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2020年3月25日水曜日

されど1年

東京オリンピックが1年延長されることが決まった。
そのニュースを聞いて私は「自分はもう一年我慢できなかった」と思わず家内の横で口走った。
1986年のちょうど今頃、修士論文が上手く仕上がらなくて、指導教官の教授から、もう一年頑張るように勧められていた。
自分は修士は三年目で、修論のためにアルバイトも辞めて、パラサイトの状態にあった。
その立場からも精神的に自分で自分を追い詰めて、十二指腸潰瘍を患い、入院するように医者から言われたのはその数ヶ月前だった。
こんな状況をもう一年続けることは、心身ともできないと、半ば自暴自棄になって、修論は通してもらうことにした。

修論は博士に行けるかどうかの試練で、多くの先輩は死ぬ思いで苦しんでいたのは知っていた。
知った人の中には情緒不安定になって治療を受けたり、ぎっくり腰になって救急車で運ばれた人もいた。
何より、良い論文が書けなくて、博士課程に進学するのを諦めた先輩の文献を、私は月賦で譲り受けていた。
私は村落調査を使って修論を書くという上での、心構えがきっちりできていなかった。
調査してすぐは、どうしても資料の整理も付かず、しかもどの資料も使いたくなる。
だから、しばらく時間をおいて、じっくり資料を整理し、分析しなければならない。
結局、手を広げすぎて、まとめきれなくなってしまったのである。
だから、先輩達が普通3年(本来は2年)で書き上げるところを、4年かかっても恥ずかしくは無かったのだ。
だけれど、ぎりぎりの状態で過ごした1年が延長されるという苦しみが耐えられないように思えた。

今から考えれば、既に下書きができていたので、もう少し手直しすれば良いだけだった。
アルバイトも再開して、暮らしも楽にできたはずだった。
おそらく、そういうアドバイスは博士課程の多くの先輩や、仲間から受けていたはずだ。
多くの先輩は、今までやってきたことが無駄になることを惜しんで、強く引き留めてくれた。
しかし、錯乱して自分を失った私の心には、どんなアドバイスも優しい言葉も届かなかった。
60年あまりも生きると、たかがもう1年くらい我慢できたはずだと思う。
当時25歳での1年は、25分の1、今は60分の1である。
1年の重みが今の2.4倍あると思える。
60歳の今の感覚では約2年半に匹敵する。
ただ、人生を左右する上での一年は、大切な一年として我慢して堪えることも必要であることをそのすぐ後に思い知る。
私は研究する機会どころか大切な人も傷つけ、同時に失うことになってしまった。
大学時代からの親友には、「(フェデリコ・フェリーニ監督の映画)「道」*の主人公(ザンパノ)と同じだ」と言われた。
大切な人のことをろくに考えもせず、その愛情の上にあぐらをかき続けていたのは自分であった。
そして、映画とは違い、自分ではなくその人が去って行き、その存在の大きさを思い知って慟哭する。
この悲劇は私の心に傷となって今も消し去ることはできない。

もう一年我慢できていたら、別の人生が開けていたかも知れないし、大切な人を失わなくて済んだのかも知れない。
ただ、この経験があったからこそ、その後の人生で同じような過ちをするまいと生きてこられた。
そして今のように、故郷で自分らしい生活もできている。
この道で暮らしていける研究者にはなれなかったが、細々と研究は続けられている。
そして何よりも、30年以上も連れ添える伴侶にも巡り会い、家族を築くことができた。
人生において、もう1年我慢することの意味は、人によって大きく違うだろう。
多くのアスリートは、前向きに考えられていると思うが、ぎりぎりで耐えている人もいるだろう。
我慢できても我慢できなくても、その1年をどう評価するかはその後の人生にかかっているようにも思える。

ただ、今更思う。
たかが1年・・・我慢できていたら・・・・・
されど1年 本当に悔しいけれど・・・
      小いさ過ぎた自分の限界だった・・・

道 (1954年の映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93_(1954%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)






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