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2025年3月16日日曜日

害木・害竹のはびこる山

 このところ、フィリップ・デスコラ*1「「野生」と「馴化」」*2 読んでいて、考えさせられたことがある。

そこには

(日本の)高地に住む村人たちにとって、葉に光沢のある木や落葉性の木からなる古くからの森は、文明的〔=馴化された〕(domestique)生活のための有益な資源が得られる場所であるだけでなく、そこにいます神々によってその調和や美しさがもたらされるところであったが、それに続いた針葉樹の植林が喚起するものは、無秩序、陰鬱、無規律以外の何ものでもない(knight1996*3)。ろくに手入れもされず、野原や空地を覆いつくし、その商品価値のほとんどを失ってしまった、これらのびっしりと単調に整列する「黒々とした木々」は、もはやその植樹者たちの社会的・技術的管理の手をも免れてしまっている。山としての「ヤマ」、森としての「ヤマ」、人住まぬ場所としての「ヤマ」、これら三つの語は重なり合っている。だが、その全体が馴化されたにもかかわらず、山の人工林は心情的にも経済的にも砂漠と化し、結局は、それが取って代わったところの自然林に比べ、はるかに「未開」の状態になってしまったのである。


日本の山の害木・害竹で荒廃した姿を「砂漠」と表現して、的確に分析している。

私は活用されることも無く、花粉をまき散らして被害を人に与える木を害木と呼び、同じようにはびこって農地や家屋敷に被害を与える竹を害竹と呼ぶことにする。

かつてイノシシや鹿などは貴重な食料だったが、今は山林や農地に被害を与えるから、害獣と言われて駆除する対象になっている。

木や竹は本来が人が植えて管理して活用すべき物だったので、どちらかというと外来の動植物と同じだが、杉は自生したものを増殖させたので少し違う。

焼き畑農耕が衰退して、その代わりに植えらた杉などの木が本州を中心に、花粉症の大被害を発生させているのだから、本来は害木として駆除すべき物だろう。

農地改革を逃れられた山林地主の保護のためであるのなら、本末転倒と言うべきだろう。


こういう人間の都合のために人工林が増えて、餌場を無くした鹿やイノシシ、熊などが害獣として駆除されていく。

害木を減らして、バイオ燃料や食料になる草木や、動物たちの食料となる木々を植えるのが自然環境を守っていくことなのではないだろうか。

日本の学校では乾燥地帯の過放牧や、アマゾンの熱帯雨林の無秩序な開発を環境破壊として学ばせる。

デスコラは日本の山を「砂漠化」として同じように扱ってることを、どう捉えるべきだろうか。

あたかも自然豊かに見える針葉樹の山々が、実は、酸素供給を帳消しにする人的被害の原因であることをきちっと認識すべきだろう。

熱帯雨林も動物や人が多く住むことができる場所ではない、だけど人的被害を出さずに酸素を供給してくれている。

熱帯雨林と日本の人工林は全く違ったものなのだ。

かつて、日本は戦国時代に荒廃した山野を江戸時代に回復させた。

山野は自然の恵みだけでなく、水田の肥料や家畜の飼料としても活用できるし、バイオエネルギーとしての草木材も活用可能だろう。

映画のWOOD JOBでは、魅力的な林業と山暮らしを、伝統的な信仰や祭りを織り交ぜて、郷愁を感じさせて、娯楽として表現してくれていた。

林業地帯の生徒が中学校などで、見せて貰っていることを、山間部の高校に勤めて知った。

確かに林業で生活をしている人も多いので、それなりの対策をする必要があるだろう。

しかし、食糧危機と人口減で建築材が不要になってきそうな将来に向けての、新たなビジョンを示してあげないと、山間部の人たちが暮らし続けることはできないと思う。



*1 フランスのコレージュ・ド・フランスの人類学教授(一九四九年生まれ)。二〇一四年度の「コスモス国際賞(人間・自然・地球をめぐる諸間題の解明を目指す研究活動や業績に贈られる)」を受賞。

*2 『交錯する世界 自然と文化の脱構築―フィリップ・デスコラとの対話』(京都大学学術出版会)

*3 Knight, J. (1996) When Timber Grows Wild: The Desocialisation of Japanese Mountain Forests. In Descola, P. and G., Palsson (eds.), Nature and Society: Anthropological Perspective, pp. 22 1-239. Roudedge.

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