長い闘病生活の後に、名古屋に住む叔父が亡くなった。74歳だった。
叔父は赤穂高校を卒業して、愛知県で会社勤めをして、名古屋に家を構えた。
叔父は生前から赤穂へ戻りたいとずっと言い続けていた。
離れて50年以上も経つのにそこまで赤穂に思いがあったのは、自分の身内や幼友達が居たからだろう。
叔父の葬式には、自宅の近所の人や知り合いらしき人は殆どいなかった。
叔父が近所付き合いや友達付き合いが苦手であったことがよく分かった。
その分、私らのような甥が名古屋の大学に進学することを喜んだ。
私も学生時代に名古屋に4年住んだが、住み続けたいとは思わなかった。
通夜で驚いたのは、僧侶が読経の後で長々と焼香のマナーを説教した。
故人のことは何一つ言わなかった。そもそも、叔父は浄土真宗の門徒なのだが、妻の叔母の方の曹洞宗の寺で葬式を行ったことにもよる。
つまり、真宗の僧侶が違う宗派のお寺に出張してくれたのであった。
もっと、驚いたのは八事霊園での火葬場の風景である。
友引明けで葬式が多いとは事前に知らされていたが、30基以上ある炉がフル稼働している。
不謹慎な言い方だが、どこかの観光地に来ているようで、マイクロバスや黒い行列が所狭しと並んでいる。
炉はあたかも工場のようである。そこには別れを惜しむ感傷など生じるはずもなかった。
赤穂の火葬場で弔った私の父親とは全く違う光景であった。
そんな一連の葬儀の中で心に残ったのは、喪主である従兄弟のお礼の挨拶だった。
叔父の大好きだった長男の兄に因んだ名前を息子につけ、その戦死した兄と同じ日が命日となった。
そして、何よりも叔父がずっと赤穂に帰りたいとその息子に言い続けていたという。
おそらく、一緒に家族で戻ってきたかったのであろう。
都会育ちの叔母や子供は、盆正月で帰省したときでさえ、赤穂の鳥撫の村には馴染まなかった。
叔父の兄弟姉妹は全て赤穂市内にいて、叔父一人が赤穂から離れていた。
私の弟も二人赤穂を離れているし、私自身隣の上郡に移り住んでいる。
弟は帰りたいとは言わないし、私も叔父が思うほど赤穂に戻りたいという気持にはなれない。
何故なら、もう赤穂は自分たちが育った赤穂とはまるで違うからである。
むしろ、上郡の方が昔の鳥撫の風景を彷彿とさせてくれる。
叔父にとっては、それでも大変身を遂げた名古屋よりはましだったのだろう。
私は「ふるさとは遠きにありて思うもの」と室生犀星が歌ったのとは違い、「みやこ」ではなく「いなか」に戻る。
しかし、昔の赤穂への思いは親や親戚とのふれあいと共に忘れてはいない。
葬式に集まった久しぶりのイトコらと話しをすると、盆正月に集まった頃の気持に戻ってしまう。
仕事や生活環境は違ってしまったが、幼い頃の想い出をいつまでも覚えていた。
叔父の赤穂への思いは、名古屋のお寺で少しの間だけ、みんなの手で叶えられたのかも知れない。
命の繋がりは、記憶の繋がりでもあり、心の繋がりでもあると教えられた。
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