私は父方の祖母をとなぜ(鳥撫)のばあちゃん、母方を相生のばあちゃんと言っていた。
私が幼い頃、相生のばあちゃんは母の子育てが大変な中で、しょっちゅう手伝いに来てくれていた。
やがて、相生から引っ越して隣のばあちゃんになった。
となぜのばあちゃんは、本家のばあちゃんで、私が男としては初めての孫だった。
本家にはいとこの姉がいたので、一緒に遊ぶことも多く、鳥撫から尾崎に引っ越した後も、本家に預けられることも多かった。
赤穂まで買い物に行くときに連れて行ってくれたりして、ソフトボールで使うグローブを買って貰ったのを憶えている。
ばあちゃんの名前はたつゑと言って、遠く小赤松(上月町)の出であって、近所には親戚はいなかった。
子供は7人できて、長男は戦死し、一人は溺死、一人は病死して、結局4人生き残った。
私の父は三男で祖父と同じ船乗りだったが、辞めて職工になって本家の鳥撫からも離れてしまった。
ばあちゃんの子供は仲が良く、正月や盆にその家族も一緒に集まって楽しく過ごしたが、それは祖母に惹かれて集まっていたと思う。
そういう和やかな場には、祖父は殆ど関わらなかった。
祖父は船乗りであり、経営者として厳格な性格であり、ばあちゃんはそれでかなり苦労したようだった。
また、本家を継いだ2男も夫婦で船に乗っていたので、いとこの姉はばあちゃんに育てられたのも同然だった。
先日、自分の写真を整理しようと思って、結婚式の写真を見たらそのばあちゃんが写っていたので驚いた。
自分の結婚式にわざわざ身支度をして参席してくれていたのだ。
私の母は結局、孫の結婚式には一度も参席せずに他界した。
となぜのばあちゃんは孫の私のために、無理して来てくれていたのだった。
実は、私は恥ずかしながら、学生時代にずっとばあちゃんからお金を貰っていた。
自分が苦学生だと知っていて、こっそり母に託してくれていた。
私はそのお礼をちゃんと言えないまま、ばあちゃんの葬式に参列しなくてはいけなかった。
ばあちゃんは調子が悪いのに、病院にかかるのを拒んで、入院もせずに急に旅立ってしまった。
結婚してから忙しさに感けて、ばあちゃんとゆっくり話す機会も無かった。
そのことを葬式の時に本家のいとこの姉に涙ながらに話すと、「気持ちはちゃんと届いとるで」と慰めてくれた。
ばあちゃんは全ての孫(全部併せて11人)を可愛がっていたが、亡くなって一番号泣して哀しんでいたのは、本家の近くに住んでばあちゃんの側にいた四男の娘であった。
私の母がこの七月に亡くなったが、その時のいとこほど泣いた孫はいなかった。
たぶん、祖母は孫と関わることによって、暮らしに生きがいを見いだしていたのだろうと思う。
私も祖母からの無償の愛情に育まれながら成長できた。
祖父母と孫の関わりの大切さを改めて感じている。
私の父母も孫(全部併せて6人)と関わるのを楽しんでいたし、立派になるのを喜んでいた。
自分にはまだ孫はいないし、将来もできないかもしれない。
子供が欲しくてもできない夫婦もいるのだから、高望みは言うまい。
せめて、孫のような子供や若者に、何か尽くすことができればと思っている。
と言いながら、今、関わっている高校生は孫と言ってもおかしくない年齢だが・・・
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