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2017年12月29日金曜日

年末大掃除と来客

先日私が今勤めている施設で大掃除があった。
その施設には古い講堂や廟があるので、それの儀式的な大掃除である。
NHKの取材も毎年来るそうで、今年も女性が一人カメラを担いでやってきた。
私は臨時の身だし、見習い中なので映りたくは無かった。
拭き掃除をしていたら、知らぬ間に傍で映されていた。
それがしかっかりと、NHK岡山のローカルニュースで流された。
自分としては頭のてっぺんが薄いのがやたら気になった。
たくさん撮影されたのに、なぜ自分のが選ばれたのか?
きっと、古い建物だから、若い職員だけで無く年配の職員も映像に加えたかったのだろう。
なおこの施設では、正月4日の行事にたくさんの来客があるそうである。

今日は赤穂の母親の住む家の庭掃除をしてきた。
秋に庭木の手入れをしていて、きちっと始末していなかった。
自分の住む家は、まだできていなけれど、明日弟たちが帰省するので少しでもきれいにしておこうと思った。
自分たちの育った実家は、母親が一人で暮らしている。
母親は足が悪くなったので、週に一度ヘルパーさんが手伝いに来てくれている。
近くに住む末の弟も、よく母親の面倒を見てくれている。
帰省する2家族の弟たちは、去年から実家には泊まらずに近くのホテルに泊まっている。
なるべく、母親の負担にならないようにと言うことである。
今年も実家の近くにホテルに宿泊して、食事も外で一緒にすることになった。
しかも、今年は正月では無くて、ホテルのとりやすい30日に帰省して次の日に帰る。
神奈川から帰省する弟は、正月には殆ど戻ってこなかったが、去年くらいから母親が心配になったようだ。

家は昔は結婚式、葬式、盆正月など悔やみごと祝い事を行える場所だった。
今は、盆正月でさえ、私の家や実家のように人が集える場所でなくなってしまった。
以前のようにゆっくりと盆正月をゆっくりと過ごすことが無くなったからだろう。
末の弟は警備関係の仕事なので、年末も正月も出勤する。
遠くに居ても、近くに居てもじっくり一緒に過ごす機会は失われてしまった。
それでも何とか会おうとするのだから、盆正月はありがたい機会であり続けている。
たとえ人が集わない家でも大掃除するので、せめて歳の神様くらいは来てほしいと願うばかりである。








2017年12月27日水曜日

小田和正「クリスマスの約束2017」をみて

毎年小田和正の「クリスマスの約束」を楽しみにしている。
私は家内からテレビや映画の情報を得ることが多いが、これもその一つであった。
70歳にして若いミュージシャンとこれだけ上手くコラボできる力量に敬服する。
今回はかまやつひろしの追悼コーナーで、かまやつの曲のアクを上手く抜いて心地よい音楽を聴かせてくれた。
かまやつが小田に最初シカトされたという思い出ビデオを出すところなど、小田の若気をつかってかまやつの人柄を出していたのも良かった。

私も熊木杏里の曲は好きだったのだが、NHKの番組音楽に使われた「君の名前」など数曲しか知らなかった。
思春期の繊細さの表現は素晴らしいとおもいつつ、自分が歌える曲では無かった。
今回初めてテレビで人柄を見て、曲のイメージとは違い意外と明るいなと思った。

会場には4万通を超える延べ10万人の中から選ばれた3,000人の観客がいたそうだが、映し出された観客も、音楽の背景として上手く使っていた。
私はどちらかというと、斜に構える聴衆であり、きっと会場にいたら違和感を感じただろうと思う。
撮ったビデオを家内とみながら、「高音」のボーカルばっかりや!と下らぬ言いがかりをつけていた。
それは憧れの裏返しでもあった。

一番素晴らしかったのは、エンディング前の「ダニーボーイ」、エンディングのFlagだった。
彼なりのメッセージが込められているのがよく分かった。
北朝鮮を巡って、日本がおかしくなっているのを訴えたかったのだと思う。
かつての若者はその理想を忘れてしまったのかと言いたかったのだろう。
かつての若い世代や今の若い世代にもきっと彼らのメッセージは伝わったと思う。


2017年12月25日月曜日

クリスマスのお菓子の家

クリスマスでいつも思い出すのは、家内が子供のためにお菓子の家を買ってきたことである。
なかなか細かくて、作るのに非常に手間取った。
長い時間をかけて、作った割には食べるのは速かった。
記念の写真を撮るために作ったところもある。

