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2025年4月4日金曜日

教師として初任の頃

先日、特別支援学校(以下特支)で一緒に働いていた、元同僚に近所の100円ショップで会った。

その人は今年度は異動して今までよりも遠い特支で働くという。

因みに、この元同僚は今年で65歳になる。

私は特支で10年以上働いていたので、どれだけ体力を要する仕事か知っている。

この元同僚は私より2歳下だけなのだが若々しくて、とても元気そうだ。

昨年度から完全退職して、年金暮らしの自分とは大きく違うと思った。

この人は、元々民間で働いていて私立高校に転職したが、その私立高校でリストラに遭って臨時で特支に勤め始めた。

退職金の問題や年金の問題もあって、働き続けているようだった。


私は大学院の修士課程を修了した後、教師を目指した。

その時の経緯は「30年前の繰り返し」に詳しく書いてある。

それまで横浜で、机にかじりついて論文を書いていて、その後は塾の講師をしたりしていた。

そして赤穂に戻ってから、採用されるまでの半年あまりは中学校や高校の臨時の常勤講師を務めていた。

それが、採用されて初任は知的障害の特別支援学校だったが、当時は精神薄弱養護学校と言っていた。

そこで、いきなり試練にさらされた。

というのは、当時は小学校の免許も無いのに、公簿上は中学部の担当にして小学部の担任をさせられた。

そこで待っていたのは、リトミックを中心としたダンスであった。


おかあさんと一緒の体操「ぞうさんのあくび」はまだ良かった。

「アブラハムの子」は、頭でっかちの当時の私には恥ずかしくて、ぎこちなく踊っていた。

子どもができて一緒に遊ぶようになってからは何の抵抗もなくなったが、当時独身の私には最大の苦行だった。

何もかもが初めての経験で、今までの自分の考え方を根底から覆された。

毎年のように亡くなっていく児童の通夜にも立ち会ったりした。

私の教師人生の原点となった。


近年は障害児教育の免許の取得が重要なので、免許を持たなかった私のような初任者はいないかもしれない。

確かにしっかりとした知識や経験が必要だろう。

家内は大学で障害児教育の免許を持ちながら、現場で携わることは無かったのは皮肉なものである。

現場に携わりながら免許をとる手もあったが、ずっと障害児教育に携わる覚悟は無かったし、当時の校長も普通校に行って経験を積むことを奨めていた。

結局、免許も無いまま知的障害、肢体不自由の学校を合計で3校経験しながら、全日制職業校・定時制や全日制普通科、定時制、総合科学校などを経験した。

そして、今でも連絡を取り合っているのは、初任で一緒になった同期の仲間だ。

ただ、特支で失敗したり問題を起こした教師や心を病む人が多いのも知っているので、手放しに良い職場とは思ってはいない。

それでも、尊敬できる先輩教員に巡り会えたことも確かだった。

自分が尊敬される教師になれなかったのが、一番悔やまれることだが・・・・・




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