私の父の本家は鷏和の鳥撫という集落にあった。
昭和51年(1976)の時の大雨で裏山が崩れて全壊した。
当時も危険地帯と分かっていたので、祖父母は避難していて無事だったが、近くに住む叔父が家を見に行っていた。
そこに土砂が崩れてきたのだが、幸い叔父は庭にあった池にはまって助かった。
祖父母は一時的に、尾崎にあった我が家にも避難したが、食事や生活が合わないということもあって、そんなに長くはいなかった。
私が憶えているのは、その後しばらく経って、壊れた家を片付けの手伝いに行った時のことだ。
親戚で手伝える者は全員集まって、高校生だった私もかり出された。
そして、集落の多くの人たちも手伝いにやってきてくれていた。
大きい材木などは、大人の男性が担い、私も体格が良かったので手伝った。
その時に、教えて貰ったのは、太い材木を運ぶ時には皆と同じ右肩で担わなければいけないということだ。
以前、違う担い方をして、下ろす時に材の木に巻き込まれて死んだ人がいると言うことだった。
当時は重機も殆ど無く、人手だけが頼りだったが、集落は今と違って元気盛りの人も多かった。
瓦などの小物は女の人も手伝って、リレー方式で片付けていった。
その時、家に思い入れの深かった叔母は涙を流しながら、手渡しをしていたのをよく憶えている。
家だけでなく、崩れた斜面に拵えてあった墓も崩れたので、一緒に山道を運んでいくのを手伝ったりした。
とにかく、集落の皆さんは労を惜しまずに、よく手伝ってくれたと思う。
自分も少しは大人並みに役に立てたのが嬉しかった。
もう今はこの集落にはそういうことが出来る体制にはなっていないだろうし、親戚とてもそのようにできないだろう。
昔は家を建てる時の棟上げには必ず、村の人に餅を巻いたりして振る舞っていた。
今のように作られた部屋をトラックで運んできて組み立てることはまず無かった。
家屋も村の人の祝福を受けて完成されるものだった。
そして、万一、こういう災害に関しては助けてくれるものだった。
私が村落調査をしたある村では、火事を起こした家がその後のお見舞いを受けて、却って元より裕福になるので「焼け福」とまで言われていた。
高齢化が進んだ村や、人間関係の疎遠になってしまった都会では、見ず知らずのボランティアに助けて貰わねばならない。
また、大規模な大災害には、ボランティアは欠かせないだろう。
江戸時代から、他地域からの支援行動はあったという。
それも悪いシステムでは無いとは思うが、それに頼ってばかりはいられないだろう。
地縁血縁の互助関係が崩壊した現代にあっては、それに代わる保証制度が必要だろう。
金銭面では災害保険で対応できるとして、人材の確保のための対策が広域でなされるべきだと思う。
また、昨日も朝のNHKのラジオニュースで聞いたのだが、地域に水などを独自に確保できる施設が必要だと言うことだ。
昨日も近所の人と話したのだが、立派な瓦屋根をもつ二階建て建築は危険極まりない。
今までは、それが豊かさや権威の象徴だったのだが、ただの砂上の楼閣に過ぎなくなってしまった。
今の時代のこれから建物は災害に遭ったときのことを優先的に考える必要に迫られている。
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