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2025年9月24日水曜日

矮性ソルガム(タカキビ)に託する希望

 去年までは2mほどまで高くなるソルガム(タカキビ、コーリャン)を栽培していた。

栽培し始めてまだ三年目だが、初年度は風で倒れたりしながらも、何とか収穫できてご飯に混ぜて食べきった。

二年目は途中で鳥に食べられたり、高温障害で実がならなくて、殆ど食べられなかった。

今年から矮性の種に換えて栽培して、やっと収穫しながら食べ始めた。

ソルガム一斉には熟さないので、順次採り入れて乾燥させながら食べていく。

矮性に変えたのは何よりも、背の高いソルガムは風に弱いので、しっかり土寄せなどをしたりする必要がある。

それに対して、矮性は風に強くて土寄せもせずに済んでいる。

一部は苗を作ってから移植したが、買った種も多くあったので適当に空いた畦付近に撒いておくとちゃんと生長してくれた。

本来は間引きする必要があるのだが、それも面倒だったので放って置いたが、問題なく大きくなった。

今年は異常に雨が少なくて水やりが欠かせなかったが、オクラやサツマイモなどに比べて大して水はやらなかったがしっかりと実ってくれた。


一番助かったのは、鳥除けが簡単だったことだ。

去年は鳥が多く寄ってきてついばむので、鳥除けの黒いテグスを張り巡らした。

畑の隅々に竹の竿を立てて、脚立に上って作業するのは大変な仕事になった。

そして、そのテグスは直ぐに切れて垂れ下がり、草刈り機の刃に絡みついて回らなくなってしまったこともあった。

鳥除けにはそれなりに効果はあったが、その弊害も大きかったので今年はやらなかった。

何よりもこの矮性ソルガムは穂の高さが1m50cm程なので、寒冷紗を上に覆うだけで穂を包み込むことができた。

支え木も立てずに、直接穂の茎にクリップで寒冷紗を固定するだけで済んでいる。


収穫も穂が低い位置なので簡単で、実もしっかり付いているものが多い。

やはり高温障害のせいか、全く身が入っていないものもあるが、以前の高い丈のソルガムより実の数は多いと思う。

むしろ、手間なのは脱穀で以前の物は手でしごいただけで簡単に実は落ちた。

しかし、たわわに実った穂から実は簡単に落ちない。

そして、籾すりのつもりで精米機にかけたら、粉になってしまうものも有った。

高い丈のソルガムではそういうことは無かった。


そこで足踏み脱穀機を使って脱穀したが、少し殻ごと固まりもできたので精米機で脱穀した。

まだ、収穫していないものが多く残っているのに、三リットルほどの収穫があった。

粉はニョッキに混ぜて食べたし、実も雑穀米に混ぜて普通に食べられた。

今後は粉にしてまさしくキビ団子を作ったりしても美味しく食べられそうだ。

何よりも芋類に比べて保存が楽で嵩張らない優れものだ。


原産国のアフリカでは色んな食べ方がなされているようだし、栄養価も高い。

あまり知られていないようだが、グレイン・ソルガムはアメリカなどで多く栽培されて家畜の飼料としてとか、製粉されて輸出、エタノールへの加工がなされているようだ。

日本では緑肥として利用が多いようだが、長野県を中心として食材としての利用が促進されている。

高温や乾燥、病気、虫害に強いソルガムこそ、これからは日本でもっと栽培して利用するべきだと思う。

稲と違って手作業で簡単にできて、農薬を全く使わなくても栽培できてるので、家庭菜園でも簡単にできる。

矮性のソルガムには今回は肥料も入れていないが、今後は有機肥料や有機石灰は今後施した方が良さそうだ。

矮性ソルガムは背が低いの他の作物の生長を阻害しないどころか、今年のような日照りが続くときには強い日差しから守ってくれたりする。

来年は日照りに弱い作物の間に植えてみようと思っている。

他にもエタノールとしてや茎や葉を乾燥させて燃料としてバイオエネルギーにもなる。

グルテンフリーだし、ポリフェノールや食物繊維が多いので健康にも優れた効果があるという。

こねると粘りが出てくるので、ひき肉に混ぜて使うこともなされているようだ。

かつては日本でも良く食されていたのが、米一辺倒になってしまって価値を失ってしまった。

しかし、温暖化が加速して破滅的な気候となっていく将来には欠かせない作物になると思われる。

私は夏場ではこの矮性ソルガムとサツマイモを食糧確保のための主力にしたいと思っている。


2025年9月22日月曜日

食っちゃ踊り、食っちゃ踊り

 食っちゃ寝、食っちゃ寝は昔の正月の過ごし方で、普段やると肥満の原因となる。

それがアフリカ狩猟採集民のサン(ブッシュマン)は食物が豊富なときは食っちゃ踊り、食っちゃ踊りを繰り返していたと文化人類学者の田中二郎氏は報告している。*1

氏の報告によると、サンはそれほど食物獲得に時間を費やさず、休息や余暇に時間をあてているという。

娯楽として大切なのはおしゃべりとダンスだが、ダンスは数少ない宗教的儀式にもなっていて重要なのだそうだ。

さすがに食糧が乏しい次期は踊ることはあまりなされないようだが、大きな獲物を手に入れるとそれが尽きるまで食べては踊りを繰り返す。

まるで、お腹をすかすために踊っているのかのようだ。


日本の盆踊りは新暦の8月(月遅れ)で行うのが普通になているが、あまりご馳走とは結びついていない。

ご馳走が出るのは秋祭りである。

米の収穫と関わっているようだが、私の育った赤穂ではつなし(コノシロ)寿司と甘酒を必ず作って飲んだり食べたりした。

獅子舞は別として、一般の人は踊りとは無関係だった。

食事と踊りが関係していたのは、奄美の与路島での祝賀会で最後に参加者が六調をおどることがあった。

沖縄でも結婚式の最後にカチャーシーを踊るのが有名だが、本土では宴会の終わりには肩を組んだりして唄うのが精一杯だろう。


実は、私は大学院を修了して養護学校(特別支援学校)教員になったとき、一番苦手だったのがダンスだった。

児童生徒はダンスが大好きなので、集会や体育の時間などで必ずダンスやリトミックを行う。

最初に覚えなくてはならなかったのが「アブラハムの子」のダンスだった。

最後にお尻を振るのだが、平気で振れるようになるには時間が必要だった。

職員はリズム研修として、定期的にダンスなどの練習をさせられるのだが、恥じらいながらしっかりやらないので、年下の女性教師から叱られたりした。

ただ、そういうダンスは苦手でも歌は得意だったので、踊る児童生徒に励まされながら楽しく唄うことができた。

それでも、10年以上特別支援学校に勤めたので、児童生徒と踊るのになんら恥じらいのは無い爺さんになった。


障害のあるなし、言葉の壁を越えて一緒に楽しめるのが踊り・ダンスだ。

最近は夏の夜は花火大会でお金を払った席で楽しむのが主流になってはいる。

その一方で東北の七夕に関する祭りや郡上八幡の徹夜踊り、四国の阿波踊り、よさこい踊りなど、伝統を引き継ぐ催しも健在だ。

私が学生の頃に良く通った奄美では旧暦八月の踊りが楽しくて一緒に踊った。

八月踊りは本来なら唄いながら踊らねばならないが、シマ口(方言)の唄は私には唄えなかった。

勤務していた高校の文化祭で一番人気があったのがクラスや仲間の創作ダンスだった。

私が歌うバンド演奏でB’zの曲をやったら、生徒は踊って盛り上がってもくれた。

一般の学校でも踊りはみんなを結びつける大切なものだった。

今の子どもに人気あるのはヒップホップなどのリズミカルなものだが、これはアフリカの狩猟採集民の踊りにも通じるものだと思う。

色んな人が色んな障害や壁、世代を乗り越えて、自分なりの好きな踊りを楽しめたらどんなに良いだろうかと思う。

大々的な七夕踊りや盆踊りなどでなくて良いから、以前の奄美のシマのように8月は毎晩のように庭先や道ばたで気楽に楽しめる踊り文化があちこちでできれば楽しいと思う。

博覧会や有名な神社仏閣、観光スポットがないところでも、手作りの踊りで日本内外からのお客さんを迎えられる村や町がいくつもあって良いと思う。



*1 田1990『ブッシュマン―生態人類学的研究 新装版』 思索社

2025年9月20日土曜日

様々なセイフティーネット

 セイフティーネットは救済策を網の目のように張ることをいうそうだが、私にはサーカスや建築現場などの安全ネットをイメージする。

実は私は両親のセイフティーネット=安全ネットに助けられた人間だからだ。

修士論文が上手く完成できなかった上に、伴侶との生活も破綻してしまい、できれば交通事故などで不意に死ねたら良いと思った時があった。

そんな私が救われたのは、母親にかけたコレクトコールだった。

後で母親に聞くと1ヶ月に4万円ほどにもなったという。

母親は自殺することを怖れて、お金には拘らなかったようだ。

そして、私は博士への進学に見切りを付けて、両親を頼って実家に戻った。


最近では、娘が離婚を機に子どもを連れて、実家に戻ってくるケースを良く耳にする。

万一、私の娘もそういうことになったら、絶対戻ってくることを拒むことは無いだろう。

そうなるまでの娘や息子は両親のことなど気にかけずに、自由に好きなことをやっているのが普通だ。

自分も実際そうだったのだから、若いときは親の事を気にかける余裕も無いのが当たり前かもしれない。

一方、親の方は便りが無いのは良い便りだと、子どもを思いながらも夫婦を中心とした生活を続ける。

ただ、最近は熟年離婚も増えてきているようで、子育てを手伝える母親は良いのだが、家事のできない父親は孤立したり、実家の年老いた母親と暮らしているようだ。


私は教師をしている時代にアメリカからのALT(外国語指導助手)と親しくなって、両親との関係を聞く機会が多かった。

たまたまかもしれないが、両親が離婚している場合が殆どで、父親との関係は希薄だった。

母親も新しい夫とそれなりの家庭を築いているので、親しくするかどうかは本人次第だった。

子どもは成長したら両親から完全に独立するのが当たり前で、失敗して頼っていく相手ではないように思えた。

日本でもそういう時代になってきているように思う。


親だけがセイフティーネットになるわけではない。

どん底の私を救ってくれたのは、確かに母親だったが、父親は冷淡に感じた。

親とてもみんなが子どもを手放しに許容できるわけではない。

実は遠くに居る母親以上に、私のことをそばで気遣ってくれた人が多くいた。

そのひとりは新たに始めたアルバイトの事務所に居た30代半ばの女性だった。

その方は離婚の経験があって一人で子育てをしている人だった。

私の身の上話を聞いてくれて、気遣って電話をくれたりもした。

離婚の辛さを経験している人の言葉は、誰よりも私の慰めとなった。

その職場には釣りに誘ってくれて、辛い休日の気を紛らせてくれた人もいた。

大学院の先輩も色々と気遣ってくれて、言葉をかけてくれた。

ある先輩はご自分の恋人との失恋話をしてくれて、結婚式もあげてなかった私たち夫婦は恋人同士と変わらないと言ってくれた。

夫婦関係を続けられなかったいう自信喪失した心に励ましとなった。

同じ奄美研究をしていた他の大学院の女性の先輩も食事に誘ってくれて慰めてくれた。

親のように金銭的には支援しては貰えないが、言葉をかけてくれたり一緒に過ごしてくれる人がいると本当に救われる。

コンクリートジャングルと言われる大都会だからこそ、支え合うことの大切さをみんな知っていたのだと思う。


今住んでいる村でも、最近夫婦でふたり暮らしていた人が、夫を亡くしてしまった。

その一人暮らしになった人の子どもやメイなども葬式直後はずいぶんと気遣っていた。

そして、そういう人がいなくなった後に、気遣ってくれていたのは同じ村の同世代の女性だった。

色んな人が何かと家に行っている姿を見かけた。

小さな村ならではの心遣いだった。

過疎化が進んで一人暮らしが増えている中で必要なのは、まさしく遠くの親戚より近くの他人だと思った。


これからの時代は、所属する団体や地縁血縁だけでなく、ネットを通した心の支え合いが可能だろう。

ただ、気をつけなければならないのはチャットGPTなどに相談して自殺してしまった例があるように、現実と非現実の区別ができなくなった時代に生きていることだ。

容易にアクセスできるネットに依存してしまう危険性もしっかり知っておくべきだろう。

ジェラルド・ブロネール 2023 『認知アポカリプス―文明崩壊の社会学』みすず書房ではそのことを詳細に述べてくれている。

そこではソーシャルネットワークへの依存はアルコール依存と変わらないことも述べられている。

未成年に対して規制をかけようというのもそういう理由からだろう。

特に経験の乏しい人に対するセイフティーネットワークは生身の人間があたるべきだと思う。










2025年9月18日木曜日

銃撃テロと武装市民

 政治活動家のチャーリー・カーク氏が暗殺されるという、またしてもアメリカで銃によるテロが発生した。

確かに銃の規制がしっかりと行われていたら、この事件は起きなかったかもしれない。

ただ、安倍元首相の銃撃に用いられたのは手製銃だったことを考えると、高性能の銃を用いずとも暗殺は可能であることが分かる。

けれども、トランプ大統領は銃で狙撃されたのが昨年の7月14日で、そのトランプ政権の立役者とされたチャーリー・カーク氏が先日9月10日暗殺された自体は銃社会を象徴している。

そこで、私は小熊英二『市民と武装-アメリカ合衆国における戦争と銃規制』慶應義塾大学出版会(2004)を読んでみた。

これは 一九九二年一〇月一七日、アメリカ合衆国ルイジアナ州の町バトンルージュで起きた日本人留学生が銃によって殺される事件をきっかけとして書かれたものだ。

この書を読んで再認識されたのは、「市民革命」の意味である。


王権を倒したフランス革命の手本となったアメリカ独立革命とは何だったのかと言うことが市民武装の視点から捉えられている。

それまでの王政による武力の貴族や騎士の独占は市民を一方的に支配できた一方で、傭兵を用いた戦争では大した殺戮を伴わないものだったという。

アメリカ独立戦争では市民が武装化することにより、戦争はルール無き殲滅戦となり、それまでの戦争のやり方のイギリス軍は容易く敗れたという。

これは幕末の第二次長州征伐で、多勢の幕府軍が少数の長州軍に簡単に敗れたのに似ている。

アメリカ市民は開拓を通して、野生動物との闘いや先住民との戦いで、ライフル銃を子どもの頃から使いこなしていた。

射程が長く正確なライフル銃では散兵戦を可能にして、隊列によって進撃する兵士を簡単に倒し、それまで禁じ手であった将校の狙撃を可能にしたという。

このあたり、未熟な兵士に突撃を繰り返させて玉砕した旧日本軍を思い出させるが、要するに王政の元で武装できてなかった市民は実戦であまり役に立たない。

傭兵も命がけで戦うと割に合わないので直ぐに逃亡するという。

市民革命は王政を廃止したり、王国から独立することを引き換えに市民自ら武装化することだった。

かつてバーバート・ノーマンが、市民革命を経ていない日本兵を奴隷兵士のように捉えたのはそういう背景があったからだった。


しかし、小熊氏のような歴史家は普通に市民という言葉を使うが、侵略された先住民からすれば侵略者に過ぎない。

その侵略者の後継者が独立した国家を築き、先住民から掠奪した領域の権利を正当化したのが市民なのだ。

これは、日本でも北海道で先住民のアイヌから土地を奪って生活している市民と変わりは無い。

ただ、北海道では当初は武装した屯田兵が重要だったが、アイヌは銃による武装化をしなかったし、北海道は独立しなかったので武装市民は誕生しなかった。

一方、明治維新の立役者となった島津藩は、関ヶ原の戦いに敗れて以降も臨戦態勢を維持しており、郷士は農耕をしながらの武装民であった。

人口の4分の1が武士であり、下人や隷属民を従えていたことは、身分制度を別にすればアメリカに類似していると考えられる。

アメリカでも市民は平等だったが、先住民や黒人に対しては厳しい差別を行っていたのだから、本当の民主主義とは言えなかった。

アメリカでは武装市民と島津領の郷士と比較するとどうだろうか?

因みに郷士制度は「百姓や町人や浦人【うらにん】(漁師)を、ビクともさせぬくらいに押さえつけて支配する。しかしいったん戦争でも始まれば、ただちにそのまま軍団を形成して、地頭の指揮の下で動き出すという仕組みである[原口虎雄1966:15-16]*1」

百姓、町人、浦人を先住民や黒人と見なせば、そう違いが無いように思える。

また、植民地化した奄美では現地の有力者を郷士にして多くの家人(身売者とその子ども)を支配したが、武装化がなされていたようだ。

郷士はアメリカの武装市民と類似していることが分かる。

また、戦前満州においては義勇隊のような武装集団もあったようだが、開拓団はソ連侵攻では関東軍に見捨てられ崩壊してしまった。

既に銃の武装だけでは正規軍の前には、かつてのアメリカのように開拓という名の侵略はなしえない時代になっていただけなのだ。


遙か昔に移動してきた弥生系の流れを汲む今の日本人には、縄文系先住民との戦いは忘れ去られた過去である。

あたかも自分たちの祖先であるかのように縄文人に関心を持つが、アイヌや琉球は別としてゲノム解析から我々の中にある遺伝子にはそれほど含まれていないことが分かっている。

また、古代の大和朝廷おいては蝦夷や熊襲との戦いという形で、地域独自に根付いた集団との争いの記録は残っている。

しかし、中国文明の影響のもとで武力を制する貴族が誕生して中央集権国家が誕生したが、やがて武力を背景とする武士(武装貴族*2)の誕生によって地方分権型国家になる。

戦国時代にはかなり武装化が一般に進んで、他国よりも人口比率の多い武士の力を背景に、秀吉の刀狩り(銃保持制限)を通して武装市民は生まれなかった。

秀吉以降は朝鮮侵略の失敗に懲りて、明治の欧米化するまで他国へ侵略することを諦めていたこともその背景にあるだろう。

それが日清戦争と日露戦争の勝利で味を占めて、徴兵制による市民の戦争参加がなされ中国に勢力を伸ばしたが、侵略の本家本元のアメリカには勝てなかった。

そして、アメリカのような武装市民に育たなかったばかりか、軍隊さえも戦争放棄させられた。

しかし、侵略された側にすれば、侵略者が更生したとも言えるのだ。

我々日本人は、武装市民国家アメリカをしっかりと理解しなくてはいけないと思う。

アメリカが特権貴族に対抗した武装市民の流れを汲むのなら、独裁的になった特権資産家やそれに結びついた活動家に対して従順であり続けられるのだろうか?

今回のテロに関してはそれを考えずにはいられない。

また、外国のいくつかの国では規制をしながらも、個人の防衛目的の銃の保持が認められていることも知っておくべきだろう。

ウィキペディアの「各国における銃規制」によれば、日本のように個人防衛目的の銃保持が認められてないのは近隣では中国、南北朝鮮、ベトナムだけだ。

興味あることに、これらの国は儒教と歴史的に関わりを持っている。

一方で、日本人が殺人を依頼するフィリピンは自由度が高いのだが、アメリカの植民地が長かったはことと関連があるかもしれない。


*1 原口虎雄 1966 『幕末の薩摩-悲劇の改革者、調所笑左衛門-』中央公論社

*2   S・アンジェイエフスキー 2004 『軍事組織と社会』新曜社


2025年9月16日火曜日

神居る千種・水くみ2025年9月

 昨日(9/15 敬老の日)にやっと千種川の源流となる宍粟郡千種町に家内と水くみに行くことができた。

春に汲んで置いた水はとっくに無くなっていた。

軽トラの荷台に10リットル20個と18リットル6個のポリタンクを積んで、行者霊水と言われる水くみ場でいつも水を汲んでいる。

前回は故障していて汲めなかったので、名水こうち広場で汲んできた。

それ以来、大切に水を使っていたが、7月までには無くなってしまった。

そこで、汲みに行こうとしたのだが、あまりにも暑くてできなかった。

というのも、荷台に積んである容器に給水器からホースを伸ばして入れるのは簡単だが、その容器を家の中の納戸に運び込むのが大変なのだ。

昼間は35℃を超える暑さの中で、夕方になってもその作業をすることは無理だと思った。

それで、9月半ばにしてやっと気温が普通の真夏並になったので汲みに行こうと思った。


予めドライブがてらに立ち寄って、給水装置が直っていたのを確認していて行ける機会を待っていた。

以前は家内と二人だけでできた水運びも、家内がリューマチになってからは、息子の手を借りないとできなくなっていた。

そこで、息子が夜勤から戻って来て家にいる日を選んだのだ。

千種町の当日の気温予報を調べたら、33℃ということで上郡と変わらない。

そこで、空調服を着込んでいくことにした。

例年は8月に汲みに行っても、千種は涼しいので空調服など必要なかった。

太陽に近いから暑いのだろうと、標高が562mある千種町のことを家内と冗談を言いながら出かけた。


上郡から久崎までは国道373で千種川に沿って進んでいくのだが、最近は雷雨が良くあるのに水かさは少なく、たくさんの白鷺が浅瀬で餌を探していた。

久崎からの吉永下徳久線は川幅が狭い分水量も多く感じる。

ここはひまわり畑の観光を力に入れていて、シーズンに休日に行くと渋滞に巻き込まれるが、もうすでにシーズンは終わっていた。

私は2年ほど前には千種高校に非常勤講師として勤めていたので、通い慣れた道ということもあって単調で眠気を誘われる道である。

今回も前を行くプリウスが制限速度をしっかり守るのは良いのだけれど、カーブのたびにブレーキを踏んでかなり減速させるので少々苛ついてしまった。

途中にある南光町の自然観察村キャンプ場には大勢の人がテントを張っており、川辺で水遊びをする人も見られた。

これは真夏の風景と変わらない。

そばにあるひまわりの館には、本当は帰りに立ち寄って力うどんを食べたかったのだが、現在は金土日しか開店しておらず、休日なのに閉まっていた。


道の駅ちくさは夏場は川で水遊びができるので、駐車場はほぼ満杯になっている。

前に居たプリウスもその混雑する駐車場に入っていった。

ドライブで通りかかると併設されている農産物の直売所に立ち寄って、いつも「門次郎さんの平飼い卵」を買うのだが、駐車することが無理そうだった。

千種高校のそばを通って行くときに、野球部が練習するのを見たが、部員が6名しかいなかった。

私が教えた生徒には女子選手も混じっていたが、もう3年生だろうから引退していない。


行者霊水の給水所に着いて降りると暑い。

高地の涼しさのかけらも無い。

そこの駐車場には後山に登る登山客の車が三台ほど停めてあり、一人はこれから登るところだった。

登山口の入り口には平成の大馬鹿門が曰わく付きで設置されている。

日差しの強い中を家内は給水器に100円を投入し、私が陽気にホースで水を入れていった。

途中で別のお客さんも来たが、給水器は一台しか無いので待たせてしまった。

給水が終わった後でその人の様子を見たら、ほんの少ししか容器を持ってきてなかったので、途中で入れさせても良かったと思った。

給水が終わるといつもそこの拝み所に賽銭を上げて二人で拝んでから後にした。

帰りは特別栽培米の「千種の舞」が売っていそうな店を探すのに、千種の街の道路を通ってみたが見つからなかった。

後ろから車が近づいてきたのでゆっくり探せなかったこともあるので、今度涼しくなったらゆっくり探そうと思う。


帰ってきてから、夕方になって息子が起きてきたので、頼んでポリ容器を運び入れた。

軽トラの荷台から玄関の取次まで運ぶのと、取次から納戸の棚に入れるのを手分けするが、息子は前者を選ぶ。

思いポリ容器を狭い納戸のスティール棚にしまうのは力と工夫がいるからだ。

以前はその仕事を家内がおこなっていた。

こんな力のいる作業をいつまでやれるかと思いながら続けている。


子ども達が幼い頃から、子どもの水の安全を思って始めた千種の水汲みも30年以上の年月が経つ。

当初はスキー場に併設してある給水所まで上がっていた。

千種は子ども達と水汲み以外にもキャンプや水遊びをした想い出の残る場所でもある。

南光町のひまわりの館で子ども達と力うどんをおいしく食べた。

こうして夫婦二人でわざわざこんな遠くまで水を汲みに行くのも、ここにくると水以上に豊かな自然の力を得られるように思うからだ。

縁があって一昨年は千種高校に勤めたことだし、これからも訪れ続けたい場所だ。

たたらで有名なのは知っていたが、気になってネットで調べたら古くは神が腰を下ろす「敷草村」と呼ばれていたそうだ。

そこの行者霊水を日々頂くことは、身体だけで無く心にも潤いを与えてくれるものだと思っている。











2025年9月15日月曜日

年金暮らしの野良人

 飼い犬、野良犬、山犬(狼)そして飼い猫、野良猫、山猫という言葉がある。

英語に直すと犬はpet dog,stray dog,wolf、猫はpet cat, stray cat,lynx(wild cat)

