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2014年3月9日日曜日

パッチアダムス

私は機会をみてパッチアダムスという映画を生徒に見せている。
実話に基づいているが、かなり脚色されていることも確からしい。
生徒は自分なりに理解して、映画から学ぶものが多いようだ。
担任しているある生徒は、ことあるごとに「パッチアダムス」と唱えている。

私が、この映画を見せる目的は、既成の権威にとらわれずに、自分が正しいと思うことを学び、そういう仕事に就いて欲しいと言うことだった。
自分の進路選択や取り組みの参考になればと思って見せていた。
しかし、現実は大学進学にしても、その後の就職にしても、厳しいことの含みも持たせていた。
実際のパッチアダムスにしてももっと、泥臭く活動していたようだ。
私自身も、理想とする教育と、実際の学校現場での違いという現実。
自分がしたかった仕事と、生活のために続けている仕事の違いを身にしみて感じてきた。

何度も何度も生徒とこの映画を見ていたのだが、何度見ても同じ場面で涙が出てしまう。
一番の感動は、退学を取り消すための公聴会の場面だが、その時の演説と途中で登場する癌患者だった子供に心が動かされる。
最近、どうしてもある生徒のことを理解してもらいたくて、映画のこの演説を引用した。
映画では医師の資格が無いのにも関わらず、医療行為をしたことのかを問われた時
「医師だけがケアを行うのでは無く、患者もまたケアを行う。誰もが医師で有り患者である。」
というシーンがあるのだが、これを学校にも当てはめた。
「君たちは生徒だが、同時に先生でもある。困っている仲間を見たら先生になったと思って接して欲しい」と呼びかけた。
どこまで、私の真意が伝わったか分からないが、その後の生徒の変化から気持ちは伝わったと思っている。

しかし、教師としての現実は権威というものの一人歩きに立ち向かう術を、組織の中では持てないということである。
仲間が救おうと努力しても、組織の枠の中では救えないこともある。
ただ、その人が生きていこうとする過程の中では、いくらかの手助けになったであろうと思っている。
真の医療を行うために、実際のパッチアダムスは他の所で仕事をせねばならなかった。
真の教育活動や学問を行うためには、それを成り立たせるための現実の仕事をせねばならない。
映画のように最初から寄付などというのはあり得ないのである。
私はパッチアダムスのように、もう若くは無いけれど、自分なりのパッチアダムスを組織を超えて実行したいと思っている。
そもそも、私はいつも組織からはみ出していて、居場所がころころ変わってしまう・・・

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