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2018年4月5日木曜日

金の無い大学生活

私の大学生活は物置暮らしから始まった。
国公立大学に合格できなかったので、授業料を出してもらうだけでやっとで、名古屋の叔父を頼っての進学だった。
叔父の家に間借りすることも提案されたが、大学から遠いし気兼ねなので、叔母が経営していた喫茶店の裏にある物置に住むことになった。
もともと、そこはアパートで住まいにしていたのだが、その頃は従兄弟の勉強部屋兼物置になっていた。
そこに居候して、叔母の喫茶店で食事を頂いていた。
しかし、そんな不自由な生活も半年で終わり、同じ学科の友人に誘われて、友人の二間あるアパートの一つをシェアさせてもらった。
その友人は大学を再受験して出て行く予定だったが上手くいかず、色々あって結果的には私がその部屋を半額で住むことができるようになった。
大家さんは子供のいないご夫婦で、風呂は無いが2DKの部屋を、ありがたいことに1万円で貸してくれた。

私は授業料は出してもらっていたが、特別奨学金36,000円と仕送り20,000円で暮らさねばならなかった。
つまり、部屋代を1万円払って、46,000円で暮らさねばならなかった。
アルバイトも色々やったが、クラブ活動のために固定したものはしなかった。
文化人類学研究会というクラブに入っており、村落調査の費用もかかったので貯金する必要もあった。
そこで、食費を極力減らして、極力倹約する生活をした。
朝食は主にパンの耳を食べ、昼食は学食をつかい、ご飯と冷や奴で155円で済ませた。
夕食は自分で作ったカレーや、卵ご飯、インスタントラーメンが多かった。
ただ、夜は友達の下宿に遊びに行って、金を出し合って飲んだり、安い焼き鳥屋で飲み食いする楽しみもした。
また、当時付き合っていた下宿暮らしの彼女から、下宿のまかないの夕食をたまに頂くお裾分けがご馳走でもあった。
下宿暮らしの友人も貧しい者が多く、近くの池で藻をとってきたり、飼っていた観賞魚やドジョウを食べたりする者もいた。
しかし、貧しくて辛いという思いは無く、貧しさを互いに自慢して愉快に暮らしていた。
そして、そんな我々に最大のご馳走をしてくれたのが大学の先生で、ボーナスの時にはウナギのフルコースを食べさせてくれたりした。
コンパも必ず参加して、ゼミのコンパの二次会は大学の先生の奢りで普段に無い贅沢をさせてもらった。

風呂も冬場は1週間に2回ほどで、夏場は大学のプールのシャワーに石けんやシャンプーを持ち込んで洗った。
服もジーパンとトレイナーを数枚使い回し、冬場はどてらを大学にも着ていった。
夏場の履き物は下駄が主で、安い雪駄を履いたりもした。
一番恥ずかしかったのはパンの耳を買う時で、普通の食パンを買うついでに30枚ほど5円で買った。
当然、食パンよりパンの耳が目的で、パンの耳がある時しかそのパン屋さんでは買わなかったので目的はバレていた。

こんな生活をしていても、本代(多くは古本)はケチらなかったし、一年に2度奄美諸島の与路島に部員と村落調査に出かけていた。
神戸からフェリーの二等室を使い、与路でも1泊3食付き3,000円の民宿を使ったり、家を借りて自炊したりした。
調査は2週間が普通だったので、7~8万円ほど使っていたことになる。
メンバーの中には、名古屋大学医学部の女性もいたが、彼女は帰りはひとり飛行機を使っていた。
村落調査は決して楽なものでは無かったが、仲間と充実した日々が過ごせて掛け替えのない経験となった。
何よりも、自分にとってはその後の人生を変えるものとなった。
だから、日頃の貧しい生活もこの村落調査の目的があったので、全く苦にならなかった。
決してその村落調査がその後の生活を約束していたわけでは無い。
ただ、自分を夢中にさせてくれる魅力がそこにあり、そして今の自分につながった。
だから、自分は苦学生だったとは思ってないし、金が無かったことに拘りは無い。
ただし、国公立に進学した弟は、その分仕送りも多く生活が楽だったので、羨ましくは思っていた。
こんな私でも、結果的には希望する大学院の進学ができ、研究職には就けなかったが教職には就けた。
金は無かったが、貧しさを愉快に思い、村落調査を夢中でやりながら過ごした大学生活の成果でもあるのかなとも思う。





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