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2025年6月8日日曜日

革命的自動音声文字起こしPLAUDの感動

 実は、私は45年ほど前は村落調査においては手書きノートはメモ程度で、マイクロカセットテープレコーダーを使って録音していた。

当時はノートに筆記していくのが普通だったが、それだと会話が途切れてしまうし、情報量も限られていたからだ。

ただ、スムーズに聞き取れて情報量も増す反面で、その後のテープ起こしには多大な労力と時間がかかった。

主に夜に話者の家に訪問して、昼間はそのテープ起こしをするのが日課となっていた。

マイクロカセットは何本か用意していたので、調査から戻ってからの文字起こしも行ったりもした。

ただ、その録音したマイクロカセットは文字起こしをすると、再び録音に再利用されて音声を保存することは殆ど無かった。


2008年に当時の文部省から奨励費をもらったのに付随して追跡調査をしたときには、ボイスレコーダーを用いて聞き取りも行っていた。

それを文字にしなくてはならないと思いながら、17年の年月が流れてしまっていた。

勤めている学校現場でも研修や講演会でボイスレコーダーなどを使って録音して、それの文字起こしをすることもしていた。

また、兵庫教育大学大学院での長期研修でも、その講義をボイスレコーダーで録音したりしたが結局は文字化しなかった。

音声録音はノートに書き残す手間は省けるが、文字化するのにそれ以上の労力と時間がかかり、本当に必要に迫られなければ放ってしまっていたのだ。


それが、自動で音声文字起こしができるPLAUDの存在を知って、すぐに購入した。

手始めに手書きで書かれた大切な手紙を文字化してみたが、かなり正確だったが言葉が途切れて聞きづらいところは文字化してくれてなかった。

こういう手書きの文章は予め読んで練習する必要がありそうだ。

一方で日記を書く代わりに言葉で録音しようと思い、ベッドで横たわったまま気楽に録音した。

その録音を文字化してみて誤字はそこそこ見られたが、少し手直しをすれば済む程度だった。

そして、念願の村落調査の録音音声の文字起こしに挑戦した。

前もって、ボイスレコーダーの録音音声はWAVやMP3に変換しておいた。

ボイスレコーダーはパナソニック製だったが、独特のファイル形式で保存するものであり、汎用性が無かったので変換しておいたのが正解だった。

ところが、最初の躓きはスマホでの保存音声データーの文字起こしはデーター利用で面倒なことになる。

そこで、パソコン用のアプリをダウンロードしてインストールしようとしたがうまくいかない。

なんのことは無い、そのアプリは個人として使っているパソコンEndeavorのwindows10では使えないのだ。

そこで、家内と共用していた中古の最新パソコンLet's Noteはwindows11なので、同じようにしてインストールしたうまくいった。


さっそく、Let's Noteで試してみたら、17年前の音声データーが見事文字化してくれた。

私は感動のあまり同じように村落調査に行った仲間がいる南山大学ゼミ同窓生LINEで報告した。

しかし、その仲間からはスルーされてしまった。

彼は大学時代当初から録音も撮影も行わず、ひたすらノートに筆記する人だったのだ。

反応があったのは、雑誌関係の仕事をしている仲間だけだった。

彼も取材や仕事のやりとりで録音を使っていたのだろう。


PLAUDの宣伝では革命的とうたわれている。

確かに私にとっては革命的で、これが40年前にあったならどんなにスムーズに聞き取り調査ができたか分からない。

しかし、当時の話者の殆どが既に亡くなられている。

当時の村落調査は伝統的な生活を経験してきた最後の語り部だったのだ。

写真に関しては残すべき記録としてデジタル化して保存しておいた。

当時の音声としては八月踊りなどはデジタル化して残して置いただけである。

しかし、聞き取りした音声は保存する意識さえなく、文字化するための一時的な参考資料でしかなかった。

ただ、再利用する前のカセットが残っていたので、それは亡くなった人の声で懐かしくてデジタル化した。

今となっては悔やまれるが、こういう時代が来るのなら録音したマイクロカセットも、写真同様に記録として置いておくべきだった。

こういう革命的な音声録音記録の時代が来たのに、肝心の魅力ある伝統的な暮らしを語る人はいなくなってしまっているのも皮肉なものだ。

せめて、そういう語り部を知る私の記憶が確かなうちに、どこでも録音できる音声を使ってそれを残しておこうと思う。

なぜならキーボードで打ち込むよりよほど楽で便利だからだ。

私の認知能力も劣化する一方だから、残された時間を有効に使おうと思っている。





2025年6月3日火曜日

ニューギニア式サツマイモ栽培の実践①~下準備~

 私は赤穂にある実家の畑を何年も作物を作らず、代萩(セイタカアワダチソウ)の群落にしたままであった。

ただ、1年に数回は草を刈りには来ていた。

米不足で代用食が必要と思い、今年からサツマイモやカボチャを植えることにしていた。

この四月の下旬にも背負い式の草刈り機を使って、代萩は殆ど刈りたおしておいた。

以前に農業雑誌でニューギニアでは雑草の上に土を盛って、そこにサツマイモの苗を植えることが紹介されていた。

ネットでも調べたら枯れ草の上に土を盛ることが書いてあった。

ただ、枯れ草はイネ科の植物だったようだが、うちの畑の代萩はキク科であり宿根草でもある。

実は、冬場に枯れ草を一度焼いていたので、そこには代萩は生えないだろうと思っていたが、しっかりと生えていた。


当初は筋状に刈り干した草の上に刈り跡の土を掘り起こして、それを枯れ草の上に置く予定だった。

ところが、スコップを使って掘ると代萩の地下茎が立ちはだかってなかなか掘れない。

そこで、枯れ草を一カ所に集めてその回りを掘り起こす従来のニューギニア式に戻した。

スコップで深く掘らなくても、代萩の地下茎はそれほど深くないので、備中鍬に持ち替えた。

最近ではサンボンコとここいらで言われる備中鍬を使っている人を殆ど見かけない。

大抵は小型耕運機を用いて耕している。

私も少し馬力のある小型耕運機を持っているが、今回は持ってきていない。

そこで、父親から教わった備中鍬で掘り起こして草を取るやり方を実践した。


それは深く根付いた草に鍬を打ち込んで、テコのようにして引き抜く。

そして、土のついた根の部分を、鍬3本刃の逆の部分で叩いて土を落とす。

最後に手で持って鍬の柄や刃などにぶつけて土を払い落とすやり方だ。

この時は盛り土の上にサツマイモの苗を植えることよりも、地下茎のない土の上に植えようと思ったので、掘り起こした地下茎は盛った土の上に置いておいた。

予定では40本の苗を植える予定なので、その広さを確保しようとしていた。

ところがなかなか作業が進まず、盛り土にも植える必要を感じて、地下茎も一緒にした枯れ草の山に土を被せた。

これはたぶん間違いだろう。

地下茎が芽を出すことが考えられる。

ニューギニアでは前もって地下茎のある草でも干して、発芽することを防いでいたのだと思う。

そして、やりながら気がついたのだが、こんもりとした盛り土にするのは周りの草を刈ったり、掘り起こしたりした物を集めるのに都合が良いからだ。


ニューギニアでは古くから石器が農具として用いられているので、私の今回のやり方とほぼ同じでは無いかと思われる。

ただ、北アメリカ原産の代萩のような厄介な植物は生えていなかったように思う。

イネ科の草であればもっと楽に掘り起こすことができそうである。

現に、上郡にある自宅裏の畑では、スコップで簡単に掘り上げて高畝を作ることができて、現在はジャガイモを植えている。

従来なら刈った草は燃やして焼き畑のようにして、野原になった畑を復活させる方が手間がいらないだろう。

しかし、今回の代萩のように地下茎でしぶとい草の場合はニューギニア式のやり方が有効に思えた。

ただし、小型耕運機で耕した方が労力的には楽だっただろうと思う。



2025年5月30日金曜日

雨ニモマケズ 毎日玄米四合?

 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ


これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の有名な一節で有る。

因みに四合は白米では600gくらいだそうで、玄米もそれくらいだろう。

そうすると1ヶ月30日で白米なら18kg食べることになる。

現在白米1kgを1000円とするなら、18000円の米代ということになる。


丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク


という言葉が空々しく感じてしまう。

因みに私が大学時代の45年ほど前で、親からの仕送りが2万円で奨学金が36000円、そこから家賃1万円を支払い暮らしていた。

玄米食だったら白米よりも栄養価が高いので、他のおかずが少なくても足りていたかもしれないが、当時の私としては欲どおしくおもえる。

これは昭和6年頃に書かれた詩らしいが、当時の欲の無い庶民はそんなにお米を食べていたのだろうか?

江戸時代から戦前にかけて、年間一人1石(150kg)食べるのが普通ということで、月に直すと12.5kgなので、18kgも食べた賢治は玄米の食べ過ぎである。


ただ、この詩は手帳のメモ書きだったそうで、最後に


ソウイウモノニ ワタシハナリタイ


とあるから、実際は毎日玄米四合も食べられていなかったかもしれない。

このように解釈すれば、当時の実際の貧しい生活を詩にしたのでは無く、こんな生活がしてみたいという願望とも受け止められる。

因みに私は一月に食べる玄米は四合であるので、賢治の言う1日分を1ヶ月かかって食べている。

もちろん他の穀物と混ぜた雑穀米として食べている。

我が家は夫婦二人と息子のひとりの3人暮らしで、計算すると年間150kgの玄米(22、500円)を食べている。

といいうことは3人で昔の一人分と言うことだ。


一方で、仮にこの当時の庶民が一日四合も食べるようになっていたとすれば、近代化によって食生活が変化したとも考えられる。

戦後は「貧乏人は 麦を食え」とばかり、麦への食転換が図られて米の消費も抑えられていく。

今の気候変動の激しい中で、食料の国家戦略の見直しが迫られている。

江戸時代の饑饉は気候変動だけで無く、藩の政策も誤っていたし、全国的な支援関係が築かれていなかったことが原因だと言われている。

そもそも、年貢米のために水稲一辺倒の農業を推し進めていった江戸時代の政策にも大きな問題があった。

それでも、山地の焼き畑が残っていて、米に頼らずとも生活できた人は多くいたのだ。

昔の焼き畑に戻れとは言わないが、水稲一辺倒の農業や白米一辺倒の食生活を変えていくべき時代になったということだ。

宮沢賢治の詩は「他山の石」として読み解く必要があると思う。



2025年5月28日水曜日

JAバンクからPayPay銀行へ

 私は年金はJAバンクに入るように手続きしている。

JAバンクの支店は村にもあって、ATMでの引き出しが土日でも手数料なしでできるのが魅力だった。

年金の手続きも無料でしてくれて助かった。

ところが、正式な銀行名が長くて振り込みの手続きが面倒だし、PayPayカードでクレジットカードを作るのも時間がかかる。

そもそも、普通預金は金利が低い。

それに対して、PayPay銀行は近くのコンビニのATMが使えるし、金利が高い上にクレジットカードが簡単に作れた。

JAバンクに貯まったお金をPayPay銀行に移し、これから年金が入ったら随時移していこうと思っている。


最近、店での支払いはPayPayを用いることが殆どだ。

定期的に現金を使うのは、通院している医院の支払いだけで、薬代は薬局でPayPayで支払いポイントもついている。

買い物もamazonやYahooの通販を使うことが多い。

理由は近くに大店舗が無いこともあるが、じっくり選べるし、必要なときに買えるからだ。

物によっては1時間以上かけて比較検討している。

店に行って一つの品物にそんな時間をかけることはできない。

独自のプリペイドカードを出しているイオンなどの支払いは家内に任せている。


実は現金は意外なところでよく使っている。

それはプールのロッカーだ。

週に3回温水プールに行っているが、ロッカーにコインがいる。

上郡のプールは毎回10円必要だし、相生のプールは使うときに100円を入れて終わったら戻ってくる。

それと、たまに行く神社や仏閣でのお賽銭は小銭を使っている。

財布は土日に家内とドライブに出かけるときには持参しているが、普段プールに行くときは小銭入れにコインを入れ、スマホカバーに免許証と入れている。

鉄道を利用するときもICOCAとクレジットカードを使えば現金が必要で無くなった。


実は村のJAバンクにはかつてはスーパーマーケットのAコープが併設されていた。

それは30年ほど前に閉じられ、上郡にあった唯一の大きなAコープも数年前に閉じられた。

ある意味でJAは田舎において、今のコンビニと同じ役割を果たしていたのだった。

今住んでいる近くにはコンビニはあるが、コンビニが近くに無い村は沢山ある。

私が生まれた赤穂の鳥撫がそうだが、叔母さんに聞くと移動スーパーのとくし丸を利用しているという。

かつては叔父と二人で車に乗って買い物に出かけていたのだが、老化が進んで出かけられなくなっている。

上郡近辺はコープ神戸が個配をしてくれたり、移動スーパーがやって来てくれている。

JAの残された役割は郵便局同様に金融のみということになってしまった。

しかし、ネット銀行が普及して若い世代が乗り換えていくのも時間の問題だろう。

年金をPayPay銀行で受け取るようになったら、JAバンクは必要で無くなる。

そしたらJAは農村で何の役割を果たすのだろうか?

かつて農業資材や肥料をJAで買っていたのだが、値段が高いのでホームセンターで今は買っている。

今回の米騒動もJAと農水族の癒着に大きな問題があることが分かった。

戦後の日本の農業を担ってきた農協・JAは米と選挙のためだけに残っていくのだろうか?




2025年5月26日月曜日

歩きや生きがいに役立つフィン(足ひれ)

