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2025年12月31日水曜日

みんな働いて遊んで浦島太郎

 昔話の浦島太郎は竜宮城でしばらく楽しく過ごして戻ってみると、時が過ぎていて誰もわからなかった。

そして、帰る時に乙姫様からもらった玉手箱を開けると年寄りになってしまった。

これは人生を象徴している話で、若いころは仕事や娯楽で肉親や昔の仲間・友達を忘れて過ごしている。

しかし、定年を迎えたり体力の限界を感じて、我に戻った時には昔かかわった人は誰もいなくなっている。

そして、年老いて誰からも相手にされなくなった自分を見出す。

今の時代は50年も経てば現実的に育った町も別世界になっている所もある。

私が生まれ育った赤穂の尾崎地区などがその典型だ。

それに比べて、今住んでいる上郡の高田地区はその変化はもう少し緩やかだが昔のままではない。


肉親に関しても私の幼いころを知っている年上の人は今年になって亡くなってしまいいなくなった。

一人だけ叔父さんが存命だが、認知症を患っていてもう記憶は定かでない。

兄弟やいとこはみな年下になってしまったので、生まれてからのすべてを知っているわけではない。

ただ、そういう肉親も大学時代や教師時代の私のことはほとんど知らない。

家内には昔話として話す機会があるが、すべてを話せるわけではない。

そして、その場に立ち会っていて思い出を共有できて話せる相手は身近にはいない。

そもそも今の時代は昔のことを思い出話として語り継ぐ時代でもないようだ。

母は私に昔のことをよく話したので、弟が感心するくらいによく親戚のことなどをよく知っている。

でも、私も家内も子供には昔のことや親戚のことを話すことはほとんどない。


地域に根付いて地縁血縁の関係の中で暮らしていたの者は、そういう語り継ぎの情報が大切だった。

今は学校やマスメディアの情報に加えて生成AIが簡単に必要な情報を提供してくれる。

徳川家康の生い立ちは知っていても、自分の親の生い立ちは知らないのが普通なのだ。

ある意味で、現代人の脳はそういう教育やメディアに支配されているといっていいのかもしれない。

竜宮城で浦島太郎が時間を忘れていたように、現代人も時間や昔の仲間を忘れて働いて、働いて、働いて、そして遊んで現代文明を謳歌しているようだ。

そして、気が付いたらお爺さんやお婆さんになっている。

いつの間にか周りには自分のことを知っている人はいなくて、見ず知らずの介護士が世話をしてくれている。

浦島太郎の昔話の世界を現実に私たちは生きているようだ。



2025年12月30日火曜日

すべて中古になったパソコン

 ついに今まで使っていたエプソン製のノートパソコンが壊れた。

修理も考えたが、OSもWindows10だし、大切なデーターのほとんどは外付けのSDDに保存しているので、買い替えることにした。

これまでは勤めの仕事で使うことを念頭にノート型にしてきた。

しかし、完全退職した現在ではほとんど家で使っており、外で使う機会がほとんど無い。

そこでデスクトップのパソコンを中古で買うことにした。

中古は5年落ちがほとんどだが、OSがWindows11になっているし、職場で使われているだろう物はそんなむちゃな使い方はなされていないと思う。

実は、すでに2年前家内のために買ったノートPC(Let’s note)は中古だった。

そのノートPCを私が使うようになり、家内にはタブレットPC(surface)を中古で買った。

私の机にはこれまで2台のノートPCが置かれてきいて、エプソン製がメインだった。

中古はamazonの通販で購入して、手ごろな価格でトラブルもなかった。

今回のデスクトップは富士通で高性能だが4万円もしない。

これまで、新品で買っていた時には軽く10万円を超えていたことを考えると安上がりだ。


今回壊れたノートPCは7年ほどしか使えなかったが、それは勤めの仕事などで酷使してからだと思っている。

非常勤で勤めていた高校は授業でパソコンを用いる教員が少なくて、環境が整っていなかったので自分で用意していたからだ。

チョークの粉が舞い、室温も夏場などは高温になる環境の中で映像を見せたりした。

家でも何時間も使うことが多かったので、限界が来ていたのだろうと思う。

その前はLet’s noteだったが、もっと酷使した割によく持ちこたえた。

以前はエプソン製のデスクトップも使ったことがあったが、それは10年以上使い続けたと思う。

中古だからあと5年も持てば十分で、1年割の計算でいけば新品より絶対安くなると思う。


問題は初期設定で、今回はディスプレーをつなぐのにさえ手間取った。

レヴューでVGAが使えなくて困ったと書いてあったので、念のためにHDMIへの変換器を買っていた。

ところが、HDMIさえついていなくて、USBの変換器をつないでも画面には映らなかった。

そこで、富士通が採用しているディスプレー用のケーブル(DVI)を急遽ネットで注文した。

助かったのはディスプレーはVGAもDVIにも対応していてくれたことだ。

そして、いつもワープロソフトの一太郎をインストールするのには苦労する。

今回もどんなにトラブルマニュアルで試みても、ATOKが作動してくれていない。

また、いまだにOCR「読んで!!ココ」を使っているのだが、自分のアカウントでインストールしないと後で使えなくなる。


デスクトップにして良かったことは、今までノートパソコンは見づらいし操作しづらいので、大型のディスプレイ、キーボードを使って拡張して操作していた。

デスクトップ本体の上にディスプレイが置けるので、ただ置いておくだけだったノートパソコンのスペースが空いたのだ。

ただ、ディスプレイの位置が高くなった分、首の負担が多くはなったが、立位での操作を増やして対応している。

そして、DVDドライブも付属していたので、外付けのドライブを使っていたノートPCよりも簡単にアプリをインストールできた。

その他、USBポートや音声のジャックも使いやすくなってノートPCよりも使いやすくなっている。


これからは完全に年金を中心とした生活になっていくと思うので、節約できるところは工夫してやっていきたいと思っている。

パソコンに関しては30年以上の関りを持っているので、ちょっとしたトラブルも解決できるようになっているし、適当にごまかすこともできる。

中古のパソコンに関してはマニュアルもついていないことが多いので、経験が重要だ。

以前初めて買ったタブレットPCも、職場にあったタブレットを操作した経験が役に立っている。

その一方で、ワープロでは「一太郎」に、OCRでは「読んでココ」にこだわり続けている偏狭さも持ってもいる。

新しくて良いものは中古として活用し、古くても良いものは使い続けるスタンスでいきたいと思っている。





2025年12月28日日曜日

小学校マラソン大会の練習

 私は教員をしていたが、初任校が特別支援学校(当時は養護学校)であり、そこではからだ作りの一環として児童生徒と一緒に走るのが仕事としてあった。

それが高じて職員仲間と市民マラソンにも参加するようになった。

私自身は市民マラソンに出る目的だけでなく、ジョギングやランニングは健康のためであったり、ストレス解消として特別支援学校以外でも続けていた。

2校目の職業高校では剣道部の顧問をしていたので、トレーニングとして部員と走ったり、やはり職員仲間とも走った。

個人としての練習は早朝が中心にモモ(愛犬)と一緒に30分ほどだったが、土日は時間をたっぷりとかけて、ゆっくりと2時間以上ひとりで走ることもあった。

その経験を活かしたのが小学生の子どものマラソン大会の練習だった。


小学校の3学期にはマラソン大会があるので、そこで頑張らせたいと思い息子、娘とモモと一緒に朝早くから練習を始めた。

まだ、暗いうちに家を出て、1kmほど離れた小学校までゆっくりと走って行き、小学校の運動場で自分のペースで走らせた。

息子は運動が苦手でしっかりとは走られなかったが、運動が得意な娘は一生懸命に練習した。

夜が明けて運動場が明るくなって、寒いけど走り終わった後は爽快な気分でゆっくり家に戻った。

練習後の朝ご飯はみんなでおいしく食べることができた。


小学校の校内マラソン大会の日は平日だったので、私は仕事で見に行かれなかった。

そのかわり家内が応援に出かけてその様子を聞かせてもらった。

娘は最後でライバルの女子児童を抜いて、学年で男女合わせた中で、6位になったというい。

娘は担任にも早朝練習のことを言っていたらしく、その努力の結果だと褒められたそうだ。

私は娘に勉強を教えたことは殆どなくて、こういうランニングや水泳を一緒にやった経験だけある。

娘との良い思い出の一つとなった。


娘は小学校では水泳選手だったが、その後、中学校では水泳部がなかったので陸上部に入った。

長距離選手として頑張って、郡市区駅伝の上郡町の選手として出場したこともある。

ただ、足の故障に悩まされていて陸上は諦めて、高校ではテニス部に入っていた。

娘とは中学生頃からあまり話をしなくなって、なぜ陸上部に入ったかは聞いていない。

ただ、小学校のマラソン大会で頑張って良い順位になった成功体験があったように思う。

私自身は10年ほど前に鼠径ヘルニアで手術して以来、走ることは怖くてできていない。

また、体重が減って負担が少なくなれば再開したいと思っている。

子どもたちと一緒に練習したことを思い出しながら走りたいと思っている。



2025年12月26日金曜日

いつかのお正月

 私は幼い頃にはお正月はまさしく「もういくつ寝ると お正月」ということで、心待ちにしていた。

正月や盆には父親の親元の方に兄妹家族が集まり、賑やかにイトコたちともゲームやトランプをして楽しんだ。

高校生頃になると父の親元には行かなくなったが、家にイトコや近所の友達をよんで、麻雀などをして徹夜したり、夜中に初詣に行き、初日の出を見に行ったりした。

やがて、兄弟も結婚して家を離れたが、正月には必ず妻子を連れて親元に集まった。

ただ、遠くの関東に住む弟夫婦は帰っては来なかったが、電話をかけて話をした。

昼間はドライブに出かけたり、夕食では親元で飲んだり食べたりして、必ずカラオケに行った。

それも、子どもが大きくなったり、父も亡くなり母が高齢化して対応できなくなってできなくなってしまった。

それでも、母が家に暮らしている間は、兄弟家族は正月に楽しめる機会を設けた。


本来なら私の家が親の役割を果たすべきだったのだが、そういうことを念頭にした家の作りではなかったのでできなかった。

また、自分自身の婚出した娘には子どももいなくて、正月に帰ってくることもない。

息子も老人施設で夜勤要員として働いていて、盆正月は働いている方が多い。

だから、家内と二人だけの年越しと元旦を迎えることが普通になってしまっていた。

ただ、一緒に食事ができなくても、施設に暮らす母や自宅で一人暮らす義母に会いに行くことは続いていた。

やがて、母が2年前に亡くなり、義母も今年亡くなってしまった。

正月に挨拶に行くところが無くなってしまった。


こういう寂しいお正月になったので、正月には旅行でも行こうと家内には言っている。

しかし、いつも学童で働いている家内は正月休みが家を片付けられる良い機会なのだ。

だから、一度も正月休みに旅行に出かけたことがない。

一度だけ、兄弟でzoomを使って新年会をやったが、やはり雰囲気は出なかった。

今は昔のように集まれるのは法事だけになってしまって、それも今年が母の三回忌だったので次の七回忌までは機会がなくなる。

普通であれば私ら夫婦に子ども家族が集まってきて賑やかに過ごすべきだが、それも見込みは立っていない。

あの楽しいお正月はもうやってこないかもしれない。

若い人にとっては正月休みはまとまって休みが取れれるので旅行に出かけるのだろうが、私ら夫婦は気を紛らせるために旅行に出たいと思う。

気持ちだけは恋人同士に戻って、旅を楽しむのが良いように思える。


B’zの「いつかのメリークリスマス」をもじるなら。


いつまでも 集まっていられるような気がしていた
何もかもがきらめいた なつかしい日々を思い出してた
誰もいなくなることを はじめて辛いと思った
幸せだったことに 気がついたいつかのお正月


テレビでは帰省ラッシュや海外旅行に出かけた楽しそうな家族が映し出される。

それをこたつでみながら家内とふたりきりで過ごす正月になりそうだ。




2025年12月24日水曜日

バタフライ エフォート(Butterfly effort)

私は30歳前くらいから始めた趣味の水泳をいまだに続けていて、趣味が高じてマスターズのスイミング・チームで練習したり、水泳部の顧問をしたりした。 

水泳では当然クロール(自由形)がスピードとしては速いが、他の人と比較して速く泳げるのはバタフライ(以後バッタ)である。

マスターズの大会でも個人種目として参加してきたのはバタフライで、25m、50m、100mとどれも経験がある。

バッタは辛い泳ぎなので、地方大会では出場者も少なくて3位になることが多かったが、優勝した経験は無い。

また、100mは泳ぎ切るだけで3位になれたのだが、一人が途中で足をついてしまったからだ。

顧問として県大会に引率していたときには、部員のバタフライ選手が前半とばしすぎて、100m泳ぎ切る手前で溺れかけて助けられたこともあった。

選手でも無理をすると腕が上がらなくなり、深いプールでは溺れかけるのがバタフライである。


以前はバッタの練習は25m刻みで行っていた。

50m泳ぐ時には、折り返してからが非常に長く感じて、腕を上げるのも辛くなっていた。

だから、練習ではキックと片手バタフライが中心になっていた。

ところが、最近はフィンを練習に使い出して、バッタの泳ぎが楽になった。

これは水泳部の顧問の時に経験済みで、フィンを付けたら生徒と一緒のペースで泳ぐことができた。

特にバッタはキックがしっかりときくと、腕のかきが楽になる。

最近はフィンなしのダッシュ以外では、バッタの練習は50m刻みで行えるようになって、調子の良いときにはクロールと換わらないくらいのタイムで泳げた。


バッタは現役選手は別として、50mの刻みで練習している人はほとんど見かけない。

ましてや私のように200mの個人メドレーの練習をおこなっている人は滅多に見かけない。

50mのバッタが泳げないと200m個人メドレーが泳げないからだ。

だから、かつて水泳選手で、マスターズ水泳で活躍している72歳の人にも一目置いて貰えている。

そのマスターズ水泳選手にはクロールの速さは全く歯が立たなくて、25mダッシュを飛びこまずに15秒で泳いでいる。

これは女子高生選手でもなかなかできず、私は必死でノーブレスでがんばっても18秒はかかる。

その人でさえ50mのバッタをしているのを見たことが無い。


ところが、最近現役の高校生がフィンをつけてバッタの練習をしている機会を見ることが出来た。

驚いたことに、水中のドルフィンキック(バッタの両足そろえたキック)だけで25mの半分以上進んでいる。

腕でのストロークは数回ほどでターンになっているのだ。

これは目からうろこだった。

私はドルフィンキックはせいぜい5回ほどで水上に上がってしまう。

以前に教えて貰っていたコーチに私のドルフィンキックはおそいから、水上でストロークした方が良いと言われていたからでもある。

しかし、速く泳ぐ必要が無いときには、この方が腕には楽なのだ。


そこで、水中でのドルフィンキックを出だしを10回にして、折り返しは息が続かないので5回にしたら楽に泳げるようになった。

バッタのフィンを付けてのスイムの練習は50mを2本ほどだったのが4本できる方になり、今日(12/23)は100mを1本と50m2本行った。

フィンを付けているとはいえ100mのバッタを泳いだのは、10年ぶりくらいだ。

たぶんこの練習を続けていったら、フィンなしでも100mを泳げるようになるだろう。

速さばかり気にしていたのは、マスターズの大会に出ていた名残であったのだが、遅くても長く楽に泳ぐのは愉快なのだ。

腕のストロークにばかり気を遣っていたのを、キックを重視しただけで全く泳ぎが変わった。

これこそバタフライ エフォート、バッタでの努力型の工夫である。

練習は個人で行うものだが、他の人の練習もしっかり見ることが重要だと今回は思い知らされた。

昨日(12/23)は隣のコースで中学生の女子選手が練習していたので、それに刺激されて気持ち良い練習もできた。

水泳は世代を超えて練習できるのが素晴らしい。













2025年12月22日月曜日

黒豆の脱穀作業

 数週間前から近所の家の庭の陽だまりで、その知り合いのご主人がちぎってきた黒豆を指で剥いているのをよく見かけていた。

暖かい日には殆ど一日中椅子に腰掛けての作業をしていたが、奥さんもたまに手伝ったり、友だちや親戚の人がやってきてお喋りをしながらやっていた。

以前は大豆を多く作っていたので、村として大豆の脱穀の機械を持っていたが、不要となって処分してしまっていた。

だから、今は畑で大豆を作る人は手作業になってしまっている。

人によっては畑の側で蓙を敷いて、竹を割って作った道具で莢を外したりする人もいる。

どちらにしても江戸時代と変わらぬ景色だろう。


近所で作る大豆は殆どが黒大豆で、枝豆として食べ始めて実が熟すと、乾燥させて煮て食べたりすると言う。

私も同じように黒大豆を作っているが、枝豆として一番よく食べるが、熟した実は豆乳にしてからヨーグルトにする。

実も熟して葉っぱも枯れてきた黒大豆を根元から鉈で切り倒して、しばらくシートの上で乾燥させて置いた。

先週の火曜日(12/16)は天気も良かったので、足踏み脱穀機で枝から莢を外す作業をした。

ちゃんと乾燥しきっていたら、実もちゃんと外れるのだが、外れている実は多くない。

葉っぱや小枝の混じった莢を竹製の大きなザルに入れて、乾かすことにした。

残念なことに次の日は曇りのち雨で、余り乾かなかった。


その翌日(12/18)は天気が良いので、二階のベランダで乾かし、午後から手作業で脱穀をした。

ベランダからは近くの色づいた山々が見渡せて、その景色を眺めつつ、ネックホーンでスマホからの音楽を聴きながら作業をした。

音楽はamazon music のMy bestを流しているので、自分の若い頃に聴いてきた曲がかかると当時を思い出してしまう。

単純な作業にはこういうバックミュージックがもってこいだが、感傷的な気分にもなることは確かだ。

たぶん、当時の研究者になる夢がかなっていたら、こんな風に自然に囲まれて日向ぼっこをしながら豆剥きなどしてなかっただろう。

まあ、これはこれで良いかと同じ感慨を繰り返している。










2025年12月20日土曜日

原爆投下の戦争犯罪を誤魔化す学者

 以前紹介したアルバート・セント=ジェルジ著の『狂ったサル』國弘正雄訳 1985(1971)The Crazy Ape and what Next? サイマル出版で、広島で落とされた原爆について次のように述べている。


 近代科学が登場したのは、二十世紀になってからですが、それが現代における生活の血となり肉となったのは、半世紀近くを経た、つまり広島以後でしょう。

 広島以前に四十代に達した人びとは、原子力がどんなに恐ろしい力をもっているか、本当に理解することはできないのです。彼らは、数メガトン級の原子爆弾が炸裂すれば、生活自体が広範囲にわたって破壊されるということを頭のなかではわかっているのですが、原子力に関する知識が血のなかまでしみこんでいるとはいえません。[前掲書:62p]


要するに、近代科学において広島に原爆が落とされたことは科学にとっての進展には重大であった。

しかし、その当時の科学者は頭では原子爆弾を理解していたが、それを現実の物として理解することができていなかった。

そして、その責任を軍に押しつけます。


 原子爆弾の発明に貢献した科学者のほとんどは、最後までその使用に反対し、他の可能性をすべて洗ったのちに、万やむをえないときにのみ使用されるべきである、という立場を貫いていました。また、彼らは、実際に爆弾を投下する以前に、日本政府に対してその威力を示すべきである、と主張しつづけました。

 しかしながら、こうした科学者の主張もむなしく、軍事的見解が圧倒的に優勢をしめたまま、原爆はついに投下され、十万人の生命が、一瞬のうちに奪われてしまったのです。それ以来、核軍備競争の悪循環がはじまり、労働の貴重な汗とエネルギーがまったくむだに消費され、さ72pらにもっと悪いことに、全人類を絶滅の淵にまで追いやってしまったのです。[前掲書:71-72]


