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2024年6月27日木曜日

多様性の喪失が生んだ観光産業

 六世紀の江南(中国)の文化

「呉人の亡者【もうじや】、建康(今の南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿儂【おいら】と言い、ふたこと目には〈阿〉の連発。菰【まこも】の芽と稗【ひえ】が代用飯【めし】、茶が飲物代わり。じゆんさいの羹【あつもの】をガブガブ、蟹の黄【こ】をクチャクチャ。手には荳蔲【ずく】をつかみ、口には檳榔【びんろう】を嚼【か】む。(中崎)中洲のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実・蓮の根に嚼【かじ】りつき、鶏頭【みずふき】を採り歩いて、蛙や蚌【あさり】の吸物の御馳走。(後略)『洛陽伽藍記』」


考古学者森浩一は、縄文時代の後期から江南文化の流れをくむ倭人が、西日本を中心に生活していたことを述べている。

現在では弥生時代開始が紀元前10世紀頃と古くなったので、弥生時代と言うべきかもしれない。

ただ、考古学は水稲栽培を目安に弥生時代としているので、上の内容では稲とはあまり関係なさそうだ。

それにしても、1400年前の江南の暮らしが、今でも日本に受け継がれていることに驚かされる。

よく、縄文人と弥生人の混血が日本人となったと言われているが、縄文時代から既に渡来による混血が始まっていることは最近のDNA研究で分かっている。

考古学の石器・土器の成果や、人骨が貝塚でしか見つからないので、縄文人は均質だと思われてきたが、それは誤りだろう。

貝、骨や竹、木材、草縄を用いた生活や、食人、風葬の習慣のある古代人の痕跡は日本では殆ど残らない。

だから、縄文時代の石器は北方系、人骨は南方系で矛盾したことになっている。

それより、現代人のDNAに残された多様性の方が確かなのだ。


近代では血のつながりを頼りに民族を創設してきた。

政治家が日本人の単一民族と口にしてきたのも、愛国心を煽り富国強兵のためだった。

日本人の多くは、先祖を国外に見いだそうとはしないのは、まさしく「作られた伝統」である民族意識からだろう。

その民族創設のために、言葉や暮らしぶりを均質させた近代こそ多様性を失った時代はないだろう。

その一方で、衣食住の全てが産業社会の流行に乗って見かけの変化をしてきた。

皮肉なもので、均質化・流行化された近代都市文化とは違う、古来の文化や自然景観がインバウンドの資源となっている。

しかも、観光産業は自動車産業の次に利益を上げているという。

こういうときこそ、我々の住む農村部は、観光産業に力を入れるべきであろう。

オーバーツーリズムに苦しむ観光地から、自然を楽しむ滞在型の観光地として取り組むべきだと思う。


私の住む上郡は赤穂のように観光資源はないが、コウノトリが飛来するほどの自然豊かなところだ。

平家伝説の残る裏山に登れば、遠く瀬戸内海も見える。

播磨高原の山々もきれいだし、千種川の清流や支流も自然がいっぱい残っている。

空き家が増えてきているのだから、それを活用するのも手だろう。

どうしても昔からの集落は、都市部からの受け入れが難しいので、過疎の進む新興住宅街を使うのも手だろう。

産業廃棄物のゴミ捨て場になるよりも、滞在型観光地として地域振興すべきだろうと思う。

赤穂市も忠臣蔵にあぐらをかいていて良かった時代は終わったのだから、近隣の地域ともっと連携すべきだと思う。


ちなみに子供の頃の私は赤穂の地元でとれる、子(黄)持ちの小さな海カニ大好きで、鍋いっぱいにゆでたカニをほおばっていた。

アサリだけでなくバカ貝(青柳)などは、天然物を採ってきておかずにしていた。

蛙は食べなかったが、田んぼの井戸にいるドジョウは大切な食料だった。

スッポンも多くいるが、料理方法を知っている人があまりいなくて、食べる人は限られている。

上郡ではモクズガニが千種川でよくとれて、知り合いは築地に卸しているという。

近所の高田川にもいるが、農薬の関係もあるので捕ろうとは思わない。

姫路のようにレンコンを栽培していないが、蓮池で地元の人の中にはレンコンを掘って食べている。

蕗も山に自然に生えているのを採って食べている。

このように倭人の生活文化がまだ残る地域での一つの産業として、観光も考えてみる必要があるだろう。

自然に優しい農業や山菜の採集を体験できるプロジェクトを考えても良いと思う。

私は稗ではなく、コウリャンの有機栽培に取り組んでいるが、中国浙江省河姆渡からの遺産である水稲も是非有機栽培をしてコウノトリを増やして欲しい。

そうすれば豊岡のように人も呼べるかもしれない。





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