 当然、足ひれを付けて歩いているわけではない。

以前のブログで書いたように、このところフィン(足ひれ)を付けて水泳の練習をしている。

現役の水泳部顧問の時代は苦も無く付けて生徒と一緒に泳いでいたのに、最初は非常に重くて動かしづらかった。

最近になって、やっとしっかりとフィンを付けてキックが打てるようになってきた。

現役時代は水泳だけで無くランニングもしていたので、足の筋肉もしっかりついていたのだ。

ところが、最近はせいぜい歩く程度で、坂道も大して上っていなかったので、足の筋肉が衰えてしまっていたらしい。


このフィンを用いた水泳練習は思わぬ効果をもたらした。

歩くのが楽になったのである。

ちょっとした坂道でも以前のようなだる重さを感じずに済んでいる。

本当ならジムに通って、筋トレをしておくべきだったのかもしれない。

私の親戚のダイビングが好きな人は、犬の散歩以外にも毎日ジムに通って筋トレをしているという。

これは逆にダイビングに欠かせないフィンをしっかり使うのに必要であることに気がついた。

この人は60歳で完全退職して、国内はもちろん、海外の海に潜って生きがいとして楽しんでいる。

国内のダイビングでは、私たちが値段が高くて口に入れられないような魚介類を捕ってきて食べている。

海外では珊瑚礁の海などに潜って、その自然に触れるのを楽しんでいるようだ。

そういう生きがいにを得るには、普段からの体力作りが欠かせないらしい。


人は海洋適応して発展したと言われている。

船に乗るだけで無く、海で泳いだり潜ったりするのもその一つだ。

以前読んだ民族誌の中で、カナダの狩猟採集先住民はカヌーを使って漁をするのに泳げなかった事が書いてあった。

そのため、冷たい川に投げ出されたら死んでしまうことが多い。

そんな中で、ある日本人が移住していたのだが、転覆の折に多くの人を救った際に、自分は力を使い果たして死んだ事が書いてあった。

泳いだり潜水できる文化を世界中の人々が持っているわけでは無いようだ。

私は幼い頃から船乗りであった父によく海や川に連れられて、泳ぎの手ほどきを受けていた。

父は平泳ぎや立ち泳ぎは非常に堪能だったが、やはり船乗りであった祖父から学んだのだろう。


現代はゴーグルやフィンという海棲動物に近づく道具を持っている。

ゴーグルはどこのプールでも使って良いのだが、フィンは例外的なプールしか使用できない。

先日も、今まで一度も見かけたことの無い人がプールでフィンを付けて泳いでいた。

話を聞いてみると普段通っているプールではフィンは禁止なので、フィンでの練習をするために定期的に来ているという。

私の普段通っている上郡のB&Gプールは利用者が少なくて今後どうなるか分からない。

フィンを使っての練習もできるので、少し遠くからでも来て欲しいと思う。

フィンは泳ぎでは普段出せないスピードを楽しめるし泳力もアップする。

そして、歩くための足の筋肉トレーニングにもなるのでお薦めだ。

何より、イルカのように水面をバタフライで飛び跳ねる快感が得られる。


2025年5月24日土曜日

マダケとハチクの筍

 このところ忙しかったので、散歩の折に放置竹林のマダケやハチクの筍を見ても採らずにいた。

なにせ、採ってきてすぐに茹でねばならないので、面倒だと思い見過ごしていた。

実は、私はマダケとハチクの違いを分かっていなかった。

ネットで調べたら、色や艶の違いが歴然で、マダケは青っぽくて艶があり、ハチクは白っぽくて艶が無い。

どちらも見かけていた竹で、私は日当たりによって違っているように思い込んでいた。

筍も孟宗竹は太さで分かるが、マダケもハチクも同じような太さで、ハチクが若干細いような気がする。

だから、区別無く採ってきて同じように調理していた。



先日、山崎のJA直売所や波賀の道の駅でハチクの筍が売られているので、値段を見ると大きめが3本で600円と思ったよりも高い。

自分が例年採ってきている筍の量を考えると、何千円もの価値があったことに気がついた。

以前、私はナップサックにいっぱい採って帰るのを、毎朝数週間続けていたのだ。

旬の頃は毎日のように筍を食べて、余したら漬物にしたり干したりしていた。

ネットでも栄養価が高いことを書いてあって、健康に良いと思っていた。

なにせパンダは竹だけで生きているのだから、ちゃんと消化できれば栄養がいっぱい摂れるに決まっている。





ところが、近隣では一昨年あたりからマダケを中心に一斉に枯れ始めている。

今年は、竹林の整理事業が散歩道の山でも行われて、竹もずいぶん減らされている。

私は筍の採れる放置された竹林を何カ所も知っていて、生える時期もずれることも分かっている。

もうすでに孟宗竹の季節は終わっているし、日当たりの良いところではマダケもハチクもずいぶん大きくなってしまっている。

そこで、一番日当たりが悪くて生えるのが遅いところに採りに行った。

そこは放置されて密集しているので、筍を見つけてそこにたどり着くのも至難の業だ。

大抵は、足で踏んづけて折ってから拾う。

掘りやすいところではスコップやナイフを用いていたが、しゃがむのも難しいのでそうしたのだ。

また、その翌日には集落の外れでも、持て余している竹林があって、そこの筍は細いのだが、どうせへし折られて捨てられるので採ってきた。


以前は、持って帰った筍を半分に切ってから、皮をむいてシャトルシェフで何も入れずに茹でていた。

今回から、ちょっと皮をむいてから、シャトルシェフの鍋に入る大きさに切って皮のまま茹でた。

その方がむきやすいし、食べられる部分も多くなった。

ただ、かさ張るので鍋は二つ使った。

私が下ゆでまでして、後は家内が味付けをおこなって美味しく食べたが、しばらくは筍の煮物が続きそうである。

そして、採ってきたのだが食べ切れそうに無いので、茹でた後でナイロン袋で塩もみして、大きめの瓶容器にいれて、冷暗所に保存した。


本来竹は色んな道具や、田畑の杭や支え、家に関しては垣根だけで無く、以前は土壁の骨組みにも使われていた。

実は我が家は直接地元の大工さんに頼んで建ててもらったのだが、その人は自分で竹を採ってきてわら縄で壁の骨組みを編んでいた。

竹材は足場になったり、籠だけでなく筏や縄・箍になったり、竹炭になったりした。

また、竹は杉や檜の材木と違って、筍は食料にもなる。

スーパーなどの店では孟宗竹の筍しか出回らないが、農産物の直売所や道の駅ではハチクの筍もちゃんと売っている。

ハチクはえぐみがあまりないので、糠を入れて茹でなくても美味しく食べられる。

今はどんどん利用されなくなって、竹林は放置されて荒れたり、伐採されてしまったりしている。

竹と寄り添って生活してきた民俗文化を再評価するべきのように思っている。





2025年5月21日水曜日

食われるヘビ

 先日、犬との散歩の途中の小川沿いの道でコウノトリがヘビをくわえているのに遭遇した。

我々に気づいたコウノトリは、少し飛んで田んぼの中で一生懸命飲み込んでいた。

長いクチバシで長いヘビを飲み込むのも大変そうで、何度も下から跳ね上げてやっと上を向いて飲み込んだ。

コウノトリにとってヘビは大切な食料である。

ちょうど、ヒナも誕生しているので吐き戻して与えねばならないのだが、このヘビは相当消化されていないとヒナの餌には無理だと思った。

ヘビはコウノトリだけで無く、トンビやカラスやイノシシなどの雑食系野生動物にとっても大事な食料となっているようだ。


ヘビのそういう弱い面はあまり語られることは無い。

「ヘビににらまれたカエル」のように強い方が強調される。

動物番組でもネズミや小鳥などの小動物や卵を襲う場面がよく出てくるが、ヘビ自体が食べられている場面はたまにしか出てこない。

アナコンダのような大蛇になれば、イノシシや人でさえも飲み込まれてしまうし、毒蛇は咬まれただけで死んでしまうこともある。

私は奄美に村落調査によく行っていた関係で、ハブに一番警戒して必ず調査には長い皮ブーツを履いていった。

当時でも、ハブに噛まれた人がいたが、ある人は咬まれた膝から下を切り落としていた。

その人を見ることだけで、ハブの恐怖を感じざるを得なかった。

ところが、そのハブも捕獲すると買い取ってくれるようになって、良い収入源になるので多く捕られていったようだ。

恐ろしい反面、実はサトウキビや農作物に被害を与えるネズミを捕ってくれて役に立つこともシマの人は語っていた。


ハブは本土から来た画学生が、シマの人に殺されて捨ててある大きなハブを皮をむいて焼いていたので、一度だけ食べさせてもらったことがある。

シマの人は食べたり焼酎漬けにする人は殆どいなかったようだ。

ハブは見つけたら殺すのが原則だったが、神の遣いとしての信仰の対象にもなっていた。

安全のためにやむなく殺すけれど、あえて食料にはしなかったのだと思う。

本土ではマムシが焼酎に漬けられて薬用酒になった。

祖父が捕まえてきて生きたままのマムシを、焼酎の入った一升瓶に入れていたのを見たことがある。

山間部の人は皮をむいて干して食料にもしたと聞いたこともある。


ところが、私が今住んでいる村の人は、嫌がったり恐がったりする人が多い。

山から大雨になるとマムシが流れてきて、道路でひかれていると近く棲んでいることを非常に恐がる。

また、村の草刈り作業で遭遇したら、すぐに草刈り機で退治される。

確かにマムシに噛まれて入院した人もいて危険ではあるが、ネズミやモグラを捕ってくれたりして役にも立っている。

何よりも、ヘビ自体は村にいるコウノトリの大切な食料となっているのだ。

昔はしょっちゅう見かけたヘビもあまり見かけなくなった。

以前は、庭はもちろんのこと、二階のベランダにもいたことがある。

隣の竹藪が無くなった影響が大きいが、家の周りの田畑で餌となる小動物や蛙などが減ってしまったからだろう。

ヘビになじみが無くなったこともあって、近所の小学生が毒を持つヤマカガシをペットにしているのを知って驚いた。

ヘビはむやみに恐がる必要は無いが、用心するに越したことは無い。

ヘビは食う立場でもあり、食われる立場でもあるという大切な食物連鎖の真ん中にある。

そして、あらゆる所に現れ生命力が強いから、昔からヘビを信仰の対象としてきたように思う。

ヘビを毛嫌いする人が最近は多いが、共存すべき大切な生き物であることも確かだと思う。



2025年5月19日月曜日

カルト、新宗教、学校教育

 昼のテレビ番組でオウム真理教の被害者家族のことを特集していた。

その中で、親子関係を断絶させることが、カルト集団にとってもっとも重要なこととされていたと聞いて、はっと思った。

学校教育と大差ないじゃ無いのか?

