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2018年12月16日日曜日

涙する思い

先日、とある新聞社の方と話す機会があり、その方は大学4年間新聞奨学生をしていたという。
私はほんの数ヶ月新聞奨学生をしただけで、恥ずかしいと思いつつ。
当時、私が新聞奨学生として、新聞を配りながら涙したことを話した。
そうすると、その方もやはり新聞を配りながら、涙が溢れたことを話してくれた。
自分は親の反対を押し切って勝手にしたことなのだが、その方は経済的な理由でそうせざるを得なかった。
実は私は高校時代マスコミ関係に進みたいこともあって、新聞奨学生にも応募した。
その方は、新聞奨学生を続けたことがきっかけで、新聞社に就職したという。

定時制の生徒の中には、自分の学業のためと言うより、家族のために働かなければならない生徒もいる。
そんな中で、何のために苦しい思いをして、アルバイトをしているのかと感じていしまうのも当然だ。
恵まれた環境の人たちはいくらでもいる。
なぜ、自分だけがなんでこんな辛い思いをしなくてはいけないのか。
それは、新聞配達をしながら学業を続けていた人にも通じることで、その新聞社の方もそう言っていた。
そんなやるせない気持ちに接すると、涙しか流せない自分がいた。
生徒に教えられた思いがした。
自分のために働ける者の方が、まだ幸せだったのだ。

私は以前のブログで生徒に良くパッチアダムスの映画を見せる話を書いた。
「患者は同時に医者である。」
つまり、病院は医者が患者に一方的に治療するところでは無くて、患者から医学を学ぶところでもある。
これは学校も同じであった。
教師は一方的に生徒に教えるのでは無くて、生徒から教育を学ぶところである。
これは子育てをする親が、子育てを通して親として成長するのと同じなのである。

辛い思いをしている生徒には、何もしてあげることはできないかも知れない。
ただ、その思いを少しでも受け止めて力添えできることが、せめて教師にできることなのかも知れない。
単純労働者を外国から受け入れることによって、ますます不遇な境遇の生徒は追い詰められるかも知れない。
それなのに、新聞社の方によると、今は新聞奨学生への応募者も殆どないそうだ。
つまり、恵まれた境遇の生徒が多い一方で、辛い思いをしてでも学業を続ける段階まできていない生徒もいる。
社会は不平等の両極に引き裂かれているのかも知れない。
そして多くの教師自身も、長時間の仕事で涙する力さえ失っているのかも知れない。


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