久しぶりに月末金曜夜の「朝まで生テレビ」を見た。「原発問題」だった。
そこでは日本の原子力開発の杜撰さや、国策と電力会社の呆れた関係が露呈された。
いずれ、昼間の番組や、色々な報道で一般に知る所となるだろう。
衆議院選挙前で良かった。原発推進を唱える自民党総裁はただの笑いものになるだろう。
日本を「Japan as No1」と時代にもう一度戻すのだと自民党の安倍新総裁は唱えた。
あの時代、アメリカの映画での悪役は日本の強欲な企業だった。
アメリカの金融政策で日本は奈落の底に突き落とされた。
それを小泉首相はもう一度アジアを裏切り、アメリカに媚びることによって回復させた。
しかし、アジアは日本の政治を見透かし、自国の経済発展に利用することに専念していた。
考えてみれば豊臣秀吉が朝鮮に兵を送ってから、中国とは仲の悪いままである。
その仲を間接的に取り持っていたのが琉球王国だったのだが、日清戦争でその琉球王国再建の望みも完全に消し去ってしまった。
それは政治上、軍事上のことで、中国や朝鮮とは民間レベルではずっと関係はそれなりに続いていた。
中国の共産党にしろ、日本の政府にしろ、国民を豊かにするのだと愛国心を煽る。
一部の企業はそれに連なり、その恩恵は多くの国民に配分されるだろう。
しかし、それにはリスクを伴っていることも知らすべきである。
戦前に多くの命が戦争で奪われたが、現代ではその経済政策のために多くの人が職を失い、自殺したり生活保護を受けることになった。
国民国家とは、本質的にそういうリスクを伴うものだということを、私は認識してこなかった。
このところオルランド・パターソン著『世界の奴隷制の歴史』 明石書店(2001年)を読み続けているのだが、「奴隷は解放されて市民になった」という引用はどきっとさせられた。
封建社会の農奴から解放されて市民となった日本人は、市民の真の意味を知ろうとしなかった。
家や親族を解体させ、福祉を国家から保証される代わりにいざというときには戦うか、さもなくば国家の政策の意のまま生活するのである。
生殺与奪の権を握られているのは、昔も今の同じなのである。
本来は平和憲法自体が独立した国民国家としては矛盾しているのだが、アメリカとアジアへの偽装工作のために維持してきた。
原発のパンドラの箱が開き、 今度は、国民国家のパンドラの箱が開こうとしている。
マスコミや教育が愛国心を唱えるのは良いが、これまで日本の近代化の真の歴史と、国民国家の真の意味もちゃんと納得させて欲しい。
テレビの解説での尖閣列島問題では、琉球王国の滅亡の歴史は隠蔽されたままだ。
これを言い出すと本当にパンドラの箱が開いてしまうが、最低、北方領土も尖閣列島も根本的には戦争によって帰属が決まったことは同じと考えに行き着くべきだろう。
100年に一度の大恐慌の後に、過去と同じ世界大戦が起こらないように、国民国家の存在そのものを問い直す必要を感じた。
そして、我々の豊かさの正体はあまりにもリスクが大きいことも考えざるを得なかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