学校教育は自己実現の下に、自分の意思によって家業から離れたり、親の意向とは違っても希望する進学を行い、希望する職業に進むことを暗に奨励した。

確かに、それによって多くの生徒が職を得て豊かな暮らしを甘受できた。

しかし、一方で学歴社会に適応できない多くの引きこもりを生じさせもした。

そして、先日の東大生を刺傷させたように、過度な進学教育を理由にして犯罪を犯したり、もっと以前には大学受験失敗者の殺人鬼も生んでしまった。

カルト集団と違うのは、親自身も学校教育の信者であり、その支援者であったり熱狂的に学校教育の学習させる実践家でもあったことだ。

そして、学校教育は会社等にリクルートさせれば、後は学校そのものとは無関係になる。

ただ、教育社会学者が言っているように、社会が学校化しているのでその延長上に生きていることと同じだろう。

カルトは学校教育と一線を画してはいるが、教団とは場合によって一生涯関係は続くのとある意味では一緒かもしれない。

日本ではカルトは反社会的な宗教集団と見なされているのが普通だろう。

つまり、学校教育は近代化の中で社会の根幹を担い、カルトは近代化で生じた歪みを受け入れる反社会的な部分を担っている。


反社会的で無くて、伝統的な仏教やキリスト教徒とは異なる新宗教団体も多く、近代化に伴って生じた宗教と考えて良いようだ。

実は熱心な「生長の家」の信者が身近にいた。

夫が戦死して女手ひとりで娘二人を苦労して育ててきたが、同居していた娘の夫が初婚、再婚とも亡くなってしまうという経験の持ち主である。

父親を亡くした孫にもその信仰を奨めて一時活動にも参加させたが、信者とはならなかった。

この孫は、学校教育での大学受験に失敗した後、半世紀も引きこもって72歳で亡くなってしまった。

彼は学校教育でも新宗教でも、そして医療にも救いを得られなかった。

現在多くの人が引き籠もっているというが、学校教育、新宗教、医療でもない救いが必要な気がする。


また、子どもに障害を抱えた母親や孫に障害を抱えた祖母(母親の叔母)が熱心に「真光」の信者になったのも身近で見ていた。

その母親はその信仰活動の最中に突然心臓発作で70歳の若さで亡くなり、一緒に活動していたその叔母も3年後に膵臓癌で亡くなってしまった。

その障害を持った母親の娘も祖母の孫も学校教育では普通校に通うことは無かった。

特に、母親の方は子どもが小さい頃から遠くの特別支援学校に通わせるのに付き添って苦労を重ねていた。

だから、私は彼女が信仰することによって支えられていたとは思っている。

ただ、子や孫のことを人一倍心配するのに、自分の心身を案ずることができなかったと思っている。

学校教育でも現代の医学でも克服できない障害で悩む人の受け皿に新宗教がなっていることも確かだろう。

二人とも短命に終わってしまったことから、新宗教で必ずしも救われたとは言えないと思える。


学校教育の無自覚な信者として、大学受験でも就職でも成功してきた人たちが退職後に行き詰まっているの最近マスコミやネットで話題になっている。

退職して家や地域で暮らすのに、卒業した学校の肩書きはなんの役にも立たないし、却って邪魔になったりする。

地域では人によって受けた学校教育内容も違うし、就職も様々だからだ。

官庁や企業のように学校教育のシステムの延長上では無く、学校教育とは異なったシステムを地域社会では維持せざるをえない。

だから、学校教育信者として生き続けるには、仕事を続けていくのが一番良いのだ。

そういう私も学校教育で学んだ学問やスポーツ、音楽をいまだに続けている。

ただ、研究では学会とは殆どかかわりをもっていなくて、本当の趣味になっている。

また、スポーツや音楽は学生時代に部活で指導を受けたものではなくて、社会教育を通して自分が主体的に取り組んできたものである。

実は父方の祖父は家業優先で、学校教育に対する信仰をあまり持っていなかったので、その影響も受けている。

完全退職した今は、学校教育で得た修士の肩書きも全く無縁だし、資格や免許も全く利用していないか、そもそもなかったものもある。

ある意味で、学校教育の信仰から、やっと距離をとって自由になれているとも言える。

それは学校教育の信仰に支えられている政府からも、ある程度は自由でいられるということかもしれない。

退職後に行き場を失って引き籠もってしまった方は、その学校教育信仰の呪縛から解き離れることも一つの解決になるような気がする。










2025年5月17日土曜日

日本国宝展大阪へ行って

先日(5/15)大阪市立美術館に行ってきた。

家内は前売り券を買っていて、いつ行くかは平日に休みが取れる日となっていた。

それが先日で、私は通院の日になっていたが、前日の午前中に受診を済ませておいた。

実は前日に伯母の葬式があったのだが、家族葬であったこともあって会食は断ってプールに行って体調を整えていた。

私たち夫婦はここ1年間鉄道を利用したことが無く、しかも大都会に行くのも1年ぶりだった。


上郡駅までは自家用車で行くのだが、駅前では少し離れたところに一日100円で置くことができる所もあるが、遠いし草だらけである。

駅に近い400円の白線の消えてしまって、スペースの番号も分からない無人駐車場で駐車票とお金をボックスに投入して駅に向かった。

私は午前中は特に頻尿で、以前大阪に新快速で行ってトイレを我慢して辛い思いをしたので、トイレの利用がしやすいスーパーはくとを往きだけ利用している。

前回乗ったときには全席指定席では無かったのだが、今回はそうなので早速上郡駅の自動券売機で指定席を購入した。

改札口でさっそく失敗をやらかしてしまった。

指定席特急券を改札機に投入してしまったのだ。

私は乗車料金はICOCAを使うので、乗車券を買っていなかったのでそれを求められたのだ。

要するに特急券を通す必要が無く、スマホのICOCAだけ使って入れば良かったのだ。

たまたま駅員さんが通りかかっていたので助けられたが、殆ど乗る人がいなかったので他に迷惑はかけずに済んだ。





席はトイレのある1号車近くに並んで座る席が2号車にしか無かった。

ホームで2号車出入り口と書かれた位置に待っていたら、はくとが停まるとそこにはドアが無く3号車のドアに行かねばならなかった。

そもそも、若い番号の号車は後尾であって先頭ではなく、窓側方向の感覚もずれていた。

私たちの席は山側の席で、明石から須磨までいつも楽しみにしている海が見えづらい席だった。

ただ、家内は列車の中では殆ど眠っているので気にしていない。

私は音楽を聴きながら車窓を眺めるのが好きで、はくとの無料Wi-Fiを使おうとしたがうまく繋がらず、auのインターネットを使った。

以前は車掌さんが切符の検札に来たのだが、今回はそれもなかった。

走り出してしばらくして、竜野駅の手前で緊急停止した。

踏切で緊急ボタンが押されていたということで、5分後に何もなかったということで運転を再開した。

どうも、いたずらがなされたらしい。


大阪駅で乗り換えて大和路快速で天王寺駅に向かった。

私は学生時代に名古屋と東京近辺の大都会生活を経験しているのだが、もうこういう都会の雰囲気には違和感しか感じない。

大阪は住んだことがないし、運河のある景色は独特で何度来ても懐かしさを感じない。

天王寺駅を降りるのは初めてで、公園口から市立美術館までは「てんしば」という芝生の公園が続いていた。

平日にも関わらず大勢の人がレストランや芝生の上で食事を楽しんでいた。

市立美術館では当日入場券を求めている人の長い列に驚かされた。

家内が前売り券を買っておいてくれたお陰で、すこし安くついたし並ばなくても済んだ。


美術館の中は人でごった返しており、時計の反対回りで見るように案内されるが、展示品にしがみついた人並みはなかなか動いてくれなかった。

私は展示品をじっくり見る気も無かったし、見てもその価値がよく分からなかったので、人垣の後ろからその隙間に見える作品を眺めた。

展示室ごとに一回りして見るべきことが分かっていなかったので、肝心の若冲の作品を見落としていたのだが、追いついてきた家内に言われて戻ってしっかりと眺めた。

若冲の『秋塘群雀図』は粟の穂に群がる雀を描いていたのだが、もち麦の穂に群がる雀に手を焼いていた自分には、作者は農民のいらだちを知らないと思った。

さすがに「群鶏図 」は見事に思ったが、雄鳥がこんなに群れをなしているなんてあり得ないと思ってしまった。

私は日本の芸術を理解する素養を持っていないように自覚した。

ちょっと前に岡山でデジタル再現した「洛中洛外図」も見てゆっくりと鮮明な絵を見ていたので、本物の絵には魅力を感じなかった。

とにかく、どの作品に対しても高い入場料を払っているのだから、じっくり見なくては損だとばかりにへばりついているので、あえて近づいて見るのを躊躇われた。

教科書の写真で見ている作品が直に見られる感動はそれほどでも無く、火焔式縄文土器を立体的に見られたことの方が興味がわいた。

また、薬師寺東塔の水煙は写真撮影もできて撮っておいた。

鑑真和上の像も親しみを感じられて良かった。


もう最期の展示室を見終わって出口の方に行こうとしていたときに、ドスンという音が館内に響いた。

それは予想通り、人が倒れた音だった。

土産物売り場のレジの側で、若い女性らしき人が倒れていた。

これだけに人混みで、待たされる時間も長く、倒れても不思議が無いように思えた。

コロナの時のように入場人数の制限をしていたときの方が、ゆっくりと見られたように思う。

美術館や博物館を巡り歩くのは、巡礼のように心得て普段から体力を維持しておく必要があるようだ。


博物館を出てからいつもの遺影を撮ると称した記念写真を家内にとってもらった。

遠くでなじみの通天閣もバックにして、大阪にもこんな良い風景があるのだと見直した。

昼食は天王寺駅近くの居酒屋風の店にはいって海鮮丼を食べた。

安くて美味しかったのだが、さっきの芸術的な雰囲気とは相容れぬものだった。

本当は、どこかのしゃれた店で、日本酒を飲みながら懐石料理を食べられたら良かったのだろう。


帰りは新快速で姫路まで戻って、各駅停車で相生駅までいって乗り換えて上郡に戻った。

普段自家用車では家内は隣に座っているし、家のコタツでも隣に座っている。

電車で向かい合って座っていると、家内が老けてしまったことを感じざるを得ない。

たぶん、自分もそうなのだろうと思いつつ、こうやっていつまで出かけられるのだろうかと不安に思う。

でも、無理してでも出かけていくことが大切なことだとも思っている。







2025年5月15日木曜日

心を治癒する農作業

このところ近しい人の葬儀が重なってしまった。

おまけに、その葬儀の対応を巡って、もっと近しい人から「ボケ」と罵倒された。

関西人はアホという言葉は日常的によく使うが、「ボケ」という言葉はかなり特別なときしか用いない。

私は「ボケ」と言われた経験の記憶がこれまでに残っていない。

その言葉に対して怒りを通り越して、絶望を感じてしまった。

「ああ この人間とはもうお終いなのだ」と思わせる言葉に思えた。

言った本人はすぐに謝りの電話をしてきたが、許すことはできなかった。

それ以降「ボケ」という言葉がずっと頭の中を駆けずり回っていた。

ヤクザやチンピラから町でボケと言われても気にすることは無いだろう。

しかし、もっとも信頼していた人間から言われると、かなりのダメージとなる。


こんな時は家の中に閉じこもっていては駄目だと、翌日は一日農作業をすることにした。

午前中はまず、雀に多く食べられてしまったもち麦のしっかりとした囲いをこさえた。

そして、先日植えたサツマイモの苗に水を用水路からリアカーに大きなタライに汲んで与えた。

ポリマルチをしていないので、刈って枯れた草を苗に敷いてやったりした。

午後からはしばらく休んだ後で、午前の作業の続きをした後は、刈草を集めたり、また伸びてきた草を刈ったりもした。

そのほか、タマネギの取り入れや、もう一度サツマイモの水やりをしていた。


近所の畑では多くの時間を畑で過ごすご婦人がいて、そこに友達もやってきて話し込んだりしている。

退職した年配の男性も午前中や夕方には畑仕事に精を出している。

私は一日中農作業することは滅多に無かった。

しかし、気が滅入るときはこうして農作業する方が気が楽になる。

そして、身体も疲れるので夜はぐっすりと眠れるのだ。

朝起きて食べた味噌汁は苦く感じたが、昼食は美味しく、夕食の第3のビールはたまらなくうまかった。

前日に受けたダメージは夕方には回復していた。

「ボケ」と言った相手を許すことはできないが、もうどうでも良くなった。

翌日、ラインを通して再び謝罪の言葉を受けた。

自分の感情を抑えきれなかったことが書いてあった。

私よりも歳が若いのに、年齢のせいにはできないだろう。

むしろ仕事だけに生きる暮らしの中で、心が疲弊しているように思えた。


私は特別支援学校の勤務が10年以上と長いが、作業学習では農業を担当することが多かった。

生徒達と農作業を通して、ふれあうことも楽しみの一つになっていた。

普通校との交流授業でも作った落花生を一緒に収穫したりした。

農作業が心を癒やし、人との関わりを楽しくさせてくれる。

それは作物の命と生長を身近に感じられているからだと思う。

にっくき、鳥や虫もいるのだが、それはそれで闘う相手に不足は無い。

天候や生活の事情からマニュアル通りには行かないのも、また次への意欲にも繋がる。

好きな水泳や歌の弾き語りは一日中することはできないし、歌は滅入っているときには歌えない。

こういう滅入っているときには一日中農作業をするに限るのだ。

ただし、真冬や真夏は健康を害するので注意が必要だ。

そういう時は時間を限って、他の楽しみと組み合わせれば良い。

都会の人が、高いお金を出しても市民農園で農作業をするのも理解できる。

薬やサプリに頼るよりも、農作業の方が心の治癒には役立つように思う。





2025年5月13日火曜日

背負い草刈り機の威力

 エンジン草刈り機は30年くらい前に、中古で購入して以来ずっと使い続けている。

農作業や村作業、庭の草刈りには欠かせない。

自然農法を指向する者としては心苦しいのだが、大鎌やノコギリ鎌、曲がり鎌なのを駆使しても、最期に頼るのは草刈り機だ。

それでも、少しでもエコに徹しようと、値が張るマキタの充電式草刈り機を購入して畑仕事やちょっとした村作業には用いている。

充電式草刈り機は音が小さいので、音楽を聞きながらの作業もできる。

ただ、一回の充電で30分持てば良いところで、バッテリーは二つあるのでせいぜい1時間が限界なのだ。

そうすると、大がかりな村の道作りなどの作業には使えない。

何よりも、赤穂の実家の畑は荒れ放題で、とても充電草刈り機では全部刈ることができない。


それらに対処するために自走式草刈り機も考えたが、性能の良いのは高額であるし、背の高い雑草を刈るのは困難である。

やはり、大規模農家も採用している背負い式のエンジン草刈り機の購入を決めた。

4サイクルなので今までの混合油とは違いガソリンのみが燃料となる。

小型耕運機も燃料はガソリンなので、混合油は使う必要がなくなった。

これで、混合油を自分で調合する手間は無くなったのだが、村作業で補給されるのは混合油なので、補給できなくなった。

まあ、村作業で使われるガソリンはせいぜい1リットルほどなので、200円ほどの自腹というわけだ。

それより何よりも、作業が楽なのだ。


実家の荒れた畑では大量の草を刈り倒すのにこつがいった。

今までの草刈り機は両手で刈れたのだが、背負い式は右手はスロットルを持っているので左手しか使えない。

ある程度草刈りのポールを腰に密着させて身体全体で動かし、左手の負担を軽くする必要があった。

それでも今までの草刈り機よりも、疲れはずいぶん減った。

そして、一番威力を発揮できたのは村作業で傾斜のついた道路の斜面の草刈りだ。

従来の肩下げや手持ちの草刈り機に比べて斜面での作業が効率的で楽なのだ。

また、背負の草刈り機を持っている人がもうひとりいたが、2サイクルなので馬力が弱い。

若い人よりも速く、稲作農家の人よりも多く作業することができた。

私のように休耕田を借りて畑をしている者の方が、大型トラクターを所有して農業倉庫まで持っている人よりも仕事ができるのは愉快だ。

作業に出てきているのは、私のようによそから転入してきた者は稀で、殆どが地主の跡取りである。

背負い式草刈り機は現代版の水呑百姓の意地を示すことができる優れものだと思った。

2025年5月10日土曜日

人の米泥棒、雀の麦泥棒

世間では、米が高騰の折、米泥棒が頻出している。

赤穂でも買って保管しておいた玄米が盗まれたことも聞いた。

幸い、近隣で米泥棒の話は無い。 

ところが、このところ家の裏にある畑には雀が多くやってくる。

撒いている米糠を目当てにしているのかと思っていたが、そうではないらしい。

ちょうど今、去年の秋に撒いたもち麦の穂が出ているのだ。

まだ、熟していないのだがついばんでいる。

去年も同じように植えたのに被害は無かった。

今年は小麦の栽培を近くでやっていないので、うちに麦泥棒が集中しているようだ。


去年は高黍(コーリャン)を植えて穂が出たときに、野鳥がやって来てついばまれたので、防鳥の黒いテグスを畑じゅうに張り巡らした。

そのお陰で野鳥や烏の被害が少なくはなっていた。

そのかわり、切れやすいテグスは垂れ下がって作物に紛れてしまい、今度草刈り機で高黍やもち麦の茎や草を刈ったときに絡まってしまった。

充電草刈り機を使っているので、黒テグスが巻き付くと、トルクも弱くてすぐに回らなくなってしまった。

一度刃の部分を分解して、絡まった黒テグスを外して直していたのだが、今度また同じように絡まってしまった。

分解するとかなり摩擦で溶けて、回転軸のパーツにこびり付いてしまっていた。

それをそぎ落とすのは大変な作業となった。

鳥に食べられるのは癪なのだが、特に雀などはずいぶん減ってきているので、収穫量が減っても今年は我慢しようかと一時は思った。


雀による被害


ところが、ふともち麦の穂を見てみると、殆ど食べられてしまっている穂がいっぱい有る。

これではせっかく作った意味が無くなってしまう。

雀は農家に遠慮などしない。

少しはあげても良いという気持ちなど、知ったこと無く全部かっさらおうとする。

私はとりあえず目の粗いネットをもち麦の穂のうえにかけて覆った。

しかし、その網の目もかいくぐって食べている。

完全にネットで覆うことができていないからだ。

そこでやむなく去年用いた黒テグスを張り巡らした。

ところがこの黒テグスも役に立たない。

雀は地面にも降りるし、黒テグスやネットの間から入り込んだり、弛んでるネットの上から実をついばんでしまう。

最後に残ったのは、寒冷紗であり、それを穂の上に覆うようにかけるしか無かった。

これも気休めに過ぎず、雀はいたる所からの隙間から入り込んで、食い尽くしつつある。


これから、鳥の好きなコウリャンや落花生も畑で育っていく。

トマトなどもカラスや亀などが好んで食べに来る。

幸い、イノシシやアナグマはやってこないのだが、それなりの対策が必要だ。

私の子どもの頃だったら、イノシシや鹿だけでなく、キジや山鳩も捕って食べていたし、

雀さえも食料にしていた。

実は祖父が猟をしていたので、たまにお裾分けを頂いていた。

今は野鳥の狩猟は禁止されているので、防御策を考えるしか無い。

大規模農家は別として、家庭菜園的にやっている人は、鉄パイプで枠を作ってネットで覆ってしまっている。

イノシシや鹿はジビエとして駆除した獲物が食べられているのだから、害をなして食用になる野鳥は絶滅のおそれが無い限り食用としても良いように思う。

人の米泥棒は警察が捕まえて賠償させられるのに、ひたすら守りで対策せねばならないのが雀の麦泥棒でたちが悪い。

昔は畑の側に小屋を建てて捕まえたり、追っ払ったりしていたのだが、これからはネットやテグス寒冷紗で防御するのも仕方ないと諦めるしか無いのが悔しい・・・・・










2025年5月8日木曜日

想い出と気質を分かち合う絆

 急に数えの80歳で亡くなってしまった父方の叔母の葬儀に参列した。

叔母は息子夫婦と孫5人と一緒に暮らしていた。

本人自身も5人兄妹の中で育ち、結婚するまでは「オモヤ」と言っていた本家を離れることは無かった。

そういう賑やかな環境にいた叔母にとって、入院は辛いものだったらしく、携帯電話で家族や親戚に電話をかけ続けていた。

だいぶ前から癌を患っていたのだが、認知症が進行して記憶も不確かなものとなってしまっていた。

私にも電話があって、お見舞いに行ったことがあったが、その時はまだ大丈夫に見えていた。

しかし、その癌は5年生存率も低く、突然に死をもたらしてしまい、叔母に会うのはそれが最期となってしまった。


私はその叔母には幼い頃に世話になっており、歳も13歳ほどしか離れていないので、ねーちゃんと呼んでいた。

一番鮮明に残っている幼い頃の想い出は、その叔母が独身の頃に住んでいた本家にしばらく預けられていた頃のことだ。

その本家は叔母の父母と兄夫婦とその娘の5人暮らしだったが、兄夫婦は家業である船の運搬業を営んでいて留守が多かった。

私はやんちゃで年子の弟に焼き餅を焼くこともあって、その本家に長く預けられることが多かった。

私は大好きなイトコの姉や祖母やその叔母が可愛がってくれたので、その家にいることが楽しかった。

だから、母親から帰ってくるように電話で言われたときに「帰らない」と言ってしまった。

すると、母は怒って「帰らなくて良い」と突き放したので、帰らないつもりになっていた。

それを叔母は案じて私を説得して、家まで汽車とバスを乗り継いで送り届けてくれた。

そのことを叔母も憶えていて、以前にそのイトコの葬式の時に話して懐かしんだ。


無事葬儀が済んで、出棺し火葬場でお別れしてから、集まってきたイトコやその親と食事をしながら話をする機会が生まれた。

私の父方のイトコは私を入れて11人いたが、一人は4年ほど前に亡くなった

今回参列できたのは喪主を入れて7人だった。

因みに私の父の葬式の時には、10人集まることができたので、それ以来の人数だった。

今回は亡くなったイトコの夫、息子夫婦、娘と子どもも来てくれた。

殆どのイトコやその子どもも叔母に可愛がって貰っていたので、無理しても参列してくれた。

一番遠くは小田原あたりからで、名古屋からもイトコが母親も伴って来てくれた。

亡くなった叔母との思い出だけでは無く、祖父母との思い出や多くのオジ・オバの話もすることができた。


その会話の中で初めて知ったのだが、名古屋のイトコ兄妹は今回一緒に来ている母親の仕事が忙しくて、私と同じように本家に預けられていたのだった。

本家の近くに住んでいたイトコ兄妹も、親が忙しい牛乳配達の仕事をしていたりしたので、同じように預けられていた。

つまり、祖父母と小姑であった叔母、そして本家の娘に多くのイトコが世話になっていたのだった。

私とそのイトコには本家で過ごした想い出を語り合う仲間でもあって、まるで半世紀前に溯ったようだった。

そして、亡くなったイトコの息子とも初めてゆっくりと話をしたが、やはり似たような経験をしていた。

今回参列したけど食事せず帰った弟や、参列しなかった2人の弟には本家に預けられた経験が殆どなかったことも確かだった。


もう一つの共通性は非常に頑固な気質を持っていた祖父と、子や孫に対する深い愛情を持っていた祖母の気質を受け継いでいたことだ。

それは本家に滞在していたときに経験しているが、自分の父親にも受け継がれていた。

今回の喪主だけが親が祖父母の娘だったが、他のイトコの親は全て祖父母の息子だった。

だから、喪主以外は自分の父親から厳しい躾と家族愛の大切さを叩き込まれていた。

だから、喪主姉弟には強い家族愛は見られたが、自分に対する厳しさはあまり見られなかった。

同じ父方のイトコでも、そういう気質の共通性と違いも生まれていた。


おそらく、こういう機会は今後二度と無いだろうと思う。

今後、ただひとり残った叔父やオジに先立たれた連れ合いの葬式では、これだけの親戚は集まらないだろうと思う。

だけど、それぞれの場所で、自分の幼い想い出と気質を同じくする仲間として生き続けていることを、今回叔母の葬式をもって知ることができた。

叔母は死をもって私たちに、普段会うことが無いけれど、こういう深い絆で結ばれていることを教えてくれた。


2025年5月5日月曜日

ローテクのリアカー再活用


 

