一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の有名な一節で有る。
因みに四合は白米では600gくらいだそうで、玄米もそれくらいだろう。
そうすると1ヶ月30日で白米なら18kg食べることになる。
現在白米1kgを1000円とするなら、18000円の米代ということになる。
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク
という言葉が空々しく感じてしまう。
因みに私が大学時代の45年ほど前で、親からの仕送りが2万円で奨学金が36000円、そこから家賃1万円を支払い暮らしていた。
玄米食だったら白米よりも栄養価が高いので、他のおかずが少なくても足りていたかもしれないが、当時の私としては欲どおしくおもえる。
これは昭和6年頃に書かれた詩らしいが、当時の欲の無い庶民はそんなにお米を食べていたのだろうか?
江戸時代から戦前にかけて、年間一人1石(150kg)食べるのが普通ということで、月に直すと12.5kgなので、18kgも食べた賢治は玄米の食べ過ぎである。
ただ、この詩は手帳のメモ書きだったそうで、最後に
ソウイウモノニ ワタシハナリタイ
とあるから、実際は毎日玄米四合も食べられていなかったかもしれない。
このように解釈すれば、当時の実際の貧しい生活を詩にしたのでは無く、こんな生活がしてみたいという願望とも受け止められる。
因みに私は一月に食べる玄米は四合であるので、賢治の言う1日分を1ヶ月かかって食べている。
もちろん他の穀物と混ぜた雑穀米として食べている。
我が家は夫婦二人と息子のひとりの3人暮らしで、計算すると年間150kgの玄米(22、500円)を食べている。
といいうことは3人で昔の一人分と言うことだ。
一方で、仮にこの当時の庶民が一日四合も食べるようになっていたとすれば、近代化によって食生活が変化したとも考えられる。
戦後は「貧乏人は 麦を食え」とばかり、麦への食転換が図られて米の消費も抑えられていく。
今の気候変動の激しい中で、食料の国家戦略の見直しが迫られている。
江戸時代の饑饉は気候変動だけで無く、藩の政策も誤っていたし、全国的な支援関係が築かれていなかったことが原因だと言われている。
そもそも、年貢米のために水稲一辺倒の農業を推し進めていった江戸時代の政策にも大きな問題があった。
それでも、山地の焼き畑が残っていて、米に頼らずとも生活できた人は多くいたのだ。
昔の焼き畑に戻れとは言わないが、水稲一辺倒の農業や白米一辺倒の食生活を変えていくべき時代になったということだ。
宮沢賢治の詩は「他山の石」として読み解く必要があると思う。
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