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2018年7月7日土曜日

講堂学習と史跡見学

閑谷学校の指導員としての仕事の中で、他の研修施設と大きく違うのは講堂など歴史史跡に関わることだった。
結局、講堂学習では論語の指導はしなかったが、掃除での箒と雑巾指導を行った。
史跡見学では、日本史の教師の本領を発揮というよりか、私独自のやりかたでやらせてもらった。
結構長い時間説明する場合もあって、山を登り目隠しをして降りてくるブラインドツアーよりも大変だったこともあった。
しかし、何よりも自分らしさを出すことができる仕事だった。

因みにこのときには閑谷学校でかつて学んだ大鳥圭介のことをよく話をした。
大鳥圭介は上郡ではよく知られた人物だが、近隣の市町村でもあまり知られていない。
年配の人は漫才師の鳳啓助はよく知られているが、彼が大鳥圭介を尊敬して芸名にしたことは知らない。
閑谷学校の史跡にも卒業した偉人のことをパネルで紹介しているが、三木露風はあっても大鳥圭介は紹介していない。
だから、あえて大鳥圭介を紹介することが多かった。
自分は大鳥圭介にはそれほど思い入れはないけれど、薩長びいきの歴史観にはずっと疑念を抱いていた。
(私が奄美びいきで、その植民地支配の実態を知っているせいでもある)
だから、司馬遼太郎のように大鳥圭介をこき下ろす、小説家には反感さえ抱くことになった。
私は幕末の薩長の役割は評価するが、結局日本を破滅させアメリカの従属国家にさせた責任の多くがあると思っている。
特に軍部の中枢を握り続けていた薩長を中心とした藩閥の責任は大きいと思っている。
大鳥圭介は結果的には明治政府に協力して日本の近代化に貢献するが、それまでの不器用な生き様は親近感がわく。
その大鳥圭介は閑谷学校の椿谷へ深夜に行って、胆力を鍛えていたというのだから面白い。
因みに、研修センターの宿直に関わって、歴史を背負っているだけに怪奇話が多かった。

閑谷学校の担った教育の歴史に関しては、まだ十分に学んではいないが、非常に興味深い。
特に赤穂からは塩田地主を中心として、多くの生徒が学んでいる。
藩を超えて非武士のエリート教育を担った閑谷学校の役割をきちっと評価するべきだと思っている。
閑谷学校は約350年の歴史をもつ講堂を中心とした史跡そのもの価値を高く評価されている。
それはそれとして、儒教というものがはたしてどのように地域社会に影響を与えたのかも知りたいと思っている。

もう一つ面白いのは、中心となる孔子廟の東隣に藩主池田家の閑谷神社、さらにその東側に創立者池田光政の遺髪などを納めた塚が椿谷にあることだ。
儒教と神道と心霊が同居している場所であることはいかにも日本らしい。
朝鮮半島の郷学には孔子を祀る祀堂があったようだが、それ以外に祀っていたのだろうか?
ある意味で私の母校淳心や南山大学は傍に教会があったが、それに並列させて神社やお寺を建てるのと同じになる。
因みに南山大学では地鎮祭はちゃんと神父さんが行った。
まさしく、閑谷学校は神仏習合ならぬ神儒習合の学校なのである。





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