私は前任校の特別支援学校以来、ここ5年間担任をし続けてきた。
授業形態も内容も大きく違う学校で共通して心がけたことは、家族的な雰囲気にクラスがなることだった。
だから、少々の言葉使いのまずさも大目に見てきた。
それは、親に対してずっと敬語で接する子供がいないのと同じだと思っていた。
確かに教師は社会に出た時に身につけなければならない、言葉遣いや礼儀作法を教えねばならない。
しかし、生徒はそこのところは、分かっていて卒業してから出会うときちっとできている。
管理職になったある教師は、「教師は役人だ」と言った。
私は常々、「教師は職人だ」と思ってきた。
確かに、明治以前の寺小屋や塾の先生と、それ以降の学校の先生とは大きく違う。
ただ、役人的な教師が犯した間違いで、戦時中いかに多くの教え子が死んでいったかをずっと語り継がれたはずだ。
いつの間にか、文部省対日教組というような図式に置き換えられてしまった。
しかし、職人である教師は組織を超えて、自分の信念と力量で教育ができると私は思い続けてきた。
残念ながら私はクラスの生徒とはうまくやれても、教員組織とはあまりうまくやれなかった。
前任校などでは高等部の副部長という立場でもあったが、組織をうまくまとめることはできなかった。
今は役職はついていないが、組織の流れにうまくなじめないことをよく感じている。
だから、クラスの生徒には「私の指導が悪いので、来年度は担任はクビだろう」といってきた。
これはクラスの単語テストなどの合格者が少ない事への、生徒に対する叱咤の意味を込めて言った。
実のところは、自分の不適応の本音だった。
そして、クラス全員が英単語テストで合格したら、家でとれたサツマイモをご馳走すると、黒板の上にサツマイモを飾っておいた。
生徒たちは「イモパ(サツマイモパーティー)やろう」と言い続けたが、結局最後までできなかった。
仕方ないので、終業式の日のLHR終了後に解散会をすることにした。
学級の何人かが、歌を歌ってくれた。
学級委員長などは、黒板の上に飾っていたイモをマイクに見立てて踊りながら歌ってくれた。
私は包みの裏に「From Kiyo With Love」と書いた、キットカットをご馳走した。
そして、選曲に困ったけど、前日書いてもらった作文に、「先生のB'zが聞きたかった」というのがあったの思い出した。
「いつかのメリークリスマス」を歌った。
そして、最後は皆で「ultra soul」で盛り上がった。
皆で記念写真を撮る前に、二学期の委員長が代表して色紙を渡してくれた。
その色紙を持って写真を皆で撮った。
後で読んだ色紙にはお礼の言葉などや、来年もよろしくという言葉が書いてあった。
中でも、いつも叱っていたある生徒が「先生にはお世話になりすぎました」とあった。
そのウィットに富んだ言葉を同僚の教師に見せると感心された。
私は「これは、もうこれ以上必要ないと言うことやろね」と苦笑した。
「今回の解散会のような楽しくて、心温まる機会があると教師になって良かったと思う。
自分は良い生徒たちに恵まれている。
ただ、教師になって8割方は失敗したと思っている。」
と色紙を見ながら隣の若い先生に呟いた。
「いつまでも、手をつないでいられると 思っていた」
組織にうまく適応できない老教師の心のつぶやきがもう一方であった。
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