ある同僚の教師は自ら揶揄して「お日さん 西西で過ごせてる」とよく言っていた。
彼は臨時講師の時代をいくらか経験していたから、教諭になってそう感じたのだろう。
私も臨時講師を経験しているが、それほど長い期間では無く採用試験も一度で済んでいる。
また、学生時代に色んなアルバイトをしていたが、身分はあくまで大学生や大学院生だった。
今の身分は期限付きの臨時雇用の指導員に過ぎない。
父親も私と同じ頃に転職しているが、ちゃんと正規雇用されていた。
だから、少し立場は違うが、学童の仕事をしている家内や、かつてパートの仕事をしていた母親とあまりかわらない。
私の母親は私が小学生だった頃から、内職の仕事をしていた。
子供が4人もいて、その頃は祖母も隣には住んでいなかったから外で働けなかった。
私が中学生になった頃から、新宅では隣に祖母がいて母親はパン屋にパートで働き始めた。
昨年も偶然、定時制の高校勤務でそのパン屋を継いだ息子さんに出会った。
彼は定時制高校の給食として、パンを提供していたからである。
彼は、母親にとっては雇い主の息子だったが、私の弟が家庭教師をした弟の教え子でもあった。
1歳違いの弟は大阪大学で学んでいたので、夏休みなどで請われて家庭教師をしていた。
因みに、南山大学の私は家に戻ると土木作業しか仕事が無かったので、そのうち名古屋でバイトすることが多かった。
というようなことで、母親はパン屋さんでも良くしてもらって上手く勤めていたようだった。
何せ、息子が4人もいたし、上二人は中学から私学に通い出したため、もっと稼がなくてはならなくなった。
両親は、親戚の敷地を借りて小学生相手の駄菓子屋兼の文房具屋を開業した。
母親は朝早い登校時の時間と、放課後から夕方まで店で働いた。
その空いた時間に、パン屋で働くという生活だった。
原付自転車のカブに乗って、中浜の自宅から文房具屋のある鷆和まで通った。
先日も母親と話した時に、雪の道でもバイクに乗っていくのが怖かったと言っていた。
その母親も、私が大学院の頃一度、バイクに乗っていてダンプにはじき飛ばされたことがあった。
幸い怪我は大したことは無かったが、子供のためにその後も働き続けなくてはならなかった。
今から思うと無茶な働きぶりだったと思う。
母親は時間の都合などで、パン屋をやめて別のパートを転々と勤めた。
私が教員に採用された後も、母親は別のパートの仕事をしていた。
一度、とある駅前通りにある食堂前の道ばたで洗い物をしている姿を見て、もうパート仕事を辞めて欲しいと言った。
母親もその仕事は辛かったようで、私の言葉を利用してパートの店を辞めてくれた。
子供が自立した後は、生活に余裕が出て民謡やカラオケを楽しむ生活となった。
今ではそんな苦労をしたことさえ忘れてしまって、口に出すことは滅多に無い。
自分が今の苦しい立場を話したのを聞いて、思い出したようだった。
私はそれがむしろ、親の恩を知るきっかけとなった。
恥ずかしいことだが、自分が母親が苦労していたことを振り返ることをしないできていた。
自分が母親のように弱い立場に立って、初めてその苦労が本当に分かるようになったように思う。
弱い立場にならないと分からないことがあるものだと、情けないことにこの歳ながら思い知った。写真は鳥撫(鷆和)の神社でのお宮参りの母親と私
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