日本では山犬と狼は区別しようとする意図があるが、英語では無いようだ。

これは日本で豚と猪を区別するが、中国では区別しないのに似ている。

家畜化された犬猫が野生に戻って存在するのを許容するかどうかの違いのようにも思う。

日本は野生化した犬は野生そのものの狼とさほど区別はしていなかったようだ。


また、ペットの位置づけは食用とか使役の問題だろうが、日本では犬や猫は肉ないし皮を利用したり、狩猟やネズミ退治に使われていた。

江戸時代に生類憐れみの令が出されて、犬は特に食用を禁じたようだが戦前までは食べる人もいたようだ。

英語のpetは愛玩の意味が強いようで、日本のような利用をしないようだ。

そういえば、欧米では馬は愛玩動物の意味もあるのか、決して日本のように食べないようだ。

日本人は家畜は建前上は使役のみで、実際に裏では食用にもなっていた。

そういう意味で、本土の馬や牛は犬や猫と違って飼い馬、飼い牛、と言う表現はないけれど、馬を飼うとか牛を飼うと表現もする。

牛馬と犬猫の厳密な区別がなされていないように思う。

その点で行けば、英語では犬・猫・馬はhave,keepを使い、牛はraiseで区別しているのは食用とも関係しているのかもしれない。


一番大きな違いは野良犬と野良猫だ、英語のstrayには迷うとかはぐれるの意味があるが、日本語の野良にはそういう意味は無い。

野良は屋外を指すが迷う場所でもはぐれた場所でも無く、野生そのものの「山」よりも人の生活に近い場所を言う。

英語では本来人と共にあるべき犬・猫が迷ったりはぐれている意味があるが、日本語は人に飼われてはいないが、野生の動物のように自活はしていない状態を意味している。

そして、そういう人には飼われずに居住地域周辺に生きる犬・猫の存在を許容していたように思える。

野生でも家畜でも無くて人のそばで生きてきたのが野良犬・野良猫だった。


人の場合は今の日本では屋外で生活していると浮浪者と見なされる。

昔は木地師やマタギのような移動生活者もいたが、仮小屋とは別に家屋を持っているのがふつうだったようだ。

だけど、人類の歴史を考えると狩猟採集時代の移動生活が殆どだった。

そして、日本では定住生活になっても、常に村落の回りや自然界の山や海との関わりを保ち続けていた。

そこで、山仕事をしたり野良仕事をして暮らしてきたのだ。


近代化されて、都市部に暮らす人は信仰やリクレーション以外に、自然との関わりを無くしていった。

農林水産業に携わる人も、収入の対象としての自然という見方になってきた。

野良作業・仕事は賃金目的でする労働のことを指してはいない。

暮らしに必要な物を手に入れたり、村が山になってしまわないために行う作業・仕事を言う。

完全に機械化管理されたところでは野良作業・仕事とは言わないだろう。

野良作業・仕事の方が肉体的にきつくても気楽で面白いこともある。

そこから得られる物を金に換算したり、時間に追われることが無いからだ。

本来賃金目的でする仕事には無い魅力があるし、時間に追われない分、好きな研究や多くの趣味や健康管理に没頭できる。


私は今は完全退職して、畑での野良仕事を中心とした生活をしている。

作った農作物はたまに人にあげるが、殆どは家で食べる物だ。

出荷して金に換えても大した額にもならないし、いろいろ面倒なことも起こる。

そして、自分の都合に合わせて朝早くでも、夕方遅くでも自由にできる。

季節によって、村の回りの山菜なども採って食べたりもする。

村の溝掃除や道作りなどの野良仕事もちゃんと参加している。

以前は、それに出ないと出不足金を取られていた。

今は、出た分を村会費から引いて貰えるが、賃金は支払われない。

いわば家には住んでいるけれど野良人と言っても良いかもしれない。


これまでは、収入を得るために学校の教師として働いていた。

言い方は悪いが、県に飼われていたと言って良いだろう。

ペットのように可愛がられはしなかったが、雇用は守られて生活できる賃金をもらうことができていた。

その代わり、時間外の労働や、無理な仕事を命じられることも多く、心身の健康を害することもあった。

年金が完全支給されて、やっとそういう賃金目的の仕事から解放されたのであってはぐれたのではない。

雇われ続けたかった人にとっては、追い出されたとかはぐれたと感じるかもしれない。

私にとって野良作業・仕事は大切な生きがいであるのでそのように感じない。

できれば、山や海で狩猟・漁労もやってみたいが、それはこれからの課題だろう。

現代の日本の勤労者の殆どは賃労働とボランティアしか頭にないかもしれない。

野良作業・仕事は結果的に収入になったり奉仕であったりするかもしれないが、それを目的としていない。

本来は自分の意思で自由に居住近辺で野生と向き合うのが野良作業・仕事だと思う。

そういう作業・仕事を立派にこなせる野良人になることに努めたいと思っている。

その一方で、山人や海人に対しての憧れも抱き続けている。





2025年9月13日土曜日

ドーパミンから見た社会②~ポルノビデオと少子化問題

 江戸時代の春画を始め、男女の性描写は人々の心を捉え続けてきた。

絵画が写真となり、そしてビデオとなったのだが、それとは格段の違いとなったのがインターネットの配信だった。

今回も次の書籍を元に考えてみる。

『もっと!―愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』   ダニエル・Z・リーハーマン、マイケル・E・ロング 梅田智世訳 2020(2018) 合同出版 (以降D・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018)]と記す。)

この書では安易にネットでポルノビデオにアクセスできるようになって、ポルノ依存症が増加していることを指摘している。

衝動的なポルノ鑑賞が常習性薬物と厳密に同じだという確証はまだないが、共通する点はいくつかある。常習性薬物の場合と同じく、過剰なポルノ消費のサイクルに陥ってしまった人は、日ごとにその活動に長い時間を費やすようになる。ときには毎日数時間になることもある。アダルトサイトに集中したいがために、ほかの活動を避けるようになる。パートナーとの性的関係の頻度が減り、満足度も低くなる傾向がある。ある若い男性は、デートするのを完全にやめてしまった。現実の女性とデートするよりもポルノを見ているほうがいい、写真のなかの女性は何も要求しないし、絶対にノーと言わないから、というのが彼の言いぶんだ。D・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018):85]

ドーパミンによって常に新しく刺激のあるポルノビデオを求めるようになる。

この生殖と関連するドーパミン作用は薬物などの習慣の有無の問題で無く、生存そのものに関する重要なことだ。

それが薬物と同じような依存性を伴ってしまう。


この頃はポルノビデオだけで無く、以前はオナニーとかマスターベーションと言われていたのが、セルフプレジャーと言う表現で市民権を得てきている。

そして、それに関するグッズが多く販売されて、若者だけで無く高齢者も愛用されているようだ。

ポルノビデオは場合によって、男女間のセックスの役に立って、それが妊娠に繋がる可能性もある。

しかし、セックスができなかったり、面倒になった者にとっては、セルフプレジャーだけに利用するもので、妊娠とは結びつかない。

もう子育てが済んで望めない高齢者はともかく、若者の多くがそういうことになれば、ますます少子化が進んでしまう。

本来はドーパミンと関わるセックスが、妊娠出産によって子どもを育てる幸福感のオキシトシンに繋がるべきなのだ。


ただ、ネット上のポルノビデオだけに責任を負わせて規制を厳しくしても解決にはならないだろう。

これからは男女だけにかかわらず多様な性関係が認められるようになる。

その選択肢の中で、子育てを望むような環境作りが重要なのだと思う。

子育てを通して得られた幸福感(著者はヒア&ナウ(H&N)」と呼ぶ神経伝達物質による)が、子育て期間を過ぎても得られていたのが家族や親族だったと思う。

その家族・親族が行きすぎた資本主義社会の犠牲になって解体されて、幸福感を得る場所を失ってしまった。

だから、むうしろポルノ依存症は少子化の原因では無くて、代償とも言える。

つまり、政府や企業は子育てとその後の家族・親族を通して得られる幸福感を支援できる仕組みを作らねば少子化対策にはならない。

そもそも非正規雇用を多く生む政策を行い格差社会を助長して、結婚もできない男女を多く作った自民党・公明党の政権に根本的な原因もあるとも思える。

近年は男性の育児休暇や、時間外労働時間の規制を進めているが、外国人を含めて非正規雇用の人々を犠牲にしたやり方なら、根本的解決にはならないだろう。



2025年9月11日木曜日

ゴルフより読書

 石破首相はゴルフよりも読書が好きだというが、地元でゴルフをしていて嫌みを言われたので、挨拶回りの方を優先したらしい。

それでも読書家であることは確かなようで、それが漫画好きの麻生元首相と馬が合わないのも分かるような気がする。

また、ゴルフは高校時代のクラブでの競技スポーツとしての経験だろうから、社交ゴルフには違和感があったのかもしれない。

それよりも、いわゆる昔で言う「オタク系」に思われる首相の趣味は、誰にでも受け入れられることは確かだろう。


私は中学高校と電車通学だったので、勉強は嫌いだったが本はよく読んだがオタクではなく、いわゆるロックバンドの不良だった。

しかし、そのわりには純文学の方を中心に読んでいて柄にも無く夢見る少年だった。

大学へ入ってからは1年目は軽音楽部や剣道部だったときは殆ど本を読んでいなかった。

ところが、文化人類学研究会に入ってから村落調査をするのに必要に迫られて、専門書を読むようになった。

でも、読書よりフィールドワークの方が好きだった。

そんな私が研究者になろうとしたのだから、かなり無理があったのは確かで、特に英語の論文がまともに読めなかったが致命的だった。


文化人類学はフィールドワークが重要だったので、そんな私にも研究者への望みもあったのだが、やはり文献をこなす研究者の資質に欠けていた。

だから、理論よりも実践が重要な教師になったのが正解だったようにも思える。

臨床教育学という分野もあるが、大学の教育学の研究者は研究対象の学校の実践経験に乏しい。

現場の教師の実戦経験を聞いたり観察したりだけで、理論を組みたてていくので非常に無理があると思う。

教育学者と政治家、官僚を中心に作られた学校指導要録や免許更新制度などに、どれだけ現場の教師が振り回されて大変な思いをしたか実感として知っている。


政治家は理論家ではなくて実践家の部類になるのだと思う。

選挙はある意味で闘いで、自分を選んでくれる人としっかり向き合わねばならないだろうし、外交ならその相手とも公私にわたって関係を築かねばならないだろう。

それは教育現場で生徒としっかりと向き合ったり、進学先や就職先との関係を築くことと似たところがある。

もし、現場の教師が教育理論を振り回して、生徒から人気はそこそこあっても、職場の仲間との関係が上手く築けなかったら優秀な教師とは言えない。

ただ、教育現場でも派閥や管理職との関係よりも生徒のための指導に徹する孤軍奮闘教師はそれなりに存在価値はあると思う。


今の自民党は人気を失って定員割れを起こした大学や高校に似ている。

そして、そこの学長や校長が人気などとは関係なく、学校自体が人気を失っているケースなのだ。

私は石破首相の広島でのスピーチには感動さえ覚えた。

歴代の首相とは違って、気持ちをそれまでの読書から得られた知識で活かすことができたのではないかと思う。

気の毒に思うのは、こういう理想家の人を支える献身的な部下はいても、辣腕の部下を欠いていたことだろう。

単に調整の旨い人や格好だけで中身の無い人に頼っていては、強い実行力の乏しい理想家の弱点をさらしてしまうだけだ。

首相が人気が無いわけでは無いのに、自民党の人気が減ったのは自民党が頼ってきたアメリカがトランプ大統領のせいで信頼が失われたのと歩調を合わせているとも思う。

大手企業を重視した政策がトランプの関税政策対応などで国民を犠牲にしているように感じさせた。


私はゴルフを始めようとゴルフセットやゴルフシューズまで買ったのに、打ちっぱなしに行った程度で、一度もラウンドを回ったことは無い。

何度も、職場の教師から誘われたり勧められたりしたが、結局はしなかった。

授業でゴルフ場の自然破壊を力説しながら、自ら加担するわけには行かなかった。

また、土日はクラブ活動や、家族と一緒に過ごすのに時間を費やしたかったからでもある。

最近は熊が近隣で出たというので、しまっておいたゴルフクラブを杖代わりに持って朝の散歩に役立てることはできた。

読書は相変わらず多くの時間を費やしているが、前立腺が炎症を起こしてから立ったり座ったりの工夫が必要となってしまった。

だから、読書はほどほどにして、散歩、農作業、水泳で健康を維持している。

石破首相の容貌や体型を見ていると、読書やオタク趣味も良いけれど健康のためにゴルフをした方が良いようにも思う。

私の叔父はゴルフをする機会を失ってから、糖尿病を悪化させて亡くなってしまった。

首相を辞めたら、鳥取にももっと滞在して、あのすばらしい自然と向き合って欲しい。




2025年9月10日水曜日

突然のスコールのような雷

 地理を学んでいる者は常識なのだが、台風は移動性熱帯低気圧と言われながら、赤道の北と南の5度以内では自転の関係で発生しない。

その代わりにスコールが良く発生すると教えられるが、元来はスコールは熱帯に限らず突風のことを指したらしいのを、日本では驟雨のような突然の雨を一般にさしている。

以前に修学旅行で生徒と一緒にグアム島に行ったのだが、そこでスコールに遭遇したことがある。

向こうの方から雲がやってくるのが見えて、突然降り出したかと思うと直ぐに止んでしまった。

北緯13度にあるので、熱帯海洋性気候でこのあたりは4から5年に一度は台風はやってきて被害が出るそうだが、日本のように毎年は来ないそうだ。

琉球列島や九州などが台風の通り道となって、毎年台風がやってくるのが普通なのだ。

ところが、今年は台風が例年のようにやって来ていないが、熱帯並の海水温が高くて、日本近海でも発生するらしい。

ということは、グアム島のようになることかもしれない。


日本は海に囲まれて海洋性気候になって良いはずなのだが、大陸の東岸に位置するのでその影響が強い。

しかも、南からのモンスーン(季節風)の影響も強く受けるので、温暖湿潤気候になっている。

地理では冬に大陸から、夏に海からの影響を受けることを教えて、大陸西岸の地域との違いを教える。

しかし、このように温暖化の影響で日本の周りの海が熱帯並になってしまったら、従来通りの気候の捉え方ができなくなる。

日本は夏は熱帯性大陸東岸気候と呼ぶべきかもしれない。

太平洋高気圧とチベット高気圧の影響によって高温で、雨は少ないが局地的には豪雨となる。


昨日(9/9)の午後の4時頃に上郡ではすさまじい雷雨となった。

ちょうど、私はプールで水泳をしていたのだが、雨の音が大きくて流れている音楽が全く聞こえなかった。

家のことが心配で帰ろうと思うのだが、傘を持たずに来ているので車まで行くのにずぶ濡れになるから泳いで時間を潰した。

小止みになって家に戻って開けてでていた部屋の窓を確かめたら、息子が閉めてくれていたので布団が濡れずに済んだ。

昼頃にはちょっとした雨があったので、洗濯物は室内に取り込んでいたのも幸いした。

奄美では弁当を忘れても傘を忘れるなと言うがそれは単なる譬えで、昔の小学生は道ばたの大きなクワズイモの葉を傘にしたという。

東南アジアでは雨の後で直ぐ晴れるので濡れること自体あまり気にしないが、奄美でも農作業では少々の雨は気にしなかったのだと思う。

こちらでは今まで、晴れ続きだったので、これからは雨への心構えが必要となった。

幸いなことに、試しにサツマイモの蔓を昨日の朝に植えてみたので、水やりは助かった。

今朝(9/10)散歩をしていて、道の草や田んぼの稲が倒れているところをいくつも見た。

近所の高田川は大して増水していなかったので、短期間に雷雨と突風が酷かったのだと分かった。


地理はケッペンの気候区分を覚えるのが生徒にとって苦痛なのだが、その気候区分も温暖化の影響で実際とずれてきたのではないかと思う。

今年のような年の雨温図(気温と降水量のグラフ)で、その観測位置や気候帯を推測するのは無理だろう。

破綻してしまった気候を地理の教科書で理解するのは難しくなったと思う。

おそらく今後は台風シーズンが初夏や初冬に広がったり、真夏が乾燥帯のような気候になるかもしれない。

服装も夏場の外出時は晴雨兼用傘と空調服が当たり前になっていくかもしれない。

子どもの頃の穏やかな夏が恋しく思う今日この頃である。



2025年9月9日火曜日

平和教育と戦争肯定

 我々日本人は現代では戦争を肯定する言論は普通どこでもなされることは無い。

学校においても平和教育が基本で、教師が戦争を肯定したり賛美したりすると、非難されるだろう。

学校では戦争は悲惨なもので絶対するべきでは無いと教え込まれる。

しかし、一方で教科書での日本史や世界史の戦争の記述では、戦争によって時代が変わったり、近代化がなされたり、経済復興したことが記述されている。

そして、負けた側の日本の立場で戦争否定が絶対化しているように見られるが、勝った側のアメリカが戦争を肯定していることに触れようとしない。

今回のトランプ大統領が国防省(Department of Defence)を戦争省(Department of War)に改めようとしていることが、如実にそれを物語っている。

アメリカではかつて戦争省と呼ばれていた時代があって、その時代がまさしくアメリカが偉大で有ったのでそれに倣いたいと言うことらしい。


日本はアジア・太平洋戦争で自国に多くの人命や富を失ったし、他国にも多くの損害を与えてその倍賞に負われた。

一方、アメリカはその戦争を含む第二次世界大戦に勝ったおかげで、世界のトップの超大国にのし上がることができたのを誇りに思っているようだ。

日本人も戊辰戦争、日清戦争、日露戦争によって近代化や経済発展、領土拡大されたことを歴史的に否定することは無いのと同じである。

そのアメリカもベトナム戦争の長期化で自国で反戦運動が起こったのだが、それでその後の戦争を止めたわけでも無い。

アメリカは戦争を通して世界での覇権を握ったのであり、ロシアや中国、北朝鮮もそれに対抗するための軍備拡大を行ってきた。

GDPでの世界ランキングでは中国は2位だがロシアに関しては11位、北朝鮮では137位である。

世界に大きな影響を与えているウクライナ戦争は、経済だけが世界を動かしているわけは無いことがよく示されている。


トランプ大統領は関税という経済政策によって世界を操作しようとしているが、それを成り立たせるのは軍事力だと言うことをよく分かっている。

だから省の名前も変更しようとしているのだが、その一番のパートナーにしてもらおうとする日本はその相手をしっかりと知るべきだ。

学校での平和教育は戦争否定だけで無く、戦争を肯定する国の実体もしっかりと教えるべきだ。

日本国の平和憲法は理想としてはそうあるべきだと思うが、学校やマスメディアなどでは単に理想で済まされない現実をきちっと発信せねばならない時代になったと思う。


私は「戦争放棄の戦略」でも書いたように、戦争を否定するのが日本にとっては重要なことだと思っている。

しかし、戦争を肯定する国の本質をきちっと理解し、日本国民に知らせておくべきだと思う。

特に学校教育では人権教育と同じように、被害者の立場でしか解説がなされないことが多い。

マスメディアも戦争反対のキャンペーンでは、悲惨な面を報道するのが主である。

確かに、それは重要なことだけど、加害者のことも、戦争で恩恵を受けることもきちっと踏まえて、学習や報道がなされるべきだと思う。

また、イデオロギーや宗教の問題として戦争が論じられてきたが、人類の生来の認知機能に基づく行動からの論じ方も必要だろう。

トランプ大統領の出現が、悲惨さだけで戦争を理解させる時代からの転換を実感させた。




2025年9月8日月曜日

貧乏性にした責任

 家内が底が外れたサンダルを修理したと自慢している。

私はそんなにうちは貧乏では無いから、新しいのを買うように言うのだが買おうとしない。

それはお金の節約という意味もあるが、足が非常に小さくて(22.5cm)気に入ったものを探すのが大変なのだ。

やっと安くて自分の気に入った履き物は修理してでも使い続けたいらしい。

本来なら、大きな街に行って時間を使い探せば良いのだろうが、私に気兼ねしているのかそれもしない。

他にも、特に衣服などは安売りの物しか買わずに、安く買えたのを大阪のおばちゃんのように自慢している。

専業主婦から臨時の職員になった関係で、今でも給料が安いので無駄遣いと思われるのも嫌なようだ。


私自身が一人だけとか知り合いと出かけていったりしたら良いのだが、退職してから家に籠もって研究が中心となり出かける機会を失ってしまった。

そういえば、家内から聞いたのだが、研究職だった夫が大学を退職するのを機会に、知り合いの奥さんの方が薬剤師としてしっかりと外で働くようになった例がある。

薬剤師の資格を持っていて働いていて、結婚後に出産を機会に辞めたのだと言うが、それなら子どもが家から離れた時点で復帰しても良さそうだ。

つまり、夫が家に籠もって研究するので、一緒にいる時間を減らそうとしたと言うことだ。


家内自身も60歳を超えても外で働いているが、半日程度の仕事である。

知り合いの奥さんのように気兼ねなく、出かけるのが躊躇われるらしい。

私は教師をしていた関係で、高給取りの女性教師を多く知っているが、その人たちは夫に遠慮無く一人や友達と泊まりがけで出かけたりしていた。

もし、私も職場結婚して正規採用の女性教師と結婚していたら、それと同じような生活になっていただろう。

そういう知人の夫婦ともども教師が、退職後には夫婦が別々の楽しみを見つけて暮らしているのも知っている。

ただ、住んでいる村では専業主婦が多くて、奥さんが自由に外出しているケースはあまりない。

家内の母親も専業主婦だったので、それと似たようなものだった。


私自身は、現役の教師の頃は仕事だけでなく、職場の人との付き合いや、ひとりでも泊まり歩くことは多かった。

特に、自分の研究で鹿児島や奄美には一人で旅行に出かけることも多かった。

それをしなくなったのは、自費出版した上に早期退職でお金の余裕が無くなってからだ。

その耐乏生活は家内にも及んで、貧乏性にもしてしまったようだ。

年金が満額支給されるまでの8年間に及ぶ耐乏生活が、家内の貧乏性を生んだのであれば私の責任だ。

私自身は年金が満額支給されるまで退職金を切り崩せば良いと気楽に考えていたのだが、家内は今後の家の修理や老後の問題で切実に思っていたようだ。

私は子どもの頃から金に不自由しながら育ってきているので、金の無いのがそれほど苦ではなかった。

それに対し、金に不自由なく育ってきた家内は危機的に思って倹約していたようだ。

家内から「金が無いのは首が無いのと同じだ」と親から聞かされて育ったということを聞いていた。

でも、自分の母親が多くの貯金をもちながら、それを有効に使わずに入院して1年も経たないうちに亡くなったので考えもようやく変わってきた。

貯金も殆ど残さずに亡くなった私の母とよく比較するのだが、必要な物や心身の健康にお金を使うことは決して無駄遣いで無いと私は言い続けている。。


世の中には現役時代では高給取りで多くの出費をしていた人が、退職後の年金暮らしでもそういう生活が止められず破綻したケースもあるようだ。

田舎暮らしで、子どもにも教育費が多くかかって、余裕のある生活ができなかった私たち夫婦には贅沢な暮らし方そのものの経験が無くてわからない。

私自身が物質的に裕福な暮らしよりも、自由でマイペースな生活を重んじているのが、家内の行動にも影響を与えてしまったようだ。

田舎では夫が非常にわがままな老夫婦を見かけることがたまにあるが、それほど露骨でないにせよ私がプレッシャーになっていることにはかわりない。

老後が長くなる以上はよくよく考えて、家内が負担を感じないようにせねばならないと思っている。

夫婦も不即不離をモットーにせねばならないと言うことかもしれない。


2025年9月6日土曜日

ドーパミンから見た社会①~芸能スキャンダルの背景~

 以前から神経伝達物質のドーパミンのことが気になっていた。

そこで入門書と思って

『もっと!―愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』   ダニエル・Z・リーハーマン、マイケル・E・ロング 梅田智世訳 2020(2018) 合同出版 