当時の科学者が時代遅れの頭脳によって原爆を開発し、その威力を知っていたのだが軍に利用されてしまった。

広島・長崎の惨劇におののいて、惚けてしまっていたと嘯いて責任を回避しているに過ぎない。

開発に協力した科学者はその後いくら核兵器開発に反対して、平和運動を行っても責任は逃れないはずだ。

本来なら原爆投下は戦争犯罪として裁くことができないにしろ、広く世界に認知されるべきだった。

認知されなかったからこそ、その後の水爆開発に発展して、ウクライナ戦争では核の脅しをしながら侵略戦争をロシアが行っている。

これらも科学者の協力なしにはできなかった話である。


唯一の被爆国日本は、原爆の残虐性を知っている。

だから、原爆投下を戦争犯罪というスタンスを少なくとも科学者や人文学者は貫くべきである。

また、政治家が核保有を主張することや、核持ち込みを認めることは、原爆投下の戦争犯罪を否定することである。

生物兵器や化学兵器よりも効果的で残虐性の高い核兵器使用を禁止しないのは、アメリカの戦争犯罪を認めることになるからだろう。

おそらくアメリカは国家が崩壊するまで認めることは無いだろう。

哀れなのはそのアメリカに従属する日本で有り、核開発を放置する学者である。

原爆で亡くなったり苦しんできた人に詫びねばならないのは、原爆投下という過ちを認知できない現代人であり続けると言うことだ。













2025年12月19日金曜日

ANALOG CONNECTIONで繋がる夢

 ラジオ関西の毎週金曜 18:00~20:30 放送しているANALOG CONNECTIONを私はradicoの聞き逃し配信でいつも聴いている。

日曜日の朝の犬との散歩に聴き始めて、その後に家内と一緒に行くドライブで車の中で聴いている。

家内は金曜日の夕方の職場からの帰宅時間に少し聴いているのだが、私とのドライブで一緒に聴いて、かかっている曲のことや、週のテーマを話題にしたりする。

残念なのは岡山県に入るとエリア外になってしまって聴けなくなってしまうことが多い。

有料のエリアフリーに加入しても良いと思いながら、他にも音楽関連のサブスク2件と契約していてこれ以上は増やせないように思っている。


流されているのは、60年代から80年代を彩った洋楽フォーク、ロック、ポップスを中心に全曲レコードで、私たちの青春時代の曲ばかりだ。

懐かしいのもあれば初めて聴く曲もあって、後でホームページで曲名を調べたりしてYoutubeで聴き直すこともある。

残念なのは夏場は野球中継で番組がないときが多くて、聴く数がぐんと減ってしまうことだ。

野球中継のないこの季節は毎週楽しみにして聴いている。

私は高校大学とラジオを良く聴いていた。

特に大学時代はテレビの無いときがあったので、下宿ではカセットラジオが情報源で有り娯楽でもあった。

その頃に良く流れていた曲は忘れてしまっていることが多いし、曲名も記憶していなかったので、Youtubeでも検索できなくて聴き直せない。

そしてかつて聴いていた曲がふいにかかると、その当時に戻った感覚になるのが嬉しい。

同世代だけで無く、親が聴いていて懐かしがって聴いているリスナーとか初めて聴いて感動するリスナーもいて世代を繋いでくれている。


また、この放送は中部エリアや関東エリアでも流されており、そのエリアからのメッセージでその地方のことが語られると懐かしく思う。

神戸の関西ラジオから発信される番組が時代と地域を繋いでくれている。

毎週出されるメッセージテーマも日常的な内容が多くて、昔有った物や出来事が語られたりする。

今まではラジオは良く聴いていてもリクエストやメッセージを送ることは殆ど無かった。

この番組に先日初めてリクエストとメッセージをホームページからフォームに書いて送信した。

もしリクエストがかかればラジオネームから私と分かる人に伝われば良いという夢も抱いている。

また、次週はクリスマスがテーマだったので、大学時代の名古屋での下宿の想い出をメッセージとしてもメールで送ったが、もし採用されたら分かる人がいるかもしれない。

恋人のいなかった頃に淋しく迎えたクリスマスイブの想い出を綴ったものだ。

この私のブログは今は海外で多く読まれていて、どういうわけかシンガポールと香港が多いのだが、翻訳機を片手に海外の人も聴いてくれると良い思う。

これからはブログだけで無く、この番組へのメッセージでも色んな人に繋がっていければと思っている。


追記

なんと、日曜の朝(12/21)に家内とドライブしながらradicoの聞き逃しを聴いていると、私のメッセージとリクエストがかかりました。感激!!!








2025年12月17日水曜日

戦争の本質としての非人間化

 ブライアン・ヘア/ヴァネッサ・ウッズ 藤原多伽夫訳 2022(2020) 『ヒトは〈家畜化〉して進化した―私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』 白揚社(SURVIVAL OF THE FRIENDLIEST)を読み返していることは以前に書いた。

この書の重要なテーマの一つが自己家畜化が招いた人に対する非人間化である。

これは友好的な自己集団とは深い繋がりを持つ反面、その集団に脅威をもたらす対抗相手に対しては非常に攻撃的になるが、その相手を自分と同じ人間とは見なさないということだ[前掲書:pp.162-166]。

そもそも自己家畜化は人間が必ず介在するように思われがちだが、チンパンジーの親戚のボノボは人間が介在せずに自己家畜化がなされてきた。

犬に関しても人間があえて家畜化したのではなくて、自ら人間にすり寄る形で自己家畜化を果たしたという。

犬に関しては、この書でも重要性が強調されているが、ネアンデルタールを絶滅させるくらいの力を得たのは犬という協力者がいたからというい学者もいる*1。

犬は狩猟に欠かせないものとなったが、番犬としても重要な役割を果たしてきた。

奇しくも古代では薩摩隼人が都を守るのに犬に見立てられたことはよく知られている。

その一方で、日本を含む東アジアでは農耕社会となり重要な食糧ともなったことも確かである。

それが、日本では江戸時代の「生類憐れみの令」によって、表向きの食糧ではなくなった。

現代の日本では食糧どころか、家族の一員として高い地位を得ている場合もある。

うちにいるクロは猟犬なので庭で飼っているが、少なくとも息子より地位は高いと思っているようだ。

そして、家族外の人が家に入ることを嫌い、場合によってずっと吠え続けてしまう。

家を守るのが自分の役割だと思っているのだろうと思う。

そのくせ、他の人に預けられてしまうと、そこでは温和しく愛想が良いのだ。


しかし、犬は現代のように家族の一員として人間扱いされ続けられてきたわけではない。

薩摩の歴史研究で有名な原口虎雄氏は西南戦争での薩摩武士を狡兎死して走狗烹らる」と表現した*2。

幕末で活躍した薩摩武士が用済みになったことの自虐的表現だが、古代では非人間化された犬扱いにされていたこととの対比で興味深い。

傭兵が戦闘を行う非人間としての犬に喩えられて、映画「戦争の犬たち」のタイトルにされたりもする。

また、日本では役に立たないとか悪い意味にするときに「犬」をつけるが、「犬死に」とはまさしく何の価値も無い死に方を言う。

戦前では中国人を低く見て公園に「犬と中国人入るべからず」と立て札が立てられたというのは有名である。

人類の発展に寄与したであろう犬は、一番親しい動物で有りながら、非人間の代表的な動物にさえされている。


そして、一番残酷な側面は同じ人間に対する非人間化である。

一番分かりやすいのは奴隷であろう。

日本では歴史学者などは簡単に奄美のヤンチュのことを債務奴隷という用語を用いているが、日本本土では遊郭に身売りしても奴隷という用語を避けてきた。

それはアメリカの近代奴隷などのように、非人間化されてはいなかったことからだと思う。

スレイボクラシー(奴隷主による支配)としての「白人共和制」がアメリカ南部には独立前の18Cに築かれていたがその時の黒人奴隷に対する扱いは次のようであったという。


 もっとも頻繁に行われた鞭打ちの他に、焼印、足枷、拘禁が至る所で行われた。鉄棒の束で拷問を加える奴隷主も多かった。白人を殴りつけた場合はもちろんのこと、夜間の外出や許可のない外出などでも奴隷は鞭打たれ、耳たぶを切り落とされた。この「共和国」においては逃亡奴隷を射ち殺し抹殺することは合法であり、謀反・放火・殺人の罪に問われた奴隷の右手と首を切り落として身体を四つ切りにし、郡内のもっとも人目の多い場所でさらしものにすることが常識であった。プランターが富を得て肥え太るためには、奴隷が人間【メン】であってはならなかった*3(下線は私による)。


奄美でヤンチュを経験した人には、家畜並に扱われたと言うこともあったが、それは誇張であり、村の祭りにも参加できたし、黒人奴隷のような扱いをなされることはなかった。

そういうことで、私は奄美のヤンチュを債務奴隷とは見做さない。


では、兵士に関してはどうだろうか?

徴兵制では有無を言わさず戦地に送り込まれて、人間的な扱いを受けない場合もある。

それを非人間化と見做さないのは名誉を与えられているからだろう。

ただし、捕虜となってしまえば奴隷または奴隷以下(強制収容所)にされることもあった。

奴隷研究で有名なオルランド・パターソンは、一貫して奴隷は名誉を失われた人間としている*4。

そして、戦争は自分の国家と同胞を愛し、敵国の人々を非人間化することによって、殺したり奴隷にしたりするものなのだ。

アジア太平洋戦争で日本が「鬼畜米英」と唱えたのが、まさしく敵国の非人間化といえるだろうう。

そして、敵国の兵士や市民を倒すことが名誉となる。

チャップリンの映画『殺人狂時代』で語られた一人殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる」とはこのことを表しているのだ。


冒頭で紹介したブライアン・ヘア/ヴァネッサ・ウッズの書の優れたところは、問題提起に終わらず解決方法を提案しているところである。


 第二次世界大戦後、集団間の争いを確実に減らせるのは接触だけだということが、研究によって明らかになった。争いを静めるための最善の方法は、集団間に脅威が存在するという感覚を小さくすることだ。両方の集団が歩み寄り、脅威に対する懸念を小さくすることができれば、見知らぬ者どうしでも互いに共感する見込みがあることに気づくだろう。こうした懸念を減らすことが、集団間の争いを減らすうえで鍵となる要素の一つだ。脅威を感じることが「心の理論」のネットワークを切断するのならば、脅威を感じない形で相手と接触することによって、切断されたネットワークが再び動き出すのではないか[前掲書 p.p.234-235]


これは現在の日中間の問題に大きく関わることである。

互いに接触を断ってしまえば、相手を非人間化して再び戦争が始まってしまう。

互いの政治家や官僚の接触が途絶えたとしても、国民同士はそれを絶やすべきではないのだ。

自己家畜化によって寛容さと残酷さを身につけてしまった人類は、国家への愛国心故に世界戦争を二度も起こしてしまったが、それからしっかり学んだはずだ。

それを、日中両国の国民は思い出すべきであろう。


*1 パット・シップマン 2015 河合信和訳 『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』原書房(THE INVADERS: How Humans and Their Dogs Drove Neanderthals to Extinction

*2 原口虎雄 1980『鹿児島県の歴史』 山川出版社:p235 故事の意味は、必要なときには重宝がられるが、用がなくなると捨て(食べ)られる)

*3 下山 晃 1995「第四章 奴隷の日常と奴隷主支配体制【プラントタラシー】」『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』人文書院:263p

*4 オルランド・パターソン 奥田暁子訳 2001(1982)明石書店(SLAVERY AND SOCIAL DEATH; A Comparative Study

2025年12月16日火曜日

芋はニョッキに限る

 以前に「時は今、芋が下知る五月かな」でジャガイモのニョッキのことを書いた。

このところ、サツマイモを使ったニョッキを自分で作っている。

サツマイモはそのままふかしたり焼いたりして食べても十分美味しくて、家で作ったサツマイモの小さい物はふかして食べている。

ふかしたサツマイモは食事をするコタツの上にザルなどに入れて置いておき、場合によっては昼食として食べるし、おやつやおつまみとしても役立っている。

今年は多く採れたので、保存用や人にあげるために綺麗で大きいのは新聞紙に包んで段ボール箱に入れて保存している。

虫が食ったり、ハクビシンなどに囓られたものは見栄えが悪いので家で消費するのだが、早く食べないと風邪をひいてしまう。

そこで、甘酒にして飲んだり、ニョッキにして食べているのである。


私のニョッキの作り方はすごく簡単で、マッシュしたニョッキにもち麦のやコウリャンの全粒粉と小麦の中力粉・強力粉を加え、それにオリーブ油と塩を加えて練り上げる。

分量もいい加減で、水を加えずに練り上げて固まるように小麦粉を調節するだけだ。

練り上げたものを冷蔵庫や涼しいところで一晩寝かせて置いて粘りを出させる。

湯に通すときも練った固まりをスプーン2本でほじくって丸めて、大皿に並べておき湯が沸いたら大鍋に入れていく。

茹だったら浮いてくるのでそれをすくって水にさらしてザルに入れればお終いである。

そのちぎって丸める、茹でる、水にさらすの行程を手際よくやればそう時間はかからない。


茹で上がったニョッキは食べる分だけ冷蔵庫に入れて、食べ切れそうにない分は冷凍しておく。

冷蔵庫で保存したニョッキは昼に野菜シチューに入れたりして2週間ほどで食べきるようにしている。

たまに夕食に家内に本場風のケチャップを絡めたニョッキも作って貰ったりもする。

これも米離れ対策の一つで有るし、できの悪いサツマイモの大量消費でもある。

そして、サツマイモのニョッキはジャガイモと違って自然な甘みがあってそのままでも美味しいのだ。

また、ジャガイモは熱いうちでないとマッシュできないが、サツマイモは少々冷めていても柔らかいので簡単にマッシュできる。

皮も薄いのでそのまま入れても問題ないと思う。


こうしてジャガイモの収穫後の夏場とサツマイモ収穫後の冬場にニョッキができるので、一年を通しての食物となる。

麺類は自分で作るのは手間がかかり、道具もそれなりに必要だけれど、ニョッキにすればそう手間もかからないし道具もあまり必要ない。

何よりも家庭菜園でも芋は簡単に作ることができるし、買ってもそう高くないのが魅力だ。

高騰した米対策にはもってこいの料理だと思う。


2025年12月14日日曜日

腹ごなしと空中マウス

 私は完全退職後は冬場になると昔の古傷の十二指腸潰瘍が再発しはじめた。

一番の原因は運動量が落ちて、デスクワークの時間が増えたからだ。

文化人類学を中心とした研究に関しては、ライフワークとして引き続き行っている。

身体を動かすこととして、夏場は農作業を早朝や夕方にも行うが、冬場にはする仕事があまり無くなる。

勤めていた頃は食後にじっと長時間座りっぱなしということは無かった。

本来は食後は食休みとしてゆっくりしていた方が良いのだろうが、きちっと椅子に腰掛けて同じ姿勢をとり続けることはどうも胃腸に負担をかけるようだ。

夏場は食前や食後に散歩したり農作業をすることが多かった。

冬場は食前にはできなくて、食後しばらくして散歩に出かけている。

というのもあまり早く出かけると陽も照らず寒いからである。


その食後の散歩で腹ごなしをすることによって、痛みかけた十二指腸潰瘍を改善させている。

先日来、また痛み出したので、去年医者にかかって貰っていた薬を服用したり、消化に悪い食べ物を食べないように努めている。

雑穀米は糖尿病対策として食べ続けていたのだが、この季節はやはり胃腸への負担が大きいので玄米ご飯に切り替えた。

午後から水泳の練習に出かけるのだが、これも食後直ぐにではなく、しばらく時間をおいてから温水プールに出かけている。

水泳は歩くよりも胃腸への負担が少ないので、夕方の晩酌や夕食のために良い腹ごなしとなっている。


とにかく、同じ姿勢でじっとしているのが胃腸に悪いようなので、デスクワークの時は可動式の椅子を使ったりして、立ったり座ったりしている。

デスクワークはずっとパソコンで行っているので、立ったり座ったりする時に一番問題となるのはキーボードとマウスの高さである。

それらを置くための折りたたみできる可動式の台も買ってはみたけれど、狭い机の上では邪魔になる。

キーボードを打ち込むときは座るとして、単純な操作では立ったままマウスを操作する方が台を置かず済むと考えた。

そこで探したのは空中マウスで、マウスの上についているボールを親指でポインターを動かし、その下にあるクリックボタンを使って操作する。


この空中マウスに慣れるのは大変で、一番重要なのはボールを親指で固定させてクリックをすることなのだが、今までそういう動作をしたことが無かった。

親指を離すとポインターがずれてしまうので、違ったアイコンをクリックしてしまう。

ドラッグの操作も親指でボールを使って行うので最初は上手くできなかった。

そして何よりも、細かい操作を親指が上手く動かせていないということだ。

これから焦らずじっくり慣れるつもりだが、とりあえずは従来のマウスと一緒に使うことにした。

Bluetoothのマウスは同時に二つ使えるので、細かい操作は従来のマウスで、大まかな操作は立って空中マウスで行っている。

因みに、ずっと立ち続けることも腰に負担があって良くないので、立ったり座ったりしている方が身体には良いようだ。

将来は可動式の机を買いたいと思っているが、それまではこの方法で慣れていくしか無いだろう。

巧緻性の必要な空中マウスを使いこなすのも惚け防止にもなると思っている。







2025年12月12日金曜日

弱い犬ほど良く吠える

 私は子どもの頃から最近まで、実力も大して無いのに負けん気の塊で色んな失敗をしてきた。

一番の失敗は大学院時代に権威有る教授に身の程も知らず楯突いて自滅していったことだ。

他にも父親の意向に反発して、自分勝手やって大学受験に失敗し、親からの仕送りも乏しく貧乏学生として経済的に苦しんだ。

子どもの頃から喧嘩したりするたびに母親や祖母から「負けるが勝ち」と言い聞かされてきたのだが、その性格は根本的に改まらなかった。

家内からも今でもむき出しの負けん気を指摘されている。

この歳になっても、水泳の練習では年上のスイマーには負けん気をむき出しにして泳ぐこともある。

勉学でもスポーツでも負けん気が無ければ進歩はしないのだが、それが過ぎると自滅することが多いのだ。


また、弱そうに見える相手を舐めてかかって負けてしまうこともある。

小学生の頃に、体育でクラスの男子と勝ち抜き相撲をして全員に勝って二巡目で、身体の小さい弱そうな相手に敗れてしまった。

まさか、足を取りに来るとは思わなかったからだ。

私は小学生の頃から剣道をしていたが、本当に強い人は闘争心をむき出しにはしていなかった。

犬でもよく吠える犬は自分が恐いからよく吠えるのであって、小さな犬ほどよく吠える。


日本もバブル経済の頃に、Japan as No1とか言われ、いい気になってアメリカの大手企業などを買収していきしっぺ返しを食らった。

逆に中国は自国のオリンピックや万博の頃に、これが終わったら経済破綻して難民で溢れるのではないかと危惧されていたが、今はアメリカに猛追している。

その中国も調子に乗りすぎて、自国経済が危うくなっているようだ。

日本の歴代の総理が中国相手に曖昧な態度をとっていたのは弱いからでは無かった。

虚勢を張る相手に同じように虚勢を張れば互いに損をして第三国の漁夫の利を与えるだけだ。

アメリカから足枷をはめられている日本が対等に軍事力で勝てる相手ではない。

その足枷をはめているアメリカを信用しきっていること自体無謀なのだ。


強い相手と口喧嘩が始まってしまったら、「あんたが大将」と言って負けを認めて逃げるのが勝ちなのだ。

私は学生の頃は負けん気の強い女性にもむきになってしまうことがあったが、「○○さんにはかなわんわ~」とかわせるようになった。

そういう負けん気の強い女性は相手が男性だと退いてくれるので、自分が退くことを知らないのかもしれない。

また、失敗や失言をしても男性から大目に見て貰えるという甘えがある場合もある。

ことが国と国の問題になると、国交問題になり場合によって戦争に発展して重大なことになる。

アジア太平洋戦争では、退くに退けない戦争からとんでもない犠牲を払った。

中国はその反省が無いと言っているが、根本的な反省をさせずに恩に着せられてアメリカや中国に利用されただけなのだ。

かつて太平洋戦争において広島・長崎・東京で大虐殺を行っていながら戦争犯罪を認めないアメリカの原子力空母の上で手を振って魂まで売ってしまうこと自体が真の負け犬なのだ。