私の父は結局車の運転免許を取らずに亡くなった。

仕事には路線バスや電車以外に、自転車やバイクを使ったりしていた。

田畑が家からかなり離れたところにあったので、自転車に鍬や鋤を乗せて通っていた。

さすがに稲を作るにはリアカーが必要で、がっしりした鉄製のリアカーを使っていた。

そのリアカーを自転車やバイクで引っ張っていたのだが、今から思うと当時は車も少なかったからできたのだと思う。

そのリアカーは私が貰って一時は同じようにバイクの後ろに付けたりしていたが、主に人力で引っ張って農作業に用いていた。

タイヤがパンクして以来使うこと無く、そのパーツは立てかけて棚にしたりしている。


まさしく半世紀以上前のリヤカーの残骸が現在の家にも残っている。

これには、父と一緒に籾の入ったドングロスの袋を運んだり、米作りの想い出がある。

それと、赤穂の古くて狭い家から新しい家に移るときに、父と一緒に引っ越し作業をしたのもそのリアカーだった。

今は、軽トラックを持っているので必ずしも必要では無い。

ちょっとした物を運ぶには一輪車で十分である。

ところが、重かったり、嵩張ったりする物を運ぶのに、軽トラでは行けない畑の中とか、浜辺などでは以前からリアカーが欲しいと思っていた。

学校でも校務員さんは植木の作業や草刈り作業にはリアカーを用いている。

軽トラは学校周辺の歩道や学校内の植え込み、運動場で使うには適していないからだ。

最近はアウトドア用のキャリーワゴンもあるが、起伏の大きい地形や重い物を運ぶには適していない。

やはり、農作業などに使うにはリアカーが最適だと思った。


そして、もう一つの目的は、SUPの色んな道具を運ぶことだ。

以前は、浜辺まで軽トラで行けたのだが、そこが進入禁止になってしまった。

駐車場から離れた浜辺まで色んな道具を運ぶにはリアカーが最適だと思った。

今のリアカーはアルミ製で軽いし折りたたむことができるので、軽トラや大きめの自家用車に積み込める。

砂地や石ころの多い浜辺でも、タイヤが大きいのでスムーズに移動できるのだ。

そして、最大積載重量が150kgというのが最大の魅力なのだ。

場合によって人を乗せてあげることもできる。


注文して配達してきたリアカーを最初に使ったのは、大量の水で薄めたハイポネックスだった。

リアカーに大きなタライを乗せて、用水路の水を柄杓でくみ上げハイポネックスを混ぜて、畑の側のあぜ道を押していって、作物にかけていった。

夏場になって大量に水が必要になったら、リアカーでエンジンポンプやホースを乗せて用水路からの水を利用するつもりだ。

去年までは軽トラで行っていたのだが、機材の上げ下ろしが面倒だし軽トラの置いておく場所にも困った。

リアカーは確かに力がいるが、手軽で便利な上、経済的なのである。

近所の人は大きめのジョーロを抱えて用水路から何度も往復している。

リアカーで水を運べば何回も往復する必要が無い。


自治体によっては非常時のためにリアカーを置いてあるところもあるようだ。

燃料や電気が無くても動くし、ノーパンクタイヤであるのでどこでも行ける。

近所の農家はどこに行くにも軽トラを使っているのだが、近いところにちょっとした道具を持っていく程度ならリアカーで十分だ。

細い路地の生け垣の枝打ち作業にも使えるし、大量のゴミ出しなどにも使える。

この頃はエンジンや充電式の小型運搬車も売り出されているが、それに比べるとずいぶん安いし折りたためば保管場所もいらない。

どんどんハイテクの機器がもてはやされている中で、ローテクながら改良を加えたアルミ製折りたたみ式リアカーとして生き残っている。

そういえば、ドローンを打ち落とすのに第一次世界大戦で使用した飛行機が有効だと聞いた。

ハイテクに対抗できるローテクも時代を超えて生き残っていけるのだ。

だから、ローテク扱いにされる我々世代も、それなりに変身して生き残っていかねばならない。




2025年5月2日金曜日

人はカネ(賃金)のみに生きるにあらず

私は去年65歳になって、年金を満額貰えるようになったので、賃金を得るための仕事からは遠ざかっている。

仕事が生きがいで続けている人がたくさんいて、生き生きとしているのも知っている。

だけど、自分にはやりたいことや、やり残したことがあり余るほど有る。

教師をやっていた頃にやりたくても我慢していたことや、本来人が暮らしていく上で大切だと思うことを死ぬまでやり続けたいと思っている。

そもそも、そういう暮らしがおかしくないと思うのは、奄美の与路島に学生時代に研究で通っていたからだと思う。


与路島では正規雇用で働いていたのは、学校職員、郵便局員、発電所職員(後に廃止)くらいで、現金収入は畜産業や店舗で得る人が多かった。

学校の職員は外部の人が殆どであり、郵便局員も以前は与路の人が主力だったが後には外部の人が主力になったりした。

臨時に土木作業や建築作業の仕事があったり、非正規の常勤仕事も少ないがあった。

また、生活保護家庭が多かったのも確かである。

店舗が多かったのは、荒天で船が何週間も来ない時があるので、備蓄の意味もあった。

どんなに品が不足しても値段を上げることはないし、目が不自由な人が店主を務められるくらい思いやりがあった。

確かに家の作りは簡素ではあったし、風呂の無い家もあった。

しかし、食生活は決して貧しくは無かった。

なぜなら、海や山へ行けば美味しいものは簡単に手に入ったからだ。


食料も自給自足をしようと思えば可能で、何せサツマイモが寒い時期を除いて植えて収穫の繰り返しができたし、以前はソテツの実や幹が普通に食べられていた。

海へ行けば、女性でもサザエやアワビが簡単に拾えたし、タコやカニなども磯辺で捕れ、季節によってはノリも採れた。

男は漁はお手の物で、釣りをするのが普通だが、潜って捕ったり、岸辺から銛で突いたりしていた。

また、放し飼いにしている山羊を特別な日に潰して食べたり、正月には飼っている豚がご馳走となった

有る商店では豚を農家から買い入れて、自分で屠殺して処理して販売していた。

また、特別な例だが、出産で死にかけていた飼育牛を仲間を組んで屠殺して、分け合って食べたりもしていた。


古くは焼酎も造っていたが、今は店で買っており、必ず家に置いておくべきもので、夜に訪問すると必ず出されるものだった。

夜に訪れてお茶を出したら帰れという意味にとられてしまうし、私は滞在場所で切らしていて青年団に叱られこともある。

年配の人は三線を弾けたし、若い人はカラオケの機械を担いで家々を巡り歩いたりしていた。

夜は焼酎を美味しい海産物などをアテに飲んで歌うのが楽しみになっていた。

昼間でも神人やユタを中心とした神事で、太鼓を鳴らして遊ぶことがなされていた。


そんな暮らしを何ヶ月も経験していたので、貧しくても楽しく暮らしていけることを知っている。

与路島で一番学んだことは、それほど金が無くても楽しく暮らせていけることだった。

実際に、よそのシマの出身の独身連絡船乗務員は、大卒初任給が14万円だった頃に1ヶ月4万円で暮らせると言っていた。

その人は与路泊まりと古仁屋泊まりがあって、毎晩のように懇意にしている人の家へ飲みにいったり、古仁屋のスナックに行っていた。

地元の人もスナックを開いたこともあったが、店主が酔い潰れてしまうので商売にならず潰れてしまった。

民宿は奥さんがしっかりしている人がやっていた。


そんな心地良い生活はここ上郡では無理なので、せめて好きなことをしながら生活したいと思っている。

日課としては、朝から夕方にかけて、犬と散歩したり、本を読んだり文章を書いたり、農作業、水泳、そして飲みながらの歌の練習だ。

季節によって、山菜を採ったり、海に貝を拾いに行ったりするが、一番の仕事は気候に応じた農作業だ。

夜は大好きな酒を飲んでしばらくして眠った後に、また起きて本を読んだりテレビを見たりしている。

これこそ、30年間我慢して働いて手に入れた自由な生活なのである。

確かに貯蓄と年金という金があっての生活だが、賃金を得るための仕事に縛られずに済んでいる。

ただし、村作業が年間では最低7回ほど有って、それには必ず参加している。

おそらく、資産家は気ままな生活が若い頃から可能なのだろうが、働いて賃金を得る喜びも知っているので資産家をうらやむことは無い。

もう、そんなに長くは生きられない老齢者にとってのせめてもの心豊かな暮らしは絶対必要だと思う。

そして何より、自給自足的な農業や山野河海の恵みを得ることによって、本来の人間らしい生活に近づけるのが私の理想であり取り組みなのである。












2025年4月29日火曜日

米が高けりゃパンの耳

 私が家内が焼いてくれたパンは、パンの耳を第一に食べるというと、「奥さんに白くて美味しいところを食べて貰ってるのね」と言われる。

とんでもない話だ。

家内自身はあまりパンの耳は好きではなさそうだが、私は焼きたてのパンは耳の部分が一番美味しいと思っている。

米高騰の折に、自家製のパンを焼くことが復活した。

パンは糖尿病にはあまり良くないので、焼いて貰っていなかった。

ところが全粒粉のパンなら悪くないと言うことで、全粒粉のもち麦を手に入れてこのところずっと自動パン焼き器で焼いて貰っている。


今は米高騰の対策だが、かつて学生時代は耐乏生活で欠かせない物だった。

パンの耳を普通の食パンを買うついでに30枚ほど5円で買った。
当然、食パンよりパンの耳を買うのが目的で、パンの耳が置いてあるのを見計らってその店に入った。

恥ずかしいので食パンもついでに買ったが、パン屋さんはその目的は見透かされていた。

当時、同じようにパンの耳を買う人も他にいたので、ある意味では争奪戦だった。

毎朝、パンの耳を2枚焼いて食べるのが日課であった。

夏場はカビが生えるので、卒業生から貰った冷蔵庫で大切に保存していた。

当時は仕方なく食べていたのであって、金があるときにはフランスパンを買って食べた。

私はこのパンの耳と昼食の冷や奴とご飯で耐乏生活を乗り切っていた。


今は当時ほど倹約する必要が無い。

高い米を買わされるのが癪なのだ。

政府、JA、農家がもたらした米危機に自分なりに強かに乗り切りたいのである。

今年はもち麦を作って玄米に混ぜて食べたのだが、家内も私も腹痛を起こしてしまって、来年からは栽培をやめようと思っていた。

しかし、これから引き続きもち麦は作り続けることに決めた。

今パンに用いているのは買ったもち麦だが、これからは自家製のもち麦を使おうと思っている。

パンに必要な強力粉は今のところ買うしかないのだが、いずれ自分でも栽培してみようと思っている。





2025年4月27日日曜日

コウノトリの愛の結実と村(上郡町中野)

やっと我が村に愛の巣を築いて卵を抱き続けていたコウノトリにヒナが誕生した。 
以前に「コウノトリの愛の棲」で何度も何度も電力会社によって撤去されたり、暴風で吹きとんだりしたことを書いた。
今年は有志グループによって寄付が募られて、私が住んでいる村に巣作り用の鉄塔が建てられていた。
ところがせっかく建てられたのにそこには巣を作らず、隣村の電信柱に巣を作っていた。
しかし、結局電力会社がその巣を撤去して、巣作り用の鉄塔に木枝を移動させた。
コウノトリは移動させられても、その付近が気にいっていたのか近くの別の電信柱でまた巣を作った。
これもまたもう一度移動させられたので諦めて、巣作り用の鉄塔の方に卵を産んだのだった。

それから、しばらくその巣に卵を抱いているコウノトリが見られた。
座っているし、巣は木枝で覆われているので、頭の部分しか遠くからは見えなかった。
私はどこから一番見ることが出来るか知っているので、夕方に愚犬クロの散歩がてら覗きに行ったことがある。
その時には、鉄塔を設置するのをボラティアとして活躍して、その後も見守り続けている隣村のOさんに出会った。
実は今年はこのOさんの家の近くの電信柱に最初巣を作っていた。
彼女はスマホで動画を撮っていたが、知り合いなので声をかけた。
彼女は「そっとしてあげてね」と言っていたが、集落の人は普段通りの生活をするだけだった。
ただ、巣作り用の鉄塔を建てているところに近いJAの物置場には、立ち入り禁止の立て札があった。
私もそれっきり散歩で見に行くことはしなかった。

コウノトリが抱卵し始めてから、近くの道路や公園で車が停められたり、ハイキング姿の年配女性を見かけることが増えた。
そんな折り、それと関係しているかどうか不明だが、その近くの村の公園の水洗便所が流れっぱなしになり村の自治会は12万円の出費を強いられてしまった。
そして、その負担として各家は2000円の負担を強いられてしまった。
その水洗便所を使わせないためにその公園には車侵入防止の障害物とロープが張られ、結局は便所は使えないように水道を止めてしまった。
本来は公園なので車を入れること自体おかしいのだが、そうすることで路上駐車が増えて通行の邪魔になってしまう可能性もある。
見通しの良い場所なのだけど、これから田植えの季節だからトラブルにならなければ良いと思う。
とにかく、色々とマスコミ等で報道されて以来、週末には車で来た見物客が増えて、狭い村の中にも入り込んできている。

この村周辺は過疎が進んで、子どもの数も減る一方である。
私の子どもが通った幼稚園も民間に払い下げられて、カラフルな工場に変身した。
閉園してからそこで開業していた「モリンガの里」は、幹線道路沿いのもと酒店跡に引っ越してそこそこ人気がある。
ただ、金、土、日だけの営業で、昼食時は開いていない。
こういう有志の企画やボランティアに頼るしか無いのが村の実情だ。
このコウノトリのヒナの誕生をきっかけとして、上郡町全体で村を盛り上げて欲しいと思う。
それは派手な観光化によってではなく、コウノトリの棲む自然豊かな場所として、ゆっくりその自然を味わってもらったり、子育てに住んでもらいたい。
それには、前回のブログで書いたように、春は春らしい景色が失われるようじゃ、コウノトリの棲む場所としては情けない。
また、産業廃棄物の最終処分場の設置やゴミの不法投棄問題を抱えている実情を多くの人に知ってもらって、自然豊かな上郡町を維持する応援をして貰いたいと思う。





2025年4月25日金曜日

春なのに冬景色

 

除草剤で枯れた畦と緑の田んぼ

田んぼは青々と草に覆われ、場所によってはレンゲの紫色がきれいだ。

それなのに、畦は茶色の枯れ草に覆われて、冬に逆戻りしている。

先日大型のトラクターに噴霧装置を付けて、除草剤を撒いているところ出くわした。

人手をかけずに畦の草を抑えるには除草剤が一番コストに見合うようだ。

この頃は、稲を自分で作る農家が減って、大規模経営の会社に委託している人が多い。

経営者によっては草刈り機を使って自分で刈ったり、シルバー人材に委託する人もいる。

この景色は扇状地になった集落の田んぼに限られてはいる。

しかし、つい最近までコウノトリが餌を取りに来ていたところでもある。


やがて、田んぼも耕され、水が張られてくると稲の苗が植えられるまで、全くの冬景色になる。

ちゃんと調べたわけではないので、専門家に調べて貰いたいが、除草剤で畦を枯らした水田とそうでない水田の生物棲息状態の違いを調査すべきだろう。

みんなに寄付を募って、営巣できる鉄塔を建てて、そこに実際にコウノトリは抱卵している。

その一方で、餌となる生物の数を減らしていくのはどうかと思う。

除草剤で蛙や蛇は死なないと思うが、食物連鎖で一番弱い立場にある昆虫類の生息場所が失われることは確かだろう。

それは結果的に強い立場にある動物の死にも繋がっていく。

別の場所のコウノトリ(2025/04/25)

これから外国から米を輸入すべきかどうか、議論がなされていくのだろう。
これまで安い野菜が中国から入ってきても、人気はさほど無かった。
アメリカの米が安全であるかどうか検討する必要があると思う。
以前から小麦に関しても農薬やポストハーベストの問題で、国産の小麦に拘る人もいる。
アメリカと同じような大規模経営の方式なら、規模において絶対太刀打ちできないだろう。
それに対抗できるのは安全で安心できて、美味しい米だと思う。
春に冬をもたらすやり方はそれにはなじまないように思う。









2025年4月23日水曜日

海豚の如く海へ!

