
しかし、人があまりにも少ないのは、心細いものである。
ただ、本来は信仰心を深く持って参拝すべきところで、観光がてらに来るところではないのかも知れない。
そこから、箱根駅伝を聞きながら、鷲羽山を目指して運転した。
鷲羽山に通じる道もスムーズで、渋滞など殆どなかった。
鷲羽山も私が独身時代から良く来た場所である。
若い頃はちょうど距離的に適当なドライブデートコースでもあり、家内とも結婚前から来ている。
展望台には正月に親兄弟家族と一緒に来たりもしていたが、その頃は大変な賑わいで、駐車場に入るにの一苦労で駐車料金もとられた。
今は駐車料金もいらないし、スポーツカー愛好家のたまり場にもなっている。
そして、うちの子供とも、子供会のバス旅行など、事あるごとに来て楽しんだ思い出の場所でもある。
展望台付近の山で、途中で買ってきた弁当を、子供たちと一緒に食べたりもした。
鷲羽山ハイランドでは、子供と乗ったスカイサイクルが、海に投げ出されるようで、思いのほか恐かったのを鮮明に憶えている。
また、以前は動植物園も近くにあって、ポニーなどに親しんだりした。
今は寂れてしまった観光コースを、昔の思い出に浸りながらドライブする。
ただ、家内はちょっとしたドライブなどは憶えていない方が多いので、受け応えも心許ない。
私は、特に子供と一緒に行ったことは、良く憶えていて思い出に浸ってしまう。
今は家内と二人だけで食事するだけのドライブになってしまったが、記憶を甦らせるドライブでもあった。
2019年1月3日木曜日
苦戦年賀状
私は年賀状は元日に書いている。
それは、年末は片付けや掃除に忙しく、精神的に書く余裕が無いからだ。
先日、テレビを見ていたら、昔は年始に回れない遠方の人に、正月に書くものだったそうだ。
だから、正月に年賀状を書くのは間違ってはいない。
だが、昔のように正月気分は長く続かないので、遅く来る年賀状は時季外れに思えるかも知れない。
二年前、実は、年末に家内の父親が他界して、喪中欠礼も年賀状も書けなかった。
本来なら寒中見舞いなどで、お詫びせねばならないところ、自分自身が慣れない新しい職場で苦闘しており余裕が無かった。
そういう意味で、全く不義理な一年であったので、今年はちゃんと書こうと思っていた。
そして、元日から年賀状作りに取りかかったのだが、肝心のプリンターがうまく印刷してくれない。
一太郎を使った宛名書きでは、汚れがひどいので、パソコンで付随している筆ぐるめを用いた。
汚れは減ったのだが、うまくはがきを巻き込んでくれない。
何度も何度もやり直して、やっと宛名が書き終えたのは、2日の夜になっていた。
実は、このプリンターは、去年の6月頃に前のプリンターが調子が悪くなり、展示品の5000円のプリンターを買った。
canon製ではあるのだが、やはり安い展示品が悪かったのかも知れない。
結局、印刷し終わったのは2日の深夜になってしまい、一言も書き添えずに翌日の3日朝に投函することになってしまった。
殆ど一日費やしてしまった年賀状だが、やはり年賀状ならではの良いところがある。
特に今年は、大学以来の友人がバンド演奏している自分の画像を印刷してあったのが印象的だった。
彼とは20年以上会っていなくて、こんなに老けてしまったのかとショックだった。
たぶん、自分も同じなんだろうなと思うのだが、時間の移ろいが身につまされた。
遠くにいて会えない友人知人、近くでも滅多に会わない親戚に、年に一度だけ挨拶をする。
今の時代はその気になれば、電話やメールで簡単に連絡ができるのに、用事が無いとできないのが電話やメールである。
苦戦しながらも何とか年賀状を書くのは、用事は無いけれどつながっていたいと思うからだ。
それは、年末は片付けや掃除に忙しく、精神的に書く余裕が無いからだ。
先日、テレビを見ていたら、昔は年始に回れない遠方の人に、正月に書くものだったそうだ。