(以降D・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018)]と記す。)

を図書館から借りて読んでいる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、ドーパミンをきちっと医学的に概説してくれているが、前記の入門書を読むと理解しやすい。

この書は、ジョージワシントン大学の精神医学・行動科学部教授のダニエル・Z・リーハーマンとライター、スピーチライター、脚本家のマイケル・E・ロングの共著である。

つまり医学的な内容を、分かりやすいように物語として事例を挙げているのだ。


その中で、女あさりを唯一の楽しみとする優秀なソフトウェアーの営業マンであるアンドリューの例がある。

これは、まさしく芸能界を揺るがしているスキャンダルの理解にもってこいの内容だった。

そもそもドーパミン自体が快楽物質だと誤解しがちだがその本質を知る必要がある。

第1章 愛●恋愛から友愛へと 第2章 依存症●「欲求ドーパミン」の駆動力D・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018)]から重要に思えることを上げると次のようになる。

①ドーパミンは脳が身体外空間を処理するときには、あるひとつの化学物質が、ほかのすべての化学物質を凌駕する支配力を行使する期待と可能性を司る化学物質

②ドーパミンの本質は、期待物質。いま手にしているものを楽しむためには、未来志向のドーパミンから現在志向の化学物質に脳を移行させる必要がある。

③現在志向の神経伝達物質は、セロトニン、オキシトシン、エンドルフィン(モルヒネの脳内バージョン)、そしてエンドカンナビノイド(マリファナの脳内バージョン。「内因性カンナビノイド」とも)と呼ばれる一群の化学物質だ。(著者はヒア&ナウ(H&N)」と呼ぶ)

④ドーパミンが強迫的な切望を司る物質であるのに対し、長期的な絆ともっとも関係の深い化学物質は、オキシトシンとバソプレシンだ。オキシトシンは女性で、バソプレシンは男性でより活性が高い。

⑤ドーパミン停止がオーガズムをもたらす


⑤が最もスキャンダルと関連しているので詳しく引用する。

セックスはいわば早送りの愛だ。セックスは欲望からはじまる。これはテストステロンの引き起こすドーパミン作動性の現象だ。それに続く興奮も、未来志向のドーパミン的体験だ。身体的な接触がはじまると、脳の支配権はH&Nへ移り、おもにエンドルフィンの放出をつうじて感覚的な体験の喜びがもたらされる。行為の極致、すなわちオーガズムは、ほぼ完全に「いまここ」での体験だ。この瞬間、エンドルフィンをはじめとするH&N神経伝達物質が連携し、ドーパミンをシャットダウンするD・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018):40-41]


要するに女性をとっかえひっかえ引っかけて喜びを得ている人は、ドーパミンに支配されており行く着くところはセックスよりもナンパそのものになるという。

それは、ドーパミンは快感そのものを与える物質では無いことが原因となっている。

つまり、ドーパミンに支配されてなければ一人の女性から得られる快感でも満足できると言うことだ。

この書では、ミックジャガーのSatisfactionの歌はまさしく、満足いかない彼が4000人くらいの女性とつきあった事を表現する歌だったことが書いてある。

元ビートルズのポールマッカートニーも女あさりで有名だが、ミュージシャンのモチベーションはドーパミンによって維持されているのかもしれない。

そうすると、芸能人が同じような行動をとるのも不思議では無いのだが、本人の魅力で女あさりをしたのと、権力や権威を背景に不同意の女あさりをしたのでは意味が違う。

芸能人で無くても音楽や絵画などの芸術家や文学者などが女あさり的な行動をするのは良く聞かれる話である。

また、政治的権力や経済力を背景とした女あさりを「英雄色好む」と表現したいりもして、1万円札になった渋沢栄一もその一人だろう。

大国のトップもそういう噂は絶えないので、英雄はドーパミンに支配されているとも言えるかもしれない。


この書はまだ全部読み切っていないので、もっと人間の本質に迫る内容が期待できると思っている。

私は文化人類学の研究の途上で、人類の認知機能の問題に強く関心を持っている。

これは他の地球上の植物や動物と連なる重要な問題だと思うからだ。

そういう進化論的な問題だけで無く、社会問題の理解にも役立つように思えたので、今回紹介しようと思った。

今回は触れられなかったが、薬物依存の問題もこれを読むと良く理解できる。

これは芸能界だけで無く経済界の問題にもなってきたようにも思うのだが・・・・・




2025年9月5日金曜日

蒜山も暑かった

 このところ毎年一度は夏に蒜山高原にドライブに行ってそばを食べてくる。

休日に少しでも涼しいところで過ごしたいからだ。

いつも行くのは「道の駅 風の家」だ。

かなり前に行きはじめたのだが、蕎麦屋が火事で焼けてしまって無かった頃は行っていなかった。

ためしに蒜山焼きそばも食べたが、蒜山そばには敵わなず遠くまで行く魅力を感じなかったからだ。

去年行ったときには雨模様で雷も鳴って寒ささえ感じた。

この日曜(8/31)も、期待を持って出かけたのだが・・・・・


蒜山高原に行くのにいつもルートを迷うのだが、一番手っ取り早いのは中国縦貫道に乗って、途中から米子道を通って蒜山ICで降りれば直ぐだ。

ガソリンが高い上に高速料金を支払うのは大きな負担なので、下道を通って行っている。

まず、朝の9時過ぎに家を出て上郡から千種川沿いに国道373で上月まで行き、上月から国道179で湯郷近くまで姫新線沿いに山間の道を走って行く。

滅多に1両編成の車両が線路上を走っているのに出くわすことは無くて、線路と木造駅舎を眺めながらいつも乗ってみたいと思いつつ実現できていない。

そして、美作の吉野川沿いにある道の駅の彩菜茶屋で、トイレ休憩がてら販売所を覗いたが欲しいと思う物は無かった。

前回に来たときに黒大豆の枝豆を買ってきて食べたが、自分の家で作るのに比べて甘みが少なく、食感も良くなかったので今回は買わなかった。

観光客相手なので、値段もそんなに安くは無い。


そこから津山に向かって進み、津山の中心街はなるべく避けて、国道181に入る。

いつもは、巨大ガンダム像がある道の駅の久米の里に寄るのだが、今回は素通りして勝山まで進んでいった。

古い街並みの残る勝山からは国道313で旭川沿いに景色を楽しみながら北上していった。

途中で小さな道の駅によって中にあるトイレに入ったのだが、誰もお客さんがいないので申し訳なくてアイスクリームを頼んだ。

すると、その日初めて動かしたらしく、アイスクリームが出てくるのに非常に手間取った。

ジャージー牛乳を使っていて美味しかったが500円という値段もして、後で風の家では400円で売ってあったので高いけど客の人数からすれば仕方ない。

家内とはアイスクリームを車中で運転しながら分け合って食べるのが習慣になっていて、鳥取へ行ったら道の駅の若桜で、必ず買って食べるのだが前回は売り切れていた。


国道313から途中で国道482に入って、稲や蕎麦が目立つ田園景色が続く中で風の家に到着した。

車に示されている温度計は33℃でちっとも涼しそうにない。

去年は天気が悪くても人が多く駐車場に入れるのも困ったが、今回は12時過ぎなのにすんなりと駐車場には入れて蕎麦屋の近くに停められた。

そして、店に入るのに去年はかなり並んでいたのだが、今年は非常に少ない。

順番待ちの記名は店の中と外の希望が書いてあったのでもちろん中にしたが、店の前の庇で陰になったところのベンチに腰掛けて待ち、しばらくすると名前を呼ばれた。

私はとろろ蕎麦の大盛りで、家内はおろし蕎麦を注文した。

蕎麦の麺は太めだが香りが良くて美味しい。

いつものようにとろろ芋をかけてしまわずに、少しずつ蕎麦に絡ませて食べた。

量的にはもう少し欲しかったが、そば湯を頼んで1杯半も飲むとしっかりお腹がいっぱいになった。

かつては猪名川や淡河に十割そばをよく食べに出かけていたが、味と香りでは遜色ないと思った。

店を出るときに、そこそこ店のテラスでも若い人は食べていて、本来ならこちらの方が自然な涼しさを感じられたのだろうと思った。


食事後は向かい側にある特産物や野菜を販売しているところに買い物に出かけた。

ここではテントが並べてあって、餅をついて売っていたり、やまめを焼いて売っていたりする。

また、テントには来客者が食事できるテーブルと椅子が用意されていて食べている家族も見かけるのだが、今回は暑そうに見えた。

とにかく、雰囲気は賑やかで夏祭り気分にさせてくれた。

特産物店では毎回欲しいと思いながら高くて手が出ないのが「がまの籠」だ。

私は竹を編んで作られた市場籠が大好きで、それを持って職場に出かけて授業でも使っていた。

それらは安い輸入品が買えるのだが、がまの籠は1万円以上の値段がするので手が出ない。

昔は山菜や作物を入れるのにちょうど良かったのだろうが、今はこんな高価工芸品には入れられない。

家の近所にもがまはけっこう生えているので、今度採ってきて籠作りに挑戦してみたいと思う。


農産物はトウモロコシが安くて美味しそうだったので買った。

他にも自分の畑では採れていない蕎麦の実、平飼い卵など色々買って、3000円ほど支払った。

できれば特産の肉や牛乳なども買えれば良いのだろうが、今のくらしには贅沢に思えて買わなかった。

農産物の販売所は規模も大きく品数も多いのが魅力でもあり、大勢の人が買い物をしていた。

農産物の直売所は家の近隣でも増えているが、規模が小さい上に品数も少なく人気のあるものは直ぐに売り切れてしまう。

そもそも、上郡などは米農家が多いので、特産品もモロヘイヤなど特殊だし他の農産物の出荷が少ない。

西播磨テクノポリスにも播磨自動車道が完全開通したのをきっかけにこういう道の駅を計画したように思うがどうなったのだろう。

やはり、西播磨は瀬戸内海の魚介類の方に魅力があって人気があり、それに農産物が便乗させた方が良いように思える。


帰りは鳥取道を使って帰ることにしたので、まずは日本海側に出ることにした。

来た道を引き返して、倉吉に向かう国道313に入って高い山間の道を進んだが、いつも通るときは涼しさを感じるのだが温度27℃ほどで窓を開けるほどでは無かった。

国道9が通る北条への道は新しいのが完成しつつあってスムーズに進めたのだが、街並みの見えた以前の道の方が風情があった。

いつもは海沿いの国道9を使って海景色を楽しむのだが、最近通ったばかりだし時間も無いので、途中から山陰道を使って鳥取道へと向かった。


トンネルの多い鳥取道を走って佐用の平福まで行き、そこから下道を通って帰ったが、走行距離は300kmを少し超えていた。

燃費は20kmほどで、15リットルのガソリンを消費したとして、だいたい2500円ほどの燃料代になる。

当然、電車やバスを使ったら二人で2500円で済むはずがなく、安上がりの日帰り旅行ではある。

この日行ってきた場所は、温泉が沢山有るところなので、1泊して温泉を楽しめた方が良いに決まっている。

今回も枕が変わったら眠られない家内とのいつもの強行日帰りドライブだったが、せめて蒜山で涼しさを感じたかった。

それでも、渓流沿い、高原、日本海と色々な景色を楽しめて、良い気分転換になった。









2025年9月3日水曜日

財布に優しくて美味しい豚足

 私は大学時代に豚足を大学の先生に紹介されて食べ始めてから、ずっと思い出したように一人で食べ続けている。

彼女と一緒に食べるものでもなく、結婚してからも家内は豚足は嫌いで食べてくれない。

焼き肉屋でも殆どおいてなくて、沖縄の居酒屋ではおいてあったので注文して一緒に行った仲間にも薦めたら、女性でもおいしいと食べてくれた。

沖縄の豚足料理はテビチと呼ばれて煮込む物らしいが、その時に出されたのは塩焼きにしてあっさりとしていた。

私は大学時代の名古屋では、既にボイルされた物を買って一緒についていた辛子酢味噌で食べていた。


地元の赤穂に戻ってきたときに、豚足は肉屋さんの中で一軒だけ売ってあったので買ってきたら、まだ毛が着いていてそれを焼かねばならなかった。

爪の間もあまり綺麗にしてくれて無くて、匂いも強かったのであまり買わなかった。

この頃はどこのスーパーの肉コーナーに置いてくれていて、半分に切って食べやすくしてくれているが値段が高い。

グラムあたりの値段は安く思えるのだが、骨が殆どで食べられる肉があまり無いので、割高に思える。

豚足は割高だから、姫路駅近くの韓国料理の食材店で豚の顔の部分を買って来て食べたりもした。

こういう豚足や豚の顔は子どもも気味悪がってほとんど食べてくれなかったので、一人で食べていた。

そしてついに加齢と共に、血液検査で中性脂肪値などの脂肪値が高くなってしまって、家内から食べるのを止められてしまった。



近年では、スーパーで見かけるとたまに買う程度がずっと続いていたのだが、よく行っている赤穂の業務スーパーでは必ず生の豚足と耳を置いてくれていて安かった。

赤穂の業務スーパーでは生の豚足が二本で380円程度で買うことができて、東南アジアから働きに来ている外国人らしき人もよく買っていっていた。

以前勤務していた定時制高校の男子生徒はここの食肉を裏方でさばいていたのだが、聞くと豚足はよく売れていると言っていた。

ただ、赤穂の業務スーパーには月に一度行けば良い方だったので、それほど頻繁に食べていたわけでは無い。

そして、龍野にも業務スーパーがあって、そこに冷凍した豚足が安く売っていたので買ってきて、シャトルシェフで人参や大根なども加えて豚足スープを作った。

美味しくてそれを毎日食べ続けていたら、不覚にも痛風になってしまった。

それ以来、豚足スープは作っていないし、豚足はなるべく食べないようにした。


それでも、たまに行く赤穂の業務スーパーでは、豚足より割安な豚の耳の方を買ってきて食べることを細々と続けていた。

そんな折に、豚足を食べる良い口実ができた。

いつも一緒に散歩している我が家の愚犬クロが、今年の夏の暑さにやられて弱ってしまったのだ。

私は豚足の骨は必ずクロに与えていたのだが、喜んで食べていた。

そこで、クロを元気づけるのだと家内に言って、業務スーパーに行き豚足を買ってきた。

前回豚足を買ったときにはシャトルシェフで茹でたのだが、今回は家内に勧められて蒸すことにした。

茹でた豚足は脂分も落ちて柔らかく、健康にも良さそうだったが味は蒸した豚足には叶わない。

豚足は手でつかむと油まみれになるので、ナイフとフォークを上手く使って手を汚さずに食べて、骨も全部バラしてかじりついて綺麗にした。

クロにその骨を上げると喜んで食べて元気にもなった。


私は肉が大好きであったのだが、学生時代は金が無くて100g10円の鳥の皮を普段は食べていて、いい加減飽きてきていた。

だから、たまに食べられる豚足は馳走だった。

今はさほど金に困っているわけでは無いのだが、牛肉や豚肉はそこそこ値が張るので買いづらい。

家内は肉が苦手で、特に脂身が嫌いなので高い肉を普段はあえて買おうとしない。

娘が家にいた頃は娘が肉が大好きだったので、娘のために焼き肉もそこそこしたのだが、今はいないので家内は煙くなると嫌がって滅多にしてくれない。

だから、赤穂の業務スーパーで売っている安くて美味しい豚足と豚の耳は自分で勝手に食べるご馳走であり続けている。

鶏も指肉も安くて美味しく食べられるそうなのだが、スーパーには売っていない。

人気の無い部位の肉は冷凍物が通販では売っているが、配送料がかかるのでそれほど安くは無い。

物価高のこのご時世、豚足のように普通のスーパーや食肉店でも安く手に入ればありがたい。




2025年9月1日月曜日

殺人と戦争ドラマを楽しむ大人たち

 このところ毎日テレビドラマの「相棒」の再放送を録画で見ている。

いつも家内と話をするのは、「相棒」では必ず殺人がある、殺人が起こらないのも有るけど滅多に無いということだ。

「相棒」は殺人事件を解決することや、殺人事件を通して社会問題を顕わにするところが面白い。

では、視聴率の高いこの番組を見ている人は、実際に起こる殺人を肯定しているのだろうか?

