学校で試験監督をしていると、やることが無いので窓の外を見たりする。
4階からは遠く小豆島が見えるし、海浜公園の高い椰子の木の向こうに海が光っている。
市街地の方はどんどん家が建っていて、幼い頃に山から見下ろした風景とは一変してしまっている。
そんな中で思い出すのは、私が小学生頃まで過ごした尾崎磯釜の家である。
福崎町出身の柳田国男は生家を卑下したが、その写真に載っている家よりも貧しい作りだった。
父親は出物の家を購入したのだが、当初は風呂も無くて、向かえの家に入れてもらったり、風呂屋に行った。
父親は何でも節約する方で、家の改造は自分で行った。
トタン屋根で家を拡張して、風呂場も作ったし、納屋も作った。
ただ、当時はサッシが無かったので、風呂や便所は縁側の外にあって外気にさらされ、冬場はすごく寒かった。
今の作りでいえば2DKなのだろうが、押し入れが多くあったので、そのふすまを外して勉強部屋にしたりした。
平屋だったが、屋根裏があったので、時々はしごで屋根裏に上がった。
屋根の上にも、はしごで簡単に上がれたので、上に登ってよく叱られた。
隙間だらけの家だったので冬場は寒くて、電気ごたつを真ん中に布団を敷いて、家族六人が足を突っ込んで眠った。
山上憶良は囲炉裏を囲んで家族で寝たようだが、こたつの回りに同じような風景が展開された。
隣の家は蔵を改造したもので、別の持ち主の借家だったが、どういう訳か壁一つでくっついていた。
中学受験のために父親は、隣との壁際に勉強できる場所をこさえたのだが、声は筒抜けであった。
隣の人に私が英語の練習で発音している時には、黙って皆で聞いていると言われて恥ずかしかったを憶えている。
そんな貧しい家から引っ越しできたのは、父親が買っていた田が高校の用地買収で売れたからだった。
つまり、私はその田んぼを買ってくれて建てられた高校に今勤めているわけである。
その磯釜の家はしばらく知り合いに貸していたが、その親戚の人が買ってくれた。
そして、いつの間にか誰も住まなくなっていた。
数年前に懐かしくて、その家の側を通ってみた。
作りは殆ど昔のままで、玄関の南京錠をかける鍵もそのままだった。
ところが、屋根の一部が落ちて、中の容姿が見えるくらいになっている。
どういう過程で空き家になったのか知らないが、カレンダーもそのままであった。
幼い時代を過ごした家が無くなるのも寂しいが、荒れ果てるのを見るのも哀しい。
たぶん、大人の親にとっては、人生の一過程にしか過ぎないのだろうが、幼年期を過ごした自分達には思い出の凝縮した家である。
そういう私も親たちの昔の話を聞いても、別世界と考えていたから、今の世代の者にとっても同じだろう。
近くで暮らしているのに「思えば遠くへ来たものだ」と感じてしまう今日この頃である。
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