早期退職してから、吉備の神社や最上稲荷、播磨の伊和神社には何度か足を運んだ。
次の良い仕事が見つかるようにということと、研究作品の完成祈願である。
ところが、ふと同僚と話をしていた時に、鹿島神社の話題が出た。
そういえば、近くにありながら、私は一度も鹿島神社に参っていない。
昔から受験の神様として人気で、参拝者が多いと聞いていた。
家内も高校受験の時に父親と一緒に参拝したそうである。
その時の人の多さだけを聞いていたので、あえて参ろうとは思っていなかった。
しかし、これだけ神社にお参りに行っていて、一願成就で名高い鹿島神社に行かない手は無いと思った。
吉備の最上稲荷をイメージしていったのだが、確かに大鳥居は共通するものがあったが、雰囲気は全然違う。
駐車場も無料で、楽に駐車することが出来た。
受験シーズンなので混雑を心配したが、参拝者の数も思ったより多くなかった。
周りの山は岩場がむき出しが多くて、遠くからでも山に登る人が見える。
参拝目的と登山目的を兼ねている人もいるようだ。
参道には屋台の店も出ていたが、落ち着いた雰囲気だった。
最上稲荷が近代的な神社に変身していたのに対し、昔ながらの趣を維持していた。
そして、受験生らしき若者や、子連れの家族が多く参拝している。
最近はパワースポットとして、若者にも神社仏閣が人気あるのだが、神社仏閣がもつ独特の雰囲気を言うのだと思う。
聖なる空間というような言葉で表したりもするが、日々の暮らしの中では容易に得られない場だと思う。
切実な祈りや願いは、日々の暮らしから切り離された場で、特別に行いたい。
そして、神社仏閣はその雰囲気を強く醸し出してくれる場なのだと思った。
当然、受験や事業などの取り組みには不断の努力が一番欠かせない。
しかし、その努力は必ずしも報われるものでは無いから、精神的に支えてくれる何かが必要だ。
だから、立場上不安定になった私とそれを支えてくれている家内が、参拝を繰り返しているのだと思う。
そういえば、私の祖母は父方も母方も信仰が篤かった。
若い頃はなぜそこまで熱心なのか分からなかった。
母方は戦争未亡人、父方は息子を戦争で亡くしていた。
肉親の戦死というやり場の無い気持ちが一生ついて回ったのだろうと思う。
弱い立場になって、自分もそういうことが分かるようになった。
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