答えは「ノー」だろう。

フィクションとして現実では身近に無い殺人を観て楽しんでいるだけなのだ。

でも考えてみれば、自分が幼い頃には親が観ていた殺人の場面が出てくるドラマは嫌いだったし恐かった。

ということは大人になるにつれて、殺人の場面が出てくるドラマや映画が好きになったのだ。


これと同じように、いまだに憶えているのは「同期の桜」という戦争ドラマが子どもの頃にあった。

特攻隊の将校を描いたもので、親は毎回観ていたので自分も同じように見ていた。

ところが、大概はその内容が恐ろしく感じて、夢でうなされることが多かった。

一番憶えているのは、特攻隊の攻撃シーンでは無くて、原爆投下後に苦しむ人たちをリアルに描いたシーンだった。

このシーンは目にこびり付いて、しばらく眠れず夢でもうなされた。

幼い子どもにとって、リアルな戦争は観て楽しめるものではなかった。


ところが、小学校の6年生くらいに観た「決断」という戦争アニメが放送された。

そのアニメは戦争の悲惨さよりも、決断すべき時を逸すると敗れるというのが重要なテーマともなっていた。

だから、戦争の悲惨な部分を実感すること無く、戦争アニメを楽しむことができたのだ。

そういう戦争アニメは「0戦はやと」というのが既にあって、もっと幼い頃に楽しんで観ていた。


現代でも、大河ドラマの多くは戦争や乱である。

歴史的な事柄であれば、そこで実際に起こった悲惨な殺戮や餓死、強姦などを無視してドラマとして楽しめる。

NHKは戦争の悲惨さを語り継ぐための良い番組を作りながら、一方で戦記物のドラマを娯楽として作っている。

たぶん、リアルで悲惨な場面が登場する「映像の世紀」よりも、大河ドラマの方が一般に受けるのだろう。


こういう事を考えれば、私たちは殺人や戦争の残虐性への耐性は成長するに従って得られたことであることが分かる。

これは何も映画やテレビが登場してからの現象では無くて、古代なら神話や伝説の語りに始まり舞台での劇や人形劇でも表現されてきた。

大人は子どもに語り継ぐことによって、殺人や戦争のある現実に適応させて行かざるを得ないのかもしれない。

我々の人間社会は殺人や戦争なしには成り立ってはいない世界とも言える。

先祖を共通するチンパンジーも、敵対するチンパンジーを殺して食べたりすると言う。

ホモ・サピエンスは熊のように、魚肉も植物も食べる雑食性だったからネアンデルタール人のように絶滅せずに済んだとも言われている。

これは肉に頼った狼が絶滅し、熊が生き残った日本列島と同じことだ。

子熊が親から食料の調達や闘い方を学ぶように、狩猟や屠殺から解放された現代人もドラマによって殺しと戦争を楽しく学んでいるのかもしれない。





2025年8月31日日曜日

水泳で10年前の自分を取り戻す

 夏休みに入って水泳は自分の都合の良い時間でできなくなった。

どうしても1コースを独占的に使いたいので、一般利用者の少ない時間となる。

夏休み前は上郡においては午後2時半から4時であり、相生では午後1時から3時半であった。

それが夏休みに入ると、小中学生の午後からの利用が増えて上郡では午前11半から午後1時、相生では午前11時から12時半までということになっていた。

つまり、水泳した後で昼食を摂り、その後に昼寝をしないと何もできなくなってしまった。

暑い時間帯で水泳をして、その後夕食にするという週三日の水泳スケジュールができなくなってしまった。

それによって血糖値が下がって、糖尿病の治療にも役だって医者からも褒めてもらっていた。

そもそも、血糖値を落とすなら食後の運動の方が適しているのだが、その時間帯で泳ぐと混雑して思うように泳げずかえってストレスになってしまう。

だから、糖尿病対策としてよりも、快適に泳いで泳力や体力向上に努めた。


以前も書いたように、フロート以外にフィン(足ひれ)、競泳用シュノーケル、防水イヤホン、鼻栓が練習の必需品となっている。

ただ、防水イヤホンは必需品では無くて、有った方が楽しく泳げるという物だ。

なにせ、シュノーケルでプールの底しか見ていないので、音楽を聴いていることで気が紛れる。

フィンもしばらくして足首が痛くなったが、伸ばして蹴ることから曲げながら蹴ることで改善することができた。

鼻栓を付けてのバサロも、いまだに鼻が痛くなることもあるが、かなりできるようになってきた。

苦手な平泳ぎはフィンを使わないが、シュノーケルで足のけりや手のかきの練習に注意を集中してできて、幾分速くなった。


専門のバタフライだが、フィンのお陰で腕の負担が軽減できているので、かなり楽にゆったりとしかも速く泳げている。

以前は50mは、せいぜい一回しか泳げなかったが、二回続けて泳げるようになり、個人メドレーの練習も100mを200mにした。

これからは、バタフライも50mで練習を組みたていき、100mも泳げるようにしたいと思う。

そこまでできるようになって、10年前の自分に戻ることができるのだ。


そうは言っても一番元気だった頃は、フリーの50mは50秒で回せていたし、100mも2分サークルで10本はこなせていた。

何よりもダッシュが遅くなってしまっていて、50mフリーを30秒台でまだ泳げていない。

かつて選手だった経験者から観れば、自慢できるような練習内容やタイムでは無いのだろうが、去年まで医者に通い詰めだった自分としては上出来である。

そして、何よりも私が意識するのは、近くのコースで泳いでいるスクールのスイマー達で、特に選手コースは意識する。

小中学生程度ならフィンを付ければ選手と同じようなサークルタイムの練習できるのだ。

また、コーチや監視員に一目置かれるのも嬉しい。

去年までは老いぼれていく自分を悲観的に思っていたが、気持ちもずいぶん若返った。

それは、少しヘコんだお腹と、逞しくなった上腕筋、たるみが減って厚くなった胸筋が自信となっているのだ。

その若さを誇示するために、白髪の頭でありながらノースリーブのシャツで外出している。

今時、マッチョな身体は女性にはもてないので、むしろ男性の方の目を意識している。

それは変な意味では無くて、男性は体型で普段の身体使いを推測できるからだ。

ひ弱そうな手足だったり、締まりのない肥満は運動不足が想像できるし、食事管理もできていないように思える。

その点では、自信が少し出て若さも取り戻していると思える。

こういう取り組みは実は、毎日の農作業に生きているし、読書や執筆で座りぱなしになるのを防いで、持病の治療や他の病気の予防に役立ててもいる。

2025年8月29日金曜日

アナログ世界を蘇らせる手書き文字のOCR(光学文字認識)

 私はワープロなどが普及しだした1980年代後半から、ずっと手書きの論文や調査資料をキーボードで打ち込んでテキスト化していた。

その時から何とか手書き文字をOCRで簡単にテキスト化してくれないかとずっと思っていた。

同じ紙媒体でも活字文字に関しては「読んでココ」という優れたOCRがあって、本の一部をスキャンしてテキスト化して活用していた。

一番時間を費やしたのは村落調査でカードに記録したデーターで、スキャナーで画像化してjpegファイルとして保存もしていた。


このところAIがいろいろと活躍しているので、ひょっとしてOCRもと思って調べたら無料で簡単にできる方法があった。
Googleのドライブでドキュメント化すると簡単にテキスト化してくれた。

