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2025年2月9日日曜日

心身の支えとしての孫

先日、大学のゼミの同窓生に孫が誕生してじいさんになったので、ライン仲間で祝福のメッセージが寄せられた。

その時に、「ばあさん仮説」を引き合いに、「じいじもばあば」も長生きできるよとメッセージを送ったが、実は正確さには欠けていた。

本当は「男性は高齢になっても繁殖力が続くのに、女性のほうは人生の半ばで子供を産まなくなること」に対する仮説で、子育ての手伝いにばあさんの長生きの意味がある。

しかし、現実的には男性は若い世代と同じように働いていたら、短命に終わるだろうし、老いてから子どもをもうけることは困難だろう。

だから、じいさんにとっても、孫との関わりが長生きを促したようにも思える。

そういえばニューギニアだったと思うが、じいさんは歳を取ると男小屋で、少年と一緒に暮らす例も有ったと思う。

子どもに神話を聞かせたり、狩りや農作業の手ほどきをするのもじいさんの大切な役目だったと思う。


私の父は子どもに対しては、幼い頃は可愛がっていたと思うが、大きくなるにつれかなり厳しく関わっていた。

だから、幼い頃の可愛がられた記憶が忘れられて、思春期に喧嘩した想い出が強く残ることになった。

子どもは男だけで4人もいたことにもよるが、父は職工の気質によって弟と取っ組み合いをしていたようだ。

私の若い頃は父も若くて元気だったので、迫力で負けていて挑もうとは思わなかったが、弟らの時はそれを失っていたのかもしれない。

そういう父は、幼い孫に対しては非常に甘くて、よく可愛がっている姿を目にした。

逆に母は子育てのしんどかった記憶のせいか、孫との関わりはそんなに楽しんでいなかったように思う。

父が死んだ時には、その頃一番幼かった孫の夢枕に立ったことが弟から聞かされた。


2月8日付の朝日新聞の記事で、子ども夫婦の離婚で孫との関わりを失ったじいさんが孫の母親に対して殺人未遂事件を起こした事例が紹介されていた。

生きがいとなっていた孫との関わりを絶たれて精神的に追い込まれてしまったようだ。

実の父には会う権利が認められても、祖父には認められなかったのが大きな原因だった。

母親は祖父が子どもにとって無用と思ったのかもしれないが、祖父にとっても孫にとっても、その関わりは大切なものだったようにも思える。

最近は子どもを虐待する肉親の話ばかりがクローズアップされるが、子どもを通しての絆が結ばれている関係を無視されてしまっている。


ばあさん仮説が正しいとしたら、高齢者が子育てに不要となれば人間の寿命が短くなってしまうことになる。

それは、現代のように高齢者でもできる仕事が無く、年金制度や生活保護で生活も保障されなかった時代や地域の話である。

日本では子育てに役割を失っても長生きできるようになった一方で、抜け落ちてしまったのが幼い子どもとの深い関わりだろう。

多くの高齢者がその代償としてペットを可愛がるのも仕方ないことなのだと思う。

そして多くの高齢者が自分たちだけで娯楽を楽しみ、若い世代との関わりをどんどん失っていっている。

そして、孤独死を迎える人も少なくない。

長寿であることの意味を問い直さねばならない時代だと思う。







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