母の父、つまり私の祖父は太平洋戦争において東シナ海で戦死した。
元々は職業軍人であったのだが、退役して会社に勤めていて徴兵されたのだった。
戦死した当時、母は小学校の低学年で、二つ上の姉とふたり姉妹だった。
祖父は海軍の機関兵で、戦死すれば遺体は戻らないことは分かっていたので、遺髪を知り合いに預けていた。
祖母はひとりで遺族年金と仕事の収入で二人の娘を育て上げた。
母は父親がいなくて苦労しただろうけれど、苦労話はあまりしなかった。
戦争の話もたまにしたが、祖父を殺したアメリカ軍よりも、当時の日本の厳しい生活統制を憎んでいた。
却って戦争を知らない私の方が、アメリカ軍に対しては良い感情を持っていない。
要するに戦争当時の日本政府の方が、むしろ国民を追い詰めていた。
そして沖縄のように地上戦も無く、自分自身が機銃掃射や空襲を受けていなかったのでアメリカ軍を身近に感じなかったからだろうと思う。
敗れたにしろ、戦争が終わってくれた方が、子どもの母にとっては嬉しかったらしい。
広島の原爆記念碑に、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」という有名な言葉がある。
残虐な原爆を落としたアメリカに対する言葉では無くて、そういう無謀な戦争に日本を導いたてしまった後悔の言葉だろう。
今、長崎の平和式典の問題で、イスラエルの大使を招かなかったことで、G7の在日本大使が式典をボイコットしたことが問題となっている。
イスラエルが何万人ものパレスティナの市民を殺戮しても、日本以外のG7の国ぐにはイスラエルを支持している。
自分たちが正義だと思った場合、相手の国の市民がどれほど犠牲が出ようと、同情などしないのが戦争だろう。
むしろ、市民に紛れ込んで戦う、ハマスのゲリラ戦法に問題があるとするのだろう。
それは、日本が日中戦争で市民に紛れ込んだ中国軍を掃討するために行った虐殺行為とも通じるのかもしれない。
また、また太平洋戦争のマニラ戦でも10万人ものマニラ市民が犠牲になったのも同じように思える。
地上戦での損失を無くし、戦後の主導権を握るために、何十万もの広島と長崎の市民を虐殺したアメリカも今のイスラエルにも勝る残虐なやり方だと思う。
現在は簡単に核兵器が使用できないから、市民に紛れたテロ組織(軍)を掃討するために市民もろとも殺戮する。
広島・長崎に通じるやり方なのだから、そういう当事国を招待しないのは理解できる。
むしろ、広島がイスラエル大使を招いたのは、戦争ではそれに加担する市民は軍もろとも殺戮されても仕方なかったことを表明したのだろうか?
我々日本人は総力戦が何であるかを理解できずにいるのかもしれない。
母がアメリカ軍よりも当時の日本政府や軍を憎んだのは、総力戦の意味を理解できていなかったのだろう。
近代では国家と軍による繁栄を国民が享受する代わりに、戦争においてはその代償を支払わなくてはならないのだと思う。
繁栄はありがたく受けるが、戦争は絶対反対とは言うのは虫が良すぎるということだろう。
これは、黒船がやってきた時から分かっていたはずなのだが、外国からの侵略を受けていない、沖縄以外の国民は江戸時代のままなのかもしれない。
祖父の墓は、小さくて戦死者の墓だとは分からない。
祖母はあえて、戦死者の兜巾(ときん)型の墓は建てなかった。
祖父の遺影は、正式な軍服の写真が無かったので、祖父に似た親戚の人をモデルにした、立位の軍服姿の肖像画がだった。
幼い頃はそのりりしい姿を格好良く思うことがあったが、祖父のことを戦死した英雄と思うことは無かった。
子どもができてからはむしろ、幼い娘を二人残して航空母艦に乗らねばならなかったことへの、辛さをずっと思っていた。
祖父は燃え上がる艦の機関室から甲板まで辿り着いたが、その後は助からなかったという。
勇ましい兵士の姿はどこにも無い。
祖母は遺族年金を貰いながら、その後靖国神社などにことあるごとに参拝していた。
悔やまれるのは、祖母に祖父の戦死をどう思ったかを一度も聞いたことが無かったことだ。
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