「観音さん」正式な寺の名前としては、「宝重寺」といい、弓削道鏡が神護景雲の頃(767~769)に建立されたという。
その後荒廃したものを、嘉吉年間(1441~1443)に再建されたという。
この寺に安置されている「観世音菩薩」を30年に一度、開帳して祭りを行っているのである。
このご本尊は近年一度盗難に遭ったが、その後知らぬ間に戻されていたという。
盗難されたときに複製したので、それを合わせると二体観音像はまつられていることになる。
我が家は今年は隣保長を務めており、この大祭のために色々と手伝わねばならなくなった。
この大祭に合わせて、昨年から中野の各家から寄進を毎月募って、お寺の改修工事を行ったりしていた。
そして、今回の開帳祭りでは、法要の後で稚児行列が行われ、その後餅投げ、昼食会、余興というプログラムが予定されていた。
法要に関しては、本来はこの寺は禅宗だったそうだが、近隣では禅宗寺が殆どないので、近隣の浄土真宗の寺の住職が4人で勤めることになった。
稚児行列の参加を募ったが、当初は集まりが悪かったが、親戚縁者を辿ってなんとか数は集まった。
一番困ったのは、昼食会での振る舞いで、村は二つの字に分かれているが、我が家の属する上中野も、下中野の「やきそば」のように何か作らねばならない。
結局、JAに勤めている役員が唐揚げを作ろうと提案して、フライヤーもJAから借りることになった。
大祭前の金曜日から、家内は仕事を休んで持ち作りの手伝いに行った。
全部で90kgある餅米を搗いて丸めるのに、手が真っ赤になったと言って戻ってきた。
次の土曜日も、その餅の袋詰めの手伝いに出て行った。
そして、赤飯と餅が各家に前日には配られた。
私は大祭当日に、唐揚げの手伝いとして参加することにしていた。
3日とも家内にやってもらうのは、負担が重いと思ったからだ。
本来は、隣保長の男性は法要や稚児行列にも、式服を着て参列しなくてはならない。
しかし、私は唐揚げ準備にかこつけて普段着で参加し、式典には加わらなかった。
そして、準備をしながら気楽に眺めて、携帯電話で写真を撮っていた。
公民館での法要 |
稚児行列 |
宝重寺での法要 |
餅まき |
私は振る舞われた、ちらし寿司や久しぶりの本物のビールを飲みながら、ゆっくりできた。
余興が始まり、近くの公民館で練習しているフラダンスチームが、踊りを披露してくれた。
仏教関連の大祭にフラダンスとは、少し違和感を感じたが、結構皆さん上手で、観客も見入っていた。
そして、子供会から余興は、荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」の盆踊り版である。
これも自治会長さんなども参加して、微笑ましく感じられた。
最後はお決まりのビンゴゲーム、これがやたら長く続いた。
そして、終わって私たち役員の男性は片付けに入った。
こうして、30年に一度の大祭は幕を閉じることになった。
おそらく、30年後には私はこの世にはいないだろう。
村の人にとっても、30年に一度の機会なのだから、もっと集まってきても良さそうにも思えた。
ただ、私はたまたま隣保長になっていたから、参加したのであって。
もし、そうでなかったら参加していなかっただろうと思う。
そうは言いながら、観音さんには何か困ったりしたら、お参りに行ったりする。
正月も欠かさず、お参りに行く。
ひっそりしたお寺は、それなりに心のよりどころになっているのである。
大祭は寄付を募って修繕する口実でもあるので、お寺を維持するためには欠かせない。
こうして何百年もお寺は守られてきたのだろう。
時代の流れが速い今だからこそ、こういうお寺の価値を見直すべきかもしれない。
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