お菓子の家を作るのに、いらだって家内に当たることもあったが、今となれば笑い話だ。
クリスマスをロマンティックに過ごした経験は殆ど無いが、子供と楽しく賑やかに過ごしたのは良い思い出である。

私の子供の頃も、父親が特別に鶏をつぶして、吉岡鍋で焼いたことがある。
古い小さな家の庭の片隅で鶏を飼っていた。
その鶏の卵はごちそうで、鶏の肉はかなりのごちそうだった。
だから、クリスマスはめったにないごちそうが食べられる日。
大きなクリスマスケーキも、一年に一度の楽しみだった。
このケーキを親子6等分に切るのが大変で、4人兄弟は良いところを狙っていた。
そして、じゃんけんで順番を決めて好きな部分をとった。
小さい弟は、飾り付けに目が行っていたように思う。
私は飾りのチョコレートが好きだった。
しかし、じゃんけんは弱かった。

昨日のクリスマスイブは夫婦と息子3人で、ドライブ帰りに買ったコンビニのフライドチキンとティラミスケーキを食べた。
ささやかなクリスマスイブだった。
我が家ではもうクリスマスは特別な日ではなくなって久しい。
夕方から降り出した雨も、夜更け過ぎには、雪どころか大雨となった。
それでも、一人きりでは無い、穏やかな幸せの夜となった。


2017年12月24日日曜日

絆を描いていた「陸王」

数々の困難を乗り越えてシューズ「陸王」は成功した。
ドラマはハッピーエンドが一番良い。
ドラマ立てが良いと涙しながら感心してみていた。
成功した部分だけを取り上げれば、安っぽいドラマようにも感じる。
多くの人に感動を与えたのは、困難を乗り越えながら信頼に結ばれた選手、職場、家族などの仲間の絆の大切さを描いたからであろう。
そして、極端にわかりやすく拝金主義を皮肉っていた。
作者が元銀行員だけあったり、経営コンサルタントもしていということの裏返しにも思えた。
今の銀行が低金利時代で苦しく、年寄りに外貨建ての保険を勧めて負担となる手数料で儲けていることが頭によぎる。
今の時代が、信頼や絆を失っているからこそ、このドラマが人気を呼ぶのであろう。

話は違うが、今日は岡山県のことをもっと知ろうと思い、愚犬クロをもらいにいった賀陽まで家内と一緒に行ってきた。
2年半前にあばらの浮き出た、処分される寸前の犬を私たちは遠くまでもらいにいった。
その時は自動車道を使っていったので、下道を使うとこんな山奥とは思わなかった。
吉備高原の中にあって、国道と言いながらやっと二台がすれ違えるような道を通っていった。
因みに吉備高原は西播磨の龍野あたりまでを含む、広大な高原であり播磨科学公園都市もそのなかに含まれる。

そこにある道の駅「かよう」で、処分される犬や猫を助ける活動をしている方からクロを頂いた。
不幸な犬や猫を救おうとしているボランティアの方には何のお礼もしていない。
その人はただ、猟犬であるクロを持て余さないかを心配していた。
そのクロは時々は持て余すこともあるが、大切な家族としての信頼で暮らしている。
「陸王」のような感動ドラマでは無いけれど、ボランティアの方のおかげで家族の絆が得られたのである。
色々大変なことがあり、長い間ドライブにでかけられなかった。
今回はクロのことをだしにして、出かけられたともともいえる。
それが、それなりに起伏のとんだ日常のドラマの一幕のような気もする。



2017年12月22日金曜日

午後の図書館

私は中学生くらいからよく赤穂の図書館を利用した。
今の大きな図書館ができる前は、市民会館の隣の小さな図書館だった。
学習室でテスト勉強をするまねをして、よく友達と喋ったりしていた。
大学受験前や浪人中、教員採用試験前には旧図書館に通っていた。
10年ほど前は、長期研修で大学院に通っていたので、その論文作成のために新図書館に通った。
最近は本は県立図書館から取り寄せて借りるので、上郡の図書室を利用することが多く、滅多に行かなかった。

先日の日曜は一人で時間をつぶすことになり、赤穂にとりあえず出かけた。
ぶらっと、リサイクルショップで品物を眺めたり、赤穂港に行って海を眺めた。
身内に不幸があったばかりで、滅入った気持ちは晴れることは無かった。
それで気が晴れそうな健康雑誌でも読もうと思い、図書館へ行った。
雑誌コーナーで一人で雑誌を読んでいると、目の前に教え子のKが座った。
「わたし おぼえとる?」
彼女のことは忘れるはずは無い。
赤穂高校でKが2年生の時に担任したすごく元気だった生徒である。
卒業後も駅で立ち番をしている時に、大きな声で手を振って挨拶をしてくれた。
Kは医療系の専門学校に家から通っていて、試験勉強のために図書館に来ていた。
高校時代では図書館で会うことはあり得ない生徒だった。