日清戦争に敗れて以来列強から食い物にされてきた中国が強かに復活したのであり、その中国にアメリカの威を借りて吠えてはいけないと思う。

中国自体も本当に自信が有れば吠える相手に唸り声を上げたりしない。

むしろ、相手にとって吠える犬の方が恐くない上、近所迷惑だと言って邪魔者として貶めるのに利用すれば良いのだ。

本当に賢い犬は唸ったり吠えたりしないものだ。





2025年12月11日木曜日

イトコの繋がり

 文化人類学では結婚に関してはイトコ婚のことが大きなテーマとなってきた。

イトコとの結婚を決まりとする社会もあったからだ。
私が調査研究していた奄美に関しても、決まりでは無いけれど好まれていた。

理由としては財産を親戚以外に渡したくないということだった。

親戚や知り合いの中にはイトコ同士で結婚した夫婦も何人かいる。

ただ、日本ではイトコ婚は禁止されている三親等より一つ関係の薄い四親等だけれど、遺伝的疾患のリスクが大きくなるということが懸念されて避ける傾向がある。


イトコ婚のメリットは義理の父母とも親戚関係があるので、一緒に暮らしても馴染みやすいし、夫婦の親同士の関係も良好にできるということがあるだろう。

そして、何よりも幼い頃から相手のことをよく知っていて、性格や好みが分かるので大きなすれ違いを防ぐことができるだろう。

デメリットは夫婦のトラブルが親戚関係に波及するので、夫婦の問題だけでは済まないということになる。

ただ、昔のように親戚同士の協力関係が重要だった時代には、デメリットよりメリットの方が大きかったように思う。

また、近年でも嫁姑関係ではイトコ婚でうまく行っている例を親戚で知っている。

現代では親と同居することもあまりなくなったので、そのイトコ婚のメリットも関係なくなっている。


私の子どもの頃は父の方では兄弟姉妹が5人もおり、そこでのイトコの総数は11人となっていた。

盆や正月では赤穂の鳥撫の本家に、遠くは名古屋からそして叔母の子どもまで集まって来たので、大変な賑わいとなった。

トランプなどのゲームをしたりして遊んだり、家族ぐるみで一緒に旅行に行くこともあった。

食事は大人と分けてさせられて、だんだんと大きくなった私は幼いイトコ達と一緒の扱いが不満に感じるようになってきて、中学生頃からは行かなくなった。

イトコも成長するにつれて顔を見せなくなり、自分や自分の兄弟、お互いの結婚式で会う機会は殆どなかった。

結局父方のイトコ関係者で結婚後も赤穂近辺に住んでいたのは、私を含めて5人だけになってしまったが、仕事も大きく違い普段は会うことはあまりなかった。

ただ、祖父母の葬式には全員集まったし、法事でも集まれる者は集まった。

また、私の父や名古屋の叔父の葬式まではコロナ以前だったので大きく行われて、殆どのイトコが子どもや伴侶と一緒に参列した。

それ以降も、父方の血のつながりのあるオジオバの葬式にはイトコもできうる限り参列していた。

葬式では長い時間を過ごすことになるので、話を色々とすることができたが、年老いた自分の親のことや子どもの様子を話すことが多かった。

滅多に会う機会が無くなったイトコだが、会うと昔に戻った気持ちになって、兄弟姉妹とは違った気安い雰囲気で心地良かった。


このイトコ関係の中心であった本家のイトコの姉さんは70歳という若さでその父母より先に三年前に亡くなってしまい、その後を追うように両親も亡くなってしまった。

先日も本家の伯母が亡くなって葬式があったのだが、集まることができたイトコは私を含めて3人だけだった。

そのうちの一人は夫の仕事の都合で現在は東京で夫婦で暮らしているのだが、葬式のためだけに戻って来てくれた。

そのイトコは父方の一人だけの叔母の娘だったので、イトコの中ではずっと苗字の違うイトコである。

私は叔母が独身の頃から可愛がって貰っていたので、おばさんと言わず名前の下には「ねーちゃん」を付けて呼んでいた。

その叔母も今年癌で亡くなってしまい、それ以来そのイトコと親しく話す機会が多くなった。

結局彼女には弟や子ども以外に血の繋がって話ができる親しい者はイトコだけになってしまっていた。


自分の子どもにもイトコはいるが、私の兄弟が4人いても全部合わせても6人しかいない。

これは家内の方に一人もいないということも大きいが、私の弟の一人には子どもがいないことと、一人は病気で亡くなったことにもよる。

子どもが幼い頃は実家に盆正月集まってカラオケに行ったり、子どもの歳の近い弟家族とは南紀白浜へ一緒に旅行に行ったりもした。

そういう子どものイトコもやはり親の葬式や法事でしか会う機会が無くなってしまった。

本来なら私の子どもの孫ができて、孫同士のイトコ関係ができはじめる頃なのだが、それができていないのが淋しい限りだ。


オジオバと甥姪の関係、イトコ同士の関係は親子関係、兄弟関係を補ったり、普通の友だちよりも長い付き合いで互いに理解できて安心できたりする。

少子化の問題は単に人口減による経済的な問題だけで無く、まさしく血の通った人の関係を失わせるものだ。

私は今、ブライアン・ヘア/ヴァネッサ・ウッズ 藤原多伽夫訳 2022(2020) 『ヒトは〈家畜化〉して進化した―私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』 白揚社(SURVIVAL OF THE FRIENDLIEST)を読み返している。