 昨日からプールでフィン(足ひれ)を付けて泳いでいる。

予め使用の確認をとってあるが、都会のプールでは普通は使用禁止だろう。

以前は、学校のプールで生徒と一緒に泳ぐ時に、クラブで買っておいたフィンを付けて泳いだ。

生徒は滅多にフィンは付けないが、キックの強化にたまに使っていた。

自分は生徒のスピードについていくために用いた。

特にバタフライや背泳では役に立った。


実際に今回フィンを使ってみると、クロールではそれほど早いタイムで泳げていない。

むしろ、足に負担がかかって、重く感じられた。

やはり、バタフライの練習を始めてから、フィンの威力を感じ始めた。

キックにしろ片手バタフライにしろ、普段回すタイムよりも10秒ほど早く回せた。

そして、何よりもバタフライのスイムは50mを50秒をきって泳ぐことができた。

普段は軽く1分はかかってしまう。

しかも、それほど辛くは無い。

25mも20秒ほどで泳げてしまうし、楽だ。

背泳に関してもキックがしっかりと打てるので、早い回しで泳げるし楽に泳げた。


このフィンを練習で使えることによって、練習が楽しくなった。

先日は別のプールで隣の若い現役選手が練習に使っていて、その迫力に魅せられたが。

今度は私も彼の横で彼の泳ぎに少しでも近づけたらと思う。

これまでは糖尿病治療のために義務的に泳いでいたが、これからは楽しみでも泳げそうだ。

週3回といわず、週4回や5回もできるかもしれない。

そして、何よりも海で使うこともできる。

今まではSUPで泳ぐことはやっていなかったが、これからはオープンウォーターとしても楽しみで使えるし、シュノーケリングをしても良さそうだ。


これで、私は文字通り海豚に一歩近づいたことになる。

どうしても水泳は孤独で周りの変化に乏しい運動になってしまう。

水族館のイルカは芸をしているときは楽しげに見えるが、狭い水槽を泳いでいる様子は哀れにさえ見える。

深さはあるが広さでは人のプールに劣っている。

ただ、人もコースロープで仕切られたコースの中を行ったり来たりするだけだ。

水族館のイルカとあまり変わりは無いかもしれない。

海に出て初めて自然に生きる海豚に近づけそうだ。


















2025年4月20日日曜日

連れ添ってきたギターへの思い

 私が今も使っているフォークギターは中学校3年生の時に、友人と一緒に店に行って、彼に勧められて買ったヤマキのギターである。

因みに彼はベーシストで、高校卒業までバンドを組み続けた相棒だ。

彼は音楽性に優れていて、いつも彼の指導を受けていたのが実情だった。
1976年の高校文化祭で私のギターは、彼が完全コピーした"Here Come the Sun"で奏でられて、私が歌った。
その後は、私も志望したが落ちて彼だけが早稲田大の軽音楽部に入ったが、結局は研究者になった。
彼に勧められて買ったギターだが、他のアコギは触ったことが無かったのでその良さはよく分からなかった。
ネックが細くて弾きやすいギターだったにも関わらず、ボーカルに力が入っていたのでちゃんと練習しなかった。
だから、いつまでも上達しないままであった。
それでも、糸巻きを途中で換えた以外は、大切に使ってきた。

たまたま、知り合いの先生に見せたら、実は彼もヤマキのギターを大切持っているという。
しかも、彼のは当時でも10万円以上もする物で、今ではプレミアがついて何十万円もするという。
私のは23、000円で初心者向けだったので、大した値段はつかないと思うが、それなりに価値があるとは思う。
かつてはヤマハと並ぶくらいのメーカーだったらしいが、今は殆ど見かけなくなった。

私は前々から上級者向けのアコギが欲しかった。
というのも、以前に一緒に高校の文化祭でユニットを組んだ先生が、自分のギブソンのエレアコを使ったのでその音の素晴らしさを実感したからだ。
Martin、Gibson、Taylorなど海外の物も良いが、日本のK.Yairiが良いと思って、ずっと調べていた。
このところ、ギターの練習も頑張りだしたのだが、どうも音が悪い。
それもそのはずで、かれこれ5年以上も弦を張り替えていないのだ。
家内には音が悪くなったので、良いやつを買いたいと言っていた。
家内はピアノの調律で弾きもしないのにお金をかけていた負い目もあって、良いよとは言われていた。
しかし、いざ弦を張り替えて、元の良い音が出ると「これで良いか」と思ってしまう。
大してうまくも無いので、高品質のギターには申し訳ないように思う。

今は、昔ギターをやっていたが、若い頃は欲しくても良いギターを買えなかった世代が良いギターを買っているという。
その気持ちは凄く分かるのだが、良い楽器はそれなりに演奏できる人が、それなりの場で演奏ができてこそ活きる物だと思う。
同僚の先生も1000人近くの生徒の前で演奏したから、Gibsonの音質を活かすことができた。
今の自分にはそういう場は無い。
だから、古女房と同じで、自分相応の安いギターで良いのだ。
と言うと、上さんに「私は安いギターか」と怒られそうだが、それだけ想い出と思い入れがあるということだ。
上達して多くの人に聞いて貰える機会ができれば、特別にそれ用として買うことにして、これからもずっとそばに置いて弾いていくつもりだ。
1976年高校文化祭にて





今でも中学校から40年近くも大切に使っているのはこのギターくらいだろう。

2025年4月18日金曜日

全て「負ける」戦争が悪い?

このところ、東京大空襲などの無差別爆撃による市民虐殺の報道がなされた。

あたかも、戦争という天災であったかのように、悪いのは戦争であって無差別に爆撃したアメリカ軍では無かったかのようだ。

日本が先に真珠湾攻撃したので、何十万人もの市民が亡くなっても仕方無かったのだろうか?

だったら、ガザで行われているイスラエルの爆撃も戦争が悪くて、イスラエル軍が悪いのでは無い。

パレスティナのハマスがしかけて始まったのだから、ガザ市民が4万人以上も亡くなっても仕方ないのだろうか?

ウクライナで行われているロシアの都市部への攻撃も、ロシア軍が悪いのでは無くて戦争が悪い。

ロシア軍が勝手に攻めてきて、ウクライナ市民を殺戮しても、戦争したから悪いのでロシア軍は悪くないのだろうか?


戦争は負けなければ、戦争犯罪と呼べることをしても、責任を問われない。

何度も言ってきたが、日清戦争も日露戦争も日本人は悪い戦争などとは言わない。

近代日本をもたらした幕府軍と薩長土肥軍との内戦も悪い戦争とは言わない。

それによって築かれた政権は国体維持という形で残存している。

要するに戦争は悪いとか、しては絶対駄目と言っているのは、前に「負ける」が隠されている。

つまり、「負ける」戦争は絶対してはいけないのだ。

トランプ大統領はアメリカは命がけで日本を守るのに、日本はアメリカを守る必要が無くて不公平だと言っている。

では、「勝てる」戦争ができる国になって、アメリカを守ってあげられる国になって欲しいのか?

場合によって、広島長崎の借りを返されても仕方ないと思うのか?

「負ける」戦争反対の弱い国のまま、温和しく金を出せば良いだけなのだろう?


日本人は原爆や焼夷弾によって大虐殺を受けた国として、真に勝てる戦争にも負ける戦争にも反対しなくてはならない。

毎年繰り返される太平洋戦争の悲劇を伝える報道のあり方も変えるべきでは無いのだろうか。

まるで、戦争という天災のような悲劇が襲ってきたかのように報道するのは、本質を隠したままでいる。

そして、それは太平洋戦争で亡くなった多くのアジアの人々にも、同じことを強いることをも意味する。

全て戦争が悪いのであって、国家や軍隊では無い。

戦争に負けたから戦争被害の賠償金を払い続けただけだ。

ベトナム戦争ではアメリカ軍は勝てなかったが、負けなかったから賠償金を払っていない。

そういう現実もきちっと報道するべきだと思う。


そして、戦争で闘って亡くなった兵士には遺族年金が払われ続けた。

原爆は別として、無差別爆撃で殺戮された人の遺族には何の保障も無かった。

何よりも悲惨だったのは戦争孤児達だった。

戦死者の関係者に遺族年金を払うのは、こんどまた戦争が起こったら国民に兵士になって貰わないと困るからだけだろう。

戦争孤児の悲惨さだけを報道するだけで無く、元兵士の保障や遺族年金と民間人犠牲者の違いをしっかりと報道するべきだと思う。




2025年4月17日木曜日

日曜昼の細やかな幸せ

 家内とはこのところよく回転寿司に出かける。

以前は、いつも駐車場に車が溢れているのをみたり、実際入ってみて順番待ちが凄いのであまり利用していなかった。

たまに、すいている岡山児島のかっぱ寿司に行ったり、全国チェーンとは違う値段の高い回転寿司を食べたりもしていた。

最近よく行くのは東岡山にあるくら寿司だ。

ここも当初はいつも駐車場に車がいっぱいなので敬遠していたが、思い切って寄ってみると広い駐車場が奥にあった。

いつもカウンター席でもボックス席でも良いと受付すると、たいがいは待たずにカウンター席に座れる。

初めての時は混んでいたのでしばらく待たされてカウンター席になった。

時間帯にもよるが、ここはボックス席殆ど座ることができる。


家内は寿司が大好きで、たいてい二貫一皿を一つずつ分け合って食べるのだが、私と殆ど同じ数を食べている。

私はアサリの味噌汁を頼んだりするのだが、飲んでいると先に食べ進んで皿が私の方に溜まったりもする。

くら寿司は皿は投入できてうずたかく溜まらないのが良い。

家内は味噌汁を飲むと寿司があまり食べられないと言って頼まない。

その代わりガリが大根だと特別にショウガのガリを注文して多く食べている。

とにかく色んな種類のにぎり寿司が食べられてしかも手頃な値段だ。

家内は普段ため込んでいるポイントを使って、二人で2000円ほどで済ましている。

これだけリッチに食べてひとり千円で済むことは、スーパーの寿司弁当でもありえない。


家内が本当に大好きなのは、鳥取の村上水産の海鮮丼で、道の駅「きなんせ岩見」で大抵食べる。

このところ値上がりして回転寿司の支払いの二倍の値段がするが、魚介類の物が違ってしっかりと味わうことができる。

ただ、冬場は雪道が苦手なので鳥取には足が遠のく。

冬以外は月に一度ほど鳥取に出かけてここに寄るのが楽しみになっている。


子どもが成長して一緒に出かけなくなってから、家内とは日曜の昼には食事に出かけることが多い。

当初はドライブがてら道の駅で食事をすることから始まった。

私の好きなホルモンうどんは岡山の津山の道の駅「久米の里」から始まったが、最近は時間が良ければ津山のうどん専門店「千両」に行く。

家内はホルモンが苦手だし、肉そのものも好きでは無いので、普通のうどんを色々食べている。

私はホルモンうどん以外にも、そづり鍋うどんを食べるのが好きだ。

私には問題ないのだが、家内には塩辛いそうだ。

ここはいかにも昔からの古い店で、トイレも旧式である。

それでも雰囲気は親しみを感じさせてくれるので良いが、人気があって駐車場には入れそうに無い時もある。

好物のホルモンうどんは時間が無い時は近場で済ますことが多いのだが、まだ佐用には行っていないので今度行こうと思っている。


私の年金と家内の非正規の仕事の収入で楽しめるのはこの程度のことだが、いつかは海外旅行を夢見ている。

大学の同窓生は65才を過ぎても、乞われて高校教師を続けることを自慢げにラインに書いていた。

私は「新課程になって面倒なので、講師は断っています」と打ち込んだら、スルーされてしまった。

仕事に誇りと生きがいを感じている人には、私のような日曜昼に細やかな幸せを感じている生活など想像できないようだ。

私は老人仲間から演奏ボランティアやコーラスを誘われている。

ただでさえ、時間が無いのにこれ以上増やしてしまったら、肝心の研究が疎かになりそうだ。

まっ いっか~!


2025年4月16日水曜日

その後のHotel Californiaの人々

Radicoでアナログコネクションの聞き逃しを聞いていると、田中まこさんがEaglesのHotel California歌詞を訳して解説してくれていた。

だいたいの意味は知っていたのだが、改めて考えさせらる曲だと思った。
この曲は私が高校3年の時(1978年)に文化祭の野外ステージにメインボーカルで歌った曲だった。
弟のリードギターも完全にコピーできていた。
当時は歌詞の内容などあまり考えず、ただ当時のアメリカを表現しているくらいに思っていた。
この曲は後に、1990年頃に職員バンドを組んだ時にも、忘年会でバンド仲間と演奏して歌った曲でもある。
この時も、懐かしい名曲として披露しただけだった。

当時のアメリカは豊かな繁栄の中で踊り続けて、そこから逃れられないと思われていた。
しかし、そのアメリカの大統領が世界からむしり取られたと嘆いている。
アメリカが踊り続けている間、日本では過労死や過労自殺が広がり、若者が結婚さえしなくなっていった。
アメリカも踊り続けていられるのは一部となり、多くが忘れたはずのワインで気晴らししたり、ピストルで命を絶ったりしだした。
アメリカ全体がHotel Californiaの世界であり続けることはできなかった。

私たちはそのアメリカに憧れ、この曲に魅せられて、その真の意味も考えずに歌い続けていた。
ヨーロッパや中東で殺戮が繰り返され、アメリカと中国が貿易戦争を繰り広げているさなかに、万博という踊りが大阪で開催されている。


Some dance to remember,Some dannce to forget
この万博の中で、50年前の希望に満ちた時代を思い出し、希望の持てない今を忘れる。


You can check out any time you like, but you can never leave"

自由と平和が訪れると思ったのに、破滅的な欲望の中から抜け出せないでいる


そう今なら自分なりに意訳している。

2025年4月14日月曜日

水泳を通しての仲間作り

 私はこのところ、糖尿病対策として週に3回プールに通っている。

月曜は隣の市の相生市民プールで、水曜、金曜は地元の上郡町民プールだ。

土日は農業や家のことに使いたいので、週に3回なら月、水、金とならざるを得ない。

すると、月曜が上郡町民プールが休みなので、せっかく年券を買っていても使えない。

本来なら年券があれば、相生市民プールを全て泳げば良いのだが、そこは1ヶ月1万円の施設使い放題しか無い。

年金暮らしの身には、月1万円の出費は痛いし、泳ぐために金を稼ごうとも思わない。

仕方ないので、回数券を使って月曜だけ相生市民プールに通うことにした。


たかだか1回あたり500円のプール代を払うだけで、思わぬ楽しみが増えた。

練習で一緒になり話ができる水泳マスターズに出場している人ができたことだ。

この人はまだ働いていて、使い放題の会員だそうだ。

私より5歳も上だが、背泳に関しては全く歯が立たない。

子どもの頃から水泳を習っていたこともあって、クイックターンやバサロが綺麗にできるのだ。

私は相変わらずクイックターンが下手で、特に背泳の時には鼻に水が入って辛い思いをしている。

こういう人の横で泳ぐことができるのは励みになる。


何よりも嬉しかったのは、子どもが習っていた頃のコーチがまだいて話ができることだ。

私が地元の高校の水泳部顧問をしていた時の選手達が親となって、子どもが練習に来ているという。

なかには選手同士が結婚して、その子どもも親も練習を頑張っているという。

自分には孫がいないが、部活での教え子の子どもという水泳の孫がいるようで嬉しい。

そのコーチも長く水泳に携わってきて、親も子も教えることができているなんて、なんと素晴らしいことだと思う。

私は移動ばかりしていた教師なので、教え子の子どもを授業で教えた経験が無い。


また、現役の選手も練習に来ていて、その選手の選手仲間やコーチも知っていたりする。

若い世代とも話ができるし、応援もできるのだ。

そして、隣で練習している老齢の方とも、知り合った会員の人を通して話ができたりする。

老齢の方は熱心に4泳法を練習していて、私はその隣しか泳ぎ専門のコースが無い。

そのコースは時間帯が良いので独り占めして泳いでいる。

賑やかな練習する人の横で泳ぐのは、ひとりきりで泳ぐことの多い上郡町民プールに比べてずいぶんと励みになる。

本当は、小学生などの選手のそばで泳ぎたいのだが、そういう時間帯はコースを複数人で利用せねばならず、泳力が違うと泳ぎづらい。


教師にとって、クラブ指導はずいぶんと負担となるので、中学校では学校以外で行うようになってきている。

水泳などは冬場に温水プールで泳ぐ関係から、かなり前からスイミングスクールでの練習が多かった。

外部の練習スクールと学校のクラブとの連携も難しいところもあるが、努力すれば何とかやってこられた。

相生市民プールのコーチともそういう関係でもお世話になってきた。

プロ志向や進路に繋がる部活は別として、スポーツや芸術などを通しての部活は仲間作りには良い機会だと思う。

かく言う私は部活では無くて、ロックバンドで校内での仲間を作っていたのだからあまり偉そうには言えない。

でも、学校の文化祭では我々のバンドの仲間が活躍していた。

要するに、もっと柔軟に生徒達がスポーツや芸術に励むことができる機会を与えてあげれば良いと思う。

私は学生時代の部活で経験したことも無い水泳が、今は大切な仲間作りになっている。

教師にも柔軟に色んなスポーツや芸術に携われるような余裕をあげて欲しいと思う。





2025年4月11日金曜日

学童は55年前のそろばん塾以下?