彼女と話している内に、滅入っていた気持ちが晴れてきた。
勉強の邪魔にならないように、長話はしなかったがちょっとした会話が楽しかった。
教え子に気楽に声をかけてもらい、当時と同じような教師と生徒の関係で話をする。
Kも相変わらずの語り口だし、私も「おまえ」という二人称を使って話をしていた。
同窓会など特別な行事ではなくて、こうした普段出会える場で話ができるのが良い。
本当は図書館は会話する場所では無いけれど、ゆっくりした時間を過ごす場なので、互いの時間を気にしなくて良い。
そういえば、学生時代は図書館へ来たのに、近くの喫茶店で駄弁っていた時間の方が長かった。

教え子の中には、手紙で博物館の招待券を送ってくれた生徒もいる。
ちょうど私が研究していた沖縄に関するものなので、非常に役に立った。
遠くに居ても覚えていてくれて、このブログを読んで気を遣ってくれる生徒もいることも嬉しい。
退職した後は、関わる人との範囲が狭まって、内向きの気持ちになりがちだ。
この12月からは新しい職場に通い始めたが、慣れない仕事でストレスもたまっていた。
図書館いれば教え子に、会えるかもしれないし、知り合いに会えるかもしれない。
受験前の自分に戻ったみたいだ・・・


2017年12月19日火曜日

哀しみが結ぶ絆

この12月13日、私にとって大切な義父が亡くなった。
享年88歳だから、天寿を全うしたと言っても良いかもしれない。
ただ、最近まで非常に元気だったので、私も周りの者も心の準備ができていなかった。
葬儀にはもう十何年も会っていない親戚が集まった。
私にとってはその最後に会ったのは、やはり葬儀での時だった。
義父は広島県のある島で生まれ育った。
今でも船でないと渡れない島である。
義母も島育ちだが、その島は橋が架かり車で直接行ける。
行こうと思えば行けなくはなかったのだが、きっかけが無かった。

通夜の夜、私は葬儀会館に子供や義理の弟夫婦と夜伽をした。
義弟夫婦とは、正月や盆に毎年のように会うのだが、こうしてじっくり飲み明かすことは無かった。
義弟は私の中学校高校の後輩でもあり、共通の話題も事欠かなかったが、内容の濃い話は余りしなかった。
義理の弟夫婦とは20年以上の付き合いがありながら、今までの浅い関わり方を考えざるを得なかった。
葬式の後の食事でも、義母方の親戚と色々と話ができた。
栽培しているミカンのことや、島の様子や昔の葬式の話などをした。

義父の家はは浄土宗で、室津の浄運寺さんにお願いした。
火葬が終わり、浄運寺まで出向いて初七日まで済ませた。
その日は小春日和の穏やかな日で、浄運寺からは室津の湾の景色が心を和ませてくれた。
そこでは、義父方の親戚で網干に住んでいる人から、この付近の湾に沈む沈没船と遺物について聞いた。
私にとって非常に関心のあることを、親戚の人もやっていたことを初めて知った。

これから、法事に際しては近しい親戚とはまた会えるだろう。
しかし、遠い親戚はまたこういう葬式で無いと会えないのかもしれない。
本当なら、お祝いの機会に会えれば良いと思うが、悔やみの機会にしか会えないのが残念だ。
ただ、大切な義父を失ったことは、非常に残念ではあるが、義弟を中心とした親戚との絆を確かめられたのは慰めとなった。
葬儀社の宣伝で「生きるための儀式」として宣伝文句がいままでは空々しく思えていた。
こういう機会を得て、確かに、残された者にとってあの世に旅立つ人が、与えてくれた大切な機会なのだと思える。
人と人との関わりが希薄になっていく時代にあって、残された数少ない深い関わりの場となっているのかもしれない。
そして、夫婦や親子が一緒になってその大切な絆を大切にしなければならないとも思った。





2017年12月7日木曜日

AKB58の悩み

私は先日(12/1)より、備前市の社会教育施設で働き始めたので、AKB58ととなった。
A:赤穂で生まれ、K:上郡で暮らし、B:備前市で働く58歳である。
初日の職場カルチャーショックにさいなまれた。
上郡の自宅から赤穂高校へ行くほどの距離なのに、異次元の世界なのである。
岡山(備前)弁が飛び交う世界。
「~じゃろう」「~せられー」「ぼっけー」がふんだんに用いられ、30年ぶりのカルチャーショックを受けた。

