今年は神戸・淡路の震災から30年になる。
とすると、この年に高校に入学した生徒は45歳になるのだなと感慨深い。
と言うも、当時の私は肢体不自由の支援学校に勤務しており、神戸で被災した生徒が4月に入学してきた。
私が担任したT君はその一人で、地震に遭った時のことを時折話してくれた。
テレビが部屋を吹っ飛んでいったことや、お父さんの足はガラスで切って血だらけだったと話してくれたりした。
当時、この学校は全寮制だったので、兵庫県内だけでなく、住所を移したりして大阪府や徳島県からも入学していた。
特に、神戸近辺の生徒は多かった。
だから、震災のあった年は多くの被災者の生徒が来ることが予測され、T君はその一人だった。
T君は幼い頃に交通事故に遭って、その後遺症が残ってしまった。
入学当初から情緒が不安定で、友人や先生、寮母さんとのトラブルも多かった。
私は1年次から3年次まで担任をしたのだが、得てして担任はトラブルの矢面に立たされる。
担任をしていない部長クラスの教師から、担任としての指導を責められることも多かった。
そんな中で、大きな理解を示してくれていたのが、学年主任のH先生だった。
私はしょっちゅうその先生がいる、理科準備室に行って愚痴を聞いて貰ったり、相談したりしていた。
また、そこには実習助手でカウンセリングにも長けていた女性の先生もいて、コーヒーを飲まして貰いながら、相談に乗って貰っていた。
T君はちょっとしたきっかけで、パニックになったので、その時は私が対応したのだが、時間はかかるけれど、落ち着きを取り戻すには校外での散歩が一番だった。
今は、校外に出る時には、事前に管理職に言っておく必要があるかもしれないが、当時は他の教師に言付けて臨機応変に校外に出られた。
支援学校は田園の中にあったので、車があまり通らない昔ながらの道を、二人で歩いて遠くの公園まで行ったりした。
一緒に歩きながら、とりとめない話をしたり、歌を歌ったりしている内に、気持ちは落ち着いていった。
ある時、T君が道ばたでしゃがみ込んでいる。
何かと思うと、道ばたにあるお地蔵さんに手を合わせて、長い間拝んでいる。
私は、自然と涙がこぼれ落ちいていた。
もう高校生とは言え、両親の助けの必要なT君は、心のよりどころを求めていたのだと思った。
調子が悪くて学校に来られないお母さんに代わって来てくれるお父さんとよく話した。
もとボクサーだったお父さんは小柄ながら頑強な体格をしておられたが、T君のことになると涙を交えての話になった。
ある時などは「交通事故でこうなったのも 自分がボクサー時代に人を殴っていたからかもしれん」と、自分を責めるようなことも言われた。
震災の時には足を血まみれにしながら、家族のために駆けずり回ったお父さんのその時の気持ちが痛いほど分かった。
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