昔話の浦島太郎は竜宮城でしばらく楽しく過ごして戻ってみると、時が過ぎていて誰もわからなかった。
そして、帰る時に乙姫様からもらった玉手箱を開けると年寄りになってしまった。
これは人生を象徴している話で、若いころは仕事や娯楽で肉親や昔の仲間・友達を忘れて過ごしている。
しかし、定年を迎えたり体力の限界を感じて、我に戻った時には昔かかわった人は誰もいなくなっている。
そして、年老いて誰からも相手にされなくなった自分を見出す。
今の時代は50年も経てば現実的に育った町も別世界になっている所もある。
私が生まれ育った赤穂の尾崎地区などがその典型だ。
それに比べて、今住んでいる上郡の高田地区はその変化はもう少し緩やかだが昔のままではない。
肉親に関しても私の幼いころを知っている年上の人は今年になって亡くなってしまいいなくなった。
一人だけ叔父さんが存命だが、認知症を患っていてもう記憶は定かでない。
兄弟やいとこはみな年下になってしまったので、生まれてからのすべてを知っているわけではない。
ただ、そういう肉親も大学時代や教師時代の私のことはほとんど知らない。
家内には昔話として話す機会があるが、すべてを話せるわけではない。
そして、その場に立ち会っていて思い出を共有できて話せる相手は身近にはいない。
そもそも今の時代は昔のことを思い出話として語り継ぐ時代でもないようだ。
母は私に昔のことをよく話したので、弟が感心するくらいによく親戚のことなどをよく知っている。
でも、私も家内も子供には昔のことや親戚のことを話すことはほとんどない。
地域に根付いて地縁血縁の関係の中で暮らしていたの者は、そういう語り継ぎの情報が大切だった。
今は学校やマスメディアの情報に加えて生成AIが簡単に必要な情報を提供してくれる。
徳川家康の生い立ちは知っていても、自分の親の生い立ちは知らないのが普通なのだ。
ある意味で、現代人の脳はそういう教育やメディアに支配されているといっていいのかもしれない。
竜宮城で浦島太郎が時間を忘れていたように、現代人も時間や昔の仲間を忘れて働いて、働いて、働いて、そして遊んで現代文明を謳歌しているようだ。
そして、気が付いたらお爺さんやお婆さんになっている。
いつの間にか周りには自分のことを知っている人はいなくて、見ず知らずの介護士が世話をしてくれている。
浦島太郎の昔話の世界を現実に私たちは生きているようだ。
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