 先日家内に頼まれて、勤めている学童の教室に家内が依頼されて買ってきた大量のおやつを運び込んだ。

教室の一室に、低い長机をたくさん並べて、40人ほどが学習したり、テレビを見たりするという。

児童達は胡座をかいたり、正座したりするが、足を伸ばすと前の人にあたって喧嘩になってしまうそうだ。

思い出したのは私が小学生の頃に通っていたそろばん塾だった。

家の近くに地域の集会所を借りて開かれたそのそろばん塾に、火・木・土の夕方通っていた。

合格した級によって時間帯が変わり、高い級になると時間が遅くなった。

そこには木製の低い長机があって、いつも正座してそろばんをはじいていた。

1時間近く正座するので、終わる頃には足が痺れてしまい、いつも立ち上がるにも苦労していた。

正座が何よりも苦痛だったが、隣の人との間は肘があたらないように広めにとられていた。

学童ではそんな余裕さえ無いようだ。


55年くらい前と同じ状況が、現代でも存在することに呆れるしか無かった。

家内に聞くと、狭い方が暴れずに済んで良いのだそうだ。

元気な児童を温和しくするには狭いところに閉じ込めるのが一番と言うことだ。

学年も異なる40人を3人の職員で面倒見るのだからやむを得ないのだろう。

私が特別支援学校で指導していたのは、学童より少し狭い部屋で児童や生徒は4~5人ほどで教師も3人ほどついていた。

よく、特別支援学校の児童・生徒の一人あたりの経費を事務長から言われたが、20年前当時で年間700万円ほどかかっていた。

また、放課後デイサービスも充実していて、多く利用されていた。

はたして、学童一人あたりの経費はいくらかかっているか、ネットで調べたら東京の中間帯で年間6万円の税負担だそうだ。

放課後の子どもの面倒は親が見るという考えで行くと、こういうことになるのだろう。


学童に来る児童は必ずしも貧しい家庭では無い。

両親が教員であったり、公務員や病院、施設関連とかで働いている人もけっこういる。

問題なのは高学年になると塾へ行ったりするのでやめていく児童と、そのまま残ってしまう児童がいることだ。

そこで明らかに学力の差がついてしまう。

学童でも職員が勉強をする手助けをするが、塾のようにはいかない。

そろばん塾はせいぜい1時間だが、学童は普段は3時間ほどだが、長期休暇になると長いと9時間にもなる。

これが先進国日本の実情だとしたら本当に憂うべき実態だ。

老人や障害者を手厚くするのは選挙権や支援団体の影響が大きいだろう。

学童の保護者は人数の少なさや、そういう組織力をもつことができずらいので、改善できないのだろうか。

これから社会を担うべき人材の育成が、このようであって良いのだろうか。

2025年4月8日火曜日

狂った性欲

 文化人類学では性の問題は重要とされながら、そんなに研究は多くない。

私が大学院で学んだことで、一番記憶に残っているのは「近親相姦」に関しての松園万亀雄先生のゼミだった。

松園万亀雄先生は後に、『性の民族誌』*1でも執筆されているが、当時はエロティシズムを含めてこの分野の研究が必要なことは述べておられた。

この時に論文として読んだのは古代エジプトにおける兄妹婚の問題だった。

人類普遍に禁じられていると考えられている近親相姦が、古代エジプトでは王家を中心に一般にも広まっていた。

人類に普遍的な文化など無いように思えたのもその時だった。


性の問題は、サルとヒトを比較するとよく分かる*2。

私が大学生の頃は、デズモンド・モリスの『裸のサル-動物学的人間像』を読んで、その考え方に染まっていた。

霊長類の研究が進んで、ヒトとサルの類似性と違いがよく分かるようになっている。

特に高畑由起夫氏の研究*2には、目を覚まされる思いだった。


  動物とヒトの「性」をわかつものの一つに「時間」がある。哺乳類の雌の多くは排卵前後のわずかな時間だけ、ふだんと異なる形質的な特徴や行動を示して、雄と交尾する。発情とよばれるこの状態は排卵を知らせる信号にほかならず、「性」は繁殖に直結するものと見なされる。無駄を厭い、効率を追い求めれば、すばやく排卵を示して妊娠することこそ重要なのだ。かたやヒトの女性は発情を失い、途切れることなく「性」を受け容れ、いつ排卵するのかさえもわからないとされている。われわれの「性」は時間の制約から解き放されて、いつのまにか過剰になり、無駄に満ちているというわけだ。*3


ヒトが発情期を失ったが故に、自由な性を日常化することができた。

そして、それが家族形成に利用されたり、商売になったり、権力を誇示するのに利用されたりした。

このところ、芸能人や政治家のセクハラ問題が大きく報道されている。

ヒトは自由に性を用いながらも色々なタブーを課してきた。

その根底にあるのは、本人の同意なしでの性交を強いることの禁止だろう。

たとえその場で同意があっても、同意せざるを得ない状況に追い込むことも罪となる。

本来は恋愛と結びついて、子育てに必要な安定した家族を築くための文化が狂ってしまった。

これは、近親相姦が原因で滅んだとは思えないが、高度な文明によって古代エジプトも狂って行ったことに通じるかもしれない

現代においては、自らの権力によって狂った性欲を弄んだ者は、それなりに報いを受けさせねば文明の崩壊を招くということだ。

それは戦争や戦闘によって、性の秩序が踏みにじられる状態と同じことを意味するからだ。

ただ、ヒトは自由な恋愛と性欲を結びつけて、経済格差や生まれ育ちのちがいを超えた絆を築くことができていることも忘れてはいけないと思う。


*1 須藤健一杉島敬志編 1993 『性の民族誌』 人文書院

*2 高畑由起夫編 1994 『性の人類学―サルとヒトの頂点を求めて―』 世界思想社

*3 高畑由起夫「「性」と時間―交尾季、月経、発情をめぐるいくつかの話題」*2:68p


2025年4月4日金曜日

教師として初任の頃

先日、特別支援学校(以下特支)で一緒に働いていた、元同僚に近所の100円ショップで会った。

その人は今年度は異動して今までよりも遠い特支で働くという。

因みに、この元同僚は今年で65歳になる。

私は特支で10年以上働いていたので、どれだけ体力を要する仕事か知っている。

この元同僚は私より2歳下だけなのだが若々しくて、とても元気そうだ。

昨年度から完全退職して、年金暮らしの自分とは大きく違うと思った。

この人は、元々民間で働いていて私立高校に転職したが、その私立高校でリストラに遭って臨時で特支に勤め始めた。

退職金の問題や年金の問題もあって、働き続けているようだった。


私は大学院の修士課程を修了した後、教師を目指した。

その時の経緯は「30年前の繰り返し」に詳しく書いてある。

それまで横浜で、机にかじりついて論文を書いていて、その後は塾の講師をしたりしていた。

そして赤穂に戻ってから、採用されるまでの半年あまりは中学校や高校の臨時の常勤講師を務めていた。

それが、採用されて初任は知的障害の特別支援学校だったが、当時は精神薄弱養護学校と言っていた。

そこで、いきなり試練にさらされた。

というのは、当時は小学校の免許も無いのに、公簿上は中学部の担当にして小学部の担任をさせられた。

そこで待っていたのは、リトミックを中心としたダンスであった。


おかあさんと一緒の体操「ぞうさんのあくび」はまだ良かった。

「アブラハムの子」は、頭でっかちの当時の私には恥ずかしくて、ぎこちなく踊っていた。

子どもができて一緒に遊ぶようになってからは何の抵抗もなくなったが、当時独身の私には最大の苦行だった。

何もかもが初めての経験で、今までの自分の考え方を根底から覆された。

毎年のように亡くなっていく児童の通夜にも立ち会ったりした。

私の教師人生の原点となった。


近年は障害児教育の免許の取得が重要なので、免許を持たなかった私のような初任者はいないかもしれない。

確かにしっかりとした知識や経験が必要だろう。

家内は大学で障害児教育の免許を持ちながら、現場で携わることは無かったのは皮肉なものである。

現場に携わりながら免許をとる手もあったが、ずっと障害児教育に携わる覚悟は無かったし、当時の校長も普通校に行って経験を積むことを奨めていた。

結局、免許も無いまま知的障害、肢体不自由の学校を合計で3校経験しながら、全日制職業校・定時制や全日制普通科、定時制、総合科学校などを経験した。

そして、今でも連絡を取り合っているのは、初任で一緒になった同期の仲間だ。

ただ、特支で失敗したり問題を起こした教師や心を病む人が多いのも知っているので、手放しに良い職場とは思ってはいない。

それでも、尊敬できる先輩教員に巡り会えたことも確かだった。

自分が尊敬される教師になれなかったのが、一番悔やまれることだが・・・・・




2025年4月1日火曜日

近代化=欧米化の崩壊の始まり

 アメリカのトランプ大統領によって世界が混乱しているのは、あらゆるところで聞かれる。

あそこまでアメリカが誇りを捨てて、好き勝手やり出すことを見たり、貧困白人出身のバンス副大統領の言動から、アメリカの没落を感じさせられる。

私は以前にも書いたように、核兵器や無差別爆撃によって大量の日本人を殺戮したアメリカに追随しなくてはならない我々を哀れに思っていた。

ただ、追随の恩恵で経済的発展を遂げて、多くの国民が物質的に豊かさを享受できたのだから、全く酷い話では無かった。

島津藩が琉球王国をうまく間接統治したのと同じ方法を、アメリカが行っていると思っていた。

しかし、今は高齢少子化が進み、若者の自殺も増え、過干渉の親に子どもが苦しみ、大規模な地震災害に怯えながら暮らしている。

何よりも、アメリカに追随して推し進めた原発の脅威を解決しないし、アメリカの温暖化を無視した政策に対抗することもできない。


そして、学問や思想でも欧米を追随するのが当たり前だった。

英語で書かれた文献を使わないと、一人前に見なされていない。

それによって、環境破壊が進み、戦争を抑制することもできなかった。

この救いがたい状況で、私は欧米の中心であるアメリカが没落すれば、日本も変わると思っていた。

しかし、ただでは没落しないことが今回よく分かった

世界を巻き添えにして、まるで巨艦が周りの小さな船や人を巻き添えにして沈んでいくのと同じようだ。

戦争犯罪とも言える核攻撃で日本を服従させた国家は、罪を問われないように消滅するまで世界を脅し続けねばならない。

おそらく、没落時の姿はソ連が崩壊したのと同じようになるだろう。

巻き添えにならないためにはどうすれば良いのか?