日本語タイトルを見ると残酷さの方が目につくが、著者が最も言いたかったのは友好的になって自己家畜化が進み発展していったことだ。

友好的で幅広いコミュニケーションがとれてこそ、ホモ・サピエンスは発展できたのであってそれが無かったら発展はできなかった。

現代はこういう親戚関係どころか家族関係も解体されてしまい、個人として社畜(会社員)や公畜(公務員)で安住してしまっている。

ナンシー・フレイザーはそれを「共食いの資本主義」と言ったが、社畜や公畜は社会的・経済的に喰いつ喰われつ生きていかねばならない現実から目を背け続けている。

家族愛や兄弟愛、親類愛が愛国、愛社にすり替えられて、共食いをしなくてはならなくなった。

そういう残酷な時代になってしまったということなのかな・・・・・・












2025年12月9日火曜日

JA栄えて農業滅ぶ

 農学者佐藤洋一郎氏の『米の日本史』中央公論新社(2020)は日本の米の歴史を概観でき、しかも現代の米に関する問題を考えるのに非常に参考になる。

佐藤氏は米余りの原因に食生活の変化を挙げているが、「粉食文化への回帰」[前掲書:250p]を指摘しているのは興味深い。

現代人は炊いたご飯を食べるのが普通になってきたので、粒のしっかりした飯が当たり前だと思っている。

しかし、穀類でこういう食べ方ができるのは米ぐらいで、多くは粥のようにペーストにしたり、粉にしてパンや麺にして食べるのが世界的には普通だろう。

日本でも縄文時代に多く食べていたドングリなどの堅果類はすりつぶして焼いて食べるのが普通だったようだ。

米もお粥以外にも、餅や煎餅、おかきなどとしてペーストと関連したものをよく食べる。

ただ、水稲が栽培され始めた弥生時代から現代も継承されている炊き干し法*1が好まれているので、それも守っていくのも大切なことだと思う。


今回、米価の暴騰への対策として、あえて米離れの食生活をしているのだが、米の代わりになっているのはパンではなくて、麺類である。

それは私が糖尿病で消化が良くて腹持ちの悪いパンを避けた方が良いといいうのが大きな原因だが、市販のうどんやラーメンは作るのも簡単だし美味しいからだ。

だから、午後から勤めに出る家内は昼食では作る時間が無いので麺類を出すことが多い。

関西では粉物(こなもん)文化として、麺類、パン以外にもお好み焼きやたこ焼きが加わって大変人気がある。

私も家内も蕎麦が大好きなので、日曜の昼はドライブがてら外食をするのが恒例なのだが、月に一度はそば屋に行くし、普段もやはり昼食にすることが多い。

また、夏場では播州名産のそーめんはよく食べるし、年中スパゲッティーもよく食べる。

また、粉物のみでなくご飯と組み合わせる食べ方もよくなされている。

関西では粉もんとご飯を一緒に食べる人も多いが、私は健康上それは現在はしないが、以前はラーメンやうどんの残り汁にご飯を入れていた。


また、穀類だけでなく芋類もマッシュしてニョッキのように小麦粉と混ぜてパスタとして食べることができる。

私は昼食に自分で作り置いている野菜シチューにニョッキを入れて食べることが多い。

粉物は小麦粉というイメージが強いが、芋類をジャガイモ以外でもニョッキとして粉物になる。

穀類は家庭菜園では作るのが難しいが、芋類は簡単で多く採れる。

また、芋は高い米よりも安く手に入ることができるし、栄養価も高いのでそれを家庭で工夫しながらやるようになっても良いと思う。

穀類に関しても大豆なら家庭菜園でも作るのは難しくなく、最近は大豆麺なども販売されているが、豆乳や粉豆腐として色々用途は考えられる。


農村が高齢少子化で用水路や農道の管理が担えなくなってきているし、私が住んでいる村でもできなくなるのはそう遠くないと思う。

そうなると、従来の水田農法から乾田農法への転換も考えねばならないだろう。

また、広い平野部では大規模な企業化を果たして、用水路や農道の管理まで行ない雇用も促進する方法も良いだろう。

しかし、中間山地のような所では大規模化は難しく、製造業が低迷していて就労もできなくて暮らせない。

もう、こういう所では特別栽培米などの付加価値を付けねば、従来の水田での稲作が無理なのである。

これからの中間山地では子育て家族や退職者の快適な生活を提供して、自給型農業を推奨するのも良いと思う。

大型機械を用いなくてもできる作物や、家畜を飼うことも良いだろう。

とにかく今は温暖化での食糧危機と食生活の変化で大きな転換点となっている。

「農学栄えて農業滅ぶ」ならぬ「JA栄えて農業滅ぶ」の時代を終わらせねばならない。


*1 石毛直通 2015『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』 岩波書店




2025年12月7日日曜日

アナログ回帰

 私の母が亡くなってから実家を片付けている過程で昔のレコードを持って帰ってきた。

また、家内も昨年より入院していて、今年亡くなったが、同じように家を片付ける過程で、実家に持っていたレコードも持って帰ってきていた。

レコードプレーヤーも捨てずに置いておいたのだが、針もついておらず付けてもまともに音が出なかった。

リサイクルショップで2000円で安売りしていたので、店員に音が鳴ることを確認して買ったのだが、やはり針がついていなくて返品しようとしたが、時機を逸してしまった。

リサイクルショップの若い店員はレコ―ドプレーヤーは針が重要だということが分かっていなかったようだ。

ただ、針の値段だけでも2000円を超えてしまうのだから、音の出るプレーヤーがそんな安いはずは無かったのだ。


それ以来、レコ―ドプレーヤーを買おうと思いながら、高いので後回しにしていた。

そして、割引率の高いブラックフライデーを機会に思いきって買うことにした。

ところが配送されてきたプレーヤーを組み立てる段階でミスをしてしまった。

ちゃんと説明書を見ないでいい加減に組みたてて操作していた。

安いプレーヤーなので昔通りのゴムバンドを使って回転させている。

そのゴムバンドの掛け方を間違っていたし、回転切り替えスイッチを電源のオンオフと思っていたのだ。

説明書を見て間違いに気づいてやっとまともにかかるようになった。


最初に聴いたアルバムはビートルズのサージェント・クラブ・バンドだった。

このアルバムは評価が高く、買ってからも何度も聴いていた。

やはり、傷んでいて、ノイズどころか音量もおかしくなったところがあった。

そして、私が買いたくても買えなかったアルバムを家内が実家から持って帰っていたのでそれを初めて聴くことができた。

私はバンド活動をしていたし、大学や大学院時代はレコーをを買う余裕も無かった。

自宅から大学に通い、そして地元で働いていた家内は、今から思うとかなり高額なのだが、レコードアルバムをそこそこ買っていた。

家内はもっとアルバムを持っていたらしいのだが、実家には何枚か失われてしまったそうだ。

結婚後実家を離れていて、親に処分されてしまったのかもしれないと言っていた。


私自身もちゃんと置いておく気は無かったのだが、捨てずに実家の棚に置いておいただけなのだ。

まさか古いアナログレコードが見直されて聴くようになるとは思わなかった。

それならもっと早く、リサイクルショップに売ってあったアルバムを買っておけばよかったと思った。

ネットではかなり高額で販売されているので、欲しくても手が出そうにない。

このごろはレコードショップでも中古のアルバムを置いてあるので、安いのを探してみようとは思っている。


カセットやCDなども多く残っているのだが、あまり聴き直そうとは思えない。

たいていはレンタルレコード屋から借りた物をダビングした物だからかもしれない。

それに対してアナログレコードは、買いたくても買えなかった気持ちがあるし、CMのタモリでは無いけれど、手入れをすることで愛おしく思えるのだ。

普段散歩しているときや泳いでいるとき、農作業をしている時に聴き流すのと違って、ちゃんとしたスピーカーやヘッドホンで音を楽しむのも格別なことだ。

これから、冬場になって農作業も減っていくので、音楽活動に力を入れる季節となった。

一人カラオケ、弾き語りだけで無く、レコード鑑賞の楽しみも増えた。

アナログで育った者はやはりアナログに戻って行くようだ。

ただし、線を繋ぐのは面倒なので、Bluetoothを使っている。

まだ、本格的とは言えない・・・・・・








2025年12月5日金曜日

風邪と伴に泳ぐ

 家内がインフルエンザに罹って1週間以上経つ。

当然私も感染していておかしくはなにのだが、予防注射もしていなかったにも関わらず、インフルエンザの症状は出ていない。

その代わりにクシャミや鼻水がよく出るし、軽い腹痛も続いている。

少々、風邪の症状があっても、熱さえ無ければプールに行って泳いでいる。

ただ、以前にスイミングのコーチをパートでしているときに、熱が出ても仕事する必要があって、その時にはプールに入っていて寒気がした。

鼻水やクシャミに関してもプールの塩素にやられていることもあるのだが、このところは背泳するときは鼻栓をしているので、塩素のせいでは無いと思う。


水泳は泳いだ後で、しっかりと温かいシャワーで身体を温めることができる。

今は歩いた後の汗の方に気をつけている。

シャワーを浴びること自体時間がかかって身体は冷えるので汗に濡れた衣服だけ着替えている。

その下着や衣服を換えるときも寒い洗面所で寒い思いをしなければならない。

暑い頃は散歩の後で汗をかいたまま農作業をしていたが、今は寒くてできない。

農作業のために着替えねばならないので、毎日していた農作業も週に二日くらいにして、普段は必要な大根やカブ、ネギを適時採ってくる程度である。

だから、一番今の身体を整えているのは水泳なのだ。


このところ、プールの歩行コースにやって来ていたお年寄りもずいぶん減ったし、スクールの生徒も練習時間ギリギリか遅れてやって来ている。

上郡の温水プールは室温が低いので、プールサイドで待っている生徒が震えているのを見かけていた。

水温も低いが、濡れた身体を水上に出すと寒いので、水中に沈めている方が暖かい。

だから、歩く人にとっては寒さとの闘いになっていたのだ。

こういうときはひたすら泳ぎ続けるのに限る。

しかし、こんな寒いプールで泳いだら却って健康を害する可能性があるので、費用はかさむが冬場は相生の温水プールを中心に練習することも考えようと思っている。

実は高校の水泳部の顧問をしているときは、初夏では水温が16℃でも自ら泳いでいて、その時は水上の方が暖かかった。

プールから上がって寒さを感じるよりも、暖かさを感じる方がましかもしれない。


私が少々の風邪をひいても発熱して寝込むことも無く。

インフルエンザの予防注射を打たなくても、発症しないのは水泳をしているお陰だと思っている。

持病の糖尿病対策の水泳の練習は、風邪やインフルエンザへの対策ともなっている。

ただ、現役の教師の頃は12月中旬頃まで半袖で過ごしていたが、最近はそれは無理で早くから発熱素材の長袖下着を着けている。

ちゃんとズボン下も発熱素材を着て、部屋ではなるべく暖房をつけずに、薄着で過ごすようにしている。

学校で半袖で過ごせたのは、生徒の身体がストーブの役割を果たしてくれていたからだと思う。

水中よりも水上で寒さ対策をしている今日この頃である。



2025年12月3日水曜日

無常なる瀬戸内海の牡蠣

 以前に貝毒によって、近くの海の貝は食べられなくなった。

今度は牡蠣が高水温と高塩分の原因とみられる影響で、大量死してしまった。

私の子どもの頃は赤穂では牡蠣の養殖は殆ど無く、海苔の養殖の方が盛んだった。

坂越で牡蠣の養殖が発展していって、全国でも知られるくらいになっていた。

それは千種川から流れ込む栄養分が、牡蠣の発育に良いからだという。

ただ、河口付近の唐船では泥が溜まって海水浴ができなくなってもいた。

実は私の小学生の頃は、その泥など平気で泳いでいたのだが、現代では観光客を呼ぶにはふさわしくないらしい。


牡蠣は自然と共存しているように思えるのだが、実は牡蠣棚の下は死の海になっている。

私はひところ赤穂付近の海に潜って、貝や魚などを採ることもあった。

その時に牡蠣棚の下には、海藻も無く魚も泳いでいなかった。

牡蠣は牡蠣棚だけで無く、付近にも繁殖するので、牡蠣が多く浜辺の石について歩くのに危険だった。

また、釣りをしていた時に、餌が無くなったら岩についている牡蠣を割って釣り餌にしたりした。

私は子どもの頃からやたら牡蠣を食べさせられていて、子どもにはあまり美味しい物ではなかった。

今ではすごく美味しいのだが、中でも酢がきはどうしても食べたいという思いはあるが、家では作って貰うことは難しい。

以前に勤めていた職場には、牡蠣が大好物であり、特に生牡蠣が好きだそうで何度食あたりしても止められないという人がいた。

ノロウィルスのこともあって、私はそこまで食べたいとは思わないが、店で出されている時は必ず食べる。


赤穂ではふるさと納税の返礼品の多くを牡蠣が占めていたそうだが、今年は中止になったそうだ。

赤穂の特産品にもなった牡蠣が駄目になってしまったのも寂しい気はする。

私は水泳部の顧問をしていたときに、真夏はどうしても水温が上がりすぎるので、練習後は大きなブルーシートで水面を覆って置いた。

普通は温水プールで夜間に保温のためにそういうことをするのだが、その逆を行っていた。

これからは牡蠣棚の上を遮光カーテンで覆わなくてはならないかもしれない。

実際、畑でも最近は遮光シートで作物を灼熱から守ってやってもいる。

採る漁業から育てる漁業への転換と言われているのだが、気象破綻の時代にあってはそう簡単な物ではないらしい。

とにかく、我々は大量絶滅の時代に生きていることを自覚すべきなのだろう。





2025年12月1日月曜日

夢を嗅ぐ犬

 毎朝欠かさず観ている「羽鳥真一のモーニングショー」の出だしの動物動画のコーナーで犬が夢を見ているシーンがあった。

実は我が家のクロも同じように寝言(鳴き声、唸り)をするのを見かけたり聞いたりする。

人は夢を見るというが実際は、夢には音があるし、匂いや味も感じるし、触感もある。

夢は決して視覚だけのものではないが、人は視覚を重視するので見ることを前面に出す。

ところが、犬は視覚よりも嗅覚を重視している。

それは散歩しているときによく感じることだ。

だから、犬は夢を嗅いでいると言っても良いのかもしれない。


それは全盲の人も夢を体験していることと比べても想像がつく。

感覚器に障害を持つ人は、それなりの夢を体感することになるようだ。

逆に健常者と言われている人も、他の動物が得意とする感覚を持っていない場合もあるだろう。

鳥や魚には特別に磁気を感じ取ることができるらしいし、人間の限界を超えた領域の感覚を得ている場合も多いのだから。

また、亡くなった母は認知症が進み、夢と現実の区別がつかなくなってしまった。

困ったことに、昼間見たテレビドラマを自分の息子に投影してしまって、不倫騒動を起こしかけてしまった。

最初は本当のことと真に受けてトラブルになることも有り、自分の携帯で警察に電話して騒動を起こしたので、携帯電話は私が預かっていた。


私が研究しているシャーマニズムなどは、無意識的であったり、意図的だったりするが、夢と現実の混濁が起こっているように思えた。

霊的なものを感じたり、神や仏の姿を見たりするのは、自分の作り上げたイメージを頭の中で作り上げて、夢と現実が混濁した状態を作っているとも考えられる。

また、奄美で海の彼方からの神様を迎えるときに、吹いてきた風を神様と見立てたりしているので、風や雨などの自然現象をイメージと重ねることもなされるようだ。

白昼夢というのは、何となくボーとしているように思えるが、現実世界とイメージがうまくく重なっていないときに起こっても不思議では無い。

思い込みが激しかったり、感情が高ぶっているときには、普通の人が捉える現実世界と違った個人の現実を体験してしまうかもしれない。

そして、散歩している犬と私は違った現実を体験している可能性も高い。

また、学校教育やマスメディアで固定されてしまったイメージしか描けなくなっているのが、私たち現代人なのだろうと思う。

2025年11月30日日曜日

幼かった娘の想い出と泳ぐ

 週に一度だけ、隣の市営プールに泳ぎに行っている。

ちょうどその時間帯では幼稚園児のスイミングスクールがあって、その様子を見ながら歩いたり泳いだりしているお父さんを見かける。

その若いお父さんは幼い娘を二人スクールに連れてきて、終わると連れて帰っているのだが、まだ娘達は自分で更衣できないので、お父さんが世話をしている。

私も小学校の低学年の頃の娘や息子をこのプールのスイミングスクールに土曜の午後に連れてきて、そのそばで泳いでいた。

その若いお父さんは娘二人のことが気になって、しょっちゅう娘の方に目をやって、時に手を振っている。

私の場合は自分の泳ぐ方に夢中になっていたのだが、子どもを指導してくれている若くて美しい女性コーチにも見とれてしまうことも多かった。


娘の方は後に地元のスイミングに移った後に選手にもなって、別のボランティアコーチが指導するスイミングチームに入って練習した。

その時は家から遠い温水プールで日曜日の午前に練習があったので、私もその横で水泳の練習をしていた。

たびたびあちらこちらで小さなレースがあったので、家内と一緒に娘を連れて行くことが多かった。

また、自分が顧問をしている水泳部の部員も参加する大会に娘も出たときには、部員と一緒に自家用車で引率することもあった。

残念ながら地元の上郡の中学校には水泳部も無く、娘は学校のクラブに入りたがって、陸上部に転向してしまったので、娘との水泳を通した関わりは終わってしまった。


今でも、自分が練習するときにスイミングスクールの小学生の子ども達が泳いでいると、目が行ってしまう。

特に娘似た子どもがいると、娘の幼い頃を思い出してしまう。

今はスイミングスクールでコースが塞がっていない午後二時半からの時間帯で泳ぐことが多い。

地元のプールは6コースしか無くて、スクールがあると泳ぐコースは1コースだけになってしまうからだ。

どうしても個人によって泳力が違うので、他のスイマーに気を遣ってしまうから、コースが空いている時間帯で自由に泳いでいたい。

午後3時からは1コースだけ園児のスクールがあって、そこで数人の練習しているのだが金曜日は一人もいない。

園児が練習しているのを時々眺めるのも楽しみではある。

ただ、この時間帯はお年寄りが多いので、冬場になって利用者が減ってしまい私ひとりで泳ぐこともある。

それでも防水イヤホーンで音楽を聞いて泳いでいるので、気が紛れて淋しさはあまり感じない。


4時なると選手以外の小学生のスクールが始まるので、一転して賑やかになる。

私は以前はそのスクールの生徒が来る前に泳ぎ終えて着替えて出てしまっていた。

この頃は、その賑やかな雰囲気を少しでも味わいたくて、15分ほどそばで泳いでいる。

長く泳いでいると1コースしか無いので他のスイマーが入ってくるので、早めに出なくてはいけない。

水泳は個人で練習することもできるが、やはり賑やかな雰囲気で泳いでいる方が楽しい。

かつてのマスターチームの仲間とは、レースに出なくなってから一緒に泳ぐことが無くなった。

そういう時に、自分の娘のそばで泳いでいた頃を思い出しながら、小学生の生徒のそばで泳ぐ楽しみを見いだすことができた。


2025年11月29日土曜日

消極対応という暴力

 以前紹介したアルバート・セント=ジェルジ著の『狂ったサル』國弘正雄訳 1985(1971)The Crazy Ape and what Next? サイマル出版の中の暴力に関する記述である。


暴力には、二種類の暴力があります。すなわち、能動的な暴力と受動的な暴力がそれです。能動的な暴力とは、窓や頭蓋骨を打ち砕く人びとの暴力を意味します。受動的な暴力とは、能動的な暴力以外のなにものにも屈しないと判断する人びとの暴力を意味します。こうした二種類の暴力は、密接に結びついています。能動的な暴力を誘発するのは、受動的な暴力にほかならないからです。[前掲書 57p~58p]


おそらく受動的というのはpassiveの訳だろうが、私は消極的と訳した方が分かりやすいと思う。

いくらデモをして訴えたり、署名活動や裁判を通してもその意見を聞かない権力者の行動。

それを訳者は受動的暴力と書いているのだが、受け身というより無視と捉えた方が分かりやすいと思う。

これはいじめにも言動を用いて相手を攻撃するやり方と、完全に無視をするやり方があるのと一緒だ。

ただ、ネグレクトは保護する義務がある者が、それを拒むことを言うので、ネグレクトとまでは言えないだろう。

統一教会の問題をあれだけ訴えても政策として取り上げないどころから、教会を宣伝して利用までしていた。

これもセント=ジェルジ博士に言わせれば立派な暴力なのだ。

結局その暴力が、能動的な暴力を招いてしまった。

つまり、統一教会への消極的な対応が、元首相への銃撃という暴力を誘発したと解釈できる。

もちろん、銃撃による暗殺という暴力は当然間違った行為なのは確かであり、法によって裁かれて当然だと思う。


この事件後に、旧統一教会に対して東京地検が解散命令を出して、今は東京高裁で審理が続けられている。

その旧統一教会の問題にきちっと対応せずに、逆に利用した側の「暴力」を問題にすべきだろうが、そこまでは踏み込むんでいない。

日本ではテロ行為や暴動など抗議活動はあまり行われない。

それは古来から権力者に対しては逃散という形で抵抗してきた歴史が続いているのかもしれない。

特に人口比では他国に勝る武官たる武士によって、力尽くで支配されていた土壌が残っているように思える。

教師不足の問題、少子化の問題、過労死・過労自殺の問題は、政府による「消極的対応という暴力」によって引き起こされたとも言える。

そんな日本にあって、銃撃テロを行った背景を根本的に考えねばならないと思う。






2025年11月28日金曜日

ほんの小さなパッキンの重大性

 二階のトイレとウォシュレットを自分で同じメーカーの新しい物と交換した。

一度自分で設置したから説明書も見なくでも、取り外した部品を見れば分かると髙を括っていた。

それが大きな間違いで、ウォシュレットへの接続部分から水漏れが留まらない。

大した量の水漏れではないので、防水テープを巻いたら止まるだろうと思って、ホームセンターで勧められた高いのを買って巻いた。

ところがやはり同じように少量の水漏れが続く。

もっと厳重に巻けば良いと思って、別のテープを巻いて結束バンドでも締め付けた。

それだけ厳重にしてもやっぱり水漏れは続く。


当面は水漏れには下に5リットルのポリ容器を置いて、注ぎ口に大きなロートを差して水を受けていた。

その5リットルの水の容器は一日でいっぱいになり、朝に用を足したときに貯水タンクに上から水を足していた。

その処置によって漏水で水道料金が跳ね上がることは無かったが、毎日続けなくてはいけないし、もし家を留守にしたら溢れてしまうことになる。

そこで、本格的な水漏れの対策道具を買って、時間が有るときに修理することにして置いた。


ある日、ポケットの中に小さなビニール袋に入ったパッキンが出てきた。

ウォシュレットを交換するときに、無造作にポケットに入れており、その時はいていたズボンをはくまで気がつかなかったのだ。

これで原因が判明したのだが、厳重に対策した結束バンドやテープを剥がすのをどうしたものかと思案していた。

そんな時に、部屋を片付けていたら、巻き爪を切る爪切りが出てきた。

これで結束バンドを切るのが簡単になった。


やっと一ヶ月後に、止水栓を止めて修理に取りかかったのだった。

結束バンドは簡単に切れたが、漏水対策のテープを剥がすのは至難の業だった。

ハサミで少しずつ切りながら、何とか力尽くで剥がすことができた。

ナットもかなりきつく閉めていたので、水道工事用のモンキーを回すのには骨が折れた。

そして、パッキンをはめて閉めると、見事水漏れは収まった。


ウォシュレット本体や、取り付け部品のと比べて、ちっぽけなパッキンを忘れたが故に、余分な出費と労力、時間を奪われてしまった。

そもそも、液体や気体を通す管を繋ぐにはパッキンが絶対必要だという基礎知識が無かったのだ。

初歩的な知識だが意外と知られていないらしく、弟に話したら同じような経験をしたらしきことを話していた。

世の中の多くの人は、ウォシュレットを自分で交換するような人はいないかもしれない。

綺麗なトイレなら業者に頼んだかもしれないが、二階のトイレはちゃんと掃除ができず、業者に見られるのも恥ずかしかったのだ。


まあ、この痛い経験によって、なんでも細部に気を配る必要があるということを学んだのは良かったとは思う。

実は少し前も、手回しの唐箕を組みたてていて、ちゃんとワッシャーを付けるのを忘れているのを組みたててから気がついた。

いまさら分解して付け直せなかったので、そのまま使って問題は現在のところ起こってはいない。

しかし、耐久性の問題や分解や修理の必要が出てきたときには困るかもしれない。

相棒の杉下右京のように「細かいことが気になる悪い癖」を持つことも大切なように思った。

そういえば日本の総理大臣も細かいことを気になされた方が良いように思える。



2025年11月26日水曜日

「狂ったサル」の自覚

 学生の頃から読もうと思いながら、ずっと読みそびれていた。

それが、アルバート・セント=ジェルジ著の『狂ったサル』國弘正雄訳 1985(1971)The Crazy Ape and what Next? サイマル出版であった。

このノーベル医学生理学賞受賞の生化学者アルバート・セント=ジェルジ博士に関しては訳者である國弘正雄がまえがきで詳しく述べてくれている。


セント=ジェルジ博士は研究活動だけに専念する科学者ではない。自分から政治に入っていったことはないが、政治の方が自分の人生に入りこんできたといわれる博士は、ファシズムに抗して地下抵抗運動に加わってヒットラーの秘密警察に追われ、解放後はソ連軍の残虐な行為をやめるようスターリンに直言して不興をこうむり、アメリカへの亡命にさいしては親ソ派とみられ、しばらくは入国を拒否されるなど、多事多難な生涯をおくってこられた。一たびはナチ滅亡後のハンガリーの大統領に推されたこともあった。

 しかも博士は一貫して平和主義の立場をとってこられた。第一次大戦時、イタリア戦線に従軍中、なんの恨みも怨念もない「敵兵」を殺戮することの没道義性と愚かしさに耐えきれずに、われとわが右腕を撃って処罰された。また負傷がなおってイタリア戦線に送られた時、イタリア人捕虜に危険な生体実験をせよという命令を拒否して、マラリアのはびこる北イタリアの沼地に追いやられるということもあった。[前掲書 3p]


セント=ジェルジ博士は単なる学者ではなくて、活動家でもあったことが分かる。

自ら戦争を体験してきた彼の言葉は半世紀経った現在にこそ、われわれの目を覚まさせる力を持っている。

彼はベトナム戦争を行っているアメリカを目の当たりにしながら軍隊に関して次のように述べている。


 なにをもって「軍隊」と呼ぶかの定義は、明確にはできません。軍隊とは、軍事産業と政府と組んだ一つの有機体です。また「産軍複合体」とは、それを支える国民の生き血を栄養とし、その労働の成果を生産的な活動から、非生産的な冒険へと転移させる、不即不離の結合体なのです。

 この肥大化は危険です。というのは、産軍複合体がある限度をこえると、文官政府の僕【しもべ】たることをやめ、その主人になってしまうからです。国の対外政策や資源の配分方法を指図し、国民所得の大きな部分を呑みこみ、さらにはより高次の努力をねじまげ、芸術、科学、人道的な組織を衰退させてしまいます[前掲書 32p]。


この巨大な産軍複合体と化したアメリカと平和憲法を超えた実践的な軍事同盟を結び、自ら産軍複合体の国家に戻ろうとしているのが高市総理の日本政府だろう。

やはり巨大な産軍複合体と化した中国を牽制した発言で、何とか親交を維持してきた関係をこじらせてしまったわけだ。

特に打撃を被ったのは観光や芸術・科学分野の交流であり、それが組織の衰退を招こうとしている。


博士は当時の米ソ対立の中で平和に関する鋭い洞察を述べている。


実はといえば、この二大超大国の軍隊こそ、こよなき同盟者なのです。ソ連の軍隊がなければ、アメリカの軍隊も不要ですし、アメリカの軍隊がなければ、ソ連の軍隊も不要です。しかもそうなれば、現在は国防総省に向けられている両国市民の汗の結晶は、もう流れてこなくなります。そこで、両国の巨大な軍隊は力をあわせ、お互いへの敵意と恐怖とがなくならないようにしむけ、平和の「勃発」を防いでいるのです[前掲書 34p~35p]。


これは現在の米中関係にも当てはまることだろう。

今アメリカが一番懼れているのは、日中・日朝関係が良くなってアジアに平和が訪れて、アメリカの軍隊を必要としないことだ。

しかし、既に中国自体がアメリカの脅威が無ければ軍隊を維持できない国家になってしまっているので、アメリカの懼れる平和の「勃発」は当面なさそうだ。

中国が懼れているのは、せっかくアメリカの縛りによって日本が巨大な産軍複合体に戻ることを阻止できていたのに、台湾問題を理由としてその縛りを無くそうとしていることだ。

高市総理は明らかに日本の産軍複合体を復活させようとしているのだから、中国と冷戦関係になるのは都合が良いから国会発言は怪我の功名というところだろう。

アメリカは日本の核兵器開発さえさせなければ、自民党の傀儡政権を温存させて日本を自由に操れると思っているだろう。

特に高市総理は原子力空母の上で浮かれて手を振りながらクルリしているくらいだから、チョロい者だと思われているのかもしれない。

日本はアジア太平洋戦争で戦争の愚かさを学んで、世界で初めて「狂ったサル」から正気になりかけたのだが、また完全に戻ろうとしている。

今、狂っているのは日本なのか?アメリカなのか?中国なのか?台湾なのか?ロシアなのか?ウクライナなのか?

セント=ジェルジ博士の言うとおり人類なのか?




2025年11月25日火曜日

部活動の民間移行と残業手当

 教師は基本給の4%を教職調整額としてもらって、残業代は出なかった。

これがいわゆる「定額働かせ放題」と言われ続けている原因で、今のサブスクブームを先取りしていた。

私がかつて教師の時に勤務時間外で最も多く費やしたのは、クラブ活動であった。

ただ、幸いなことに自分がやりたい水泳部の顧問をやらせて貰っていた時は、それほど負担には感じなかった。

そばで見ていて負担に見えたのは、やはり教師が経験したことの無いスポーツや音楽に関する顧問を任されているときだった。

特に野球部は正月以外は年中無休という感じだったので、経験者以外にはなり手が無いのだが、顧問の人数が必要で未経験者もならされていた。

特にいきなり臨時常勤講師が顧問をやらされて、本人も嫌がってサボるし、他の顧問もそれを怒っていたケースもあった。


実は水泳に関しては、スイミングスクールに依存している学校が多い。

温水プールなどないので、冬場に練習できないと全国レベルどころか県大会レベルの選手を育てることはできない。

だから冬場はスイミングに通っていない部員は温水プールに引率したりしていた。

兵庫県で学校だけで練習していたのは、当時は市川高校ぐらいだった。

最近はサッカーもプロサッカーチームの下部組織の所属選手が活躍している。

野球に関しては相変わらず学校に依存している場合が多いが、小学校中学校では学校以外の野球チームで育った人もいる。

私は以前に中国の北京に修学旅行で生徒の引率を行なって、地元の高校と交流を持って驚いたことがある。

中国ではスポーツ選手を育てるのは学校が担っていなかった。

だから、卓球などもその高校では遊び程度のレベルの生徒しかいなかった。


実は私は中学高校と私立であって、そこで中学部では剣道部に入っていたが、部活動には殆ど教師は顔を出さなかった。

当時は部活動どころか地方大会でも顧問は引率してきていなかった。

部活動は週に三日以内と規定があったが、早朝に来て勝手に個人で練習するクラブもあった。

それでも夏休みは校内合宿を顧問なしで行っていたりした。

よく練習に指導できてくれていたのは、商店街の店主だった。

サッカーは強かったので顧問も力を入れていたようだが、全国に出場していたテニス部も大して顧問は練習に関わっていなかったように思う。

陸上に関しても全国大会に出たり、県大会で入賞する選手がいたが、まともに指導できる顧問がいなくて、他の公立高校へ行って練習したりしたようだ。

野球に関してはマスコミに取り上げられるせいもあって、顧問はそこそこ練習でも指導していたように思う。


私が中学高校の時代は50年ほど前は、顧問がそれほど指導しなくても部活動は成り立っていたし全国大会にも出場できていた。

それが私が教師に採用される頃は、部活動の経験が無かったり、指導ができないと公立校の教師には採用されないという風に言われていた。

当時は学校が荒れており、部活動を通して生徒指導、生活指導をしていくことが一番効果的に思えたからだと思う。

実際に、高校の野球部の顧問は練習を毎日していないと、問題行動を起こすからしていると言っている人もいた。

公立高校では学校行事や生徒会活動では部活動を行っている部員が中心となって働いてくれていたので欠かせない人材だった。

生徒会自体も部活動と同じ雰囲気であったところもある。

そして、その部活動が教師の大きな重荷となっていた。

結局学校の放課後の時間を会議や事務以外にも部活動に時間をとられて、教材研究などを学校で時間外におこなったり、自宅に持って帰ってすることになるからだ。


サッカーにしても水泳にしても一流選手は校外で育てられることが多くなった。

それでも相変わらず学校に依存しているのが高校野球である。

野球部を維持するのは人材においても、生徒会予算に関しても非常に負担を強いられる。

しかし、新聞などのマスコミは地方大会レベルから選手の名前や様子を記事にしてくれる。

学校の良い宣伝になるし、選手の励みになって部員になる希望者も増える。

高校野球での最高の舞台の甲子園出場は学校に大きな名誉と人気をもたらせてくれる。

そしてそれがその高校の就職や進学に役に立ているということで、特に高校で部活動を盛んにしているのだろうと思う。

実際に大谷翔平選手や山も由伸選手は高校までは民間のクラブチームで育てられて、高校から学校で指導を受けている。


部活動が現在において学校において重要で有り、民間移行できないのであれば、その負担によって生じる時間外勤務に対して正当な残業代を支払うべきだろう。

あたかも朝早く来て時間外の仕事をすることを自慢げに語る教師もいるが、それはそれが無理な教師に対する当てつけ行為になってしまう。

ちゃんと時間外手当をもらっていれば、当てつけ行為には受け取られないだろう。

進学校ではスポーツ以外で進学実績が確立されているので、かつて顧問の負担はあまりなかったがそれが大変な事故にも繋がった。

文武両道とうたう進学校も多いと思うので、やはり進学校でも残業代の適用が必要だろう。

これからは「定額働かせ放題」の仕組みを手当率の引き上げのように改悪するのでは無く、民間移行にするか、きちっとした残業代を支払う仕組みにするべきだと思う。

このままではますます教師のなり手がいなくなる。




2025年11月23日日曜日

イナゴ美味し彼の道

 童謡「ふるさと」の「ウサギ追いしかの山」を、「ウサギ美味し」と勘違いするドラマのシーンがあったが、実際に昔はウサギは大切な食糧だった。

江戸時代は山にいるウサギを鳥と見立てて普通に食べていたようだが、野生のウサギを私は山で見かけた経験はない。

私の父は子どもの頃に飼っていたと言い、太平洋戦争の時には非常に重要な食糧になったようだ。

私もウサギを飼ったことはあるが、ペットとして飼っていたのであって、食用として飼ったのではなかった。

近年、鶏を飼いたくても鳥インフルエンザが恐くて飼えないので、ウサギを食用に買おうかとも思ったが、ペットショップのウサギは高価で食用にするにはもったいないと思った。

