私は19歳まで赤穂に住み、27歳でUターンして、35歳で上郡に引っ越した。
上郡に引っ越してからは、赤穂は里帰りの場所になった。
ただ、父親が5年前に亡くなってからは、畑仕事をする場所になった。
今年から赤穂に勤めが変わったので、活動時間的には赤穂で過ごす方が長くなった。
この赤穂の尾崎御崎地区では活動時間という意味ではUターンした独身時代以来の多さということになる。
結婚して赤穂でも大津という所に住み、職場も近くにあったので同じ赤穂でも全く違った。
その独身時代もこの地区で勤めていたのは、ほんの半年ほどだから、中学高校は姫路に通学したので小学校以来と言っても過言ではない。
小学校の時に新しく建った尾崎小学校の校舎から眺めた風景が時に甦る。
今の職場から眺める風景とは位置が違うにしても、山の形は昔のままである。
ただ、町の風景があまりにも変わってしまっているので、もう自分の故郷という実感は無い。
そんな中で、ふと記憶を目覚めさせるのは、断片的に残る路地や建物である。
お客さん的な目で見るそういう風景と、生活者の目で見る風景とは違う。
勤めることによって生活者の目になってきているのである。
実は、上郡は引っ越して20年近くなるのに、まだ風景が疎遠な感じがする。
その理由は山や川、路地の隅々まで歩いた赤穂のこの地区との差にある。
友達が住んでいた場所や、いっしょに遊んだ場所は、大人になって用事で行く場所とは全く違う。
おそらく今の勤め先で仕事をしている職員の多くは、この地区以外の住民なので、見ている景色に対しての気持も違うのだろうと思う。
今の職場では伝統という言葉がよく出てくる。
ところが、校舎はお城の中にあったのが、現在の海辺に変わった。
私と同世代のこの学校の卒業生は、旧校舎である。
私の中学高校の母校は同じ場所に建て替えたので、むしろ建物が変わっても学んだ頃の懐かしさは残っている。
おそらく、この校舎を卒業していない卒業生には母校という感覚は校舎に感じないだろう。
私も八王子に移転した母校の都立大学(首都大学)を一度も行ったことは無いし、行きたいと思わない。
同じ場所にあって伝統も重みを出すように思う。
きっと生徒は変な元赤穂人が舞い戻ってきたと思っていると思う。
時々話す赤穂の話題や赤穂(尾崎)弁、
「じいちゃん元気か?」と生徒に言っても、そのじいちゃんは私の子供の頃しか知らない。
新しい記憶の方が多くなるまで、私は過去の記憶に捕らわれたままかも知れない。
その内、昔を忘れさせられるほどの出来事が積み重ねられるかも知れないが・・・
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