夏休みが終わってやっと休みがとれた。
先週の土日は水泳の県大会の関係で、終日神戸に出かけていた。
近所の農家は、既に白菜の苗を植え付け、大根の種を蒔いて芽が出ていた。
私が手がけている畑には、夏物野菜と草が乱雑に生い茂っていた。
何とか二日がかりで、白菜の苗を植え、大根の種を蒔いた。
今ちょうど、渡辺由文『時間と出来事』中央公論新社を読んでいて、ふと思った。
我々は時間を管理する組織の下で働かされている。
教師は比較的自由な時間は持てるが、勝手に始業時間に遅れることは出来ない。
対して農作業は、基本、いつやっていつ終わっても構わない。
つまり、季節に追われはするが、時間に縛られず、時間から自由なのである。
私の父親は生前、熱心に畑仕事をしていた。
事務職になる前の、職工時代でも田畑の仕事を良くしていた。
生活のためだと思っていたが、それだけではなくて、自由に働く楽しさを知っていたのだ今回気づいた。
元々船乗りの父親は、雇われてする仕事よりも、自分でする農作業に楽しみを見いだしていたのだろう。
確かに、パチンコや釣りなどの娯楽も、自由な時間を使う楽しみかもしれない。
ただ、リスクがあまりにも大きすぎるような気がする。
費やす時間に見合うだけの成果は、普通の人はなかなか得られない。
対して作物は、それなりの学習時間は必要だが、費やす時間に素直に応えてくれることが多い。
そういう意味で、唯一、時間を自分で有効に管理できているのである。
もう一つ楽しいことは、厳しく成果を求められないと言うことである。
それは、現金収入に縛られないで済むということだ。
よく採れれば生活の足しになったり、あげれば別のものになって返ってきたりする。
この夏は天候不順であったが、そこそこ野菜が採れて食卓も潤った。
面白いことに、畑のキュウリが終わったら、庭に自然に生えていたキュウリがなりだした。
食べきれずに庭に捨てていたキュウリが芽を出したのである。
何せキュウリも一本百円以上するというので、貴重な成果である。
先日も自家製の黒ニンニクを母親や兄弟家族にあげたら、非常に喜ばれた。
何せ普通に買ったら500円ほどするのを、30個ほど持って行ってあげたからだ。
家では惜しげも無く、毎日一個を家族で分けて食べている。
また、去年収穫した黒大豆は、豆乳として貴重な健康食になっている。
投資した機械代や、肥料代などに見合うかというと、厳しいものもある。
父親はそれに拘り続けて、殆ど機械は用いず、結局体を壊した。
そちらの方が、返って採算に合わなくなる。
採算がとんとんでも、楽して成果が得られれば、それで良いのである。
なにせ夜に読書するだけの体力は残しておかねばならない。
涼しくなった秋こそ、昼耕夜読の季節である。
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