週末のパチンコ屋の前を通るたびに、駐車場に多くの車が置かれているのに驚く。
パチンコに全く興味のない自分にとっては、せっかくの休みになぜ不健康なギャンブルに夢中になるのだろうと思う。
ただ、以前勤めていた学校の教師の中にも、パチンコが大好きな人もいて、様子を聞いていたのでその麻薬的な魅力も分からなくはない。
普段の生活の中で、これほど刺激的な遊びはそうないのかも知れない。
一瞬にして、一日分の給料以上の報償が得られるわけだから。
近所の知り合いに、金融機関に勤めていた友人がいた。
彼は職業柄、金の計算には細かく、家では家計も自分で握っていたという。
ところが、ことパチンコになると計算が狂うらしく、収支決算は完全に赤字で、貯蓄しておけば庭に蔵が建つくらいつぎ込んでしまった。
ギャンブルとは、そういう冷静な計算を麻痺させてしまう、魔力があるようだ。
私が魔力にとりつかれなかったのは、小さい頃から両親から競馬やパチンコなどのギャンブルを犯罪のように教えられてきたからかも知れない。
それに対して、株や為替などの金融投資はどうなのだろうか。
これも父親が株で損をしたことで、投機目的の方は罪悪感が強く、配当目的の社内株のみ親は買っており譲り受けた。
以前勤めていた職場では、投機目的の株に夢中の人がいて、常に株価をチェックしていた。
彼は2億円儲けたら、仕事は辞めると言っていたくらいだから、相当の収益を上げていたようだ。
こちらは、パチンコと違って社会情勢などや、投資家の駆け引きを知っておかねばならず、気晴らしにはならない。
ただ、パチンコの偶然性よりもリスクは低い。
村の中ではやはり、パチンコをする人は多いが、株をやっている人はあまり聞かない。
学校の職員には、パチンコをする人も株をやる人もいたがパチンコも株も少数派だった。
いずれにしても、仕事とは違う刺激的な収入が得られる機会なのである。
こういう機会を得ることで、雇われの身から解放されているのかも知れない。
私も、家内の勧めもあって退職金を幾ばくか投資に回したが、その値動きで額面では今の安い月給以上の損害を出すことにも慣れた。
汗水垂らして得るお金と、投資の金は別物だと考えるようにした。
だから、これはささやかに自由人であることのリスクと考えようとも思う。
パチンコなどのギャンブルも、あまり割に合うとは思えないが、自由人であることの証なのかも知れない。
問題なのは、収入も得ない学生や、収入の少ない勤労者が、単にその刺激にとりつかれて、ギャンブル中毒になることだ。
投資にせよ、ギャンブルにせよ、大きな権力によって仕組まれているものなので、その仕組まれた魔力にとりつかれると自由を失う。
単に、愛の奴隷ならぬギャンブルの奴隷になってしまう・・・
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