沈む巨艦に近づかないのが一番だし、そもそも同じ艦隊で進むのは無謀なのだ。

しかし、傀儡政権・官僚は簡単には換えることはできないだろう。

我々庶民は、アメリカに追随する政府とも一線画して生活することも考えておかねばならないと思う。


太平洋戦争時であっても、その被害を間逃れたのは田舎だった。

多くの都市市民や学童が疎開して命を守った。

少子高齢化が深刻な田舎に、疎開のつもりで移住しても良いのではないかと思う。

米不足や食糧難の時代が現実化していて、田舎の若い人も農作物を作り出した。

その点で言えば、これからは田舎の時代なのだと思う。



2025年3月28日金曜日

恋ヶ浜が恨ヶ浜に

 赤穂の鷆和には恋ヶ浜というしゃれた海岸がある。

これは通称だが、地元に人は綱崎と呼んでいたと思う。

江戸時代の頃に駆け落ちした男女の話からきているという。

私の生まれはこの浜からかなり離れた鳥撫という集落だった。

小さい頃に、盆前に親戚が集まった時に、ここで泳いだことがある。

母は、ワンピースを着たまま泳いだので驚いた。

また、父とは貝掘りに来たことがある。

小さい頃はハマグリが採れていたので、子ども達も鎌を砂地に立てて探りながら採っていたのを憶えている。


私はたまに懐かしくて、若い頃はバイクなどで出かけたことがあった。

巡回に回ってきた巡査から職務質問を受けたが、免許証の本籍地が鷆和になっていたので「失礼しました」と言って去って行った。

近年では、SUPをここでずっとやっていた。

ジェットスキーがたむろしている場所から離れたところで、のんびり海の上を漂ったり、立ち上がる練習をした。

バンド仲間のメグとSUPを楽しんだのもこの海辺だった。

工場も近くにあるし、採石場も無粋なのだが、直接車を海岸に乗り入れられるのが良かった。

何よりも、砂浜の海岸は赤穂でもそう多くなくて、唐船海岸は潮干狩りする海岸として有料化されたりしていた。

だから、唯一自由に利用できた都合良い海岸だった。


しかし、ジェットスキーなどをする人たちのマナーが悪かったようで、封鎖されてしまった。

昨日(3/28)に通院のついでに、SUPができないか確かめに行った。

海岸に通じる道はコンクリートブロックで封鎖されていた。

採石場の門からは入ることは、不法侵入になる。

もっと、東から入れるか調べたが、全部「私有地につき進入禁止」のロープが張ってあった。

そこまでして、海岸を封鎖するとは信じられなかった。

堤防が無く自然が残されていた海岸故に、ジェットスキーの愛好家を呼び込み、工業地が故にレジャー化には適していなかった。

私のふるさとの恋ヶ浜は誰も近づけないので、通称を恨ケ浜に換えることを提案したいくらいだ。




2025年3月24日月曜日

淋しい孤食ときままな個食

 家内は学童で働いていて、普段は昼食を一緒にとってから出かけていく。

ところが、長期休暇とその前後は午前中からの勤務になるので、一緒に昼食は取れない。

完全退職した昨年度も春休みや夏休み、冬休みには昼食は一人で食べるのが普通だった。

ただ、非常勤講師から解放された気分で春休みを過ごし、夏休みは昼食時間にプールに出かけて、腹を空かしていたので夢中で食べていた。

だから、淋しい孤食という感覚は無かったが、現役の頃はゆっくり食事のとれない職員室よりも、準備室の方での孤食の方が気楽で良かった。

ところが、年金暮らしも2年目になり、人との関わりも薄れているので、食事は家内との会話が大切なおかずになっていた。

初日の昨日(3/19)も、たまたま孤食で食欲がわかずにおかずは残したので、帰ってきた家内に「淋しくて食欲が無かった」とわざとぼやいてみせた。

このところ、人との関わりが薄れているのを改善しようと思っていたので、孤食を避けるための理由で街に出かけて、食べようかなと考えていたからである。


孤食で思い出すのは、一人暮らしをしていた母のことだ。

母は利用できる有料老人施設の食事が不味いからと言って、入所せずに病院から退院後は老健を経て自宅でひとり暮らしていた。

週に3回はデイサービスで昼食は食べていたが、そのほかは宅配の弁当や私や訪問ヘルパーさんが買ってきた具材で自炊していた。

私は母のため買い物する時は、昼食の弁当も買っていったが、一緒に食べて欲しそうだった。

私は色々と用事もあったし、二人で弁当を家で食べるのも気が進まなかったので、滅多に一緒に食べなかった。

結局、食生活も良くなかったのか病気を再発させてしまい、再びしばらく入院した後は有料老人施設に入ることになった。

それなら、自宅に戻らずに最初から施設に入っていれば良かったのだろうが、自分の好きな物を食べたいという食欲がそうさせたのだった。

もし、昼食だけでも毎日孤食を避けて食べる場が、あったら健康はもう少し保てたかもしれない。


家内の母も、コロナが原因で閉じこもるようになり、週に一度家内と買い物した具材を使って自炊していた。

やはり、孤食は食欲が出ないらしく、体重もどんどんと減っていった。

認知症が疑われたので、何度も介護認定を勧めたが、自分は大丈夫だと頑として受けようとしなかった。

そして、とうとう肺炎を起こしてしまい認知症も進んで、嫌がるのを無理に救急車で入院させて現在に至っている。

コロナの流行る前は外に良く出る人で、こんなことになるとは予想だにしていなかった。

孤食による栄養不足が病気や認知症を招くことを、本人が意識して気をつけなかったことが一番の原因だが、周りもそれなりの配慮ができたら良かったと思う。


私の孤食は昼だけで、しかも長くて1ヶ月程だけだ。

私は最近は滅多に昼には酒は飲まないが、以前の私だったらつい手を出しているかもしれない。

自由に食べられて、意見されることも無いから、家内が用意した物とは違う物に手が出てしまうことも確かだ。

実は大学院時代に修士論文を書いている際、昼はずっと孤食で、自分で唐辛子の良くきいたパスタを作ったりしたのが、十二指腸潰瘍の原因とも思える。

最近は「孤独のグルメ」など、孤食では無くて個食がドラマなどで人気があるが、一緒に食べる人がいないので、食事に集中させられるからだろう。

本当は、一緒に食べる人との楽しい会話が、一番良いスパイスになるはずだと思う。

そして、テレビを見ながら食事をするのは孤食を癒やしてはくれるけど、家族一緒の時は個食を促進してしまうので、これも考えものだ。

狩猟採集民や初期農耕民などは、仲間や家族とする食事をなによりも大切にしている。

我々文明人は食事の内容は豊かになったが、あり方は貧相になってしまったようだ。

鍋や焼き肉もひとりで食べるのが普通になってきている。

おひとりさまは施設に入っても、元気な内は個食を続けられるのだろうが、いずれ介護が必要となって個食ができなくなるのだが・・・・・






2025年3月21日金曜日

お爺さんはコインランドリーへ洗濯に

私は既に45年程前には、コインランドリーを利用していた。

最初は名古屋の地下鉄の池下駅の近くにあった銭湯のランドリーで、風呂に入っている間に洗濯機を回していた。

かぐや姫の「神田川」よろしく、風呂上がりに待ちぼうけで過ごしたのもそのコインランドリーだった。

乾燥機は使わず、たいがいは夜中にアパートの部屋の中に干したりしていた。

東京でも中野に住んでいた頃は、風呂屋に併設されてなかったので、休みの日にコインランドリーに出かけて洗濯をした。

その後は二層式洗濯機を買って自分で洗濯もしていたが、職に就いて洗濯機から遠のいていた。

家内が入院したりした時は、さすがに自分で洗濯したが、やり方をその時に教わり、しばらくして機械も変わると自分でやることが殆ど無くなっていた。


先日、家内の体調が悪くて、近くのコインランドリーまで付き添っていった。

自分一人で行けば良かったが、支払い操作する自信が無かった。

中に入ると、いつも散歩の時に出会う年配の男性が乾かした洗濯物をたたんでいた。

挨拶して、私がやにわにつかんで洗濯物を洗濯機に放り込むと、家内に叱られた。

「一枚ずつ入れるのよ」ともう一度やり直しを食らった。

隣にいる男性に「いつもしてないものですから」と照れながら言い訳をした。

その男性は、まだ小さな娘の衣類を中心にたたんでいて、おねしょをした時が大変だと言っていた。

私が「娘が おむつをかえてちょうだい」と、いつまでもおむつをしていたことを話すと笑われた。

幼い娘と若い奥さんのために労を惜しまない、熟年お父さんには感心しきりである。


最近はコインランドリーにやってくるのは年老いた男性が多いということで、扱い方が分からずに時々家内が教えてあげるということだ。

そして、坂の途中にあるので、自宅との往復も疲れるからかもしれないが、洗濯機の前で座って、何もせずにボーとしているという。

おそらく、奥さんに頼まれてしているのだろうが、1時間近くかかるのであれば時間潰しの方法も考えたら良いと思った。

私の東京中野のコインランドリーは近くにあったので、いったん下宿に戻っていた。

田舎では、車で行かねばならないところが多いので、ランドリーの中や車中で待っている人もいるようだ。

これから田舎では、こういう人のためにコンビニや喫茶店に併設してくれたら有りがたいと思う。

というのも、コインランドリーを使うのは雨の日が多いので、近くを散歩ができないからだ。

これからは、桃太郎話のように洗濯するのはお婆さんではなくお爺さんであり、お婆さんはカーブスで運動する時代なのだ。






2025年3月19日水曜日

モチ麦・大麦の米危機への期待

私は糖尿病なので、無精白モチ麦を買って食べていたのだが、自分の作ったモチ麦は消化が悪かったようで、十二指腸潰瘍を再発させてしまった。

どうも、自分で作ったモチ麦は肥料不足や天候で、ふすまの部分が多すぎたのが消化不良の原因のようだ。

調べてみると、やはりモチ麦は消化に悪いので、食べ過ぎないように注意が必要と書かれている。

私は運動や肉体労働をよくしている時は、胃腸も元気なので消化不良にならないことが多いが、デスクワークの生活が中心になると消化不良になってしまう。

胃腸の弱い人は、デスクワーク中心で無くても、消化不良になってしまうようだ。

家内が先日、精白したモチ麦を多めに入れたご飯を食べて、腹痛と下痢に襲われてしまった。

そもそも、家内は子どもの頃から麦飯なる物を食べた経験が無い。

私は幼いころから押し麦の入ったご飯を食べていて、学生時代も自炊のご飯に混ぜて食べたりもしていた。

幼いころからの食生活が大きく影響するようだ。


しかし、この米不足の時代には、モチ麦・大麦は大切な食料になることは間違いない。

夏場の高温障害に比べて、温暖化が進んだので麦への冷害の危険性が少ないと思う。

ただ、暖冬の影響の被害もあるようなので、絶対安心な作物とは言えないとは思う。

長期予測が困難な破綻気候のなかで、冬場と夏場で穀物を確保してそえぞれのリスクを補う必要があると思う。

米を主な収入源としていても、冬場はそれを補う収入ということで、どちらの価格も抑えられるように思う。

また、麦類は緑肥としても活用できるので肥料代の節約にもなるのが魅力でもある。


かつては二毛作が当たり前だったのが、特別な地域を除いて長い間途絶えていて、ウクライナ戦争の影響で小麦を中心に復活している。

世界の経済情勢はトランプの影響で混迷を極めつつある。

貿易戦争は農業製品にまで及び、食糧危機を招く可能性さえ出てきている。

そんな中で、我々消費者は食生活を見直して、農家を支援する必要があるように思う。

米だけに依存せず、色んな作物を工夫して食べていく事が大切だろう。

私は米・麦は機械を維持する倉庫や管理費をまかなえる資力が無いので、モチ麦はネットで安い物をこれからも購入して食べることにしている。

ご飯に混ぜて食べられない人には、製粉してうどんや小麦粉の代用としても使えるようだ。

福崎のようなモチ麦の産地では、モチ麦麺としても売り出している。

また、甘酒などとしても、使えるというので米よりも安くつく。

穀物は芋類よりもかさばらず、グラムあたりのカロリーも高く長期保存が可能な優れものである。
真剣に食の安全保障と我々庶民の生活防衛を考えるのに麦は欠かせないと思う。

このところ、関税を高くても外国の米の方が安くなって輸入が増えている、それが進めば日本の農家はお終いになるだろう。

安い米を生産できる農家にとっても、麦は必要になってくると思う。




2025年3月16日日曜日

害木・害竹のはびこる山

 このところ、フィリップ・デスコラ*1「「野生」と「馴化」」*2 読んでいて、考えさせられたことがある。

そこには

(日本の)高地に住む村人たちにとって、葉に光沢のある木や落葉性の木からなる古くからの森は、文明的〔=馴化された〕(domestique)生活のための有益な資源が得られる場所であるだけでなく、そこにいます神々によってその調和や美しさがもたらされるところであったが、それに続いた針葉樹の植林が喚起するものは、無秩序、陰鬱、無規律以外の何ものでもない(knight1996*3)。ろくに手入れもされず、野原や空地を覆いつくし、その商品価値のほとんどを失ってしまった、これらのびっしりと単調に整列する「黒々とした木々」は、もはやその植樹者たちの社会的・技術的管理の手をも免れてしまっている。山としての「ヤマ」、森としての「ヤマ」、人住まぬ場所としての「ヤマ」、これら三つの語は重なり合っている。だが、その全体が馴化されたにもかかわらず、山の人工林は心情的にも経済的にも砂漠と化し、結局は、それが取って代わったところの自然林に比べ、はるかに「未開」の状態になってしまったのである。


日本の山の害木・害竹で荒廃した姿を「砂漠」と表現して、的確に分析している。

私は活用されることも無く、花粉をまき散らして被害を人に与える木を害木と呼び、同じようにはびこって農地や家屋敷に被害を与える竹を害竹と呼ぶことにする。

かつてイノシシや鹿などは貴重な食料だったが、今は山林や農地に被害を与えるから、害獣と言われて駆除する対象になっている。

木や竹は本来が人が植えて管理して活用すべき物だったので、どちらかというと外来の動植物と同じだが、杉は自生したものを増殖させたので少し違う。

焼き畑農耕が衰退して、その代わりに植えらた杉などの木が本州を中心に、花粉症の大被害を発生させているのだから、本来は害木として駆除すべき物だろう。

農地改革を逃れられた山林地主の保護のためであるのなら、本末転倒と言うべきだろう。


こういう人間の都合のために人工林が増えて、餌場を無くした鹿やイノシシ、熊などが害獣として駆除されていく。

害木を減らして、バイオ燃料や食料になる草木や、動物たちの食料となる木々を植えるのが自然環境を守っていくことなのではないだろうか。

日本の学校では乾燥地帯の過放牧や、アマゾンの熱帯雨林の無秩序な開発を環境破壊として学ばせる。

デスコラは日本の山を「砂漠化」として同じように扱ってることを、どう捉えるべきだろうか。

あたかも自然豊かに見える針葉樹の山々が、実は、酸素供給を帳消しにする人的被害の原因であることをきちっと認識すべきだろう。

熱帯雨林も動物や人が多く住むことができる場所ではない、だけど人的被害を出さずに酸素を供給してくれている。

熱帯雨林と日本の人工林は全く違ったものなのだ。

かつて、日本は戦国時代に荒廃した山野を江戸時代に回復させた。

山野は自然の恵みだけでなく、水田の肥料や家畜の飼料としても活用できるし、バイオエネルギーとしての草木材も活用可能だろう。

映画のWOOD JOBでは、魅力的な林業と山暮らしを、伝統的な信仰や祭りを織り交ぜて、郷愁を感じさせて、娯楽として表現してくれていた。

林業地帯の生徒が中学校などで、見せて貰っていることを、山間部の高校に勤めて知った。

確かに林業で生活をしている人も多いので、それなりの対策をする必要があるだろう。

しかし、食糧危機と人口減で建築材が不要になってきそうな将来に向けての、新たなビジョンを示してあげないと、山間部の人たちが暮らし続けることはできないと思う。



*1 フランスのコレージュ・ド・フランスの人類学教授(一九四九年生まれ)。二〇一四年度の「コスモス国際賞(人間・自然・地球をめぐる諸間題の解明を目指す研究活動や業績に贈られる)」を受賞。

*2 『交錯する世界 自然と文化の脱構築―フィリップ・デスコラとの対話』(京都大学学術出版会)

*3 Knight, J. (1996) When Timber Grows Wild: The Desocialisation of Japanese Mountain Forests. In Descola, P. and G., Palsson (eds.), Nature and Society: Anthropological Perspective, pp. 22 1-239. Roudedge.

