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2024年8月7日水曜日

口癖が「死ね」だった担任

 最近、芸能人の暴言が物議を醸している。

相手を誹謗する言葉として「死ぬ」という言葉を使ったのが発端だったようだ。

ネットで誹謗文書を発してしまうと、取り返しがつかないことは分かっていたはずだが、いつものノリでやってしまったのかもしれない。

形として残る文字だけでなく、音声だけの言葉も、一度発してしまうともう、取り戻すことはできない。

いくら、後で訂正したり謝っても、一度発した言葉は、相手の心に刻まれてしまう。

私も文章や、音声を発してしまって、後で後悔したことが少なからずある。

特に、教師として生徒に発する言葉は重い意味を持つので、気をつけていたのだがそれでも後悔することはあった。


私は中学校から私学の男子校だったが、中1と中2の担任のF先生は生徒に対して、叱責の言葉と共に「死ね」を乱発する人だった。

その影響が生徒にも感染って、生徒の方でも相手を誹謗する時に「死ね」をよく使うようになった。

「あほ」や「馬鹿」という相手の能力を否定する言葉に対して、「死ね」は存在そのものを否定する言葉だと思う。

相手に「消えて亡くなれ」という意味が強く表現される。

それはまた自分は生きる価値があるけれど、相手は生きる価値がないという意味も含むだろう。

その担任が単に虚勢を張っていたのか、それほど生徒を蔑視していたのかは分からない。

ただ、授業もまともにせず漢字のプリントだけするような人だったので、授業へのコンプレックスを隠していたのかもしれない。

ひどい時は、定期考査で問題を作成してこずに、黒板に問題を書いたことがあった。

いい加減な教師としてその存在を生徒に見透かされて危うくなっているので、誤魔化すために日常的に「死ね」を使っていたのかもしれない。


自分の存在を危うくしてしまいそうな相手に対する言葉だとすれば、誹謗した本人は誹謗した相手に危機意識をもっているのかもしれない。

誹謗した本人は傍若無人に振る舞うことで、自分の存在価値を見いだしていたのかもしれない。

しかし、誹謗された相手の何とか懸命に生きていこうとするひたむきさに、却ってその危うさが露呈しまうのが怖かったのかもしれない。

そして問題なのは、周りの権力や権威をもった先輩が若いタレントの振る舞いを利用したことだ。

暴言を発した本人と同時に、そのタレントをうまく利用してきた芸能人や関係者にも責任を感じてもらわねばならないと思う。

学校の教師であれば、校長や教頭などが責任を持ってその担任の指導に当たるべきだったのだが、それがうまく機能していなかった。

結局担任だったその教師も、ことを起こして辞職せざるを得なくなったと聞く。

自分の弱さに真剣に向き合い、ひたむきに授業をしようとしなかった結果でもあろうとも思う。

これは、ひたむきさを忘れがちな自分自身への戒めでもある。





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