私の家の周りにはウサギはいないけれど、ヌートリアなら嫌というほどいる。

食用にもなるようで、近所のきれいな川で育ったのなら食べられそうだが、食べる気はしない。

うちの猟犬クロは挑むのだが、一度も捕らえたことはなく、逆襲さえ受けている。

ヌートリアは厚い毛皮で覆われている上、前歯は鋭くうかつに近づと噛まれて血をみてしまう。


そういう哺乳類は無理なのだが、昆虫のイナゴはクロにとって大切な食糧となっていた(うちのクロは立派な猟犬?)。

例年ならもっと秋口にはイナゴが大量に発生して、草に覆われた農道で跳ね回っているのをクロは必死で捕らえて食べていた。

また、寒くなってくるとイナゴはだんだん動けなくなって草の中に潜っていた。

それをクロは嗅ぎつけて何匹も見つけて食べていたので、害虫退治になると思ってやらせていた。

というのも、私が作っている畑の隣は補助金目当てで大豆を作っているので、草まみれになってイナゴが大量に発生していた。

そして、私の畑の作物を食い荒らしていたのだ。


ところが、今年は道にも畑にも殆ど見かけない。

畑にとってはありがたいのだが、クロにとっては大切な食糧を失ったことになる。

原因はこの夏の酷暑にあるのかもしれないが、ドローンやラジコンヘリによる農薬の空中散布も疑われる。

うちの畑の近くの田んぼもドローによる空中散布が行われていたし、とにかく農薬の空中散布が当たり前になってしまったのだ。

イナゴは農家にとっては害虫ではあるが、里の動物にとっては大切な食糧にもなっている。

地方によってはイナゴは人も食べているのだから、それがいなくなるとその食文化も失われるだろう。

ふるさとはウサギを失い、そしてイナゴまで失うことになりそうだ。


2025年11月21日金曜日

愛藍服

 今朝は寒かったので厚手のジージャンを着たら懐かしい匂いがしてきた。

それは藍の匂いで、私は剣道との関わりがそこそこ長かったので、稽古着、面手ぬぐいや防具の匂いと一緒なのだ。

懐かしいと言っても、剣道に楽しい想い出など無いのだが、考えてみれば剣道以外にもジーンズは古くから関わっていた。

だけど、ジーンズの匂いはあまり気にしたことが無く、ジージャンは袖を通すことによって匂いが身近になって気になりだしたのだ。


ジーンズは高校生時代から愛用しており、大学時代はジーンズ以外のズボンは高校時代の制服と教育実習に使った夏物スーツくらいだった。

だから、私の大学の卒業写真は夏物スーツは使えなかったので、ガウンの下はジーンズと革ジャンだった。

大学時代のジーンズは安売りのLeeを見つけて買って、サイズはかなりでかかったがそれを履き続けていた。

そのジーンズは20年ほど履き続けて色々と破れてきたのを家内に繕って貰ったが、ついに限界が来て捨てざるを得なかった。

今もジーンズは何本か持っているが、履く機会も減ったせいかどれも20年ほど経っても破れていない。

ただ、近年はアウトレットで1000円ほどの安いのを見つけて、作業着として使い続けている。

アウトレットのジーンズはワークマン等の作業着よりもよほど安い上に、耐久性とファッション性に優れているのだ。


ジージャンは着るのにずっと抵抗を感じていて、最近まで着ることは無かった。

何となく粋がった兄ちゃんというイメージを持っていたからだ。

この歳になると着る服を工夫するのも億劫になってきたので、ジージャンなら若く見えてごまかせると思って買って着ることにした。

それにジャケットもデニム生地の物を買って高校の非常勤講師での仕事着にした。

藍染めのデニムは着れば着るほど風合いも出るし、流向に左右されずに済む。

ジージャンの方はアウトレットでも高いのでなかなか見つけられなかったが、サイズの大きいのや背中にダサい文字が入っているのが安かったので散歩や作業用に買った。

他にもワークシャツやカッターも藍染めのデニムを愛用している。


デニムでは無いのだが、授業で使う白衣を藍色に染めたことがある。

白衣は普通は理科の教師が使う物だが、私は下に何を着てもごまかせるのと、チョークの粉で汚れるので夏場以外は白衣を着ていた。

ところが、白衣は襟元も汗で汚れてくる。

だんだんと汚れが取れなくなったので、家内に頼んで藍色に染めて貰った。

職人がやるようにきれいに染まらなくてまだら模様になってしまった。

ところが、それが良い模様になって皆から好評を得たのだ。


剣道から始まりジーンズ、ジージャン等々と藍とは長い付き合いだ。

匂いはどちらかというとあまり良くないのだが、それも自分を守ってくれていると思えるし、何よりもカビ対策でもあるように思う。

実際に毒蛇から守ってくれるかどうかは分からないが、薄っぺらい化繊の服を着るより信頼できるだろう。

剣道の稽古着も化繊に替わっていったが、色は藍色を踏襲しているようだ。

私は大学時代に高校時代に体育の授業のために買った白の柔道着の上を剣道で使ったら、カビがいってしまってみっともなくなってしまった経験もある。

女性の剣士が白を着ているのはこまめに洗っているから良いのだろう。

今の剣道部の男子は毎回稽古着を洗っているようだが、私らの頃は滅多に洗わなかった。

藍の匂いはその汗の臭いを誤魔化すのにも適していたのだと思う。

加齢臭も気になる歳になったので、私には藍が適しているように思える。








2025年11月19日水曜日

もし熊が縄文人だったら

 縄文人はどんぐりなどの堅果類に頼った生活をしていたと言われている。

どんぐり等は栽培というのではなくて、管理してきて木材も利用してきた。

どんぐりはたくさん採れたし貯蔵もできたので、狩猟採集では難しい定住化ができたとも言われている。

ただ、どんぐりだけではなくて、鮭など魚類の川や海の自然の恵みも重要だった。


そのどんぐりが不作した原因をネット上では色々と書いてくれている。

それらを見ると人間が引き起こした環境変化が大きな原因のように思える。

特に縄文の人々が多く住んでいた東北地方で大変不作の状況だという。

ゲノム解析でも東北の人々は縄文人のDNAを北海道のアイヌと琉球は別として、他の日本の人々より多く継承している。

古代の蝦夷の生活も縄文人の生活に似た狩猟採集が、重要な生業だったことが知られている。

かつて、東北は冷害で苦しんできたし、北海道では稲作はできなかった。

今は東北どころか北海道が米の重要な産地になっている。

そして、温暖化の影響で縄文人やアイヌ人が大切な食糧としていた、鮭が来なくなってしまった。


すでに縄文人と似た暮らしをしていたアイヌの人々は生活様式を変えてしまっているが、先住民として昔の生活をしていたとしたら大変なことになっていただろう。

東北では江戸時代には大飢饉で多くの犠牲者を生んだが、今はその心配をせずに済んでいる。

その一方で遠い昔の先祖と同じようにどんぐりに依存している熊の襲撃を受けることになった。

アイヌの人々は熊を大切な神様として、イオマンテの祭りを行いながら食べたりした。

東北の人々が自分たちの先祖を熊に見いだすのか、それとも稲作文化を持って移住してきた和人として熊を敵と見なすのか分からない。

言えるのは、もし三内丸山に暮らしていた人がそのまま現在もいたとしたら、どんぐりが無かったら稲作をしている集落を襲った可能性もあるということだ。


我々ホモサピエンスと絶滅したネアンデルタール人の違いを、熊とライオンの違いに似ているいう学者もいる。

熊は雑食性でライオンは肉食性であることがその生存戦略に影響して、雑食のホモサピエンスは生き残り、肉食に頼ったが故にネアンデルタール人は絶滅したというのだ。

熊は熱帯から北極圏にいたるまで、その環境に応じて食性も違うが、ホモサピエンスの起源と言われているアフリカにはいない。

日本人の大好きなジャイアントパンダも熊の仲間で竹以外にも木の実や昆虫も食べるという。

ホッキョクグマは肉食性だが、これはイヌイットの食性に似ている。

人類が文化によって地球のあらゆる所に生活圏を広げたのに対して、身体や食性を適応させることによって生息圏を広げた。

熊は冬眠で知られているが、生息域によっては冬眠はしないそうだ。

そういえばパンダが冬眠するなんて聞いたことが無い。

日本ではヒグマは北海道にしかいないと言うが一万年前には本州にもいて絶滅したという。

また、本州のツキノワグマはホモサピエンスよりも早くに氷河期に渡来して、独自に進化して生息域を広げたが北海道には行けなかった。

縄文が始まる頃にヒグマが本州からいなくなり、ツキノワグマが逆に広まったというのも日本人の歴史と重ねると興味深い。

北海道や本州に生き残ってきた熊が温暖化による環境変化で窮地に追い詰められて、人との間に問題を起こしている。

その姿をかつて日本に暮らしていた旧石器人や縄文人と重ねて考えてみるのも良いのではないかと思う。





2025年11月18日火曜日

失われた絆と残された想い

 母が亡くなって2年半も経とうとしているのに、空き家に残された遺品は片付けが終わっていない。

末弟もだいぶ手伝ってくれて、以前よりはましにはなっているが、家具類が多く残されたままだ。

家内の実家は義母が亡くなって半年も経たないうちに、業者に頼んできれいに片付いている。

業者に頼んだのは喪主を務めた跡取り息子だが、実家とは盆正月に帰省したりしていただけで、母親の介護や看護には殆ど関わらなかった。

実家に残っていた遺品にはあまり思い入れが無かったようだ。

それに対して、結婚してからも実家とはそこそこ行き来のあり、看護や介護に関わってきた私や末弟にはそれなりの思い入れがあったことは確かだ。


亡くなった親の遺品を子どもが片付けるのは当たり前のことなのだが、親の遺品以外の想い出の品の処分は簡単ではない。

一番悲しいのは伴侶や自分の子どもの遺品がある場合であろう。

病気、事故や事件で亡くなった後もそのままに部屋をしているのが、報道されたりドラマになったりする。

一方で、失われた絆への悲しみから脱して、新しい絆を結んだ場合には遺品や想い出の品の扱いは非常に難しくなる。

新しく結ばれた人に対して、その遺品や想い出の品を大切にすることをどう説明するかが非常に難しい。

親であったら自分を大切にしてくれた人の想い出を大切にしておくと理解して貰えるのだが、親以外はむしろ断ち切って欲しいと思われることもあるだろう。

その関係が死んだ子であれ元夫婦や恋人であれ、かつての自分の生きる支えになってくれた大切な人であることを理解して貰うのは難しい。

新しい絆を結んだ人との比較であったり、当てつけをすることは厳に慎むべきは確かなことである。

ただ、自分を理解してもらう上で、かつて深い絆で結ばれていた関係によって、自分が大きく変わっていったことを知っておいて貰いたいところでもある。

かつての絆は死であれ離別であれ、失われてしまったけれどその想い出を大切にする心は新しい絆を結んだ人を大切にする心と同じだということも知って欲しいと思う。


母親の遺品整理が滞っているのを見かねて、自分が業者に頼んで処分してやろうとも別の弟に言われた。

私もどうしても残しておきたいわけでは無くて、必要に迫られれば業者に頼む気持ちもある。

末弟は空き家になった家に来ると、まだ親を感じると言っているが、私は仏壇でお世話にしているのでそちらで毎日感じている。

私と弟の感じ方は違うのだが、それは亡くなった親をどのようにイメージするかの違いとも言える。

子どもは親の記憶を様々なイメージとして感情がある限り、死ぬまで感じ続けるのだろうと思う。

今の自分の存在と深く関わった人に対しては、親で無くてもそうだと思う。

その人が死んでいしまった場合も、まだ生きている場合も同じだと思う。

そして、そういう思いは単に未練というのではなくて、出会えたことへの感謝の気持ちを抱き続けている場合もある。






2025年11月16日日曜日

ツッパリ高校生の喧嘩レベルの外交

 私はかつて困難校と言われて、教員を加配されている職業高校に勤めていた。

担任しているツッパリ生徒は校内だけで無く、校外でもよく喧嘩をした。

いちど、校門近くで有職青年と口げんかをしているのに出くわした。

その時に担任しているツッパリ生徒は「○○さん知っとんやぞ」と、自分のバックとなってくれている組員の名前を相手に投げかけていた。

相手も同じようにバックの名前を言っていたが、その場はそれ以上のトラブルにはならなかった。

ツッパリ高校生レベルの喧嘩はまずバックを確かめてやるものだということを知った。

私も小学校の頃は他校の生徒と殴り合いの喧嘩をしたが、バックのことは考えたことは無かった。


国と国との戦争もこれと似たところがあって、日本の場合は日米安全保障条約はアメリカがバックについているということになる。

以前は基地を提供した上に維持費もそこそこ負担して守って貰うだけで良かった。

ところが集団自衛権の名の下に、アメリカが戦争をし始めたら一緒に戦うことまで引き受けてしまった。

これはツッパリ高校生で言ったらバックの組員がやる抗争に参加することを意味する。

日本は核兵器を持てないのだからツッパリ高校生レベルで、核兵器を持っている国は暴力団レベルのと考えて良いだろう。

これはドスで拳銃に立ち向かうのに似ているが、組員もドス相手にいきなりは拳銃を使わないだろう。


中国は内戦の結果台湾と本土が分裂しているのだから、暴力団で言うと縄張り争いが継続していることになる。

その台湾のバックについているアメリカと一緒に戦うと言うことは、組員の縄張り争いにツッパリ高校生も加わって戦うと言うことだ。

ツッパリ高校生がバック同士の縄張り争いになったら一緒に戦うと言ったのだから、相手の組員に「ガキ(高校生)は黙っとれ、いてまうぞ(殺すぞ)」と言われても仕方ない。

それで相手の組は自分たちの縄張りの人間に「ツッパリのいる所へは行くな」とも言われてしまった。

日本のトップがツッパリ高校生レベルの外交をしたのだから、これは由々しき事態である。

そもそも、日本をツッパリ高校生レベルに仕向けていたのはアメリカなのに、核兵器を持つ相手に核兵器も持たずに一緒に戦うなんて言うこと自体無謀だ。

それは組員が拳銃で守ってくれるから、ドスで戦っても大丈夫だというようなものだ。

この事態に一番喜んでいるのはアメリカで、中国と日本が結託する心配は無くなったし、アメリカの武器を買って貰いやすくなった訳だ。

そして、ウクライナが核兵器を持たずに善戦しているように、日本も国民を犠牲にするつもりで戦ってくれたら、アメリカの損失も少なくて済むと思うつぼなのだ。


2025年11月14日金曜日

落花生は作るに限る

 今年は早めに落花生を掘り起こした。

落花生を植えている場所は日当たりが良いので、これからの作物を作りたかったからだ。

去年は麦わらがあったので、草はだいぶ抑えられたのだが、今年はあまり無かったので、草との戦いになった。

株と株の間を草刈り機で刈っていて切ってしまったり、草を引き抜くときに一緒に抜いてしまったりして、植えた苗がかなり失われてしまった。

本当はポリマルチを使えばそういう手間が省けるのだが、草マルチの自然農法を基本としているので、ポリマルチは使っていない。

今年は雨が降らなかったので生長が悪く、それでエンジンポンプを使って水やりをしたら、草が多く生えることになった。

草の中に落花生が何とか頑張っているのだが、落花生を知らない近所の人に草だらけだと言われて、落花生を植えていると説明する始末だった。


落花生が美味しいのをカラスもよく知っているので、ちゃんとネットで覆ってやらないと食べられてしまう。

今年も、さっそく食べかすを発見したので、あわてて寒冷紗で覆った。

寒冷紗の方がネットより扱いが簡単のだが、強風に弱いのでクリップでちゃんと留めておかねばならない。

私は不精者なので、寒冷紗を直接落花生の茎にクリオップで留めたりしておいた。

完全に覆わなくても、周りをしっかり覆ってやればカラスは中に入ってこない。


落花生を抜いてみると、株にもよるができは悪くなくて、採った数が多かったので家内に高圧鍋で蒸してもらって食べてが、甘くて美味しかった。

掘り上げた株は畑で積み上げてその上にネットで覆って、とりあえずは乾燥させている。

そこから少しずつ持って帰って毎日落花生を電子レンジで蒸してもらってビールのつまみにしている。

このところ、夕方の晩酌には黒大豆の枝豆と落花生をたくさんつまんでいるので、雑穀米やラーメンを食べずに済んでいる。

蒸した落花生は柔らかいので消化に良いから、バターピーナッツより胃に優しい。


最近はおおまさりを中心として生落花生も普通に売られるようになっている。

けっこうな値段がするので、毎年自分で作ることにした。

種も普通に買うと高いので、とれた落花生をおいておいて種にしている。

おおまさりも作ってみたが、大きくて食べ応えがあるけれど、大味の感じがするので今年は普通のと混ぜて作っていて区別できない。

千葉に親戚がいて、以前に土産で貰った落花生が美味しかった。

たまに、はねものが安く売ってあると買ったりするが、中国産の2倍以上の価格するので滅多に買えない。

やはり自分で作った方が美味しくて安上がりである。

本当は孫などがいたら、一緒に掘り上げたら喜ぶだろうと思う。

特別支援学校に勤務していたときには、地元の高校生と落花生の収穫で交流をして喜ばれた。

近くの小学校の菜園でも作っているのを以前見かけたが、手間がかかるので最近は作っていないようだ。

子どもにも大人にも喜ばれる落花生は、楽しみながら作れるのでもっと作られても良さそうだが、乾燥した後で煎って食べるのが面倒らしい。

乾燥した落花生は石焼き芋と同じ要領で、ストーブの上に石を敷いた土鍋を乗せて焼いて食べている。

サツマイモより保存が簡単だし、ちょっとしたつまみやおやつになる。





2025年11月12日水曜日

我が地区にコウノトリが棲み着く理由

 私の今住んでいる上郡町の高田地区にはコウノトリが二羽棲み着いている。

最近は電信柱や高圧線の鉄塔の上でクチバシを鳴らし合っているのをよく見かける。

子育てが済んでしばらくして水田の稲が青々していた頃には見かけないこともあった。

稲刈りが終わるまで、あちこちに出かけて行っていたようだ。

稲刈りが終わって水田が広々としてきたので、コウノトリもゆっくりと水田でも餌を探している。

コウノトリを見かける場所は水田付近以外にも貯水池や大小の川の浅瀬であった。

上郡町内はどこでも見かけることができるのだが、棲み着いて子育てをしたのは高田地区だけである。


私は元々赤穂に生まれ育ったので、上郡町のことはよく分からない。

そこでいつも上郡のプールで一緒になる地元の人に高田地区だけに棲み着いるのはなぜなのかと訊いてみた。

するとその人は「(貯水)池が多いからだろう」と答えてくれた。

それはこういうことだ。

高田地区は一部を除いて扇状地になっており、小さな川は山から流れていて、そこから用水路で水を引いてきていて通常はその水を用いている。

山の中の谷間には小さな貯水ダムを作っているが、いざというときの水を確保するために、山ぎわや水田の真ん中に大小の池を多く作っている。

水田を所有している人はこの池の草刈りを行うし、池からの水を管理するのが仕事になっている。

水田を所有してない者も、用水路の草刈りや畦焼きで池の土手も焼く作業もする。


他の地区は比較的しっかりとした川があったり、上流で大きな貯水ダムがあったりしている。

また、高田地区でも千種川本流から水を引いている村もあって、貯水池をしっかり管理しているところは高田地区の扇状地帯だけだと思う。

山間のきれいな川の水が流れている自然が豊に見える地区は、意外に餌となる動物や虫が少ないのだろうと思われる。

貯水池は小魚や虫などの繁殖場所となっており、そこから用水路を通して水田に入ってきて増えているようだ。

また、それを狙うヘビや蛙などがコウノトリの大切な餌になっているということだと思う。