現在はスマホのメールなどで簡単にテキスト文字をやりとりしているが、私の若い頃は手紙やはがきしかなかった。

ビートルズのPlease Mister Postmanの世界が私にはかつてはあった。

彼女からの手紙が待ち遠しくて、郵便がいつもの配達時間になるとそわそわしていた。

手紙は彼女からだけでなく、父親や友達から来たり、お世話になった先生からも頂いたりした。

そういう物は捨てずに大切に保管してきた。

因みに見合いで知り合った家内とは一度も手紙のやりとりをしていない。

電話や直接会って話すことが簡単にできたからだ。

そしてインターネットが普及してから、メールに取って代わられてしまい、事務的なことや仕事以外では文書を郵送することはなくなった。

だから、プライベートな紙媒体での記録は殆ど残っていないのが残念に思う。


パソコンも当初はデスクトップ型の高価で大きいものしかなかったが、ノートパソコンが手に入るようになり、最近では携帯に便利なタブレット型も安く手に入る。

いつしか、本も画像のままやテキスト化して読むことが多くなった。

また、プライベートの日記やエッセイなどはパソコンで綴ることが殆どとなり、紙媒体での記録は殆どなくなった。

学生時代はノートにしっかりと書き続けていた。

その日記はスキャンしてjpegファイルやPDFで保存していて、ブログを書いたりするときに活用してきたが、テキスト化するのが非常に手間で殆ど見るだけだった。


こうして簡単に紙媒体の手書き資料がテキスト化できることになると、かつてのノートや手紙をスキャナーで画像化してテキスト化しようと思う。

紙媒体のものは保管した物を探し出して読むのが非常に手間で、いつでもパソコンやスマホで読める方が便利だからだ。

逆に、必要なことはノートやメモ帳に書いておいて、後でテキスト化することもできるだろう。

というのも、手書きの日記や手紙は文字の中に当時の自分や彼女の心が刻み込まれている。

手書きが不要な時代だからこそ、あえて手書きで書く価値が出てきたように思う。

そして、必要とあればOCRでテキスト化すれば良いのだ。


何でもデジタル化されてきた時代だが、AIがまたアナログの世界を復活させてくれるような気がする。

以前ブログでも書いたが、音声を文字化することも簡単にできるようになったし、こうして手書き文字もテキスト化できるようになった。

声や文字にしろアナログで残された物には、単に意図された意味以上の意図せぬ情報が含まれている。

そのアナログの声や文字もそのままデジタル化できるようにもなっているので、テキスト化された文字やデジタル化した写真と組み合わせて見たり聞いたりできる。

AIの進歩は生成AIでの無人化の側面だけでなく、アナログ世界の復活の面も評価すべきのように思えた。


2025年8月27日水曜日

空調服にアイスベストへの回帰

 空調服を使い始めてから6年以上経っている。

農作業に必要を感じて思い切って買った。

当時は、まだ学校もエアコンが完備されていなくて、授業をする時に空調服を着けたこともあったが、まもなく禁じられてしまった。

元来、空調服はチョークの粉を吸い込むので、黒板の授業では適してはいなかった。

私はかなり前からパワーポイントで、チョークを使わない授業をしていたので問題は無かったが、生徒からうるさいとクレームがあったようだ。

空調服の最大のネックは大きな音である。

そして、灼熱の屋外では熱風を身体に吹き付けて、汗まみれにならないと涼しくならないので、体臭が気になる仕事には不向きだ。


汗をあまりかかなくて済むように、吸水性の高い合成繊維(PVA)のベストに水を含ませて着てみたが、直ぐに乾いてしまって涼しさもさほど持たなかった。

他にも吸水性が長引く生地のベストを購入して使ってみたが、気休め程度でしか効果は無かった。

水冷服も検討したが、保冷剤を装着するアイスベストが一番良いと思って少々高かったが購入した。

このアイスベストはメッシュ素材で保冷剤を入れるポケットが背中に上下2カ所と両脇に二カ所付いていて、その大きさ用保冷剤もついていた。

保冷剤をジプロックのようなビニール袋に入れて、冷凍庫で凍らせて使った。

効果は非常にあったが炎天下では2時間が限界で、アイスボックスの中に交換用の凍らせた保冷剤を持っていって使ったりした。

効果はそれなりにあるにしろ、アイスベストと保冷剤の2セット買って、メンテナンスをこまめにやらねばすぐ汗臭くなる。

だから、朝の涼しいうちに農作業をやり始めてからは空調服だけで済まし、面倒なアイスベストは殆ど着ていなかった。


一方で、ペルチェベストが話題となり、ワークマンで買おうとしたが売り切れで買えなかった。

そこで似たようなペルチェベストを買ったのだが、洗うことが不可能なので、汗をあまりかかない室内だけしか使えなかった。

充電が空調服以上に面倒だったし、持続時間も大したことが無かったので、気が向いたときしか使わずにいた。

それが、今年になって冷却プレートを取り外して、洗えるペルチェベストが売り出された。

これだと保冷剤の管理が必要ないと思って、空調服と併用するために購入した。

ところが、ペルチェベストはエアコンと同じように、排熱するファンが必ず付いている。

そのファンからうまく熱が逃げないと、冷却プレートは逆に熱くなってしまう。

空調服はかなり吸引力の強い状態を保たねばならなかった。


今年の夏はあまりにも暑いので、農作業は早朝だけにして、夕方するのを辞めたのでアイスベストもペルチェベストも必要では無かった。

その代わりに涼しさを感じるシャツミストを買って、空調服の内側にスプレーすることにした。

これは効果てきめんで、早朝の農作業や散歩では十分役に立っていた。

ところが、朝食後の散歩では暑すぎて犬の方がまいってしまったので、散歩を朝食前にして、農作業を後にすることにした。

少々暑くてもシャツミストで、暑さを感じずにはいられていた。

ところが、作業後にシャワーを水で浴びて冷やしても、なかなか汗が収まらない。

シャツミストは体温を下げてはくれてなかったので、身体の芯に熱が籠もっていたのだ。


それで、シャツミストは補助的に使い、急遽ペルチェベストを着込んだ。

散歩では空調服が古くて風力が弱いので直ぐに暑くなり、空調風を脱いでペルチェベストを露出させた。

見た目にはコンプレッションのシャツにペルチェベストで格好が悪いが、涼しさの上では問題なかった。

しかし、朝食後の農作業では無理だと分かったので、保冷材を使うアイスベストをもう一度着てすることにした。

それによって、農作業後の汗も早く収まるようになり、疲れ方も改善された。

たぶん、水冷ベストを使っても同じ効果はあるだろうが、アイスベストの方が安上がりだし、充電器が必要で無いので軽い。

確かにメンテナンスは手間だが、この方法で気象破綻した日本の夏を乗り切るしか無い。

このように暑さ対策は費用はかかるが、室内でエアコンが必需品であるように、室外では空調服と保冷ベストが必需品になったのだと思う。

最近ではドライブや買い物にやって来た人でも空調服を着ている人を見かけるが、さすがに私は薄着で済ませてそこまでは使わない。

村では空調服を持っていながら、保冷ベストを使いこなせて無くて、涼しくないから使ってないという人がいるのが残念だ。

暑い部屋でエアコンを使わずに扇風機で済ませているのと変わらないのに・・・・・








2025年8月25日月曜日

戦争放棄の戦略

 核兵器を持った方が安上がりという人が国会議員になったが、日本が核兵器をもつことをアメリカが黙認すると思うのかと聞いてみたい。

アメリカは自分たちの戦争に協力する自分たちより弱い自衛隊を望んでいるが、敵対する可能性のある対等な自衛隊は望んでいないだろう。

高度なロケット技術を持っている日本に、アメリカが自由に使える核兵器を持つことを見逃してくれるはずが無いと思う。

アメリカにとって日本人が戦争は絶対反対と言ってくれてる方が、太平洋戦争で受けた恐怖から立ち直れない状態の維持で都合が良いと思う。

喧嘩でボコボコにして実力の差を見せつけてしまえば、その恐怖から二度と喧嘩を仕掛けないのと同じだ。

一方戦争放棄は、一時はアジア地域で軍事力によって植民地支配していた日本が、もう戦争して迷惑かけないから安心してねと言うメッセージでもある。

日本に軍事侵略された国はアメリカに従順な日本の方が安心だろう。


ただ、戦争放棄を憲法に記載した日本に衝撃が走った。

ロシアが核兵器を脅しに使ってウクライナ侵略を実際に行ったのだ。

これは場合によってアメリカが核兵器を脅しに使って日本を侵略するのと同じだろう。

核兵器を脅しに使って侵略してくる相手に、それなりの軍事力を持って対抗せねばならないことは当然だと思う。

しかし、もしアメリカの言うとおりに軍事予算を上げてもっと武力を高めても、核兵器が持てない以上はアメリカに利用されることしかないことも分かっている。

むしろ、一時期待された核兵器を無力化するためのレールガンなどの兵器の実用化を急ぐべきかもしれない。

そして何よりも、今までは戦争放棄で何とかアメリカの戦争に加わらずに済んだことを忘れてはいけない。

そもそも、中国の経済力を高めた背景には日本の援助があるわけだから、ある意味でアメリカを相対的に弱体化させた原因は日本にもある。

その日本が台湾有事でアメリカと一緒に戦争したら、援助は中国に利用されたことだけになる。

日本は台湾に対しても中国に対しても戦争回避をするように働きかけなければ、アメリカの思うつぼになってしまうことにもなる。

アメリカにとって北朝鮮の核開発問題にせよ台湾問題にせよ東アジアの危機は、存在価値を示す良い機会なのである。

アメリカに従属しながら戦争放棄を貫いて東アジアの平和を保つことに努める日本の存在意議はここにあると思う。


第二次世界大戦の敗戦国である日本とドイツは核兵器を保有していない。

その両国とも経済発展を遂げている。

軍事力よりも経済力を付けることに専念できたからだとよく言われている。

アン・ケース/アンガス・デイートン『絶望死のアメリカ―資本主義がめざすべきもの』

みすず書房(2021)を読めばアメリカの深刻な状態が理解できる。

本来なら謙虚に立て直しをアメリカは図るべきだろうが、過去の栄冠のプライドと突出した軍事力がいまのトランプ大統領の独裁に繋がっているのだろう。

戦争を続けなければ国家を維持できないのがアメリカなのだから、面従腹背の戦争放棄で今は日本人の経済格差で右傾化しているのを是正するべきだと思う。

我々日本は対外的な危機では無く、対内的な危機に直面していることを認識すべきだと思う。


そして、最も重要なことは、戦争による環境破壊の促進である。

これは石油や天然ガスの施設の破壊と言うだけで無く、マスメディアやネットでは環境破壊よりも戦争の関心が強くなる。

これだけ温暖化が進行して生活に影響しているというのに、戦争の方が重大なニュースとなっている。

戦争で原油やガスが値上がるのは、コストの高いシェールガスの多いアメリカにとっては好都合で、トランプは掘って掘って掘りまくれと言っているのだ。

そして、戦争がウクライナやガザで深刻になればなるほど、アメリカの存在価値が上がり勝手に関税もかけやすくなる。

アメリカは自ら戦争に加わらずに武器や燃料を通して国費をつぎ込んだり輸出して景気が良い。

戦争を利用して繁栄し、環境破壊を進めるアメリカと一線画せる方法は戦争放棄だろう。











サツマイモを三食の一食に

 沖縄や奄美では戦後しばらく主食はサツマイモだった。

2008年に奄美の与路島で民宿に泊まったときも、そこのご主人はサツマイモを米飯代わりに食べたりしていた。

主食だった当時の奄美では冬の寒い時を除いて、収穫しては植え付けて食べ続けていた。

霜が降りない年は、冬場でも畑に埋めたままにして掘り起こして食べるのが普通だったようだ。


本土では秋には掘り上げて、きちっと温度を保って保存しないといけない。

秋には寒くなるので掘り上げて蔓を埋めても芋はできない。

しかし、このところの暑さは沖縄や奄美にも勝っている。

今年は雨が少ないので生長が悪かったが、しっかりと水をやって蔓をしっかりと伸ばすことに努めた。

天気予報では暑さがずいぶんと長引くようだ。

まさしく、本土の秋は無くなって沖縄、奄美の夏の気候に近いと思った。

そこで、サツマイモを掘りながら植え付けてみることを思い立った。


今回、試しに1本掘り上げてみると、握りこぶし二つ分ほどの芋が二つ採れた。

その掘って芋を取り除いた根をその上の蔓も幾分か一緒に埋め戻して置いた。

他の場所に蔓を差しても良いかなとも思ったが、秋物や冬物も作らねばならないので、同じ場所で試すことにした。

因みに、サツマイモはできたら毎年同じ場所で作る方が良いとされている。

その後も、毎日一株ずつスコップで芋を掘り起こしては、株と根を埋め戻して水をやっている。

どの株もそこそこ芋は大きくなっており、店で売られているのに引けはとらない。


これでまた、芋ができるかどうか分からないが、今までのように一気に掘ってしまわずに、少しずつ掘って埋め戻す方法を寒くなるまで続けようと思う。

本土の気候は夏場が長く亜熱帯と同じになったので、それなりに対処する一環の取り組みであるが、稲でもひこばえから収穫しようとする取り組みと一緒だ。

現在の私の食事は朝食だけ雑穀米を食べて、昼食は自家製の野菜や豆を中心としたスープと茹でたジャガイモ、夕食はもち麦全粒粉入りのパンをメインにしている。

要するに米離れを心がけているのである。

ジャガイモも収穫した春ジャガが食べ終わりかけていて、秋ジャガまで持つか分からないので、サツマイモはそのつなぎでも使えそうだ。

本土はなんと言っても冬はまた極端に寒くなるので、寒さに強いジャガイモは欠かせない。


以前にも書いたが(サツマイモへの思い入れ)、私の父はサツマイモを主食のようにして、大切に育てて保管して食べていた。

私はサツマイモをジャガイモ同様に三食のうち一食は主食とし、自給できるようにしたいと思っている。

現在、購入した玄米は一週間に1合ほどしか私は食べていないので、もう主食とは言えない。

一方で、毎週日曜に家内と外食するときは、回転寿司などどうしても白米を食べることになるので、白米は特別なご馳走の位置づけになった。

これはたぶん、昔の本土の百姓の米の食べ方よりは贅沢な食事だと思う。

だから、気候崩壊に耐えられるリッチな現代版エコロジカル・ファーマーを目指していると言いたい。





2025年8月23日土曜日

あ~夏休み!が終わる

家内は学童に勤めているので、夏休みの方が普段よりも忙しい。

3日に1回は早出で七時半に家を出るので、 わたしもそれに合わせて動かねばならない。

そのほかの日も弁当を持って昼前に出かけていくが、普段は昼食をとってから12半頃d出かける。

私が完全退職してからずっと家にいるので、昼食や夕食を忙しく用意している。

私はレトルト食品を買い込んでいるし、昼食用に野菜スープを自分で作っているので気を遣わなくて良いと言うのだが、そうはいかないらしい。

我が家は子どもに教育費が多くかかったので、生活費を切り詰める習慣ができていて、私の年金や退職金の残りで何とか暮らしていける。

だから、忙しくて身体に負担があるのなら、仕事を辞めるなり非常勤で働くように言っているから、無理してでも家事をこなそうとしている。


だから、家内は毎日が忙しい夏休みが終わるのを心待ちにしている。

8月の下旬になると「あ~ 夏休みが!やっと終わる!!」と家内は喜ぶ。

私は「あ~ぁ 夏休みが 終わってしまう」と嘆くのだ。

退職して夏休みも普段の日も変わりは無いし、プールが混んで泳ぎづらくなるのだから、夏休みは私も楽しいわけでは無い。

しかし、夏休みは私にとって今でも気持ち上で欠かせないものなのだ。


私は幼稚園から教師を退職するまで夏休みが無かったのは、中学受験の塾と大学受験の予備校に毎日通っていた2回だけだと思う。

退職後はプールの非常勤コーチで一度だけ夏休みが無かったが、それ以外は高校で非常勤で働いているときも夏休みはあった。

60年間染みついた夏休みは完全退職後も心身に染みついているのだ。


夏休みには色んな想い出が詰まっている。

幼稚園から大学院までの学校、教職に就いてからの想い出に残る多くが、夏休みが舞台なのである。

先日もNHKラジオの「マイあさ」で、子どもの夏休みの過ごし方と家庭や親の格差について話があった。

児童・生徒が塾などに通えるかどうかと学力格差、色んな体験がさせられるかどうかと経済格差、親の学歴による教育格差の問題を取り上げていた。

家内から夏休みで家に親がいても、学童にやってくる生徒の話を良く聞かされる。

せめて休みの日くらいは子どもと関わって欲しいというのが家内の気持ちだ。

たぶん親としたら、休みの時くらい普段忙しいのでゆっくりと過ごしたり、自分のやりたいことがしたいのだろう。

このごろは企業も夏休みを多くとることができるようになっているが、教師のように授業が無くなるような仕事の軽減は無いだろう。

ただ、これからの酷暑の時代は仕事の軽減や、有給休暇のまとめどりなどの改革が必要だと思う。

そして何よりも、小学生は親子や家族、親戚、近所の人が一緒に過ごすことの楽しさを知る時間を確保するべきだと思う。

中学生や高校生ではクラブ活動以外にも、学校では学べない読書や体験、趣味を得て次のステップへのモチベーションを得る良い機会である。

大学生以上の学生は、就職しても続けられる独自の特技や趣味などの生きがいを身につける良い機会だと思う。

要するに自分の日常生活の大半を占める学校や職場との関係をなるべく絶って、自分にとって楽しいことや興味あることが自由にできるのが夏休みだった。


「教師は夏休みが有って良い」と確かに言われ続けたが、それはバブルの頃あたりまでで終わっている。

授業の負担が無い変わりに、研修やらクラブ活動などに忙しくさせられるようになってきた。

クラブ活動は熱中症などの深刻な事故があったので、しっかりと付いていなければならなくなった。

採用されたときは自宅研修が勝手にできて、午前中はクラブ指導して午後は自宅研修をしていた。

そのうち計画と報告が義務づけられ、気楽に自宅で過ごしたり研修旅行できなくなった。

バブル時に教員が不足して給料を上げたのだが、バブルがはじけて相対的に給料が良くなりその分、民間同様の拘束された就業を強いられていった。

ただ、授業が無いので今まで取れなかった有給休暇を取ることなどができることは助かっていた。

そうなると、自分でしっかり勉強や体験、自己研鑽に励むより、せっかくの休暇を楽しく過ごしたいというのが普通だろう。

そういえば、夏休みにクラブの顧問同士の付き合いに無理をして亡くなってしまった教師もかつて在職した学校でいた。

教師とてもそんなに夏休みが過ごしやすいものではなくなってきたので、普段のブラックな仕事を夏休みの魅力で補うことはできなくなっている。


完全退職の現在は、時間は研究と農作業に多く割き、健康管理に歩きと水泳にも時間をしっかりかけている。

夏休みと言うより夏場の方が農作業が忙しいので、冬場の方がゆっくりと研究や歌の練習ができている。

だから、現役の頃の夏休みをふと思い出しながら、過ぎていくのを惜しんでいるだけなのだ。

以前勤めていた大学附属高校で、一年2学期制だったころは秋休みがあった。

その時に、季節も良く旅行客も少ないので安くできる海外旅行をする教師もいた。

秋は収穫で忙しいのでが、私は昔の百姓よろしく、冬場の農閑期を夏休み並に活用しようと思っている。

あと何年健康で活動できるか分からない老人だからこそ、長期の自由な時間がかけがえのない時間となっている。



2025年8月21日木曜日

夏バテする我が家の番犬クロ

 このところクロの餌入れに蟻がいっぱい集(たか)っていた。

原因が何か分からなかったのだが、この二・三日散歩から帰ってきても餌をすぐには食べずに、後から食べても残していることに気がついた。

以前は、餌がもの足りないのか綺麗に餌入れを舐めていたのだが、それをしていないから蟻が集ったらしい。

実は、去年までは早朝の涼しい時間帯にしっかり一緒に歩いていたのだが、私の都合で朝でも暑くなった時間になってしまった。

用水路に入って何度も腹を水に浸しながら水を飲んでいるのだが、家に戻るとデッキの下に潜ってしまう。


クロはハウンド(猟犬)で室内で飼う犬では無いので、南側の吐き出しの窓から伸ばしているデッキの横に小屋を置いてある。

去年はエアコンが壊れてしまっていたので、犬小屋の横にある室外機はあまり動いていなかった。

今年は新しいエアコンの室外機がフル活動している、その温風も厚さの原因となっているとも思う。

暑い日のクロは犬小屋には殆ど入らず、デッキの下の狭い空間で寝そべって過ごしている。

去年までは昼間は温和しくても、夜になったら元気に動いて音を立てていたのだが、今年は夜も静かなのである。

ついに餌を残すまでに至って、こちらも完全に夏バテとして対策せねばならなくなった。


そこで、今朝からは朝五時に起きたらまず、クロと散歩に出かけることにした。

これまでより、しっかりとした歩きでいるのが分かった。

何度も入っていた用水路も回数は減った。

ただ戻って来て水を飲んだきりデッキの下に入ってしまい、餌はデッキの上に置いておいた。

しばらくすると食べていたのだが、まだ調子は戻ってはいない。

餌を寝そべったまま食べるし、やはり同じように残すので量を減らした。

そこで室外機からの温風がいかないように仕切りをしてやり、犬小屋の上にもすだれをかけてやった。


うちのクロがここまでバテてしまうのは、朝の散歩と室外機に大きな原因があるとは言え、やはり連日の酷暑が一番の原因だ。

先週は、雨が続いたがちゃんと犬小屋に入って過ごしていた。

室内で飼われている犬はエアコンの恩恵を受けているだろうが、クロのように庭などで飼われている犬にとって残酷な夏になってしまっている。

熱帯雨林の地方で高床式の家屋が作られている理由は人にとっては雨などの対策だが、家畜などがその下で涼しく過ごせることも重要だ。

奄美の高倉も雨の日の作業や山羊などの家畜の居場所に役に立っていたようだ。

来年の夏に向けて、高床の倉庫建てたり、デッキを改良することを真剣に考えねばならないかもしれない。

これからの暮らし方は、熱帯雨林やサバンナ気候の暮らし方も取り入れる必要があるだろう。

もう既に、亜熱帯の沖縄は海洋性気候でより温帯の本土よりも涼しいので、夏は避暑に沖縄に行く方が良いかもしれない。




2025年8月20日水曜日

安い米より安全な米

 以前にも書いたが、我が家は近所の米農家から30kg8000円という安い玄米を購入している。

街に住んでいる人は安いと思うかもしれないが、水田の用水路の溝掃除や道作りの作業も行っている。

村では水田を所有していて当たり前なので、うちのように水田を持たない人からの作業に対する文句は出ない。

その米農家は街から買いに来る人にも同じ値段で売っているので、配達してもらっているとはいえ、特別安くしてもらっているわけでは無い。


今回、もうその米農家から購入するのを止めることを決意することが生じた。

今まではトラクターに噴霧器を付けて農薬を撒いていたのを、今年からラジコンヘリで撒きだした。

その米農家が耕作している水田は我が家とか向の家に隣接している。

米農家自体の家は水田から離れたところにあって問題ない。

JAに委託して、農薬を自ら浴びること無く済ませることができたのだ。


この地に家を建てて引っ越してきたときに、裏は水田でそこで所有者が手作業で農薬を浴びながら撒いていて、我が家の中にも農薬が入ってきていた。

やがてそこは畑と倉庫に変わって、農薬が家の中に入ってくることが無くなっていた。

農薬の空中散布は何度も繰り返して書いてきたように、EUでは禁止されていて危険なものだ。

アメリカなどの大農場でやるべきことを、日本ではどこでも平然と行われている。

ついに、民家のそばの水田にまで農薬の空中散布し始めたことに憤りを禁じ得なかった。

今まで安く分けてもらっていた手前で文句を言うこともできない。

これからは高い玄米を買うことでは出費になるが、その米農家から買うのを止めにした。


コウノトリの親子も農薬の空中散布を米農家がドローンなどでし始めて、近くにいなくなっていたが、親鳥は戻って来ている。

そして、餌を探しているのは主に、休耕田である。

米不足で休耕田も減って、餌探しも大変そうだ。

豊岡のようにコウノトリが安全に棲めるような水田に変えていく気運もない。

私はこれからは減農薬の特別栽培米を作っている千種や波賀の玄米を買いに行こうと思っている。

千種高校に非常勤高校で勤めていたときは、安い玄米を買っていたので買う気になれなかった。

千種高校の生徒も栽培に関わっている特別栽培米の「ちくさの舞」も買ってみようかと思う。

また、豊岡ではコウノトリ棲息のための水田を維持していて、コウノトリ米として売り出している。

それを支援するためにも今後は買うことも考えている。

健康のため、環境のため、無理をしてでも安全な米を買うことに決めた。


2025年8月19日火曜日

荒れる畑は未來の予兆?

