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2013年3月29日金曜日

赤穂の恩師

私は小学校を卒業してから、姫路の中学校高校と進んだので、恩師は小学校までの先生に限られる。
ただ、教師になることを志してからの恩師というべき人がいる。
それは故広山堯道先生である。
先日、ふと同じ職場の人と会話をしていて、先生の名前をその人が知っていて驚いた。
塩の研究家として、近隣ではちゃんと一般の地歴公民科の教師も知っているのだと改めて知った。
そして、私は弟子とは言えないまでも、その教えを少しでもうけた一人であることに誇りが持てた。
広山先生は2006年の3月5日に他界され、その葬儀で私は撮影役を頼まれた。
住職でもあった先生の広度寺での葬儀は一般の葬儀とは全く違うもので、上人となる儀式でもあった。
ただ、浄土宗の信者さんが近隣に少ないので、我々のような先生に世話になった者が、受付やらの下働きをさせてもらった。
最後は狭い路地を、担ぎ台に乗せた棺を我々が広い通り迄、担わせてもらった。
その後の6月18日の先生を偲ぶ会には、市長さんも来られて、偉大な功績を偲んだ。

広山先生は赤穂高校の教師として、ずっと塩の研究をしながら教鞭を執られた。
退職されてからは、赤穂歴史博物館の館長さんやら、仏教大学で研究者の育成を行われた。
赤穂高校での教師時代のことを何度か聞かしてもらったが、わざと勉強の苦手なクラスの担任になって、よく魚釣りに一緒にいったことなどを聞かせてもらった。
しかし、市長さん等の話からは、すばらしい授業をなされていたことがよく分かった。
広山先生の著作の多さには驚いたが、社会的な貢献の大きさにも感銘した。
私は未だに本一冊書いただけだし、社会的な貢献など殆どできていない。
広山先生について、赤穂民俗の編纂などを少しだけお手伝いをした程度である。

一番の想い出は、広山先生の身近にいる弟子のN氏とM氏2人と私が一緒に東京へ、資料収集や塩の博物館などに挨拶回りに行ったことである。
ちょうど赤穂藩士のことを調べていたことや、赤穂民俗のことで行く必要ができたのである。
私はたまたま国立歴史民俗博物館に、大学院時代にお世話になった上野和男先生がおられたので、紹介できた。
このN氏とM氏は助さん角さんで、私はさしずめ風車の弥七のような、お上り旅だった。

奇しくも、この春から私は広山先生と同じ職場に勤めることになった。
先生ほどの仕事はできそうにはないけれど、少しでも先生に近づこうと思っている。

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