ただ、「ど田舎の上郡」と職場で言われると「ムカ!」とくる。
室町時代にこの播磨の地を支配していたのは、この上郡の赤松氏である。
むしろ、播磨の国一揆を起こしたのはあなた方の先祖じゃないのと馬鹿げた反論を内心したくなるが、日本史でもマイナーな歴史なので面白くも何ともなく、口にできない。
赤穂事件よりも嘉吉の乱の方が将軍を殺したのだから、すごいことなのに上郡をそれに結びつけて捉えてくれない。
ただ、赤穂は塩田が事件後も栄えたが、上郡は乱後寂れていった。
始め何でこんな千種川の狭い平地にそのような力を持った勢力が誕生したのかよく分からなかった。
それは、鳥取・島根の日本海側の古代先進地域と、瀬戸内海側の中央先進地域を結ぶラインとして流通を抑えていたこと。
そして、千種川沿いのたたら鉄の生産との兼ね合いが大きいと言うことを知った。
赤穂は塩田開発される前は、海の迫った何もないところだった。
赤穂の人は千種川沿いの人が多く移り住んだように思える。
実は私の父方の祖母は、小赤松という上郡よりも奧の上月町出身である。
何の縁もゆかりもない赤穂の鳥撫へ嫁ぐはずもないので、 昔からのつながりが有ったのだろうと思う。
石原という姓も赤松氏の関連で見いだされるし、上郡には石原姓が多い。
出自をたどればひょっとして私の祖先も上郡かも知れない。
そうすると、「ど田舎上郡」と言われたら、素直に「ごもっとも」と言ってはならないと思うのである。
ただ、悲しいのは上郡は中世の先進地域でありながら、いや、それ故かも知れないが、近代化の波に乗りきれなかった。
現在、網干のJRの車両施設は、当時の計画では上郡に作ろうとして地元の反対でできなかった。
大鳥圭介という明治でも活躍した有力な官僚がいながら、企業誘致は図っていない。
その流れは、今でも市町村合併の失敗。給食がない県下唯一の町となってしまっている。
それでも、私は近代化から取り残されて、昔そのままの村と、一部開発されたベッドタウンの上郡は 気に入っている。
椿峠から眺める高田の扇状地は夏は「我谷は緑なりき」と言いたくなるし、秋は「黄金の稲穂」を輝かせてくれてる。
また、赤穂のように松をあまり植林していないので、秋の紅葉は最高に美しいパノラマを展開してくれる。
上郡にもっと人が住んで欲しいのだが、気をつけて欲しいのは村と街を混同しないことである。
村付き合いは戦前からの流れがそのまま残っている。
高田台や近年開発されている山野里あたりの住宅地とは全く付き合いが違う。
新興住宅街の感覚で 移り住むと直ぐに引っ越しせねばならなくなる。
私の生家の赤穂の新興住宅地は地元の人が多いので、業者の開発した宅地よりも閉鎖的であるが、村よりは開かれている。
村の中で歴史を背負う気持ちでないとやっていけない。
私は「いつでも赤穂に帰ってやる」と思いながら、根を下ろしてしまった。
家内は折角仲良くなった友達と離れるつもりはないようだ。
それも「悲しき上郡」の魅力によるものかも・・・
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