 ついに、ズッキーニが枯れ出した。

寒冷紗で暑さを和らげて、元気を取り戻していたのだが、大雨の後の高温で限界が来たらしい。

10本ほど植えたのに、これまでの収穫は数えるほどしか無かった。

高温の気候では難しいので来年は諦めるか、最初から寒冷紗を使って栽培するか考えねばならない。

カボチャも雄花ばかり咲いて、蔓は元気そうに見えるが実がならない。

トマトもミニトマトはそこそこできたが、大玉は数えるほどしかできなかった。

例外的に良くできたのは白ナスビで、これは近辺でも同じらしく売っている値段も安い。

逆に、水ナスはいっぱい水をやったのに、生長が悪く実もできが悪い。

それでも、実験的に栽培している低い丈の高黍(コーリャン)が比較的元気で穂を付けて、花を咲かせ始めている。

ただ、去年の高い丈の高黍は花が咲いても実がならなかったので油断はできない。

里芋はさっぱりだが、サツマイモは水をしっかりやったお陰で蔓だけは元気に伸びている。

一番期待しているのはオクラで、水をしっかりやったので元気になって、実を沢山付け始めている。

オクラは買っても安いのでそれほど人気は無いが、長けても硬くならない丸いオクラを毎年作って長くならし続けている。


私が作っている畑は作物で青々しいのだが、近所の畑には雑草で青々しい畑がいっぱい有る。

自然農法を頑張っていた近所の若い人もお手上げ状態になっている。

お年寄りのしている畑も殆どの作物を枯らしてしまっている。

知り合いで家庭菜園を頑張っている人も、作物のできの悪さをぼやいていた。

いつもながら立派な畑は年配の奥さんが朝晩畑に出て頑張っているところだけだ。

この奥さんは空調服も着けずに暑そうな格好で、空調服を着ている私が避ける時間帯でも畑に出て、主に水やりをしている。

そこまでしないとこの酷暑の露地栽培は持たなかったのだ。


例年、家庭菜園は夏物の作物をしっかりならすのが楽しみだった。

ところが、こういう酷暑になると作業も辛いし、せっかく頑張ったのに作物も応えてくれない。

やり方を根本的に考え直さねばならないように思う。

例えばトマトは雨除けをするのが普通だったが、今は日除けが必要だろう。

どうも、瓜系統は暑さに弱いようなので、暑さ対策を最初からする必要が有るように思う。

それには、寒冷紗も有効だが高黍の間で作る手も有るように思う。

近所の若い人は水やりがちゃんとできなかったようだが、酷暑ではポンプを使わないと身体がもたない。

今年は水を作物にやる対策ができなかった畑は深刻なダメージを受けている。


これから実験的に行いたいのは、秋から冬にかけての作物や冬から春にかけての作物に力を入れることだ。

今までは秋ジャガにはあまり力を入れなかったが、今回は種芋も注文しておいた。

早く成長する夏物野菜を秋に作り直す手もありそうだ。

また、夏の草抑えとしての藁をエン麦でしようと種も買った。

麦は食べることよりも緑肥やマルチとして活用した方が良さそうなのだ。


北海道でも温暖化の影響で山や川に食べ物が無くなって、農作物や人を食べる被害が出ている。

自然界は急激な気候変動にすぐには適応できていない。

この気候変動で野生の動物たちは追い詰められていき、何とか人の手で維持している畑を荒らしに来るだろう。

当然それに対する垣やネットなどで対策をしなければならないとは思っている。

だから、農家も温暖化を加速させるような畦などの除草剤の使用や、ポリマルチの多用は避けた方が良いように思う。

このところ、太陽光発電の影響で村の周りや畑の放棄地が太陽パネルで覆われてきている。

二酸化炭素を減らして温暖化を防ぐ取り組みが、村近辺の温暖化を進めているようにも思える。

また、どうせ太陽光発電するなら電動農機具をもっと開発して、それを活用できるシステムを構築すべきだ。

何度もこれからも繰り返し訴えたいと思うが、食糧危機は目の前に迫っている。

革命的な対策が今必要とされている。






2025年8月17日日曜日

ネズミ、恐るべし

 私は奄美の与路島に村落調査に行っていたとき、教員住宅に長期滞在させてもらったことがある。

墓場の一角にあった当時の教員住宅は、作りも古くネズミがよく出没した。

下手に食べ物を置いておくと囓られてしまい、固形石けんまで囓られていた。

そこを毎日訪ねてきた地元の友達がいたのだが、彼にそのことを話すと「ネズミが聞いているから、言わん方が良い」と諭された。

つまり、ネズミが人間の言葉を理解して、悪口を言っていたら仕返しをするという意味だった。

私たちの感覚では、害になるネズミは即刻駆除というものだが、シマの人の感覚は恨みを買うと不味いというものだと思った。

実は、ネズミは場合によってハブを呼び込んでしまうので、軽視できない存在だったのだ。


周りが農地の上郡の私の家でも時折ネズミが出没して、それを駆除したり追い払うのに苦労している。

ネズミが嫌がるという音や光を発する装置を付けているし、天井を走り回るときには嫌がる匂いの忌避剤や殺鼠剤を置いたりもする。

効き目があるのは一時で、直ぐに慣れられてしまうので、結局は捕まえねばならない。

大きなネズミの入り口は換気扇で、うまくこじ開けて入って来るので、対策をしようと思っていて忘れている。

ハツカネズミほどの小さなネズミは、玄関や窓の隙間が開いていればいつでも入れる。

駆除する方法は粘着トラップだが、そう簡単にはかかってくれない。

まさしくネズミとの知恵比べで、警戒されないように上手に餌などを置かねばならない。

大物がかかったらかかったらで始末が大変で、チューチュー鳴いているのを粘着シートをたたんで持ってゴミ袋に入れねばならない。

大概はその仕事は私の役割なのだが、家内にも先日やってもらったら嫌そうだったがちゃんとできた。


今回も連続して大きいのを2匹捕まえたのだが、問題はそれで解決しなかった。

どういうわけか、ガスコンロの一つが着火しても直ぐに消えてしまう。

家内が下を覗いたら、安全装置の線が切れているという。

どうも、ネズミに囓られたらしい。

食べられもしない細い銅線を囓るなんて嫌がらせか、ただの遊びか。

多くある線の二本しか囓られていないので、匂いがするので囓ったが食べられなかったと言うだけかもしれない。

とにかく修理に出したら手間と費用がかかるので、私が直すことにした。


その囓られた線は非常に細くて、釣りに使うハリス程度なのだ。

銅線のカバーをライターで焼いて剥がして、少し出た銅線を繋ぐのはかなり難しい。

二つの線を上手くねじれないので、テープの代わりに絆創膏を使って止めて置いた。

しばらくはそれで持っていたのだが、しばらくつすると熱で緩んだらしく、またつかなくなってしまった。


今度は家内に手伝ってもらうことにした。

以前手芸のビーズをしていたので、手先が器用だと思ったのだ。

今度はしっかりと銅線を捻ることにして家内にやってもらったのだが、どうもうまく繋がらない。

間違った線に繋いだのかと思ったが、交換してもうまくいかない。

見ていて捻り方が気になっていたので、私が頑張って捻ってみた。

そうしたらうまく行ったが、本来は線を交差して絡ませねばならないのに、家内は線を平行のまま捻ってしまっていたのだ。

こういう電線関係では私はプラモデルのモーター関係で扱っていたのだが、家内にはその経験が乏しかったのが悪かったらしい。

これで面目躍如だが、家内の手先が器用という評価が下がってしまった。


とにかく、自分で修理できたから大した被害とは言えないのだが、もし修理に出さねばならない状態だったら大変なことになっていた。

そういえばネズミにガス管を囓られて事故になったケースも以前はあったように思う。

今はヒューズがついているので大丈夫だと思うが、何をしでかすか分からない大変な相手であることに違いない。

私は常々、ネズミ対策に猫を飼いたいと言っているのだが、家内はその前に部屋を綺麗に片付けてちょうだいと言って了解してくれない。

私は猫を飼うことを決めたら部屋を片付けると言っているのだが、家内は自分がやらされると思っているようだ。

ただ、最近の猫はネズミを捕まえてくれないそうなので、決定的な対策にならないかもしれない。


現代では野良猫や野良犬がいなくなっても、このネズミだけはいなくなりそうに無い依然恐るべき動物だ。

ディズニーランドのミッキーやトムとジェリーのジェリーは人気あるキャラクターなのだが、それらは欧米文化の流れにある。

東アジアや日本では干支の一番となっている食わせものであるし、ドラえもんの耳を囓ってしまった手強い相手なので、猫の方がキャラクターとしては人気がある。

そう言いながら、私は子どもの頃には白いハツカネズミやハムスターを飼っていたこともあって、ネズミそのものを毛嫌いしているわけでは無い。

要するに、家に寄生して害をなすネズミに敵意を感じているのだ。

さすがに毒ヘビは家の中に入ってこないので、当時の与路島の人のように深刻に扱うことはしなくて済んでいる。






2025年8月15日金曜日

日航ジャンボ機墜落事故とブルートレイン

 私は1985年に起きたこの事故のことを鮮明におぼえている。

当時は横浜の長津田に住んでいて、ずっとテレビでニュースを見ていた。

事故は8月12日だったが、私は13日の夕方にブルートレイン(寝台列車)に乗ってツレと山口に向かう予定だった。

ツレの仕事の都合で東京駅で乗る予定だったのに、事故の報道に夢中になってアパートを出ねばならない予定時間が過ぎてしまった。

ツレと電話で連絡を取り合ってから、一か八か一番駅の近い東急田園都市線の田奈駅まで走って行った。

田奈駅から長津田駅まで私鉄に乗り、長津田駅からJR横浜線に急いで乗りかえて横浜駅まで行った。

横浜駅でそのツレが既に乗っているブルートレインに何とか乗り込んで事なきを得たが、ジャンボ機の迷走よりはましにせよ、連れも私も寿命が縮まる思いだった。

事故と自分のハプニングが一緒になって、毎年8月12日はその時の記憶がよみがえってしまう。


今年は事故から40年目にあたり、テレビなどでは色々と特集していたので、ウィキペディア(Wikipedia)で調べてみた。

改めてこの事故が「死者520名という日本では史上最悪の航空事故で、単独機の事故としても世界史上最悪の航空事故となっている」であることに驚いた。

日本だけならともかく、世界史上でも最悪というのは知らなかった。

このところ、亡くなった人を追悼することや、遺族の高齢化で事故の風化を懸念することなどの番組が多い。

しかし、事故の原因が分かっていて、それを政府がきちっと対処しなかったことに対しての報道がなされていない。

世界史上最悪の航空機事故に対する企業と政府の対応の仕方を問題視した特集をもっとしてしかるべきだろう。

戦争の悲惨さが自然災害のように描かれるのとなんら変わりが無い。

戦争はいけない、飛行機事故はいけない、しかし、どちらもなくならない。

勝者側に立った戊辰戦争、日清戦争、日露戦争が否定されず、敗者側に立った太平洋戦争だけが否定されている。

それに似て、事故さえなかったら便利だが危うい飛行機が否定されることは無い。

戦争を多くの人が否定しているのは、太平洋戦争では被害にあった人が身近にいて、国民全体が責任を負わされて戦争そのものを否定させられたからだ。

飛行機自体が否定されないのは、事故で亡くなった人は身近にいなくて、しかも責任はなく、飛行機の構造やシステムを否定されなかったからだと思う。


実は、私の亡父は死ぬまで一度も飛行機に乗ったことが無い。

頑なに飛行機に乗ることを拒み続けたので、両親は海外旅行に一度も行けなかった。

「あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて信じられん」というのだ。

実際は鉄の塊では無いのだが、かつて100トンほどの木造船を運航し、造船所で鉄船に関わってきたことからそう感じたのだろう。

本人は言わなかったが、この日航機事故を意識していたのかもしれない。

その一方でその父の孫にあたる私の甥が民間機のパイロットになった。

就職した時は、父は既に他界していなかったのだが、生きていたら孫になんと言っていたのだろうかと思う。

そして、パイロットになった息子を誇らしく思う反面、事故の恐ろしさを知っている両親はこの事故に関してもそれなりの思いがあるだろう。


事故の報道に気をとられて危うく乗り逃しかけたブルートレインは既に廃止されてしまった。

安くて便利な夜行バスもさることながら、何よりも格安航空の影響も大きいと思う。

日航機事故の教訓が活かされてか、航空機事故は殆ど無くなってはいる。

しかし、安全神話はいつかは崩れる。

福島原発のように、予想された自然災害を軽視して起こった事故もある。

去年起きた羽田空港地上衝突事故はパイロットの勘違いによるものだった。

そして、最も忘れてはいけないことは、飛行機こそ戦争では無差別な爆撃を行い、原子爆弾を投下するのに使われたものだ。

そして、今でもミサイルやドローンと共に戦闘機として戦争の主力を担っている。

そのことを考えると、亡くなった父が飛行機を怖れたことを年寄りの戯言(たわごと)と嗤うことはできない。




2025年8月13日水曜日

髭トリマーで十分な頭髪

 去年までは髭を蓄えていて、その経緯は「髭と髪とデニムジャケット」に書いてある。

自分では似合っていてダンディーだと思っていたのだが、やはり髪が白いこともあってかなり老けてみられていることが分かった。

仕事に行っていない上に高齢に見られたら、自分自身の心も老けてしまうように思った。

そこで、せっかく伸ばして手入れしていた髭を、思い切って剃ることにした。

確かに、髭を剃ることで若く見られるようになったが、髭トリマーが不要となってしまった。


そこで、何か使い道は無いかと考えた。

とりあえずは、安い散髪屋でスポーツ刈りにして貰って、伸びてきたら生え際を髭トリマーで短くすることにした。

これは大正解で、耳に当たる髪やうなじの細毛を髭トリマーでカットしてすっきりすることができた。

それを何回か繰り返していたのだが、さすがに3ヶ月以上も経つと頭頂付近の髪も長くなって、生え際とのバランスが悪くなった。

そこで、前髪の一部以外は髭トリマーでカットしてしまうことにしたのだ。


今までは、安物の電動バリカンで刈っていたこともあるのだが、髪の毛が薄い上に細いので綺麗に刈ることができなくなっていた。

その安物の電動バリカンに比べて、切れ味が良くてスムーズに刈っていくことができた。

ただ、髭用で巾も狭くてコームも小さいので、すぐに刃に髪が溜まって切れづらくなったが、こまめに取り除くことによって仕上げることができた。

こうしてやってみると、自分の頭髪は髭の手入れ程度で十分だと言うことを再認識した。

本当は髭のように剃ってしまった方が面倒無くて良いのだが、ただでさえ厳つい体格と陽に焼けた大きな顔で恐いと家内に言われている。

間違いなく、その筋の人と思われるのが分かっているので、スキンヘッドにはしていない。


夏場に相応しいスポーツ刈りは、冬場でも良いことがある。

寒さ対策にニット帽を被ると若く見られるのだ。

それでも髪の毛が髭程度の値打ちしか無いことに淋しさを禁じ得ない。

髭と全く違うのは髪は剃ってしまうと逆に人相が悪くなってしまうことだ。

実は私は発毛剤と勘違いして育毛剤のニューモを使っている。

解約しようかなと思いながら、何とか毛髪が残っているのもこのお陰かなと思って使い続けている。

中途半端に残っているので維持費がかかるのだから、無くなってしまった方が経済的といえば経済的だ。

しかし、このうっすらと残された細毛で人相を守っているのだから、大切しなくてはなるまい。

サザエさんに出てくる波平さんの頭頂部に残された1本の毛と、ある意味では同じなのかもしれない。

2025年8月11日月曜日

家業より軍隊を選び戦死した伯父と祖父

私の亡くなった父から、私の伯父にあたる父の実家の長男(大正15年生)の戦死について聞かされていた。

父によれば、まだ若いし長男だから志願して兵士にならなくても良いのに、一八歳で志願して乗っていた艦船が魚雷攻撃で沈没して一九歳で戦死したという。

一番父が言いたかったのは、「親父と一緒に船に乗るくらいなら軍隊に行った方がましだ」と言った伯父の言葉だった。

軍隊よりも嫌っていた祖父とはどんな人だったかは、父からいろいろ聞かされていたが、とにかく妥協の無い厳しい人だったようだ。

私と関わってくれた祖父は私に対して厳しく接することは無く、少しとっつきにくいがどこにもいる優しいおじいさんだった。

父が祖父と距離を持って接するのに対して、高校までは親しく接して庭師の祖父の手伝いをすることもあった。


この歳になって分かるのだが、祖父は家業の船での運送業(地元の石材輸送)で身を立たせるのに必死だったのだろうと思う。

長男が戦死したこともあって、3男の父にその思いが強くなったようだ。

次男の伯父は祖父の家と家業を継がせて、3男の父には独立させるつもりだったのだろうと思う。

だから、命がけの仕事となる船の運搬業の仕事の厳しさを教え込んでいたのだろう。

志願する前の長男に対しては、祖父の跡継ぎと兄弟を束ねる役割があって、それで祖父は厳しく指導したのだと思う。

軍隊の方が厳しい訓練や上下関係があるのにと一見思えるが、軍隊は家業よりも名誉と報償が与えられる。

伯父にとっては同じように厳しいのだったら、軍隊の方がマシだと感じたかもしれないが、単に親への反発だけだったかもしれない。

そして、家業だったら安全第一で命まで落とさなかっただろうに、命を失ってしまった。


一方で、私の母方の祖父は長男では無かったし、家は魚船程度の船大工で大した家業では無かったので自ら望んで海軍の職業軍人になった。

それなりに兵役を終えて退役して会社で働いていたのだが、幼い娘二人を残して心ならずも招聘されてしまった。

航空母艦の機関兵だったのだが、艦の撃沈と共に戦死してしまった。

もし、職業軍人になっていなかったら、招聘されることは無かったかもしれない。

これも家業の差はあれ、自ら軍隊を選んだ結果だったとも言える。


戦後の日本では軍隊の代わりに家業から企業への転換が進められていった。

私の父もまさしく家業の船での運送業から造船所勤務に転職が行われた。

家業に活かす能力から、企業に活かす能力へと人材育成が進められていった。

私の父は学校での勉強を強要するが、自ら職能訓練をする必要がなくなったので、祖父ほど厳しく子どもを指導する必要がなくなった。

そして、子どもは親と一緒に暮らす必然性も無くなり、親子関係も希薄なものとなっていった。


父は、祖父との親子関係だけを私に語り訊かせていたが、家業の苦労と危険性のみ語り、家業を守ることの重要性とその意議を語ることは無かった。

自分自身が家業を捨てて立派に子どもを育てているという自負もあったのだろうと思う。

しかし、家業を失うことの家や家族の脆弱さに敢えて目をつぶっていたのだろうと思う。

農家が家業を放棄しだしたのも同じだと思う。

まず、娘を安定した収入のあるサラリーマンや公務員に嫁がせて、跡取り息子に何とか農家を継がせようとしたが、当然嫁不足で失敗する。

そして、跡取り息子も家業を放棄して、実家から離れていき、親が取り残されていった。


家業を失ってもみんなが幸せなら良いと思っていた。

しかし、その代償は大きかった。

生活環境と重なる家業は自然環境も大切にせざるを得なかったし、企業のような巨大な力を持ち得なかった。

利益優先の企業は自然環境を大切にする必要は無く、豊かさと引き換えに環境破壊を生じさせた。

そして、公害で汚染された環境に苦しんだ後、現代の温暖化によって灼熱地獄に喘ぐことになった。

こう考えれば戦争は男を家業から引き離し、国家や企業によって環境を破壊させていく先駆けだったように思える。

実は、父が家業を捨てて造船所に転職したのも、夫が戦死した祖母(父にとって妻の母)が造船所に働いていたことによる。

そして、世界一のタンカーを建造したその造船所は、相生湾をひところは死の海にしていた。

その造船所も斜陽産業となり、相生湾は自然を取り戻していって、牡蠣の養殖が湾の入り口で行われている。

祖父が守ろうとした船の運送業もトラック輸送に取って代わられていった。

そして、本家も分家である私の実家も後を継ぐ者を失ってしまった。



2025年8月9日土曜日

三流でも南山大学人類学科で良かった

 先日、近縁者と話をしていて大学の話が出た。

彼は九州大学に入ってまもなく辞めて、予備校に入って早稲田大学に入り直した。

しかし、四年間在籍したにも関わらず中退してしまったのだった。

何をしていたのかと聞いたら、アルバイトをしていたと言うことだった。

とにかく、入ることだけに力を尽くしてしまって、入ってから勉強をする気が無くなったらしい。

そういえば、学年で最下位ながら早大の法学部に現役で入った私のバンド仲間は、大学ではひたすらバイクのサークルに心血を注いでいた。

バイク事故で1年留年したが、ちゃんと卒業できたたのはサークルのお陰だろう。

一方で、都立大学の大学院には早大でしっかり勉強をして入ってきていた優秀な先輩もい

たが、フィールドワーク中に病気で亡くなってしまった。

私は大して受験勉強しなかったから、大学に入ってから勉強したと言ってしまったが、本当は好きなことをやっただけだった。

大学院に行ってから修士の先輩や同級生がいかに大学でしっかりと勉強していたかを思い知らされていた。

因みに都立大学の大学院の社会人類学専攻は学部からの進学は滅多になく、埼玉大学やICU、東京外語大等と多彩で、たまに東京大学からの進学者もいた。

私はそもそも英文を中心とした論文解読が辞書なしではまともにできない、フィールドワーカーに毛が生えた程度に過ぎなかったのだ。

だから、実力を養うための時間がもっと必要だったのだが、気負いだけが空回りして酷い十二指腸潰瘍など、心身も経済力にも限界がきて博士には進めなくなった。


大して勉強もせずにそこそこブランドのある都立大学の大学院に入れたのだから、南山大学人類学科は私にはありがたい大学だった。

家内は高校から曾野綾子の「太郎物語」を読んで南山大学のことを知っていたようだが、私は読みもしなかったので、NHKでドラマ化されて始めて知った。

太郎さんは一流の慶応大学の補欠を蹴って三流の南山大学(小説では北川大学)人類学科に入ったということだ。

学科の同級生にも愛知教育大学を蹴って同じ学科に入って頑張っていた友達もいたが、東大を落ちて入ってきた者はほとんど授業に出てこなかった。

女子が多く、就職とあまり結びつかないので、学科にしっかりなじめている者とそうで無い者がはっきりしていた。

そもそも、南山大学の赤本も買っていなくて、過去問も殆どしなかったし、願書の大学案内もまともに読んでいなかった。

私はこの学科しか合格しなかったので入っただけで、入った当初は単に浪人から解放されることと女子学生が多いのが嬉しいだけだった。

名古屋の叔父にはもう一年浪人することを奨められたし、父親には普通校に行った同僚の娘も南山大に合格して入ると嫌みを言われた。

とにかく惨めな浪人生から解放されて家を出たい一心で、見栄も外聞も捨てて行くことにした。

いい加減に入った大学で最初からうまく行かず、熱心に文化人類学を勉強したわけでも無く、軽音学部、剣道部もなじめず1年の途中で辞めてしまった。

たまたま文化人類学研究会の村落調査サークルに巡り会って、学問に目覚め、恋愛に目覚め、友情を暖めることができた。

奄美での村落調査も、大学によってはゼミなどで教師の指導の下で行うケースが多かったのだが、学生だけで長期的に自由にやれたのが良かった。


実は私の出身高校の淳心には、南山大学の神学科を卒業した英語教師もいたのだが、大学には関心が無かったので、教育実習の時に初めて大学の話をしたのだった。

教師になってからは生徒に南山大学のことを話したが、名古屋に行きたいという生徒もいなくて殆ど関心を持って貰えず、誰も受験してくれなかった。

都立大学も二期校だった頃の人気は無く、担任した生徒に強く勧めたが筑波大学に行ってしまった。

都立大学は社会人類学はブランドを持っていたが、学問に関心の無い生徒には魅力は無い。

ただ二期校時代は、高校の仲の良かった友達が人気と評判の高かった都立大学に入ろうとしたが果たせず、二浪して慶応大学に行った。

二期校で人気の高かった都立大学を落ちて早稲田や慶応にいったケースはそこそこあったようだ。

高校時代の担任の先生に都立大大学院のことを報告したら、名門校に入れて良かったと思わぬお褒めの言葉を頂いた。

やっと三流校の負い目から解放されたけど、私は三流の南山大学の方が、自分に合っていたし好きだった。

都立大学大学院は研究者になれば卒業しても関わりが長く続くようだし、今でも研究室の名簿は送ってきてくれる。

個人的には今でも連絡を取っている人もいるが、大学の仲間のような気楽な関係は少ない。


私が所属した南山大学の人類学科のゼミには、同期の一部が指導教官を中心としたライン仲間を作ってけっこう連絡を取り合っている。

私はゼミで懇意にして貰っていた女友達がいるかと加わったが、残念ながら彼女は入って無くてかなりがっかりしたが、加わって良かったと思っている

今回、そのラインでメンバーの兄弟が不慮の事故で亡くなったことを知った。

年齢的には私より一つ下で、同じ文化人類学研究会の部員でよく知っている後輩だった。

ラインでは彼を思いやる言葉が綴られていた。

私はこういう関係を他には持っていない。

私の人生にとって三流の南山大学人類学科こそかけがえのない存在なのだと改めて思い知った。

今は偏差値などや口コミでランク付けされて、集まってくる学生も以前の大学と違ってしまったようだ。

共通一次が開始された頃の年代である我々の世代は、格付けに左右されない魅力を大学自体に感じることができていた。





2025年8月7日木曜日

待ち焦がれた雨

 私は教師をしていた頃に、雨が大嫌いだった時期がある。

第二次ベビーブーマの生徒が荒れた時代の職業高校に勤めていた頃で、雨が降ると生徒が荒れた。

生徒の多くが自転車通学だったのだが、傘差し運転を無くすために校門で立ち番をして、差して来ている傘を取り上げて学期末まで預からねばならなかった。

本人が規則を無視したのが悪いのに、傘をとられた生徒は不満をぶちまけていた。

教室外などで発散できない生徒が、トラブルを起こすことも雨の日は多かった。

ただ、ハードな練習を外で行うクラブの生徒は、雨が降ると喜んでもいた。

一方で、校内の廊下や階段で練習するクラブもあって、放課後は職員室や準備室から出たくなくなった。

この雨の日の校舎内練習で、近隣の中学校では生徒が死んだところもあった。


そもそも、学校行事では雨が一番大敵だった。

一番嫌な思い出は、肢体不自由の特別支援学校で雨の日の校外学習で姫路城に行った時だ。

車椅子の生徒にカッパを着せるのも大ごとだったが、玄関でカッパを脱がせたりタイヤを拭いたりで大仕事になった。

姫路城内は舗装されていないところもあって、泥濘んだ道で車椅子を押してあげるのも大変だった。

雨で延期になる体育祭や球技大会はまだマシなのだが、雨でも行う文化祭もその対応に追われた。

とにかく、教師をしていた頃に雨を良く思ったことは無かった。


農作業をやり始めて30年以上経つが、やはり雨はあまり良いものではなかった。

作物以上に雑草は伸びるし、トマトなどは実が傷むし、毎日行うズッキーニの受粉も面倒になった。

水田を転用して畑にしているので水はけが悪くて、雨が降り続くとどの作物にも悪い影響が出た。

ところが、近年は夏場には高温で雨が降らないので、水やりに多くの労力をかけねばならなくなった。

現役の教師をしていた頃は、そんなに手がかけられないので、枯れたり萎れたりしたら諦めたりもした。

退職してからは、時間が有るのでその対応に、新たな溝を掘ったりエンジンポンプなどを使って散水するようになった。

それでも、去年までは気持ちが入らなくて、作物のできはあまり良くなかった。

ところが、このところ農作物の値上がりで、必要に迫られて力を入れざるを得なくなった。

朝の5時前に起きて、自宅の裏にある畑の水やりをしながら夏物を収穫した。

エンジンポンプは音が近所に迷惑がかかるので、長いコードリールを使って電動ポンプでくみ上げ、それをまた長いホースで散水した。


その農作業と散歩に関する暑さ対策については「汗は冷たいから濡れていたい」で既に書いいる。

日によって、朝に十分水をやれないときには、夕方にエンジンポンプを使って散水した。

畑だけで無く、庭にある鉢物や植木に水をやるために、300リットルタンクに水を用水路からエンジンポンプでくみ上げていた。

とにかく水の対策にずっと振り回されていたのだ。

雨が降るのをどんなに待ち焦がれていたか。

そして、今朝(8/7)に念願の雨が土砂降りとなってやってきた。

収穫作業を途中で止めて、犬の散歩に切り替えた。

犬の散歩用のカッパを着て、連れ出して30分以上歩いた。

うちのクロは池や用水路に自分から入るくせに、洗われるのを極端に嫌がって抵抗する。

身体も大きく力も強くて爪でひっかかれたりされて、身体を洗うのは諦めているので、冬場以外はあえて雨の日に散歩して、雨で身体を洗い流す。

普段は腹だけ水に浸す程度のクロにとっても約1ヶ月ぶりの全身シャワーと言えるのだ。


台風も夕立もなくて雨が降らない状態で、これほど雨を待ち焦がれたのは生まれて初めてのように思う。

雨がテーマで喜びを表現していて知っている曲は「雨に唄えば」と童謡の「あめふり」くらいだろう。

まさしく、この雨は「雨に唄えば」が相応しいだろう。

だけど、畑やあぜ道ではジーン・ケリーのように傘をもって歌う気分にはなれない。

カッパから流れ落ちる水滴やクロの背中から腹に落ちる濁ったしずくを見て安堵しながらいつもの三好英二の「雨」を唄っていた。


雨に濡れながら 立たずむ女(ひと)がいる
傘の花が咲く 土曜の昼下がり
約束した時間だけが 躰(からだ)をすり抜ける


雨が降ると雨の日に約束のデートをすっぽかして恋人を泣かせた嫌な記憶が、この歌と共によみがえってしまう。

待ち合わせ場所に来ない私を長いこと待った後で、下宿にやってきて怒りながら泣いていた。

優しさの足りない傲慢だった自分を恥じながら、彼女のことをいつも思い出す

どんなに待ち望んで嬉しい雨でも、やはり雨は気分を鎮めてしまう。


2025年8月6日水曜日

元チェーンスモーカーは現ベーパー(電子タバコ)

 本当はタバコをまた吸い始めたかった。

普通のシガレットも良いが、パイプタバコや葉巻が吸いたかった。

学生時代には酒よりも、タバコの方が好きだった。

でも、金が無い頃はシンセイを普段吸って、たまにショートホープを吸ったりした。

しかも、シケモク(吸い残し)もキセルを使ったりして吸っていた。

村落調査の合宿では、サークルの先輩がドイツ産のゲルベ・ゾルテや葉巻を差し入れしてくれたので、タバコの魅力を知りもした。

大学院に入ってからは、家庭教師のアルバイトができたので、缶ピースやパイプを嗜むことができるようになった。

村落調査でもシマの仲の良くなった若い人が、タバコを貰いにやってくるので、そこから色々と話が聞くこともできたし、仲良くなれて家族づきあいができた。

大学院での台湾からの留学生からは、台湾ではタバコのやりとりが付き合いとして大切なことも教わった。

一方で論文を書き始めてから、そのストレスから完全にチェーンスモーカーになり、タバコを吸うことでしか気分転換ができなくなってしまった。


教職に就いてからは、普段からパイプを多く吸い色々と銘柄を試すのが楽しみになって、三宮に出かけたりするときは必ずたばこ屋に寄った。

ただ、パイプはキセル以上に脂を掃除したり、焦げを削ったりするのが面倒だった。

元々は、肺にしっかり入れて吸うタバコでは無くて、香りを楽しむ吸い方だったのでパイプは一番合っていた。

それだけ好きだったタバコも、家内が妊娠したことを知ってから止める決心をして、家では全く吸わなくなった。

ただ、飲む機会などではどうしても欲しくなって、人からもらって吸っていた。

完全に止めるまでに3年以上はかかったと思う。


今回はタバコをまた吸い始めたいと思ったのは、退職して研究に力を入れようと思ったからだ。

机にしがみついている時に、気晴らしとしてミントタブレットや飴、グミを試したが、糖尿病には良くないし飽きてきた。

仁丹なども使い始めて、今でも続いている。

それでも、執筆時には昔のようにタバコを非常になつかしく感じたのだ。

しかしながら、家内がタバコが苦手で匂いが嫌だし咳が出るというので、タバコは諦めざるをえない。

そこで、行きついたのがニコチン・タールなしのベープ(電子タバコ)だった。


ベープの香りは、ミント、レモン、タバコの3種類を使っている。

最初に使ったのは、リキッドを入れて気化させるアトマイザーが小さい物だったので、扱いづらかった。

期待したタバコの香りも、本物とはほど遠くて、気休めで吸う感じだった。

そのうちは、どれも飽きてしまって吸うことをしばらく止めていた。

最近、また何かリラックスできる物はないかとネットで調べたら、CBD(カンナビジオール)という、合法の大麻の抽出液に行きついた。

ベイプを吸う道具も新調してCBDを吸い始めたが、薄いレモンの香りのするタバコのようなふわーとした気分を感じだ。

確かに、リラックスできているようで、酒の量も減ったと思う。

一番効果があったのは睡眠だと思う。

CBDリキッドのレビューでもよく書いてあるが、よく眠れるようになった。

これも濃度によって違うようだが、ふぁ~とした気分を味わいたい時には、85%くらいの高濃度のリキッドを使うらしい。

コスト的には高濃度は物によっては1ml10000円で普通は4000円くらい、私は30%のリキッド(10mlで2832円)を使っているが、私にはこれで十分である。


CBDは合法でも大麻の成分というと、何か危険な感じがするのだが、医療目的にも使われているので安心でもある。

かつて、ドラッグ(薬物)を文献で調べたことがあった。

デイヴイッド・T・コートライト『ドラッグは世界をいかに変えたか-依存性物質の社会史』(春秋社)である。

我々は医食同源と言う言葉を知っていて、基本となる食事が自分の健康を保つことだと分かっている。

あまり知られていないが薬食同源という言葉もあるようだ。

これは特定の食材の効能を強調するときに用いるようだが、実は依存性があってサイコアクティヴ物質をもっている食材をよく摂っていると前出の本に書いてある。

一番好例はカフェインを多く含むコーヒーやお茶などであるが、ドラッグとは意識していないのが普通だろう。

ただ、お茶は古くは薬として使われていたのを知っているし、今でもカテキン効果を期待している。

タバコもドラッグとしてでは無くて、身体に悪いが気分を良くする嗜好品という感覚だと思う。

また、その本では砂糖もかつてはヨーロッパで薬品と見なされていたし、他の薬物同様に奴隷や労働者を酷使するのに欠かせなかった。

ラム酒は黒人奴隷を働かせるのに活用されたのは有名な話だ。

日本では酒、タバコは税金をかけて、ドラッグ依存者を利用しているのだから、ヨーロッパで行われていた搾取とそれほど変わらない。

かつての日本人男性はタバコを吸いながら過酷な仕事をこなしてきたのであり、百害あって一利なしといわれても、ワーカーホリックには欠かせない物だった。

薬と毒は使い方の違いだけだと言われているが、タバコも過剰に吸わなければ気分転換としての薬にもなっていたはずだ。

タバコは癌の原因として目の敵にされてしまっているのだが、糖尿病の原因としての砂糖などの糖類も最近では目の敵になっている。

本当はドラッグそのものに原因があるのでは無くて、過剰な使い方をしてしまうストレスのかかった生活に原因があると思う。

今はゆったりと生活できているので、ストレス解消としてでは無くて、ちょっとした気分転換や快眠のためのベープと上手く付き合いたいと思っている。

今のところ、酒やタバコのように高い税金がかかっていないのが何よりも魅力だ。


2025年8月4日月曜日

靴底を剥がす灼熱仏事

 義母の49日の法要を、お寺で行った。

岬の崖の上にあるお寺は、海岸から急な坂を登った所にあった。

ご住職の都合もあって、午前中は無理で13時過ぎから行われることとなっていた。

その後で、納骨もする必要があったし、遠くから来る人のことも考えて、一番暑い時間帯を選ばざるを得なかったのだ。


当然、お寺にはエアコンは設置していない。

扇風機が何台も置いてあるが、風が届かない人もいる。

私は扇風機のそばにいたのだが、汗が止まらなくてずっと顔を拭い続けていた。

一番熱い思いをしているのは、ご住職で何枚もの着物を重ねられている。

その姿を見ていると、誰も暑いとは言えなかった。


苦行となった法要も終わって、いざ墓場に向かうこととなった。

靴を履いた一人の男性が片方の靴底が剥がれたという。

靴は本堂の階段に陽ざらしのまま置いてあったのだが、熱で接着剤が溶けてしまったらしい。

片方の靴底を剥がしたまま、急な坂道を降りねばならなくなった。

そして、そのまま墓場の納骨に臨んだが、納骨が終わったときには両方の靴底が剥がれてしまっていた。


お骨の納骨の儀式も最後の焼香ということとなった。

すると、こんどは私の息子の片方の靴底が剥がれている。

地面が熱くてやはり、接着剤が溶けてしまったらしい。

たいして歩くことは無いので、用心しながらそのまま履き続けざるを得なかった。

私はお寺の坂や、墓場のことを考えて黒のウォーキングを履いていたので、難を逃れることができた。

この時に参加した男は四人いたのだが、難を逃れた私はウォーキングシューズで、跡取りの喪主は白のスニーカーを履いて無事だった。

どちらかというと、ちゃんと黒の革靴を履いていた二人が難に遭い、礼儀に反する靴を履いていた二人の方が難を逃れることになったのだ。

ただ、家内の実家に戻って靴を脱ぐときに、中敷きが溶けて靴下にくっついていた。

足の裏が暑いと思わなかったが、靴底の温度がかなり上がっていたことを実感させられた。

こういう男性に対して、女性は誰一人も靴に問題は生じなかったのは、礼儀に拘っていなかったからだろう。


この異常な気候で、こんな時間帯に法要や納骨を行うこと自体が無謀なのだが、遠方から集まってくることを考えれば仕方ない。

私は灼熱を予想して、晴雨兼用の傘を買っておいて使った。

ご住職は納骨の際には、僧侶の持つ網代笠を被っておられた。

私は托鉢をしている僧侶が被っているのを見たことがあったが、納骨の儀式で被られるとは思わなかった。

その網代笠は年季のいった立派な物で、普段使いできるような品物では無いようだった。

それに対して、男性は無防備で、私以外は日傘も差さず、一人は奥さんの日傘の中に入れていもらっていた。


靴底が剥がれるくらいのことで法要と納骨を終えることができたのだから、まずは無事に済んだと言うべきかもしれない。

今回はかなり高齢の縁者は参加していなかったので、これで済んだと思う。

高齢で無くても、普段暑さに慣れていない人にとっては、大事になってしまうこともあるだろう。

日にちや時間に融通が利かない行事は、先の気象を考慮しづらいのだから、礼儀を逸してもそれに対応した身なりで望まざるを得ないだろう。

場合によってはペルチェベストやネッククーラーを付けたり、外では帽子を被ることも容認するべきだと思う。

黒の革靴も今後は暑さに耐えられるかどうかを確認しておく必要があるだろうが、酷暑の夏場はそれ以外の靴をみんなで容認するべきだと思う。

男性も女性と同じように暑さに応じた身なりをして、パラソルを持つのが普通になっていくべきだろう。









2025年8月2日土曜日

貧困化の中、デジタルかアナログか?

