『写真アルバム 赤穂・相生・上郡・佐用の昭和』樹林舎が出版された。
この出版に際しては、宮崎素一氏より写真説明やリード文(解説文)の依頼があった。
私は赤穂に関しては、生まれ育ちでありながら、あまり地域研究には関わってこなかった。
原稿の依頼は市の市史編さん室にあったようだが、対応が難しくて宮崎さんの方に依頼されたようだった。
執筆には自信も時間も無かったが、恩義のある宮崎さんから頼まれたら引き受けざるを得なかった。
過去の写真集をあたってみると、赤穂における郷土研究の重鎮が関わっているのが分かった。
そして、前回の出版されたこのシリーズは、赤穂に関しては故西畑俊昭氏が中心となっていた。
西畑氏が生きていたなら、今回もその役割を担っていただろうと思う。
つくづく、赤穂にとっては大切な人を亡くしてしまったのだと、改めて思わざるを得なかった。
写真集の風景は昔を思い出してくれるのだが、物心つく前の風景はまるで別世界である。
おそらく今の若い人がこの写真集を見たら、殆どがそうなのだろうと思う。
今の赤穂の職場に赴任してから、赤穂市内を出歩く機会が増えた。
赤穂市内の様子は、昔の姿を断片的に残してはいるが、ずいぶん変わってしまった。
私は今57歳だが、50年という年月の流れを改めて思い知らされた。
竜宮城へ行かなくても、もし50年前に赤穂を離れていきなり戻って来たら、その変化に驚かされるだろう。
そう言えば以前50年ぶりに行った金比羅さんは初めて行ったのと同じ感覚だった。
そして、浦島太郎同様に自分は白髪頭の老人になってきている。
昭和という時代ほど日本が激変した時代は無かっただろう。
変わることが良いことだ、美しいことだと思ってきた世代でもある。
本当は良い物を大切に残していく方が難しかった時代なのだ。
私たちが幼い頃に神社や寺であふれていた子供の遊ぶ姿はもう見かけない。
土曜の昼によく行った近所のお好み屋。
寒い中を父親と一緒に行った近所の風呂屋。
その他、八百屋、豆腐屋、駄菓子屋、酒屋、魚屋、散髪屋などの多くが消えていった。
そこにはお金と品物のやりとり以外のものがあった。
写真アルバム集もいずれ過去の洛中洛外図のように歴史公証の材料となるのだろう。
その時代に生きた人がどう思い、どう感じていたかは、想像の域を出ない。
ただ、時代の記録は自分たちの体の中、そして子孫の体の中にはDNAとして残り続ける。
この頃よく思うのは、DNAが自分たちの体や心を借りながら時代を超えて生き続けているのだということである。
生物の先生は命を繋ぐことの大切さをよく強調される。
確かに子孫を残して命を繋ぐことは大切である。
しかし、地球上に生命誕生以来、DNAは人以外にいろんな姿で生き続けている。
写真アルバム集は確かに人の営みを中心に掲載されているのだが、そこには別の生き物との関わりもしっかりと写されている。
そういう風に見れば単なるノスタルジーに浸るためだけのものでは無いようにも思える。
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