朝日新聞の「語る 人生の贈り物」の「暉峻淑子:14 誰もが諦めない、豊かな社会へ」につぎのような記事が載っていた
対話的研究会に参加している男性から先日、「『豊かさとは何か』は多くの人に読まれたはずなのに、30年後の今、状況はほとんど変わっていないのでは」と指摘されました。そのとおりです。社会保障は削減され、地球環境の破壊は進み、偏差値教育も変わりません。社会の格差が広がり、人々の分断と個人化が深刻化しています。
私も以前に氏の本を読んで感銘を受けたので、今回はこの特集記事を1回目からずっと読み続けていた。
氏が高齢にもかかわらず、ずっと活動を続けてきたことに尊敬の念を抱く反面、学者ができることには限界を感じた。
中島みゆきの「世情」の中にある、「学者は世間を見たような気きになる」という歌詞を思い出した。
読者は学者の鋭く見た世間に問題意識を持ちながら、結局は生き方を変える術を知らない。
学者になって成功した人の意見は確かに素晴らしいが、偏差値教育の勝者としての生活をしている人の方が多いと思う。
偏差値教育の勝者になれなかった者は、学者のくらしそのものは手本とならない。
私はむしろ、村の中で、高校しか出ていないけれど、子や孫と仲良く暮らしてる人が豊かさの手本を示してくれていると思う。
昔なら普通に思えた暮らしが、今住んでいる村では多くの人が手に入れることができなくなっている。
大学を出てしまったら、私のように公務員になる以外に、安定した企業への就職は余り望めないので都会に行く。
たとえ地元で大企業に入れても、全国展開の場合は単身赴任で家族と別れて暮らすことが多い。
貧しかったり、社会保障や医療が進んでなかったけれど、親戚や地域の人と助け合って暮らしていけた時代の方が、心豊かな時代だったと思えてきた。
ちょっと前のことだが、近所に親戚も多く、大きな家に暮らしていたお婆さんが亡くなった。
その際に、葬式は入所していた県外の施設の人がしてくれたという。
二人いた息子は既に他界してしまいその配偶者もいなくて、孫はとっくに家を出てしまっているので、まともに連絡がとれていなかった。
この家は隣の村の寺の檀家であり、密に関わっていたであろう住職に知らされることもなく、同じ村の人も亡くなったことをしばらくして知らされた。
たとえ社会保障のおかげで施設に入所できていても、こういう淋しい最後になってしまうケースが増えるだろうと思う。
そして思い出すのは、東京の大学院時代に名古屋の大学で教わっていた先生のお母さんがやっているアパートに住んでいた時のことだ。
同じアパートに大家さんとしてひとりで住んでいて、たまに一人息子の大学の先生も戻ってきていた。
その大家のお婆さんには電話を取り次いでもらったりしていたので、親しく関わっており頼まれごともしていた。
ある時などは、お婆さんは持病を患っていた関係で、強い薬に変わったので「もしもおかしくなった時は頼みます」とお願いされたこともあった。
私は事情があって、一年だけで別のアパートに引っ越しすることになったのだが、引っ越し当日のあいさつに際してはそのお婆さんの流した涙が忘れられない。
立派な大学の先生のお母さんでありながら、淋しく暮らす現実を既に40年以上前に東京で身近に知っていた。
それはその後の私の母親とても大なり小なり同じだった。
父が死んで一人暮らしになった時に、少し離れたところ住んでいたが、一緒に暮らすことができなかった。
それなりに経済力があっても、夫婦共に働いている状態では、家に受け入れることは難しく、母を友達のいる所から引き離すことも躊躇った。
それは母の近くに住んでいた弟家族も同じだった。
近所の3世代家族は、広い敷地を利用して別棟で住んでいる。
私も結婚に際してはそれも考えたのだが、複雑な事情もあってできなかった。
経済的な事情で同じ棟で同居する家族が今でもいることは確かだが、可能なら別棟や生活空間を分けて暮らすのがベストだろう。
私の両親は共に跡取りではなく、母の親と姉の母子家庭家族と隣接して協力し合いながら暮らしていた。
当時の両家族はそうしなければ、普通に家を建てて暮らせないので、相談し合って計画的に家を建てたのだった。
その姉妹を中心とした両家族も子どもが自立して生活が楽になった一方で、隣にありながら疎遠な関係になってしまった。
「ほんとの豊かさとはに何か」とずっと自問し続けてきた。
今の私には確かに年金があって子どもや親戚などに頼らなくても暮らしていける。
でも、私の両親がしていたように、子や孫と一緒に旅行に行ったり、楽しい盆正月を迎えることができない。
人は子育てで協力し合うことによって、生きがいを感じてきた。
狼が犬として人と一緒に暮らすようになったのは、子育てを協力し合う家族の共通性があったからだと思う。
人に老後があるのも、子育てを手伝うのを求められたからだとも言われている。
それができない私たちのような老夫婦は、孫の代わりにペットの犬に暮らしの潤いを求めるしかない。
また、結婚は私が若い頃は「一人で暮らしていけなくても二人ならば暮らしていける」と言われていた。
しかし、女性が社会進出できて男女平等になってきたので、男性に頼って結婚する必要がなくなった。
子育てを中心とした夫婦の意味が失われていき、「おひとりさま」であることや同性婚が社会的に認められるようになった。
また、性的欲求は商品となった性や自由恋愛にによって解消できるようになった。
社会保障や医療が充実してきたので子どもに頼らなくても良いし、親の面倒を見なくても良くなった。
出生数が減少するのは、子どもや伴侶に頼らなくても生活できる経済的豊かさも大きく原因しているように思える。
だから、子育てのために経済的に支援しても、子どもの出生数はそれほど増えないと思う。
一方で、経済格差が広がってしまい、国家としては経済的に豊かなのに、母子家庭を中心とした貧困や親の年金に頼る単身者が問題となっている。
経済的な豊かさが得られた人でも、夫婦愛や家族愛の心の豊かさを必ずしも得られない。
経済的な豊かさを得られなかった人は、親戚縁者などと助け合える関係が必ずしも築けない。
それが環境破壊や戦争の危機におびえながら、孤独に生きていかねばならない産業化された社会の宿命だと諦めるしかないのかもしれない。
ならば、産業化社会とは距離をとった方が、ほんとの豊かさを得ることができるように思えてならない。
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