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2012年6月15日金曜日

平家伝説と小野豆

私の住んでいる上郡の高田地区には小野豆という山頂集落があり、今では廃屋も目立つが、何軒かまだ暮らされている。そこには平家伝説が残っていて、上郡町のホームページには次のような物語が載せてある。

小野豆の集落は、寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた経盛たちが、播磨の国の西端、相生の入り江に上陸し、人目を避けて山深いこの地に隠れ住んだといわれています。その小野豆へ源氏の追手が現れ、川に茄子の蔕が流れているのを発見し、草や木を掻き分けて探している最中、鶏の鳴き声が聞こえ、経盛はジャンジャン穴と呼ばれる洞窟に潜んでいるところを見つけられてしまい、助かる見込みがないと判断し、自害したと伝えられています。経盛の死後、家来たちは小野豆で一番見晴らしのよい場所に主を弔いました。その後、そこに建てられた寺は経盛の法名の真勝院から真勝寺と名づけられ、山号は三位卿の三位をとって三位山としました。また、小野豆の集落では、この由緒から昭和6年まで鶏を飼ったり、茄子を作ることはしていませんでした。[http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7069]

この小野豆にはよく運動がてら散歩に行くのだが、たまにジャンジャン穴にも立ち寄ったりする。ただ、入口がえらく狭くて本当に中に入ったのかと思うくらいである。
そこから少し上にある平家塚からは遠く瀬戸内海を見ることができ、確かに物語の叙情を醸し出してくれる。
真勝寺も以前は残っていたが、いつの間にか取り壊されて、跡地だけが残っている。住んでいる方もご老人が多いので、不便なこともあり、いずれ廃村になってしまうかも知れない。ただ、寒い上郡にあっては霜も降りず、意外と暖かい暮らしやすいところと言われている。
もっと山奥に入れば、ゴルフ場にしかかって道だけが残った所が広がり、山歩きやモトクロスもできる。
私は以前は桑の実などを採りによく山に登った。ここには以前住んでいた人が植えていた桑以外に、柚なども残っており、誰も採らずに放置されていたりする。
しだれ桜は有名だが、道が狭いため事故が起きたりするので、シーズンでは麓の空き地に車は停めて、歩いて上がった方が賢明である。途中で見える風景もなかなか良い。
移り住むか、山小屋を持ちたいと思った集落だが、大雨で道が途絶したりする。
手入れできない植林された場所は木が倒れたまま放置されたり、山肌が崩れたりしている。
ちょっと住むのをためらう場所となってしまった。

最近奄美のことを色々調べる内に、喜界島には小野津という所があり、そこの近くにも平家伝説が残されていることが分かった。
観光案内のホームページには次のようなことが書いてある。

その昔、壇ノ浦の戦いに敗れ、南島に落ち延びた「平家の落人」が残したものであると伝えられております。
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着き、島に上陸すると、源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。[http://kikaijimanavi.com/rekisibunka/a/heikemori.shtml]

奄美諸島には数多く平家伝説が残っており、たまたま地名が「おのず」と「おのつ」と似通っているだけかも知れない。
そもそも、奄美では与路(ヨロ)は本来、本来ユンと発音していたりして、漢字読みが従来の発音ではない場合が多い。
これは上郡に関しても昔発音されていたのとは違う漢字表記音になっているかも知れない。
共通しているのは、外部からの侵入に対する警戒である。上郡の小野豆は昭和初期まで警戒を続けていたことが分かる。
喜界島は琉球王朝に対しても最後まで抵抗していたことから分かるように、本来は独立性の強い先進地域であった。

また、加計呂麻島(カケロマジマ)の生馬(イケンマ)の生まれ、美人 ウラトミは役人の妾になるのを拒み小舟に乗り流されて小野津に着きここで暮らす、娘のムチャカナも美人であったが故に友の嫉妬にあい死を遂げる[http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/introduction/kikai2.html]。という抵抗の物語も体制への抵抗を物語っている

上郡の歴史も赤松氏の嘉吉の乱における室町幕府への抵抗はあまりにも有名である。
この上郡は中世において播磨の中心であったのにも関わらず、現在はあまり知られていない。明治維新期に活躍した大鳥圭介と上郡を結んで考えてくれる人も少ない。

一端歴史の時流から離れてしまうと、忘れられるところは喜界島と共通しているのかも知れない。

現代の上郡町は兵庫県で学校給食が唯一無い校区として保護者には評判が悪い。市町村合併の際も、すったもんだして結局赤穂市との合併は果たせなかった。
赤穂生まれの私はまた赤穂人にもどれることを楽しみにしていたが・・・
ただ、私のような東京から都落ちした者にとって、晴耕雨読のできる自然豊かなふさわしい場所のように思えたりもしている。別に隠れて住んでいるわけではないが・・・

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