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2012年7月11日水曜日

家業があった頃

私の父親は船乗りだった。それは祖父から継いだもので、乗っていたのは鷆和の御影石を主に運ぶもので、100tほどの木造船だった。
私の幼い頃は、年子の弟と母親も一緒に乗っての運搬仕事をしていて、若い人も一人雇っていた。
父親は船が時化で難破しかかったことや、子ども達の学校のことも考えて、会社勤めに転職した。
本家は祖父母もいたこともあって、伯父は30年ほど前までその家業を続けていた。
つまり、本家の伯父と私の父親が家業を継いだのだが、その家業を続けたのは本家の伯父だけだった。

家業を子どもに任せた祖父は、石材や植木を扱う庭師もしていた。
祖父の左手の指二本が第2関節くらいから無くて、子どもの頃は異様に思えたが、これは石にはさまれて失ったと聞いた。
私は小遣いを貰って祖父の庭師の仕事を何度か手伝った。
私が中学校から結婚するまで過ごした実家の庭は、祖父とその知り合いの庭師が作ったものである。
殆ど来客のない実家の庭にしては立派すぎるものであり、管理ももてあまして父親の死後は、大きな黒松を途中で切ったりもした。
それでも祖父の思いが込められた庭なので、父親も大事に管理していたこともあって、実家に一人暮らす母親も人手を借りながら何とか維持している。

私は幼い頃は盆正月には本家に家族と泊まりがけで出かけた。
本家の伯父を中心に男3人、女1人の兄弟とその家族が集まる賑やかなものだった。
ところが、その食事の席に祖父が加わったのを一度も見たことがなかった。
私は夏休みなどに本家に預けられることがあったが、その時は祖父母やいとこと一緒に食事するのが普通だったが、何故か盆と正月には祖父は一緒に食事をするのを避けていた。
今から考えると、祖父は楽しそうに過ごしている子ども家族の雰囲気を壊したくなかったのかも知れない。

祖父は悪く言うとワンマンな家長で、よく言うと威厳のある職人ともとれた。
この頃、曲がりなりに畑仕事を息子や家内としている時に、ワンマンな自分を見いだすことがある。
別にそれで収入を得ているわけではないのだが、家計の足しになっている農作物は大事な家業になりつつある。
いい加減な仕事を妻子がしていると、厳しく叱咤することもたびたびである。
そんな時に、昔のじいさんや親父が近寄りがたい存在であったことが、実感として理解できる。
今でも家業で生活している家では、親父の存在は大きいのだろうと思う。
ところが会社勤めの親父は疲れかえって、テレビを見ながらくつろぐ姿しか見せられない。
威厳が示せるはずもないし、示す必要もないのである。

仕事のない息子の将来と自分たち夫婦の老後を考える時、何とか家業を興したいと思う。
そして、昔親父や祖父が築いていた家業を思うのであるが、リスクを背負いながら確実に経営を成り立たせていた力量に今更敬服する。
雇われた身に安住できたし、その職業に何らかの誇りも持っていたのだが、子ども一人の生活も保障できないし、老後の不安も抱えざる得ない。
昔は農家も職人も、商売人も家族や親戚と力を合わせて、家業をもり立てて行くのが当たり前だったのだが、大規模に展開しないとやってこられない状態で、廃業を余儀なくされている。
赤穂のショッピングモールが賑やかな一方で、古くからの商店街がシャッター街になっている姿はその象徴だろう。
誰もが働きに出かけられた塩田ももう無い

勉強ができることが、あたかも実力があり成功できると信じてこれた時代はもう終わったように思う。
グローバルな時代を生き抜くには完全に国境を越えて仕事ができる能力を持つか、地域にへばりついて、独自の家業を工夫しながら展開していくしかない。
大きな会社に入ったり公務員になって呑気に暮らしをする時代はもう終わった。
今頃それに気付く自体、呑気な公務員だったのだろう。

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