私の今の職場は教員免許が必要で、教師になるために勤めている人もいた。
しかし、なれる人は殆ど無く、一般企業に転職する人が多い。
採用試験前に仕事が多忙で、採用試験の勉強をする余裕など無いからである。
これは、学校に常勤講師をしている人も同じで、教師をしていた当時も常勤講師を長くやっている人が学校には多かった。
私は博士課程への進学の夢を絶たれ、やむなく教師の道に進んだ。
「デモしか教師」というの言葉が、当時はまだ残っていた。
「教師デモなるか、なれるのは教師シカ残っていない」という、学生運動世代の言葉だと思う。
しかし、私の世代はそれ程教師になるのは簡単では無かった。
私は博士課程への進学を再チャレンジも考えて、一時は環境調査のアルバイトや横浜市に残り塾の講師もした。
当時勤めていた塾には、東大出の塾講師もいたり、研究職を志す人もいた。
しかし、塾の講師の荒んだ不安定な現実も知り、帰郷して高校教員になる道を選んだ。
最初は、専門の文化人類学に近い地理を受験しようと思った。
しかし、地理は採用人数が少なく、採用される可能性が低いので世界史にしようと思った。
因みに私は南山大学の入試では世界史を用いて合格できていた。
しかし、採用試験までに2ヶ月ほどしかなく、世界史の受験には時間がないと思って日本史にした。
ただ、当時は完全に失業状態で、採用試験の受験勉強だけに時間を費やすことができた。
東京から落ち延びて、無収入で将来もわからない「負け犬」のように観られていることを感じていた。
当時は修士といえど、文系は新卒以外に大手企業就職は殆ど無理だった。
同じ研究室にいて修士で終わり、就職した人の中には語学力を活かしてテレビ番組の制作に携わったり、地方公務員になる人はいた。
私にはどちらも不向きであると思っていた。
だから、安定した生活を得るためには、どうしても教師になる道しか残っていなかったのである。
兵庫県の採用試験の一次を日本史で受験して、その後は臨時講師をした。
私は中学高校は私学出身だったので、学校現場に相談できる先生はなく、直接教育委員会に問い合わせた。
年度の途中での臨時講師はあまりなく、最初は姫路の白鷺中学で海外研修に行った英語教師の裏を受け持った。
家庭教師や塾では英語は教えていたが、中学校での授業は非常に戸惑った。
採用試験は一次は合格したが、臨時講師は一ヶ月ほどで終わった。
二次試験は集団面接と、模擬授業だったが対策もまともにできていなかった。
生徒に薦められる日本史に関する本を聞かれたが答えられなかった。
模擬授業の題は「安土桃山文化」だったが、解説はできたが板書が全くできなかった。
私は不合格を覚悟したが、結果としては補欠合格ということになった
その後は、赤穂東中学校で病気になった数学教員の裏として、1年生と3年生の数学を教えた。
長い間数学はやっていなかったので、3年生の図形の証明問題で授業中につまづくこともあった。
その後は、赤穂市の発掘調査の土木作業をしたりした。
そして、尼崎小田高校の産休の先生の裏として、常勤で1年の学年付で現代社会を担当することになった。
この仕事は、たとえこの年採用が無くても、続けられる仕事だったが、何とか採用された。
初任校は赤穂養護学校(特別支援学校)だった。
当時の私は養護学校がどういうものかわからなかったが、喜んで赴任した。
とにかく、進学を諦めて教員になるまでの一年間は、塾の講師や中学校や高校の講師、発掘の土木作業員などを転々としていた。
若い臨時講師の先生には安定した生活を望む人も多い。
既に結婚した人もいるから仕方ないかも知れない。
ただ、現役の大学生や大学院生と採用試験で競うにはそれなりの態勢が必要だろう。
臨時講師としての実績を採用試験で大きく評価してくれれば良いのだが、そう単純では無さそうだ。
私が教員になれたのは、たまたまその時に安定した生活がなくて、採用試験に集中せざるを得なかっただけかも知れない。
まさしく「捨てる神あれば拾う神あり」であった。
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