だから、正月に年賀状を書くのは間違ってはいない。
だが、昔のように正月気分は長く続かないので、遅く来る年賀状は時季外れに思えるかも知れない。
二年前、実は、年末に家内の父親が他界して、喪中欠礼も年賀状も書けなかった。
本来なら寒中見舞いなどで、お詫びせねばならないところ、自分自身が慣れない新しい職場で苦闘しており余裕が無かった。
そういう意味で、全く不義理な一年であったので、今年はちゃんと書こうと思っていた。
そして、元日から年賀状作りに取りかかったのだが、肝心のプリンターがうまく印刷してくれない。
一太郎を使った宛名書きでは、汚れがひどいので、パソコンで付随している筆ぐるめを用いた。
汚れは減ったのだが、うまくはがきを巻き込んでくれない。
何度も何度もやり直して、やっと宛名が書き終えたのは、2日の夜になっていた。
実は、このプリンターは、去年の6月頃に前のプリンターが調子が悪くなり、展示品の5000円のプリンターを買った。
canon製ではあるのだが、やはり安い展示品が悪かったのかも知れない。
結局、印刷し終わったのは2日の深夜になってしまい、一言も書き添えずに翌日の3日朝に投函することになってしまった。
殆ど一日費やしてしまった年賀状だが、やはり年賀状ならではの良いところがある。
特に今年は、大学以来の友人がバンド演奏している自分の画像を印刷してあったのが印象的だった。
彼とは20年以上会っていなくて、こんなに老けてしまったのかとショックだった。
たぶん、自分も同じなんだろうなと思うのだが、時間の移ろいが身につまされた。
遠くにいて会えない友人知人、近くでも滅多に会わない親戚に、年に一度だけ挨拶をする。
今の時代はその気になれば、電話やメールで簡単に連絡ができるのに、用事が無いとできないのが電話やメールである。
苦戦しながらも何とか年賀状を書くのは、用事は無いけれどつながっていたいと思うからだ。
2019年1月2日水曜日
己亥生まれ
自分は今年還暦を迎えたが、イノシシ年生まれとは意識しながら、己亥(つちのとい)生まれとは意識していなかった。
私は、このところ年賀状には西暦も元号でもなく、干支を用いていた。
だから、還暦も含めて、己亥を初めて意識した。
同じイノシシ年でも、己(=土の弟)というのは、何となく泥臭いイメージがする。
農作業の好きな自分には、ちょうど似つかわしい干支なのかも知れない。
干支でも亥は、一番最後となるが、我々は大学入試で共通一次試験前の最後の世代であった。
私は1期校、2期校を受験した最後の世代であり、浪人したので共通一次も最初の世代ともなった。
私は国公立の大学受験には失敗して、私学の南山大学に入った。
当時は、叔父などから二浪してもう一度チャレンジするよう勧められたが、もう浪人はしたくなかった。
不本意の大学ではあったが、この60年間の人生の中で一番楽しい時間が過ごせた。
以前は高校に戻って、受験をやり直したいと思ったりしたが、もし戻れるなら大学時代に戻りたい。
しかし、楽しく過ごした分、次の東京都立大学の大学院では苦しい思いをせねばならなかった。
結局、高校教員になったのは、研究職に就くことに挫折したからに他ならなかった。
ただ、今となってはアカデミズムの世界で、自分は自分らしく生きていられたのか疑問に思ったりもしている。
教員になれたから、生まれた地元で自然に親しみながら暮らしていけた。
今は、故郷赤穂ではなくて、隣の上郡で暮らしているが、宮総代まで務めている。
因みに宮総代は、神社行事では自治会長と並ぶ役職である。
元日から神社の行事に参加しながら、地元に根付いた自分を感じていた。
私は奄美のノロ(女性司祭)の研究もしているが、さしずめ私はノロの下のイガミという神役かなと思ったりもする。
お祓いの札を配り、お金を徴収する役目は家内に任せているが、それも奄美与路島でお米を集めていたのと同じだなと思ったりもしている。
