近所で仲良くしてもらった人がいた。
私より一回り上の人で、他の村から婿入りしてきた人である。
私は家族と村に転入してきたので、男性では婿入りした人の方が気安かった。
どうしても村育ちの人は、昔話をよくするのでそこで育っていない者はついて行けない同じ立場だからだ。
トヨッさんとは趣味が重なるところも多くて、一緒に海に行って魚介類を潜ってとったり、たまに誘われて家に行ったりしていた。
彼は必ず家でなる柿をいっぱいくれたので、お返しに私の作ったサツマイモなどの作物をあげたりした。
村作業や村行事では話す機会も多く、彼のセミプロの腕前の写真のことが多かったが、写真を通してよく勉強していて、教えられることが多かった。
例えばジャコウアゲハが近くで見られることも教えてもらったし、珍しい昆虫の写真から鳥の写真まで色々と見せてもらった。
ただ、私は自分の研究で手一杯だったので、深い関心を抱くことは無かった。
鉄道に関しては、彼は撮り鉄で私は乗り鉄という大きな違いがあった。
彼は運行される車両や走行時の背景が重要だったが、鈍行や夜行に乗って過ごすことが好きだった私は関心はわかなかった。
関心も持ち方は違うことが多かったが話題に事欠かなかった。
そんな中で一番の話題はコウノトリのことだった。
トヨッさんは初めて上郡の高田地区にコウノトリが来てからずっと写真を撮り続けていた。
初めて見つかったのが2012年頃だったからかれこれ13年も続いていた。
ただ、最初1羽しか来なくて、年によっては2羽になったり、ちょっと立ち寄ったりするだけの年もあった。
コウノトリを見かけると必ず望遠カメラを片手に愛車に乗って出かけていた。
彼は10年ほど前から癌を患い、それを私が本人から聞いた時にはステージ4の段階で、薬事治療を続けていた。
村作業も調子の良いときには出てきていたが、悪いときには奥さんが出てきていた。
それでも、コウノトリがやってくると元気になって、いつものように愛車で出かけるので、私はコウノトリがトヨッさんの命を支えていると思っていた。
そんな彼も癌には勝てずに、この5月に亡くなってしまった。
やっとコウノトリが設置された鉄塔に営巣して、抱卵している頃だった。
彼は旅立ってしまったが、コウノトリのヒナはちゃんとかえって、今も3羽とも元気で田んぼの中で餌を探している。
田んぼの中を犬と散歩をしていると、たまに白い車に出会うことがあるのだが、いつものようにトヨッさんと思ってしまう。
散歩の時に撮影する彼に出会っては、挨拶したり話をすることが多かったからだ。
散歩の途中でトヨッさんを見かけて元気であることを確認してもいた。
今はコウノトリの姿を見ると彼のことを思い出す。
トヨッさんが亡くなったすぐ後で、こうして新しいコウノトリの命が誕生したことになにか因縁めいたことを感じる。
人の命は子や孫に普通は繋がっていくのであり、彼にも孫は確かにいる。
しかし、遠く離れて滅多に会うことのできない孫よりも、毎年やって来たコウノトリをずっと気にかけていた。
人の命を単にDNAだけで繋がりを表すのは心貧しく感じる。
人はタマシイという言葉で、人以外の生き物やあらゆる物に対してもその繋がりを感じたり表現してきた。
そのタマシイの繋がりを感じられるのは、その人と関わりを持ってその人の心を汲むことができた場合だと思う。
その点で言えば、彼がコウノトリを思い続けていたのは、村の多くの人が知っている。
村だけでは無くて、上郡町でも上郡民報に掲載されたコウノトリの写真でも知られていた。
実は私のブログでも彼の写真を使わせてもらっていた。(鳥の楽園と愚犬騒動)
彼は、時間を厭わずコウノトリの羽ばたいている姿など、素晴らしい一瞬を捉えていた。
私は村落調査では記録のために写真を撮り続けていたが、彼のような芸術作品とはかけ離れていて写真そのものにのめり込むことは無かった。
彼と違って、私は犬と散歩していてもコウノトリが気にせずに餌を探していること自体が嬉しく思い滅多に写真は撮らない。
それは彼が自分の命が限りあるものと常に思いながら、シャッターを切り続けていたのとはまるで違うのだろう。
私は今のところは、消えゆく自分の命を感じなくて済んでいる。
その分、命が消えた後に残されたタマシイをコウノトリの姿で感じ続けていたいと思っている。
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