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2024年6月7日金曜日

交通戦争の生き残りが加害者に

 私たちが子供の頃「交通戦争」というい言葉があり、一時は少し減ったが1995年頃まで年間の交通事故死者数が1万人を超えていた。

日清戦争の年間の戦死者数より多いから名付けられたと言うが、戦後の累計からすると日露戦争を超えているのではないだろうか?

しかも、太平洋戦争の空襲ように戦闘員に限らず、運転者以外でも年齢性別を問わない無差別の死者である。

欧米と違って馬車文化が歴史的になかった日本では、従来まともに自動車に対応できる街路がなかったし、それを作る政策がなされなかった。

国会議員は鉄道建設で票集めをして、車と人や自転車とを分離した道路を建設しなかった。

一方で自動車産業だけ伸びていったが、事故防止装置の対策は遅れたまま、業績を伸ばして大もうけをした。

いわば日本の自動車産業は交通戦争の戦死者の犠牲の上に発展したのだ。


そして、その自動車を中心とした街作りが進んでいって、大型店舗が自由化されて、身近な商店が潰れていき、郊外に大型店舗ができあがった。

特に田舎では車がないとまともに買い物さえできなくなった。

私は車の免許は赤穂に戻ってから取得した。

なぜなら東京の近辺では必要なかったし、むしろ維持するのにかなりの出費となったからだ。

赤穂に戻ると車なしには、買い物どころか仕事もできなかった。

都会の勤め人は電車やバスで通勤しているだろうが、地方では姫路のような都市部でも車がないとまともに通勤できない。

そういう車社会を築き上げてきたのは、自動車産業と結託した政府ではなかったのか?


そして、車社会に適応して生き残った高齢者が、重大交通事故の加害者になっている。

交通戦争を生き延びた世代が、高齢ゆえに適応性を失って事故を起こしてしまっている。

これは人ごとでなくて自分もあと何年、車の運転がまともにできるか心配である。

高齢者の事故を問題視して、免許返納を勧めるのは良いのだが、車社会の街を作り直すか、自家用車がなくてもその街で不便なく暮らせるようにすべきだ。

今、地元の上郡では、人も乗っていないコミュニティーバスがむなしく巡回している。

自家用車の便利さを知っている者が、不便な交通手段を使うはずはないではないか。

やっと近年乗り合いタクシーやライドシェアーが公認され始めた。

私が調査で通っていた、奄美大島では40年以上前から、見て見ぬふりで活躍していた。

軽貨物自動車で荷物を運ぶついでに、諸鈍からの他のお客と一緒に古仁屋から名瀬の旅館まで低料金で乗せてもらったりした。

要するに荷物の運搬と人の運搬を兼ねた下請け運送屋さんが、庶民の足を確保してくれていた。

今はやってないかもしれないけど、古仁屋から名瀬に客を乗せてきたタクシーが、バス乗り場付近で待っていて、古仁屋行きの客を集めて低料金で乗せていってくれた。

タクシーも島の生活に合わせて、柔軟に対応していたのだ。


マスコミは自動車産業の広告やCMからの収入が大切なのか、高齢者の責任ばかり話題にして、免許返納を迫る。

確かに危険な行為や悲惨な事故は、注意喚起して対策をとらねばならない。

しかし、重要なのは、高齢者が自家用車に頼らなくても、普通に生活できることなのだ。

車を維持するくらいの費用で、不便のない暮らしを確保すべきなのだ。

企業の政治献金の弊害は、まさしくこの問題にも行き着くのではないのか?




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