私は去年65歳になって、年金を満額貰えるようになったので、賃金を得るための仕事からは遠ざかっている。
仕事が生きがいで続けている人がたくさんいて、生き生きとしているのも知っている。
だけど、自分にはやりたいことや、やり残したことがあり余るほど有る。
教師をやっていた頃にやりたくても我慢していたことや、本来人が暮らしていく上で大切だと思うことを死ぬまでやり続けたいと思っている。
そもそも、そういう暮らしがおかしくないと思うのは、奄美の与路島に学生時代に研究で通っていたからだと思う。
与路島では正規雇用で働いていたのは、学校職員、郵便局員、発電所職員(後に廃止)くらいで、現金収入は畜産業や店舗で得る人が多かった。
学校の職員は外部の人が殆どであり、郵便局員も以前は与路の人が主力だったが後には外部の人が主力になったりした。
臨時に土木作業や建築作業の仕事があったり、非正規の常勤仕事も少ないがあった。
また、生活保護家庭が多かったのも確かである。
店舗が多かったのは、荒天で船が何週間も来ない時があるので、備蓄の意味もあった。
どんなに品が不足しても値段を上げることはないし、目が不自由な人が店主を務められるくらい思いやりがあった。
確かに家の作りは簡素ではあったし、風呂の無い家もあった。
しかし、食生活は決して貧しくは無かった。
なぜなら、海や山へ行けば美味しいものは簡単に手に入ったからだ。
食料も自給自足をしようと思えば可能で、何せサツマイモが寒い時期を除いて植えて収穫の繰り返しができたし、以前はソテツの実や幹が普通に食べられていた。
海へ行けば、女性でもサザエやアワビが簡単に拾えたし、タコやカニなども磯辺で捕れ、季節によってはノリも採れた。
男は漁はお手の物で、釣りをするのが普通だが、潜って捕ったり、岸辺から銛で突いたりしていた。
また、放し飼いにしている山羊を特別な日に潰して食べたり、正月には飼っている豚がご馳走となった
有る商店では豚を農家から買い入れて、自分で屠殺して処理して販売していた。
また、特別な例だが、出産で死にかけていた飼育牛を仲間を組んで屠殺して、分け合って食べたりもしていた。
古くは焼酎も造っていたが、今は店で買っており、必ず家に置いておくべきもので、夜に訪問すると必ず出されるものだった。
夜に訪れてお茶を出したら帰れという意味にとられてしまうし、私は滞在場所で切らしていて青年団に叱られこともある。
年配の人は三線を弾けたし、若い人はカラオケの機械を担いで家々を巡り歩いたりしていた。
夜は焼酎を美味しい海産物などをアテに飲んで歌うのが楽しみになっていた。
昼間でも神人やユタを中心とした神事で、太鼓を鳴らして遊ぶことがなされていた。
そんな暮らしを何ヶ月も経験していたので、貧しくても楽しく暮らしていけることを知っている。
与路島で一番学んだことは、それほど金が無くても楽しく暮らせていけることだった。
実際に、よそのシマの出身の独身連絡船乗務員は、大卒初任給が14万円だった頃に1ヶ月4万円で暮らせると言っていた。
その人は与路泊まりと古仁屋泊まりがあって、毎晩のように懇意にしている人の家へ飲みにいったり、古仁屋のスナックに行っていた。
地元の人もスナックを開いたこともあったが、店主が酔い潰れてしまうので商売にならず潰れてしまった。
民宿は奥さんがしっかりしている人がやっていた。
そんな心地良い生活はここ上郡では無理なので、せめて好きなことをしながら生活したいと思っている。
日課としては、朝から夕方にかけて、犬と散歩したり、本を読んだり文章を書いたり、農作業、水泳、そして飲みながらの歌の練習だ。
季節によって、山菜を採ったり、海に貝を拾いに行ったりするが、一番の仕事は気候に応じた農作業だ。
夜は大好きな酒を飲んでしばらくして眠った後に、また起きて本を読んだりテレビを見たりしている。
これこそ、30年間我慢して働いて手に入れた自由な生活なのである。
確かに貯蓄と年金という金があっての生活だが、賃金を得るための仕事に縛られずに済んでいる。
ただし、村作業が年間では最低7回ほど有って、それには必ず参加している。
おそらく、資産家は気ままな生活が若い頃から可能なのだろうが、働いて賃金を得る喜びも知っているので資産家をうらやむことは無い。
もう、そんなに長くは生きられない老齢者にとってのせめてもの心豊かな暮らしは絶対必要だと思う。
そして何より、自給自足的な農業や山野河海の恵みを得ることによって、本来の人間らしい生活に近づけるのが私の理想であり取り組みなのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