南山大学の後藤明氏の論文をたまたま読んだことをきっかけとして、大林太良氏の書籍を読みあさっている。
大林氏は私が南山大学に通っていたときに、講演に来られた折りに遠くから、お姿を見た経験がある。
地下鉄本山駅の近くには、文化人類学関係の書籍が多く置いてあった古本屋があったが、大林氏はそこのどの棚に、何が置いてあるか憶えていると言われていた。
私は正直、大林氏の研究には当時関心が無かったので、あまり氏の作品を読んでいなかったのを、今になって後悔している。
後藤氏は大林氏の弟子だそうだで、「知の巨人」と称されていたが、私も氏の書籍を読むにつけてそう思う。
73歳という若さで亡くなってしまったが、もし、長生きされて今のDNA研究に接しておられたら、どんな論を展開されただろうかと思う。
大林氏は岡正雄氏の研究を受け継いで、日本文化の源流を追い求められた。
私も、奄美の文化の位置づけとして、今その研究を行っている。
ちょうど、「邪馬台国」を読んでいるのだが、そこに描かれた倭人の姿が奄美の人と重なって見えるのだ。
そして、赤穂の鳥撫で海運に携わりながら、農作業をしていた私の祖先とも重なる。
ただ、焼畑らしきものはしていなかったが、山の石を商いつつ水稲も作っていた。
私は船乗りになるはずが教師になって、細々と畑をしてきた。
今は完全退職なので、性懲り無く研究に戻りつつ、畑仕事にいそしんでいる。
今力を入れているのは、雑穀作りだ。
ちょうど、もち麦の収穫で、先日から草刈り機に補助器具をつけて刈り取ったり、鋸鎌で刈ったりしている。
脱穀は足踏み脱穀機なのだが、今後籾すりが大変だ。
近所の人がトマトの苗を上げようと言ってくれたが、麦の収穫で手が回らないので遠慮した。
麦だけではなく、高黍を播いたり、落花生を植えたり、大豆もこれから播かねばならない。
既に、サツマイモの苗は植えている。
水稲が入ってくる前には、こういう雑穀を主体に倭人達は生活していたのだと思う。
稲も陸稲として同じように畑で作っていたのだろう。
家庭菜園は野菜作りが定番だが、雑穀や芋類を多く作れば、自給生活に近づける。
今作っている作物は農薬など必要ない。
ただ、どうしても鶏糞や有機石灰を買わねばならないので、それに代わる物や必要としない農法も考えていかねばならない。
また、水田の用水も利用させて貰っているので、行く行くは水田用水からの自立も図ろうと思っている。
水稲モノカルチャー農業からの脱却こそ、私の研究の実践でもある。
大林氏は文献での研究に命を捧げたが、私はフィールドと農業実践の方が合っているようだし、焼酎をよく飲むので肝硬変にならない努力が必要だ。
かつて村落調査をしていて、与路島で奄美の人によく間違えられたが、同じ海人的な形質があるのかもしれない。
このところ、海には行けないので、週に2回はプールに行って2000m以上は泳いでいる。
机上だけで無く、倭人的生活を体験するのも愉快な暮らしだ。
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