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2018年3月20日火曜日

人生を左右する奨学金

だいぶ前になるが、卒業後に奨学金が返せなくて、本人のみならず保証人の親が破産する事態に陥っている記事を見た。
そこで思い出したのは、自分の奨学金のことだ。
私は奨学金には、嬉しい思いと悔しい思いがある。
嬉しかったのは大学1年生の途中からもらった特別奨学金である。
当時、実家からの仕送りが少なく、名古屋で苦しい生活をしていたので助かった。
悔しい思いをしたのは、大学院で奨学金をもらえなかったことである。
私には3人の弟がいたので、大学院では親からの援助は全く得られなかった。
当時、奨学金がもらえなかったことで、授業料や東京での生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れなくてはならなくなった。

奨学金がとれなかったのは、予約奨学金に応募できなかったからである。
私は、大学4年生の時に東京都立大学大学院への進学を志した。
私の指導教官からは、「おまえが合格するには数年かかる」と言われていた。
実際自分にも、合格する自信が無く、4年生の受験はとっかかりだと思っていた。
実際、フランス語の問題も論述もあまりできたと思わなかったので、初日の試験の後は友達と飲んでいた。
翌日、一次試験合格の3人の一人になっていて驚いた。
私以外は国立大学で、埼玉大学と神戸大学だった。
二日酔いの頭で、2次の面接に臨んだが、自分が受かるとは思わなかった。
4年生ではとりあえず卒業して、アルバイトでもしながら学費を貯めて進学に備えようとしていた。
そのために、受験後は卒論のために奄美の与路島に調査に行っていた。
そこで、合格の知らせを聞いて驚き喜んだ。
しかし、それはある意味で苦難の始まりだった。
つまり、すぐに予約奨学金に応募しなくてはならないのに、調査のために時期を逸してしまったからだ。
それでも、入学時に奨学金がとれることを期待した。
しかし、同じ1枠に応募してきた競争相手は親の年収が200万円にも満たなかった。
相手は、東京在住の自営業者で、そんな年収で生活できるはずも無いと思われたが、仕方ないことだった。
わたしは奨学金をもらうことができなかった。

私はその後は郵便局でのアルバイトに始まり、警備員のアルバイトで夜警をしたあと、家庭教師をすることで生活を維持した。
しかし、授業料を納めることができないこともあり、一時は出席停止処分寸前にも陥ったりした。
大学院の先生から「お金を貸してやろうか」とも言われたが、何とか納めることができた。
とにかく、家庭教師を週に2回の家を3軒受け持ったりして、生活するだけでやっとという生活になった。
そして、それを打開するために無茶な所帯を築いてしまった。
結局、研究も所帯も行き詰まり破綻して、ひとり故郷に戻らざるを得なかった。
「もし、予約奨学金がとれていたら人生は変わっていた」とその後、悔やみ続けた。

しかし、今から思えば人が3年かかって修士論文を書くのを、4年かければ良かったのだと思う。
また、仮に博士課程に進学できていたとしても、まともに就職できていたかどいうか。
若い時は1年がすごく重く長く感じる。
長い人生においては、1年や2年は大したことは無いのだが、長い目で考える力は無い。
私には長い目で見る力は全く無かった。
ただ、怪我の巧妙というべきか、その後は生活を安定することに尽くした。
教員となり、奨学金の返済も免除されて、人並みの家族に恵まれた。
そのくせ、3年も早く退職したのは、当時果たせなかったことへの悔いが残っていることも一つの大きな理由である。
家内には本当に悪いと思いつつ、やり残した人生の宿題をやり遂げなければ気が済まなかった。
当時果たせなかった自分の研究を、仕上げた後にどうなるものかは分からない。
それでも、せめて残り少なくなった人生を悔いの無いように過ごしたいのである。
いつか、「とれなかった奨学金のせいにしなくても済む人生」が今の大きな目標なのである。




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