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2017年3月28日火曜日

最後の言い訳

この三月をもって、教師としていったん幕を下ろすことになった。
兵庫県の高校教員に採用になってから三〇年、途中で2年間長期研修があったので、実質28年教壇に立った。
当初から、大学院まで進んでいた私は、民間企業への就職は難しく、教師しか道が拓けていない、いわゆるデモシカ教師だった。
研究への思いは捨てきれずに、いつかは研究職に就きたいという夢は持ち続けていた。
その一方で、教師としてのやり甲斐を感じたり、地元に根付いて生きることの歓びも感じていた。
だから、徹底して研究職に就くための努力を続けてきたわけでは無かった。
それとは裏腹に、自分の理想とかけ離れて、行政の下部組織化が強まる学校現場に違和感を感じ続けてもいた。

家は代々船乗りの家系で、父親も船乗りだったが、辞めて職工になった。
父親はサラリーマンになったが、気質は船乗りままで、そういう父親の気質を受け継いでいるように思う。
また私は、中学校から大学までミッショナリースクールで学び、全く自由な校風で育ってきた。
大学院は公立だが、徒弟制度が維持され、教授ではなく兄弟子達に仕込まれたという感じだった。
要するに、サラリーマンの様な滅私奉公、役人の様な上意下達の姿勢を育成されずに来たのである。

サラリーマンや役人のような教師にはなりたくなくて、研究職への転職を試みながら、面従腹背の姿勢で、結局は30年も教員を続けてきた。
その代わり、私は学校を転々と異動し、8校にも及んだ。
目先を変えることで、気持ちの転換を図ったというのが実情だろう。
学校はその一方でこういう職人気質の者にも、活躍する場を与えてくれてもいた。
生徒指導、受験指導、クラブ指導ではやり甲斐を感じていたことも事実である。
しかし、年齢が重なるに従って、部署の長となる立場になり、上意下達の役人的な環境に身を置かれざるを得なくなった。
そして、55歳の免許更新時は、教師のプライドを傷つける仕組みに、本気で辞めたいと思い、転職活動に勤しんだ。
しかし、転職は失敗し、まだ子供が学生ということもあり、退職は出来なかった。

心機一転、念願だった今の職場の定時制高校に喜んで移り、これで何とか定年退職まで勤められると思った。
最後の職場となった定時制は、尊敬する地元赤穂の塩業研究者廣山堯道氏が、教諭として最後に勤めて名声を残した職場である。
定時制の一般イメージとしては、比較的自由なところで、数々の研究者を産んできた職場と思っていた。
それが、そもそもの間違いだった。
私の知っている定時制はずいぶん昔の定時制であり、大きく様変わりしていたのである。
生徒との関わりで困難なことはそれほど無いが、職務そのものは全日制以上に気持ちの上での余裕がなかった。
ひとりで何役もの仕事を、こなさなくてはいけなかったからである。
また、自分の教育理念とは異なる指導方針にも、私はついて行けなかった。
自分にとっては精神的過重負担であるし、指導方針に沿えないと実感したので、転勤してたった1年で退職の道を選ぶことにした。
子供が去年に就職していたので、教育費の負担がなくなったことも気持ちを後押しした。

退職後の半年ほどは、今まで積み重ねてきた研究を第2作目となる書にまとめる時間として割くつもりである。
2作目の書は、次の人生への区切りをつけるために、どうしても必要な書だと思っている。
本来、5年前には仕上げていなければならない宿願の書である。
その後は、どんな形であれ、生活のために稼ぎながら、自由な執筆活動を続けたいと思っている。
そんな私に不安を感じながらも、わがままを許してくれた家内には非常に感謝している。
平均寿命からすれば、私には20年ほどしか時間は残されていない。
定年を待たずして逝った人や、退職後ほどなく亡くなった人を数多く知っている。
その一方で、早々と早期退職して、農作業などを細々とやりながら、元気に暮らしている人もいる。
私は精神的にも肉体的にも、元気な暮らしを家族や仲間とともに維持したいと思っている。

30年続けた教員生活に区切りをつけるにあたり、今は悔いや未練などは何も無い。
ただ、関わってきた多くの生徒や職場の仲間を思いながら

一番大事なものが 一番遠くに行くよ
こんなに憶えた君のすべてが想い出になる

という徳永英明の歌の一節そのものの感情が、溢れていることも確かである。

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