2025年3月14日金曜日

梅を観ると思い出す

梅は綾部山梅林に毎年家族で行っていて、今は家内と二人で出かけている。

家内の父が存命中で元気だった頃に、2月11日に幼い子ども達と一緒に観に行ったのも懐かしい。

毎年のように親子で出かけていき、撮った写真は年賀状に載せたりした。

今年はやっと梅が咲いて観に行けるようになった。

赤穂は桜が市の花で、御崎の桜が有名だが梅もけっこう咲いている。

実は現役の教師の頃に、春休み中に昼休憩を利用して職場の仲間と、梅をみながら食事をしたことがある。


その頃には、英語のALTの女性教師Mさんもいて、同じ文化人類学を大学時代に専攻していたということで、気があって音楽バンドも一緒に組んだりした。

Mさんは駅前の宿舎からマウンテンバイクの自転車で通勤していた。

私も職場にはロードレーサーの自転車を置いていて、トレーニングや仕事の用事に使っていた。

同じ部署にいるメンバーと梅見をしに御崎に出かけるのに、車で行くのと自転車で行くのに別れた。

結局、自転車はそのMさんと私だけになった。

坂道の上にある神社の駐車場に車と自転車を置いて、海岸沿いにある食堂で魚定食をみんなで食べた。

その店の料理も美味しく景色良かったのだが、残念ながらもう営業していないようだ。

食後は梅や海を観ながら、元小学校があった細い道を通って神社まで戻った。


せっかくここまで上がってきたのだからと、自転車の二人はちょっと高台にある公園に行って梅と海の島々の景色を眺めた。

そして、自転車を自分で担いで梅の咲く細い山道を通って、さっきの海岸まで降りていった。

海沿いにある細い道を自転車で元の神社に戻って行くのに、急な坂道を上がって行ったが、Mさんは自転車から降りずに登り、私は自転車を押して上がった。

その道は私が中学高校の頃に泳ぎに行くときに自転車で通った道だったが、その頃は自転車から降りずに登れたのにと情けなかった。

そして、職場に戻るのに、わざわざ遠回りして唐船海岸のレンガ道を自転車で走って、風景を存分に楽しんだ。


Mさんに聞いたら、彼女はアメリカではお父さんとよく自転車で長旅行したそうだ。

因みにMさんは日系アメリカ人で、両親とも日本人なので彼女は日本語が堪能だった。

そのお父さんはお母さんとは離婚して、別の女性と暮らしているという。

もう会うことが難しくなったお父さんの代わりに、この時は私が彼女と一緒にサイクリングをしていたということだった。

彼女はアメリカでは野外活動の指導員をしていて、自転車のみならず、カヌーも子どもの頃からしていて得意だった。

それで、私がSUPをしていることを知って、一緒にやることになった。


いつも練習していた赤穂の恋ヶ浜の海に出かけて一緒にSUPをやった。

私はまともに立って漕げないのに、彼女はちゃんと立って沖の方まで漕ぎ出した。

カヌーをやっていただけあって、バランス感覚が優れているのだ。

私もその後に、仕事上でしかたなくカヌーもマスターしたが、ひっくり返ったら最後だ。

彼女は着替えも平気で草むらに入ってすることができていた。

これは私の完全なミスで、女性の着替えのことを考えていなかった。

以前は恋ヶ浜にはシャワーや更衣所があったのだが、それも当時は無かったのだ。

本当は、それがある唐船海岸や御崎の海岸でやるべきだった。


こんな逞しい女性とは、彼女以外には出会ったことはない。

彼女は日本の梅よりも、南国のハイビスカスの花が似合っていたように思う。

その後、フィアンセの待つアメリカに帰ってしまったが、きっとアメリカの自然を駆け巡っていることだろう。

日本では熱心に教師の仕事をしていたが、アメリカに戻ってはする気は無いし、プライドが持てる仕事でも無いと言っていた。

日本や東洋では教師はそれなりにプライドが持てるし、給料もそこそこ良いのだがアメリカではそうではないらしい。

日本だからこそ、彼女は父母の育った日本で教師をしてくれたのだった。




2025年3月12日水曜日

水泳より歌への挑戦

いつも通っているプールの監視員さんに、私の以前にアップしたYoutubeの動画を見て貰った。

非常に褒めて貰ったが、今の私とは体型などが違って別人みたいと言われた。
確かに、アップ時は今より歳は若いのだが、体型は今の方が良くなっているはずだ。

要するに、黒い服を着ていたので、プールでの裸よりスリムに見えたのだ。

私は、バタフライを50mを55秒で泳いだり、フリーを50mを45秒以内で泳いで見せたりしているのに、一度も監視員さんから若いと褒められたことが無い。

全国レベルからすれば情けないタイムだが、65歳としてはこのプールの利用者の中で速いほうだと思う。

監視員さんは水泳の経験が殆どないので、このスピードを出すのにそれなりの努力が必要であることが分かっていないようだ。

ただ、学生時代にちゃんと水泳をやっていなかったので、本当に選手経験をした人とは歴然として泳ぎが違うから、褒めて貰えないというのもあるだろう。


一方、歌の方はご自分でもカラオケなどで歌うから、上手下手がよく分かるし、曲を歌いこなすには努力や才能が必要だということもよく分かっていると思う。

中学生のからバンド活動で必死に練習してきた歌の方が、やはりちゃんと評価してくれるようだ。

こういう評価は私と同世代だけで無く、若い世代にも通じる。

普段聴いていたり、好きではない曲でも、歌の上手下手はすぐに分かってしまうのだ。

そして、好きな曲のジャンルが違っても、歌を通しての話ができるのが良いし、ロックバンドでボーカルをしていたというと見直されたりもする。

どんなヒット曲を聴いて育ったかを知れば、だいたいの年齢の見当がついて話がしやすい。

すごく若く見えてた人も、それを聞いてすぐにそんなに若くないことが分かったりする。

若い人は古い曲を知らないが、私は新しい曲も知っているので、歌を通した会話も成り立つのも魅力だ。


水泳は一部の限られた人としか、関わることができない。

今、プールで言葉を交わしているのは監視員さんを除いて、5人だけだ。

歌はカラオケクラブや、音楽サークルなど地域には多くの人が集える機会がある。

ただ、私は元々バンド活動が中心だったので、音楽嗜好が違う人と一緒にやるのは苦手で、サークルに誘われたが参加しなかった。

だから、一人カラオケや弾き語りの世界に浸ってしまっている。

監視員さんからもっとYoutubeにアップしてと言われたが、教師をしているときからずっと生徒達からも言われていた。

一緒に演奏できる仲間が見つかれば直ぐにでもやりたいが、職場を離れた今はほとんど不可能だ。

クラシックをピアノが弾ける家内にもわざわざ楽譜本を買って、伴奏をずっとお願いしているのだが、断られ続けている。

こうなったら、仲間ができるまではひとりで何役もこなして作品を作るしかない。

水泳より孤独な作業にはなるが、ネットを通して大勢の人と関われたら、水泳よりも楽しくなると思う。

それが生きがいとなって健康に暮らせるなら、水泳に劣らずやる意議のあるものだと思っている。


この日曜日(3/10)にサザンオールスター三昧がNHKのFMであった。

家内とドライブしていて聴いていたし、今日も農作業をしながら聞き逃しで聴いていた。

私は熱狂的なファンでもないし、曲を舞台で歌ったことは無い。

しかし、高校時代には友達と集まってギター片手に「勝手にシンドバッド」などは良く歌って騒いでいた。

学生の頃はアルバムをカセットテープに録音してずっと聴いていて、曲が流れると当時を思い出す。

「いとしのエリー」などは、大学時代に私が片思いをしていたガールフレンドの名前が「えり子」だったので、気持ちを込めてよく歌った。

これはあるあるなのだが、好きな女性の名前に変えて歌ったりした。

ラジオでも司会者や解説者が言っていたように、ベスト1を決められないくらい大好きな曲が一杯だ。

彼らは日本の大衆音楽を語るのに欠かせない存在だろうが、私もかつてはそういうミュージシャンになることに憧れていた。


私が「研究者になる」とか「(歌の)プロになる」と何十年も言い続けながら、現在は年金暮らしをしながら趣味で続けている。

そういう夢を叶えられなかった無念さなどは実はあまり感じていない。

本当にその道で生きていくことは、並大抵のことでは無いことは分かっていて、趣味の方が気楽で楽しい。

夕方に第3のビールを片手に一人カラオケをパソコンでしたり、ギターの弾き語りをしながら、Youtubeでまた発表することを夢見ている。

私のかつての作品は現在2114回視聴して貰っている。

これだけ視聴して貰っている自分が発表したブログ作品は一つも無い。

これを超える作品を何とかアップしたいと思っている。




2025年3月10日月曜日

前途危うい公立校

 私は現役で大学には入れず、入校試験を受けて神戸御影の大道予備校に通った。

そこには、私学の灘高校や甲陽高校出身の生徒がわんさかいたが、公立の長田高校や姫路西高校などの生徒も少数ながら混じっていた。

そこで、聞いて驚いたのは、公立高校の生徒は学校では勉強していないふりをして、家では必死で勉強していたという。

その理由が当時の私にはよく分からなかったが、教師として公立高校に勤めて理由が分かった。

私たちのような私立高校の生徒は大学からの指定校推薦があっても、早稲田大学や慶応大学などを除いて殆ど使おうとしていなかった。

そして、当然一般推薦などを受ける生徒はいなかった。

ところが、公立は指定校にしろ一般にしろ、推薦入学を利用する生徒が多くいる。

そうなると、校内での選抜や内申書評価が重要となってくるのである。


授業中は勉強する雰囲気をあまり作らずに、競争相手の足を引っ張ったり、油断させておいて、家や塾で必死に勉強すると内申書評価が上がると考えるのかもしれない。

内申書評価は完全な絶対評価では無いので、学校内での順位などが重要となる。

私学の場合などは、逆に相対評価にすると一般入試の内申書評価が公立に比べて悪くなるので、絶対評価的になっていた。

これは高校だけでなく、中学校でも同じなのではないかと思う。

特に、高校入試の内申書の利用率は大学よりも高いはずである。

中学校の生徒が塾に通うのが普通になっているのもそのせいだろうと思う。

教師の側も内申書評価をちらつかせておいた方が、生徒の指導がしやすいように思える。


私がいた私立高校は、授業が面白くないと勝手に自分の勉強したり、おしゃべりをしていた。

推薦入試など利用しないので内申書評価はあまり関係なかったからだ。

私のバンド仲間が塾などに行かず、学年最下位でありながら早稲田大学の法学部に現役合格できたのも、授業中は入試に必要な科目だけ勉強していたことによる。

私学や予備校などは、一般の模擬試験に参加せずに生徒のデーターを独自に持っているところもある。

データーを出さずに一般模試で対応している公立校より有利に受験をすすめるためである。


公立高校でも受験に必要ない科目は、定期考査の点数だけ気にして、授業中は居眠りしたり、別の科目をこっそりやってはいる。

最近目につくのは、タブレットパソコンを持っているので、利用するふりをして別のことをしている例だ。

授業中の学習態度を評価にきっちりつければ良いのだが、授業を進めるのが非常に煩雑になってしまう。

仕方ないので、私はトランプをくじのようにして、突然質問する方法にしたが、一回答えると安心してしまうので、これも効果が薄かった。

定期試験問題を難しくして授業中もしっかり勉強させる手もあるが、複数教師で一つの科目を担当している場合はそれも難しい。

結局、受験科目以外を大して勉強しないのは公立も私学といっしょになってしまう。


近年はAO入試が高く評価されだしたが、これは家庭の経済力が非常に影響されるようだ。

学校でできない体験をするにはそれだけの負担を家庭が負うことになる。

学校でもAO入試に対応できる特色の有る学校は人気が出ているようだ。

私が勤めていた公立の大学附属高校もその例だが、中学入試の定員割合も増えたが、そもそも通学や寮費に多額の費用が必要だ。

本来、公立は貧富に関係なく、進路を努力によって確保するべきところに思うが、現実は私学と変わらなくなってきている。


公立校では塾や予備校に通うのが普通になってきたので、結局のところは私学の高い授業料と負担が同じになる。

どうせ同じなら、進学指導が徹底していて、生徒指導上の問題の少ない私学に人気が移っても仕方ないだろう。

そして授業料が無償化されれば私学の方が公立より却って負担が少なくなる。

一方で、地元に密着した公立中学・高校に弟は通って、地元の友達と卒業後も仲良くしていた。

私と同じように私立中学・高校に行った弟は、地元の小学校の友達といまだに仲が良いのに、高校の同窓生とは関わりもなく、同窓会には全く行ってないようだ。

私も小学校の同窓生と耕作している畑が隣同士なので、畑や病院で会うと長々と話をしてしまう。

地域に根ざした公立の学校は、友達や仲間を作るのに無くてはならないし、地域にとっても奉仕活動などで助けて貰えると思う。

崩壊しつつある地域の中では、公立校は生き残るのが厳しいのかもしれない。





2025年3月7日金曜日

惨めな元教頭を読んで

 ネットの記事「惨めです…〈年金月21万円・退職金2,700万円〉65歳で完全引退した元教頭の男性、悠々自適な毎日を送るはずが「わずか4ヵ月」で老後破産の危機」を読んだ。

校長試験を敢えて受けずに、教頭で終わり、元校長達への劣等感から投資に打ち込み、多額の損失を出している元教頭の話である。

私が管理職を考えさせられていた頃は、特に教頭は激務で過労死をしたりする例が兵庫県では多かった。

校長になるのも命がけだったようにも思えたので、管理職になりたいとは思わなかった。

教育大に長期研修したのに管理職になろうとしないことで、校長から嫌みを言われたが授業料等の多額の負担をしており、毅然と反論していた。

上司に勧められて教頭になっておきながら、校長にならないのも私には理解できない。

私は、そのように管理職にもならず、3年も早く早期退職したので、退職金はこの元教頭よりかなり安かったが、貰っている年金は同じようなものだ。

私は高校で元教頭は中学校という違いはあるが、元教頭の勤続年数が40年以上で、私は院卒なのでたかだか30年(内2年は長期研修)ほどだ。

私は手当のつく特別支援学校を10年以上勤めているし、給与の高い特別な高校で働いていたので、そのお陰だと思う。

ただ、年金が支給されるまでの期間はかなり、家内に迷惑をかけた生活を送ってきた。

私は管理職との付き合いが無いので、元教頭のような場には呼ばれないが、母校の同窓会では管理職もいた。

しかし、同窓生は意外と管理職にはなっておらず、惨めに感じることも無かった。


現役の教師の中には、管理職など目指さず、株の取引に熱心な人も少なからずいた。

理科や数学の先生が多かったが、社会情勢をよく調べていて、地歴・公民科の私とは話が良く通じた。

株取引に熱心な人は奥さんも教師でお金に不自由が無い場合や、資産家で不動産収入がある人だった。

知り合いの高校女性教師の旦那さんは中学教師だったが、株取引に専念するために早期退職をしたと聞いた。

私が懇意にしていた理科の先生は奥さんも教師だったが、株で2億円稼いだら教師は辞めると言っていたが、教師の仕事を楽しんでいるところがあった。

この教師は株でもうけたお金は、子どもがいなかったこともあって、好きな音楽等の趣味や車につぎ込んで、車などは外車も含めて3台ほど持っていた。

株をやっている人との会話はついて行けなくて、ちょっと売り損ねて50万円損したとか言うが、儲けたことはあまり言ってくれなかった。

こういう風に、現役の時から投資に携わっていなくて、退職後に多額の投資に手を出すなんて無謀なことだと思う。


校長になっておけば、退職後に色々と仕事が世話される。

例えば元体育教師などは社会教育施設の役職に就くことが多い。

私の知っている中学校の体育上がりの元校長は、とある研修施設でパソコンが扱えなかったので、薪割りをして多くの時間を過ごしていた。

高校の元校長の多くは私立大学の生徒募集担当に採用されて、校長のネットワークを使い高校を回って生徒を集めている。

また、小・中学校の元校長は市町村の教育関連の機関に再就職している人も多いようだ。

そして、初任者研修指導には元管理職があたることが多く、授業を担当するよりは負担無く高収入が得られる。

教頭の激務を耐えたなら校長になった方が、退職後が断然有利であることが歴然である。


私が知っている教頭止まりの人は、教頭で再任用できないので、別の高校の平教諭に戻ってなり手の少ない学年主任を任されてたが、非情で過酷に思えた。

成功例としては、女性教頭で現役退職した知人で、私立大学に採用されて教育科長を勤めていた。

働いていた研修所でたまたま出会った時に、何かあったら相談してと名刺を頂いたが、これは私が惨めに感じて相談できなかった。

こういう教育実践に造詣の深い人は、大学の教員養成担当として採用される例が多い。

特に、管理職経験者は大学からの要望があるようだ。

この場合は、元校長よりも、生徒や教師の指導の経験が大切なので、現場にはり付いていた元教頭の方が良いかもしれない。


管理職で無くても、受験指導や教科指導の堪能な人は、今は現場から求められることが多い。

70歳を過ぎても受験指導などで非常勤講師をしたり、私立高校の常勤講師をする人もいる。

中学校の元校長でも、授業をするのが好きだと言って、高校の臨時講師を非常勤や常勤でしていた人を知っている。

私は去年までは非常勤講師をしていたが、新課程の対応が煩雑で割に合わないので、延長を求められたが断った。

学校厚生会から定期的に来る冊子には、「助けてください」と退職会員に講師応募への切実なるお願いが書かれてある。

見限られた教育職には、現場経験の豊富な退職者が最も必要とされている。

無謀な元教頭先生の例は、下手に管理職になって失敗した例外的な愚例だと思う。






2025年3月4日火曜日

私学の負い目

私は中学校から受験して私学に通っていた。

家は裕福では無かったので、公立にはない授業料を支払うために親は苦労していた。

赤穂市からも奨学金を借りたり、母の親姉妹からも援助を得ていた。

だから、勉強をせずに遊んだり、ボーとしていると必ず父から高い授業料のことを持ち出せれて怒られていた。

私は元々勉強が好きだったわけでなくて、小学校では学校以外で勉強することは無く、担任の先生がゴンタクレの私を案じて母に奨めてくれたのだった。

その担任の先生の口利きで通い始めた進学塾でその気にさせられて、半年あまり必死で受験勉強して144人中24番の成績で合格した。

最初は、受験の延長で中学入学後も勉強を真面目にして、2年生頃までは上位の成績を保っていた。

しかし、もともとの奔放で遊び好きの性格が表に出始めて、バンド活動や女性との恋愛にのめり込んだ。

それ以来、大学に入るまで父親とは金のかかる私学の負い目を背負いながらのいさかいが続いていた。


結局、大学受験も失敗し浪人までしたのに、一流でない私学*しか受からなかったので、その結果への父の対応は厳しかった。

私学なら叔父の家に世話になるという条件で、名古屋なら許されたので仕方なく滑り止めに受けた。

別日程だった小樽商科大学は遠方過ぎて諸経費がかかりすぎるので、願書さえ出させて貰えなかった。

大学で授業料は払ってくれたが、叔父の物置長屋の居候からアパートに移っても、家賃が月に1万円かかるのに仕送りは2万円しか無かった。

期待はまじめに勉強して翌年国立大学に入学した弟にかけられて、一方の私は就職に関しても期待されなくなって、もう金を理由に指図されることは無くなった。

何とか特別奨学金3万6千円を途中から手に入れて、倹約した生活や土木作業のアルバイトなどで奄美にも自費で村落調査に行けていた。

ミュージシャンになる足がかりも失って、世間知らずで夢を追うことしかできない自分が、本気で取り組めたのが文化人類学という学問だった。

親からも期待されず、私学の負い目で貧しい暮らしとなっていたが、恋人もできて楽しい日々も過ごすことができた。


進学した大学院は公立であり私学の負い目は無くなったが、大学以上の進学は親は認めていなかったので一切の援助は無かった。

3番目4番目の弟の大学進学が予定されており、中学高校と公立だったふたりには、下宿して私立大学行くのが普通だったので全く親にはゆとりが無かった。

大学院では入学当初は奨学金募集枠が1人しかなく、親の収入が競争相手で社会学院生の親(自営業)よりも高かったので、選考に落ちて受けられずにいた。

それで家庭教師などのアルバイトに明け暮れたが、2年目から伴侶からの支援を受け、親の扶養から外れたことで得られた奨学金で何とか研究は続けられた。

そして、授業料を払わずに済むために1年間休学して、3年かけて修士論文に臨んだ。

しかし、元々修士だけと教官から宣告されていた上、研究の仕上げ方を誤り進学レベルに達せず、他の大学院も奨められたが私学だったので学資のめどが立たなかった。

何とか研究を続けようとしたが、伴侶との生活も終わることになって、再起を期して教師になるべく実家に戻らざる得なかった。

多額に積もった奨学金の返還を免除されるには、教師になるのが一番だったからだ。


母は私の最悪事態を恐れていたので温かく迎えてくれたが、父は厄介者が帰ってきたという気持ちをあからさまに表した。

それでも臨時教員として働きだし、教員採用試験に受かってからは手のひらを返したように協力的になってくれた。

それ以降、私学で負担をかけていた親への負い目からやっと解放されることになった。

ただ、中学校から私学に行きながら、大学は一流でない私学しか行けなかった負い目は死ぬまで残ることになってしまった。

以前にも書いたことがあるが、先輩の中には関西ではトップの私学に入りながら、恥ずかしいと言って自殺した人のことも聞いていた。

私学の負い目は単に経済的な問題だけでは無いことも、留意せねばならないと思う。


私学の授業料が無償化になることは、経済的な負い目から解放されることかもしれない。

無償化になれば勉強しなくなるという人もいるが、それは人それぞれだろう。

私のように多額の負担を理由にけしかけられていても、勉強しなかった者もいる。

しかし、私学の自由な校風やそこで得られた仲間との体験が、その後の人生を形作ってくれている。

私は学歴ロンダリングのお陰と、教師になった同級生も多いので、高校の同窓会には色んな仲間に会いたくて今でも必ず参加している。

私学もスパルタ教育指導していたところもあるし、私の母校のように自由で生徒の主体性に任せるところもある。

世界が多様化していく時代だからこそ、それに応じた生き方ができる若者を育てる必要が有ると思う

おそらく、公立中学・高校もそれなりの特色を出さないと入学希望者が減ってしまうだろう。

授業料の無償化になれば教育内容・指導法、集まってくる生徒資質によって学校が選ばれる時代になるということかもしれない。

そして、大きな所得格差が生じないように、私立の小学校や中学校の授業料も無償化した方が良いと思う。

不登校が多い現在において、それを防げる私学をもっと作るべきだと思う。

仕事が多すぎる上、縛りの厳しい公立の教員では対応が困難だと思うからだ。

因みに、私の高校の担任は部活指導を殆どしてなかったし、自宅で塾もして同級生を教えていたようだ。

ただ、私学にすすむことは精神的な負担のリスクを背負うことだけは知っておくべきだと思う。


曽野綾子『太郎物語』では、太郎さんは慶応大学の補欠を蹴って、あえて南山大学の文学部人類学科に入学されたが、私はそこしか合格できなかった。南山大学に関する物を調べたり、過去問をやっていなかったので人類学が何かも知らなかった。当然、当時は『太郎物語』は全く知らなくて、NHKの『太郎の青春』が放映されたのは大学2年の時だったが、下宿にテレビは無かったので殆ど観ていない。太郎さんは既に院生だったが、飲み会で議論した懐かしい想い出もあるし、聴講生だった奥さんの暁子さんとは机を並べてフランス語の勉強をしたことも懐かしい。