そう考えると、水田での稲作を大型規模で効率化を図ることと齟齬が生じてしまう。

大規模農家が大規模に水田を作ろうとすると、貯水池とその水路の管理はその農家の仕事になる。

しかし、それは非常に手間のかかることで、本流の上流から取水して配管した方が効率的だろう。

現在水田の地主や一般の村人が行っている村作業があって貯水池と水路は活かされており、そしてそれがコウノトリが棲み着く環境を保ってくれている。

そして、忘れてはいけないのは、このところの温暖化で旱魃になる危険性が増している。

千種川も干上がった時に、貯水池の水はどんなに役に立つか想像できる。

現に何年か前の水不足の時には水田のために緊急放流した。


米の値段だけで大騒ぎして、規模の拡大や輸入の問題ばかり話題になるが、水田の持つ環境保全、災害抑止について真剣に考えるべきだろう。

村は少子高齢化でこれからまともに水田を維持できなくなっていく可能性もでてきている。

地域によっては小作料を貰うどころか、お金を払ってまで大規模農家に作って貰っているところもある。

高い米価のママ据え置いて米離れを助長させてしまったら、減反を余儀なくされてますます稲作農家は減っていくだろう。

環境を考えれば水田はその所有者だけのものではないし、所有者だけで維持できるものではないということを根本的に考えなくてはならないに時代となっている。









2025年11月10日月曜日

黒大豆の枝豆の乾燥と贈答

 うちでは黒大豆を作っていて、多くは豆乳の材料として利用するのだが、枝豆としてたべることもしている。

うちでできる黒大豆の枝豆は粒は小さいが甘くて味に深みがあって美味しい。

糖尿病の私は、枝豆なら大丈夫だと思って、鍋一杯ほどの枝豆を一日で食べたことがあった。

その時に、酷い便秘になってしまい、排便するのに非常に苦しんだ経験がある。

適当の量なら便通に良いはずの枝豆だが、食べ過ぎるととんでもないことになることを思い知った。

それ以来気をつけて食べているので、食べ残った枝豆のことも考えねばならなくなった。

冷凍して置いておくのが一番の方法だが、家庭用の冷蔵庫では解凍したときにしわくなってしまって美味しくない。

そこで、乾燥させて保存しながら食べることにした。


枝豆は茹でたものを剥いてから干しても良いが、莢ごと干してからむいた方がむきやすい。

完全に硬くなるまで干した方が日持ちがするが、少し柔らかめの方が噛みやすいし美味しい。

今年はジャガイモを掘らずに置いておいたので、黒大豆を植える場所がなくて、やむを得ずジャガイモの埋まっている場所に苗を植えた。

これは大きな間違いで、黒大豆は10月末にならないと枝豆として食べられない。

そのうちにジャガイモから芽が出始めてしまった。

そこで急いで枝豆として食べられるようになったらすぐに刈り取るようにした。

そうなるとどうしても余るので、今年も乾燥枝豆を作ることにしたのだ。

家庭用の野菜乾燥機でかなり乾燥させて、日光でも乾燥させることにした。

ところがうっかり雨が降るのにそのままして濡らしてしまった。

それでまた、野菜乾燥機で乾燥する羽目にもなった。


十分に乾燥した枝豆は剥きやすくなっており、一つずつ丁寧に実を取り出していった。

保存をよくするためにもう一度粒の状態で乾燥させてしっかりと硬くした。

そして、以前に買って食べてしまったフィッシュコラーゲンの空き袋にその乾燥枝豆粒を入れて保存している。

今は茹でた枝豆が十分あるので、乾燥した物を食べる必要は無い。

高齢者には硬い枝豆は食べづらいので、冷凍した方が良いようだ。

私の亡くなった母は私が持っていった枝豆は茹でて冷凍にして長く食べ続けていたようだ。

枝豆は人にあげても喜ばれる。

特に黒大豆は人気があり、私の知り合いはわざわざ隣町の佐用まで行って買うそうだが、枝からちぎった莢枝豆は一袋1000円もすると言う。

私はちぎるのが面倒なので、近所の人や知人にはいっぱい実のついた枝豆を葉っぱだけ落としてあげている。

黒大豆は普通の大豆と違って栽培が難しい。

以前に病気が流行って全く採れなかったことも経験している。

また、上げた近所の農家も、黒大豆以外の大豆は上手く作れるのに黒大豆はできがよくないというので差し上げた。

黒豆の枝豆は大切な贈答品にもなっているのである。








2025年11月8日土曜日

先住民としての縄文人

 先日、家内が平日に休みが取れたので、京都まで特別展「世界遺産 縄文」を京都文化博物館まで見に行った。

特急スーパー白兎が大阪止まりになって以来、京都へ行くときは行きは新幹線を使っている。

私は午前中はトイレが近いので、トイレに直ぐ行ける列車で無いと不安でならないが、帰りはそれほどでもないので新快速で帰る。

新幹線は相生駅から「ひかり」に乗って新神戸で「のぞみ」に乗り換えた。

自由席に乗って新神戸までは家内と並んで座れたが、新神戸で乗り換えたときは前後ろの3列席になった。

それでも座れただけましで、列車の中をぞろぞろと自由席の1号車に向かう観光客が移動し、結局立っている人でいっぱいになった。

観光客は欧米人らしき人が多く荷物もかなり大きく、その殆どが京都で降りた。

平日に関わらずその多さにインバウンドのすごさを実感した。

大学の同じゼミの仲間のライングループには、京都で教員をしてる友だちがいて、ラインでその情報は知っていたのだが、新幹線の中からそれを味わうことになったのだ。


私は縄文関係の考古学文献や神話関連など読みあさっていたので、博物館へ行って何かを発見しようという目的は無かった。

家内は博物館や美術館に行くのが好きなので、良い機会だと思っただけなのだ。

京都駅ではまたその人の多さに圧倒されっぱなしで、地下鉄まで満員だった。

地下鉄の「烏丸御池駅」で降りて、案内があったから出口は上手く出られたのだが、そこからがいつものように試練である。

スマホで確かめながら歩くのだが、スマホのマップは分かりづらくて、本来なら3分で行けるところを15分以上かかってしまった。


館内は年配の人を中心に多くの人が訪れていた。

外国人はさすがにそれほど多くなかった。

何よりもの収穫は、遮光器土偶の頭は空洞になっていたことだ。

土偶を作った目的はいろいろと説があるが、私は北方文化の影響だと思っている。

というのも縄文人のゲノムを一番継承しているのはアイヌの人たちだが、二番目に多い琉球の人たちには土偶の歴史が無い。

そもそも、縄文時代とか縄文文化という設定自体もかなり無理があり、それを否定する学説もある。

日本では従来はこの時代に均質化されたとも言われているが、だんだんとそうでもなかったことが分かってきている。


日本人が縄文時代や縄文文化に興味を持って人気があるのは、自分たちの祖先だと思っているからだと思う。

しかし、本土の人のゲノムにはそれほど縄文人から引き継いだものは残っていない。

そして、地域によって現代人に継承されたゲノムの多さが違い、東北には多いのは分かるが、鳥取や島根にも多いのだ。

学術的な根拠は無いが、島根のずーずー弁との関わりもあるかもしれない。

新しく水田稲作文化が早くから伝わったと思っていたところに、意外と多いのも面白い。

とにかく、我々本土の人間は縄文時代以降に大陸から移動してきた遺伝を多く受け継いでいるのであって、そちらを先祖と思うべきなのだ。

そうすると、縄文人はその先祖から駆逐されたり、混血した先住民と捉えるのが自然だろう。

ただ、ユーラシア大陸に繰り広げ得られた狩猟採集民から農耕民への入れ替わりが極端でなかったので先住民という歴史認識が生まれなかったことも理解できる。

だけど、アイヌの人々を先住民と認めてこなかった歴史や、琉球の人々に対する歴史的な無理解とその配慮の無さは改めねばならないだろう。


現在、外国人の移民の問題がどの国でも深刻になっている。

人類の歴史は狩猟採集から農耕、工業、情報と生活の変化と伴に移動によってそこに住む人々は変化している。

日本は島国であったので急激な変化が起こらなかったのだが、交通機関の発達した現代では昔のようには行かないことも確かだ。

そして、変化せざるを得ないことも自覚せねばならないと思う。

その点で、縄文人を再考することは意議があることだと思う。





2025年11月6日木曜日

美咲・和気ドライブ2025年秋

 私たち夫婦にとって一番手軽で馴染みのあるドライブコースが、地元上郡町から岡山県美咲町・和気町への川沿いと山越えをのコースである。

まず、上郡から千種川沿いを国道373号を北上して、途中で上月の三差でJR姫新線沿いの国道179号の山越えの道を西に向かう。

国道179号で千種川の支流である幕山川から大日山川に沿いののどかな田園地帯を進むと、途中で小さな踏切がある。

1年に一度くらいは、一両編成の列車に出会うことがあるが、途中の線路上を走っている様子は一度も見たことが無い。

道沿いには古民家を利用したそば屋「」があり、神戸から移住してきた石山さんが開いた店としてネットでは有名だが、休日はいつも駐車場に車がいっぱい並んでいる。

通るたんびに一度は食べに行きたいと思っているのだが、休日は満員だし平日は火曜・水曜が定休日なので利用しづらい。

しばらくすると山道になり、県境である万能峠を越えて岡山県作東町に入る。

峠から下りると山家川沿いに姫新線と平行して進んでいく。

途中は川沿いののどかな景色が続き、姫新線の昔ながらの無人の小さな駅舎も趣がある。

大きな銀杏があるお寺は、これから色づくと素晴らしい風情となる。

ここで一番気にかかる店はホルモンを看板にした店で、いつも昼前に通るとライダーや車が駐車場にたくさん停まっている。

私はホルモンが大好きなのだが、さすがにここは夫婦二人では入りづらい。


やがて、吉野川に合流してそれを上流に向かうと、川沿いにある「道の駅彩々茶屋」があってそこでトイレ休憩と買い物をする。

以前はよくそこで昼食を食べていた。

家内が大好きなちらし寿司定食やかやくご飯定食があったからだ。

私もここで出される豚汁定食やしし汁定食が好きだったのだが、いずれも人手不足でメニューから無くなってしまった。

だから、農産物の直売所で買い物をするだけになってしまった。

ここで売られている、野菜の苗はホームセンターで買うよりも安くて品質も良い。


彩々茶屋で買い物を済ますと、そこからおなじ国道179号を引き返して吉野川沿いに国道374号を南下する。

途中では昔から温泉町として有名な湯郷があり、大きなホテルや料理屋がたくさん見られる。

そこから、しばらく川沿いを南下して英田町に入り、いつも途中のドライブイン「西の屋湯郷店」で食事をする。

ここでは家内はいつも岡山名物料理の祭り寿司定食を頼んでいて今回もそれを食べた。

私はホルモン焼きをずっと頼んでいた。

ここは携帯コンロで焼きながら食べられてかなり美味しいのだが、残念なのはホルモン肉が少ない。

今回はここでは人気のあるちゃんぽん麺を注文して食べたが、具だくさんで味もよく汁まで飲み干してしまった。

ここでは猫型の配膳ロボットが使われていて「行ってくる ニャン」と元気に客席に回ってくる。

いつも季節に応じた飾り付けをして貰っていて、今回はハロウィンの飾り付けをして貰っていた。

このロボットを見るのも夫婦にとっては楽しみでいつも話題にのぼる。


食事後は川沿いを南下するが、途中で吉井川本流と合流するあたりから、片上鉄道の後にサイクリングロードが作られていてチャリダーをよく見かける。

吉井川沿いの雄大な景色を眺めながら和気まで行き、時にはそこのショッピングモールで買い物をしたりする。

今回は川からはずれて国道374号で山沿いの道を山本由伸投手の地元伊部まで行った。

いつもは海沿いの国道250号を通って「備前海の駅」へ行き買い物をする。

そこでは新鮮で安い魚介類が手に入るし、ショッピングモールが併設されているからだ。

本当に魚介類だけを買いたい人は、伊里の港付近で日曜の朝に魚市が開かれるのだが、行きたいと思いながらまだ一度も行ったことが無い。


私は海沿いを走る国道250号が大好きで、鹿久居島の見える穏やかな海が素晴らしい。

また、JR赤穂線と絡んで走っており、日生駅付近は私にとって懐かしい場所でもある。

気が向けば赤穂まで行って千種川沿いで家まで帰るのだが、たいてい時間が無いので途中で県道260号の山越え道を通って国道2号に出て帰る。

今回は帰ってタマネギの植え付けをしなくてはならなかったので、伊部から国道2号で帰った。


このコースは月に1度は訪れているコースで、「彩々茶屋」「西の屋」をメインとして、西の屋がお客さんが多くて入れないときは伊部の「ミスターバーグ」で昼食をする。

また、時間が有ったりその時の気分で、「彩々茶屋」から津山に行ったり、智頭まで行くこともある。

私たち夫婦の一番馴染みのある手軽なドライブコースである。




2025年11月4日火曜日

熊飢える秋

実りの秋として、かつて秋には野原や山には木の実や果実がなっていた。

先日、道の駅でアケビが売られていて、それを見ていたら同じように見ていた中年の女性から「これは何?」と訊かれた。

「甘い実で、種が多いですよ」とは言ったが、上手く説明できなかった。

田舎育ちの私たちのような世代で、アケビを知らない者はいないと思う。

小学生の頃はこの季節は、学校から帰るとアケビ採りに山へ毎日行っていた。

アケビは熟すと紫色になって割れるのだが、まだ緑で硬い実も採って米びつなどに入れて熟させることもあった。

種が多いけれど非常にあまく独特の香りがした。

甘い実を包むアケビの皮も料理して食べられるそうで、何度か試してみたけどうまく行かなくてしていない。


以前にアケビの実ではなくて、蔓の方が籠や飾り物にするので、女の人が多くとっていったので、道ばたのアケビは減ってしまった。

それでも、近くの山に行けばまだ道ばたの木にはたくさんなっているのだが、手の届かないところでなっているので道具が無いと採れない。

小学生の頃は、木登りの得意な友だちと行って採ってもらったりした。

何年か前には高枝ばさみを持って採りに行ったこともある。

ただ、私は糖尿病の関係で甘い物を控えねばならないので、最近は自重してあえてそこまでして採らないし買わない。

たぶん、今の若い人が食べたら、あまりにも種が多くて好きにはならないだろうと思う。


やはり、この季節の果物と言えば柿だろうが、私たちの子どもの頃は山にあるのは渋柿ばかりで、今ほど植えられていなかった。

この近辺でも熊が出るというので、庭に柿を植えている人は気を遣っている。

ただ、東北や関東と違ってどんぐりなどの堅果類はそこそこなっているようなので、熊が出た話は近隣では今のところ聞いていない。

そもそも、猪対策で山ぎわには金網フェンスが設置されているし、水田には電気柵が張り巡らされているので、そう簡単には村にやってこられない。

ただ、ハクビシン、アナグマには効果が無いようで、村でも出ているし、サルは地域によっては被害も出ているようだ。


私は今年の秋が異常に思えるのは、いつも色づくのを楽しみにしている大きなプラタナスの木の葉が枯れてしまっていることだ。

夏の暑さでやられたのか、害虫・病気にやられたのか分からないが、共同墓地のそばに植えられている他の木も同じように枯れている。

気候もついこの間まで夏のように暑かったのに、このところ冬のように寒くなっている。

テレビやラジオでも秋が無くなったとしきりに言われているが、まさしくその通りだと思う。

紅葉などの風情が損なわれるのも情けないが、深刻なのは東北や関東の熊の食糧となる木の実の凶作との関連だろう。

破綻気象の中で山の木々も変調を来し、それに依存していた動物が追い詰められていく。

腹を空かした熊は寒い冬になっても、冬眠できずに食い物を求めて街にやってくる可能性もあるという。


こういう気候を作ったのは人間なのだが、その原因の化石燃料を掘りまくれという大統領に日本の総理大臣はノーベル平和賞を推薦するという。

日本の総理大臣はアメリカの航空母艦に乗せて貰って笑顔で大統領と手を振っていた。

しかも、その大統領は今まで封印してきた核兵器の実験を指示しているというのだから、日本の総理大臣はただのお人好しなのだろうか?

一方で飢えた熊に襲われてて亡くなる人が後を絶たず、対策に自衛隊も出動しなくてはならなくなるそのギャップについて行けない。





2025年11月2日日曜日

世界の山本由伸投手を生んだ伊部

 伊部を「いんべ」とちゃんと読める人は最近では近隣でも少ないと思う。

ここで作られる陶器を今は備前焼というのが普通になったが、以前はここらでは伊部焼きと言っていた。

備前焼は日本六古の一つで、最も古くは名刀の産地で知られる長船で作られ、鎌倉時代くらいから伊部で盛んに作られるようになったという。

因みに伊部は吉井川のそばにある長船から北東方向に約5kmほど離れた山沿いのところにある。

有名な閑谷学校は伊部からまた北東に5km程離れたところに有り、その屋根瓦も備前焼が用いられてきており耐久性がある。

備前焼は実用品として古来から作られてきたが、戦国時代には火薬の入れ物としても重宝されたという。

この長船にあった備前福岡は黒田官兵衛の先祖が住んでいたことから、九州にその名前を持ち込んだとして有名である。

姫路生まれの黒田官兵衛と備前に関係あるように、西播磨と東備前は西と東のせめぎ合いの場所でもあったし、交流も盛んだった。


私が生まれた赤穂の西に位置する鷆和の鳥撫は播磨と備前の境界だが、私の母方の祖父母は備前福河に生まれ育った。

赤穂は大和政権によって播磨となるまでは、千種川より西側は吉備の国だったので、私はそのころの国名で言えば吉備の人間ということになる。

鳥撫の父方の伯父夫婦の言葉は赤穂弁よりも備前の方の言葉に近かった。

伯父は石材を運ぶ木造船を使った仕事をしていたが、船を停泊させるのに地元以外では備前の日生や片上の港を使うことが多かった。

私も子どもの頃には祖母と毎年備前福河に行っていたし、遊びに日生から小豆島に行ったり、備前焼の見学で伊部に行くこともあり馴染みのあるところであった。


伊部には備前焼の作家が方々で窯を構えているのが煙突や置いてある松の木の薪で分かる。

東京の大学院にいたときに、先輩がわざわざ伊部まで来て陶芸をしていると聞いて驚いたことがある。

また、私がしばらく勤めていた閑谷学校の研修所でも、備前焼を体験することも行われ、講師に備前焼の作家がそこから来てくれていた。

古くからの街並みも残っているが、去年には新しく駅前に立派な備前焼ミュージアムができた。

今年の10月に行われた備前焼祭りもたくさんの観光客で賑わっていた。


山本由伸投手のことは伊部駅近くのビルの垂れ幕に書かれたこともあったが、今は国道2号線沿いにある伊部小学校の外塀に細々と横断幕で紹介されている。

山本選手は野球は地元では中学校までで、高校は宮崎の都城高校なので、故星野仙一監督のように岡山を代表する選手という感じでは無いようだ。

大谷翔平選手や佐々木朗希選手のように地元の高校出身で無いことが、地元での盛り上がりを欠く原因となっているのかもしれない。

その一方で、ドジャースの選手が「オカヤマ オカヤマ」と山本選手を讃えているのが嬉しかった。

山本選手も中学生までは野球の全国大会で岡山県を背負っていたことも確かなのだし、県民の人も誇りに思って欲しいと思う。

私は備前焼では全国的に知られてはいるが、5000人ほどの小さな町に生まれた山本選手がアメリカのワールドシリーズでMVPを獲得したことに感動をおぼえている。

山本選手は既に大谷選手と同じように日本を超えた存在で、地元云々のレベルでは無いのかもしれない。

ただ、どんな小さな町や村でもしっかりした指導者がいれば、世界で通用できるスポーツ選手が誕生することの証明でもあると思う。

この際、備前焼も山本選手と一緒に世界にもっと売り込んでみたらどうだろうか?