これで私が神憑れば、完璧になるような気がする。
学生運動の世代は、加藤登紀子のように「時には昔の話を」と懐かしみながら歌える世代かも知れない。
我々の世代は、その世代の荒れ狂った学生運動の反動をもろに浴びた世代でもあった。
受験戦争、学歴社会を生き、「24時間働けますか」と鼓舞された。
気がつけば、同世代や下の世代の多くは、仕事人間になっていた。
仕事をとったら何も残らないと、旧帝大を出て、一流企業に入った弟などは言っている。
健康に不安を抱えているのは同じだが、深刻さが大きく違う。
今度、高校の同窓会があるが、是非出席したいと思っている。
卒業後40年を記念してと言うことである。
もう何年も会っていない同級生が殆どである。
男子校だったので、女性がいないので楽しみも少ないが、その分気楽でもある。
出席するのは、医者や、弁護士、会社役員が多いのだが、幹事を務めるのは教師である。
果たして、みんながどんな人物になっているか楽しみだ。
私は、このところ年賀状には西暦も元号でもなく、干支を用いていた。
だから、還暦も含めて、己亥を初めて意識した。
同じイノシシ年でも、己(=土の弟)というのは、何となく泥臭いイメージがする。
農作業の好きな自分には、ちょうど似つかわしい干支なのかも知れない。
干支でも亥は、一番最後となるが、我々は大学入試で共通一次試験前の最後の世代であった。
私は1期校、2期校を受験した最後の世代であり、浪人したので共通一次も最初の世代ともなった。
私は国公立の大学受験には失敗して、私学の南山大学に入った。
当時は、叔父などから二浪してもう一度チャレンジするよう勧められたが、もう浪人はしたくなかった。
不本意の大学ではあったが、この60年間の人生の中で一番楽しい時間が過ごせた。
以前は高校に戻って、受験をやり直したいと思ったりしたが、もし戻れるなら大学時代に戻りたい。
しかし、楽しく過ごした分、次の東京都立大学の大学院では苦しい思いをせねばならなかった。
結局、高校教員になったのは、研究職に就くことに挫折したからに他ならなかった。
ただ、今となってはアカデミズムの世界で、自分は自分らしく生きていられたのか疑問に思ったりもしている。
教員になれたから、生まれた地元で自然に親しみながら暮らしていけた。
今は、故郷赤穂ではなくて、隣の上郡で暮らしているが、宮総代まで務めている。
因みに宮総代は、神社行事では自治会長と並ぶ役職である。
元日から神社の行事に参加しながら、地元に根付いた自分を感じていた。
私は奄美のノロ(女性司祭)の研究もしているが、さしずめ私はノロの下のイガミという神役かなと思ったりもする。
お祓いの札を配り、お金を徴収する役目は家内に任せているが、それも奄美与路島でお米を集めていたのと同じだなと思ったりもしている。
これで私が神憑れば、完璧になるような気がする。
学生運動の世代は、加藤登紀子のように「時には昔の話を」と懐かしみながら歌える世代かも知れない。
我々の世代は、その世代の荒れ狂った学生運動の反動をもろに浴びた世代でもあった。
受験戦争、学歴社会を生き、「24時間働けますか」と鼓舞された。
気がつけば、同世代や下の世代の多くは、仕事人間になっていた。
仕事をとったら何も残らないと、旧帝大を出て、一流企業に入った弟などは言っている。
健康に不安を抱えているのは同じだが、深刻さが大きく違う。
今度、高校の同窓会があるが、是非出席したいと思っている。
卒業後40年を記念してと言うことである。
もう何年も会っていない同級生が殆どである。
男子校だったので、女性がいないので楽しみも少ないが、その分気楽でもある。
出席するのは、医者や、弁護士、会社役員が多いのだが、幹事を務めるのは教師である。
果たして、みんながどんな人物になっているか楽しみだ。
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