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2013年5月30日木曜日

愚犬トラの死

休日の日は、トラが死んだのが実感として胸に迫る。
畑に出かける時には小屋の前を通るたびに絡んできて、煩わしいと思ったのに、昨日はそれが無くて寂しいと思った。
昼間、柿の種を食べながらビールを飲んでいる時には、縁台に頤を乗せて物欲しげにしているトラを思い出した。
柿の種をやると必死で探して食べた。
考えてみれば餌を与える時に吠えること以外には、かわいいところが多かった。
ただ、散歩に行って引き綱を引きすぎるのも煩わしかった。
そういう多くの欠点を抱えてはいたが、家族であることには間違いがなかった。
鎖に繋がれて自由がないのだが、鎖を離れて逃げだそうとはしなかった。
考えてみれば程度の差はあれ、人と人も嫌な思いをしながらも、傍に居続けているのは、一緒に居ることが生きることそのものだからだろう。
ただ、命あるものは必ず死が訪れる。死でなくても別れは必ず来る。
父親が死んだり、祖母が死んだり、姪が死んだ時には、葬式という儀式の中で、人間関係だけが浮き彫りにされたが、トラはその誰よりも一番傍にいた存在なので、自分の心の有り様を考えさせられた。

その前に飼っていた愛犬モモの時には心の準備がある程度できていたし、子供が小さかったので子供への愛情が優先されていた。
トラに対して愛情を持っていたとは言えないのだが、鬱陶しさを含んでその存在が生活の一部であった。
極端な譬えかも知れないが、介護して苦労した人が、その介護していた人が亡くなると生きがいをなくすのに少し似ているのかも知れない。

奴隷と主人の関係も、奴隷の立場でしか語られないが、主人からすれば奴隷の存在は心の支えの部分もあったのかも知れない。
それは奴隷が主人に愛情を感じるのも同じだろう。
たまたま境遇が違って生まれた。違いの中で関わるのはそういう主従関係しか無かったのだが、今の価値観からそれを全面的に否定するのは間違っているだろう。
むしろ、必要な時にしか関わらない今の方が冷めた関係と言える。
自分も歳を取って自分の弱さを認められるようになって、愛情というものが少し分かったような気もする。

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