2025年11月1日土曜日

冬の作物の主力タマネギ

 私は去年までタマネギはいい加減に作っていた。

それは以前は家内の手も借りて赤穂の実家の畑(でーしょん祭とタマネギ)で500本ほど作っていた。

ところが家内がリューマチになって以来農作業が困難になったので、家内に任せていた穴マルチを使った面倒な苗の植え付けを自分でしなくてはならなくなった。

また、極力ポリマルチを使わずに、草マルチでしてタマネギを作ろうとすると、植えた後での色々と手間が増えて、赤穂の畑での栽培は難しくなった。

そこで、細々と上郡の自宅裏の畑で数年前から作ってはいたのだが、あまり立派なのは採れなかった。

去年も植えたところが隣接する農業倉庫の陰になってしまい、発育が非常に悪くて小さな物が殆どだった。

タマネギは安く買えるから、買って食べれば良いと思っていた。


ところが、図書館で健康雑誌を読んでいて、タマネギが糖尿病の対策には非常に良いということが分かった。

そこで、私はソイリッチ(豆乳メーカー)でタマネギを中心としたシチューを作ることに決めたのだ。

ソイリッチはタマネギの皮まで砕いてくれるため、皮ごと刻んでシチューにした。

そうすることで、家で採れた小さなタマネギも手軽に利用できるようになった。

初夏に収穫した物は、10月末でほぼ無くなってしまったので、今は買った物を使っている。

こうなると、来年はできるだけ自分で作ったタマネギを使い続けようと考えた。

それで、去年とは違い、日当たりや肥料のよく効いているところに、畝を立てて準備して置いた。


タマネギの苗は極早生50本、中生50本、貯蔵用50本をとりあえずホームセンターで買って植え付けた。

そして、ホームセンターは必ず萎れた苗を半額で売ることを知っていたので、半額になった貯蔵用の苗を200本買い足している。

以前から半額の萎えた苗を植えてきたが、タマネギは強いのでちゃんと世話をしてやれば大きくなった。

合計で350本植えることになるのだが、家内に言わせればそれでも足らないということだ。

こうなると、植える場所をちゃんと確保せねばならないので、急遽をサツマイモを掘り起こしてしまうことにした。

というのも、今年は11月は暖かいというので、掘るのを遅くしておこうと思っていたのだ。


この夏に葬式があって家内の方の親戚が来てくれたのだが、そのひとりはミカン農家だった。

跡取り息子さんもいてミカン農家を継いで貰うのかと訊いたら。

淡路のタマネギ農家で実習していて、そこの農家が跡取りがいないので、やって欲しいと頼まれたという。

ミカンは嗜好品としてだんだん先細っていく中で、料理に欠かせないタマネギは手堅い。

しかも、淡路のタマネギはブランド品で値段も高い。

どうも、そちらの方に話がまとまってきているようだ。

代々継がれたミカン農家だが、時代の流れには逆らえないということだ。


今回の苗の中には淡路で使われているのを50本だけ買った。

他のより100円ほど高いのだが、良いタマネギができることは経験済みだ。

淡路のように立派なタマネギは作れないけれど、安全で健康に良いことは確かだと思う。

淡路ではポリマルチを使っていないので、おそらく除草剤は使っていると思う。

また、病気や害虫対策として農薬は欠かせないと思う。

我が家はできが悪くても自然農法に沿った無農薬栽培を行っている。

以前は冬の主力作物は大根やカブ、ジャガイモだったが、今年からはタマネギに戻った。

来年の初夏は立派に育ったタマネギを眺めて笑いたいものだ。






2025年10月30日木曜日

都立大学前駅から柿の木坂

 NHKラジオの音楽遊覧飛行の向谷実「ミュージックエクスプレス」をよく聞き逃し配信で聴いている。

今週(10/27~1030)は都立大学附属高校のホームカミングデイの話題や東急東横線都立大学前駅での失恋話など都立大学と関係する話題が多かった。

それを聴いていると自分の院生時代の記憶が蘇ってきた。

因みに向谷実さんは私より三つ年上の1956年生まれであるので、大学で出会うことはありえ無かった。

附属高校の生徒はよく大学の学食に食べに来ていたのだが、私服だったので大学生と隔たりは無かったので、年代が合えば会う機会は有った。

1958年生まれ織田哲郎もこの高校に在籍していたことがあるが、大学は明治学院大学なので重なることは無い。

都立大学附属高校は有名なミュージシャンを二人も輩出しているとは今まで知らなかった。

そう言えば、私のカラオケで歌うのを聴いて、都立大学出身の先輩が音楽関係者を紹介してやろうかと言ったのも、本気だったのかもしれない。

惜しいことに、当時はミュージシャンになることは諦めて、研究者になることしか考えていなかった。


私は都立大学は大学院の修士しかいなかったので、3年(1年休学)だけの関わりだった。

ただ、下宿が東京都の中野と西落合、横浜市の長津田と転々としたので、一番馴染みのあったのが都立大学前駅だった。

東京都立大学大学院の社会人類学研究会は月に一度か二度研究室でビールを飲みながらオープンな研究会を開き、二次会に駅近くの中華料理店の二階で二次会を行った。

どちらも飲みながらの遠慮の無い討論になるのだが、研究発表者は研究室ではしらふであっても、二次会では酔いながら熱い討論の続きをやったりしていた。

そこらへんが東京大学の上品な研究会とは違うところだったらしい。


そして、普段はゼミや講義でも滅多に会うことが少ない院生なので、三次会を駅前の酒持ち込み可能なスナックのような店で最終電車まで飲み続けていた。

場合によって、駅近くに住んでいる先輩や同級生の下宿に転がり込んで飲み明かすこともあった。

大学院は都立大学出身者はあまりいなくて、偏差値の上は東京大学から下は私のような南山大学からも入っていたが、多くは地方の国立大学と東京の有名私学だった。

中でも高知大学出身の先輩は飲むと必ず「剛気節」を駅前で歌ってもりあがったりした。

 一つとせ 一人のあの娘が戀しけりゃ 潮吹く鯨で氣を晴らせ =そいつ豪氣だね=

その先輩の「そいつあ剛気だね」と歌っていた姿が目に浮かぶが、もうあの世に旅立ってしまった。

本来なら都立大学の校歌をみんなで歌いたいところだったが校歌が無かった。

そこでやけくそで、当時流行の志村けん「東村山音頭」をもじって「目黒区八雲いっちょめ(1丁目) いっちょめ」と連呼して騒いだりしていた。

当時は大学や研究機関への就職先もあまりなくて、院生の心も少々荒んでいたようにも思える。

だから、先輩が大学の職を得たときは、研究室で祝い酒を飲み都立大学の中庭の池に飛び込んで騒いで、その濡れた服のまま電車で帰った。


私の一番記憶に鮮明に残っているのは、駅から大学まで上りが続く柿の木坂だ。

修士論文を提出する日、徹夜でふらふらになりながら、その坂をひとりの先輩に付き添われて一歩一歩と歩いて大学に向かったていた。

そうするともう一人の同期の仲間が、数人の先輩に付き添われながら、やはりふらふらとその坂を上ってきた。

もう二人とも何日間も徹夜が続いていたので、体力も気力も限界に来ていた。

ふと、その仲間の足下を見ると靴下もはかずにスリッパのままだ。

修論の提出日は確か1月10日で真冬の寒いときだったのに、寒さも感じなくなっていたのだろう。

あの時の柿の木坂の光景は一生忘れられない。


残念ながら、私は修論のできが悪くて博士進学の夢を果たせず、そこを去って行った。

大学も八王子に移転してしまってそこを訪ねて行っても何も無く空しいだけと思っていた。

以前に自分が学生時代に暮らしていた所を訪ね歩いて写真に収めてきたが、ここだけは行かなかった。

それでも、向谷実さんの話を聞いたら、また行ってみたくなった。

そこには恋愛も失恋も無かったけれど、夢を抱いた研究と酒に明け暮れ、そして夢を捨てた想い出しか無いけれど・・・・・




2025年10月29日水曜日

鶏よりも卵を優先

 私はかつて安い鶏の肉を買ってきて、わが家で燻製にして毎日美味しく食べていた。

ところがある日突然、右足の親指の付け根がすさまじく痛くなった。

通風である。

鶏の肉にはプリン体が多くて、場合によって通風を引き起こすことを知らなかった。

関西では鶏の肉のことを「カシワ」というが、子どもの頃に普通に食べられる肉はカシワしか無かった。

当時は豚肉も牛肉も高くて滅多に食べられなかった。

鶏は普段から食べられたし、家でも飼っていたので、クリスマスなどに潰して食べたりした。

それでも、昔はカシワは毎日は食べられる物ではなかったのだ。

それを毎日食べ続けたのが悪かった。

それ以来カシワは家内も気をつけて料理に出している。


卵も昔は今のように安いものではなくて、お好み焼き屋には卵を持っていって中に入れて貰ったりした。

家でも卵を産ませるための鶏を飼っていて、それが毎日の栄養源ともなっていた。

また、子どもの頃はおやつなどあまり買ってくれなかったので、卵をおやつ代わりに食べたりした。

それは、生卵の殻の先に目打ちなどで穴を開け、そこから中身を吸い出す。

ただ、白身はあまり美味しくないので吐き出したりしたが、黄身は濃厚で非常に美味しかった。


大学時代はお金が無かったので、一番の栄養源として安い卵は欠かさなかった。

毎日のように卵かけご飯を食べていた。

結婚してから家内は生卵が嫌いで、卵かけご飯どころかすき焼きも家でしたことが無かった。

それでも、どうしても食べたくなって、私だけ卵かけご飯にして食べていた。

最近は健康のことを考えるようになり、平飼いの1個50円ほどの高い卵を毎朝食べ始めた。

卵の値段は以前は安売りの時には10個100円ほどで買えたのに、最近では安売りしていて200円以上する。

もう既に安い卵では無くなっている。


先日、図書館に行って健康雑誌を読んでいたら、年老いたら卵を一日に3個から4個食べると良いと書いてあった。

これは医師鎌田 實氏の説のようだ。

糖尿病の私は以前から、糖質が少なくてタンパク質が多い食べ物は無いか探していた。

卵が良いことが分かっていたが、コレストロールが気になっていた。

その健康雑誌にはコレストロールに関わる病気を持っていない限り、大丈夫だと書いてあったので試すことにした。

最初は固茹で卵にして食べたのだが、家内から温泉卵が良いと言われて、ネットで調べたら生卵のよりも栄養価が高いという。

家内は温泉卵を作る小道具を既に買ってあった。

一つは生卵を割って容器に移して黄身を針でつついてから電子レンジで加熱する。

もう一つは容器に生卵を二つ入れて、熱湯を注ぐと自然に湯が落ちていき、空になるとできあがりというものだ。

しかし、どれも自分には面倒くさく感じた。


そこで冷温調理のできる炊飯器を用いることにした。

ネットでは温泉卵を作りるには70℃の温度で30分と書いてあったが、その炊飯器がどれだけの時間で70℃に達するのか分からないので最初は40分でやってみた。

それではやはり黄身も硬めの半熟で、白身もそこそこ固まってしまった。

次は70℃で30分でやってみたのだが、白身は温泉卵らしいのだが、やはり黄身が少し硬めで温泉卵とは言いづらい。

そこで、今度は65℃で30分茹でることにした。

そうすると、正しく温泉卵ができあがった。

ただ、私はもう少し黄身が固まっている方が好きなので、時間は時間を長めにしようと思っている。


牛や山羊なども肉よりも乳を日常の食糧としてきた。

鶏も普段は卵の方を頂くのが身体にも鶏にも良いのだろう。

本当は家で鶏を飼いたいと思うのだが、家内はどうしても嫌だと言って譲らない。

鳥インフルエンザを怖れているのと、あの鳥の足が嫌なのだそうだ。

私は子どもの頃には、父が自分で潰した鶏の足先の筋をむき出しにして、引っ張ったら指が動くので、しばらくはオモチャにしていた。

今の子どもは身近に鶏もいないので、肉も卵も工場で作られる食品と々感覚だろう。

テキ屋のおじさんが祭りで色つきのひよこを売ってあったり、小学校の前でも売りに来ていたあの頃は鳥インフルエンザなど聞いたことも無かったな・・・・

2025年10月27日月曜日

生成AI・ロボットよ!そこに愛はあるんか?

 ノンバンクカードローン会社のアイフルのCMで女将さん役の大地真央は「そこに愛はあるんか」と問い続ける。

単にアイフルのアイと、愛をかけただけらしいのだが、カードローンが愛と無縁と思わないようにCMの場面場面で茶化しながら結びつけているいるのが面白い。

本来、愛している人から利子など取らない筈なのに、愛を標榜するのはおかしいのは明らかだ。

それとちがってコンピューターの生成AIやロボットに愛(感情)があるかどうかは簡単に考えられなくて、ネットで検索したら色んな意見が書かれて有って興味深い。

これは人間の脳の身体外での道具として発達したコンピューターやロボットに「命」を認めるかどうかの問題ともなる。

アントニオ・ダマシオ 高橋洋訳 『進化の意外な順序』 白揚社 2019(2018 THE STRANGE ORDER OF THINGS 以降[アントニオ・ダマシオ2019(2018)]) によると、

感情とはホメオスタシスの心的な表現であり、感情の庇護のもとで作用するホメオスタシスは、初期の生物を、身体と神経系の並外れた協調関係へと導く機能的な糸と見なすことができる。この協調関係は意識の出現をもたらし、かくして生まれた感じる心は、人間性のもっとも顕著な現われである文化や文明をもたらした。このように感情は本書の中心的なテーマをなすが、その力はホメオスタシスに由来するのである[アントニオ・ダマシオ2019(2018):15]


ホメオスタシスは恒常性と訳されるが、つまり生命そのものに関わる重要な概念だ。

それは生物が生体の各組織に必要な水分、栄養素、酸素を確保することで、エネルギー資源のエネルギーへの変換を可能にする化学的プロセスを自動的に調節することをいう[前掲書:57-58]

彼の理論に沿えばコンピューターやロボットに感情を認めることは「命」を認めることにもなるが、明らかにホメオスタシスの条件を満たしていない。

逆に「命」を認めず感情を認めるとすれば、彼の理論とは別の理論で感情を説明する必要があるが、それについては別に考えねばならない。

まずはダマシオ氏の理論にそって考えるが、この問題を別の著書*1で次のように述べている。


今こそ、こうした事実を認識し、AIやロボット工学の新たな章を切り開くときだ。「ホメオスタシス由来の感情」に従って機能する機械を開発できることは今や明白で、そのために必要なのは、機能維持のために調節や調整を必要とする〝身体″をロボットに与えることだろう。つまり、逆説的とも言えるが、ロボット工学の世界であまりにも高く評価されている堅牢性に、一定の脆弱性を付け加えることこそが必要なのだ。[アントニオ・ダマシオ2022(2021):184]


彼に言わせれば、まだ感情を持つに至っていなくて、「ホメオスタシス由来の感情」に従って機能する機械を将来持たせるべきということになる。

それを目指すかどうかは、軍事利用の問題も含めて徹底的に議論すべきだろうが、まだまだ命を認める段階では無いというのが生物学的な専門家の意見だろう。

ただ、命は単に生物学的に捉える問題では無くて、人の生活に根ざした信仰や情愛の社会的、心理的な問題でもある。


日本人は何にでもタマシイが宿るというアニミズム的な信仰を持ち続けているので、自然の無生物や人工的な機械などにも命を見いだしたりする。

だから、すんなりとコンピューターに命と感情の存在を肯定できるように思う。

それは生物学的な意味とは違って、日常の生活でそう接っすることができるということだ。

もう既に、愛車に対してのそういう感情を忌野清志郎は「雨上がりの夜空に」で歌っている。

これは愛車に霊的なものを認めているわけでは無くて、まるで恋人のように愛情を感じることを歌っている。

ただし、以前は正月には愛車に注連飾りをしたりしたし、今でも新車を神社でお祓いを受けたりするので、霊的なものとの関係が全くないわけでは無い。

有名はところではロボット犬アイボに対する人気は強く、一度は生産を取りやめたのに再開することが決まっているそうだ。

場合によっては生きている犬よりも、愛情を注ぎ込むことができるのがアイボかもしれない。

まるでそこに「命」があるかのように、アイボは扱われているように思う。


問題はあたかも生成AIが生きている人物のように恋愛対象になってしまったり、相談相手になってしまって、場合によって自殺までしてしまう人がいることだ。

ここまで行くと、日本でもアニミズム・シャーマニズム信仰で祟りや呪いがあったのと同じレベルになってしまう。

かつて科学や医学が発達していなかった時代は、信仰の力が大きな力をもっていて、場合によって病気や死と深く関わっていた。

今の時代は科学と医学が発達しているのだから、生物学的な見地にも立って生成AIやロボットにだけに依存してしまわないことが大切だろう。

そして、愛(感情)は人間の最も恐ろしい側面ももっている。

愛国心は戦争を生み、恋愛は殺人に結びつくこともある。

特に戦争はその抑止を考えないと人類破滅に結びつくと思われる。

だから、ダマシオ教授のような明るい未来だけを私は予測はしない。


*1 『ダマシオ教授の教養としての「意識」―機械が到達できない最後の人間性』  アントニオ・ダマシオ 千葉敏生訳 2022 ダイヤモンド社:(2021 FEELING AND KNOWING   Making Minds Conscious)