私は大学が名古屋だったので、そこで名古屋弁の洗礼を受けた。
そして大学院は東京で、こちらは東京弁の日常化の洗礼を受けた。
職場は尼崎も経験したが、殆どが播州内に収まっていたので、言葉の違和感はさほどでは無かった。
かつて入院していた赤穂中央病院では看護師や患者がそこそこ岡山弁だった。
ただそれは、二週間ほどで終わった。
今回の違和感は仕事について以来と言うことになる。
家に居ても、よく耳をすませれば近所に備前から来た人が話をしている。
しかし、少数派なので意に留めなかった。
ところが、今度の職場は播州弁をしゃべる私が少数派どころか、唯一の存在なのである。

名古屋でも東京でも播州弁を失うことはなかった。
ただ、奄美に行った時は習いたての「シマ口(奄美語)」を使うことを心がけた。
今回は岡山弁を習って使うかどうか迷っている。
わざと使うと、不自然に感じられるかもしれない。
以前から主張している「多方言主義」で行くしかないかなとも思っている。
幸い、今度の職場には両親とも赤穂の人が居るので、ニュアンスも理解してもらえるだろう。
気をつけねばならないは、遠くから来た人を案内をする時に播州弁で話すと、違和感を感じさせるかもしれない。
その時は、東京で身につけた標準語を用いようと思っている。
残念なのは、せっかく身につけた名古屋弁や奄美語を活かす機会が無いことだ。
教師をしていた時は、時々紹介していた。
名古屋や奄美からの来所者を待つしかないか・・・

2017年12月2日土曜日

望まれる呑み鉄専用車両

「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」(NHK)は大好きな番組で、いつも見ている。
実は私も以前は「呑み鉄」だった。
学生時代は青春切符を使って色々と列車で回ったり、帰省に用いたりした。
思い出残るのはいくつかあるが、一人で四国一周した時が一番飲んでいた。
なぜなら、四国の日本酒は格別に美味かったからだ。
「梅錦」「司牡丹」「土佐鶴」等々色々あった。
そして、四国は当時電化もされず、単線だったので鈍行は特急や急行を先に通すため、駅でずいぶん待たされた。
だから、ビールや酒で間を持たすしか無かった。
食べるのは宇高連絡線フェリーの中のうどんから始まっていた。
海端の駅でベンチに座り海を眺めてビールを飲んだ。

ユースホテルで知り合った若者に途中で車に乗せてもらったが、後部座席で呑んでいたので、雰囲気が悪くなり降りた。
やはり、呑むのは列車の中とか、バスの中しか無理だろう。
酒好きの私の父親は、ドライブには必ずワンカップを持参した。
家族は嫌がったが、それが父親の楽しみだったので黙認していた。

呑み鉄にしろ、呑み車にしろ、最大の問題はトイレである。
私がビールではなく、酒を選んでいたのはトイレが近くなるからだ。
ドライブの時は父親のために、何度もパーキングに止まった。
私は列車に乗る時は、必ずトイレのある車両に乗る。
今回の「三江線を呑む!  2017/11/29 放送」は一両編成のトイレなしに六角さんは乗っていた。
しかも、いきなりビールを飲んでいる。
トイレはどうするのだと心配したが、ちゃんとふらっと途中下車していた。
彼はトイレは近くないのかもしれないが、何となく途中下車が計画的に思えた。
この三江線は素晴らしい川沿いの景色で来年3月に廃止される前に乗ってみたいと思った。
私は川沿いの鉄道は飯田線が一番好きだった。

地元に帰って田舎では車が便利で、鉄道は滅多に使わない。
青春切符はご老人がよく使い、その時期は列車も満杯だ。
今度の仕事は休みが平日になりそうなので、呑み鉄をしようかと思っている。
ただ心配なのはこの歳になると、呑み鉄をするとただのアル中に思われかねない。
以前も、前に座っていたご老人が、いきなりワンカップを飲み始めてそう思った。
どうせ飲むのならかっこよく、ウィスキーやジンの方が良いかもしれない。
いつも飲んでいる芋焼酎は匂いで気づかれるので、まだ黒糖焼酎が良いかもしれない。
因みに奄美に行くフェリーは、見知らぬ者同士で黒糖焼酎の宴会船と化していた。
豪華列車も良いけれど、呑み鉄専用車両ないしコーナーをJRさんもうけてほしい・・・