私は教師は一種の職人だと思っていた。
社会に出て生きていけるだけに学力、生活力、健康管理力などを生徒が身につける手助けをする。
かつては、家族、親戚、地域の人々が担っていた役割だが、産業社会になって家業などでは生活できなくなった故の仕組みだと思う。
父方の祖父は、家業を継がせるために、子どもに厳しい指導をしたので、子どもから遠ざかってしまった。
長男は、父親と一緒に舟に乗るくらいなら、戦争に行った方がましだと海軍少年兵に志願して、戦死したと父から聞かされた。
私の父も祖父から受けた厳しい体罰や、叱責で苦労したことをよく話していた。
船乗りは命がけの職業なので、祖父はかなり厳しく指導したのだと思う。
そういう私の父も祖父ほどでは無かったが、体罰もしたし厳しくて妥協を許さない方だった。
昔の学校の教師も似たようなところがあって、体罰は当たり前の時代もあった。
私も、教師にも何度か殴られたが、自分に責任もあることは分かっていた。
ある職業高校の他県から採用された先輩先生から聞いた話では、ある先生は生徒に向かってナイフを投げていたという。
投剣術の心得があって、絶対外さない自信があったので、脅すために生徒に投げたという。
それは極端な例だが、チョークを投げていた教師は知っているし、体罰が日常だった教師も知っている。
しかし、今の時代にそういうことをしたら、即、懲戒ものだろう。
今の時代は親も体罰をしないし、教師も体罰をしてはいけない。
私は体罰に頼る指導は邪道だと思うが、学級崩壊を招くのを防ぐには何らかの抑止力が必要であることは確かだろうと思う。
今の時代では説得力で指導せねばならないし、どうしてもだめなら規則や法によって処分せねばならない。
それは、武力に頼らない役人の世界と同じなのだと思う。
今回の斉藤兵庫県知事のニュースで思い知ったのは、官僚、役人の世界のすごみである。
力の源泉は人事権なのだろう、もし、指示に従わなければ部署を変えてしまうことができる。
長く公務員を務めていたら、退職して民間に勤めることがいかに困難かをよく知っている。
私も早期退職してそれを思い知ったのだが、天下りは役職に就いていた公務員にとって、ありがたいシステムだったのだ。
それは、ある学校の元管理職が退職後に社会教育施設で、まともに仕事ができなくても役職について高給をもらっていることで知った。
それで、思い出したのだが、私は管理職志望の教師と初対面の歓送迎会で怒鳴り合いのけんかをしたことがある。
その先輩教師は「教師は役人だから、上意下達が当たり前だ」と私に説教を始めたからである。
その管理職志望の教師は、教師は役人だから上意下達であるべきというのが当たり前だという考えであった。
そういう官僚システムで上意下達の役割を果たしていたら、おねだりもできるし、ちゃんと天下りのご褒美が待っていたのである。
学校現場が徐々に役人教師の世界となって、官僚のようにサービス残業が日常化し、上意下達で管理職の指示に従うのが当たり前になった。
免許更新制などはその最たるもので、教師を法的に分限(罷免)できる手立てとなったが、実際は政府の力を見せつける脅しそのものだった。
私が30歳代の頃までは、職員の校務分掌も自分たちが選んだ世代ごとの代表職員で決めていっていた。
それにも問題があったのだが、官僚システム化でブラックな職業になるのは防がれていたのだとも思う。
これからの時代に、官僚システムをもつ大企業や官公庁、学校がふさわしいのかどうか試されているのだろう。
自信を持って職人の組織に戻るべきとは言えないが、組織の力に頼る方法はこれからの激動の時代にはそぐわないように思う。
それは自民党の派閥崩壊もさることながら、今回のことで県の採用試験の辞退者の多さが物語っている。
そして、残業手当を出さずに給料を上げて金に釣られた役人教師を増やそうというのも本末転倒だと思う。
学校教育も社会教育や民間教育機関との連携を図り、ネットワークを通じて補完し合うべきだと思う。
学校管理職の天下り先に社会教育施設を使うより、一般職員の人事交流も行ってしかるべきだろう。
受験指導に予備校や塾の講師を活用しているが、スポーツ、健康管理やカウンセリングなどにもっと民間機関と連携すべきだろう。
上意下達の役人の縦割りシステムでそういう仕事ができるのだろうか?
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