 家内は家にいてテレビを見ながら暇なときには、ポイ活のできるゲームやクイズをしている。

普段も、買い物に行くときはポイントが5倍つく日をチェックしてその日に高い物を買ったりする。

そのゲームやクイズ、買い物等で得たポイントを使って回転寿司の支払いを安くあげて自慢する。

例えば二人で2400円食べたとして、400円の端数をDポイントなどで支払うのだ。

家内にとっては家計を助けていると自負しているのだが、聞いてみると月に1万円以上は稼いでいるらしい。

今までの低金利時代では確かにありがたい話だった。

しかし、今はネット銀行を中心に金利も上がっている。

多くの金銭の蓄えのある人は、安全に不労所得を得られるようになってきた。

そんな中でポイ活は蓄えが無くて、リスクを回避したい人にとっては大切なサイドビジネスになったのかもしれない。


私はお金を働かせて儲けることも最低はしたいと思うが、それよりも時代を見据えて生きていると実感できる仕事をしたいと思っている。

年金での生活で金銭が不十分だからと言って、もうマニュアル化された仕事の稼ぎに出たいとは思わない。

私が労を惜しまずにやっているのは農作業だ。

賃金に換算すれば全く割り合わない。

キュウリ10本で500円にもならないだろうし、ズッキーニやトマトを加えても時給1000円には全く届かないと思う。

それでも今はジャガイモをご飯の代わりに食べているし、トマトジュースを買わなくて済んでいる。

大量に採れたキュウリは色んな漬物になって、食事には欠かせない。

この間までは、豆乳にする黒大豆も自分で作った物を使っていた。

これは単に節約という意味では無い。

自給自足にはほど遠いが、直近では日照りによる旱魃に立ち向かっている。

近年の猛暑は従来の経験が役に立たなくなっていて、その対策に工夫が必要となっている。

ポイ活は冷房の効いた部屋でゲーム感覚で楽しみながらできるので良いのだろう。

朝の5時から畑に出て汗まみれになって農作業をやるのに比べてどんなに楽なことか。

ただし、熱中症になるような無理な働き方はせず健康な汗であり、農作業以外にも1時間以上歩いたり1時間半の水泳をしたりしている。

そして、作物達が元気に育って、その労力や工夫に応えてくれる喜びはゲームやクイズでは得られないと思う。

近隣では酷暑で荒れてしまった畑も見かけるし、ラジオでも家庭菜園が駄目になった話が聞かれる。

そんな中で、元気に持ちこたえてくれている野菜立ちはなによりも私の誇りだ。


一方で、ポイ活は資産が無く、リスクも負えない立場の人が、デジタル出稼ぎをしているかのように思える。

楽しみながらやりがいを持ってすることができれば良いのだが、重要な収入源となっている人はそうとは言い切れない。

まさしく、中国のゴールド・ファーマーはポイ活の極地だろうが、貧困化する日本でも生計に欠かせない人も増えるかもしれない。

また、資産がある人でも株に手を出して老後資金を無くしてしまった人の話がネットで目につく。

私のつぎ込んだ労力で大きくなる作物の株はしっかり大きくなって、老後資金を失わせることはまず無い。


また、このところYoutubeでは、夏休みになり給食が無くなって、食事がまともに食べられないので寄付を募るCMが流れている。

原因は両親の離婚と言うことだが、どうも釈然としない。

私の世代の多くの子どもは両親がいても、いつも腹を空かせていた。

だから、野山に行って食べられる物を探して食べたり、海に行って魚介類を捕った。

例えば今では見向きもされないイタドリを腹一杯食べたりしたし、海辺で掘った貝をその場で割って食べたりもした。

また、いけないことだとは思うが、よその畑の物を採って食べたりもしたが、特にサトウキビはご馳走だった。

見つかって怒られたりもしたが、親や学校には訴えられなかった。

教師になってからも、山間部の生徒は子どもの時に村だけの新聞配達をしたり、カブトムシを捕まえて売ったりして金を儲けていたことを聞いたりした。

都会であったり時代が違うから、寄付に頼るというのも理由かもしれないが、そういう子どもでもちょっとした手伝いをさせて、食べる機会を与えてあげれば良い。

同情を買って寄付を求めるCMは、子どもの生きる力を失わせているのでは無いだろうか?

