私が奄美諸島を研究し始めたのは、南山大学の文化人類学研究会の先輩が与論島を村落調査しており、それに憧れを持っていたからである。
ただ、思い起こせば、高校生の頃たまたま近くの唐船という海岸でに夜行った時、不思議な人達が太鼓を打ち鳴らして、踊っているのをずっとながめていたことがある。
沖縄の人か、奄美の人か分からないが、八月踊りを浜辺でやっていたのだろう。
考えてみれば、兵庫県は神戸を中心に奄美や沖縄出身者が多く住んでいるので、そういう人と出会うことは別段不思議ではなかった。そもそも、神戸の川崎重工は鹿児島出身者川崎正蔵が創立した。有名な松方コレクションは、川崎重工の前身川崎造船所の社長松方幸次郎が収集したものである。その父親は有名な松方正義で鹿児島県出身者であった。
この川崎重工には奄美諸島の沖永良部からの出身者が多く働いていることは、『阪神都市圏における都市マイノリティ層の研究』 西村雄郎 2006 社会評論社を読めばよく分かる。
このところ、奄美に関する2冊目の出版を手がけて、あれこれ文献にあたっているのだが、島津藩の奄美に対する植民地支配との関連から、砂糖の文献をいくつか読んだ。砂糖という物が世界的にいかに植民地支配と関わっていたことがよく分かった。
一方、塩は殆ど自分には関心がなかった。私の赤穂での師匠、故廣山堯道氏(元赤穂高校の教師 元赤穂歴史博物館館長)は赤穂の塩の研究の権威であるし、知人には何名か塩業の研究者がいるのだが、研究しようとは思わなかった。
江戸時代の専売制ということを調べると、砂糖と塩は類似点が多いと言うことも分かった。知人西畑俊昭氏によれば赤穂は専売制とは言えないということだから、飛び抜けた塩業経営者の支配と言うべきなのだろう。
奄美は世界史的には植民地的支配による黒糖政策と言うべきだろうが、日本史的には最も過酷な専売制とも言える。その中で、ヤンチュと呼ばれる人身売買された人が多く生じたことは有名である。
一方の赤穂は過酷な労働を行う浜子という塩田労働者がいたことで知られ、私の住んでいた尾崎は塩業労働でトラコーマになる人が多かったことが、世界的に知られていたという。 ただ、浜子は契約によって働き、人身売買によるものではなかった。
奄美は沖縄と並んで黒糖の生産地として有名であり、一方赤穂は先進的な塩田技術による塩の生産地として有名である。労働形態の大きな違いはあるが、過酷な労働が行われていたこと以外にも、飛び抜けて富裕な現地経営者がいたことが共通している。
奄美大島では衆達として、田畑家が有名だが、赤穂では柴家、田淵家、奧藤家が有名である。江戸時代に行政支配者であった士族との関連も調べてみると面白いかも知れない。
明治以降は砂糖は台湾などの植民地支配によって廃れていき、一方、塩は専売制によって生きながらえていった。赤穂はイオン交換技術での生産が融雪剤生産や、海洋深層水の生産、赤穂ブランドによる「天塩」の販売として生き残ってはいる。奄美諸島ではキビ酢などの新商品も開発されているとはいえ、黒糖そのものは沖縄県ほどのブランド価値は維持できていない。
こうやって奄美諸島を研究し続けていることが、赤穂の歴史への関心にも繋がったことは愉快でもある。 廣山堯道氏の恩にも報いるためにも、その比較をいずれ行ってみたいと思っている。
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