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2012年7月8日日曜日

一晩でできた河原

河原というのは少し大袈裟なのだが、7月6日夜から朝にかけての豪雨で近所を流れる高田川の、私が借りている畑の近くで小さな河原が出現した。
というのも、冬場にユンボーで川底を浚って均していたのだが、大小の石が堆積して元のように河原を作ってしまった。
違う場所では道端の側面が抉られたり、もともとあった河原が益々大きくなっていた。

畑の近くの河原はおおよそ大型ダンプ一杯分の量に思えるが、たかだか、10mの幅に満たず、蛍の舞う小川が、数日轟音を響かせていた。
明け方3時頃に避難準備情報がこの高田川流域に出されたが、その時の水位は近所の人によると、コンクリートの護岸の上から30cmまで達していたという。
川底を浚っていたことも幸いして、それだけで済んだと思う。

上郡や佐用も比較的被害が少なくて済んだのも、300年に一度の大雨にも耐えるという千種川の河川工事を冬場に急いでいたお陰だと思うが、毎年のように繰り返される豪雨にこれから先思いやられる。
ただ、実はこの高田川流域に大きな集落が多くできたのはそんなに古くはなかったという。
千種川流域も、氾濫に備えて山際の一段高い位置に家屋が建てられていたが、近年は低い場所にも家屋が建ちだした。
川の堤防は破れないという前提で、村や町が発展してきている。
本来、沖積平野は川の氾濫によってできあがったものだから、氾濫するのが自然の姿である。
大昔は、氾濫時には浸水覚悟で家屋を建てていたのだろう。

考えてみれば昔の家は、大掃除では畳を上げて、その下の床板まで取り外していた。
実はこの畳が普及したのもそう古くはなくて、貧しい家は土間の上に蓆や藁を敷いたりという。
経済的に豊かな家から順に畳になったようだが、土間だけの家は浸水してもそう被害はない。
こういう農村地帯では、要するに近代化によって豊になってから、大きな浸水被害が起きるようになったのだ。

当然城下町などの町は古くから洪水被害に悩まされてきたようだ。
赤穂も、明治の大水害後、大がかりな工事で二股に分かれていた川を一本にした。
だから、今でも中州という地名が残っている。
土手も一方を低くして、城側中心部の氾濫を防ぐ構造にしていたという。

経済的に発展した現代では、氾濫を防ぐ手立てをずっと続けねばならないだろう。
ただ、温暖化による異常気象に耐えられなくなる限界集落も今後出現し、山が荒れ、水田が沼地になっていくのは確実だと思う。
それも、自然と言えば自然なのだが・・・


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