そういう子どもが、勉強しながらでも手伝いをして食事ができる機会を作ってあげる方がその子のためだと思う。

その手伝いを通して将来の生きる力を身につけられると思う。

私は食うに困っているから野菜を作っているのでは無い。

気象破綻でも生き残る力を得るために野菜を作っている。

苦しい立場でも自分の努力で生きていける機会を子どもに与えてあげた方が良いと思う。

2025年7月31日木曜日

苦慮する我が家の宅配ボックス

 家内とドライブしているときに携帯電話が車のハンドフリーが鳴った。

宅配業者が宅配ボックスに入れた品物が傷むのを気遣って連絡してきたのだ。

実は、常温で保存できる牛乳を一箱24本注文していた。

注文するときに時間指定していなかったので、日曜の一番真昼の暑い時間帯に配達されてしまった。

それを聞いた以上は、どこにも寄らずにまっすぐ帰らなくてはならなくなった。


本来、宅配ボックスは庇のある玄関に設置するべきだろう。

ところが、郵便や新聞の受け箱を兼ねているので、玄関から少し出た駐車場の近くに設置している。

玄関に移動させても良いのだが、その近くには番犬のクロがいて人が来ると吠えるのである。

日中は問題ないのだが、新聞の配達される早朝に吠えられると、我が家も困るが近所迷惑にもなる。

そこで今までの郵便受けと同じ位置に宅配ボックスを設置した。


そうすると、雨ざらし、陽ざらしになってしまう。

去年は大きなパラソルを差し掛けたり、ベランダボックスの蓋を上にのせたりしていた。

今年もベランダボックスの蓋を置いて何とかなると思っていたのだ。

先日から電気製品などでは気になっていたのだが、傷みやすい食料品のことで対処を余儀なくさせられた。

とりあえず、長いすだれを二枚使って宅配ボックスを覆ってみた。

これから、真剣に考えて宅配ボックスのためのボックスを作らねばならないだろう。

近頃は犬を庭で飼っている人がいないので、それに応じたグッズは見当たらない。

通販で買い物をするのが当たり前になった現在、宅配ボックスを設置するのも当たり前になりつつある。

我が家のケースのように野外に設置して、風雨に耐え断熱効果のある安価な宅配ボックスやそのカバーを考案して欲しいと思う。

一方で、外出の多い休日に配達されるときは、きちっと時間指定しなければと思った。




2025年7月30日水曜日

プールに見る老女パワー

 児童生徒が夏休みになると午後からは、プールでまともに泳げなくなる。

午前は夏休みの宿題などで、自宅や塾にいるのだが、午後になると友達とプールに遊びにやってくる。

最近は学校の地区水泳も無いのが当たり前で、プールの授業自体を温水プールで行って、学校では水さえ入れていないところもある。

去年は何も考えずに、午後に泳ぎに行くと6コースの半分を遊泳に使っているので、残りのコースで泳力が違う者が同じコースで練習しづらい。

また、泳ぐコースを普段やっていたのと同じように歩行する人もいる。

それで、泳ぐ人の少ない昼休み前後に変えた。

上郡のプールでは午前のスクールが終わる11時半から13時頃までを練習時間にして、昼食は練習後の2時過ぎてからとっている。


月曜は相生のプールに行く日で、午後からは生徒児童で混雑するのが予想されたので、午前の11時から泳ぐことにした。

ちょうど、アクアビクスのレッスンが始まる時間で、3コースほどに多くのご老人が集まっている。

大半は女性だが、男性も隅っこの方で固まってそこそこいる。

プールサイドで踊るコーチの動作通りに水中でいっせいに踊り始めた。

かける音楽のリズムも速く大きく、コーチのかけ声も大きくプール全体に響き渡った。

こちらは練習に集中はしていたのだが、時折その圧巻の踊りを見て刺激を受けた。

そして、泳ぎ専用の1コースは他に泳ぐ人がいなかったので、ひとり独占して泳ぐことができた。

ところが、他のコースはやはりご老人の女性を中心に人数は多く、児童もお婆さんと一緒に楽しんでいる。

ふだん、静かな上郡のプールに親しんでいる者としては、まるでレジャーランドのプールのように思えた。


アクアビクスは1時間で終わり、私はその後30分以上泳ぎ続けていた。

そして、この圧巻の集団を指導していたコーチがどういう人か気になって、その後の様子を見てみた。

なんと、知り合いの女性だった。

彼女は全国大会にも出場した元水泳選手で、一時、上郡でコーチをしていたので私と同じマスターズチームにいた。

当時は温和しく無口で可愛くて優しい感じの人だった。

その変貌ぶりに驚いた。

これだけの老女パワーを引き出し、圧巻の踊りを繰り広げさせる技術は水泳の泳力と変わりが無いのかもしれない。

ここでは老女パワー溢れる午後の水泳レッスンの隣で練習するのを避けてきたのだが、夏休みはこの時間帯以外では混雑するので避けられない。

たぶん、毎週この老女パワーに打ちのめされないように、頑張って泳がねばならないだろう。

かく言う私も老人の一人なので、そのうちに仲間に入ってあのコーチに従って踊る方が楽しそうだけれど・・・・




2025年7月28日月曜日

夏ごもり

 以前のブログで「今はもう夏、誰もいない田畑」を書いたのは、6月のことだった。

あれからますます暑さと日照りの猛威は収まらない。

真冬の寒いときには農作業もすることがなく、いわゆる「冬ごもり」状態が普通だが、今では夏もあまりに暑くて農作業ができずに「夏ごもり」になったいる。

このごろは朝の涼しいときにさえ、畑に出てこない近隣の家が増えた。

私は空調服でちゃんと暑さ対策をして、朝の5時前から裏の畑で農作業をする。

水やりをしながら、キュウリ、トマト、ズッキーニ、オクラの収穫をしているのだが、出会うは新聞配達の車だけである。

朝食は6時半頃から始めて、7時半頃には犬の散歩に出かける。

そこでは誰に出会うことも無く、遠くでコウノトリの親が子が餌を探している姿を見ることだけが慰めとなる。

たまには、その写真を撮りに車で来た人を見かけることもある。


昨日(7/27)は日曜だったので、いつものように家内とドライブがてら昼食を食べに出かけた。

家内は寿司が好きなので、月に数度は回転寿司を食べに行くのだが、渋滞する東岡山の店を避けて、津山まで出かけた。

まだ11時過ぎでちょっと早いかなと思ったが、店の駐車場はほぼ満車状態で、店内も殆どの席が埋まっていた。

ひょっとして朝食と昼食を兼ねているのかなと思うくらいだ。

とにかく、若い子連れの人や、中学生くらいの女子が友達と一緒に来ていたりする。

年老いた母親と来ている息子さんらしい人などは、話をしながらゆっくりと食事をしている。

私ら夫婦は回転寿司に来ると矢継ぎ早に注文して、一皿2貫の寿司を分け合って食べている。

小食の家内が多くの種類を食べたい方なので、このやり方をずっと続けている。

この方法は安上がりで良いのだが、互いに気遣って、食べるのが速くなってしまうのが欠点だ。

本当はビールでも飲みながらゆっくりと食事を楽しみたいところだ。

暑い日はこういう店でゆっくり過ごすのが安上がりで、満足いくことができる筈だが、店内の順番待ちのお客さんを呼び出す声がそうさせない。

これも、回転寿司店が客自体の回転を上げる方法なのだろうとは思う。


今の時代の我が家の夏の休日の過ごし方は、ドライブで車の中、モールでのショッピング、安上がりの外食チェーン、道の駅が多いように思う。

家の中でエアコンをかけて、テレビを見ながら冷えたビールを飲むのも悪くは無いが、休みの日は家に籠もりたくない。

家内は家に籠もる方が好きなようだが、東京の狭いアパートから休日に脱出していた私の習慣が続いているのに付き合ってもらっている。

都会の人は、住宅事情などから公共交通機関を使って外出して、どんなに暑くても街から人通りが途絶えることはあまりないだろう。

しかし、田舎では家に籠もるのが一般的で、我が家のようにドライブに出かけるのは若い子連れ夫婦だけだ。

それで家の周りには人がいなくなり、蝉の鳴き声だけが空しく村中に響き渡っている。

いずれ、夏の酷暑が当たり前になって、冬ごもり同様に夏ごもりも当たり前となるのだろうと思う。

2025年7月26日土曜日

一人籠もり暮らしの落とし穴

 私は朝五時に起きて農作業をしているが、その時に時計代わりにHNKラジオの「マイあさ」を聴いている。

ラジオの良いところは聴いている人がいろいろと投書して、意見や気持ちを公開して意見交換できることだ。

そんな中で、「高齢者は健康のために外出して人と関わった方が良いと言うが、自分にとってそれは却って苦痛だ」という投書に反響があった。

自分もそうだという意見が多かったことが今の時代を反映していると思った。

この話題では心当たりがあるので考えさせられた。

私のよく知っている知り合いのMさんから、引き籠もってしまった一人暮らしの母親に苦労した話を聞いていたからだ。

かつてそのMさんの母親はコロナの影響で外に出られなくなった。

それまでは非常に外に出て人と関わりを持つのが好きな人だった。

ところがコロナが収束しても家に閉じこもるようになってしまった。

娘であるMさんと週に一度買い物する以外はほとんど家を出ることもなく、髪も伸び放題になって浮浪者のようになってしまった。

いくらMさんが美容院に行くように話しても言うことを聞かない、理由は美容院であれこれ聞かれて話をするのが嫌だと言うことだった。

認知症の症状も出て自分の身の回りのこともできなくなったきたので、Mさんは介護認定を受けさせようとしたが、自分は大丈夫だと頑として受け付けなかった。

その一方で、食欲も落ちて体重も減ってしまったのだが、意外と病気にはならなかった。

Mさんはこうなったら、病気で入院しないと改められないと腹を括ったそうだ。


その日はまもなくやって来た、昨年の夏に風邪をこじらせて肺炎になってしまった。

暑いのに自分は暑くないからとエアコンもつけずに暮らすことが多かったので、体力が落ちてしまっていたのだろうという。

Mさんは救急車を呼んで病院に連れて行こうとしたときにも、病院に行くことに抵抗して救急隊員を手こずらせたそうだ。

入院したお陰で、介護認定もできて2級と判定されたし髪も短く切ることができて、家にいるよりずいぶん安心できたという。

病気の方もは回復していったが、認知症の方がますます進んでいってしまった。

一人暮らしができる状態ではなかったのだが、退院して家に帰りたいとずっと言っていたそうだ。


肺炎の方は回復したので、認知症に関わる専門の病院に転院するときにには大変なことだったという。

入院先の病院の受付で大騒ぎになって、数人かかって看護師さんが何とか本人を入院させてくれた。

それからはMさんは病院に支払い等の用事で行っても、本人と面会がしづらくなってしまった。

面会すると騒動を起こす可能性があったからだ。

ただ、亡くなる一週間前に本人の妹とMさんは面会に行くことができた。

その時は元気そうだったし、妹さんは看護師でありその見立てもしばらくは大丈夫と言うことだった。

ところが一週間後の朝に突然危篤の電話があって、Mさん夫婦は駆けつけたが間に合わなかった。

昨年の八月に入院して亡くなったのは今年の七月で一年も持たなかった。

歳は90歳ほどなので決して若かったわけではないが、コロナ以来の周りとの関わり方に悔いが残った。

本人の息子夫婦とも一度会っただけだし、孫とも一度も会っていなかった。


もし、コロナで家に引き籠もらなかったこんなことにはなっていなかっただろうが、問題はMさんの母親が娘の言うことを全く聞かなかったことにある。

確かに家に一人でいて気楽に暮らすことの方が健康な人もいるだろう。

そういう人を無理に連れ出す必要はないと思うが、はたして本当に大丈夫なのだろうか。

私の近親者はずっと引き籠もって最近は一人暮らしだったのだが、この五月に70歳の若さでなくなってしまった。

急なことで亡くなっているのが発見されたのは二日後だった。

まだ発見が早かったのは弁当を毎日業者に届けてもらっていたからだ。

一度、入院したことがあったが、その時の病院暮らしに懲りて、足の具合などが悪くても入院治療を行おうとはしなかった。

連絡を受けて対応したのはその人の弟だったが、救急車や警察が駆けつけて大変な騒動になってしまったようだ。


一人籠もり暮らしは確かに誰にも迷惑をかけなければ問題ないとは思うが、自分がもし亡くなったときのことを考えているかと言うことだ。

Mさんの母は娘さんが定期的に訪ねていることで孤独死は真逃れた。

しかし、終活を行っていなかったので、残された親族で家を片付けるのは大変で、結局は業者に高額な費用を払って大半をやってもらわねばならなかった。

そして、年金などをしっかり貯金していたので、親族への金銭的な負担も無く、遠くに住む跡取りの息子夫婦に多くの金銭を残すことができた。

一人籠もり暮らしを自ら望んでする人は、万一に備えて終活を行っておく必要があるだろう。

高齢者が新たにアパートなどを借りることができないのがこういう孤独死との関連だという。

もし、貯金が無い場合は周りに大変な迷惑と負担を強いることになる。

お一人様で気楽に暮らす人は自分の死に対する覚悟と周りへの配慮は欠かせないと思う。


かつて奄美の与路島では、感染症の病気になって覚悟を決めたときには、自ら海岸のアダンの林の中で死を迎えたという。

京都でも古くは亡くなる前に墓場に持って行かれていたことは有名である。

姥捨て山の伝説は至る所にあるが、実際は覚悟を決めて出小屋などでひっそり暮らして死を迎えるのが多かったようだ。

「死」や「老い」は周りに迷惑をかけるものだから、覚悟せねばならない貧しい時代もあった。

近代以前は亡くなった人の遺物は川に流してそれを拾って活用する人もいたほど貧しい地域もあった。

だから、与路島では死に行く人に家を貸しても、産婦には家を貸すなと言われた。

今の時代は死者の持ち物を当てにする人などいない、遺物の片付けに労力と金銭がかなり必要となる。

周りのアドバイスや子どもの言うことを聞かないのであれば、それなりの覚悟と準備が必要だということだ。

おそらく、ラジオに投書した人は覚悟と準備ができているとは思う。

しかし、現実にはそういう覚悟と準備ができていないまま一人籠もり暮らしをする人が多くいることも事実だと思う。

近年は若い人でも孤独死を考えて、ネットなどで業者に依頼して対策を行っている人もいるという。

一人籠もり暮らしを正当化することができるのは覚悟と準備ができている人で、お一人様と気楽に言えるのは資産を多く持っている人だけだろう。

また、そのお一人様は決して家に籠もるような危険を冒してはいないように思える。




2025年7月24日木曜日

トヨッさんとコウノトリ

 近所で仲良くしてもらった人がいた。

私より一回り上の人で、他の村から婿入りしてきた人である。

私は家族と村に転入してきたので、男性では婿入りした人の方が気安かった。

どうしても村育ちの人は、昔話をよくするのでそこで育っていない者はついて行けない同じ立場だからだ。

トヨッさんとは趣味が重なるところも多くて、一緒に海に行って魚介類を潜ってとったり、たまに誘われて家に行ったりしていた。

彼は必ず家でなる柿をいっぱいくれたので、お返しに私の作ったサツマイモなどの作物をあげたりした。

村作業や村行事では話す機会も多く、彼のセミプロの腕前の写真のことが多かったが、写真を通してよく勉強していて、教えられることが多かった。


例えばジャコウアゲハが近くで見られることも教えてもらったし、珍しい昆虫の写真から鳥の写真まで色々と見せてもらった。

ただ、私は自分の研究で手一杯だったので、深い関心を抱くことは無かった。

鉄道に関しては、彼は撮り鉄で私は乗り鉄という大きな違いがあった。

彼は運行される車両や走行時の背景が重要だったが、鈍行や夜行に乗って過ごすことが好きだった私は関心はわかなかった。

関心も持ち方は違うことが多かったが話題に事欠かなかった。

そんな中で一番の話題はコウノトリのことだった。


トヨッさんは初めて上郡の高田地区にコウノトリが来てからずっと写真を撮り続けていた。

初めて見つかったのが2012年頃だったからかれこれ13年も続いていた。

ただ、最初1羽しか来なくて、年によっては2羽になったり、ちょっと立ち寄ったりするだけの年もあった。

コウノトリを見かけると必ず望遠カメラを片手に愛車に乗って出かけていた。

彼は10年ほど前から癌を患い、それを私が本人から聞いた時にはステージ4の段階で、薬事治療を続けていた。

村作業も調子の良いときには出てきていたが、悪いときには奥さんが出てきていた。

それでも、コウノトリがやってくると元気になって、いつものように愛車で出かけるので、私はコウノトリがトヨッさんの命を支えていると思っていた。


そんな彼も癌には勝てずに、この5月に亡くなってしまった。

やっとコウノトリが設置された鉄塔に営巣して、抱卵している頃だった。

彼は旅立ってしまったが、コウノトリのヒナはちゃんとかえって、今も3羽とも元気で田んぼの中で餌を探している。

田んぼの中を犬と散歩をしていると、たまに白い車に出会うことがあるのだが、いつものようにトヨッさんと思ってしまう。

散歩の時に撮影する彼に出会っては、挨拶したり話をすることが多かったからだ。

散歩の途中でトヨッさんを見かけて元気であることを確認してもいた。

今はコウノトリの姿を見ると彼のことを思い出す。


トヨッさんが亡くなったすぐ後で、こうして新しいコウノトリの命が誕生したことになにか因縁めいたことを感じる。

人の命は子や孫に普通は繋がっていくのであり、彼にも孫は確かにいる。

しかし、遠く離れて滅多に会うことのできない孫よりも、毎年やって来たコウノトリをずっと気にかけていた。

人の命を単にDNAだけで繋がりを表すのは心貧しく感じる。

人はタマシイという言葉で、人以外の生き物やあらゆる物に対してもその繋がりを感じたり表現してきた。

そのタマシイの繋がりを感じられるのは、その人と関わりを持ってその人の心を汲むことができた場合だと思う。

その点で言えば、彼がコウノトリを思い続けていたのは、村の多くの人が知っている。

村だけでは無くて、上郡町でも上郡民報に掲載されたコウノトリの写真でも知られていた。

実は私のブログでも彼の写真を使わせてもらっていた。(鳥の楽園と愚犬騒動


彼は、時間を厭わずコウノトリの羽ばたいている姿など、素晴らしい一瞬を捉えていた。


私は村落調査では記録のために写真を撮り続けていたが、彼のような芸術作品とはかけ離れていて写真そのものにのめり込むことは無かった。

彼と違って、私は犬と散歩していてもコウノトリが気にせずに餌を探していること自体が嬉しく思い滅多に写真は撮らない。

それは彼が自分の命が限りあるものと常に思いながら、シャッターを切り続けていたのとはまるで違うのだろう。

私は今のところは、消えゆく自分の命を感じなくて済んでいる。

その分、命が消えた後に残されたタマシイをコウノトリの姿で感じ続けていたいと思っている。







2025年7月22日火曜日

心身を癒やしてくれる花や作物

 人が一番植物と話をしたがるのは花が咲いたときだと思う。

私は先日、やっとハイビスカスの花が咲いて「ありがとう」と小声で語りかけた。

ハイビスカスは学生時代の特別な思い出がこもった花で、買ってきてから5年間も咲き続けている。

去年の冬には思い切って刈り込んだ。

枝葉が茂りすぎて、部屋の中で冬を越させるのに邪魔になってきたからだ。

ネットで調べると越冬させるのに半分ほどにした方が良いとあったので試してみた。

貧弱になった上に、葉が全部落ちてしまったので、今年は咲くか不安だった。

ようやく葉も多く茂りだして、やっと一輪咲いたのだった。

私は多くの鉢物を育てているが、このハイビスカスとガジュマル、ソテツはかつて村落調査で通い続けた奄美を家で再現して懐かしんで癒やされている。


残念ながら今年は畑が忙しかったので、ひまわりなどの夏の花を植えていない。

そのかわり、畑ではいろんな花が咲いて関わりが多くなる。

一番気がかりなのはズッキーニの黄色い花だが、雌花が咲くと必ず受粉させてやらねばならない。

ところが今年は雄花ばかりが咲いて、雌花は咲かずに腐ってしまう。

たぶん、雨が少ないので水不足だからだと思う。

近所の知り合いはキュウリがそんなふうになってとれないという。

私はキュウリにはしっかり水をあげていたので、たくさんなっているがズッキーニへの水やりはいい加減だったのが悪かったらしい。

その後、水やりをしっかりしても改善しなかったが、寒冷紗をかけてやると改善してきた。

どうも、高温が応えていたらしい。


トマトの花はみすぼらしいのだが、オクラの花は飾りたいくらい美しい。

オクラも水不足で生長が悪いのだが、30cmほどの丈でも花を咲かせて実をつけてくれた。

オクラは毎朝納豆に生で刻んで入れるので、我が家には欠かせない野菜だ。

ほかに咲いているのはカボチャなのだが、こちらも雄花ばかり咲いているように思う。

カボチャは受粉しなくても良いので、花に気をとられることはない。

もう時期は過ぎたが、かわいそうな花はジャガイモやニンニクで、実をつけたりすると栄養をとられるので取ってしまう。

ジャガイモはかわいらしくて、色も紫と黄色できれいなのだが、見つけると取るしかないのだ。


花以外にも水をあげたりして、関わりが多いのはサツマイモや高黍だ。

サツマイモも水が少ない上に、雑草が茂ってしまったので、少々貧相なのでせっせと水をあげた。

水や液肥をあげることも、作物とのコミュニケーションになる。

ポリマルチをすれば楽なのだが、酷暑では使わない方が良いと思って使っていない。

ポリマルチを使って作っている近所の人はサツマイモでさえ失敗している。

黒色のポリマルチは草押さえになって便利なのだが、後始末が面倒だし、このところの酷暑には作物には悪いように思える。

私は草マルチを基本に、作物に影響が少なそうなところの雑草は抜かずに、大きくなりすぎたら刈るだけにしている。

雑草を極端に嫌って根絶やしにしてしまう人も近隣では多いが、温暖化の時代は雑草を利用する方が良いように思う。

酷暑で地面の温度が上がりすぎるので、むき出しの土にしない方が良いように思うからだ。

またこのところ、作物を害虫から守ってくれていたカエルやカマキリ、クモが減ってしまって、ネットで防除するしか無くなっている。

適度な雑草はそういう生き物にとっても大切な住処にもなるようだ。


先日も都会育ちの娘の婿が、細やかな家庭菜園をしているというので、話題にして話をすることができた。

私は「野菜作りは癒やされるやろ?」と聞くと頷いていた。

娘夫婦は共稼ぎで二人ともデスクワークである。

心身の健康のためにはちょっとした菜園も役に立つ。

そういえば亡くなった森永卓郎さんもずっと続けていた。

ペットが飼えない人も、家庭菜園なら作物と触れ合って癒やされると思う。

庭が無ければプランターで室内でも栽培できる。

できれば、上郡のような過疎地には週末休日に楽しめる市民農園がもっと増えれば良いと思う。





2025年7月19日土曜日

ブランドとしての学校と学歴

 堀江貴文が東洋大学をFランクの大学とネットで言ったのが物議を醸している。

確か、彼は東大の文化人類学の船曳さんのゼミ生だったように記憶している。

結局、東大は中退したのだから学歴は高卒なのだが、在学中に起業して東大合格ブランドで十分で学歴を必要としなかったのだろう。

私の同級生は多く東大に行ったがみんな卒業しているのは、卒業して学歴を活かす必要があったからだろう。


一方で、早稲田大学に行った同級生や近縁者、知人にはどういうわけか中退が多い。

同級生などは指定校を利用して入学したのに中退したものだから、指定校を取り消されてしまった。

彼は入学した学科と全く関係の無い家業を継いで立派に社長を務めて、商工会の会長になったりもした。

近縁者などは九州大学を合格したのに「都落ちだと」すぐ辞めて、早稲田大学に入り直したが、結局中退して専攻学科と無関係の会社勤務をしている。

二人とも、中退なので高卒なのだが、仕事に学歴は必要なく早大入学ブランドで十分だったのだ。


そもそも、私たちの同世代の女子大生は、結婚すると退職してしまうことが多かったので、教師になった人以外はあまり学歴を活かしていない。

当時女性は就職よりも結婚やそれに伴う子どもの教育に大学ブランドや経験を使っていたようにも思える。

家内は結婚のことは考えず、女性でも一生働ける教師を志して大学に入り、教育学部で小学校や障害児教育の免許を取得した。

しかし、採用試験で不合格になって、結婚するまで臨時の市の事務職員を務めた後は結婚後にしばらくして専業主婦となった。

子どもが高校を卒業してから臨時職員として学童の仕事に就いたが、当時は教員免許も必要でやっと大学の資格を活かせた。

ただし、現在は学童の指導員は教員免許も大卒資格を必ずしも必要としていない。


私自身も学歴よりも大学のブランドが欲しかった。

夢はミュージシャンだったので、早大のブランドでプロになったら中退しても良いと思ったが合格さえできなかった。

南山大学は中部圏ではそこそこのブランドだが、全国的にはほとんど無名だったし、名古屋ではバンド仲間も作れなかったのでプロは諦めた。

たまたま、専攻した人類学科と関連する村落調査サークルの活動にのめり込んで、大学院を志した。

ただし、研究者になれる自信も無かったので、教員免許だけはとっておいた。

その当時は、研究者になるブランドとして東京都立大学大学院の入学を果たしたのだが、実力が伴わず博士課程には進学できなかったので研究者のブランドにならなかった。

ありがたいことに、この大学院修士修了のブランドと教員の1級免許は教員採用に少しは役に立ったように思える。

当時は公立の高校教員も人気があって、特に社会科は多くの大学生が免許を持っていたのでなりづらかった。

高校時代の同級生の中には京大や九大を出たのに兵庫県で高校社会科教員になった者もいた。

だから、私は学歴ロンダリングで教師になれたと言っても良いだろうと思う。

ただし、地方では大卒は身近に働いている者が少ないので、大学ブランドは公務員は別として、評価の対象になりづらい。

むしろ、卒業した高校のブランドが活かされるので、当時は西播では有名な私学を卒業したブランドを、私は私的に活かすこともできたことも確かだ。

大学にしろ高校にしろ、そこに入るのに学力やスポーツの特別な能力があったと保障されれば良いブランドとして活きる。


しかし、教師を続けながらも、大学院時代に抱いた研究者になる夢は諦めきれなかった。

夢を果たすという意味では、結局は学校ブランドも学歴も活かせてはいない。

それでも退職して年金暮らしの今は、学歴を基に働いた教員時代の給料は活かされてはいる。

政治家は昔は田中角栄のように小学校しか出ていない総理大臣もいたのだが、学校や学歴は立派なブランドとして使われている。

最近は芸能界でも大学のブランドを売り物にしているのだから、大きい意味を持つのだろう。

その場合の多くは、大学での専門が活かされていないので、大学を卒業した学歴より、入学したことのブランドが活かされている。

ただし、政治家は卒業による学歴も重要な能力保障になっている。

だから、今の東京都知事は関西学院入学ブランドは中退したので使えず、それを表にあまり出さないのだろう。


反面、学歴は必ずしもプラスにならないこともある。

公務員採用には高卒資格の枠があって、大卒なのに高卒と偽って採用されて辞めさせられてしまった例もあった。

一流企業なども、大卒で入れるのは東大・京大レベルでも、高卒なら現場の労働者として採用されたりする。

介護施設でも大卒で採用されると給料は高いが、ケアマネージャーなどの役割を果たすことを求められるので、高卒の方が気が楽なところがある。

また、日本では修士や博士の学位は研究職にならねば、役に立たないどころか邪魔になることもある。

ある国立大学の博士学位を取ったばかりに、専門性が限られて採用が少なく、コンビニの店長をしなければならなくなった話も聞いた。


今回の静岡県伊東市の市長の学歴詐称問題は、東洋大学ブランドの問題だったのだろう。

上郡町長選挙では落選はしたが、早大中退とはっきり名乗って選挙戦を戦った候補(高校の先輩)もいたし、今回の参議院選挙にも早大中退で立候補した人もいる。

伊東市市長選では東洋大学中退ではブランド力が弱かったのだろう。

その点では、東京都知事も関学中退ではブランドが弱いので、海外大学のブランド利用を上手く使ったのだと思う。

政治家の実力は分かりづらいし、大学などを通した人脈とも関連するので、ブランドや学歴が重要とされるのだろうと思う。

ただ、そのブランドを使ったことで却って大学のブランドを下げてしまった総理大臣もいたのも皮肉なことだ。











2025年7月16日水曜日

温暖化時代の水活用

35年前に上郡に引っ越した当初は、これほど暑さに苦しむことは無く、夜などは涼しくてエアコンなどかけることは無かった。 

近年では暑さが厳しくなって、去年まで水道水を使ったミストで二階のベランダや庭の植木を暑さから守っていた。

一日中ミストはかけっぱなしにしておいたので、しっかりと朝にはベランダや庭は濡れていた。

そのかわり、水道代が二ケ月で1万五千円を超えてしまったが、もし、下水も設置したいたらこんな額では済まなかった。

我が家は建築当時の合併浄化槽のままであるので、それだけの費用で済んでいたのだ。

東京ならいざ知らず、こんな田舎でこんな水道代は高すぎるし、普段よりもあまり多いので検査員に漏水を疑われた。

これからも暑い夏は続くと思われるし、いずれ下水施設に繋がなければならないので、安上がりになる暑さ対策を考えた。


まず、水道水から屋根の樋からの雨水を利用しようと思って、300リットルの貯水タンクを買った。

これは家にある軽トラの最大積載重量が350kgなので、それを基準にしたのだが、専業農家の人は500リットルタンクで水を運ぶのが普通だと後で聞いた。

一度、雨がしっかり降ってタンクは一杯になったが、ミストは一日しか持たなかった。

その予想はついていたので、家の近くを流れる水田への用水路を使うことにしていた。

いったん貯めたタンクからのミストは電気ポンプを使い、用水路からタンクへの水の注入はエンジンポンプを使っている。

毎日ミストを使うには最低二日に一回はエンジンポンプでタンクを満たさねばならなくなった。

そして、やはり心配していたことが起こった。

水道水や雨水と違って用水路の水はゴミが多いので、ミストが目詰まりを起こしてしまった。

何が良いか考えているときに、ホームセンターでタカギの散水チューブを見つけた。

さっそく、庭で電気ポンプを使って試したが、ミストと違って数時間もすればタンクは空になってしまった。

毎日エンジンポンプで貯水タンクを満たすのは手間なことになる。


一方、用水路からの畑の水やりにも当初はエンジンポンプを使っていた。

しかし、涼しい早朝にエンジン音を響かせると近所迷惑になる。

そこで、長い電気リールコードを使って、電動ポンプを使って散水することにした。

実は家の前にも用水路はあるが、道路をまたがずに電気コードやホースをひくには40mほど離れた場所の用水路を利用せねばならない。

散水チューブでは時間がかかりすぎるので、スプリンクラーを使って水を撒くことにした。

そして、貯水タンクに水を貯めるのにも、電動ポンプを使い始めた。

その散水チューブは庭の植木や鉢物の水やりに使っていたが、二階に持ってあげてベランダでもミスト代わりに使い始めた。

というのも、二階のベランダには鉢植えした枇杷やガジュマルもあるし、暑さ対策にもなる。

これで、ミストの代用とすることができた。


初期投資としては、去年の夏場の水道代ほどにはなったが、水道代をそれほど気にしなくて済む。

また、電動ポンプを多く使うことで、ガソリン代も節約することができる。

電気代は少し高くなるだろうが、水道代よりは安いと思う。

こういう農業用水での暑さ対策ができるのは、水田地帯に住んでいるからだろう。

ただ、街でも綺麗な水が溝に流れていたり、井戸のある家では同じことができると思う。

また、知り合いの農家では風呂の水を利用している人もいるので、雨水と風呂の水の両方を利用すれば良いかもしれない。


この散水のお陰で家の周りの植物や畑の作物もなんとか元気である。

ただ、雑草も同じく元気なので、その対策もしなくてはならない。

雑草が元気なせいか、キリギリスが元気に鳴いているし、コウノトリも餌取りに来てくれる。

今後は動力源となる電気も太陽光を用いて発電できたらとも思っているが、現段階ではコスト面で厳しい。


かつて、江戸も大阪も運河の水が張り巡らされていたようだ。

それを埋め立ててしまったことも、都市部の温暖化の原因だろう。

人間が汗で身体を冷やすように、街も運河や水路で冷やすことを考える必要があるように思う。

雪国では雪を溶かす水を道路に撒いているのだから、夏に街でも打ち水代わりの水をもっと流しても良さそうだ。

エアコンの電力使用量を減らせば、原子力に頼る電気からの脱皮を図るための対策の一つとなるようにも思える。

また、最近は駐車場に芝生とコンクリートを組み合わせて、アスファルトより涼しくしているところもある。

しかし、このところの暑さと水不足で枯れてしまっているのも見かける。

猛烈に暑いアスファルトの駐車場を芝生や土を使ったものに変えるのに水対策も必要だろう。

我が家の暑さ対策も家の周りの生け垣や土に覆われた庭が重要なところだ。

アスファルトやコンクリートのジャングルからの転換にも水が重要なポイントだろう。


2025年7月14日月曜日

屋内プールでの避暑運動

 かつて、私は高校で水泳部の顧問をしていたが、夏場の練習は暑さとの戦いだった。

近隣の全国大会に出場するような中学校では、夏休みなどは早朝の6時から練習をしていた。

高校では生徒が遠くから通ってきたり、県大付属のように寮生もいたので、そういう練習は不可能だった。

だから、練習後に大きなブルーシートで水面を覆って水温上昇を防いではいたが、昼近くなると水温がどんどん上がって泳ぐのが辛くなる。

そこで、冷たい水道水を足しながら泳がせたりしていた。


水泳部の練習はまだ水の中が殆どだから良いのだが、校内水泳大会などはプールサイドで観戦しなくてはならない。

私が勤めていた肢体不自由の特別支援学校では、屋外プールで校内水泳大会が毎年行われていた。

先日も、プールサイドでお尻をやけどしたニュースがあったが、校内水泳大会では常にプールの水をくみ上げたりして濡らしておくのも大変な労力だった。

また、今は屋外プールでのレースは殆ど無くなったが、当時は西播大会や滋賀県で行われた近畿大会では屋外プールで行われていた。

こちらは審判や招集といった競技役員が大変な苦労があった。

私は西播大会ではスターターも勤めたことがあったが、暑さと緊張でヘロヘロになった。


退職してからはこういう水泳部の顧問としての仕事が無くなって、もっぱら自分の健康と趣味を兼ねて週に3回ほど泳いでいる。

上郡と相生の市民プールで泳いでいるのだが、もっぱら泳いでいる人が少ない都合の良い時間で泳いでいた。

上郡では小学生が午後1時から2時半まで授業で利用していたので、午後からはそれが終わった時間で泳いだ。

7月に入って、小学生の利用も無くなったので、その一番暑くて利用する人の少ないその時間帯で泳ぐことにした。

この時間帯は、家で仕事をするときにはエアコンを付けねばならないので、プールに行くことによって電気代の節約にもなる。

屋内プールの水は屋外プールのような高い温度にはならないので、快適に泳げるのが良い。


この時間帯で快適に運動ができるのは屋内プールだけだと思う。

ところが、この時間帯に外でランニングをしている人がいる。

おそらく、消防署の職員だったり、自衛隊員が自主訓練をしているのだろうと思っていたが、身近な人にもいた。

毎月通っている医院の先生だ。

私はそれを聞いて思わず「自殺行為やで!」と言ってしまった。

この先生はフルマラソンどころか、100kmマラソンにも出る強者だ。

とても、ついて行けないと思ったし、自分は水泳の趣味があって良かったと思った。

ただ、かつて人類が乾燥したアフリカで狩猟採集をしていた頃は、そういうことができて当たり前だったのかもしれない。

ただ、私は海洋適応した人類の末裔として、涼しい屋内プールでいにしえの追い込み漁の疑似体験をする方が良い。






2025年7月12日土曜日

今もまだ動いてる、ゼンマイ式の柱時計

近くに住んでいた家内の母が亡くなり、遺品を整理した。

跡取りの家内の弟は遠くの関東圏で暮らしているし、子どももいなくて盆正月以外の関わりが殆ど無かったので、家への愛着が乏しい。

むしろ、家内や私は子どもを通して家内の両親とは深い関わりがあった。

その一方で、私自身が跡取りの長男で、近くに住む自分自身の両親との関わりがそれ以上にあって、両親の介護、そして葬式から遺品の整理に追われ続けていた。

両親の実家との関わりも強かった私たちに対して、それほどでもなかった家内の跡取りの弟夫婦は遺品に対してもクールなものだった。

何でも簡単に処分しようとしていた。

私は家内の実家には想い出の品はあまりないが、今後使えそうな物は持って帰ることにした。

特に、納屋に放置されていた農業資材や自転車、そして吉岡鍋は欲しいと思って持って帰った。

家内はさすがに緊密に関わっていたので、高価な敷物や食器など価値を知っていたので、捨てられようとするところを持って帰ってきた。

そんな中で、意外なことだったのだが大切に使い続けていたゼンマイ式柱時計を持って帰ってきた。

家内は昔のことに拘りをあまり持たない性格で、せっかく父親が撮ってくれていた幼い頃の写真さえ持って帰ろうともしなかった。


この柱時計は一度壊れたときに、家内の母親は広島県の大崎下島が故郷だったので、同じ島の御手洗で有名な時計屋「新光時計店」さんに直してもらった物である。

見栄えは大したことが無いのだが、わざわざ時間と労力、費用をつぎ込んで、ちゃんと動かし続けてきた価値ある時計だ。

ただ、ちょっとした難点は一時間毎だけでなく30分にボーンと鐘をならすことである。

家内は自分が寝ている部屋のピアノの上に置いたが眠られなくなって、持って帰った夜のうちに居間に持ち込んできた。


私自身はあまり昔のボーンボーン時計には愛着が無い。

私は中学受験したときに不眠症になり、寝間にあった柱時計の音が気になって余計に眠られなくなった。

明け方3時の鐘が鳴っても眠られなくて、情けなかったことを憶えている。

家内が言うにはその柱時計は、家内に時計の見方を教えるために親が買った物だというので、60年以上前の物である。

私の家にあったのは電池式でとっくに処分していたのだが、ゼンマイ式柱時計は月に一度ゼンマイの巻かねばならない年代物だ。

家内は父が亡くなった後は、老いた母に代わって高い位置に設置した柱時計のゼンマイを、実家に戻った際に忘れずに巻いていた。

このところは、その母は入院して家にいなかったので、ゼンマイも巻かずに止まっていた。

それをわざわざ持って帰って復活させたのだった。


我が家の居間にはすでに立派な電波時計があって、自動で時刻を合わせてくれるし、温度や湿度も知らせてくれている。

その時計から少し離れた壁に私はネジ釘を使って設置した。

思ったよりも正確に時間を刻み、時刻をボーボーンとその時刻の回数で知らせてくれるし、30分になっても分かる。

家内は子どもの頃にテレビやラジオからの音楽を直接録音していたときに、この音に邪魔された話をしていた。

母親が時計の見方を教えるために「今何時?」とわざと聞いてきたのは共通していて、腕を時計の針の形に上げて知らせたことも共通していた。


まるで人の心臓の鼓動のように、「チクタク」と音が鳴り続けていて、始めは耳障りにもなったが聞こえて当たり前になった。

時間を知らせる鐘のおかげで時刻を以前よりもしっかり意識するようにもなったと思う。

何でも新しくて便利な物に買い換えてしまう時代に、あえて古くて手がかかる物を使い続けることも愉快だとも思った。

骨董品のように飾っておくのではなく、生活の中で一緒に生き続けていくものだ。

日本人はまだアニミズムの信仰が残っているともいわれているが、道具や機械に愛着を持ってまるで魂があるかのように扱う。

AIの時代になっても、道具や機械と会話をし出したので、ネオアニミズムの世界に生きていくかもしれない。

そして、何よりも大切にしてきたものには、過去の想い出も一緒に生き続けている。

私の両親は墓をもうけずお寺で永代供養して貰い、仏壇と遺影を実家から移してきて、座敷で供養し続けている。

そういう供養としての墓や仏壇の位牌、遺影などとは関わり方がまるで違う。

家内の両親や私たち家族の古い記憶が、さりげなく日常生活の中にまぎれこんで、一緒に生き続けるのがボーンボーン時計である。

「大きなのっぽの古時計」に近づくためには、原曲では100年ではなくて90年なので、その歳まで家内はがんばって生きねばならない。

家内が自分自身の誕生と結婚を語る孫がまだいないのが残念だが、息子と娘に語ることはできる。

原曲では柱時計を買ってきた人は登場しないが、小さな柱時計にはちゃんと買ってきた両親も語っていける。

自慢できるほど立派では無いのだが、これだけの年数を動き続けた道具は他に無くてかけがえのないものだ。