2025年10月25日土曜日

隣の柿はよく犬食う柿だ

 我が家ではクロという雄犬を飼っている。

このところ、庭先などの柿の木から熟した柿が道に落ちていて、散歩の際にそれを食べるのを楽しみにしている。

本来なら拾い食いなどさせない方が良いのだが、ある意味で道路の掃除にもなるし、餌の足しにもなると思って許している。

毎日、道に落ちた熟し柿を数個食べているので、少々肥満気味になっている。

隣の村の犬と一緒によく散歩するおじいさんの犬も柿が好きらしく、おじいさんは道ばたの柿を杖で落として与えている。

人間と違って、犬は赤色を見分けるのが苦手らしく、草むらに隠れていたりするとなかなか探せない。

熟した柿の臭いを目当てに探すので、見ていてもどかしくて、時々こちらが導いてやる。

また、放置されている柿は烏の餌になってしまっているので、食べられてしまう前に枝から採ってやって与えることもある。


近所の家の1軒では3本ほど柿の木を植えている。

そこのご主人は食べなくて、親戚など人にあげるのが楽しみらしい。

ところがそこの柿の木に登って実をあさる動物が数年前から現れた。

アライグマだとかハクビシンではないかということだ。

採った柿の実を屋根の上で食べるので、その滓や糞が樋などに詰まって困っているという。

今年はその対策としてビニールネットで幹を覆ったが、どうも登ってひっかいた形跡があるのであまり役に立っていないらしい。

ご主人は私に勝手にとって持って行ってと言うが、放置されている柿ならいざ知らず、ちゃんと世話をしている柿の実を勝手に持っていくのは気が引ける。

だから、道ばたに落ちた熟し柿を、クロに食べさせているに留めている。


とにかく村で昔から住んでいる人はどの家でも柿の木は自給用として1本以上植えている。

昔であれば子や孫の美味しいおやつであり、干し柿にして冬場の大切な食糧にもなったのだろうと思う。

私の子どもの頃過ごした赤穂尾崎の住宅地の中では、珍しく向の家に柿があってたまに貰うと、凄く嬉しかったのを憶えている。

そう言えば前総理の石破さんの地元の鳥取の八頭は柿の産地で有名だ。

そこをドライブするたびに、柿の実がなっていくのを目にして季節の移ろいを感じていた。

我が家では道の駅で熟し柿があると私だけが食べるために買うこともある。

家内の実家ではおかあさんが渋柿を渋抜きして美味しく食べられるようにしたり、おとうさんが正月用の立派な干し柿を作ってくれていた。

暖冬の影響で干し柿も作ればカビがはえてしまう。


今住んでいる上郡では店に柿を置いていても、みんな貰えるから誰も買わない。

うちも去年まではバケツ一杯の柿を貰っていた。

貰わなくても、放置されている柿の木の実なら遠慮無くいただける。

私は血糖値が気になるので、クロに食べさせる以外は普段はほとんど食べない。

残念ながらこの近辺ではクロのような犬やカラスなどの野鳥の大切な食糧になってしまっているのが現状だ。

今年は熊の出現を怖れて、庭の柿の実を大きな枝毎落としてしまった家もある。

いつも、放置されている柿の実を見るたびに、何かに利用できないものかと考えている。

ただ、人間に以外の動物や鳥などの大切な食糧になっていることも確かで、特にこれから冬場には人以上の数のカラスが村にはやってきてて賑やかになる。

このインバウンド被害は村に何の収益をももたらさないけど・・・・・

2025年10月23日木曜日

教師と国会議員の世襲比較

 私は実は娘が教師になることも期待していた。

大学を出て地元で残って働けるところは、地方公務員くらいしか無かったからだ。

民間の企業に就職しても、転勤や単身赴任で地元から離れてしまう場合が今では多い。

最近は高卒でも大きい企業に入っていれば、地元から離れて仕事しなくてはならなくなっている。

そこが、都会と地方の大きな違いで、名古屋に住んでいるイトコは大学卒業してからもずっと名古屋に住んでいる。

それに対して、赤穂に生まれ育った兄弟やイトコでは本家のイトコが亡くなってしまったので、私を含めて全て地元赤穂から離れてしまっている。

そして、娘は教師にも公務員にもならずに、生まれた赤穂からも育った上郡からも離れてしまった。


私の知り合いの夫婦ともそろって管理職なった人には一人娘がいて、何とか教師にしたいと思っていたという。

大学に入ってから、教員免許を取るようにと言ったが、嫌がってとろうとしない。

そこで、大学の授業料を出さないと言ったら渋々免許は取ったそうだ。

しかし、教師にはならないで住んでいる町の市役所に就職したそうだ。

この場合は両親のそばで就職しただけマシなので、私の娘は教員を多く輩出している大学に入りながら教員免許も取らなかった。

私はブラック職業になって行きつつあるのであえて強く勧めなかったが、どうも本人は地元の学校で私の知り合い教師に特別な目で見られた経験が教師嫌いにしたようだ。


学校の教師は以前は世襲している場合が多かった。

自分の子どもが採用されるように、色々と手を尽くすことで苦労する人も見かけた。

特に管理職の子どもが教師になっているケースが多かったように思う。

しかし、今は先ほど紹介したケースでも分かるように、必ずしも世襲を子どもは望んでいない。

だから、国会議員が世襲が多いのと根本的に変わってしまったのだと思う。

教師も以前は給料は安いが楽な職業と思われていた時は、世襲も多かったと思う。

たぶん、国会議員は給料が高い上に、権力を行使して面白仕事と思われているから世襲が多いのだろう。


実際、私は教育現場で現役の教師が病気を患って死んでいったのを身近で何人も知っている。

現役国会議員が病気を患って亡くなるケースはあまり目にしない。

ただ、教師は暗殺されることは無いと思うので、国会議員の方がそういうリスクは高いと思う。

教師のスキャンダルはマスコミなどで盛んに報じられているが、警察やマスコミの抑えの効く国会議員はそれと比較はできないだろう。

一方、今度の総理大臣は世襲どころか、多額の選挙資金を自分や親からつぎ込んで国会議員になった。

そこまでしてでもなりたいと思うのが国会議員なのだと改めて感心した。

かつての教師も給料は安いけど誇りと権威があったので、世襲がなされたのだろう。

国会議員は給料が高く、誇りと権威があるから世襲もなされるし、リスクを冒してもなろうとするのだと思う。

この違いは結局、将来の日本人の人材育成に関わっていると思う。





2025年10月21日火曜日

荒れゆく田畑との格闘

 私の生まれ育った赤穂では、海に近い田畑は荒廃が進んでいる。

結婚後しばらく親戚の家を借りて住んでいた大津は、田畑の耕作を止めて太陽光発電の施設を林立させている。

私の誰もいなくなった実家には畑が残されていて、手が回らずセイタカアワダチソウが生い茂ってしまった。

本当は今年からサツマイモを植えたので、もっと手を掛けるはずだった。

ところが、酷暑と雨不足で上郡の自宅裏の畑の方に、水やりを中心とした作業に時間をとられるし、暑くて昼間は農作業は無理してやれなかった。

実家の畑は赤穂高校の近くにあるのだが、そばの水田は作る人も無く葦が生えて、畑も荒れ地になったのも多く見られる。

ただ、市民農園もあるし、家庭菜園として仲間と遠くから通っている人もいる。


うちの畑の隣は同級生が作っているのだが、草が生えないように耕しているだけで、作物はほとんど作っていない。

心臓が悪いので健康のために土いじりをしているという感じだ。

その同級生の畑にも迷惑を掛けているので、やっと涼しくなった先日(10/14)背負いエンジン草刈り機と充電草刈り機を持って赤穂の畑に草刈りに出かけた。

ちょうど同級生も来て草刈りを手で行っていた。

充電草刈り機も持っているそうだが、性能が悪くてすぐに草が絡まり止まってしまうので使っていないという。

セイタカアワダチソウのジャングルとなったうちの畑では性能の良いマキタの充電草刈り機でも厳しい。

そこでホンダ製の4サイクルの背負い式エンジン草刈り機をフル回転させて、そのジャングルに挑んだのだ。


普段はせいぜい膝の高さくらいの草を刈るのだが、自分の背よりも高くなった草を前にするとアドレナリンもでて興奮状態になった。

本当はゆっくりと根元から刈れば良いのだが、必死に草を薙ぎ倒しにかかった。

草を刈るというよりも草をぶった切るという感覚になって、心臓もばくばくと鼓動を打った。

エンジンもスロットル全開で、大きな唸りを上げている。

そういう格闘が1時間ほど続いただろうか。

時計を見る余裕も無く、ほとんど薙ぎ倒した段階で、やっと軽トラの荷台に腰掛けて持ってきたペットボトルのお茶をがぶ飲みした。


その後は、畑に植えているスダチがいっぱい実を付けているので、採って帰ることにしたのだが、蔓が絡まって大変なことになっている。

スダチの木に絡まった蔓を、持ってきた手斧やノコギリ鎌で引きずり下ろしながら、取り除いていくのだが、なかなか上の方は取り除けない。

ヤブ蚊の襲撃も凄いので、とりあえずは下の枝にたわわになっている実を枝ごと切り取っていった。

あまり多く持って帰っても食べきれないので、高さ20cm程のコンテナいっぱいにして持って帰ることにした。

市販されているスダチは小さな実の状態なのだが、うちの実は温州ミカン程度に大きくなっている。

黄色く色づくと、皮まま食べることもできるが、あおいうちに採って香を楽しみながら酸っぱさを味わうのが良い。

こういう恩恵もこの荒れた畑でも残っている。


今回驚いたのは、梅雨時に植えたサツマイモが生き残っていたことだ。

セイタカアワダチソウのジャングルの中で、ちゃんと蔓を伸ばしていた。

雨もあまり降らなかったので、枯れてしまったものと諦めていた。

さすがニューギニアの初期農耕でも栽培できる優れものだ。

実は今年はニューギニア式サツマイモ栽培の実践①~下準備~ に挑戦しているのだが、その成果はもう少ししてからのお楽しみだ。

こちらにサツマイモを多く作ることができれば、上郡の自宅裏では別のものを作ることができる。

まだ、手のかかる作物までできないのが実情なので、食糧危機への対策はまだまだだと言うしか無い。

荒れた畑でも半野生状態で何とか活用したいと思っている。





2025年10月20日月曜日

教員になりたくてもなれなかった頃

 今日、プールで泳いでいると、隣のコースに知り合いの教師が来ていて話ができた。

その人は私よりも一つ年上で、特別支援学校を長く勤めていた。

年金が支給される年齢なのに、まだ学校勤めを辞めていないという。

辞めるにも辞められないのだそうだ。

教師のなり手が無くて、仮に来ても仕事ができなくてすぐ辞めてしまうからだそうだ。

その先生は元気でまだまだ勤められそうだが、こういう先生がいる間にはたして優秀な教員の志望者が増えるだろうか


かつて高校に勤めていたときに、新任校長が赴任する学校に勤める機会が多かった。

これは何を意味するかというと、地域の名だたる進学校の伝統校には新任校長は赴任させられることはない。

ちゃんと経験を積んでそういう学校に転勤してくる。

ある地域の伝統校だった高校では、かつては新任校長が赴任してくる学校では無かったが、進学実績などが落ちて人気を失うと新任校長が赴任してきた。

私は西播地域の高校や特別支援学校で働いてきたのだが、進学指導実績がそこそこ良い学校は大学付属だけだったので、校長は大学の先生だった。

新任校長は赴任早々に大切な出張が待っているようだ。

東京に集められて総理大臣からの祝辞? 訓示?を受けるらしい。

ネットで見られる新任校長研修で公立小・中・高の新任校長の悉皆研修となっているのとは別と思われる。

以前いた学校で教頭に確かめようとしたが、話をはぐらかされてしまったので公表されていないのかもしれない。

因みに全国高等学校校長会は別にあって、それはネットでも公開してあり、来賓として文部科学大臣が予定されている。

これからしても、総理大臣謁見の新任校長の会が特別なものか分かると思う。


このことから、戦前の教育の反省から教育は国家から地域が担うものという方針が示されたことは既に忘れ去られていることが分かる。

私たちが採用される時代では、まだ卒業式で君が代斉唱。日の丸掲揚を行うかどうかが問題になっていた時代だった。

教員採用試験で日の丸・君が代問題について面接で聞かれるので、どう答えるべきかの問答集があったりした。

日の丸掲揚、君が代斉唱をどう思うかと訊かれたら、反対と面接で答えれば採用されないだろうと言われていた。

それで、聞かれたらとりあえずは、今は判断できないので採用されてから考えると答えるのが良いように言われていたように思う。

実際に面接を受けたときは、そういう質問はされなかったが、社会科は臨時常勤講師が多かったので、面接の質問を現場で言われると不味いと思ったのかもしれない。

私も当時は中学校の臨時常勤講師をしていて、校長先生に面接の練習もして貰っていた。


私の初任校は今は特別支援学校と言われるが、当時は精神薄弱の養護学校と言われていた。

今は障害時教育の免許を持っていないと、赴任させられることは無いと思うが、当時の初任者は持っていない教師がほとんどだった。

当時の私はそういう学校の存在さえ知らなかったのだが、校長から確認の電話があって、やっと就職できるという思いから勤務することにした。

私が教員になろうとした頃は、石油ショックの影響がまだ残っていて、一般企業の就職も難しく、教員は人気があった。

南山大学の人類学科の授業だけでは中学高校の社会科免許しか取れなかったので、教員採用されやすい英語や国語を他の学科の授業を受けてとる学生もいた。

東京都や都市部では教員人気が高く、早稲田大学の友達が早稲田を出ていても教員に成れないと言っていた。

私も国語の免許を取ろうと思って授業を受けていたが、大学院に進もうと思ったので途中で国語単位取得をやめた。


教育実習でも、東大に行っていた先輩や、京大など七帝大に進学した同級生なども母校に来ていた。

その他、広島大学の教育学部や教員養成の熱心な大学に行く同級生もそこそこいた。

給料は安くても当時は人気があったのだが、人気を一気に失ったのはバブル経済で民間企業の給料が非常に高くなって差が付いてしまってからだ。

バブルの頃は教師は人気が無くて、校長が朝礼で知った人で教員になろうという人を勧誘して欲しいと言われた。

その頃は教員になりやすかったが、教員の資質をもっていない人が教師になって、結局本人も周りも後で苦しむことを目にした。

教員のなり手を増やすために給料も上げていったのだが、バブルが弾けて民間企業も景気が悪くなり、教師の給料も相対的によくなった。

そこで、安定した職業である公務員人気も高まり、教師は特に人気が高くなったので、なりたくてもなれない職業になった。


今の状況はバブル時代の教員不足の頃と似てはいる。

大卒者の初任給が高くなって、給料面でも釣り合いが取れないのだろう。

勤務はブラックとして、給料もさほど高くないのに優秀な人材が集まるはずが無い。

おそらく、給料を上げても人気は高まらないだろう。

今の学校は経験ある教員が退職してしまい若い教師への指導もできない上、負担が非常に増しているからだ。

私はこういう学校の荒廃を招いた原因の一つとして、教員免許更新制度を上げておく。

これは教員の時間的負担だけでなく、誇りも奪い去った。

同じ教員出身ながら、政府と伴に教師を追い込んでいった管理職にも不信感は抱いているが、お金や勲章のためなら仕方ないか・・・・・



















2025年10月18日土曜日

移動スーパーと個配に老後を託す

 私は母がまだ自宅でひとり暮らしをしていたときに、週末には欲しいという食料を買い出しして持っていくのが日課となっていた。

足が悪くなって自分ではスーパーで買い物ができなくなったからだ。

自分の欲しいものを自由に買いたいと言って、コープの個配を注文票で頼むようになったのだが、とんでもない買い物をすることが多くなった。

買う数量が多すぎたり、同じものをいくつも買ったり、老人のひとり暮らしでは到底考えられない買い物でも、コープは注文されればお構いなしに持ってきた。

そこで、品物が来て注文する日の前にヘルパーさんに点検を入れて貰うことにして、幾分改善されたが、冷蔵庫や玄関の階段下には余り物がいっぱい残っていた。


以前、親戚で葬式があったときに、赤穂の鷆和で暮らしている叔母と話す機会があって、買い物について聞いた。

というのも、叔父の認知症がすすんで、車の運転ができなくなったので、スーパーもコンビニも無い鷆和ではどうしているのだろうかと思ったからだ。

その時に叔母は「とくし丸に頼んだら、何でも持ってきてくれる」と言っていた。

とくし丸という移動スーパーがあることは聞いて知っていたが、そんなに頼れるものか疑問に感じていた。

ところが、先日赤穂でのとくし丸のことが民放のテレビで放送されていて驚いた。

赤穂は旬鮮食彩館PAONE(パオーネ)が買い物難民(買い物困難者)対策として頑張ってくれている。

その1号車黒田さんのことが取り上げられていたのだが、まさしく叔母はその黒田さんにお世話になっていたようだ。


旬鮮食彩館PAONE(パオーネ)は以前は日生ショップと言われていたように、岡山県の日生が発祥の地である。

盆や正月で親兄弟が親元に集まるときには、ここでは魚が美味しいのでそれを目当てによく買い物をした。

赤穂はスーパーに関して、以前は播磨生協と言われたコープが出店していたが、主婦の店などに換わってしまっている。

主婦の店は私の子どもの頃からあるスーパーなので、赤穂に根付いていて親しみを感じる店ではある。

加里屋や中広という町の中心部には大型スーパーもできて、便利にはなっているが、それ以外の所はそういう大型スーパーに客を奪われて、小さな店やスーパーは減ってしまった。

実は母の住む実家のほん近所にあった日生ショップ尾崎店も潰れてしまっていたのだった。


鷆和は私の子どもの頃は万屋も魚屋もあって、そこで買い物ができたし、自転車で果物を売りに来るおじさんもいた。

今はちょっとした店が酒を中心に売っている程度で、小さなスーパーは隣の村の折方に行かなくては無い。

叔母のように認知症の叔父がいる場合は、バスに乗って買い物に出かけるのも大変だろうと思う。

コープの個配もあるとは思うが、電話で欲しいものを聞いてくれて、週に2回も来てくれるとくし丸の方が少し高くなってもよほど便利である。

子どもや孫に買い物を頼んだら、ガソリン代として小遣いをあげるので、却って高く付くことはテレビでも取り上げていた。

黒田さんは正月以外はほとんど休み無く働いて年収は700万円以上稼いでいるそうだが、地域の福祉を担っている点でいえば、収入だけで評価できないだろう。

何よりも感動したのは、家の中だけで無く場合によって台所まで品物を運んであげたり、頼まれれば二階からベッドを下ろしてあげていることだ。

単に商品のやりとりをするのでは無く、暮らしの支援をして信頼されている。

ただ、働き方には無理があるように思えるので、収入面でも勤務時間でも余裕のある体制で運営できれば、心ある若い人がもっと活躍できると思う。


上郡町はコミュニティーバスを頻繁に走らせているが、全く乗っていないときが多く、乗っていても一人か二人である。

これは町の高齢者のためというよりも、バスの運転手のための雇用対策としか思えない。

国や地方自治体はこういうとくし丸のような取り組みに補助金を出して奨励するべきだと思う。

コープの個配や移動店舗もとくし丸のように、電話などでの注文できめ細やかに対応してくれたらもっと利用しやすくなると思う。


それにしても、私の子どもの頃の赤穂の尾崎では、近所のお豆腐屋や八百屋にお使いで買い物によく行かされた。

また、行商の人が自転車や車力を使って、魚、果物、野菜を運んできて私の家の前で広げていたので、近所の人やって来て買うことが多かった。

駄菓子屋やお好み焼き屋も近所にあって、おやつを買ったりご飯を食べるのに不自由は無かった。

車社会になって、売り場、食堂、しゃべり場、遊び場であった町の小さな店や路地裏はその命を失ってしまった。

新しく家を建てて移り住んだ住宅地では、そういうものは近所に根付かなかった。

因みに結婚後子どものために移り住んだ農村地帯の上郡町の中野でも、近所には掛け売りをしてくれる酒・煙草屋兼万屋もあったし、ちょっと足を伸ばせばAコープもあった。

万屋は自動販売機に取って代わられ、Aコープも潰れてしまった。

だから、町でも田舎でも車が使えない人を細やかに助ける仕組みが必要になったのだ。

とくし丸のような取り組みがどんどん広がっていってくれたら、自分の老後の心配も少しは減ると思うのだが・・・・